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私たちの過越の小羊キリスト

NO. 54

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1855年12月2日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです」。――Iコリ5:7


 聖書は、読めば読むほど、また瞑想すればするほど、驚嘆させられる本である。たまにパラパラと聖書を読むだけの人には、その頁に含まれている偉大な意味の高さ、深さ、長さ、広さがわからないであろう。時として私は、全く新しい思想の脈絡を発見しては、額に手を当てて、驚くことがある。「おゝ、素晴らしいことだ。こんなことが聖書に記されているとは知りもしなかった」、と。あなたは聖書の中に入っていくと、それが広がりを増すことに気づくであろう。聖書を学べば学ぶほど、自分がいかに無知であるかがわかってくるものである。近くに寄れば寄るほど、聖書は大きく広がっていくからである。特にこのことがあてはまるのは、神のことばの予型的な箇所にほかならない。聖書の歴史書のほとんどは、イエス・キリストのご経綸か、体験か、職務についての予型とするためのものであった。このことを鍵として聖書を学ぶとき、ハーバートを責める気持ちにはならないであろう。彼は聖書を、「単に神の書であるばかりでなく、諸書の神である」、と呼んでいる。聖書について最も興味深い点の1つは、そこには絶えずキリストを明らかにしようという傾向があることである。そして、ことによると、聖なる書の中でも、イエス・キリストを顕示している最も美しい比喩の1つは、《過越の祭の小羊》かもしれない。そのキリストについて、私たちは今晩語りたいと思う。

 イスラエルはエジプトで奴隷となり塗炭の苦しみを嘗めていた。その奴隷状態の苛酷さは絶えず増し加わるばかりで、ついには、その圧制のあまり彼らの絶えざる呻きが天に届くほどになった[出2:23]。彼らは日夜神に叫んでいたが、ご自分の選びの民のために復讐なさる神は、最後の最後に、すさまじい打撃をエジプト王とエジプトの国に加えようと決意なさった。私たちはイスラエルの切望と期待が目に見えるかのように思えるが、私たちが彼らに同情できるのは、ただただ私たちが、キリスト者として、霊的エジプトから同じように解放されたがためにほかならない。兄弟たち。自分の経験した昔の日々に立ち返ってみよう。そのとき私たちはエジプトの地に住み、罪という煉瓦焼き窯で働き、自分をより良くしようと散々に苦労しては、それが何にもならないことを思い知らされていた。それから、あの記憶すべき夜を思い起こそう。新しい年が始まり、私たちの霊に新しいいのちが宿り、魂に完全な新時代が幕を開けたあの晩のことを。神のことばは私たちの罪に打撃を加えた。神は私たちのいけにえとしてイエス・キリストを私たちに与えられた。そして、その晩、私たちはエジプトを出たのである。それ以来私たちは、荒野を越えて進み、アマレク人と戦い、燃える蛇を踏みつけ、熱に焼かれ、雪に凍えてきたが、一度たりともエジプトに戻ることはなかった。時にはエジプトの韮や、玉葱や、肉なべを恋い慕うこともあったが、決して再び奴隷の身に引き戻されることはなかった。さあ、今晩この《過越》を祝おうではないか。そして、主が私たちをエジプトから解放してくださった夜のことを考えよう。私たちの《救い主》イエスを、私たちの養いたる《過越の小羊》として見上げよう。しかり。イエスをそのようなお方として眺めるだけでなく、今晩イエスの食卓に着こう。その肉を食べ、その血を飲もう。というのも、イエスの肉はまことの食物、イエスの血はまことの飲み物だからである[ヨハ6:55]。聖なる厳粛さをもって、私たちの心をかの古代の夕餉に近寄せよう。エジプトの暗黒へ立ち戻り、聖なる黙想によって見つめよう。滅びの御使いではなく、この祝宴の上座におられる契約の御使い――「世の罪を取り除く神の小羊」を[ヨハ1:29]。

 今晩の私には、《過越》の歴史全体と奥義とに立ち入る時間はない。私が今晩説教しようとしていることが、過越のすべてであるとは思わないでほしい。これは単に、主要ないくつかの点にすぎず、全体の一部でしかない。すべて説教しようなどとしたら、十も二十も説教が必要であろう。実際、キャリルのヨブ記講解ほど大部の書物が必要であろう。――キャリルに劣らず冗漫で、識別力にすぐれた神の人を見つけられたらの話だが。しかし私たちは、まず第一に主イエス・キリストを見つめて、いかに主が《過越の小羊》と符合しておられるかを示し、それから2つの点に注目させよう。――主の血があなたに注がれるとはいかなることか、また、主によって養われるとはいかなることか、である。

 まず第一に、《ここでイエス・キリストは、過越の小羊として予型されている》。そして、もしこの場にアブラハムの子孫の方がおられて、今まで一度もキリストをメシヤとして見てとったことがないとしたら、ぜひこれから語られることに特に注意を払ってほしい。私は主イエスを、まさにご自分の選びの民を解放するためにほふられた《神の小羊》として語るであろう。自分の聖書を持ってついてきてほしい。では、まず出エジプト記12章を開くがいい。

 何よりも先に、このいけにえ――小羊――から始めよう。何と見事なキリストの象徴であろう。他のいかなる生き物も、これほど素晴らしく、この聖く、傷なく、汚れなく、罪人たちから分離されたお方を予型することはできなかったであろう。犠牲の表象でありながら、これは、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストをも、甘美きわまりないしかたで描き出している。博物誌をあまねく調べてみるがいい。そこに見つかる他の表象も、主のご性質のそれぞれ異なった特徴を示しており、主を私たちの魂に指し示すものと認められようが、私たちの愛する主のご人格にとって何よりもふさわしく思われるのは、《小羊》という表象にほかならない。小羊とイエス・キリストが似通っていることは、子どもでもすぐに悟るであろう。主は、それほどまでに優しく、純潔で、穏やかで、罪なく、他を傷つけることなく、他から傷つけられても恨みに思えないお方と見受けられる。

「仇の前にて 卑しめられて/倦みも、疲れも、悲哀も知れる」

羊の種族は、私たちから、いかなる責め苦を受けていることか! いかに彼らが、罪もないのに私たちの食物となるために屠殺され続けていることか! 彼らの皮は背中からはぎ取られ、彼らの羊毛は剃り落とされて私たちの衣とされる。それと同じように主イエス・キリスト、私たちの栄光に富む《主人》も、私たちの身にまとわせるために、その衣を与えておられる。主は私たちのために引き裂かれた。その血潮は、私たちのもろもろの罪のために流された。主は、ご自分のすべての子らの罪のための、汚れなく、聖く、栄光に富む犠牲であられた。このようにして、《過越の小羊》は、、苦しめられつつある、沈黙の、忍耐強い、傷なきたるお方としてのメシヤを、敬虔なヘブル人にまざまざと示すはずである。

 さらに先を見てみるがいい。それは、傷のない小羊であった。傷のある小羊は、たといそれがほんの小さな病の斑点か、些細な傷であっても、《過越》に用いられることは許されなかった。祭司はそれをほふらせなかったであろうし、神も祭司の手からその犠牲を受け入れなさらなかったであろう。それは傷のない小羊でなくてはならなかった。だが、イエス・キリストはその誕生のときから、まさにそのようなお方ではなかっただろうか? 傷もなく、聖霊によってみごもられ、きよい処女マリヤから生まれ、一点の罪のしみも持っておられなかった。その魂はきよく、吹き寄せられた雪のように清浄で、純白で、潔白で、完璧であった。そのご生涯も同様である。主のうちには何の罪もなかった。主は私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの悲しみを十字架上で背負われた[マタ8:17; イザ53:4]。主は、すべての点で私たちと同じように試みに遭われた。だが、そこには1つだけ、この甘やかな相違があった。「罪は犯されませんでしたが」[ヘブ4:15]。傷のない小羊。あなたがた、主を知っている人々、主のいつくしみを味わっている人々[Iペテ2:3]、主との交わりを保っている人々。あなたの心は、主が傷のない小羊であると認めているではないだろうか? あなたは自分の《救い主》に何か欠陥を見つけられるだろうか? 何か責めるべき点があるだろうか? その真実さが尽きたことがあるだろうか? そのことばに偽りのあったことがあるだろうか? その約束が破られたことがあるだろうか? その誓約が忘れられたことがあるだろうか? そして、いかなる点においても、主に何か傷を見つけられるだろうか? あゝ、否! 主は傷のない、きよく、しみない、無垢の小羊であり、「世の罪を取り除く神の小羊」であられる。主のうちにはいかなる罪もない。

 さらに、この章の先を読み進むがいい。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない[出12:5]。なぜ雄が選ばれたかをわざわざ考察する必要はあるまい。ただ、それが一歳の雄でなくてはならなかった点に注目したい。一歳は羊がその盛りにあるときであった。その強さが全く消耗しておらず、その力がまさに成熟と完成に達しきったばかりのときであった。神は時期はずれの果実などお受け取りにならない。熟してもいないものをささげても、お受け取りにならない。それで私たちの主イエス・キリストは、まさに人生の盛りに達したときに、ささげられたのである。三十四歳という年齢で、主は私たちの罪のための犠牲とされた。そのとき主は強壮で力に満ちておられた。確かにその肉体は苦しみのあまりやつれており、その顔だちは損なわれていて人のようではなかった[イザ52:14]が、それでも主はそのとき人生の完熟期にあられた。私は、そのときの主の姿が目に浮かぶような気がする。その豊かな顎髭は胸板に垂れ、私の見るその双眸には天才がきらめき、その容姿は凛然とし、物腰は威厳にあふれ、その全身が発達しきっていた。――真の人、堂々たる人――人の子らにまして美しく、ただ傷がないだけでなく、そのすべての力が完全に引き出された小羊である。それがイエス・キリストであった。―― 一歳の《小羊》――幼児でも、少年でも、青年でもない、成人であった。それは、その魂を私たちに与えるためであった。主がご自分をささげて私たちに代わって死なれたのは、主が青年のときではなかった。その場合主は、やがておなりになるものすべてをささげたことにはならなかったであろう。また、ご自分をささげて私たちに代わって死なれたのは、老年のときではなかった。その場合、老いさらばえつつあるご自分をおささげになることになったであろ。むしろ、まさに成熟しきったとき、まさにその盛りにあるとき、私たちの《過越》キリストは私たちのために犠牲になられた。さらに、その死のときにキリストは、生命力に満ちておられた。福音書記者のひとりによってこう告げられているからである。「イエスは大声をあげて息を引き取られた」[マコ15:37]。これはイエスが衰弱死したのでも、虚脱死したのでもない証拠である。その魂は、主のうちで強壮なままであった。主はやはり一歳の《小羊》であった。なおも主は強大であられた。お望みになれば、十字架上においてさえ、両の御手をその鉄の締め釘から引き抜き、その屈辱の木から降り立って、驚愕に満ちたその敵どもを、獅子が鹿を追い散らすようにすることがおできになった。だが主は、死に至るまで、柔和な従順さを貫かれた。わが魂よ。お前はここに、お前のイエスを見てとれないだろうか? 傷のない、強く強壮な一歳の《小羊》を見てとれないだろうか? そして、おゝ、わが心よ! こういう思いがわき上がってはこないだろうか?――もしイエスが、このようにその力と精力に満ちておられたときに、ご自分をお前にささげられたとしたら、私も若い日に自分の力を主にささげるべきではなかろうか? そして、もし私が成人しているとしたら、いかに私は二重に自分の力を主にささげなくてはならないだろうか? また、たとい私が老年にあるとしても、僅かでも力が残されているとしたら、その僅かなものを主にささげようとすべきである。主がその大いなるすべてを私に与えられた以上、私は自分のなけなしのすべてを主におささげすべきではなかろうか? 私は、主への奉仕に完全に自分を聖別する義務があると感じるべきではないだろうか? 私のからだも、魂も、霊も、時間も、才能も、すべてを主の祭壇に置くべきではないだろうか? そして、私が傷のない小羊でないことは確かだが、それでも私は幸いに思うのである。さながら、種を入れたせんべいがいけにえに添えられれば、決していけにえとともに焼かれはしなくとも、受け入れられたように[レビ7:13]――私も、種を入れたせんべいではあっても、私の主なる《救い主》、主の全焼のいけにえに添えられて祭壇にささげられることができ、そのようにして、不純で、パン種に満ちはものであることは確かでも、愛する者に受け入れていただけるのである。主なる私の神へのなだめの香りのささげ物として。愛する方々。ここにイエスがおられる。傷のない《小羊》、一歳の《小羊》がおられる!

 さて、この主題は広がり、その興味はさらに深まる。次の点は、非常に真剣に考察してほしい。このことを悟ったとき、私は大いに満足したものであり、それを語れば、あなたも学ぶところがあるであろう。出エジプト記12章6節に記されているところ、過越でささげられるこの小羊は、犠牲となる四日前に選ばれ、取り分けておかれるべきであった。「この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない」[3-4節]。その6節にはこう記されている。「あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る」。いけにえとするために選ばれたこの小羊は、四日の間、群れの残りから取り去られ、一頭だけにしておかれた。それには2つの理由がある。部分的には、そのメーメー鳴く声を絶えず聞かされることによって彼らは、やがて祝われるべき厳粛な祭を思い起こさせられたであろう。だが、それにもまして、その四日の間に、彼らはそれが何の傷もないことを完全に確信できたであろう。というのも、その期間に、それは不断の注視にさらされていたからである。それは、主に受け入れられない、いかなる傷や怪我もないことを、彼らが確かめられるようにするためであった。さて、兄弟たち。ここで途方もない事実があなたの前に閃くのである。――古の寓意家たちのしばしば言及するところ、まさにこの小羊が四日間取り分けられていたのと同じように、キリストは四年間取り分けられていた。その実家を離れてから四年後に、主は荒野に出て行き、悪魔の誘惑を受けられた。バプテスマを受けてから四年後に、主は私たちのために犠牲となられた。しかし、もう1つ、さらにすぐれたことがある。――その十字架刑のほぼ四日前に、イエス・キリストはエルサレム市街を通って勝利の行進をなされた。主はこのように、公然と衆人とは区別され、取り分けられていた。主は、ろばに乗って神殿まで上って行かれた。それは、主が、ユダ族の《小羊》、神に選ばれた者、世の初めから定められていた者であると、だれしも見てとれるようにするためであった。そして、それよりもさらに尋常ならざることは、あなたも暇な時に福音書記者に目を向ければ見てとれるように、この四日間には、主のご生涯の他の部分すべてに匹敵するほどの、主の言動が記録されているのである。この四日の間に、主が無花果の木を叱りつけると、それはたちまち枯れた[マタ21:19]。この期間に、主は神殿から商売人たちを追い出された[ルカ19:45]。この期間に、主は祭司や長老たちを叱責し、「行きます」と云ったが行かなかった兄と、「行きたくありません」と云ったが後で行った弟という、ふたりの兄弟のたとえを話して聞かせた[マタ21:28-31]。この期間に主は、自分たちにだれが遣わされているかわきまえていた農夫たちのたとえを物語られた[マタ21:33-40]。その後で主は、王子の婚宴のたとえを語られた[マタ22:1-10]。そこに入るのが、その宴席に、婚礼の礼服を着ないでやって来た人についてのたとえ話である[マタ22:11-14]。さらにその期間には、五人は愚かで、五人は賢かった十人の娘についてのたとえ話もなされたし、そこには非常に驚くべきパリサイ人たちに対する弾劾の章が入る。「忌わしいものだ。目の見えぬパリサイ人たち! まず、杯の内側をきよめなさい」*[マタ23:16、26]。それから、やはり語られたのが、エルサレム攻城戦で起こること、および世界が崩壊する模様に関する長い預言の章である[マタ24]。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります」[マタ24:32]。いちいち、ここで告げようとは思わないが、それと同時に主は彼らに、羊が山羊から離される、かの最後の審判の日の壮大な描写を告げておられる[マタ25:31-46]。事実、記録で見る限り、イエスの最も壮大な発言は、この四日の間になされているのである。その四日間、仲間たちから分け離された小羊が、常にもましてメーメー鳴くのと全く同じように、イエスもこの四日間に、常にまして多くを語られた。そして、もしあなたがイエスのえり抜きのことばを見いだしたければ、この最後の四日間の伝道活動が記された箇所に目を向けるがいい。そこには、あの、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」[ヨハ14:1]の章が見つかるであろう。また、主の偉大な祈り、「父よ。お願いします」[ヨハ17:24]などが見いだされるであろう。この上もなく偉大なことを主は行なわれた。ご自分が取り分けられた、この最後の四日間に行なわれた。

 さらにここには、あなたに格別に注意してもらいたいことがもう1つある。すなわち、先に話したこの四日の間に、小羊は最も綿密な吟味を受けなくてはならなかったが、それと全く同じく、語るも異様なことに、この四日の間にイエス・キリストは、あらゆる種別の人々によって吟味されたのである。この四日間においてこそ、律法学者は主に、一番大切な戒めは何かを尋ね、主はこう云われた。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」*[マタ22:37-39]。このときこそ、ヘロデ党の者たちがやって来ては、税金のことで主に質問したときであった[マタ22:16-21]。このときこそ、パリサイ人たちが主を試そうとしたときであった[マタ22:15]。また、このときこそ、サドカイ人たちが復活という問題で主を試したときであった[マタ22:23-33]。主は、あらゆる種別と階層の者たちによって試された。――ヘロデ党の者たち、パリサイ人たち、サドカイ人たち、律法学者たち、そして一般の民衆によって。この四日間においてこそ、主は吟味を受けた。だが、主がいかに立ち現われなさったことか! 無垢の《小羊》! 役人たちは云った。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」[ヨハ7:46]。主の敵たちは、主に対して偽証する者すら立てたが、一致させられなかった[マコ14:56]。ピラトは、「この人には何の罪も見つからない」[ルカ23:4]、と宣言した。もし1つでも傷が見つかっていたとしたら、主は《過越の小羊》としてふさわしくなかったであろう。だが、「この人には何の罪も見つからない」、との言葉こそ、この最高行政官の発言であった。それによって彼は、この《小羊》が神の《過越》として食されてしかるべき、神の民が解放される象徴かつ手段であると宣言したのである。おゝ、愛する者よ! あなたは聖書を学びさえすれば、そこに驚くべきことを見いだすのである。深く調べてみさえすれば、その豊かさに驚嘆することになるのである。あなたは神のことばが非常に尊い言葉であることに気づくであろう。それによって生き、それを学ぶようになればなるほど、それはあなたの思いにとって尊いものとなるであろう。

 しかし、私たちが次に注目しなくてはならないことは、この小羊が殺されるべき場所である。それは、格別に、この小羊がイエス・キリストに違いないことを示している。最初の《過越》はエジプトで行なわれ、第二の《過越》は荒野で行なわれたが、イスラエル人がカナンにやって来るまで、この2つ以外に《過越》が祝われたとは記されていない。ここで申命記16章のある箇所に目を向けると、あなたは神が、もはや各人の家で《小羊》をほふるのを許しておられないことに気づくであろう。それは定められた場所で祝われるべきであった。荒野で彼らは、自分たちのささげ物を幕屋に携えて来て、そこで羊はほふられた。だが、もちろんそれがエジプトで最初に制定されたときには、その小羊を持ってきて、いけにえにささげるべき特別な場所は何もなかった。後になると、申命記16章5節で、こう記されている。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたの町囲みのどれでも、その中で過越のいけにえをほふることはできない。ただ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない」[5-6節]。エルサレムこそ、人々が礼拝すべき場所であった。救いはユダヤ人から出るものだったからである[ヨハ4:22]。そこには神の宮があり、その祭壇が煙を上げていた。そして、そこでしか《過越の小羊》が殺されるのは許されなかった。それと同じく、私たちのほむべき主もエルサレムに導かれていった。激怒した群衆は、町中を通って主を引きずっていった。エルサレムで私たちの《小羊》は、私たちのために犠牲にされた。それは、まさに神がそうすべきであるとお定めになった通りの場所においてであった。おゝ! もしナザレで主の回りに押し寄せたあの群衆が、丘から主をまっさかさまに投げ落とせたとしたら[ルカ4:29]、キリストがエルサレムで死ぬことはありえなかったであろう。だが主が、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」[ルカ13:33]と云われたように、あらゆる預言者たちの《王》が、そうならずにいられることはありえなかった。――さもなければ、主に関する数々の預言は成就されなかったであろう。「あなたの神、主が定めるその場所で、羊を殺さなければならない」*[申16:6]。主は、まさにその場所でほふられた。このようにして、ここにも、イエス・キリストがご自分の民のための《過越の小羊》であられたことを示す、付随的な証拠があるのである。

 次の点は、主の死に方である。私の考えるところ、この小羊がささげられるべき方法は、まさにキリストの十字架刑を格別に述べているものであり、他のいかなる種類の死も、決してここで規定されている具体的詳細のすべてに対応することはありえなかったであろう。

 第一に、この小羊は屠殺され、その血が鉢で受けとめられるべきであった。通常は、祭司が祭壇の側に立ち、レビ人たち、あるい民が小羊を屠殺して、その血を黄金の鉢で受けとめた。それから、それが取られるや否や、脂肪を焼く祭壇の側に立っていた祭司は、その血を火に振りかけるか、祭壇の脚部に注いだ。その光景がいかなるものであったか、あなたにも思い浮かぶであろう。一万もの小羊がほふられ、注ぎ出された血は 真紅の河となった。次に、小羊は火で焼かれたが、その骨は一本も折られてはならなかった。さて、私は云う。十字架刑のほか何物も、この3つの事がらに対応するといえるものはない。十字架刑の中には、血を流すこと――両手、両足を刺し貫くことがある。そこには、焼かれるようなものがある。というのも、焼かれることは長い苦しみを示すからである。そして、小羊が長い間火の前に置かれていたように、キリストも十字架刑においては長い間、焼けつくような太陽と、十字架刑により生じたあらゆる苦痛にさらされていた。さらに、骨は一本も折られなかった。他のいかなる刑罰においてもありえなかったことである。時としてローマ人は犯罪者を斬首刑によって殺したが、そうした死では首が折れるはずである。多くの殉教者たちは、剣で刺し貫かれて殺された。だが、それが血にまみれた死であり、必ずしも骨が折られはしなかったものの、その苦悶は、焼くことで象徴されるほど長くはなかったであろう。そのように、あなたの好きな刑罰を取り上げてみるがいい。――ローマ人が時々実行していた絞殺という形による絞首刑を取り上げてみるがいい。そうした方式の刑罰には血を流すことが伴わず、結果的にこうした要件に対応していない。そして私が実際に思うところ、知的なユダヤ人であればだれでも、この《過越》の記事を読み通してから十字架刑を見るとき、キリストがお苦しみになったこの罰と死が、こうした3つの事がらすべてを伴わざるをえなかった事実に心打たれるに違いない。そこには血を流すことがあった。長く引き続く苦しみ――焼かれるような苦悶――があった。そして、それに加えて、実に異様なことながら、神の摂理によって一本も骨が折られなかった。むしろ、そのからだは、全く砕かれることのないまま十字架から取り降ろされた。ある人々は云うかもしれない。焼き殺されたほうが、過越には、ずっと対応していたはずではないか、と。だが、その場合そこには血を流すことがなかったであろうし、結果的に骨々は火の中で砕けてしまったはずである。それに、そのからだが完全なまま保たれることにはならなかったであろう。十字架刑こそ、こうした3つの要件すべてに対応することのできた唯一の死であった。そして私の信仰に大きな力を与えてくれる事実、それは、私の見てとる私の《救い主》が、単に予型を成就したお方というだけでく、それを唯一成就なさったお方だ、ということである。私の心は、自分が突き刺したお方を仰ぎ見[ゼカ12:10]、小羊の血のようなその血が私のかもいと門柱[出12:22]に振りかけられているのを見、その骨々が砕かれないのを見、その霊的なからだの骨が地上で一本たりとも折られることがないだろうことを信じて喜んでいる。また、この方が火で焼かれていたのを見ることも喜びである。なぜなら、それによって私は、この方がその焼かれることによって神を満足させなさったのを見てとるからである。それは、私が永遠に地獄の苦悶の中で嘗めるはずであった苦しみなのである。

 キリスト者よ! 私は、もっと巧みな言葉と云い回しで描写できていたらと願う。だが、無い袖はふれないので、こなれていない考えを告げるしかない。それを自宅に持ち帰るならば、あなたは、今週の間それで養われることができよう。というのも、あなたはこの《過越の小羊》が、晩餐であるばかりか、一刻一刻の饗宴であることに気づくはずだからである。そしてあなたは、絶えずそれによって養われることができるであろう。それは、あなたが神の山に登るときまで続く。そこであなたは、ありのままの姿のこの方を見て[Iヨハ3:2]、真ん中におられる《小羊》としてのこの方を礼拝するであろう。

 II. 《いかにして私たちは、キリストの血から恩恵を得られるか》。私たちの《過越の小羊》キリストは、すでに私たちのためにほふられた。ユダヤ人が、そう云うことはできなかった。彼は一頭の子羊とは云えたが、かの「小羊」、すなわち、「私たちの《過越の小羊》キリスト」は、まだ犠牲になっていなかった。また、今晩この建物の中で私の話を聞いている方々の中には、「私たちの《過越の小羊》キリストが、すでに私たちのためにほふられた」、と云うことのできない人々がいる。しかし、神に栄光あれ! 私たちの中のある者らはそう云える。この場にいる少なからぬ数の人々は、かの栄光に富む《アザゼルのやぎ》に手を置いた[レビ16:21]ことがあり、いま彼らはその手をこの《小羊》の上にも置けるし、こう云えるのである。「しかり。それは真実である。彼は単にほふられただけではない。私たちの《過越の小羊》キリストは、私たちのためにほふられたのだ」、と。私たちがキリストの死から恩恵を得るしかたには2つある。第一に、私たちの贖いとしてのその血を自分に振りかけられることによってである。第二に、私たちがその肉を食物として――新生聖化として――食べることによってである。ある罪人がイエスを眺める最初の面は、ほふられた小羊としてであり、その血を門柱とかもいに振りかけられた者としてである。この事実に注目するがいい。その血は決して敷居には振りかけられなかった。それは、かもい――門の上部――と、支柱には振りかけられたが、決して敷居には振りかけられなかった。というのも、神の御子の血を足で踏みつける[ヘブ10:29]者は、忌まわしいものだからである! ダゴンの祭司たちでさえ、自分の神の敷居を踏まないのである[Iサム5:5]。いわんやキリスト者は、《過越の小羊》の血を足で踏んだりしないであろう。しかし、その血は、私たちの常なる護衛として私たちの右側になくてはならないし、私たちの不断の支えとして私たちの左側になくてはならない。私たちはイエス・キリストが自分に振りかけられてほしいと思う。先に述べた通り、罪人を救うのは、単にカルバリで注ぎ出されたキリストの血だけではない。心に振りかけられたキリストの血である。かのツォアンの野[詩78:12]に目を向けよう。あなたは今晩、その光景が眼前に浮かんでいるように思えないだろうか! 夕暮れである。エジプト人たちが家路についている。――これから何が起こるかほとんど考えもしていない。しかし、太陽が沈むや否や、小羊が一頭ずつ家々に引き出される。通りすがりのエジプト人は、「このヘブル人たちは、今晩、祝宴でも開くのだな」、と云っては、まるで無頓着に自分たちの家に帰っていく。ヘブル人の家の父親は、自分の小羊を取って、もう一度それを吟味する。頭の天辺から足の先まで、念には念を入れて、傷がついていないかどうか調べる。何も見つからない。「子よ」、と彼は家族のひとりに云う。「その鉢をここに持ってきなさい」。それが差し出される。彼がその小羊を刺し殺し、血がその鉢の中に流れ込む。あなたは、この父君が見えるではないだろうか? 彼がその恰幅のいい妻に、小羊を火の前で焼くように命じているのが見えないだろうか! 「用心だぞ!」、と彼は云う。「骨が一本も折れないようにな!」 あなたは彼女の慎重にも慎重を重ねる様子が見えるだろうか? 彼女がその小羊を焼くために下に下ろしながら、一本も骨が折れないようにしようとしている様子が。さて、と父親は云う。「ヒソプの束を持って来なさい」。ひとりの子どもがそれを持って来る。父親はそれを血に浸す。「ここに来なさい。子どもたち。妻もみなも。そして、私がしようとすることを見なさい」。彼は両手でヒソプをつかみ、それを血に浸すと、それをかもいと、二本の門柱に大きく塗りつける。彼の子どもたちは云う。「このしきたりには何の意味があるのですか?」 彼は答えて云う。「今夜、主なる神はエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者がお前たちの家にはいって、打つことがないようにされるのだ[出12:23]」。万事が完了する。小羊は調理される。招かれた客たちはそれを前にして席に着き、一家の父親が祝福の祈りをする。彼らはそれを食べて喜ぼうとしている。そして、注目するがいい。いかにこの家父がそっとその関節を外していることか、一本も折らないようにしているかを。また彼が、一家のいかに小さな子どももその一部を食べられるように気を配っているかを。主がそのようにお命じになったからである。彼が彼らにこう云っている姿が目に浮かばないだろうか? 「これは厳粛な夜なのだ。――急ぐがいい。――もう一時間もしたら、私たちはみなエジプトを出て行くのだ」。彼は自分の両手を見つめる。労働のために荒れた手である。その手を打ち鳴らして彼は叫ぶ。「私は、もはや奴隷ではなくなるのだ」。ことによると、彼の長子は、鞭で打たれた跡が、ずきずきと痛むのを覚えているかもしれない。そこで彼は云う。「子よ。お前は今日の午後、奴隷監督の鞭を受けた。だがそれは、お前がそれを感ずる最後となるのだ」。彼は目に涙を浮かべながら一同を眺める。――「今晩こそ、主なる神がお前たちを解放なさるのだ」。あなたは彼らが帽子を腰帯にたばさんで、手に自分の杖を持っているのを見ているだろうか? 真夜中になる。突如、悲鳴が聞こえる! この父親は云う。「家の中にとどまっていなさい、子どもたち。じきに何のことかわかる」。さらに、別の悲鳴が聞こえ、――別の悲鳴が聞こえ、――悲鳴に悲鳴が続く。ひっきりなしに呻きと嘆きが聞こえてくる。「中にいなさい」、と彼は云う。「死の御使いが外を飛んでいるのだ」。厳粛な沈黙が部屋の中に落ち、彼らはほとんど、空中を飛ぶ御使いが、彼らの血塗られた扉の前を通り過ぎている翼のはばたきが聞こえるような気がする。「落ちつきなさい」、と家父は云う。「あの血がお前たちを救ってくれるのだ」。悲鳴はいや高くなりつつある。「手早く食べなさい。子どもたち」、と再び彼は云う。すると、たちまちエジプト人たちが中になだれこんで来て云う。「出て行ってくれ! 出て行ってくれ! お前たちが借り出した宝石のことなどどうでもよい。お前たちはわれわれの家々に死をもたらしたのだ」。「おゝ!」、とエジプト人のある母親が云う。「出ていってちょうだい! 後生だから出て行って! 私の一番上の息子は死んで横になってしまったわ!」 「出てってくれ!」、とある父親が云う。「出てってくれ! 安らかに行ってくれ。お前たちの民族がエジプトに来た日、われわれの王がお前たちの長子を殺し始めた日は、忌むべきかな。神は、われわれの残虐さゆえにわれわれを罰しておられるのだ」。あゝ! 見るがいい。彼らがその国を出て行くさまを。巷の悲鳴はまだ聞こえている。人々は自分たちの死者の弔いに忙しくしている。彼らが出て行くとき、パロの息子が、金字塔の1つに葬られるため、防腐処理もされないまま運び出される。すぐに彼らは、自分たちの監督の子らのひとりが運び出されるのを目にする。彼らにとって何と幸いな夜であることか――ついにここを逃れ出るのである! そして、話を聞いている方々。あなたは、ここで、栄光に富む相似を見てとらないだろうか? 彼らは血を振りかけなくてはならなず、小羊を食べなくてはならなかった。あゝ! わが魂よ。お前はこれまで血を振りかけられたことがなかっただろうか? お前は、イエス・キリストがお前のものだと云えるだろうか? 「神は世を愛して、その御子をお与えになった」、と云うだけでは十分でない。あなたは云わなくてはならない。「神は私を愛して、ご自分を私にお与えになった」、と。愛する方々。やがて来たるべき時に、私たちはみな神の法廷の前に立たなくてはならない。そのとき神は云われるであろう。「死の御使いよ。お前はかつてエジプトの長子を打った。お前は、お前のえじきを知っている。お前の剣を鞘から抜き放つがいい」。私には大いなる集団が見える。あなたも私も、その中に立っている。それは厳粛な瞬間である。誰もが、はらはらしながら立っている。何のざわめきも呟きも聞こえない。星々すら、その輝きをとめて、光の動きで大気を乱さないようにする。すべてが静まりかえっている。神が云われる。「お前はわたしの者たちに印を押したか?」 「押しました」、とガブリエルが答える。「彼らはひとり残らず血で印を押されました」。そこで神は云われる。「お前の屠殺剣でなぎ払うがいい! 地をなぎ払え! そして、衣を着ていない者、買い取られなかった者、洗われなかった者を穴へ送り込め」。おゝ! 愛する方々。この御使いがその翼をはばたかせるとき、私たちは何と感じることであろう! 彼はまさに飛び立とうとしている。「しかし」、と疑いが私たちの思いをよぎるだろうか? 「ひょっとすると、彼は私のもとにも来るだろうか?」 おゝ! 否。私たちはその御使いを真っ向から見据えることができる。

   「かの日も大胆(つよ)く われは立たん!
    そは誰(た)ぞわれを 非難(せ)めうべき。
    汝が血のまたく われ解(と)きたるに、
    罪のすさまじ 呪い、恥辱(はじ)より」。

血を塗られているとしたら、私たちはこの御使いがやって来るのを見ても、微笑み迎えるであろう。神の御顔を前にしてさえ、こう云えるであろう。

   「大いなる神! われ清し! イェスの血により、われ清し!」

しかし、話を聞いている方々。もしあなたの洗われていない魂が、罪の赦しを得ていないまま自らの造り主の前に立つとしたら――もしあなたの咎ある魂が自らの黒い斑点をことごとく帯びたまま、かの真紅の潮を振りかけられもせずに立ち現われるとしたら――、あなたは何と云うだろうか? 鞘走る御使いの剣が必殺の閃きを見せ、翼あるかのように滅びをふりまき、あなたを真っ二つに切り裂くのである。私は今あなたが立っているのを見ているような気がする。御使いはそこで一千人をなぎ倒している。そこには、あなたの飲み仲間のひとりがいる。あなたが一緒に踊ったり、悪態をついてきた者がいる。さらにまた、あなたのように、同じ会堂に集った後で、キリスト教信仰を蔑むようになった者がいる。さて死があなたに近づいて来る。刈り取り人が畑をなぎ払う際に、次の穂が自分の番を前にして震えているように、私は兄弟が、姉妹が、かの穴の中に払い落とされて行くのが見える。私には血が全く塗られていないだろうか? ならば、おゝ、岩々よ! お前が私をかくまってくれたなら、どんなにありがたいことか。だがお前の腕には何の慈悲もない。山々よ! お前の洞窟の中に、少しでも隠れ家を見つけさせてくれないか。しかし、それはすべて無駄である。復讐は岩々を立ち割ってあなたを見つけ出すからである。私は全く血塗られていないだろうか? 何の望みもないだろうか? あゝ! しかり! 彼は私を打つ。永遠の断罪が私のすさまじい相続分である。エジプトの暗黒の深淵が、だれひとり逃れることのできない、かの穴のぞっとするような苦悶が、あなたのものとなる。あゝ! 話をお聞きの愛する方々。もし私が、自分の願い通りの説教ができたとしたら、私の口ではなく心であなたに語ることができたとしたら、私はあなたに嘆願するであろう。この振りかけられた血を求めるようにと。また、あなた自身の魂への愛により、神聖で永遠なすべてのものにより、促すであろう。このイエスの血を自分の魂に振りかけていただくよう労苦せよと。振りかけられた血こそ、罪人を救うのである。

 しかし、キリスト者がその血を振りかけられても、それでその人がもう何も必要としなくなるわけではない。その人は、自分を養うものを必要としている。おゝ、甘やかな思想よ! イエス・キリストは罪人たちのための《救い主》であるばかりでなく、救われた後の彼らの食物である。《過越の小羊》を信仰によって私たちは食べる。私たちはそれを食物として生きる。話を聞いている方々。あなたが扉に血を振りかけたかどうかは、このことによってわかる。あなたは《小羊》を食べているだろうか? かりに、一瞬でも、古のユダヤ人たちのひとりが自分の心の中でこう云ったと考えてみるがいい。「こんな祝宴が何の役に立つのか。この血をかもいに振りかけるのは全く正しい。さもなければ、どの門かわからないであろう。だが、室内で行なうこれらすべてに、何の意味があるのか? われわれは小羊を用意しよう。その骨を折らないようにしよう。だが、それを食べはすまい」、と。また、かりにその人が行ってその《小羊》をしまっておくとする。その結果はどうなるだろうか? 左様。死の御使いは他の者らと同じくその人を打ったであろう。たとい血がその人に振りかけられていたとしても関係ない。また、さらにもし、この古のユダヤ人がこう云っていたとしたらどうであろう。「そら、これがこの羊の肉の一片だ。だが、われわれには他にも食べるものがある。種を入れたパンもある。われわれの家からパン種を取り除くことはすまい。いや、パン種を入れたパンを残しておこう」。もし彼らがこの小羊を食べ尽くさずに、その一部を残しておくなら、御使いの剣はその心を、他の人々の心と同じように見つけ出すであろう。おゝ! 話をお聞きの愛する方々。あなたは、自分には血が振りかけられていると考えているかもしれない。自分は正しいと考えているかもしれない。だが、もしあなたがキリストによって生きるだけでなく、キリストを食べて生きるのでなければ、あなたは決してこの《過越の小羊》によって救われることはないであろう。「あゝ!」、とある人は云う。「われわれは、そんなことは何も知らなかった」。もちろんあなたは知らない。イエス・キリストが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」*[ヨハ6:53]、と云われたとき、ある人々はこう云ったのである。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」[ヨハ6:60]。そして、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった[ヨハ6:66]。彼らは主が理解できなかった。だが、キリスト者よ。あなたはこれを理解していないだろうか? イエス・キリストはあなたの日ごとの糧ではないだろうか? そして、苦菜が添えられていてさえ、主は甘やかな食物でないだろうか? 真のキリスト者である愛する方々。あなたがたの中のある人々は、あまりにも自分の移り変わる心持ちや感情を頼りに生きている。自分の体験や証拠を頼りに生きている。さて、それは完全に誤っている。それは、あたかもある礼拝者が幕屋に行って、祭司が身にまとっている上着を食べ出すようなものである。人がキリストの義に頼って生きているとき、それはキリストの衣を食べているのと同じである。人が自分の心持ちや感情に頼って生きているとき、それは神の子どもが、聖所で与えられはしたが、決して食べ物ではなく、ほんの少しその人を慰めるだけの何らかの記念品を食べて生きるようなものである。キリストが食べ物として生きるべきなのは、キリストの義ではなく、キリストである。その人はキリストの赦免を食べて生きるのではなく、キリストを食べて生き、キリストを食べつつ、キリストのそば近くを日々生きる。おゝ! 私はキリストを中心とした説教を愛する。私の心に善を施すのは義認の教理ではなく、義としてくださる方キリストである。キリスト者の心を喜ばせるのは赦免ではなく、赦し手なるキリストである。私が選びの倍以上も愛しているのは、自分が世界の始まる前からキリストにあって選ばれていたということである。左様! 私が最終的堅忍よりもずっと愛しているのは、キリストに私のいのちが隠されており、キリストがその羊に永遠のいのちを与えてくださる以上、彼らが決して滅びず、だれも彼らを主の御手から奪い取らないということである。用心するがいい。キリスト者よ。《過越の小羊》を食べ、他の何も食べないようにするがいい。私はあなたに云う。人よ。もしあなたがそれだけを食べるなら、それはあなたにとってパンとなり、――あなたの魂の最上の食物となるであろう。もしあなたが《救い主》以外の何かに頼って生きようとするなら、それは、天から下るマナを食べる代わりに、砂漠に生えている何かの雑草を食べて生きようとするも同然である。イエスによって、と同じく、イエスにあって、私たちは生きる。愛する方々。この食卓に向かうにあたり、いかに私たちは《過越の晩餐》を祝うべきだろうか。もう一度、信仰によって、私たちは《小羊》を食べることにしよう。聖なる信頼によって、十字架につけられた《救い主》のもとに行き、その血と義と贖罪の養いを受けることにしよう。

 さて今、しめくくりとして、あなたに尋ねさせてほしい。愛する方々。あなたは救われたいと思っているだろうか? ある人は云う。「そうですねえ。ちょっとわかりません。私は救われたいと思ってますが、どうすれば救われるのかわからないのです」。あなたは知っているだろうか? 人々は行ないによって救われたいと思っているのである。そう私が云えば、あなたは私が作り話をしていると思うであろう。だが、そうではない。現実である。国中を旅行する中で、私はありとあらゆる種類の人々と出会うが、ほとんどの場合、それは自分を義とする人々である。私が出会う人々の中でも、自分が日曜に一回教会に出席するからといって全く敬虔な者と考え、国教会に属しているからといって自分を全く義と考えている人々の何と多いことか。ある国教徒が先日私に云った。「私は厳格な国教徒です」。私は彼に云った。「それは嬉しいことですな。なぜならあなたは、『信仰箇条』を奉じているとしたら、カルヴァン主義者でしょうね」。彼は答えた。「私は『信仰箇条』のことはわかりません。むしろ『典礼法規』の方をよく読みますね」。それで私は、彼がキリスト者というよりも形式尊重主義者だと思った。世にはこのような人々がたくさんいる。別の人は云う。「私は救われると信じています。私はだれにも負債がありません。一度も破産したことはなく、だれにでもきちんと支払いをしています。私は酒に酔うことがありません。だれかに何か悪いことをしたなら、罪滅ぼしとして、これこれの協会に一ポンド寄付するように努めています。私は、ほとんどの人と同じくらい宗教的です。それで私は救われると信じます」。だが、それでは役に立たない。それは、あたかも古のユダヤ人がこう云ったのと同じである。「われわれは、かもいに血をつけたくはない。われわれにはマホガニーのかもいがある。門柱に血をつけたくはない。われわれにはマホガニーの門柱があるのだ」。あゝ! たといそれが何であれ、それに血がついていなければ、御使いはそれを打ったであろう。あなたがどれほど義人であろうと、あなたに血が振りかけられていなければ、あなたの門柱とかもいのいかなる義も全く何の役にも立たないであろう。「その通り」、と別の人は云う。「私は、それだけに信頼してはいない。私は、自分のできる限り善良になることが自分の義務であると信ずる。だが、そうすれば、イエス・キリストのあわれみが残りの埋め合わせをしてくれると思う。私は状況の許す限り義人にになるよう努力するし、そこにいかなる欠陥があっても、キリストが埋め合わせてくださると信ずる」。これは、あたかもユダヤ人がこう云ったかのようである。「子よ。血を持ってきなさい」。それから、それが持って来られると、彼は云った。「水差しに水を入れて持ってきなさい」。彼がそれを受けとると、その2つを混ぜ合わせて、門柱に振りかけた。左様。御使いは彼をも他のだれとも同じように打ったことであろう。というのも、救いをもたらすのは、血、血、血、血!にほかならないからである。そして、救いの唯一の道は血によるものである。というのも、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからである[ヘブ9:22]。話を聞いている方々。尊い血[Iペテ1:19]はあなたに振りかけられただろうか? 尊い血により頼むがいい。尊い血による贖罪で印を押された救いにあなたの希望を置くがいい。そうすればあなたは救われる。しかし、何の血もなければ、あるいは、何か他のものと混ぜ合わせた血では、誓って云うが、あなたは罪に定められる。――というのも、御使いは、いかにあなたが善良で義人であろうと、あなたを殺すからである。ならば、家へ帰って、このことを考えるがいい。私たちのために、「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられた」ことを。

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私たちの過越の小羊キリスト[了]

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