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主権と救い

NO. 60

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1856年1月6日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」。――イザ45:22


 六年前の今日、まさにほとんど今と同じ時刻の私は、「苦い胆汁と不義のきずなの中に」いた[使8:23]。それでも、天来の恵みの導きにより、すでにその隷属の苦さを感じとり、その奴隷状態の苦痛のあまり叫ぶことはしていた。休み場を捜したが見つからなかった[マタ12:43]私は、神の家に足を踏み入れ、そこに座った。恐ろしくて上を仰ぎ見ることなどできなかった。自分が完全に断ち切られるのではないか、神の猛々しい御怒りが自分を焼き尽くすのではないかと思ったからである。教役者が講壇に立ち、今朝の私と同じように、この聖句を読み上げた。――「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」。そのとき私は仰ぎ見た。まさにそれと同じ瞬間に、信仰の恵みが私に授けられた。今や私は、まことをもってこう云うことができると思う。――

   「血潮したたる みきずの流れを
    信仰により 仰ぎ見しより
    贖いの愛こそ わが調べなり、
    今より後も 死ぬるときまで」。

 私は、この目の黒い限りは、その日を決して忘れないであろう。また、自分が初めて主を知った時のことを思い出すたびに、この聖句を繰り返さずにはいられないであろう。これは、いかに奇しい恵みに満ちていることか! いかに素晴らしく、驚くほどいつくしみ深いことか。こうした言葉を、ほんのつい最近、自分の魂の益のために聞いた者が今や、今朝、同じ聖句から、自分の聴衆であるあなたがたに語りかけているのである。また、1つの完全にして確信に満ちた望みをいだいているのである。すなわち、この建物の中にいる何人かのあわれな罪人は、この喜ばしき救いの訪れを、自分のこととしても聞くであろう。そして今日、この1月6日に、その人は「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」られるだろう[使26:18]、という望みである。

 もし神おひとりが、いかなる被造物も伴わずに存在しておられた時のことを思い描くことが、人間の能力の範囲内にあるとしたら、そのとき私たちは、何にもまして壮大にして途方もない神観の1つをいだくことになるであろう。かつては、まだ太陽がその走路を走ったことがなく、空間を横切ってはその黄金の光箭を放ち、地を喜ばせることを始めていない時期があったのである。かつては、いかなる星々も、その身を浮かべる紺碧の海がなかったがために、天空できらめいていなかった時代があったのである。かつては、神の偉大な宇宙として今の私たちが目にしているものすべてがまだ生まれておらず、神の精神の中で、いまだ創造されず、存在せざるものとして、眠っていた時があったのである。それでも、そこには神がおられた。そして神は、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる」[ロマ9:5]べきであった。いかなる熾天使もその賛歌を歌って賛美することがなく、いかに力強き翼の智天使も、その高貴な命令を行なおうとして雷電のように閃き駆けてはおらず、いかなる従者も伴ってはおられなかったが、それでも神は、王としてその御座に着いておられ、力ある神、とこしえに礼拝されるべきお方――《畏るべき至高者》として、厳かな沈黙をもってひとり広漠たる無限の空間の中で、穏やかな雲を天蓋とし、御顔から発する光をそのご栄光の輝きとしながら住んでおられたのである。神はかつておられ、今もおられる。初めから神は神であられた。代々の世界が始まる前から、神は「とこしえからとこしえまで」あられた[詩90:2]。さて、神がその被造物を創造しようとなさったとき、こうしたもろもろの被造物たちが、いかに神ご自身よりも無限に低い存在であったに違いないことか。あなたは、そのことに心打たれるではないだろうか。かりにあなたが陶器師だったとして、ろくろの上で何かを造る場合、その一塊の粘土が、あなたと対等だなどと僭称してよいだろうか! 否。それは何とあなたから隔たっていることであろう。なぜなら、あなたは部分的には、その器の創造主であったからである。それと同じく《全能者》がその被造物たちを形作られたとき、彼らが一瞬たりとも、あえて自分たちと神を比べたりするなどというのは、傲岸のきわみではないだろうか? だが、かの大反逆者、かの反逆者たちの指導者サタンは、神の高き御座に登ることを求め、すぐに自分の目当てが高すぎたこと、地獄そのものでさえ神聖な復讐から逃れるには浅すぎることを痛感することになった。彼は、神「だけが神」であると知っている[詩86:10]。世界が創造されて以来、人間はサタンを模倣してきた。一日で消え失せる被造物、ひと時しか生きていない蜻蛉が、《永遠者》と張り合ってきたのである。そのため、常にこの偉大なエホバの目的の1つとなってきたのは、ご自分が神であることを人類に教えること、また、ご自分のほかに何者も神ではないことを教えることであった。これこそ、世がご自分から離れて堕落して以来、神が世に教えてこられた教訓である。丘々を壊し、谷を持ち上げ、想像の産物や高ぶる者の目を投げ捨てることに神は忙しくしてこられた。それは全世界が、

   「主のみぞ ひとり神にまし、
    造りてこぼつ 方なるを知る」

ためであった。

 今朝、私たちがあなたに示したいと思うのは、第一に、いかにして神は、この偉大な教訓を世に教えておられるか。――すなわち、ご自分が神であり、ご自分以外にひとりもいないことを、いかに教えておられるか。第二に、神がそれを救いという問題に関して教えておられる特別の方法である。――「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」。

 I. まず第一に、《いかにして神は、この教訓を人類に教えておられるだろうか?》

 私たちは答える。神はそれを何よりもまず、偽りの神々と、それらを拝む偶像礼拝者たちに対して教えてこられた。人間は、その邪悪さと罪とによって、木切れや石塊を立てては、それを自分の造り主とし、それを拝んできた。定命の人間や、海の魚や、地をはうものに似せた像を、上等の木で自分のために形作り、自分の手で造ったものの前に身も心もひれ伏させ、それを神と呼んできた。それにはものを見る目も、扱える手も、聞く耳もないというのに! しかし、いかに神は古代異教徒たちの神々に軽蔑を注いでこられたことか。それらは今どこにあるだろうか? 知られてさえいるだろうか? ニネベの大群衆が平伏して拝んでいた偽りの神々はどこにあるだろうか? それらの仲間であったもぐらや蝙蝠に聞いてみるがいい。あるいは、それらが埋められた塚山に聞いてみるがいい。あるいは、暇人たちが物珍しげに歩き回る博物館に行き、彼らが珍奇なものとして眺め、そんな神々を人間が拝んでいることがあったことに苦笑しているのを見るがいい。また、ペルシヤの神々はどこにあるだろうか? 彼らはどこにいるだろうか? その火は消されており、あの拝火教徒たちはほとんど地上から死に絶えてしまっている。ギリシヤの神々はどこにいるだろうか?――あの詩歌によって飾られ、この上もなく高尚な頌歌で歌われていた神々は? それらはどこにいるだろうか? それらはいなくなってしまった。だれがそれらのことを、今は昔のものとして以外に語るだろうか? ゼウス――彼を拝むような者がだれかいるだろうか? また、だれがクロノスをあがめるだろうか? それらはいなくなってしまった。また、ローマの神々はどこにいるだろうか? 今ヤヌスは神殿を占めているだろうか? あるいはウェスタの処女たちは、その不断の聖火を守っているだろうか? こうした神々を拝んでいる者らが今いるだろうか? 否。それらはその王位を失ってしまった。また、南洋諸島の神々はどこにいるだろうか?――あの、みじめな人々をはいつくばらせていた、血まみれの悪鬼どもは? それらは、ほとんど絶滅してしまった。中国やポリネシアの住民に、彼らの拝んでいた神々がどこにいるか問うてみるがいい。問うがいい。すると、問うがいい、問うがいい、とこだまするであろう。それらはその王位から投げ落とされ、その台座から放り出され、その戦車は破壊され、その王笏は火で焼かれ、その栄光は離れ去った。神は偽りの神々に打ち勝っておられ、ご自分の礼拝者たちに、ご自分が神であられ、ご自分に並び立つ者が全くいないことを教えられた。神々は今も礼拝されているだろうか? それとも国々は偶像を拝んでいるだろうか? もうほんのしばらく待っているがいい。そうすれば、それらが失墜するのを見ることになるであろう。冷酷なジャガナートは、今なおその車の前に身を投げ出す愚かな者らをひき殺しているが、やがては嘲りの的となり、今きわめて目立っている偶像、例えば仏陀やブラフマンやヴィシヌは、やがて地にまみれ、街路の泥のように人々から踏みつけられるようになる。というのも、神はすべての人々にご自分が神であられ、他にはいないことをお告げになるからである。

 さらに注目したいのは、いかにして神がこの真理を世々の帝国に教えてこられたかである。様々な帝国が勃興しては、時代時代の神となってきた。それらの王や君主たちは高貴な称号を名乗っては、おびただしい数の人々によって礼拝されてきた。しかし、その帝国たちに、神に並び立つものが何かあるかどうか問うてみるがいい。あなたは、バビロンの得意げな独白が聞こえるように思えないだろうか。――「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。私が神である。ほかにはいない」[黙18:7参照]。だが今あなたは、滅亡したバビロンの上を歩くとき、聖書の厳粛な霊を除き何者にも出会わないように思わないだろうか。その霊は、齢を重ねて灰色になっており、預言者のように立っては、神がおひとりしかおられず、他にはいないことを告げているのである。砂をかぶり、自らの廃墟という砂に覆われたバビロンに行くがいい。ニネベの塚の上に立って、この声を立ち上らせるがいい。――「ひとりの神がおられ、世々の帝国はその御前に沈んでいく。ひとりの力ある方がおられ、地の君主たち王たちは、その王朝や玉座もろともに、その御足に踏みつけられて揺るがされる」。行って、ギリシヤの神殿に座すがいい。そこでアレクサンドロスがいかに高慢な言葉を語ったか、だがいま彼がどこにいるか、また彼の帝国がどこにあるかを注目するがいい。カルタゴの橋の崩壊した迫持の上に座るがいい。あるいは、ローマの荒れ果てた劇場の間を歩いてみるがいい。そのときあなたがたは、こうした廃墟を荒れ狂う風の中に1つの声を聞くであろう。――「わたしが神である。ほかにはいない」。「おゝ、都市よ。お前は自分を永遠の都と呼んだが、わたしはお前を露のように溶かし去った。お前は云った。『私は七つの丘の上に立っている。私はいつまでも残っていよう』。だが、わたしはお前を粉々に砕き、お前は今、かつての姿にくらべれば、みじめで蔑むべき場所になり果てている。お前は以前は石であり、自分を大理石にした。だが、わたしはお前を再び石にし、低くした」。おゝ! いかに神は、自らを天の新しい王国のように打ち立てた、代々の君主国や帝国に向かって、教えてこられたことか。ご自分が神であり、ほかにはいない、と!

 さらに、いかに神はこの偉大な真理を代々の君主たちに教えてこられたことか! ある者たちは、この上もなく誇り高ぶり、このことを、他の者らよりも厳しいしかたで学ばなくてはならなかった。例えば、ネブカデネザルを見てみるがいい。彼の王冠はその頭にあり、その紫衣はその肩の上にある。彼は誇らしげなバビロンを渡り歩いて云う。「この大バビロンは私が建てたものではないか」*[ダニ4:30]。では、あなたは、そこの野原にいる生き物が見えるだろうか? それは人である。「人ですと?」、とあなたは云う。その髪の毛は鷲の羽のよう、爪は鳥の爪のようである。四つん這いで歩き、牛のように草を食べ、人間の中から追い出されている。それこそ、「この大バビロンは私が建てたものではないか」、と云った君主である。さて今、彼はバビロンの宮殿の中に回復され、「高ぶって歩む者をへりくだった者とされる、いと高き方をほめたたえ」ている[ダニ4]。私はもうひとりの君主のことを思い出す。ヘロデを見るがいい。彼はその臣民の真ん中に立って語っている。あの神をも恐れぬ叫びが聞こえるだろうか? 彼らは叫んでいる。「神の声だ。人間の声ではない」[使12:22]。この高慢な君主は神に栄誉を帰さない。神を気取り、自分を天来の者と想像し、天空を揺るがしているかのようにふるまう。だが、一匹の虫が彼のからだを這い上り、また一匹、また一匹と這い上り、その日が沈む前に、彼は虫に食い尽くされる[使12:23]。あゝ! 君主よ! お前は自分が神だと思っていたが、虫たちがお前を食らったのである! お前は人間以上の者だと思っていたが、お前は何者なのか? 人間以下である。お前は虫たちに食い尽くされ、腐敗のえじきとなったからである。このようにして神は高慢な者をへりくだらせ、このようにして強大な者を卑しめなさる。私たちは、現代史からの例もいくらでも示せるだろうが、ひとりの国王の死だけでも、人々が学ぼうとしさえするなら、この教訓を教えるには十分である。王たちが死ぬとき、また、盛大な葬送の行進が墓場まで繰り出されるとき、私たちにはこの教訓が教えられているのである。――「わたしが神である。ほかにはいない」。革命や、帝国の動揺について聞くとき、――由緒ある王朝が震え動き、白髪の君主たちがその王位を逐われるのを聞くとき、それこそエホバがその御足を陸と海の上に据えて、その御手でこの叫びを高く掲げておられるように思われる。――「聞け! 地の住民たち! お前たちはいなごのようだ。『わたしが神である。ほかにはいない』」[イザ40:22参照]

 さらに私たちの神は、多くのことをなしては、この教訓を世の賢者たちに教えておられる。というのも、地位や、権勢や、権力が自らを神の立場に据えているように、知恵もそうしているからである。そして、《神格》の最大の敵の1つは常に人間の知恵であった。人間の知恵は神を見ようとしない。自分たちを賢い者であると公言する賢者たちは愚か者となってきた。しかし、あなたがたは歴史を読む中で注目したことがないだろうか? いかに神が知恵の高慢を卑しめてこられたかを。過ぎ去ったはるか昔の時代に、神は偉大な知性の持ち主たちを世に送り、彼らは種々の哲学体系を編み出した。彼らは云った。「こうした体系は永遠に残るであろう」。――彼らの弟子たちは、それらが無謬であると考え、それゆえ彼らの言説を耐久性のある羊皮紙に書き記しては、こう云った。「この本は永遠に朽ちることはないであろう。連綿と続く人間の世代がこれを読み、その最後の人間にとってこれは知恵の梗概として手渡されるであろう」。「あゝ! しかし」、と神は云われた。「お前のその本は、もう数百年も経たないうちに、愚劣なものとみなされることになるのだ」。それで、ソクラテスの膨大な思索も、ソロンの知恵も、今では完全に忘れ去られており、たとい私たちが彼らの語るのを聞くことができたとしても、わが国の三歳の童子でさえ、自分の方がよく物を知っている、と彼らを笑うであろう。しかし人間は、ある体系の空虚さをみいだしたとき、別の体系を見て目を輝かせているものである。アリストテレスが十分でないとしたら、ベーコンがいるのだ。今や私はすべてを知っているのだ。そして人は学びに着手し、この新しい哲学は永遠に残るはずだと云う。その人は綺麗な色をした自分の石をいくつも積み重ねては、自分が積み上げたあらゆる真理は貴い不滅の真理だと考える。しかし、悲しいかな! 別の世紀になると、それは「木、草、わら」であることが見いだされるのである。新しい派の哲学者たちが起こり立ち、その先達たちを反駁する。それと同じように今日も賢者たちがいる。――世故に長けた世俗主義者たちその他がいて、われこそは真理をつかんでいると思い込んでいるが、もう五十年もすれば、――よく聞いてほしい――、この髪が半白にもならないうちに、そうした種族の最後のひとりが死に絶え、そのような種族に少しでも関わりを持ったことのある人は愚か者と考えられるであろう。不信心の諸体系は太陽の前の結露のように失せ去ってしまう。――神はこう云われるからである。「わたしが神である。ほかにはいない」。聖書は哲学を粉みじんに砕く石である。これは、哲学のあらゆる体系を粉々に粉砕する巨大な破城槌である。これは、女があらゆるアビメレクの頭上に投げつけることのできる臼石であり[士9:53]、彼は完全に滅ぼされてしまう。おゝ、神の教会よ! 恐れてはならない。あなたは不思議なわざを行なうことができる。賢者たちはうろたえさせられ、あなたは知るであろう。彼らも知るであろう。この方こそ神であり、この方に並び立つ者はひとりもいないことを。

 「確かに」、とある人は云う。「神の教会こそは、このことを教えられる必要がないに違いない」。否、と私たちは答える。教会にもその必要がある。というのも、ことによると、ありとあらゆる者の中で、神がその恵みの対象となさった者たちほど、この枢要な真理、すなわち、この方こそ神であり、それに並び立つ者がひとりもいないことを忘れがちな者らはいないからである。いかに教会はカナンの地でこのことを忘れ、他の神々を拝み、それゆえに神が強大な国王や君主らを彼らに立ち向かわせ、激しく彼らを苦しめなさったことか。いかにイスラエルがこれを忘れたことか! そこで神は、彼らをバビロンへの捕囚として引いて行かれた。そして、イスラエルがカナンで、またバビロンで行なったことを、いま私たちは行なっているのである。私たちもまた、あまりにもしばしば、この方が神であられること、この方以外に誰もいないことを忘れてしまう。私がこの大いなる事実を告げるとき、キリスト者は私が何のことを云っているか知っているではないだろうか。というのも、その人も自らこのことを行なってこなかっただろうか? ある時には、繁栄がその人の前にやって来る。穏やかな強風がその人の帆船に吹きつけ、その人の無鉄砲な望みの赴くままの針路をとらせ、その人は内心こう云ってきた。「今や私には平安がある。幸福がある。私が願ってきたものが手の届くところにある。では私は云おう。わが魂よ。のんびりと安心して、食べて、飲んで、楽しめ[ルカ12:19参照]。こうした物でお前は十分に満ち足りるだろう。これらをお前の神とするがいい。そして幸いになり、幸せになるがいい」。しかしあなたは、私たちの神がその酒杯を地に叩きつけ、その甘い葡萄酒を流しては、かわりに苦い胆汁を満たしたのを見てこなかっただろうか? そして、それを私たちに突きつけるとき、こう仰らなかっただろうか?――「これを飲むがいい。飲むがいい。あなたは地上で神を見いだせると考えていたが、この杯を飲み干して、その苦さを思い知るがいい」。私たちがそれを飲んだとき、その吐き気を催すような苦味に私たちは叫んだ。「あゝ! 神よ。私はもう二度とこうしたしろものを飲みはしません。あなたは神です。そして、あなたの他にだれひとりいません」、と。また、あゝ! いかにしばしば私たちは神の許しも得ずに将来のための計画を立てることだろうか? 人々は、ヤコブが言及したあの愚かな人々のように云ってきた。「明日はこれこれのことをしよう。商売をして、もうけよう」[ヤコ4:13-14参照]。だが、明日のことはわからないのである。というのも、明日が来るずっと前に、彼らは商売をすることができなくなり、死が彼らを自分のものとし、ほんの数尺の土地に彼らの全身がすっぽりおさまってしまう。神は日々その民に、病により、苦しみにより、精神の抑鬱により、神を捨て去ることにより、御霊をしばらくの間失うことにより、御顔の喜びに欠けることにより、このこと――ご自分が神であり、他にないこと――を教えておられる。また私たちは、このことを忘れてはならない。神が偉大なわざを行なわせるためにお立てになる、その特別なしもべたちの中には、この教訓を独特のしかたで学ばなくてはならない者たちがいるのである。例えば、ある人が福音を宣べ伝えるという偉大な働きをなすため召されているとする。その人は大きな成功をおさめる。神がその人を助け、何千人もの人々がその人の足元にはべり、おびただしい数の人々がその人の片言隻句も聞き漏らすまいとする。その人が人間である限り、限度を超えて思い上がる傾向が生まれるであろうし、あまりにも多くを自分に頼るようになり、あまりにも僅かしか神に頼らないようになであろう。こうしたことを知っている人は口を開き、自分の知っていることを語るがいい。そうした人々は云うであろう。「それは真実だ。何にもまして真実なことだ」、と。もし神が私たちに特別の使命を与えておられるとしたら、私たちは普通、何がしかの栄誉と栄光を自分のものとし始めるものである。しかし、神の卓越した聖徒たちのことを振り返って見るとき、あなたは注目したことがあるではないだろうか。いかに神が、ご自分が神であられ、他にはいないことを彼らに思い知らせなさったかを。あわれなパウロは、1つのとげが肉体になかったとしたら、その啓示の素晴らしさのゆえに自分を神だと思い込み、限度を越えて高ぶっていたかもしれなかった。しかしパウロは、自分が神ではないと感じることができた。彼には1つのとげが肉体にあり、神々が肉体にとげを有することなどありえないからである[IIコリ12:7]。時として神は、特別な折に教役者に助けを拒むことによってその人に教えられる。私たちは自分の講壇に立って、「おゝ! きょうも良い日になればいいが!」、と云う。私たちは、祈りにおいて熱心で、疲れを知らなかったのと全く同じように、労し始める。だが、それは、盲目の馬が石臼の周囲をぐるぐる回るようなもの、あるいはデリラとともにいるサムソンのようなものである。私たちは自分の役立たずな四肢を揺すっては非常に驚き、「よろよろと敗走し」ては、何の勝利も得られない。私たちは主が神であること、主のほかにだれもいないことを見てとらされるのである。非常にしばしば神は、このことを教役者に教えるために、その人をして自分自身の罪深い性質を見てとらさせなさる。その人は、自分の邪悪で忌み嫌うべき心の有様を悟ったあまり、講壇の階段を上っていく間、自分が同胞に宣べ伝えることはおろか、会衆席に座る資格すらないような気がする。確かに神のみことばを宣言することに私たちは常に喜びを感じはするが、それでも私たちは、罪人のかしらが他人に説教するようなことはまずあってはならないことだと痛感して、講壇への階段の上でよろめくことがいかなることかを知ってきた。あゝ! 愛する方々。私は、自分の魂の深みと暗黒さに連れ込まれて、こう叫んだことが全くないような人が非常に成功する教役者になるとは思わない。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え……るためにほかなりません」[エペ3:8]。教役者たちの症状に神がつけてくださる解毒剤がもう1つある。たとい神が自ら彼らをお扱いにならないとしても、神は敵の大軍を起こしては、ご自分が神であり、唯一の神であられることをお示しになるであろう。ある大事な友人が昨日私に、貴重な古い草稿を送ってくれた。それはジョージ・ホイットフィールドの賛美歌の1つで、ケニングトン広場で歌われたものである。それは素晴らしい賛美歌で、徹頭徹尾ホイットフィールド的であった。そこには、彼が全く主に寄り頼んでいたこと、神が彼のうちにおられたこととが示されていた。何と! 人が群衆から罪人呼ばわりされながらも、聖日ごとに講壇に立って福音を宣べ伝え、自分の名前が誹謗中傷されることに甘んじているとしたら、それは神の恵みがその人のうちにあるから以外にないではないだろうか? 私としては、こう云うことができる。キリストの愛が私を取り囲んで[IIコリ5:14]いないとしたら、事の次第に関する限り、これは私が説教する最後の時となるであろう。「そのことは、私たちがどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私たちはわざわいに会います」*[Iコリ9:16]。しかし、神がそのしもべたちに切り抜けさせなさる反対の嵐は、彼らを導いて、たちまちこのお方が神であり、他にはいないことを見てとらせる。もし万人がほめそやし、もしすべての人が満足させられるとしたら、私たちは自分を神だと考えるであろう。だが、人々が野次り嘲るとき、私たちは私たちの神に向かい、こう叫ぶ。

   「よしわが顔に 汝が御名ゆえの
    恥と責めとが 浴びせらるとも
    ことほぎ迎えん 咎めも恥も。
    ただ汝れ我れを 覚えたまわば」。

 II. ここから私たちは、この講話の第二の部分に移ることとなる。救いは神の最大のみわざであり、それゆえ、その最大のみわざにおいて、神は特に私たちにこの教訓を教えておられる。――このお方こそ神であり、他にはいない、ということを。本日の聖句は、私たちに、《いかにして神がこのことを教えておられるか》を告げている。――神は云われる。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。神は私たちに、ご自分が神であられること、そして他にはいないことを3つのしかたで示しておられる。第一に、私たちにどなたを指し示しておられるかによって。――「わたしを仰ぎ見て救われよ」。第二に、私たちがあわれみを得るため用いるべきであると告げておられる手段によって。――「見よ」、単純に、「見よ」。そして第三に、「見る」ように召しておられる人々によって。――「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。

 1. 第一に、神は私たちに、どなたを指し示しておられるだろうか? おゝ! 主がこのように云われるのを聞くとき、それは人間の高慢を低めないだろうか? 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。これは、「あなたの司祭を仰ぎ見て救われよ」、ではない。さもないと、そこには別の神があることになり、神に並ぶ何かが他にあることになったであろう。それは、「あなた自身を仰ぎ見よ」、でもない。さもないと、そこには救いの誉れの一部を自分のものだと僭称できる者がいることになったであろう。しかしこれは、「わたしを仰ぎ見よ」、である。いかにしばしば、キリストのもとに来つつあるあなたは自分自身を見ていることか。「おゝ!」、とあなたは云う。「私は十分に悔い改めてはいません」。それは、あなた自身を見ていることである。「私は十分に信じてはいません」。それは、あなた自身を見ていることである。「私はあまりにも無価値すぎます」。それは、あなた自身を見ていることである。別の人は云う。「私は、自分に何の義があるのも発見できません」。あなたが自分にいかなる義もないのを見てとることは全く正しいことだが、そうしたものを探そうとすることは全く間違っている。それは、「わたしを見よ」、なのである。神はあなたが、自分の目を自分自身からそらして、ご自分に向けることを望んでおられる。この世で最も難しいことは、人の目をその人自身からそらすことである。人は生きている限り、常に自分の目を内側に向けて、自分自身を眺める先入的愛好を有している。だが神は、「わたしを見よ」、と云っておられる。血を流すイエスの御手からあわれみが滴っている《カルバリの十字架》から、《救い主》の血を流す毛穴が赦免をしみ出させている《ゲツセマネの園》から、この叫びがやって来る。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。イエスが、「完了した」、と叫んでおられるカルバリの山頂から、1つの叫びが響くのが聞こえる。「見よ、そして救われよ」。しかし、私たちの魂からは卑しい叫びがやって来る。「否。お前自身を見よ! お前自身を見よ!」 あゝ! 話を聞いている方々。あなた自身を見るならば、地獄に堕ちるであろう。それしかありえない。あなたが自分自身を見ている限り、あなたには何の希望もない。あなたが何者かを考えることではなく、神がいかなるお方で、キリストがいかなるお方であるかを考えることによってこそ、あなたは救われることができるのである。それは、あなたから目を離してイエスを見ることである。おゝ! ある人々は福音を完全に誤解している。そうした人々は、義こそキリストのもとに行ける資格だと考えている。だが、罪こそ人がイエスのもとに行ける唯一の資格なのである。善良な老クリスプは云っている。「義は私をキリストから引き離す。健康な者に医者は必要ない。医者を必要とするのは病人である。罪は、私が罪を感ずるときに、私をキリストのもとに来させる。そして、キリストのもとに来ることにおいて、私は罪を有していればいるほど、あわれみを希望しなくてはならない理由があるのである」。ダビデはこう云ったが、それは奇妙なことでもあった。「私をあわれんでください。私の咎は大きいからです」*[詩25:16、11]。しかし、ダビデよ。なぜあなたはそれが僅かだと云わなかったのか? ダビデは知っていたからである。彼の罪が大きければ大きいほど、あわれみを求める良い理由になるということを。私は、人が邪悪であればあるほど熱心にイエスを信ずるように招くものである。罪の意識こそ、唯一、教役者として私たちが探さなくてはならないものである。私たちは罪人たちに向かって説教している。では私たちは、ある人が罪人という称号を自分のものにしようとするかどうかを知るようにしよう。そうすれば、私たちはその人に云うであろう。「キリストを仰ぎ見れば、あなたは救われる」、と。「見よ」。これしか主はあなたに求めておられないし、このことさえ、主があなたに与えてくださるのである。もしあなたがあなた自身を見るなら、あなたは地獄に堕ちる。あなたは邪悪な悪漢であり、忌まわしいものに満ちており、自分も腐り、他人をも腐らせている。しかし、ここを見るがいい! あなたは十字架に吊り下げられた、あのお方が見えるだろうか? 苦しみを受けたその頭が、柔和にその胸板に垂れているのが見ているだろうか? あの茨の冠が、血の雫をその頬に滴り落とさせているのが見えるだろうか? あの残酷な釘で、そのお方の両の御手が貫かれ、引き裂かれていること、またご自分のからだの重みを支えている、そのほむべき御足がほとんど真っ二つに避けているのが見えるだろうか? 罪人よ! あなたはこの方が、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」[マタ15:34]、と悲痛な叫びをあげるのが聞こえるだろうか? この方が、「完了した」、と叫ぶのが聞こえるだろうか? この方の頭ががくりと死んで垂れ下がることに目をとめているだろうか? あの脇腹が槍で突き刺され、そのからだが十字架から取り降ろされるのが見えるだろうか? おゝ! ここに来るがいい! その御手はあなたのために釘づけられたのである。その御足はあなたのために血糊をほとばしらせたのである。その脇腹はあなたのためにぱっくり開かれたのである。そして、もしあなたが、いかにしてあなたがあわれみを見いだせるかを知りたければ、そこにそれがある。「見よ!」 「わたしを見よ!」 もはやモーセを見てはならない。もはやシナイを見てはならない。ここに来て、カルバリを見よ。カルバリのいけにえを見よ。ヨセフの墓を見よ。そして、彼方を見よ。御座近くに、その御父とともに座しておられるお方、光と不滅の冠を戴いているこのお方を見よ。「見よ! 罪人よ」、と彼は今朝あなたに云っておられる。「わたしを仰ぎ見て、救われよ」。このようにしてこそ、神はご自分の他に神がないことを教えておられる。なぜなら、神は私たちに全くご自分を仰ぎ見させ、全く私たちから目を引き離させなさるからである。

 2. しかし、第二に考えたいのは、救いの手段である。それは、「わたしを仰ぎ見て救われよ」、である。確かにあなたは多くの人々が入り組んだ礼拝を好んでいることに目をとめてきたに違いない。――複雑な礼拝――自分でもほとんど理解できない礼拝である。そうした人々は、私たちの礼拝のように単純なものにがまんがならない。ならば、そうした人々は白装束をまとった人、黒装束をまとった人を立てなくてはならない。ならば、そうした人々のいわゆる祭壇や内陣を設置しなくてはならない。しばらくすると、それでも十分ではなくなるので、花生け鉢や蝋燭がなくてはならない。ならば聖職者は祭司となり、その人は十字架を縫いつけた色とりどりの衣裳を身にまとっていなくてはならない。そのように、続いていく。ただの皿であるものは聖パン皿となり、かつては杯だったものは聖餐杯となる。そして、そうした儀式が複雑になればなるほど、人々はそれを好むようになるのである。そうした人々は、自分たちの教役者が優越した存在であるかのように立つことを好む。世は、自分に理解できない宗教を好むのである! しかし、あなたは今まで一度も聖書がいかに輝かしいほどに単純であるかに、注意したことがないだろうか? それは、人々のたわごとを何ら含んでおらず、平易な言葉、平易な事がらしか語っていない。「見よ!」 回心していない人々のうち、この、「キリストを見て救われよ」、を好む者はだれひとりいない。しかり。その人はナアマンがエリシャのもとに来たようにキリストのもとにやって来る。そして、「行って、ヨルダン川でからだを洗え!」、と云われると答えるのである。「私は彼がきっと出て来て、この患部の上で手を動かし、彼の神名を呼んでくれると思っていたのに、ヨルダン川で身を洗えとは何と馬鹿げたことか。そんなことは誰にでもできるわ!」[II列5:10-11参照] もしも預言者が彼に何か難しいことを命じていたとしたら、彼はそれを行なっていただろうか? あゝ! 確かに行なっていたであろう。そしてもし今朝、私が、だれでもここからバースまで裸足で歩くか、何か不可能なことを行なうかすれば救われると説教するようなことがあったとしたら、あなたは明日の朝、朝食もとらずに出発するであろう。もし救いの道を説明するのに七年もかかるとしたら、きっとあなたはその間ずっと大人しく耳を傾けているであろう。もし天国への道を告げることのできる学識ある博士がひとりしかいなかったとしたら、いかにその人は追いかけ回されることか! また、もしそれがラテン語やギリシヤ語の難解な語句をそこここに散りばめたものだったとしたら、なおさら良いであろう。しかし、私たちが宣べ伝えなくてはならないのは、単純な福音なのである。それは、単に「見よ!」なのである。「あゝ!」、とあなたは云う。「これが福音だと? そんなものには、鼻も引っかけまい」。しかし、なぜ神はあなたにこのように単純なことをするよう命じておられるのだろうか? ただあなたの高慢を引き下ろし、あなたにご自分が神であられ、他にはいないことをあなたに示すためである。おゝ! 救いの道がいかに単純か注目するがいい。それは、「見よ、見よ、見よ!」である。――たった一言、それも二文字しかない! 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。ある神学者たちは、あなたが救われるためにすべきことを告げるのに一週間もかけたがるが、聖霊なる神は、それをするのに二文字しか必要とされない。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。救いの道の何と単純なことか! そして、おゝ! いかに瞬間的なことか! 私たちが手を動かすには多少時間がかかるが、見るには一瞬あれば十分である。そのように罪人は一瞬で信じ、十字架につける御神を信じて頼るその瞬間に、たちまち赦しを受け、その御潮によって全き救いを受けとるのである。この場にいるある人は、今朝、自分の良心において義とされないままやって来たかもしれないが、他の人々とは違って、義と認められて家に帰ることになるかもしれない。この場にいるある人は、今は不浄な罪人でも、次の瞬間には赦されているかもしれない。それは一瞬にしてなされる。「見よ、見よ、見よ!」 そして、それがいかに分け隔てのないことか! なぜなら、私がどこにいようと、いかに離れていようと、それはただ、「見よ!」、と云うからである。それは私に、見えるようになれとは云っていない。もし私たちが何かを暗闇の中で見るとしたら、それが私たちには見えなくとも、私たちは自分に云われたことをしたのである。それと同じく、もしある罪人がイエスの方を見るとしたら、イエスはその罪人を救ってくださるであろう。というのも、暗闇の中のイエスは、光の中のイエスと同じくらい良いお方であり、あなたに見えないイエスは、あなたに見えるイエスと同じくらい良いお方だからである。それはただ、「見よ!」、である。「あゝ!」、とある人は云う。「私は今年イエス見ようと努めてきましたが、彼が見えていません」。だが、これはイエスが見えるようになれとは云っていない。「彼を仰ぎ見よ!」、と云っているのである。そして、仰ぎ見た人々は光を照らされると云っているのである。たといあなたの前に何か障害物があるとしても、あなたが正しい方向を見ていさえするなら、それで十分である。「わたしを仰ぎ見よ!」 それはキリストを見えるようになることというよりも、キリストの方を見ることである。キリストの方を向く意志、キリストを求める願い、キリストを求める望み、キリストに対する信頼、キリストにすがりつく思い、それが求められていることである。「見よ! 見よ! 見よ!」 あゝ! もしも蛇に咬まれた人が、その視力の失せた眼球をあの青銅の蛇の方に向けたとしたら、その人にそれが見えなかったとしても、その人はそれでも命を取り戻すであろう。見えるようになることではなく、見ることこそ、罪人を救うのである。

 私たちはさらに云うが、いかにこれが人間をへりくだらせることか! ある紳士はこう云っている。「そうですな。もし一千ポンド出せば救われるというのであれば、そんなことは何ともありませんよ」。しかし、あなたの金銀は腐っている。それは何の役にも立たない。「ならば私は、下婢のベティと全く同じしかたで救われねばならないのですか?」 しかり。全く同じしかたでである。あなたが救われる道は他にない。それは人にエホバが神であられ、他に神はひとりもいないことを示すためである。賢い人は云う。「もしそれが最も不思議な問題を解決することか、世界最高の謎を解き明かすことだとしたら、私はそれをしたでしょう。私には何か謎めいた福音がないのですか? 私は何か謎めいた宗教を信じてはならないのですか?」 否、それは、「見よ!」、である。「何と! 私はあの、文字も読めない《貧民学校》のわらべと全く同じしかたで救われるしかないというのですか?」 しかり。そうしなくてはならない。さもないと、あなたは決して救われない。他の人は云う。「私は非常に道徳的で廉直に生きてきました。国の法律はみな遵守してきましたし、それ以外に何かしなくてはならないというなら、それをしましょう。金曜日には魚しか食べないとか、教会のあらゆる断食日を守ることによって救われるというのであれば」。否。あなたがそれで救われることはない。あなたの善行は何の役にも立たない。「何と! 私は娼婦や酔いどれと同じしかたで救われねばならないのですか?」 しかり。だれが救われる道も1つしかない。「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた」[ロマ11:32]。神は万人に断罪の宣告を下しておられる。それは、神の無代価の恵みが多くの人に臨んで救いへ至らせるためである。「見よ! 見よ! 見よ!」 これは単純な救いの方法である。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。

 しかし、最後に注目してほしいのは、神が人間の高慢を打ちのめし、ご自分を高く上げるために、いかなる人々に向かって、仰ぎ見よと命じておられるかである。ユダヤ人は、イザヤがこう云うのを聞いたとき、「あゝ!」、と叫んだ。「あなたは、『エルサレムよ。わたしを仰ぎ見て救われよ』、と云うべきであった。それならば正しかったろう。しかし、あの異邦人の犬ども、あれが仰ぎ見て救われるのだと?」 「しかり」、と神は云われる。「ユダヤ人よ。私はあなたに示すであろう。確かにわたしはあなたに多くの特権を与えてきたが、わたしはあなたにまさって他の人々を引き上げるであろう。私は、自分のものを自分の好きなようにすることができるのだ、と」。

 さて、地の果てのすべての者とはだれのことだろうか? 左様。今のあわれな異教国の中には、未開の、未教育の、野蛮人とごく僅かしか異ならないような国々がある。だが、もし私が行って砂漠を踏みしめ、その小屋の中に住んでいる叢林地土人を見いだすか、南洋に行って食人族を見いだすかしても、私はその食人族や叢林地土人に向かって云うであろう。「地の果てのすべての者よ。イエスを仰ぎ見て救われよ」。彼らは「地の果ての者」の一部であり、福音は雅なギリシヤ人や、洗練されたローマ人や、教養ある英国人だけでなく、彼らのもとにも送られているのである。しかし、私は「地の果ての者」ということで、キリストから最も遠く離れ去ってしまった人々のことが意味されていると思う。酔いどれよ。それはあなたのことである! あなたは千鳥足で後ずさりして行き、まさに地の果てまで行き着いてしまった。あなたは、ほとんどdelirium tremens[振顫譫妄症]患者である。これ以上悪くなりようがない。生きている者の中で、あなた以下の人間はいない。いるだろうか? あゝ! だが神は、あなたの高慢をへりくだらせるために、あなたに向かって云うのである。「わたしを見て救われよ」、と。別の婦人は、醜行と罪の生活を送っており、ついには自分を破滅させるまでになっている。サタンでさえ彼女を裏口から掃き出すと思われる。だが神は云われる。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。私は、この場に震えながらこう云っている人がいるような気がする。「あゝ! 私はそうした人々のひとりではありません。ですが、先生。私はもっと悪い人間なのです。私はずっと神の家に出席していたのに、罪の確信を押し殺し、イエスを求めるあらゆる思いを吹き消してきました。もうイエスは絶対に私などあわれんでくださらないと思います」。あなたは、「地の果ての者」のひとりである! そのように感じている人を見いだす限り、私は彼らに、あなたは「地の果ての者」であると告げることができる。「ですが」、と別の人は云う。「私は特別すぎます。もし私が今のような感じをしていなかったとしたら、万事問題はないのでしょうが、私は自分の場合は特別だと感じるのです」。それはみな結構なことである。彼らは特別の民である。あなたもそう感じるであろう。しかし、別の人は云う。「この世に私のような人間はいません。太陽の下のどこを探しても、私ほど多くの召しを受けてきながら、それを無視してきた者、私ほど多くの罪を首にかけている者はいないと思います。それに私は、自分の咎を他のどんな人間にも告白したいとは思いません」。やはりあなたは、「地の果ての者」のひとりである。それゆえ、私がしなくてはならないことはただ1つ、《主人》の名によってこう叫ぶことである。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」。しかし、あなたは罪が自分を見させようとしないと云う。私はあなたに云うが、罪はあなたが仰ぎ見る瞬間に取り除かれるであろう。「でも、そんな大それたことはできません。主は私を罪に定めるでしょう。怖くて仰ぎ見られません」。もしあなたが仰ぎ見なければ、主はあなたをもっと罪に定めるであろう。ならば、恐れて、仰ぎ見るがいい。だが、あなたの恐れによって、仰ぎ見ることをしないでいてはならない。「でも主は私を追い払うでしょう」。試してみるがいい。「でも私には主が見えません」。私はあなたに云う。これは見えるかどうかではなく、仰ぎ見るかどうかである。「でも、私の目は固く地に据えられていて、あまりにも地上的で、あまりにも世的です」。あゝ! だが、あわれな魂よ。主は、あなたが仰ぎ見て、生きるための力を与えてくださる。主は云っておられる。――「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。

 愛する方々。これを新年の聖句として受けとるがいい。主を愛するあなたがたも、また、主を仰ぎ見るのはこれが最初だというあなたがたも。キリスト者よ! あなたが今年くぐり抜けることになる、あなたのあらゆる困難の中にあって、神を仰ぎ見て救われるがいい。あなたのあらゆる試練と患難において、キリストを仰ぎ見て、解放を見いだすがいい。あなたにあらゆる苦悶の中で、あわれな魂よ。自分の咎ゆえのあなたのあらゆる悔い改めにおいて、キリストを仰ぎ見て、赦免を見いだすがいい。今年は、あなたの目を天に向け、あなたの心も天に向けることを覚えておくがいい。この日、あなたは自分の回りに黄金の鎖を見いだしていることを覚え、その1つの環を天国のつぼくぎにかけておくがいい。キリストを仰ぎ見よ。恐れてはならない。人が自分の目をイエスに注ぎながら歩くとき、つまずくことはない。星を見ていた人は溝に落ちたが、キリストを見ている人は安全に歩く。あなたの目を一年中上に向けているがいい。「を仰ぎ見て救われよ」。そして、覚えておくがいい。「が神である。ほかにはいない」。また、あわれな震えている者よ。あなたは何と云うだろうか? あなたはこの年、彼を仰ぎ見ることによって始めたいだろうか? あたは自分が今朝いかに罪深いか知っている。いかに自分が不浄の者であるか知っている。だがしかし、あなたが自分の会衆席の戸を開けて通路に出る前に、あなたが神の御前で使徒たちと同じくらい義と認められることは可能なのである。あなたの足があなたの玄関の敷居を踏む前に、あなたが背中に負っていた重荷がなくなり、こう歌いながら闊歩していくことはありえるのである。「われ赦されたり、われ赦されたり。われは恵みの奇蹟なり。この日にわれは、霊にて生まれぬ」、と。おゝ! 願わくは、あなたがたの中の多くの方々にとってこの日がそのような日となるように。そして、最後の日に私が、「見よ。私と、主が私に下さった子たちとは」[イザ8:18]、と云えるようになるように。罪を確信させられたこの罪人の言葉を聞くがいい! 「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた」[詩34:6]。おゝ! 主がいつくしみ深い方であることを味わい知るがいい[Iペテ2:3]! いま主を信ずるがいい。今あなたの咎ある魂を主の義の上に投げ出すがいい。今あなたの真っ黒な魂を主の血の池に沈み込ませるがいい。今あなたの裸の魂を豊かな饗宴の席に着かせるがいい。いま「見る」がいい! いかにこれは単純に思えることか! だがしかし、これはこの世で人々に行なわせるのに最も難しいことである。彼らは、恵みによって強いてそうさせられるまでは、決してそうしようとしない。だが、それはここにある。「見よ!」 この思いをいだきつつ家路につくがいい。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」。

 

主権と救い[了]

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