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天国と地獄

NO. 39 - 40

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1855年9月4日、火曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ハクニー区、エドワード王通りの広場にて


「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです」。――マタ8:11、12


 この国は、はっきりした物云いが許されている国であり、かつ、注意に値することを告げる人間の云い分であれば、人々が、いつでも公平に聞いてくれようとする国である。今晩、私は、きわめて熱心な聴衆を前にしているに違いないと思う。あなたがたのことをよくよく心得ている私には、そうでないとは考えられないのである。この広場は、あなたがたもご存知の通り、私有地である。そこで、野外説教をしようと外に出る方々に、ちょっとした心得を1つ与えておこう。――広場や、更地の中に入る方が、道をふさいだり、商売の邪魔をしたりするよりもずっと良い。さらにそれよりすぐれているのは、だれかに庇護された場所にいることである。そうすれば、集中が途切れることは、一気になくなってしまう。

 私は今晩、できればあなたがたを励まして、天国への路に向かわせたいと思う。だが、地獄の穴の中で失われる人々の末路についても、いくつか厳しいことを口にしなくてはならない。こうした主題の双方を、私は、神の御助けによって吟味し、語るであろう。しかし私はあなたがたに切に願いたい。自分の魂を愛しているというなら、今晩、何が正しくて何が間違っているかを、はかりにかけてみてほしい。私の云うことが神の真理であるかどうかを見てとるがいい。もしそうでないなら、それを完全に拒否して、打ち捨てるがいい。だが、それが真理である場合、それを顧みなければ危険に陥るであろう。というのも、あなたが天と地の偉大な《審き主》、神の前で申し開きをするとき、神のしもべとその聖書とを蔑んだ過去があると、あなたにとって具合のよくないことになるであろうからである。

 本日の聖句には、2つの部分がある。第一の部分は、私の思いにとって好ましく、また快く感じられるが、第二の部分は極度に恐ろしい。だが、どちらも真理なので、説教されなくてはならない。本日の第一の部分はこうである。「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」。私が、暗黒で、暗くて、怯えさせられる部分と呼ぶ所では、こう宣告されている。「しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです」。

 I. では第一の部分を取り上げてみよう。ここには、《この上もなく栄光に富んだ約束》がある。もう一度読んでみよう。――「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」。私がこの聖句を好きなのは、これが天国とはいかなるものかを告げており、その美しい姿を描き出しているからである。それによると、天国とは、私がアブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着く場所にほかならない。おゝ、これは労働者にとって何と甘やかな思想であろう。その人はしばしば顔から熱い汗をぬぐい、自分がもう骨折り仕事をしなくともよい国などあるのだろうかと思う。その人が食べる一口のパンといえば、ほとんどいつも額の汗に濡れたものばかりである。その人はしばしばくたくたになって家に帰り、寝床に倒れ込む。眠れないほど疲れ切っているかもしれない。その人は云う。「おゝ! 私が休むことのできる国はないのだろうか? 私が座って、一度だけでもこの疲れた手足をいこわせることのできる場所はないのだろうか? 私がのんびりしていられる国はないのだろうか?」 しかり。骨折り仕事と労苦の子よ。

   「幸いの住む 国ぞある
    はるか遙かの 彼方には」――

そこでは骨折り仕事も労苦も知られていない。向こうの青い大空の彼方には、美しく輝く1つの都がある。その城壁は碧玉であり[黙21:18]、その光は太陽よりも明るい[黙21:23]。そこでは「悪者どもはいきりたつのをやめ、かしこでは、力のなえた者はいこう」*[ヨブ3:17]。不滅の霊たちがそこにいる。彼らは決してその額から汗をぬぐうことがない。「種蒔きもせず、刈り入れもしない」*[マタ6:26]からである。彼らには骨折り仕事も労苦もない。

   「そこに緑と 花咲く山あり
    疲れし魂 座りていこい
    尽きぬ喜び もて語るらん
    かつて踏み来し 労苦(くるしみ)を」。

私が思うに、天国のとらえ方として最も素晴らしいのは、それが安息の国であるということである。――特に労働者にとってそうである。重労働をしなくともよい人々は、やがて天国を奉仕の場として愛することになるだろうと考えている。それは、きわめて正しい。しかし、労働者にとって、自分の頭と手で骨折って仕事をしている人々にとって、自分がいこいを得ることになる国があるというのは、常に甘やかな考えであるに違いない。まもなく、この声は二度と張り上げられなくなるであろう。まもなく、この肺は二度と力をふりしぼられなくなるであろう。まもなく、この頭は考えをしぼり取られなくなるであろう。むしろ、私は神の宴会の席に着く。しかり。私はアブラハムの胸に身をもたせ、永遠にやすらぐことになる。おゝ! アダムの疲れ切った子らよ。あなたは天国では、鋤の刃をかたくなな土壌に突き込むことをしなくてよい。日の昇る前から起き出して毎日の骨折り仕事に出ることも、日がとっくに寝込んでしまった後でまだ労苦することも必要ないであろう。むしろあなたがたは、あくせくせずに、ゆったりと身を休めるであろう。天国では、すべての人が裕福で、すべての人が幸せで、すべての人が安らぎを得ているからである。骨折り仕事や、困難や、苦しみや、労苦といった言葉は、天国にはありえない。そこでは人々がそのようなものを何も経験しない。彼らは常に休んでいるからである。

 また、彼らが席をともにする素晴らしい人々に注目するがいい。彼らは、「アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着」くことになる。ある人々は、天国ではだれかれの見分けがつかないと考えている。しかし、本日の聖句はここではっきりと、私たちは「アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着」く、と云っている。ならば確かに、私たちは彼らがアブラハムであり、イサクであり、ヤコブであることに気づくはずである。聞いた話だが、ある善良な婦人が、いまわの際に、その夫にこう尋ねたという。「ねえあなた。私たちが天国に行ったら、あなたは、私を見分けられると思う?」 「お前を見分けられるかって?」、と夫は云った。「この世にいる間、私はお前のことをずっと知ってたんだよ。だのにお前は、天国に行ったとき私が今より馬鹿になると思うのかい?」 これは非常に良い答えだと思う。もし私たちがこの世で互いに見知っているとしたら、天国でも互いに見知ることになるであろう。そこには、世を去った私の愛しい友人たちがいる。そして、私にとって常に甘やかな思いをかき立てるのは、私が、望み通りに、天国の敷居に足を置いたとき、そこに私の姉妹や兄弟たちがやって来て私の手を取り、「あゝ、愛する人よ。あなたも来ましたね」、と云ってくれることである。先にみまかった愛する親戚たちと、あなたは天国で再会するであろう。あなたがたの中のある方は、母親を亡くしている。――母上は天に行かれた。そして、もしあなたがイエスの足跡を辿るなら、そこで母上と会うであろう。さらに他の人々もあなたを出迎えにパラダイスの門までやって来ると思う。また、天性の情愛の絆は、ある程度忘れられているであろうが、――こういう比喩を用いることは許されるであろう。――あなたの母上は、神に向かってこう云うとき、いかに幸いを感ずるであろう。「さあ、私と、あなたが私に賜わった子たちです」[ヘブ2:13参照]。私たちは、自分の友人たちを認めるであろう。――夫よ。あなたは再びあなたの妻を見分けるであろう。母親よ。あなたは、あなたの愛しい赤子たちを見分けるであろう。――あなたは、その子たちがあえぎながら、苦しい息をしていた時の表情を一心に見守っていた。冷たい土がその子たちの上にかぶせられたとき、また、「土は土へ、ちりはちりへ、灰は灰へと還る」、と語られたとき、いかにあなたが墓にすがりついたかを覚えている。しかし、あなたがたは、あの愛しい声をもう一度聞くのである。あの甘やかな声がまた聞こえるのである。やがてあなたがたは、自分の愛した子たちが、神に愛されていたことを知ることになるのである。何の知り合いも知人もいないとしたら、天国は陰鬱な住まいになるではないだろうか? 私はそんな天国に行きたいとは全然思わない。私の信ずるところ、天国は聖徒たちの交わりであり、私たちはそこで互いに見分け合うはずである。私はしばしば、ぜひイザヤに会いたいと考えてきた。そして、天国に着くや否や、私は彼を訪ねるだろうと思う。なぜなら、彼はイエス・キリストについて他の誰よりも多く語ったからである。私は、ジョージ・ホイットフィールドを見つけ出そうと思うに違いない。――人々にあれほど絶え間なく説教していた、また、熾天使すら超える熱心で身をすり減らした彼を。おゝ、しかり! 私たちには、天国に行ったとき、えり抜きの仲間がいるであろう。そこには、知識人と無学者、教職者と平信徒などの区別は何もなく、私たちは一団となって、はばかりなくともに歩むであろう。自分たちが兄弟であると感じるであろう。私たちは――「アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着く」であろう。ある貴婦人の話だが、臨終の床についていた彼女を、ひとりの教役者が訪問した。彼女は彼に云った。「私は1つ、死ぬ前に、あなたに質問したいことがございますの」。「よろしい」、と教役者は云った。「何ですかな」。「おゝ!」、と彼女は非常に熱のこもった様子で云った。「私、天国には2つの場所があるかどうか知りたいんですの。だって台所の、あのがさつなベッツィーが私と一緒に天国にいるなんて耐えられませんもの」。教役者は向き直って云った。「おゝ、そんなことでお悩みになることはありません。奥様。ご心配はありませんよ。あなたがその呪わしい高慢をなくさない限り、絶対に天国には入れないでしょうからな」。私たちはみな、私たちの高慢をなくさなくてはならない。身を低めて、神の御前で平等な立場に立ち、あらゆる人のうちに兄弟を見てとるのでない限り、栄光のうちに見いだされる望みはない。左様。神はほむべきかな。感謝すべきことに神は、ある者と別の者とに、別々の食卓を据えたりなさらないであろう。身分の高い者も低い者も、同じ牧場で養われ、私たちは「天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着く」であろう。

 しかし、本日の聖句には、さらに大きな甘やかさの深みがある。というのも、ここでは、「たくさんの人が来て、食卓に着きます」*、と云われているからである。どこかの心の狭い頑迷な人々によると、天国は非常に小さな場所であり、自分たちの会堂、あるいは自分たちの教会に通っている、ごく僅かな人々しかいないのだという。正直云って私は、非常に小さな天国になど全然行きたくない。そして、ありがたいことに聖書には、私の父の家には住まいがたくさんあると記されている[ヨハ14:2]。何としばしば私たちは人々がこう云うのを聞くことであろう。「あゝ! 門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです[マタ7:14]。天国には、ごく僅かな人しかいないでしょう。ほとんどの人は失われてしまうでしょう」、と。愛する方々。私の意見は違う。あなたは、キリストが悪魔に打ち負かされるのに甘んずると思うだろうか? 悪魔が地獄で有する人数の方が、天国にいる人数よりも多いなどと思うだろうか? 否、そのようなことはありえない。というのも、そんなことになれば、サタンがキリストを笑うだろうからである。天国には、失われた人々よりも多くの人々がいるであろう。神は云われる。「だれにも数えきれぬほど大人数の者が救われるであろう」、と[黙7:9参照]。だが神は決して、だれにも数えきれぬほど大人数の者が失われるとは仰っていない。実に無数の人々が天国に行くであろう。あなたや私にとって、何と喜ばしい知らせであろう! というのも、もしこれほど多くの人々が救われるとしたら、なぜ私が救われないわけがあるだろうか? なぜあなたが救われないわけがあるだろうか? なぜこの群衆の中の、そこの向こうにいる男性が、「私はその大人数の中のひとりにはなれない」、と云わなくてはならないだろうか? また、そこの貧しい女性が勇気を奮い起こして、「そうね。もし五、六人しか救われる人がいないとしたら、私がそのひとりになれない恐れはあるけれど、たくさんの人が来るとしたら、なぜ私も救われないわけがあるでしょう」、と云ってならないだろうか? 憂いに沈む人よ。元気を出すがいい! 嘆きの子よ、悲しみの子よ。元気を出すがいい! あなたにも、まだ望みはある! 私は、神の恵みの及ばないような人と出会うことは決してないであろう。ごくまれに死に至る罪を犯す人もいるにはいるが、人類の大部分は、まだ主権のあわれみの届くところにいる。――「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で食卓に着きます」*。

 本日の聖句をもう一度眺めると、この人々がどこから来るかがわかる。彼らは「東からも西からも来」る。ユダヤ人は、こうした人々がひとり残らず、男も女も子どもも、全員パレスチナからやって来るはずだと云っていた。天国には、ユダヤ人でない者はひとりもいないであろうと云っていた。またパリサイ人たちは、人はみなパリサイ人にならなければ救われないと考えていた。しかし、イエス・キリストによると、東からも西からもやって来るたくさんの人がいるのである。かの遙かな国、中国からやって来る大群衆がいるであろう。というのも、神はそこで大きなわざを行なっておられ、福音がその国でこれから大きな勝利をおさめると希望されるからである。英国というこの西の国から来た大群衆がいるであろう。米国という、海を越えた西の国からの大群衆がいるであろう。オーストラリアという南の国から、カナダ、シベリア、ロシアという北の国から来る大群衆がいるであろう。地の最果ての所から、たくさんの人がやって来て、神の国で食卓に着くであろう。しかし、この聖句は、地理的に解することもできるが、それよりもずっと霊的に理解すべきであると思う。これが、彼らは「東からも西からも来」ると云うとき、それは個別の国々を指すというよりは、異なる種類の人々を指していると思う。さて、「東からも西からも」の意味は、キリスト教信仰から非常に遠く離れた人々である。それでも、彼らの多くは救われて、天国に行くであろう。世の中には、だれからも何の望みもないとみなされる種別の人々がいる。何度となく私は、人々がそうした人間のことをこう云うのを聞いたことがある。「あいつは救われないよ。めちゃくちゃすぎるもの。あいつに何の良い点があるのだろう? あいつに礼拝所へ行くよう頼んでみるがいい。――土曜の夜には飲んだくれているんだぞ。あいつと論じ合うことなど何の役に立つのか? あいつには何の望みもない。あいつはかたくなにされているのだ。この何年もの間、あいつが何をしてきたか見るがいい。あいつに話をして何になるだろう?」 さて、あなたがた、自分のそばにいる人が、自分以下の悪人だと考えている人々よ。これを聞くがいい。――あなたがた、他人を罪に定めていながら、しばしばそれと同じくらい咎を負っている人々よ。イエス・キリストは、「たくさんの人が東からも西からも来る」、と云っておられる。天国には、かつては酔いどれであった多くの人々がいるであろう。私の信ずるところ、血で買い取られた群衆の中には、人生の大半を居酒屋でへべれけになっていた多くの者がいるであろう。しかし、天来の恵みの力によって、彼らは酒杯を地面に叩きつけることができた。彼らは酩酊の馬鹿騒ぎと縁を切り、――そこから身を引き、――神に仕えた。しかり! 天国には、地上で酔いどれであった多くの人々がいるであろう。そこには多くの娼婦がいるであろう。この上もなくめちゃくちゃな生き方をしてきた者らの何人かがそこには見いだされるであろう。あなたも覚えているように、ホイットフィールドはかつてこう云った。天国には「悪魔に見捨てられた者」も何人かいるであろう。悪魔さえ見放すほど悪逆な者たちの何人かをも、キリストはお救いになる、と。ハンティングドン夫人は一度、このような言葉遣いはあまり適切なものではありませんね、と優しくさとしたことがあった。しかし、まさにそのとき、たまたま呼び鈴が鳴り、ホイットフィールドは階下に降りていった。後で彼は上ってきて云った。「あなたは、たった今、ひとりのあわれな女が私に何と云ったと思いますか? 彼女は悲しい不品行な女で、こう云ったのです。『おゝ、ホイットフィールド先生。最前の説教で先生は、教えてくださいましたね。キリストは悪魔に見捨てられた者をもお救いになるって。私はそのひとりなんです』。そして、それが彼女の救いの手段となったのですよ」。私たちが、最低に身を持ち崩した者らに説教するのを、だれが押し止めようとするだろうか? 私は、自分の回りにロンドン中の下賎な連中を集めていると非難されてきた。ならば私は云う。下賎な者に神の祝福あらんことを! 下賎な者を神が救ってくださるように! しかし、かりに彼らが「下賎な者」だとしよう! だれが彼らほど福音を必要としているだろうか? だれが彼らほどキリストを宣べ伝えられなくてはならないだろうか? 紳士淑女を相手に説教する人々はいくらでもいるが、この下落した時代には「下賎な人々」を相手に説教する人々が多少とも必要である。おゝ! ここには私にとって慰めがある。というのも、この下賎な人々の多くが東からも西からも来ることになるからである。おゝ! もしあなたが、天国にいる何人かの人々と、そこに入ることになる何人かの人々との違いを見てとらなくてはならないとしたら、あなたはどう考えるだろうか? あそこにいる人は、髪の毛がざんばらで目の上に垂れ落ちており、頭髪はもしゃくしゃで、顔つきは恐ろしげで、ぎょろりと目をぎらつかせ、ほとんど痴呆のようにニヤニヤ笑い、脳味噌を酒浸りにし、ついには人としての感じ方、あり方に関する限り、死んだも同然に見える。それでも私はあなたに云う。――「その男も救われることはできる」、と。――そして、ほんの数年のうちに、私はこう云えるであろう。「あそこを見上げるがいい」。あの明るい星が見えるだろうか? あの純金の冠を頭に戴いている人がわかるだろうか? 青玉の衣と、光の上着をまとった者に気がついただろうか? あれこそ、あわれな愚物として、ほとんど痴呆のようにしてあそこに座っていた男と同一人なのだ。それでも主権の恵みとあわれみは彼を救ったのだ! この世には、私が先に云ったような人々を除き、ひとりとして赦されざる罪を犯した者、神のあわれみも及ばないような者はいない。――私を最悪の人々のもとへ引っ張り出してみるがいい。それでも私は、彼らに福音を宣べ伝えるであろう。最低に邪悪な人々のもとへ引っ張り出してみるがいい。それでも、彼らに説教するであろう。なぜなら、私の《主人》がこう云われたのを覚えているからである。「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」[ルカ14:23]。「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」。

 もう一言述べて、この甘やかな箇所をしめくくることにしよう。――それは、「ます」という言葉である。おゝ! 私は神の「何々します」や「何々でしょう」を愛している。何物も、こうしたものとはくらべものにならない。人が「何々します」と云っても、それが何になるだろう? 「私は何々するでしょう」、と人は云うが、全然そうしようとしない。「私は何々します」、と人は云うが、自分の約束を破ってしまう。しかし、神の「何々します」には決してそうしたことがない。もし神が「何々します」と云えば、それは実現し、神が「何々でしょう」と云えば、その通りになるのである。さて神はここで、「たくさんの人が来ます」、と云っておられる。悪魔は、「そんな者など来ない」、と云うが、「たくさんの人が来ます」。彼らの罪は、「お前など来てはならない」、と云うが、神は、あなたは「来ます」、と云われる。あなたは、自分で、「私たちは来れないでしょう」、と云うが、神は、「あなたは来ます」、と云われる。しかり! この場にいるある人々は救いを笑い飛ばし、キリストを平然とあざけり、福音を馬鹿にしている。だが、私は云う。あなたがたの中のある人々はこれからやって来る、と。「何と!」、とあなたは云う。「神が私をキリスト者にできるだと?」 しかり、と私はあなたに云う。というのも、そこに福音の力があるからである。福音は、あなたに同意してくださいと頼むのではなく、あなたに同意させる。福音は、これを受け入れてくださいと云うのではなく、神の力の日に、それをあなたが喜んで受け入れるようにさせる。あなたの意志に逆らってではないが、あなたの意志にそれを欲させる。それはあなたに、その値打ちを示す。――そして、そのときあなたは福音に惚れ込んでしまい、たちまちその後を追いかけて、それを自分のものとする。多くの人々は云った。「われわれは、宗教と全然関わるつもりはない」。だが、彼らは回心した。ひとりの人の話を聞いたことがあるが、その人は賛美歌を聞きに会堂に出かけたが、教役者が説教を始めるや否や、指を耳に突っ込んで、聞こうとしなかったという。しかし、まもなくそのうちに、一匹の虫が自分の顔にとまったので、それを払いのけるのに一本の指を耳からはずさざるをえなくなった。まさにそのとき、教役者が云った。「耳のある者は聞きなさい」[マタ11:15; 13:9, 43; ルカ14:35]。その人は聞いた。そして神は、その瞬間にその人と出会ってくださり、その人の魂は回心することになった。その人は、新しい人、変えられた者となって出て行った。笑うためにやって来た者は、祈るために引きこもった。嘲るためにやって来た者は、出て来たときには悔悟して膝をかがめた。時間つぶしに入ってきた人は、家に帰って自分の神に身をささげるために一時間を費やした。この場にも、そのような人がいないとだれにわかろう? 福音は、あなたの同意など必要としない。あなたに同意させる。敵意をあなたの心から叩き出す。あなたは、「自分は救われたいとは思わない」、と云う。キリストはあなたが救われると云われる。主はあなたの意志を逆転させられる。そしてそのとき、あなたは叫ぶ。「主よ。助けてください。私は滅びそうです」、と[マタ8:25参照]。あゝ、天はこう大喝してよいであろう。「わたしは、わたしがあなたをそう云わせるだろうとわかっていた」。そしてそれから天は、あなたのことを喜ぶ。なぜなら、天はあなたの意志を変えて、その御力の日にあなたを喜んでそう願わせた[詩110:3参照]からである。もしイエス・キリストがこの演壇に今晩お立ちになるとしたら、多くの人々は主に対してどうするだろうか? 「おゝ!」、とある人は云う。「私たちは彼を《王》にするだろう」。私はそれを信じない。彼らは、機会さえあれば、もう一度主を十字架につけるであろう。もし主がやって来て、「さあわたしだ。わたしはあなたを愛している。あなたは、わたしによって救われたいと願うか?」、と云ったとしたら、あなたがたのうちひとりとして、あなたの意志にまかされたなら、同意しないであろう。たとい主が、獅子をもうずくまらせるほど力ある眼光であなたを眺めたとしても、また、天の断崖から不老不死の神水を滝のように流れ落とすほど雄弁な御声でお語りになったとしても、ただのひとりも、みもとに来て主の弟子となろうとはするまい。しかり。御霊の力がなければ、だれもイエス・キリストのもとに来ることはできない。主ご自身そう云っておられる。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」[ヨハ6:44]。あゝ! 私たちにはそれが必要である。そして、ここに私たちはそれを有している。彼らはやって来る! 彼らはやって来る! あなたがたは笑うであろう。私たちを馬鹿にするであろう。だがイエス・キリストは犬死になさるお方ではない。たといあなたがたの中のある人々が主を拒むとしても、そうしない人々がいるであろう。たといある人々が救われないとしても、他の人々は救われであろう。キリストは、末長く、その子孫を見であろうし、主のみこころは彼によって成し遂げられであろう[イザ53:10]。一部の人々の考えによると、キリストが死なれても、キリストがお死にになった相手の人々の一部は失われるという。私はそうした教理を絶対に理解できない。私の保証人たるイエスが私の嘆きを背負い、私の悲しみを担ってくださった以上、私は自分が天の御使いたちと同じくらい安泰であると信じる。神は、返済を二度命ずることはできない。もしキリストが私の借金を払ってくださったとしたら、私がもう一度それを払うべきだろうか? 否。

   「罪より放たれ 安けく歩まん
    主の血ぞ われの自由の証し
    御足のもとに われくつろぎて
    かつての咎びと 永久に仕えん」。

彼らは来る! 彼らは来る! そして天の何物も、地の何物も、地獄の何物も、彼らが来るのを止めることはできない。

 さて、あなたがた、罪人のかしらたち。しばし耳を傾けるがいい。私はあなたをイエスのもとに招こう。今晩、ここには、自分のことをいまだかつて生きていた中で最悪の魂だと考えている人がひとりいる。自分に向かってこう云っている人がいる。「私はキリストのもとに招かれる値打ちなどない、それは確実だ!」、と。魂よ! 私があなたを招く! 失われた、この上もなくみじめで、見捨てられた者よ。今晩、神から与えられた権威によって、私はあなたを私の《救い主》のもとに招く。いつだったか州裁判所の中を見学しに行ったとき、私はある男の名前が呼ばれるのを聞いた。すると、たちまち、その男は云った。「道をあけろ! 道をあけろ! 俺様をお呼びだぞ」。そして男が出てきた。さて、私は今晩、罪人のかしらたちを呼び出し、その人に云わせるものである。「道をあけろ! 道をあけろ、疑いよ! 道をあけろ、恐れよ! 道をあけろ、もろもろの罪よ! キリストが私をお呼びだぞ! そして、もしキリストを私を呼んでいるとしたら、それで十分なのだ!」、と。

   「恵みの御足に われ近づかん
    その王笏ぞ あわれみ賜う。
    触れよと命令(こえ)も あらばあるらん
    さらば哀願(たの)める 者も生くべし。

   「行きて死ぬるも われは恐れじ
    すでに決せり われ試さんと
    われ知る もしも 離れおるなら
    われ永遠(とこしえ)に 死ぬほかなければ。

    されど あわれみ 求めつ死にて
    その《王》試しし 後ならば
    わが死は(いかに 嬉しき思いぞ)
    決して 罪人の 死なざる道なり」。

行って、私の《救い主》を試してみるがいい! 行って、私の《救い主》を試してみるがいい! もしあなたが主を求めた後で、主があなたをお捨てになるとしたら、かの穴の中で、キリストは自分の声に耳を傾けてくださらなかったと云うがいい。しかし、そんなことをするのを、あなたは決して許されないであろう。神が、悔悟した罪人をひとりでも打ち捨てるなどというのは、契約のあわれみに泥を塗ることとなろう。そして、こう書かれている限り、そのようなことは決して起こらないはずである。「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」。

 II. 本日の聖句の第二の部分は、心を引き裂くようなものである。私は第一の部分からは、自分自身にも大きな喜びをもって説教することができた。だが、ここにあるのは、私の魂にとってやるせない務めである。ここには陰惨な言葉があるからである。しかし、先にあなたがたに告げたように、陰惨なものであろうと心地よいものであろうと、聖書に書かれていることは説教されなくてはならない。一部の教役者たちは決して地獄について全く言及しない。聞いた話だが、ある教役者はかつて自分の会衆に向かってこう云ったという。――「もしあなたが主イエス・キリストを愛さないなら、やがてあなたは、口にするも無作法な場所へと送られるでありましょう」、と。こういう人は、平易な言葉を使えないなら、二度と説教することを許されてはならないに違いない。さて、もし私があそこにある家に火がついているのを見たとしたら、あなたは私が立ってこう云うと思うだろうか? 「私の信ずるところ、前方では燃焼作用が営まれつつあります!」 否。私は大声で叫ぶであろう。「火事だ! 火事だ!」。そうしてこそ、あらゆる人が私の云いたいことを悟るであろう。さて、もし聖書が、「御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです」、と云っているとしたら、私はここに立って、この件について奥歯にものがはさまったような物云いをすべきだろうか? 断じてそうではない。私たちは書かれている通りの真理を語らなくてはならない。これは恐ろしい真理である。「御国の子らは外の暗やみに放り出され」ると云っているからである。さて、この子らとはだれだろうか? 答えよう。――「御国の子ら」とは、外的な敬神のふるまいでは並はずれていながら、その内的なものを全く有していない人々のことである。自分の聖書と賛美歌をかかえて、あたう限り宗教熱心な様子で会堂へと行進していく人々、あるいは、あたう限り敬虔な、とりすました様子で教会に通っている人々、教区吏員さながらにしかつめらしく、真剣な見かけで、自分たちが救われるのは確実だと思い描いていながら、実はその件に関わっているのは、そのからだだけで、心が全然こもっていないという人々である。世の中には「御国の子ら」である人々がいる。そうした人々は、恵みなく、いのちなく、キリストから離れ、やがて外の暗やみに放り出される。

 さらに、こうした人々は、敬虔な両親から生まれた子どもたちである。よく聞いてほしい。この世の何にもまして人の心を打つのは、その母親について話をすることである。ある船乗りの話を聞いたことがあるが、彼は手に負えない乱暴者で、警察の手も焼かせるほど、どこへいっても常に揉め事を引き起こしていた。あるとき、彼がとある礼拝所の中に入ったところ、だれも彼を静かにさせておくことができなかった。だが、ある紳士が彼のもとに来て、こう云った。「なあ、君にも一度はお母さんがいたろう?」 その言葉を聞くなり、彼の頬を涙が伝い落ちた。「あゝ! ありがたや。おりやしたよ、旦那。あっしのせいでお袋は、死ぬまで泣きの涙だったす。今晩ここにいるあっしの何てえざまだ」。それから彼は居住まいを正し、自分の母親について一言云われただけで、すっかり素面になり、おとなしくなってしまった。あゝ、あなたがたの中には、自分の母親について思い出すことのできる「御国の子ら」が何人かはいるであろう。あなたの母は、幼いあなたを膝の上に乗せ、祈ることを教えてくれた。あなたの父は、あなたに信仰の道を懇々と教えてくれた。だがしかし、今晩ここにいるあなたは心に恵みなく、――天国の希望もない。あなたは、可能な限りの全速力で、まっしぐらに地獄に駆け下りつつある。あなたがたの中のある人々は、あなたの可哀想な母上の心を引き裂いてしまった。おゝ! もしもあなたが夜な夜な自分の罪にふけっていたとき、あなたのために母上がいかに苦しんでいたかをあなたに告げることができたなら! あなたがた、「御国の子ら」よ。もしあなたがたが、敬虔な母上の祈りと涙を注がれた後にも滅びるとしたら、自分がいかなる咎を負うことになるかわかっているだろうか? 種々の恩恵を受けていながら地獄に入る者らの中でも、私に考えられる最悪の人間は、母親の涙の滴を頭に受け、父親の祈りを踵につけたまま地獄へ行く者にほかならない。あなたがたの中のある人々は、必ずやこうした末路に陥り、あなたがた青年たちの中のある人々は、いつの日か目を覚ますと、自分が外の暗闇の中にいることに気づくであろう。そのとき、あなたの両親は彼方の天国にいて、責めるような目つきであなたを見下ろし、あたかもこう云うかのようであろう。「何と! 私たちがあれほどのことをしてやったのに、云ってやったのに、お前はこうなってしまったのか?」 「御国の子ら」よ! 敬虔な母親がいさえすれば自分も救われるなどと考えてはならない。自分の父親がこれこれ教会の会員だったからといって、その敬虔さによって自分も救われると思ってはならない。私には、だれかが天国の門の前に立って、こう懇願している姿が目に浮かぶ。「入れてください! 入れてください!」 何ゆえにか? 「私の母がこの中にいるからです」。あなたの母親は、あなたとは何の関係もない。もし彼女が聖いとしたら、彼女自身のために聖いのであり、もし彼女がよこしまだとしたら、彼女自身のためによこしまなのである。「でも、祖父は私のために祈ってくれました」。それは何の役にも立たない。あなたは、自分で祈っただろうか? 「いいえ。祈りませんでした」。ならば、たとい祖父の祈りや、祖母の祈りや、父母の祈りが星々に達するほど積み上げられたとしても、決してそれはあなたが天国に行くための梯子にはならない。あなたは自分で神を求めなくてはならない。というよりも、神があなたを求めなくてはならない。あなたは、自分の心で生きた敬虔さを経験していなくてはならない。さもなければ、あなたの友人たちが全員天国にいるとしても、あなたは失われる。これは、ある敬虔な母親が一度見たことのあるすさまじい夢である。彼女はそれを自分の子どもたちにこう語って聞かせた。彼女は、最後の審判の日がやって来るのを見た。数々の大きな書物が開かれた。彼らはみな神の前に立っていた。そこへイエス・キリストがこう云われた。「殻を麦から分けよ。山羊を左側に、羊を右側にせよ」。この母親は夢の中で、自分と子どもたちが大群衆の真ん中に立っているのを見た。そこへ御使いがやって来て、云った。「私は母親を連れて行かなくてはなりません。彼女は羊です。彼女は右側に行かなくてはなりません。子どもたちは山羊です。彼らは左側に行かなくてはなりません」。彼女が云われた方に向かおうとしたとき、子どもたちは母にしがみついてこう云った。「お母さん。どうして離れ離れになるの? なぜ別れなくてはいけないの?」 そのとき彼女は子どもたちを抱きかかえて、こう云った。「私の子どもたち。もしできるものなら、私もあなたたちを一緒に連れて行きたいわ」。しかし、たちまち御使いが彼女に触れると、彼女の頬の涙は乾き、今や自然な情愛を乗り越えて、超自然的で、崇高な、神のみこころに服するものとなった彼女は云った。「私の子どもたち。私はあなたたちによく教えました。あなたたちを訓練しました。ですが、あなたたちは神の道を捨てたのです。そして今、私に云えることはただ1つ、あなたたちが罪に定められることに、アーメンと云うだけです」。そこでただちに彼らは引っさらわれた。彼女は、彼らが永劫の苦悶の中にあるのを目にし、自分が天国にいることに気づいた。若い男よ。最後の審判の日が来て、キリストが、「離れよ。呪われた者ども」*[マタ25:41]、と云うのを聞くとしたら、あなたはどう思うだろうか? そして、そのとき1つの声がキリストの背後からアーメンと聞こえるであろう。その声がどこから来たか調べてみたあなたは、それが自分の母親であることに気づくであろう。おゝ、若い娘よ。あなたが外の暗闇に放り出されるとき、ある声が「アーメン」と云うのを聞いてあなたはどう思うだろうか? そして、あなたが見上げると、そこにはあなたの父が座っており、その唇はまだその厳粛な呪いを唱えているのである。あゝ! 「御国の子ら」よ。天国には、悔悟した無頼漢がたくさん入るであろう。取税人や罪人たちがそこに行くであろう。悔い改めた酔いどれや悪態をつく者たちが救われるであろう。だが、多くの「御国の子ら」は放り出されるであろう。おゝ! あれほど良くしつけられたあなたが失われ、それ以下の多くの者が救われることを考えてみるがいい。目を上げると、酔いどれだった「みじめな何野太郎兵衛」がアブラハムのふところに安らっているというのに[ルカ16:23]、敬虔な母親から生まれた自分が、ただ主イエス・キリストを信じず、福音を遠ざけ、福音なしに生涯を送って死んだというだけの理由で、地獄に叩き落とされているということ、それは地獄の中の地獄であろう! 自分は放り出されているというのに、罪人のかしらたちが救いを見いだしているのを見ること、これほど激痛を招くとげはないであろう。

 さて、ほんのしばし私の云うことを聞くがいい。――長くは引き留めない。――私は、こうした「御国の子ら」に何が起こるかを告げるという、悲しい務めを果たすであろう。イエス・キリストは云われる。彼らは、「外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです」、と。

 第一に、彼らが放り出されることに注意するがいい。彼らは、去って行くと云われてはいない。天国の門に来たとき、放り出されるのである。偽善者たちが天国の門に到着するや否や、《正義》は云うであろう。「そら、奴がやって来た! 奴がやって来た! 奴は父親の祈りをはねつけ、母親の涙を蔑んだ。奴は、あわれみによって備えられたあらゆる利点にもかかわらず、下り坂の路を突き進んできた。そして今、奴がやって来た。ガブリエルよ、そいつを捕えるがいい」。御使いは、あなたの手足を縛り上げ、一瞬にしてあなたを深い穴の口の上にかかげる。彼はあなたに、ずっとずっとずっと下を見下ろすように命ずる。何の底もない。そしてあなたには、その深淵から立ち上る、「陰鬱(くら)き嘆き、虚ろな呻き、責苦(くる)しめらるる 幽鬼の悲鳴」が聞こえる。あなたはおののき、あなたの骨は蝋のように溶け、あなたの髄は体内で震える。今やあなたの力はどこにあるだろうか? あなたの自慢や大口はどこにあるだろうか? あなたは金切り声を上げて、泣きわめく。あなたはあわれみを乞い求める。だが、御使いは万力のようにあなたをがっちりと握りしめ、一声、「失せろ!」、と叫ぶと、思いっきりあなたを投げ落とす。そして、あなたは底なしの穴に落ちていき、永遠に下に向かって、下に向かって、下に向かって転がり落ちて行き、――決して休み場を見いだすことなく、――あなたの足の裏を降ろす場所もない。あなたは放り出されるのである。

 では、あなたが放り出される先はどこだろうか? あなたがたは「外の暗やみに」放り出される。あなたがたは、何の希望もない場所に置かれることになる。というのも私たちは、聖書の云う「光」を「希望」と理解するからである。そして、あなたは何の光も――何の希望も――ない「外の暗やみに」置かれるのである。今この場に、自分には何の希望もないという人がいるだろうか? そのような人がいるとは思えない。ことによると、あなたがたの中にはこう云う人がいるかもしれない。「私は三十ポンドの借金を負っており、まもなく財産が競売に付されることになっている。だが、私には金策の見込みがあり、今の困難から逃れる希望はある」、と。別の人は云う。「私は商売が破産したが、事態はまだ変わる余地がある。――私には希望がある」、と。また別の人は云う。「私は非常な苦悩の中にある。だが神が私を助けてくれると希望している」、と。別の人は云う。「私は五十ポンドの借金がある。それは遺憾に思う。だが私は、この力強い二本の手で働き、そこから抜け出すために最善を尽くそう」。あなたがたの中には、友人が死にかけていると考えている人がいる。だが、ことによると、その熱は下がるかもしれない。――その人は死なないかもしれない。そうした一縷の希望がある。しかし地獄には何の希望もない。彼らには死んでいく希望――消滅させられる希望すらない。彼らは永遠に――永遠に――永遠に――失われている! 地獄にあるあらゆる鎖には「永遠に」と記されている。その業火には、「永遠に」、という文字が燃え立っている。彼らの頭上には、「永遠に」、と記されている。それが永遠のものであるという思いに、彼らの目はやつれ、心は痛む。おゝ! もしも私が今晩あなたに、地獄がいつの日か焼け落ちるのだ、失われた者は救われることになるのだ、地獄にはそう思える歓喜もあるのだ、と告げることができたなら。しかし、そういうことはありえない。――彼らは「永遠に」外の暗闇に放り出されているのである。

 しかし私は、このことをできるだけ早く済ましてしまいたい。自分の同胞にこのようなことを語るのに、だれが耐えられるだろう? 失われた人々は何を行なうことになるだろうか? 彼らは、「泣いて歯ぎしりする」。あなたは今、歯ぎしりしているだろうか? そのようなことを、人は痛みと苦悶の中にいない限り行なわないであろう。よろしい。地獄には、常に歯ぎしりがあるのである。そして、あなたはそれがなぜかわかるだろうか? そこでは、ひとりの人が自分のわきにいる者に向かって歯ぎしりし、こう文句を云っている。――「私はお前によって地獄に至らされたのだ。お前が私に道を踏み外させ、私に最初の一杯を飲ませたのだ」。すると相手は自分の歯をきしらせて云う。「たとい私がそうしたとしても、その後でお前は私の身をもっと持ち崩させたではないか」。そこにはひとりの子どもが母親を見つめていて、こう云う。「母さん、あんたが私を悪へと仕込んだんだよ」。すると母親はその子に向かって歯ぎしりして云う。「あたしはお前のことなんか可哀想には思わないね。お前はその件にかけちゃ、あたしより一枚も二枚も上手で、あたしを罪の深間に引き込んだんだからね」。父親たちは息子たちに向かって歯ぎしりし、息子たちは父親たちに向かって歯ぎしりする。そして、他のだれよりも歯ぎしりしなくてはならない者がいるとしたら、それは誘惑者たちであろうと思う。彼らが、美徳の通り道から引き離した人々を見てとるとき、そして彼らがこう云うのを聞くときである。「あゝ! 私たちは、あんたも私たちと一緒に地獄にいるのが嬉しいよ。あんたには、それがふさわしいよ。あんたが私たちをここに至らせたんだからな」。今晩、あなたがたの中には、他の人々をかの穴に至らせたという事実で、良心が押しつぶされそうになっている人がだれかいるだろうか? おゝ、願わくは主権の恵みがあなたを赦してくださるように。「私たちは、滅びる羊のように、迷い出ました」*、とダビデは云う[詩119:176]。さて、滅びる羊は、それが群れから迷い出るとき、決して一頭では迷い出ない。最近読んだ話だが、一頭の羊が橋の欄干を飛び越えたところ、群れの他の羊がことごとくそれにならったという。そのように、もしある人が迷い出ると、その人は他の人々をも自分と同じ方向に導くのである。あなたがたの中のある人々は、地獄に行ったとき、自分の罪のみならず、他の人々の罪についても申し開きをしなくてはならないであろう。おゝ、かの穴の中には、いかに「泣いて歯ぎしり」することがあるであろう!

 さて、この暗黒の書を閉じるがいい。これについて、だれがこれ以上語りたがるだろう? 私はあなたに厳粛な警告をしてきた。必ず来る御怒りについてあなたに告げてきた。夜は深まりつつあり、日は沈みつつある。あゝ、あなたがたの中のある人々にとって、夜は深まりつつある。この場には白髪の方々も見える。あなたの白髪は、あなたにとって光栄の冠[箴16:31]だろうか、道化師帽だろうか? あなたは、天国の瀬戸際にいるだろうか、それとも自分の墓の縁でよろめきながら、破滅に沈みつつあるだろうか?

 白髪の方々。警告させてほしい。あなたの夜は近づきつつある。おゝ、あわれな、よろめいている白髪よ。あなたは、かの穴の中に最後の一歩を踏み出したいだろうか? ひとりの小僧っ子に、あなたの前に進み出て、ぜひ考えるよう乞い求めさせてほしい。そこにあなたの杖がある。――それは、よりかかるべき大地を一片も有していない。では今晩、まだいのちがあるうちに、よくよく考えるがいい。罪の七十年に喋り出させるがいい。あなたの忘れられたそむきの罪の亡霊たちを、あなたの眼前に行進させるがいい。申し開きをすべき七十年もの年月を徒に費やしてきたあなた、神の前に持ち出されるべき、有罪の七十年を過ごしてきたあなたは、何をしようというのか? 神が今晩あなたに、悔い改めてイエスを信頼できる恵みを与えてくださるように。

 また、あなたがた、中年の人々も安全ではない。夜はあなたにとっても更けつつある。あなたもじきに死ぬかもしれない。何箇月か前に私は、早朝に寝床から叩き起こされた。ひとりの死にかけている人を急いで見舞ってほしいというのである。私は大急ぎでその可哀想な人のもとへ駆けつけた。だが私がその家に着いたときには、彼は亡骸となっていた。その部屋に立ちながら、私は考えた。「あゝ! この人は、これほど早く死ぬとは考えもしていなかったのだな」。そこには彼の妻と子どもたちと友人たちがいた。――彼らも彼が死ぬなどとはほとんど考えもいなかった。彼は何日か前までは強く、健康で、ぴんぴんしていたからである。あなたがたの中のひとりとして、自分の人生の賃借権を有している者はない。もしあるというなら、どこにそれがあるだろうか? 家に帰って、自分の箪笥のどこかにそれがあるかどうか見てみるがいい。否! あなたがたは明日死ぬかもしれない。それゆえ、神のあわれみによってあなたに警告させてほしい。兄弟が語るように、あなたに語らせてほしい。というのも、私はあなたを愛しているからである。あなたは私があなたを愛していることを知っている。このことをあなたの心に切々と訴えさせてほしい。おゝ、キリストにあって受け入れられた多くの人々のひとりとなること――それがいかに幸いなことか! そして神によれば、その御名を呼び求める者は、だれでも救われるのである[ロマ10:13]。神は、キリストを通してご自分のもとに来る者をだれひとりお捨てにならない[ヨハ6:37参照]。

 さて、あなたがた、若い男と若い娘たち。あなたにも一言云いたい。ことによると、あなたがたは宗教など無縁だと考えているかもしれない。「幸せになろうじゃないか」、とあなたは云う。「陽気に、楽しくしていようじゃないか」。それはいつまでか、若者よ。それはいつまでか? 「私が二十一になるまでさ」。それまであなたが生きていられる保証があるだろうか? あなたに1つのことを云わせてほしい。もしあなたが、その時まで生きているとしても、神について考える心をいま有していないとしたら、そのときも全くそれを持つことはないであろう。人々は、放っておいても良くはならない。それは庭と同じである。放置して、雑草が生えるままにしておいた庭が、半年後にはきれいになっているなどと期待することはできない。――むしろ汚くなっていると考えるのが当然であろう。あゝ、人々は、望めばいつでも悔い改められるとでもいうかのような口をきいている。私たちに悔い改めを与えるのは神のみわざである。ある人々など、「私は、これこれの日に神に立ち返ろう」、と云うことさえある。あゝ! もしあなたが正しい感じ方をしていたとしたら、あなたはこう云うであろう。「私は、神のもとに逃げて行き、いま悔い改めを与えてくださいと願わなくてはならない。イエス・キリストを私の《救い主》として見いだす前に死ぬことがないように」、と。

 さて、もう一言語ってしめくくりにしたい。私はあなたに天国と地獄について語ってきた。ならば、何が、地獄を免れて、天国で見いだされるための道だろうか? 私は、前にした話を今晩もう一度語りはすまい。思い出すが、以前あなたがたに同じ話をしたとき、群衆の中の良き友が、「おいあんた、何か新しい話をしてくれや」、と云ったのである。実を云えば、一週間に十回も説教をしていれば、いつも目新しいことばかり云うわけにはいかない。あなたはジョン・ガフの話を聞いたことがあるであろうが、彼は何度も同じ話をすると知っているはずである。私は、昔ながらの福音のほか何も持っていない。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。ここでは何1つ行ないについて云われていない。これは、「善良な者は、救われます」、とは云っていない。「信じてバプテスマを受ける者」、と云っているのである。よろしい。信じるとはどういうことだろうか? それは、あなたの信頼を完全にイエスに置くことである。あわれなペテロは一度は信じて、イエス・キリストは彼に云われた。「来なさい。ペテロ。水の上を歩いてわたしのもとに来なさい」。ペテロは波の上で沈むこともなく歩を進めた。だが彼は、波を見たとき、震えだし、沈んでいった。さて、あわれな罪人よ。キリストは云っておられる。「来なさい。あなたの罪の中を歩いてきなさい。私のもとに来なさい」。そして、もしあなたがそうするなら、キリストはあなたに力を与えるであろう。もしあなたがキリストを信ずるなら、あなたは自分の罪の上を歩き、――それらを踏みしめ、それらを克服することができるであろう。私は、私のもろもろの罪が初めて眼前に突きつけられたときのことを覚えている。私は、あらゆる人の中で自分ほど呪われた者はいないと思った。私は決して、はなはだしく大きな、神に対する公然たるそむきの罪を犯したことはなかった。だが私は、自分が良いしつけと指導を受けてきたことを思い出し、それゆえに、自分の罪は他の人々の罪よりも大きいと思った。私はあわれみを神に叫び求めたが、神が私を赦してくださらないのではないかと思った。何箇月も何箇月も、私は神に叫んでいたが、神は私の云うことを聞いてくださらなかった。そして、私は救われるとはいかなることかがわからなかった。時として私は、この世に倦み疲れるあまり死にたいと思った。だが、そのとき私は、現世よりも悪い世界があったこと、自分の《造り主》の前に何の備えもなく飛び込んで行くのは愚かであることを思い出した。時に私は、よこしまにも、神は最も冷酷な暴君であると考えた。なぜなら、神は私の祈りに答えてくださらなかったからである。また他の時には、「私は神のご不興を受けて当然だ。神が私を地獄に送るとしたら、神は正しいであろう」、と思った。しかし私は、とある礼拝所に足を踏み入れた時のことを覚えている。そこで私は、ひとりの背の高い痩せた人が講壇に立つのを見た。その日以来、その人とは一度も会ったことがないし、おそらく天国で会うまで二度と会うことはないであろう。彼は聖書を開くと、かすかな声でこう読んだ。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」[イザ45:22]。あゝ! 自分は地の果てにいる者のひとりだ、と私は思った。それからその教役者は、向き直って私をじっと見つめると、まるで私を知っているかのように云った。「見よ、見よ、見よ」。左様。私は、自分が途方もなく多くのことを行なうのでなくてはならないと思っていたが、ただ見るだけでよいことを見いだした。自分で紡ぎ出さなくてはならない衣があると思っていたが、見さえするなら、キリストが私に1つの衣をくださるだろうことを見いだした。見るがいい。罪人よ。それが救われるということである。地の果てのすべての者よ。主を仰ぎ見て救われるがいい。これこそ、モーセが青銅の蛇を掲げ上げたときにユダヤ人たちがしたことである。彼は、「見よ!」、と云った。そして彼らは見た。彼らの回りには、蛇がうようよのたくっていたであろうし、彼らもなかば死にかけていたであろう。だが彼らは単に見て、見た瞬間に、蛇の群れは刈り取られ、彼らは癒された。罪人よ。イエスを仰ぎ見るがいい。「イエスのみなるぞ よわき罪人 救うるは」。私たちがよく歌う賛美歌が1つある。だが、その歌詞はやや正しくないと思う。それはこう云う。

   「神に賭(まか)せよ またく汝が身を
    他(た)のもの頼る 心よとく去れ」

だがキリストに信頼するとは、決して一か八かまかせの賭けではない。キリストに頼る者は完全に安泰である。私は、親愛なるジョン・ハイアットの死ぬ間際に、マシュー・ウィルクスが彼に、いつもの調子でこう云ったのを思い出す。「さて、ジョン。君はいまイエス・キリストの御手にきみの魂を預けることができるかね?」 「ああ」、と彼は云った。「百万もな! 百万人の魂もな!」 確かに、キリストに一度でも信頼したことのあるあらゆるキリスト者は、それに「アーメン」と云えるであろう。キリストに信頼するがいい。キリストは決してあなたを裏切らないであろう。私のほむべき《主人》は決してあなたを放り出さないであろう。

 私は、これ以上長く話すことはできない。ただ、あなたがたのご静聴に感謝するだけである。私は、これほどおびただしい数の人々が、これほどおとなしく静かにしているのを見たことがない。私は本当に思っている。いかに厳しいことが云われてきたにせよ、英国の人々は、だれが彼らを愛しているかを知っているし、自分たちとともに立つ人とともに立つものだ、と。私は、あなたがたのひとりひとりに感謝したい。そして、何にもまして、あなたに願いたい。もし私の云ったことが道理である、納得できる、というのであれば、自分がいかなる者であるか、よくよく考えてほしい。そして、願わくはほむべき御霊が、あなたにあなたの状態を啓示してくださるように! 願わくは御霊があなたに、あなたが死んでいること、あなたが失われ、滅んでいることを示してくださるように。願わくは御霊があなたに、地獄に沈んでいくのがいかに恐ろしいことかを感じさせてくださるように! 願わくは御霊が、天国を指し示してくださるように! 願わくは御霊が、古の人々に対して御使いがしたように、あなたをつかみ、あなたに手をかけ、こう云ってくださるように。「逃げよ! 逃げよ! 逃げよ! 山を見上げよ。うしろを振り返ってはいけない。この低地で立ち止まってはならない」*[創19:17]。そして、願わくは私たちがみな、最後には天国で会うことができるように。また、そこで私たちが永遠に幸いになれるように。

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追記 この説教は、シオンの真実な者らの多くの祈りによって水を注がれたものである。この説教者に、これを出版する意図はなかったが、それが印刷された今、その破格の文章や、まとまりのない文体について弁解はしない。だが、その代わりに彼は、読者の祈りを乞い願うものである。このささやかな説教が、これを読む多くの人々が救われることによって、神の誉れをいやまして高めるものとなるように、と。「この測り知れない力は神のものであって、人間から出たものでない」*[IIコリ4:7]。

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天国と地獄[了]

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