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至福の光景

NO. 61-62

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1856年1月20日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。――Iヨハ3:2


 この世のあらゆる願いの中で、最も自然な願いの1つは、だれか偉大で気高い人の話を聞いたとき、その人の姿を見たいと思う気持ちにほかならない。私たちは、高名な著者の作品を読むとき、その口絵をめくってその肖像を眺めるのが習い性となっている。大胆不敵な武勲を聞くときには、その戦士たちが街路を練り歩くのを窓に鈴なりになって眺めようとする。どこかに卓越して自分の務めに献身している聖人がいると聞くと、それほど際立って神が祝福なさった人を一目見るためなら、どこでどれほど待とうと気にならない。こうした感情が倍増しで強くなるのは、自分が相手の人と何か関わりがあるときである。その人が偉大な人だというだけでなく、私たちにとって偉大な人であるというとき、――単に良い人だというだけでなく、私たちに対して良い人であるとき、――ただ情け深いというだけでなく、私たちにとって個人的に情け深い人であるとき、――そのときには、その人の姿を見たいという望みは身を焼くほどの渇望へと高まり、その願いは飽くなきものとなり、その未知の人、これまで目で見ることのなかった贈り主、自分にとってこれほど驚くべき善行を施してくれた人をこの目で見るまで決して満たされなくなる。私の兄弟たち。私の確信するところ、あなたがたはみな、主イエス・キリストについて、こうした強烈な願いが自分の精神のうちに起こっていると告白するに違いない。私たちが、これほど恩義をこうむっている人はひとりもいない。これほどしばしば語ってやまない人はひとりもいないと思う。そして、これほど私たちが考えてやまない人はひとりもいない。いずれにせよ、いかなる人も、これほど絶えず私たちのことを考えていてはくれない。私たち、キリストの御名を愛するすべての者は、私の信ずるところ、主のお姿を見たいという、この上もなく飽くなき望みをいだいている。私が他の何にもまして祈り求めたいのは、永遠に主の御顔を眺め、永遠に主の御胸に自分の頭をもたせかけ、永遠に自分が主のものであることを知り、永遠に主とともに住むことである。左様。そのご栄光を垣間見ること、それを束の間でも見ること、かつては傷つけられたが、今や高く上げられて光輝く御顔を一瞬でも瞥見することは、ほとんど山ほどの困難にも報いるであろう。私たちには、主を見たいという強い願いがある。また私は、その願いが間違っているとも思わない。モーセでさえ神を見たいと願った。もしそれが下らない好奇心から出た悪い願いだったとしたら、かなえられなかったであろうが、神はモーセの願いをかなえてくださった。神は彼を岩の裂け目に入れ、その御手で彼を覆い、ご自分の衣のすそを見るように命ぜられた。神の御顔を見ることはできないからである[出33:18-23]。しかり。それ以上である。人々の中で最も善良な人の熱心な願いも、同じ方向を向いていた。ヨブはこう云っている。「私は知っている。私を贖う方は生きておられることを。このからだが虫に食われた後も、私は、私の肉から神を見る」*[ヨブ19:25-26 <英欽定訳>]。それが彼の願いであった。聖なる詩篇作者は云った。「私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」[詩17:15]。そして、ほとんどの聖徒たちは臨終の床において、その最愛の、心底からの、最も幸いな天国に対する願いを、「キリストとともにいること」への切望という形で表わしてきた。「そのほうが、はるかになさって」いることである、と[ピリ1:23]。そして、私たちの甘やかなイスラエルの歌い手は、同じことを見事に云い表わして、へりくだりつつ、また甘やかにもこう云っている。――

   「百万歳(とせ)もて この眸は見張らん、
    救いの主の 麗しきをば。
    無窮の代々に われはあがめん、
    わが主の愛の 妙なる不思議を」。

このような節があるのは私たちの喜びである。というのも、これは私たちの好奇心が満たされ、私たちの願いが完全にかなえられ、私たちの至福が完成させられると告げているからである。「《私たちはキリストのありのままの姿を見るからです》」。天国は私たちのものとなり、私たちが主について夢見てきたすべてのことは私たちのものとなって余りあるであろう。

 神の力強い御霊こそ、唯一私たちの口に言葉を授けることのできるお方であるが、その助けによって、まず第一に語りたいのは、この栄光に富む立場についてである。――「《キリストのありのままの姿を》」。第二に、キリストの個人的なありようである。――「私たちはキリストのありのままの姿を見る」。第三に、この明確な光景である。――「私たちはキリストのありのままの姿を《見る》」。そして第四に、実際にそうする者たちである。――「《私たちは》キリストのありのままの姿を見る」。

 I. まず第一に、《この栄光に富む立場》である。私たちの精神は、しばしば、キリストのかつてあられた姿を振り返り、そのような姿のキリストを見たいと願ってきた。あゝ! いかにしばしば私たちは、ベツレヘムで眠る赤子を見たいと望んできたことか! いかに切に私たちは、井戸のそばであの女と語っておられるお方を見たいと願ってきたことか! いかに頻繁に私たちは、病む者、死にかけた者の間を歩み、御手で触れてはいのちを与え、御口の息で癒しを与える、かのほむべき《医者》を見たいと望んできたことか! また、いかに頻繁に私たちの思いは、ゲツセマネへと引きこもり、そこに繰り広げられていた驚くべき壮観と私たちを隔てる千八百五十年の時を貫くだけの眼力を得て、主がそこであられた姿を見ることを望んだことか! だが決してそのような姿の主を見ることはないであろう。ベツレヘムの栄光は永遠に過ぎ去った。カルバリの暗黒は拭い去られた。ゲツセマネの場面は消滅した。タボル山における壮麗さすら、とうの昔に消え失せた。それらは、かつてあった物事である。それらが復活することもありえない。あの茨の冠も、槍も、海綿も、釘も、――今はない。かいばおけも岩の墓も去ってしまった。場所はあっても、それらはキリスト者の足で聖別されても血おらず、その主の臨在によって祝福されも、神聖にされもしていない。私たちは決してキリストのかつてあられた姿を見ることはない。私たちの空想でそれを描き出そうとしても、私たちの想像力でそれを形作ろうとしても無駄である。私たちがキリストのかつてあられた姿を見ることはできないし、そのようなことはありえない。それを望むことも許されない。というのも私たちには、より大きな約束があるからである。「私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。さあ、しばしこのことを、対照というしかたで眺めてみよう。そうするとき、きっとあなたは、キリストのかつてあられた姿を見るよりも、キリストが今あられるままの姿を見る方を好ましく思うに違いない。

 何よりもまず、考えてみるがいい。私たちが見ることになるキリストは、その受肉によって卑しめられた姿ではなく、その栄光によって高められた姿である。私たちが見ることになるのは、一手幅ほどの幼子ではない。私たちがあがめることになるのは、幼い男児ではない。私たちが向き合うことになるのは、大人になりかけの青年ではない。私たちは、燃える額から熱い汗をぬぐっている人をあわれむことになるのではない。真夜中の冷気に震える人を目にすることになるのではない。私たちと同じ痛みや、弱さ、悲しみ、疲れに苦しむ人を目にするのではない。眠りに疲れた目を見るのではない、労働にくたびれた手を眺めるのではない。力も尽き果てる辛い旅路のため血を流している足を眺めるのではない。魂に苦悩を覚えている人を見るのではない。卑しめられ、悲しみに満ちた人を目にするのではない。おゝ! その眺めは、はるかに素晴らしい。私たちは高く引き上げられたこの方を見る。その頭を見るが、そこにその茨の冠はない。

   「かつて茨を かぶりし頭(かしら)
    いまや栄光(さかえ)の 冠いだきぬ」。

その御手を見れば、釘跡も見えるが、釘は見えない。それは、ひとたび引き抜かれ、永遠に抜かれたままになっている。その脇腹を見れば、刺された傷跡も見えるが、そこから血が流れ出てはいない。私たちは、主が田舎者の衣裳をまとっている姿ではなく、宇宙という帝国をその双肩に担っている姿を見る。その手に葦を持った姿[マタ27:29]ではなく、黄金の王笏を持つ姿を見る。からかわれ、唾をはきかけられ、侮辱された姿でも、私たちの骨の骨として私たちのあらゆる苦悶と、患難と、苦悩を身に帯びた姿でもなく、高く上げられた姿の主を見る。もはやキリストは悲しみの人でも、病を知っている人[イザ53:3]でもなく、《人-神なるキリスト》、光彩を陸離と放ち、まばゆく光輝き、虹を衣とし、雲を帯とし、雷電に包まれ、星々を冠に戴き、太陽を足で踏みしめておられる。おゝ! 栄光に富む光景よ! このお方がいかなる姿をしておられるか思い浮かべられようか? いかなる言葉で告げられようか? あるいは、いかにしてそれを語れようか? だが、いかなるお姿であるにせよ、そのあらゆる光輝の覆いを除かれ、そのあらゆる栄光に全く曇りなく、全くご自分を露に示されて、――私たちはキリストのありのままの姿を見る

 また思い出すがいい。私たちが見ることになるキリストは、かつてあられたような軽蔑された姿でも、誘惑されている姿でもない。私たちが見てとることになるキリストは、決して荒野に座って、かの大逆者からこう語りかけられてはいない。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」[マタ4:3]。私たちが目にすることになるキリストは、決して神殿の頂にしっかと立ち、その聳え立つ高みから飛び降りるよう告げる悪い者に向かってきっぱり拒否してはいない。決して誘惑の山に立ち、悪魔にひれ伏すのと引き替えにこの世を差し出されてはいない。否。さらに私たちが見るキリストは、決してパリサイ人からからかわれ、サドカイ人から試みられ、ヘロデ党の者らから嘲笑されてはいない。私たちは、決してキリストが蔑みの指を突きつけられている姿を見ることはない。決して「酔っぱらいの大酒飲み」[ルカ7:34参照]と呼ばれている姿を見ることはない。決してそしられ、侮辱され、悩まされ、軽蔑されているイエスを見ることはない。主は決して私たちが顔をそむけるほど「さげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」[イザ53:3]お方として見られることはない。この目は決して、あのほむべき頬からつばきが滴るのを見ることはない。この手は決して、あのほむべき御手に、それが悪名に汚されているままふれることはない。私たちは決してキリストを人々から軽蔑され抑圧されているお方として見ることはない。むしろ、「私たちはキリストのありのままの姿を見る」。

   「もはやなし 血塗りし槍も
    十字架も 釘も。
    そは主の御名に 地獄(よみ)震え
    天(あま)つすべてぞ 崇(あが)むれば」。

誘惑する悪魔は全く主の近くにいない。というのも、かの竜は主の足の下にいるからである。侮辱する人間たちは全くいない。というのも、見よ! 贖われた者たちがその冠を主の足元に投げ出しているからである。悩ませる悪霊どもは全くいない。というのも、御使いたちが主への高き賛美を、黄金の街路の至る所で響かせているからである。君主たちは主の前にひれ伏し、島々の王たちは貢ぎ物を携えて来る。あらゆる国々が主に臣下の誓いをし、天地の大いなる神が主を照らして、大きな栄誉を主にお与えになる。愛する方々。私たちが目にするキリストは、忌み嫌われも、軽蔑されも、拒絶されもしておらず、礼拝され、あがめられ、冠を戴き、高くあげられ、火のように燃える霊たちによって仕えられ、熾天使や智天使らによって礼拝されている。「私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。

 さらに注意するがいい。私たちが見ることになるのは、痛みと戦っているキリストではなく、征服者としてのキリストである。私たちは決して主が葡萄の酒ぶねをひとりで踏んでいる姿[イザ63:3]を見ることはなく、私たちがこう叫ぶときの主を見るであろう。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は」[イザ63:1]。私たちは決して、主がその敵と激しく刃を切り結ぶ姿を見ることはない。むしろ、その敵を足の下に踏みしだいている主の姿を見る。決してその全身から血の汗を流している主の姿を見ることはない。むしろ万物を従わせ、地獄そのものをも征服された主の姿を見る。決して格闘者としての主の姿を見ることはない。むしろその賞をつかんでおられる主の姿を見る。決して塁壁を固く守っている主の姿を見ることはない。むしろその天守閣で勝利の剣を振っている主の姿を見る。決して戦う主の姿を見ることはなく、むしろ勝利を得て戦闘からお帰りになる姿を見て、こう叫ぶ。「冠ささげよ、冠ささげよ! 冠ぞ 勝者の額にふさわしき」、と。「私たちはキリストのありのままの姿を見る」。さらにまた、私たちは決して私たちの《救い主》がその御父の不興の下にある姿を見ない。むしろ御父の微笑みの下で栄誉を授けられている姿を見る。キリストの生涯の中で最暗黒の時は、その御父が主をお捨てになったとき、――御父の容赦ない御手がかの杯を御子ご自身の唇に突きつけ、それがいかに苦くとも、「飲むがいい、わが子よ。――左様、飲むがいい」、と云われたとき、――そして、身の裡に人間を有するこの《救い主》が、しばしの間、身震いし、――その苦悶の激しさのあまり、しばしの間、こう云ったときであった。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」[マタ26:39]。おゝ! 御父の耳が御子の嘆願に対してふさがれ、御父の目が御子の苦悶に対して閉ざされたとき、それは暗黒の瞬間であった。「父よ」、と御子は云われた。「この杯を取り除くことはおできになりませんか? あなたの峻厳な正義にとって、他に道はないのですか? 人間の救いのためには、他にいかなる手段もないのでしょうか?」 何1つなかった! あゝ! 主がこの苦よもぎと胆汁を味わったときは恐ろしい瞬間であった。そして、確かにそれよりさらに暗かったのは、あの悲しき真昼の真夜中に、太陽が暗黒の中にその顔を隠し、イエスが、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]、と叫ばれたときであった。信仰者よ。あなたは決してあの病んだ顔を見ることはない。決してあの青ざめた蒼白の額を見ることはない。決してあのあわれな傷つけられた額を見ることはない。決してあの涙に濡れた目を見ることはない。決してあの青白くやせ衰えたからだを見ることはない。決してあの疲れて、疲れ切った心を見ることはない! 決してあの極度の悲しみに満ちた霊を 見ることはない。というのも、御父は決してその御顔を今はそむけなさらないからである。むしろ、何をあなたは見るだろうか? あなたが見るのは、主がご自分の光と同じくその御父の光によっても照らし出されている姿である。その愛する《親》によって頬ずりされている姿である。その御父の右の御座に着いて、栄光を与えられ、永遠に高く上げられている姿である。「私たちはキリストのありのままの姿を見る」。

 ことによると、私はこの2つの光景――キリストがかつてあられた姿と、今あるままの姿――との違いを十分明確には示してこなかったかもしれない。ならば、もうほんのしばらく、語らせてほしい。それを、もう少し明確にしてみたいと思う。私たちがキリストのかつてあられた姿を見るとき、いかに私たちは驚愕させられることか。もしも私たちがオリーブ山に行き、私たちの《救い主》が汗を流しておられる姿を目にすることができたとしたら、私たちが真っ先にいだく感情の1つは驚愕であったろう。苦悶していたのが神の御子であると告げられたとき、その思いに私たちは両手を上げて、何も云えなくなったであろう。しかし、愛する方々。ならば、ここには違いがある。信仰者は、イエスがその御座に着く際の栄光を見るとき、主がその地上で苦しんでおられたのを見たときと全く同じくらい驚愕するであろう。だが、その一方では驚愕の後に恐怖が続いたであろうが、私たちが今のイエスのありのままの姿を見るとき、それは恐怖のない驚愕であろう。私たちは一瞬たりともその眺めを見て恐れを感じることはなく、むしろ、

   「われらが喜び 永久(とわ)にぞ巡る、
    天空(そら)の涯(きわ)越え
    遥けき地平(はて)越え」。

もし私たちにイエスのかつてあられた姿を見ることができたとしたら、私たちは大いなる畏怖をもって主を見たはずである。主が水の上を歩いておられるのを見たとしたら、私たちはいかなる畏怖を感じたことか! 主が死者をよみがえらせなさるのを見たとしたら、私たちは主をこの上もなく尊厳ある《お方》と思ったはずである。それと同じように私たちは、御座に着いておられるキリストを見るとき畏怖を感じるであろう。だが、前者の種類の畏怖は、恐れと混ぜ合わされた畏怖である。というのも、弟子たちは、水の上を歩いているイエスを見たとき、叫び出して恐れたからである[マタ14:26]。だが、私たちは、キリストのありのままの姿を見るとき、こう云うであろう。

   「荘厳(たか)き柔和(やさし)さ 座してあらん
    わが主の威ある 額にぞ」。

そのときの畏怖には、いかなる恐れも伴っていないであろう。――むしろ、それは恐れのない畏怖であろう。私たちはおののきながら主を拝むのではなく、喜びをもって拝むであろう。主の臨在に震えるのではなく、言葉に尽くすことのできない喜びをもって喜ぶであろう。

 さらに、もし私たちがキリストのかつてあられた姿を見たとしたら、私たちは大いなるを主に対していだいたであろう。だが、その愛にはあわれみが混ざっていたであろう。私たちは主のそばに立って見下ろし、こう云うであろう。

   「あゝ! わが主 血を流せしや、
    かくわが君の 死に給いしや?
    神聖(けだか)き頭 主はささげしか、
    この我れのごと 虫けらのため?」

私たちは、天でキリストのありのままの姿を見るとき、それと同じくらい、否、それ以上に主を愛するであろうが、それはあわれみの伴わない愛であろう。私たちは、「悲しいかな!」、とは云わず、こう叫ぶであろう。――

   「いざやイエスの 御名の力よ。
    天使らなべて 伏して拝めや。
    王の冠(かむり)を いざ持ち来たり
    御座にむかえよ、万物(すべて)の主(あるじ)と」。

 さらに云う。もし私たちがキリストのこの下界にあられた姿を見たとしたら、主が私たちを救いに来られたことを考えて、そこには喜びがあったであろう。だが、私たちに救われる必要があったことを思えば、そこには悲しみが混じり合わざるをえなかったはずである。私たちは、自分のもろもろの罪によって、主が死ななくてはならなかったことを嘆いたであろう。そして、喜びの歌と同時にではあれ、「悲しいかな!」という嘆きが発されたであろう。しかし、私たちが主を見るとき、そこには悲しみなしの喜びがあるであろう。罪も悲しみそのものも過ぎ去っているであろう。私たちの喜びは、きよく、混じりけのない、純粋な喜びであろう。

 さらにまた云う。もし私たちが、私たちの《救い主》のかつてあられた姿を見たことがあったとしたら、いかに主が征服なさったかを見て勝利感を覚えはしても、そこには気がかりがあったであろう。私たちは、主が征服できないのではないかと恐れたはずである。しかし、私たちが天界におられる主を見上げるとき、それは気がかりのない勝利感であろう。剣を鞘に納めよ。戦いには勝ったのだ。今やすべては終わった。「完了した」、と云われている。墓は過ぎ去った。門は開かれている。そして今では、このことにより、永遠に主はその御父の右の座に座っており、そこから主は再び来られて生きた者と死んだ者とを審くことになるのである。

 さてこうしたことが、その違いである。「私たちはキリストのありのままの姿を見る」。私たちは恐怖なき驚愕を、恐れなき畏怖を、あわれみなき愛を、悲しみ抜きの喜びを、気がかりなしの勝利感を感じることになる。それは栄光に富む立場である。あわれな言葉よ、なぜにお前は乏しいのか? あわれな口よ、なぜもっとうまく語れないのか? もしお前たちにそうできたなら、そうするであろう。というのも、お前たちの語っていることは栄光に富む事がらだからである。「《私たちはキリストのありのままの姿を見る》」。

 II. さて第二に語るべきことは、《個人的なありよう》である。ことによると、私が語っている間、ある人々はこう云っていたかもしれない。「あゝ! だが私はその《救い主》を見たいのだ。カルバリの《救い主》、ユダヤの《救い主》、私のために死なれたそのお方を。私はあなたが語ってきた栄光に富む《救い主》のことは、それほど何が何でも見たいとは思わない。私が見たいのは、愛のみわざを行なわれた《救い主》、苦しみを受けておられる《救い主》なのだ。その《救い主》をこそ私は愛しているからだ」。愛する方々。あなたはそのお方を見るであろう。それは同じお方である。そこには個人的なありようがある。「私たちはキリストを見る」。「わが目は主を見ん、余の目にあらず」。「私たちは《キリストの》ありのままの姿を見る」。私たちがまさに、まぎれもないキリストを見ると考えるのは魅惑的なことである。そして詩人はいみじくもこう歌っている。――

   「おゝ! いかに嬉しき 思いなるかや、
      下界(した)にて苦しみ
      愛顧(いつくしみ)をば
      我れと 愛する者らへと
    地上(ここ)にて 天界(うえ)にて
      現わせし人 やがて知るとは。
    いかに『永久(とわ)に』は 甘き言葉ぞ。
      とこしえに主を わがものと呼び
      絶えせず主をば わが前に置き
    永久(とわ)に御顔を 凝視(みつめ)おり
    主の集めたる 光箭(ひかり)に向かわん。
      御父を明らに 主は示せり、
     すべての聖徒に とこしなえまで」。

これこそ私たちが欲することである。――同じ《救い主》を見ること。左様、この同じ主をこそ私たちは天で見ることになるであろう。私たちの目が見るのは、このお方であり、他の何者でもない。私たちは、それが主であると確信するであろう。というのも、私たちが天国に入るとき、私たちは主をその人性と《神性》によって知るからである。私たちは主を人としても神としても知るであろう。そして私たちは他にはひとりも《人-神》がいないと確信するであろう。私たちはそのような他の者について決して読むことも夢見ることもない。あなたが天国に行き着いたとき、「人となられたキリスト・イエスはどこにおられますか?」、と尋ねなくてはならないなどと考えてはならない。《あなたは》自分の目の前にまっすぐ主の御座を見て、あなたと同じようなひとりの人を見るであろう。

   「光りて救世主(きみ)は 人のごと座す
    神なる主イェス いかに輝く」。

しかし、そのときあなたはキリストをその御傷によって知るであろう。あなたは、何年も前に行方不明になった子どもを、そのからだの痣や傷跡によって母親が見分けたという話を一度も聞いたことがないだろうか? あゝ! 愛する方々。もし私たちがひとたび私たちの主を見るなら、私たちは主をその御傷によって知るであろう。「しかし」、とあなたは云う。「それらはみななくなっているでしょう」。おゝ、否。というのも、

   「主はほふられし 小羊に見え
    祭司の衣 なおもまといぬ」。

その御手に釘こそないが、刺し貫かれた跡は今も残っている。その御足には、今も生々しい釘跡が残っている。また、その御脇腹は今もぱっくりと開いている。そして私たちは主の御傷によって主を知ることになる。聞くところ、ある人々が戦場で戦死者のひとりを探していたという。彼らは死体の顔を持ち上げてはのぞき込んだが、まるで見分けのつかない顔ばかりだった。しかし、そこに愛する夫を探しに来た妻がいた。彼女の夫の胸には、かつて戦闘中に軍刀で受けた深い傷があり、彼女は云ったという。「これが主人です。この傷跡でわかります」。そのように、天国で私たちは、たちまち私たちの《救い主》をその御傷で認め、こう云うであろう。「このお方です、このお方です。――このお方こそ、かつて、『彼らは私の手足を刺し貫いた』、と仰ったお方です[詩22:16 <英欽定訳>]」。

 しかし、愛する方々。そのときキリストと私たちは赤の他人ではない。というのも、私たちしばしばキリストを、このみことばの鏡の中で見てきたからである。聖霊によって私たちのあわれな目に目薬が塗られるとき、私たちは十分見知るに足るだけはキリストを垣間見ることがある。私たちは、映し鏡によってでなければ決してキリストを見ることがない。私たちが聖書を眺めるとき、キリストは私たちの上にいて、私たちを見下ろしておられた。そして私たちは、聖書を鏡のようにのぞき込んで、そこにキリストを「鏡にぼんやり映るもの」として見てきた。しかし、キリストを見知るに足るだけは見てきた。そして、おゝ、いざ私がキリストを見るとき、私はこう云うような気がする。「これこそ私が『雅歌』で読んだ花婿だ。確かにこれは、ダビデが常に歌っていたのと同じ主だ。私にはこの方がイエスであるとわかる。というのも、この方は今もなお、あのあわれな女に向かって、『わたしもあなたを罪に定めない』[ヨハ8:11]、と云われたイエスのように見えるからだ。――『タリタ・クミ』――『少女よ。あなたに言う。起きなさい』[マコ5:41]、と云われたほむべきイエスのように見えるからだ」。私たちは主を知るであろう。なぜなら、主は聖書のイエスと瓜二つで、私たちにはたちまち見分けがつくだろうからである。

 だがさらに、時として私たちは聖書によるよりも、ずっとよくキリストを知ることがある。――キリストとの近しく親密な交わりによってである。左様。私たちは時として暗闇の中でイエスと出会う。だが私たちは主と甘やかな会話を交わし、主はその口を私たちの耳元に寄せ、私たちの口は主の耳元に近づいて、互いに語り合う。おゝ! 私たちは主を見るとき十分に主を見分けるであろう。信仰者は、その《主人》を見いだしたとき、《主人》を見分けると請け合っていい。私たちは、天国に行ったとき、イエス・キリストを紹介してもらう必要はない。というのも、もし主がその御座から降りて、祝福された残りの霊たち全員とともに座っておられても、私たちはまっすぐに主のところに行き、「イエス様、私にはあなたがわかります」、と云うはずだからである。悪霊は主を知っていた。「自分はイエスを知っている」、と云ったからである[使19:15]。そして確かに神の民はイエスを知っているはずである。「自分はイエス様を知っています」、と私たちは、主のもとに行くなり云うであろう。「どうしてわたしを知っているのですか?」、とイエスは云われる。「だって、イエス様。私たちは他人ではありませんよ。あなたはご自分を、世には現わさないようなしかたで私に現わしてこられました。あなたは時々あれほどの恵み深いあなたの愛情のあかしを私に与えてくださいました。その私があなたを忘れてしまうなどと思われたのですか? そう、私は時としてあなたの御手と御足を信仰によって見てきました。昔トマスがしたように、私の手をあなたの脇に差し入れてきました。だのに私があなたと他人だなどとお思いになるのですか? いいえ、ほむべきイエス様。もしあなたが御手で御目を覆い、御顔をお隠しになったとしても、それでも私にはあなたがわかります。あなたがもう一度目隠しをされたとしても、私の目はあなたを見分けるでしょう。というのも、私は長い間あなたを知っていたので、あなたがどなたか疑うことなどできないからです」。信仰者よ。この思いをいだいて帰るがいい。「私たちはキリストを見る」。そのお立場がどれほど変わっていようと関係ない。それは同じお方であろう。私たちは、あの同じ刺し貫かれた御手、あの同じ倦み疲れた御足、あの同じ説教された口、あの同じ涙を流された目、あの同じ苦悶にあえいだ心を見るであろう。それは、まごうことなく同じお方であり、ただ周囲の状況が違うだけにすぎない。「私たちはキリストを見る」。《キリストを》という言葉を思いきり大きく書いておくがいい。「私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。

 III. ここから第三の点に移ることになる。――《この光景の明確な性質》である。「私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。現世は、まともな視界の開けた所ではない。これはキリストを見るには暗すぎる国であり、私たちの目はそれほど鋭くない。私たちは地上を、見るところによってではなく、信仰によって歩んでいる[IIコリ5:7]。主の恵みを信ずることは快いが、それよりはそれを見たいと思う。よろしい。「私たちはキリストを見る」。しかし、ことによると、あなたは、「私たちはキリストを見る」、というのは、キリストについてより多くを知ることだ、と考えているかもしれない。信仰によって、さらにはっきりとした見解をキリストについて得ることだ、と。おゝ、否。そうしたことでは全然ない。それは文字通りのこと――はっきりと眺めることである。私がそこにいる私の兄弟を見られるのと同じくらい明確に、私があなたがたの中のだれかを見えるのと同じくらい明確に、私はキリストを見ることになる。――この両の眼でも。あなたを眺めているこの両の眼で、私は《救い主》を見ることになる。私たちがキリストを見るというのは幻想ではない。この言葉を切り刻み出してはならない。あなたはその瓦斯灯が見えるだろうか? あなたは、それと同じようなしかたで《救い主》を見るであろう。――自然に、明確に、現実に、本当に見るであろう。あなたはキリストを夢見心地に見るのではない。詩的な意味において「見る」のではない。この言葉の比喩的な意味においてキリストを見るのではない。むしろ、明確にあなたは「キリストのありのままの姿を見る」であろう。「キリストを見る」。ここに注目するがいい。キリストについて考えるのでも、キリストについて夢見るのでもない。明確に「キリストのありのままの姿を見る」のである。そのように主を見ることは、地上で私たちが有することといかに異なっていることか。というのも、地上で私たちは主を映し見るからである。さて、先にあなたに告げたように、私たちはキリストを「鏡にぼんやり映るもの」として見ている。しかし、そのときには顔と顔を合わせて見るようになる[Iコリ13:12]。善良なるジョン・オーウェン博士は、その著書の1つでこの、「ここで私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」*という箇所をこう説明している。「ここで、私たちは望遠鏡を通してキリストを見ており、それを通せば、キリストはぼんやりとしか見えない」。しかし、この善良な人は、望遠鏡が発明されたのは、パウロがこの箇所を書いた何百年も後であったことを忘れていたのである。それでパウロが望遠鏡のことを念頭に置いていたはずはない。他の人々はこの言葉に別の意味を持たせようとしてきた。だが事実を云うと、その当時、鏡は決してそれを透かしてものを見るために用いられてはいなかったのである。人々はものを映すために鏡を用いており、透かし見るために用いてはいなかった。彼らが見るために有していた唯一の鏡は、文字通りの鏡であった。彼らには、私たちの黒い、ありふれた瓶硝子ほどしか反射しないような鏡があった。「ここで私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」*。つまり、鏡によってである。先に告げたように、イエスは聖書の中に描かれている。それは主の肖像画である。私たちは聖書を眺めて、それを見る。私たちは主を「鏡にぼんやり映る」ようにして見る。あたかも自分の鏡を眺めている際に、街路を歩くだれかが目に見えることがあるようにである。あなたはその人を目にしているのではない。その人の映像を見ているにすぎない。さて、私たちはキリストの映像を見ている。だがそのとき私たちは、キリストを鏡の中に見るのではない。明確にキリストご自身を見るのである。映し出されたキリストではなく、聖所の中にいるキリストではなく、聖書から輝き出ているだけのキリストでもなく、神聖な講壇から反射しているキリストでもない。「私たちはキリストのありのままの姿を見る」。

 また、地上で私たちはいかに部分的にしかキリストが見えないことか。最上の信仰者といえども、キリストの姿は半分も垣間見えないものである。地上にいる間、あるキリスト者はキリストの栄光に富む頭を見て、その来臨の希望を大いに喜ぶ。別の者は主の御傷を眺めて、常に贖いを説教する。別の者は主の心をのぞき込み、不変性と選びの教理とを最も喜ぶ。別の者はキリストの人性しか見ない! そして、信仰者に対するキリストの同情について大いに語る。別の者は主の《神格》の方についてずっと多く考え、あなたはその人が年がら年中キリストの神性について主張しているのを聞くであろう。私は、キリストのすべてを見たことのある信仰者がいるとは思わない。しかり。私たちは《主人》についてできる限り多くのことを宣べ伝えているが、主を完全に描き切ることはできない。その最上の名画の何枚かすら、あなたも知るように、頭と肩までしか示していない。それらは主の全身像を描いてはいない。いかなる信仰者も、いかなるえり抜きの神学者も、キリストの全身像を描き出せたことはない。あなたがたの中のある人々には、主の小指ほどしか描けなかったであろう。そして注意するがいい。もし私たちにイエスの小指ほども描き出すことができるとしたら、そのため一生涯を費やしても無駄ではないであろう。最上に描く人々でさえ、主の御顔を完全に描くことはできない。あゝ! 主はあまりにも栄光と驚異に富んでおられ、その完全な肖像を描くことはできないのである。私たちは主をせいぜい部分的にしか見たことがない。さあ、愛する方々。あなたはキリストについてどれだけ多く知っているだろうか? あなたは云うであろう。「あゝ! 私は主についてほんの少しは知っています。私は、花嫁が主のすべてがいとしいと云うとき[雅5:16]、それに唱和できます。ですが、私は主を頭の天辺から足の指先までしげしげ眺めたことはありません。そして、主の驚異に満ちた栄光について私は完全には説明できません」。ここで私たちはキリストを部分的に見ている。だが、かしこで私たちは完全にキリストを見ることになる。「私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。

 また、ここで私たちはいかにキリストをおぼろげに見ていることか! 今の私たちが自分の《主人》を眺めるのは、多くの影を通してである。ここで見る光景はまことにおぼろなものである。だが、かしこで「私たちはキリストのありのままの姿を見る」。あなたは一度も、谷間に霧が立ちこめる中で丘の頂上に立ったことがないだろうか? あなたは町や小川を見ようとして下を見下ろす。あなたに見えるのは、彼方の尖り屋根や、尖塔だけである。遠くに大聖堂が見える。だが、それらはみなあまりにも霧の中に包まれており、ほとんど見分けがつかない。突如、風が吹いてあなたの下の霧を吹き払うと、美しい美しい谷間が見える。あゝ! 信仰者が天国に入るときもそれと同じことである。地上では、霧に覆われたキリストを眺めている。――そのイエスは覆い隠されている。だが、天上に行き、ピスガの山上の、それより高みに、自分のイエスとともにあるとき、信仰者は主をおぼろに見るのではなく、明らかに見るであろう。私たちはそのとき、「間を隔てる垂れ幕なしに」、おぼろげにではなく、顔と顔とを合わせて見るのである。

 また、ここでは私たちは、いかに遠くにキリストを見ることか! ほとんど最果ての星のように遠い! 私たちには主が見えるが、近くには見えない。主を眺めるが、身近にではない。主の姿を多少は垣間見るが、おゝ! その間には何という距離と隔たりがあることか! 何という咎の山々――重き荷物か! しかし、そのとき私たちは主を間近に見る。顔と顔とを合わせて見る。人がその友と語るのと全く同じようにイエスと語り合う。いま私たちは主から遠く離れている。そのときには主の近くにいる。イエスが住んでおられる彼方の高地に、私たちの心もいるようになり、心とからだが「主のみもとにいる」ようになる[IIコリ5:8]。

 そして、おゝ! 私たちがイエスを眺めるのは何と束の間にすぎないことか! 私たちがキリストを垣間見るのは、ほんのしばしにすぎず、その後ではキリストは私たちから離れ去っていくように思える。私たちの戦車は時々、高貴な人の車[雅6:12]のようになる。だが、しばらくすると、その車輪はみななくなってしまい、私たちはほむべき主を失ってしまう。あなたは、今までの人生の中で、キリストの御前にいると圧倒的に感ずるあまり、自分が今どこにいるかほとんどわからなくなるようになった時がなかっただろうか? エリヤの戦車と火の馬について語るがいい。あなたは自ら火の上に乗っていた。自ら火の馬と戦車になり、易々と天国に上っていくことができた。しかし、そのとき突然、さながら氷の塊が心に落ちてきたように、その火が消されたのを感じたことが一度もなかったただろうか? こう叫んだことがなかっただろうか? 「私の愛する方はどこへ行かれたのか? なぜ御顔を隠してしまわれたのか? おゝ、何と暗いことか! 何とおぼろなことか!」 しかし、キリスト者たち。天国で御顔が隠されることは決してない! ほむべき主イエスよ! そこであなたの栄光にある御目が覆われることは決してありません! あなたの心は、私のすべての情動がうねる愛の海原ではないでしょうか? そして、甘やかなイエスよ。そこでは、あなたの海には何の引き潮もありません。あなたはすべてではないでしょうか? そこであなたを失うことは決してありません。――そこではあなたの御手が御目を覆うことはありません。むしろ、いかなる変わりも、いかなる変化も衰えもなしに、私たちの倦むことなき、曇りない両目は、永遠にわたって不断にあなたを眺めることでしょう。「私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」! ほむべき眺めよ! おゝ! それがいま来るならばなんと良いことか!

 それから、もう1つ違いがあることをあなたは知っているだろうか? 私たちが「キリストのありのままの姿を見る」とき、その眺めは、私たちが地上で見ている眺めよりも、いかにいやまさってすぐれたものとなるであろう! 私たちは、地上でキリストを見るときには、私たちの益となるために見る。かなたでキリストを見るときには、私たちが完成されるために見る。私は、私の《主人》のため証しをするが、私はいまだかつて主を見てもなお、主によって益を与えられなかったことがない。私たちは、この世にいる多くの人々をいくらしばしば見ていても、ほとんど何の良いこともなく、そうした人々を見なければ見ないほど良い。だが、私たちのイエスについては、こう云える。主の近くに行って、主から益を受けないことは決してない、と。主の衣に触れて、私の指が象牙のやかたからの没薬、アロエ、肉桂[詩45:8]を香らせるのを感じなかったことは一度もない。主の口元の近くに行って、その吐息そのものからも香りを浴びなかったことはない。いまだかつて私の《主人》のそば近くに行って、主が私のために何らかの罪を殺してくださらなかったことはない。私はこれまで主に近づいて、主のほむべき目によって自分の心から何らかの情欲を焼き滅ぼしていただかなかったことが決してない。主がお語りになるのを聞きに近づいて、《愛する方》がお語りになるとき自分が溶かされて、主のかたちに似る者とさせられるのを感じなかったことは一度もない。しかし、愛する方々。私たちが天で主を見るとき、それは私たちをより良い者とするためではなく、私たちを完全な者とするためである。「私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。おゝ! 私たちが肉体を離れたとき、最初に目にするキリストの甘やかな眺めよ! 私は襤褸を身にまとっているが、主は私をごらんになり、私は光の衣をまとう。私は黒いが、主は私をごらんになり、私はケダルの天幕を忘れ、ソロモンの幕のように白くなる[雅1:5]。私は汚れており、罪が私を眺め、私の着衣はよごれているが、見よ、私は吹き寄せられた雪よりも白い。主が私をごらんになられたからである。私には悪い願いと悪い思いがあるが、それらは主がこう云われるときに、悪霊たちのように御顔の前から逃げ散っていく。「引き下がれ、サタン。わたしが命ずる。この人から出て行け」*[マタ4:10; ルカ8:29]。「私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。愛する方々。私は知っている。《救い主》はあなたにとって大きな船のように思われる。そして、私は何艘かの小舟でその船を港から外に曳航しようとしているような気がする。それこそ私が自分自身について感じていることである。私には櫂があり、それを漕ごうとしている。だが、それは非常に雄大な船なので、私にはそれを引っ張ることができない。他のいくつかの主題についてなら、私はその舵を握って、どこにでも導いていくことができる。それらは、いかに水路が狭くとも、どんな港からであれ引き出すことができる。だが、これは堂々たる大艦である。――あまりにも巨大なために私たちではまず外海へ出すことができない。あなたのためにその帆を膨らませるには聖霊が必要である。聖霊によって初めて、あなたの魂全体がそのことに思いをひそめ、この驚異的な眺めについて考えたいと願うようになるのである。そして、そのときあなたは、この説教者に不満足をいだきながら去っていくであろう。なぜなら、あなたがたはこの主題が、彼をもあなたをも、全く征服してしまったように感じるだろうからである。

 IV. 最後に、ここには《実際にそうする者たち》がいる。「私たちはキリストのありのままの姿を見る」。さあ、愛する方々。来るがいい! 私はあなたがたを分割するのを好まない。私たちが心を尽くして愛し合っているに違いないというのに、あなたがたと私が2つに分かたれるのはつらいわざのように思える。あなたがたから受けとった一万もの親切なわざ、一万もの心こもった愛と同情の行ないは私の心を会衆の方々に固く結び合わせている。しかし、おゝ! 愛する方々。「私たちはキリストのありのままの姿を見る」、と云うとき、この「私たち」という言葉が、私たちの全員を意味していないことは明白ではないだろうか?――これは、この場にいるあらゆる人を含んではいない! 「私たちはキリストのありのままの姿を見る」! さあ、この「私たち」を、いくつもの「私」たちに分割しよう。この場には、「キリストのありのままの姿を見る」ことになる「私」たちが何人いるだろうか?

 頭に雪を戴く兄弟よ。あなたは「キリストのありのままの姿を見る」だろうか? あなたは、戦いと試練と困難の日々を多年にわたって経てきた。もしあなたが「キリストのありのままの姿を見」さえしたら、それはすべてを埋め合わせるであろう。「ええ」、とあなたは云う。「私は、自分の信じて来た方をよく知っています」[IIテモ1:12]。よろしい。兄弟よ。あなたの老いてかすんだ目は、じきに何の眼鏡も必要としなくなるであろう。「キリストのありのままの姿を見る」ことによって、あなたは、若い頃の明るく光り輝く目、その頃の炯々とした燃える目を取り戻すであろう。しかし、あなたの白髪頭は罪で満ちているだろうか? また、情欲があなたの老いて冷たい血の中にとどまっているだろうか? あゝ! あなたはキリストを見ることになるだろうが、間近にではない。あなたはその御前から追い出されるであろう。この腕が十分に力強く、あなたをひとりの《救い主》へと引き寄せることができればどんなに良いことか。だが、この腕にそのような力はない。私はあなたを神の御手にゆだねる。神があなたを救ってくださるように!

 また、中年に達している愛する兄弟、愛する姉妹よ。あなたは人生の辛苦と苦闘し、そのあらゆる戦いに従事し、その病を忍んでいる。もしかするとあなたは、自分はキリストを見ることになるだろうか、と自問しているだろうか? この聖句は、「私たちは見る」、と云っている。あなたや私は自分の手を胸に当てて、自分がキリストと結び合わされていることがわかるはずである。だとすれば、「私たちはキリストのありのままの姿を見る」のである。兄弟よ! 戦い続けるがいい! 悪魔に立ち向かうがいい! 悪魔を激しく攻撃するがいい! 恐れてはならない! キリストを見ることがあなたへの報いとなる。十字架の兵士よ。もう一度あなたの剣を研ぐがいい。そして、深々と切りつけるがいい。労している者よ! もう一度骨を折るがいい。深く鋤で掘るがいい。高く斧を振り上げるがいい。より逞しく、より頑健な腕をもって。というのも、最終的にあなたの《主人》を見るとき、それはあなたをことのほか喜ばせるからである。戦士よ、立てよ! 塁壁を攀じ登るがいい。勝利はその天辺に座って微笑んでおり、あなたはそこであなたの《指揮官》に会えるからである! あなたの剣があなたの罪の血煙を上げているなら、あなたの主人に会うことはまことに栄誉となるであろう。あなたは勝利を身にまとい、「キリストのありのままの姿を見る」のである。

 私と年代を同じくする若い兄弟よ。この聖句は、「私たちはキリストのありのままの姿を見る」、と云っている。この「私たち」は、そこの通路にいる青年を意味しているだろうか? その上のところにいる私の兄弟、あなたを意味しているだろうか? 私たちは「キリストのありのままの姿を見る」ことになるだろうか? 私たちは、この祈りの家で互いを兄弟と呼ぶことを恥じはしない。青年よ。あなたには母親があり、彼女の魂はあなたを愛してやまないでいる。あなたの母上がもし今朝あなたのところに来ることができたとしたら、彼女はあなたの腕をつかみ、こう云ったであろう。「ジョン。私たちは『キリストのありのままの姿を見る』ようにしましょう。私だけが、ひとりでキリストを見るのじゃないのよ、ジョン。あなたと私が一緒にキリストを見るの。『私たちはキリストのありのままの姿を見る』の」。おゝ! 私の魂を今いかに苦い、苦い思いがよぎったことか! おゝ、天よ。最後の精算の日が来たときに、もし私たちがかくも切に愛する人々からひき裂かれることになるとしたら! おゝ! もしも私たちがキリストのありのままの姿を見ることにならないとしたら! 私が思うに、ある息子の魂にとって、何にもまして胸を張り裂くような思い、それは、自分の母の子どもたちの何人かが神を見ることになり、自分はそうならないかもしれないということに違いない。たった今、私はある人からの手紙を受け取ったばかりである。その人は、「たくさんの人が東からも西からも来る」という《説教》を読んだことで、自分が神に導かれたと信じて神に感謝している。その人は云っている。「私は大家族の中に生まれ、私以外の全員が神を愛しております。ですが、おそらく自分としては何の気なしに取り上げたあなたの説教が、私を《救い主》に導いてくれました」。おゝ! 愛する方々。九人兄弟の最後のひとりを《救い主》のもとに至らせることを考えてみるがいい。私はひとりの母親の心を喜びで踊り上がらせたではないだろうか? しかし、おゝ! もしその青年が九人兄弟の中でただひとり失われ、自分の八人の兄弟姉妹が天国にいるのに、自分自身は打ち捨てられるを見ることになったとしたら、その人は九つの地獄を有することになると思う。――地獄で九倍も惨めになるだろうと思う。兄弟たちがひとり残らず、また母や父もともに受け入れられているのに、自分は打ち捨てられているのを見るのである。それは、家族全員の「私たち」ということにはならないであろう。

 私たちが、私たちの中のある者らが今日、互いに集まり、愛する者と抱擁し合い、ひとりも欠けのない家族として立っていられることは、何と喜ばしい思いであろう。――父も、母も、姉妹も、兄弟も、そしてその他の親しいあらゆる人々が立ち、謙遜な信仰によって、「私たちはキリストのありのままの姿を見る」――私たち全員が、ひとりも欠かさずに――と云えるとしたら! おゝ、愛する方々。私たちはパーク街にある1つの家族のように感じている。私自身そう感じている。あなたがたから離れているときに私は、この場所のような所はどこにもない、この神聖な場所から離れている痛みを埋め合わせるようなものは地上に何もない、と感ずる。どのようにしてか私たちは、このような愛の絆で互いに結び合わされているのを感じている! 先週の聖日に私が出席した場所で、教役者が会衆に与えたのは、この世で調合された中でも最悪のしろものであった。ウェスレー派のあわれな男よ! 彼は最初から最後まで行ないのことを説教した。主題となっていたのは、この美しい聖句――「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」[詩126:5]であった! 彼は私たちに向かって、私たちが蒔いたものは必ず刈り取ることになると告げながら、罪人のための救いについても、聖徒でさえ必要とする赦免についても、一言も口にしなかった。それは、おおよそ次のような具合だった。「善男善女になりなさい。そうすれば報いとして天国に入れるでしょう。あなたが蒔くものは何であれ確実に刈り取ることになります。もしあなたがたがとても善人で、自分にできる最善のことを行なうなら、あなたがたはみな天国に行くでしょう。ですが、もしあなたがたが非常によこしまな悪人なら、地獄に行かなくてはならないでしょう。そう告げることは残念ですが、あなたは蒔いたものを何であれ刈り取ることになるのです」。イエス・キリストについては、これっぽっちもなかった。最初から最後まで、ひとかけらもなかった。「よろしい」、と私は思った。「人は私がこうしたアルミニウス主義者の連中に厳しすぎると云う。だが、再び彼らの話を直接耳にした上で、私が彼らに対して自分の古い剣を以前よりも手ぬるく振り下ろすようなことがあるとしたら、私は生きた人間ではない!」 私は、彼らが多少は変わったかもしれない、それほど行ないについて説教してはいないかもしれない、と思っていた。だが私は確信している。教皇その人が説いた説教の中にも、あれほど行ないによる救いを満載した説教は1つもなかったに違いない。彼らは、行ないによる救いを信じている。口で何と云っていようと、人から問いつめられたときいかに否定しようと関係ない。というのも、彼らはあれほど年がら年中善人になれ、正しくあれ、敬虔であれと告げていながら、最初にあなたの目を、死に行く《救い主》の血が流れる御傷へとは決して向けようとしていないからである。あなたを途方もない数の罪の中から連れ出す神の無代価の恵みについては決して告げようとしていないからである。逆に常に、被造物の中には決して見いだされないような善良さ、善良さ、善良さを語っているからである。

 よろしい。愛する方々。どういうわけかわからないが、私たちは、いずこへ行こうと、ここに立ち戻ってこざるをえないように思われる。

   「ここに住まうは わが親友(とも)親族(みうち)。
    ここで統(す)べるは 《救主》(すくい)のわが神」。

そして、あなたがたのひとりを失うと考えることは、ほとんど自分の親族を失うと考えるのと同じくらい私にとって悲しいことである。いかにしばしば私たちは喜びのうちに見つめ合ってきたことか! いかにしばしば私たちは相会い、同じ古い歌を、同じ古い節回しで歌ってきたことか! いかにしばしば私たちは祈りをともにしてきたことか。そして、いかに親しく私たちはみな、「恵み、恵み、恵み!」という言葉の響きを愛していることか。だがしかし、あなたがたの中のある人々は、私が心の中で知っているように、また、あなたがた自身も知っているように、キリストを見るためには1つの変化をこうむらなくてはならない。――新しい心と正しい霊を有さなくてはならない。よろしい。あなたは最後の審判の日に自分の牧師と出会って、自分が彼の警告を顧みず、彼の招きをどうでもよいとして放り投げたがために、彼と別れなくてはならないと感じたいだろうか。青年よ。考えるがいい。あなたは私と最後の審判の日に出会って、そこで自分が何と聞いてきたか、何を無視してきたか思い出したいのだろうか? また、考えるがいい。あなたはあなたの神の前に立ち、思い出したいのだろうか?いかに救いの道があなたに宣べ伝えられていたか――「主イエス・キリストを信じてバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:23: マコ16:16参照]――、だが、いかにあなたがその使信を無視してきたかを。これは実に悲しいことである。しかし私たちは、この考えをあなたにゆだねておこう。そして、万が一あなたが、自分は立派な者にならなければ主を見ることがないのだとか、――善人にならなければ主を見ることがないのだとか、――これこれの善行を行なわなければ主を見ることがないのだとか思うことがないように、一言あなたに云わせてほしい。いかなる者であれ、――たといその人が天の下で最悪の罪人であっても、――たといその人の生活がだれよりも不潔でだれよりも腐敗していたとしても、――たといその人が今の今までだれよりも放蕩無頼に生きてきた人であったとしても、――いかなる者であれ、主イエス・キリストを信じるならば永遠のいのちを得るのである。というのも、神はその人のもろもろの罪を拭い去り、その人にイエスを通して義を与え、愛する者にあってその人を受け入れ、そのあわれみによってその人を救い、その恵みによってその人を保ち、そして最後には、しみなく、過ちない者となったその人を、この上もない喜びとともに御前に立たせてくださるからである。

 私の愛する方々。1つの甘やかな思いをもって、今しめくくることにしよう。すなわち、あなたがたの中の大多数の人々について、私はこう云える。「私たちはキリストのありのままの姿を見る」、と。というのも、あなたも知るように、私たちが聖餐台の回りに座るときには、この会堂の一階全体が人で埋め尽くされ、私はこの場にいる半分の人々は神の民であると信じているからである。というのも、多くの教会員の方々は夜に行なわれる聖餐式に集うことができないと私は知っているからである。兄弟たち。私たちには1つの心、1つの魂がある。――「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」[エペ4:5]。私たちは、この地上では、しばし間を裂かれるかもしれない。ある人々は、私たちの愛するミッチェル兄弟のように、私たちよりも先に死ぬかもしれない。ある人々は、私たちの番が来るよりも前にかの流れを渡るかもしれない。だが、私たちは、その川の向こう岸で再び相会い、「キリストのありのままの姿を見る」であろう。


《講解》

Iヨハ3:1-10

1. 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです」。
2. 「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。

親愛なるホーカー博士がこの箇所に関して云うところ、ここには、一言一言に1つの章が、一文字一文字に説教が込められているという。いかにこれが、「見よ」<英欽定訳> という言葉で始まっていることか! これは神聖な聖書の中でも特筆すべき箇所であるため、聖霊はこれに格別な注意を払わせたいと願われたのである。「見よ!」、と御霊は云われる。「そうしたければ他の聖書の箇所は走り読みするがいい。だが、ここでは立ち止まれ。私は1つの道しるべを立てて、これらの言葉の下には、抜きんでて注意を払うに値するものが埋蔵されていることをあなたに告げているのである」。「見よ。御父はどんなにすばらしい愛を私たちに与えてくださったことでしょう」<英欽定訳>。私たちがいかなる者であったか、また今の私たちがいかなる者であるか考えてみるがいい。左様。天来の恵みが私たちの中で力強く働いているときでさえ、私たちが自分をいかなる者であると感じるか考えてみるがいい。だがしかし、愛する方々。私たちは神の子どもと呼ばれているのである。伝えられるところ、ひとりの学識ある異教徒がこの箇所を翻訳していたとき、彼は筆を止めて、云ったという。「否。これはありえないことだ。ここは『子ども』ではなく『臣』としておこう。というのも、われわれが『神の子ども』と呼ばれることなど不可能だからだ」、と。子どもはその父親に対して、何と高い関係にあることか! 子どもはその父親から、何という様々な特権を受けていることか! 子どもは何と自由にその父親に対してふるまえることか! そして、おゝ! 何という従順を子どもはその父親に対してささげるべきであり、何という愛を父親は子どもに対して感じることか! しかし、それらすべてを、そしてそれら以上のことを、いま私たちは、キリストによって得ているのである。「見よ!」、御使いたちよ! 立ち止まれ、熾天使たちよ! ここには碧玉の城壁を有する天国よりも驚くべきものがある。見よ、宇宙よ! 目を開け、世界よ。「見よ。私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです」*。よろしい。私たちは、神の謙遜さにおいて、神と立場をともにすることで満足である。やがて、神とともに高くあげられることになるからである。

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」。このことは、さらりと読めるが、実感するのは容易ではない。「私たちは、今すでに神の子どもです」。今朝のあなたの心はどうだろうか? あなたは、悲しみと苦しみのどん底にあるだろうか? 「あなたは、今すでに神の子どもです」*。腐敗があなたの霊の中に立ち上り、恵みは足で踏みにじられるあわれな火花のように思われるだろうか? 「愛する者たち。あなたは、今すでに神の子どもです」*。あなたは、ほとんど信仰を失っているだろうか? また、あなたの種々の恵みは、風で吹き消されんばかりの蝋燭のようになっているだろうか? 恐れてはならない。愛する者よ。あなたが生きるたよりにすべきは、あなたの種々の恵みでも、あなたの心持ちでも、あなたの感情でもない。あなたは単純に、キリストを信ずる裸の信仰によって生きなくてはならない。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」。こうしたすべてのことが私たちに反していても、悪魔がその足を私たちの首にかけていても、彼の手にした剣が私たちをすぐにも殺そうとしていても、――愛する者よ。今すでに、私たちの悲しみの最底辺にあっても、私たちがどこにいようと、――今すでに、谷底にあっても山頂にあっても同じように、地下牢にあっても王宮にあっても同じように、苦しみの車輪に砕かれていても勝利の翼に乗って高く上げられていても同じように、――「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」。「あゝ!」、とあなたは云う。「私がいかなる姿をしているか見てください! 私の種々の恵みは輝いていません。私の義はあからさまな栄光の光を放っていません」。しかし、次を読むがいい。「後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています」。私たちは、今はそれほど主と似ていないが、もう少し精錬過程を経ることになっている。そして、死そのもの――あらゆる友人の中でも最上の友――がこれから私たちを洗いきよめることになっているのである。「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。

3. 「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」。
4. 「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです」。
5. 「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません」。

信仰者よ。これらの言葉は2つの意味に読むがいい。キリストが現われたのは、あなたが犯してきたもろもろの罪を取り除くためであった。そして、それをキリストは成し遂げられた。「正しい方が悪い人々の身代わりと」なり[Iペテ3:18]、彼らの罰をになわれたときに成し遂げられた。また、キリストが現われたのは、あなたのもろもろの罪の力を取り除くためでもあった。すなわち、あなたの中で威を振るっている種々の情欲を打ち負かし、あなたの邪悪な想像を取り除き、あなたをきよめ、あなたをご自分と同じようなものとするということである。よろしい。愛する方々。だれかが私たちのもろもろの罪を取り除くために現われてくださったとは、何というあわれみであろう! というのも、私たちの中のある者らは、自分の罪を打ち負かそうと長年にわたって苦闘してきたのに、それができずにいるからである。私たちはそれらを追い払ったと思ったが、それらは「鉄の戦車」[士1:19]を持っており、私たちはそれらに打ち勝てなかった。それらは「山地に」住んでおり、私たちはそれらに近づくことができなかった。いかにしばしば1つの戦いでそれらを負かしても、それらは、いなごの軍隊のように密集して強力に私たちに押し寄せてきた。いかに当たるを幸い打ち殺しても、それらは以前より全く少なくなったようには見えなかった。あゝ! だが、ここに1つの考えがある。――それらはみな取り除かれるのである。「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています」。そして、キリストはそうしてくださる。やがて来たるべき時には、あなたや私が神の御座の前でしみや傷のない者として立つことになる。というのも、このときには彼らは「神の御座の前で傷のない者」[黙14:5 <英欽定訳>]となるのであり、私たちもまもなくそうなるからである。

6. 「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです」。

この平易で単純な節は、完全の教理を信ずる一部の人々によってねじ曲げられてきた。彼らがこの節をして宣言させているところ、ある人々がキリストのうちにとどまり、それゆえ罪を犯さなくなることは可能であるという。しかし、見ればわかる通り、これはキリストのうちにとどまるある人々は罪のうちを歩まないと云ってはおらず、キリストのうちにとどまるいかなる人も罪のうちを歩まないと云っているのである。「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません」。それゆえ、この箇所は、私たちのアルミニウス主義者の友人たちの、いわゆる第四段階の完全に達した僅かな人々にあてはめるべきではなく、むしろすべての信仰者にあてはめるべきものなのである。そしてキリストにあるあらゆる魂について、その人は罪のうちを歩まないと云えるのである。聖書を読むとき、私たちは、それを単に他の本を読むときのように読む。決して説教者が自分の主題聖句を読むときのように、一語一語から何かを引き出そうと手ぐすね引きながら読むべきではない。むしろ私たちは、それが記されている通りに読むべきである。「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません」。さて確かにこれは、その人が罪を全く犯さないということではありえない。むしろこれは、その人が習慣的には罪を犯さない、故意には罪を犯さない、最終的に罪を犯して滅びに至ることはない、ということである。聖書はしばしばある人を義人と呼んでいる。だが、それは、その人が完全に義であるという意味ではない。聖書はある人を罪人と呼ぶが、それはその人がその生涯で何1つ良いことを行なったことがないということではなく、それがその人の全般的性格だということである。キリストにとどまる人についても同じである。その人の全般的性格は、その人が罪人であるということではなく、その人が聖徒だということである。――その人は公然と人々の前で意図的に罪を犯すことはない。その人自身の心の中では、告白すべき多くのことがあるが、同胞の前におけるその人の生き方は、このように云えるようなものなのである。「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪[すなわち、世間で大多数の人々がふけっているようなもろもろの罪]のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです」。

7. 「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです」。

これが、そのしるしである。行ないは恵みの実である。「その人は正しいのです」*。――自分自身で正しいのではない。というのも、いかに種々の恵みがここに入り込んでいるか注目するがいい。――「その人は、《キリストが》正しくあられるのと同じように正しいのです」。これは、私たちの義が私たち自身のものとなることを許さず、私たちを再びキリストのもとに連れて行く。「義を行なう者は」、その人自身の行ないに従ってではなく、「《キリストが》正しくあられるのと同じように正しいのです」。良い行ないは、私がキリストにあって完璧な義を有していることを証明する。そうした行ないは、キリストの義を助けるものではないし、いかなる意味でも私を義とするものではない。それらの唯一の役目は、それらが私たちの慰めとなり、他の人々の益となり、神の栄光のためとなるということである。「義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です」。

8. 「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」。
9. 「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです」。
10. 「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」。

実際的な敬虔こそ敬虔さの魂である。もし私たちが常にそう覚えていられるとしたら、どんなに良いことか。キリスト教信仰について語ることではなく、キリスト教信仰を歩むことこそ、ある人の真摯さを証明するのである。それは、信仰的な舌を有することではなく、信仰的な心を有することである。信仰的な口ではなく、信仰的な足である。最高の証拠は魂の救いである。口舌の徒よ、立ち去れ! ただ信仰を告白するだけの形式主義者よ、行ってしまえ! あなたがたの道は地獄に至り、あなたがたの終わりは滅びとなる。というのも、「義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」。

 

[了]

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