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獅子は欠くるも子らは満ちぬ

NO. 65

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1856年2月10日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂
貧困教役者救済のための《バプテスト基金》のための説教


「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。――詩34:10


 パウロの言葉はまさに至言である。「それらによって神は、尊い、すばらしい約束を私たちに与えられました」*[IIペテ1:4参照]。というのも、確かにこの約束は実に尊く、素晴らしいものだからである。神の聖なることば全体の中でも、これを甘やかさでしのげるような素晴らしい宣言はどこにも見当たらない。というのも、いかにして神は、すべて以上のものを私たちに約束できただろうか? 神の無限の慈悲深さといえども、いかにしてご自分の恵みの境界線を、この詩篇のこの節で達されたところを越えて引き伸ばせただろうか?――「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。ここには何の留保もない。何1つ差し止められてはいない。例外を示す言葉は一言も語られていない。この遺言状には、地所のほんの一部でも削除するような補足書は付属していない。私たちが立ち入ってはならない領地があるなどという警告は一切挿入されていない。神の子どもたちの前には、広大な大地が横たわっている。広々とした扉が開かれており、何者もそれを閉じることはできない。「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。

 さて、私たちがまず第一に注目したいのは、ここで美しく描写されたキリスト者の性格である。「主を尋ね求める者は」。第二に注目したいのは、1つの対比によって輝かしく照らし出されている約束である。若い獅子も乏しくなって飢えるが、彼らは「良いものに何一つ欠けることはない」。そして第三に考察したいのは、私たちがこの約束の成就を証明する証拠をいくつか提示できないかどうかである。

 I. 第一に、ここには非常に短い、だが非常に美しい《真のキリスト者の描写》がある。キリスト者は「主を尋ね求める」と云われている。「主を(あるいは原語で云うように、エホバを)尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。あゝ! 愛する方々。私たちの中のある者らがこのような描写をしているとしたら、それを狭すぎるものとしていたであろう。ことによると、あなたがたの中のある人々はこう云ったかもしれない。「国教会の中で、国教の枠内で主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。他の人々はこう云ったかもしれない。「正統的なカルヴァン主義にのっとって主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。そして他の人々はこう云ったかもしれない。「バプテスト派の、あるいはメソジスト派の、あるいは何か他の様式で主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。しかし、そうは書かれていない。「主を尋ね求める者は」、と書かれているのである。それは、あらゆる階級と教派の、あらゆる性格的に相違する主の民を取り込めるようにするためである。これは非常に短い描写だが、完全で徹底的なものであり、あらゆる段階と立場にあるキリスト者を含んでいる。さて私があなたに示したいのは、キリスト者とは、その霊的生涯のいかなる部分にあっても、主を尋ね求める者だということである。

 まず罪の確信から始めよう。それこそ神が私たちへの働きをお始めになるところであり、いかなる人もキリスト者になる前には、聖霊によって、自分の全き無力さ、功績の欠け、そして神の御前で功徳を積み上げる力が欠如していることを示されなくてはならない。よろしい。ならば罪の確信のもとにあり、自分に《救い主》が必要であると感じている人――その人は何をするだろうか? いざ義に飢え渇くようになったとき、その人は何に携わるだろうか? 左様。その人は主を尋ね求めるようになる。その人に何が望みか聞いてみるがいい。その人は云うであろう。「キリストこそ私の唯一の願いです。朝早く起きて真っ先に私が思うのは、『ああ、できれば、どこで彼に会えるかを知りたい』*[ヨブ23:3]ということです。仕事をしているときも、私の凝縮された祈りは、イエスを手探りするように天に上っていきます。また、再び自分の寝床に身を横たえるとき、私の心は云います。『私は、私の愛している人を捜しています。私が捜しても、あの方は見あたりません』*[雅3:1]」。このような人は祈りをささげる。なぜか? そこに何か功徳があるからではないし、そのことのゆえに自分がほめたたえられるためでもなく、主を尋ね求めるためである。その人は聖書の頁をめくる。哲学書をそうするときのように、好奇心からでも、単に教えを受けるためでもなく、主を尋ね求めるためである。その人には1つの情熱、1つの願いがある。――主を尋ね求めることである。そのためなら、自分のいのちと引き替えにしてもかまわないし、主イエスを見つけだせさえするなら、下界の人間たちの名簿から自分の名前が削除されても満足である。他の何にもまして、《小羊》のいのちの書の片隅に自分の名が記されることを願っているからである。あなたはこのように主を尋ね求める霊的生活のおぼろな薄明のうちにあるだろうか? 主はあなたの追求する唯一の目当てだろうか? ならば喜ぶがいい。おののいてはならない。というのも、あなたの召しのこのように早い段階――あなたが何かになろうともがき始めたばかりの時期――においても、この約束はあなたに対してなされているからである。「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。

 しかし、もう一段階先に進んでみよう。キリスト者が《救い主》を見いだし、義と認められたとき、私がしばしば繰り返す、この甘やかな言葉でこう云えるようになったときのことである。

   「罪より放たれ 安けく歩まん
    イェスの血 われの自由の証し」

あなたは、その人が主を尋ね求めることをやめなかったのを見いだすであろう。しかり。その人は今やもっと主を知ることを求めている。人知をはるかに越えたキリストの愛の高さ、深さ、長さ、広さ[エペ3:18-19]を理解しようと求めている。私は、この場にいる、自分は赦された者だ、完全に義と認められた者だ、キリストにあって満ち満ちている者だ[コロ2:10]と確信しているあらゆる人に問いたい。――あなたは主を尋ね求めてはいないだろうか? 「おゝ、そうです」、とあなたは云う。「私はもっと主について知りたいと渇望し、切望しています。これまで私が主について知ったすべてのことは、貝の中で聞こえる海の囁きでしかなく、海そのもののすさまじい轟きは自分の耳に届いてこないような気がします。私は、多少は小さなあわれみによってキリストの囁きを聞いてきましたし、キリストの豊かな寛大さが底知れぬ、永遠の、変わることなき愛を歌うのを聞いてきました。――ですが、おゝ! 私はその愛そのものの中に没入したいのです。私に対するキリストの無限の寛容さと愛との大海に自分の身をひたしたいのです」。いかなるキリスト者も、自分がその《主人》について十分知っているなどと思うことはない。主を見いだしたキリスト者のうち、より主と親しみたいと願わないような者はひとりもいない。「主よ。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」*[ルカ9:57]。これは自分のもろもろの罪を赦された人の叫びである。その人はイエスの御足のもとに座り、イエスを見上げて、こう云う。「師よ。私をもっと教えてください。私は小さな子どもです。あなたは偉大な教師であられます。おゝ! 私はもっとあなたを愛し、もっとあなたについて学びたいと切に願います」。その人は常に主を尋ね求めており、この、ずっと進んだ段階においても、このように約束されている。「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。

 しかし、もう少し先に進んでみるがいい。キリスト者が自分の受け入れられていることについて、ほぼ一片の疑いも有さなくなった時期である。その人は霊的生活において多大な進歩を遂げたあまり、キリスト・イエスにある成人の身たけ[エペ4:13]に達している。その信仰は確固たるものであり、

   「その堅固(かた)き魂(たま) 恐れずあるは
    鉄壁の岩 波涛(なみ)砕くごと」

である。その人は自分の「称号(な)をさやかに 天空(そら)の邸宅(やかた)に」読みとることができる。すでに《愉快が岳》に登っており、その足は岩の上に堅く立っており、その道行きは確立されている。だが、そのときでさえ、その人は主を尋ね求めている。その確信が最高の高さを飛翔しているときも、その信仰が高嶺の頂きにあるときも、そこにはさらに越えたものがある。その人が《受け入れられた》者の海を最果てまで航海していったときにも、まだ達しきれていない《極楽島》がある。ultima thule[世界の果て]がある。いまだ見ぬ遥かな国がある。その人はなおも主を尋ね求めている。自分が「まだ得ていない」と感じている。まだ、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている」[ピリ3:12-14]のを感じている。しかし、ここでその人は、異なるしかたで主を尋ね求めている。その人が主を尋ね求めるのは、主の頭に冠を戴かせるためである。その人が主を尋ね求めるのは、あわれみを得るためではなく、主をたたえるためである。おゝ、私の心があなたを探し出せたらどんなによいことでしょう! そのすべての和弦で甘美な音楽をあなたに奏でられればどんなによいことでしょう。おゝ、私の口があなたの耳を見いだし、それに開くように命じて、私の歌の囁きを聞かせることができればどんなによいことでしょう。おゝ、あなたの宿っておられる場所を知り、あなたのお住まいの軒下で声を限りに歌い、あなたが常に私の声を聞き、――私が永遠に私の感謝の歌をあなたの聖なる庭に送り届けることができればどんなによいことでしょう。私があなたを尋ね求めるのは、愛するあなたの聖なるかしらの上で、賛美の雪花石膏のつぼを砕くためです。私があなたを尋ね求めるのは、自分の魂を祭壇の上に起き、私の生きた自己をいけにえとしてあなたにささげるためです。私があなたを尋ね求めるのは、智天使が歌っているところへ私も行くためです。私は彼らをねたましく思います。なぜなら、彼らはこう歌っているからです。

   「夜もすがら うまず歌いぬ、
    永遠(とわ)の王への 高き賛歌(ほまれ)を」。

私は仕事においてあなたを尋ね求めるでしょう。あらゆることで、私の《救い主》である神の教えを飾るようになるため[テト2:10]です。私の歌においてあなたを尋ね求めるでしょう。あなたへの賛美歌を賛美するためです。私の黙想においてあなたを尋ね求めるでしょう。私の思いにおいて主をあがめるためです。私の言葉においてあなたを尋ね求めるでしょう。私の会話があなたへの崇拝を示すようになるためです。私の慈善の賜物においてあなたを尋ね求めるでしょう。私が自分の《救い主》に似た者となるためです。常にあなたを尋ね求めるでしょう。私があなたのものであり、あなたが私のものであることだけは十分に知り得ているからです。むろん、私はそれ以外の何もあなたに求めてはいません。あなたがご自身を私に与えてくださったことを見てとっているのですから。確かにあなたは、

   「わが肉の肉、わが骨の骨、
    血の絆にて わが近き親族(はらから)」

であり、確かに今や私の魂はあなたにあって全き者として立ち、

   「一点の汚点(しみ)の影だに
    わが魂(たま)の上(え)に 見いだせずとも」、

それでもやはり私はあなたを尋ね求めるでしょう。――あなたに誉れをささげることを求め、――私のために血を流した、あなたのほむべき御足に口づけすることを求め、――愛する「カルバリに死せる人」を礼拝することを求め、永遠の、しぼむことなき栄誉の冠を、そのほむべき、茨の冠を戴いたが今や高くあげられた額に戴かせることを求めるでしょう。

 それからキリスト者をその人生最後の時期、死の瀬戸際へと至らせるがいい。その人を、ヨルダンの縁に接する、かの灰白色の岩々の上に置くがいい。そこに座らせ、下を渦巻いて流れる暗い急流を眺めさせるがいい。その人は、そこを押し渡ることを恐れてはおらず、むしろ死んでイエスとともにいることを願っている。この老人に何をしているか尋ねてみれば、こう答えるであろう。「主を尋ね求めています」、と。しかし、ご老人。あなたは長年にわたって主を見いだしていたと思っていましたが? 「その通りです。ですが私は、主を見いだしたときには、もっと主を尋ね求めたのです。そして、今も主を尋ね求めているのです。――主が現われなさるときに、私が主にあって満ち満ちた者となるように。主のありのままの姿を見るときに、主に似た者となるように[Iヨハ3:2]。私は、私に対する主の愛をより深く知ろうと求めてきましたが、まだそのすべてを知ってはいません。私は定命の者に知りうる限りは知っています。私はベウラの地に住んでいます。この香草の束を見てください。御使いの手が、私の《王》からの贈り物として持ってきてくれたものです。ここには《王》の愛と、あわれみと、恵みのしるしがいくつもあります。そして、彼方には天の都の黄金色の光が見えませんか? 今しも御使いたちの甘やかな歌声が聞こえませんでしたか?」 「いいえ、いいえ」、と若者は云う。「私には聞こえません」。「ですが」、と老人は答える。「私はヨルダンの縁にいるのです。私の耳は開かれていますが、あなたの耳は鈍いのです。それでも私はこれまで一生の間してきたことを今もしています。――主を尋ね求めています。そして、この脈がその絶えざる拍動をやめるまで、私はずっと主を尋ね求め、死が訪れたときには、死の解毒剤なるこの方を両腕でつかめるようにするでしょう」。

 あなたは、キリスト者のこうした描写が常に正しいことを躊躇なく告白するであろう。最年少の神の子どもを取り上げてみるがいい。――あそこにいる十歳の、バプテスマを受けて、教会に受け入れられたばかりの少年である。その子が何をしているか聞いてみるがいい。「主を尋ね求めています」。その子が中年になって、人生のあらゆる気苦労を担うようになるまでついていくがいい。そのとき、その人が何をしているか聞いてみるがいい。それでも答えは、「主を尋ね求めています」、である。その頭に白いものを混じらせ、半世紀が過ぎ去ったことを知らせてみるがいい。もう一度その人が何をしているか聞いてみるがいい。「主を尋ね求めています」。そこで、その頭を老年の冬による霜で半白にし、同じ質問をしてみるがいい。だがその人はやはり答えるであろう。「主を尋ね求めています」。その頭髪を取り去り、頭を丸禿げにしてみるがいい。墓の上で震えているその人は何をしているだろうか? 「主を尋ね求めています」。左様。私たちがこの肉体の中にある限り、いかなる立場、状況にあろうと、このことは常に私たちにあてはまるであろう。「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。

 しかし、この1つの点を後にする前に、1つ厳粛な問いかけをせずにはおくまい。あなたはそれに答えるだろうか? 私はあなたがそれに自分で答えてくれるように切に願う。あなたは主を尋ね求めているだろうか? 否。そこにいる、あなたがたの中のある人々は、葡萄酒が一瓶と鶏肉が一皿ありさえすれば、主を尋ね求めることなどよりもずっと満足するであろう。そこに別の人々がいる。――健康と体力が与えられ、この世の快楽を楽しめるとしたら、それはあなたにとって主を尋ね求めるよりも良いことであろう。また別の人々は《全能者》に反抗し、呪いを吐き、悪態をついている。――あなたは主を尋ね求めてはいない。別の人が今朝この場にいる。――かつては主を尋ね求めていたと思っていたが、今はそうするのをやめてしまった。その人が私たちの中から出ていったのは、もともと私たちの仲間ではなかったからである。「もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていた」はずだからである[Iヨハ2:19]。そこにひとりの若い女性がいる。かつては主を尋ね求めていると思っていたが、道をそれてしまい、後退してしまい、結局それがただの興奮にすぎなかったことを明らかにしている。私が今朝、この約束にあなたがた全員を含めることができたとしたら、どんなによいことか。だが私にそうできるだろうか? そのようなことをあえてできるだろうか? そのようなことが許されるだろうか? 否。許されはしない。主にかけて云うが、もしあなたが主を尋ね求めていなければ、悪魔があなたを尋ね求めているのである。もしあなたが主を尋ね求めていなければ、審きがあなたの背後に迫っているのである。今しも、速く飛ぶ正義の御使いは、獰猛な復讐の使者の前にたいまつをかざしている。この復讐の使者は、抜きはなった短刀によって、あなたの霊に対する神の御怒りを今にも執行しようとしているのである。自分の寿命をあてにしてはならない。永遠に生きていられるなどと思い描いてはならない。もしあなたが主を尋ね求めてこなかったとしたら、ジョナサン・エドワーズが云ったように、「あなたは板一枚に立って地獄の口の上にあり、その板は腐っているのである」。あなたは綱一本で地獄の上に吊り下げられており、その綱のあらゆるより糸がきしみ音を立て、みちみちと断ち切れつつあるのである。思い出すがいい。死後には審きがあり、審きの後には災いがあり、災いの後には何もない。というのも、災い、災い、災いが、永遠にあるしかないからである。「必ず来る御怒り! 必ず来る御怒り! 必ず来る御怒り!」 罪に定められた霊がその墓の中からがばっと身を起こし、あなたに説き教えるのではなくては、その何がしかをあなたに知らせることはできない。だが、たといそうしたものが墓からよみがえり、その苦悶の傷跡をことごとく体に残し、その髪の毛を復讐の熱火焔でちりちりにし、その肉体を弱まることなき炎で焦がされたまま現われたとしても、たとい一言一言に涙をこぼし、口を切るたびに呻き声を漏らし、一語一語に深い吐息をあえがせながら、自分がいかに恐ろしいものを感じているか、いかに悲惨な苦悩を味わっているかを語ったとしても、それでもあなたがたは悔い改めはすまい。それゆえ私たちは、それについてはほとんど語らないであろう。願わくは聖霊なる神が、あなたを探し求めてくださり、そのときあなたが神を尋ね求める者となり、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らされる者となるように[使26:18]。

 II. さて、次に来るのは、《対比によって述べられている約束》である。「彼らは、良いものに何一つ欠けることはない」*。これが宝石である。「若い獅子も乏しくなって飢える」。これが、その宝石を引き立たせ、より明るく輝かせるための金箔の下地である。「彼らは、良いものに何一つ欠けることはない」*。私はこれについてはほとんど語ることができない。云うべきことが、あまりにも多いからである。あなたは、一面に青草が生い茂る野に連れてこられた馬が、どこから食べ始めていいかわからないでいるようすを見たことがないだろうか? ないとしても、野生の花の咲き誇る野原に連れてこられた子どもたちの姿は見たことがあるであろう。それは、白や黄色の装いをした花々で一杯になっており、その子たちは何を最初に摘んでいいかわからない。それほど選択の余地が大きいのである。それこそ私が、このような聖句を前にしたときに感ずることである。「彼らは、良いものに何一つ欠けることはない」*。私たちは、保存されていた百万ポンドの小切手の話を聞いている。だが、ここには百万の百万倍もの値の小切手があるのである。ここには、私たちの欲求と同じくらい広く、私たちの必要と同じくらい大きく、私たちの苦悩と同じくらい深い約束がある。ある人々は、《落胆の沼》にも酷似した野心的な願いを有している。それは、国王の労務者たちが何万噸もの良いものをつぎこんでも、決して満たすことができない。しかし、主はそれらを満たすことがおできになる。いかに私たちの願望が底なしでも、いかに私たちの願いが深くとも、いかに私たちの憧れが高くとも、すべてのことが、この約束によってかなえられる。「彼らは、良いものに何一つ欠けることはない」*。

 私たちは、これを霊的な事がらにあてはめることができる。あなたは、赦されたという感覚を欲しているだろうか? じきにそれは与えられる。私たちは、より強い信仰を願い求めているだろうか? じきにそれは与えられる。あなたは、あなたの《救い主》へのより大きな愛がほしい、イエスとの内なる交わりについてより多くを理解したいと願っているだろうか? あなたは、それを受け取るであろう。「彼らは、良いものに何一つ欠けることはない」*。あなたは、自分の罪を捨てたい、この腐敗、あの腐敗に打ち勝てる者になりたい、この徳を得たい、あの長所に達したいと望んでいるだろうか? 「彼らは、良いものに何一つ欠けることはない」*。あなたの望みは、子とされること、義と認められること、聖められることだろうか? 「彼らは、良いものに何一つ欠けることはない」*。

 しかし、あなたが欲しているのは現世的なものだろうか? あなたは糧と水に欠けているだろうか? 否。私はそうではないと知っている。こう云われているからである。「あなたのパンは与えられ、あなたの水は確保される」*[イザ33:16]。あるいは、どういうわけか、それらを欠いているとしても、じきにそれらはやって来るであろう。飢えるには至らないであろう。ダビデは云った。「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」[詩37:25]。あなたは衣服を欠いているだろうか? それは与えられるであろう。「谷の百合さえ装ってくださるお方が、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」*[マタ6:30]。あなたは、現世にある何かを必要としているだろうか? それは与えられるであろう。「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられ」る[マタ6:32]からである。あなたの願いが何であれ、この約束がある。ただ行って、御座の前でこの約束を申し立てさえすれば、神はそれをかなえてくださる。私たちが、こうした約束の成就を待ち望める唯一の権利は、私たちが《約束してくださった方》を念頭に置くことである。確かに実際、時としてこの方は、私たちの願いや望みを越えたことをなさるが。この方はこうした約束を、ご自分の約束手形として、ご自分の為替手形として私たちに与えておられるのであって、もし私たちが自分の手形を持っていって御座で現金化しないとしたら、それは私たちの落ち度である。この約束は全く反古にされていないからである。「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。

 しかし、ここには1つの対比があり、私たちはすぐにそちらに移ろうと思う。「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。古い詩篇書では、こう書かれている。「富者にも求めあり、彼らは飢えぬ。されど主を尋ね求むる者は、すべての良きものに欠くることなし」。ヘブル語の「大いなる人々」と「若い獅子」という言葉は、ごく小さな符号しか違っていないようである。しかし、それはほとんど取るに足らぬ問題である。というのも、疑いもなく「若い獅子」は、「乏しくなって飢える」人々のいくつかの特徴を示すためのたとえとして記されているからである。

 この世の中には、獅子のように他の人々をおさめる王である人々が何人かいる。獅子は百獣の王であり、その咆哮に他の者らは震える。そのように私たちの間を歩く人々がいる。――やんごとなき、地位の高い、偉大で、栄誉ある貴族たち――畏敬と尊敬をもって見られている人々であり、時として彼らは、自分が獅子であるがゆえに、決していかなる霊的飢餓にも遭うことがないと確信している。彼らは、偉大で、力ある人々である。《救い主》の必要などない。彼らは市の長老ではないだろうか? 強大な勇士ではないだろうか? 高貴な偉人ではないだろうか? さらに彼らは、自己評価が高すぎるあまり、自分たちの《造り主》の法廷に出る際、このような口の利き方をするのが当然であるように思われる。「主よ。私はさほど悪い性質をしていませんでしたし、ほんの少し悪いところがあったとしても、最善を尽くしてきました! また、しかるべく良い行動ができなかったところでは、イエス・キリストが埋め合わせをしてくだいます」。こうした人々に向かって、あなたは堕落していると告げてみるがいい。「馬鹿馬鹿しい!」、と彼らは云う。そんなたわごとなど信じない。彼らの心は十分きよい。彼らには聖霊など全く必要ない。彼らは若い獅子である。お前たち小さな鼠には必要かもしれないが、われわれには全然必要ない! 彼らは、自分を覆う他者の義など全く必要ない。彼らの古い、ぼさぼさのたてがみが、彼らにとって十分な栄光である。しかし、あなたはこうした若い獅子たちが「乏しくなって飢える」ことを知っているだろうか? 左様。私たちの目につかないうちに、そうなっていることを知っているだろうか? 彼らは人々の前では大言壮語できるが、ひとりきりのときには「乏しくなって飢え」ている。しばしば彼らの脳裡をよぎるのは、自分の義がそれほど大したものではないのではないかという疑念である。彼らは、自分が長い祈りをしている間にも、貧しいやもめたちの家が自分ののどにひっかかっていることを重々承知している。自分の良い行ないを自慢している間も、自分がしかるべきほど善良ではないことを知っている。ことによると、あなたもダビデのように、「彼らは……ほかの人のようには打たれない」[詩73:5]、と考えるかもしれない。しかし、あなたにはわかっていない。彼らは非常にしばしば打たれているが、それをあなたには告げないのである。彼らがその咆哮を響かせるとき、彼らのたてがみはその貧相なあばら骨をほとんど隠せない。「若い獅子も乏しくなって飢える」。しかし、神はほむべきかな。「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。彼らは、貧しく無力であって、彼ら自身の義のわざは全く有しておらず、自らの罪と堕落を告白する者ではあっても、良いものに何1つ欠けることはない。これは驚くべきことではないだろうか? ここに神に対して罪を犯したあわれな罪人がおり、あらゆるしかたで自分の名に泥を塗ってきた。だが彼は良いものに何1つ欠けることはないのである。

   「小(ち)さき虫けら 主にぞ有せり、
    恵みと、知恵と、平安(やすき)と、義とを」。

 また、若い獅子ということで私たちが理解すべきなのは、奸知と知恵に長けた人々のことである。獅子は夜に出歩き、密林の中を音もなくうろつき、鋭敏な嗅覚を有し、どこでその獲物を見いだせるかを知っている。それは泉をかぎつけて、そこに羚羊が水を飲みにやって来ることを知っている。羚羊がやって来るとき、獅子は低く身をかがめ、狂おしい目を注ぐや、一瞬にして、羚羊が気がつく前に、獅子の爪にかけている。奸知と知恵に長けた人々――あなたはそうした人を見たことがないだろうか? 彼らの自慢げな叫びを聞いたことがないだろうか? 「独断的な説教者に私を服従させるですと! いやいや、先生。そんなことはしませんよ。聖書の十全霊感を信ずるですと! そのような馬鹿げたことは信じられませんよ。イエスの足元に座り、聖書からイエスのことを学ぶですと! いやいや、先生、そんなことはできませんよ。私は、何か論ずることのできるものが好きなのです。知的な宗教が好きなのです。私は、単に神がそう云っているからといって、何でも信ずることなどできません。私は自分で判断することを許されたいのです。私は賢く、学識ある者ではないでしょうか?」 そして、彼は、私たちが苦悩のうちにあるのを見ると、こう云うことがある。「馬鹿らしい! あなたがたには何の脳みそもない! あなたがた、あわれなカルヴァン主義者たちは正気を失っているに違いない」。だがしかし、私たちは、彼が示せるのと同じくらい多くの正気の人々を示すことができるし、私たちは彼らを恐れはしない。彼らがいかに自分たちの知恵を誇りとしていても関係ない。しかし、時としてあわれなキリスト者は、彼らを恐がることがある。彼は、彼らの詭弁に答えることができない。彼らの迷路をくぐり抜ける道が見いだせず、そうした網から脱出できない。よろしい。それらから逃れようとしてはならない。彼らには語らせておくがいい。最上の答えはしばしば沈黙である。しかしあなたは、あなたとの議論では、これほど華々しく自己充足しているこうした若い獅子が、しばしばひそかに「乏しくなって飢え」ていることを知っているだろうか? 霊的飢餓を感じていないような不信心者は世界にひとりもいなかった。彼がそうとは告白しなかったとしても関係ない。彼の信条は彼を満足させなかった。どこかに虚ろな場所、痛みを伴う空虚さ、この世では決して満たせないものがあったのである。しかし、「主を尋ね求める者」、聖書を自分の導き手としている者、エホバの言葉に無言で従う者は、「良いものに何一つ欠けることはない」。彼らは、満たされていない虚ろさを全く感じない。キリストが彼らの心を満たしておられ、彼らはその臨在と愛によって満足させられている。「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」。

 また、若い獅子とは、非常に強い人々を指している。彼らは自分自身を救おうと希望しており、その告白の道行きにおいて非常に素早い。ある人々は、キリスト教信仰の問題において非常に猛烈で、救いを獲得しようと躍起になっている。そして彼らは非常に強く、他者の力を借りるのをいさぎよしとしないほどである。あのユダヤ人たちのように、彼らは義を追い求めたが、それに到達しない。律法の行ないによって追い求めたからである[ロマ9:31-32]。あなたは、彼らがしようとしていることを一度も見たことがないだろうか? 彼らの建てた立派な会堂がある。彼らは朝の六時には祈りに携わり、何度となくアベマリアと主の祈りを繰り返す。それから、日ごとの礼拝と、ミサと、その他のあらゆるくだらないしろものがやって来る。――ミサをフランス語では mess と呼ぶが、実際それは味噌をつけまくることである。それから彼らは自らを鞭で打って、自分のからだから血を流し、ありとあらゆる種類の悔悛の秘跡を行なう。プロテスタントの間でさえ、功徳を積むことに血道をあげる人々は完全に消え失せたわけではない。多くの人々は聖なる行ないに満ちており、それを頼みに救われようとしているからである。こうしたあわれなキリスト者はこう云う。「私はこうしたすべての行ないをすることができない。できれば私が、もっと敬虔に主に仕えることができればよいのに」。しかし、あなたはこうした「若い獅子も乏しくなって飢える」ことを知らないだろうか? 形式尊重主義者は、いくら自分の形式を果たしても決して満足させられることはない。偽善者が満ち足りることは決してない。そこには必ず何かし残したことがあって、その心を痛ませるのである。

 それから私たちはこれを、現世的な意味に受け取ることもできよう。若い獅子たちとは、腹黒い狡猾な策士たちを意味しているかもしれない。あなたは今まで一度も、人々がその何千もの策や計画によって金持ちになろうとする姿を見たことがないだろうか? 他人を出し抜こうとする人々、何をたくらんでいるか見通せないほど巧妙な人々を見たことがないだろうか? 彼らは本能的に狡猾であるように見える。彼らは常に他の人々の上手に立とうと待ちかまえている。彼らは世間をうろつき、無力なやもめや、無防備なみなしごたちに襲いかかる。あるいは、ことによると、彼らはもっと合法的なたくらみを追求しているかもしれない。思惑に満ち、その実行のために自分のあらゆる機知を総動員させるようなたくらみである。しかし、否。彼らは単に「乏しくなって飢える」人々にほかならない。彼らのたくらみは、みな無駄骨であり、彼らの射た矢はみな彼らの頭上に返ってきて、彼らを傷つけることになる。しかし、ただ待つ信仰のうちに穏やかに横たわり、このように歌う者たちは、良いものに何1つ欠けることはない。

   「父よ、みこころ 日々われ待たん。
    わが受くものを 分配(わ)け給え、常に。
    汝が最善(みむね)を なし給え、我に。
    死と天その余を 啓示(あか)すときまで」。

 また、「若い獅子」ということで私たちは、「富者」――莫大な金持ち――と理解することもできよう。私たちの知っているある人々は、豪勢な馬車を乗り回し、堂々たる邸宅に住んでいたのに、赤貧洗うがごとき状態に落ち込んでしまった。時として私たちは、ほとんど百万長者のような人々が、無一文で通りに放り出される姿を目にすることがある。幾多の国王たちがわが国土を冠なしに歩いたことがあり、今でさえ私たちの慈悲にすがって生きている貴族たちがいる。高い地位の人々の娘たちは召使いとして働かざるをえず、時としてそうすることが許されるように切望することもある。富者は時々、「乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は」、貧しくはあるかもしれないが、「良いものに何一つ欠けることはない」。

 また、これは肉体労働によって生活の糧を得ているあなたにもあてはまるであろう。ことによると、あなたは病弱な人かもしれない。あなたは、隣人の頑丈な大男のような「若い獅子」のひとりではない。彼は易々と自分の日給を稼ぐことができる。彼はあなたに向かってこう云っているかもしれない。「俺は、お前みたいに貧弱な、やせっぽちにはなりたかねえな。病気にでもなったら、どうするってんだ? お前は《摂理》をあてにしてるが、俺はこのでかい両腕をあてにするのさ。一番いい摂理ってのは、自分の面倒を見てくれるもんだ。――行って、うまい晩飯を食って、気分爽快にしていることさ」。否、否。あなたは、こうした若い獅子が「乏しくなって飢える」ことになったのを見たことがないだろうか? 私たちの市中宣教師は、働き口を見つけられないでいる強壮な男たちのことを告げることができる。彼らはほとんど飢え死にしそうになっているというのに、主に仕えている者たちが何か良いものに欠けている姿を見いだすことはない。病弱な体質をしているからといって恐れてはならない。自分にできる限り一所懸命に働くがいい。そして確信するがいい。もしあなたが主に仕えているなら、あなたは良いものに何一つ欠けることはないだろう、と。

 さらにまた、獅子は「他のすべてを打ち負かして、むさぼり食らう」生き物である。私たちの社会には、そうした人々がいる。至る所にいる。彼らがあなたに手をかけると、あなたは万力に挟まれたように感じる。彼らはあなたよりもずっと法律を理解している。そして、もしあなたが間違いを犯したなら、何と悲しいことか! 彼らはあなたにつけ込んでこないだろうか? それで、取引において彼らは常にあなたを出し抜くことができる。鮫のように、彼らはあなたを完全にむさぼり食わないとしても、あなたを片足か片手のないまま残していく。しかり。だがあなたはこうした人々も「乏しくなって飢える」のを見てきた。そして、地上を歩くあらゆる惨めな悪党の中でも、何よりも貧窮しているのは、乏しくなって飢えている若い獅子である。彼は自分の金銭を穴だらけの袋の中に突っ込んでいる。そして私が思うに、地獄は貪欲な人間を笑っている。自分の隣人の富をつかむ人間を笑っている。「ワハハ!」、と悪魔は云う。「お前の魂の勝利など呪われよ。――私がお前の魂を地獄に送っても何も勝ちとれないのだ。――夢だ! お前が手に入れたものはなくなってしまう。お前はそれをつかんだ。――それは影だ! あぶく玉のためにお前の不滅の霊を売り渡したのだ。つかめば割れてしまうようなものためにな」。キリスト者よ。現世の物事について気を揉んではならない。神に信頼するがいい。というのも、「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」からである。

 III. そして今、私は第三の部分に至っている。《この約束の成就》である。時間がないため、私は、神がその通常の摂理の道行きにおいても、義人と悪人の区別をつけることがおできになることをあなたに対して証明しはすまい。それは簡単なことであったろう。神が万人の心を支配しておられる以上、富者をして、お望みのところに与えさせることがおできになるし、教会にも、主を愛する人々にも影響を与えて、常に主の貧者たちの世話をさせることがおできになる。しかし、私はこれから一二の事実を述べて、この気高い事業において私を支援してくれるように、あなたがたを発奮させたいと思う。この事業とは、永遠の福音に仕えてきながら、貧窮し、身体に障害を有している教役者たちを援助する働きである。特定バプテスト派の間には、《バプテスト基金》と呼ばれる基金がある。これが創設されたのは1717年、英国およびウェールズの貧しく難儀している教役者たちを援助するためであった。彼らは、その教会や会衆に力がないために、彼ら自身をも、彼らの家族をも十分に扶養できないでいたのである。この基金は、ほぼ一世紀半もの間にわたり、資金が間に合う限りは、それが確立された慈善的な目的を果たしてきた。これは、毎年その報告書を刊行している。最新刊の1854-55年度版の明細によると、その年で百六十五件の救援が英国で、六十五件の救援が皇太子領[ウェールズ]でなされている。支給された補助金の総計は千五百六十ポンド、十ポンドを越えて受け取った者はなく、総合収入が八十ポンドを越える教役者には決して支給されていない。そうした補助金に加えて、総額百五十五ポンドに当たる書籍も、それらを購入できない三十五名の貧窮教役者に贈与されている。こうした事例に応ずるために、当教会および他の8つから9つの首都近郊のバプテスト教会で毎年募金がなされている。そして、救援されるべき対象の人数と、性格と、環境および、この救援を与える目的を考えると、これがただの募金でないことはよく理解されるであろう。私たちには四票分の権利がある。牧師および当教会から派遣される三名の使節の票数である。それは、古の時代に、百五十ポンドを供託して本基金を開設した私たちの父祖たちのおかげである。その金額に他教会からの供託金を加えたものの利子が、毎年支出されている。種々に異なる遺贈金が他の人々によって残されてきたため、相当の金額が蓄積されてきた。そして、私の信ずるところ、現在の年間収入は、約二千ポンドあると思う。しかしながら、私たちにはさらに多くが必要である。私はこの基金について長々と告げることであなたがたを引き留めようとは思わない。だが私は、受給者たちからの手紙を一二通読み上げるであろう。最初は、八十歳になる老教役者からの手紙である。

[こうした手紙は印刷しないことが最上と考えられた。それらを書いた立派な人々の感情を傷つけないようにするためである。]

 私は、あなたの心を動かすために何もつけ加える必要はないと思う。現在、多くの貧しい教役者たちは、講壇に上る際に、両腕で胴体をぎゅっと押さえつけていないと上着がびりびりに裂けてしまいそうになっているのである。私は、彼らがそうした上着を身につけているのを見たことがある。それはあなたが、ロンドン一粗末な会堂に入るとしても着たいとは思わないような上着である。私は、自分自身、こうした聖なる人々への装いを毎年求めて得てきたが、ひとりの人間が全員の必要をまかなうことはできない。私の知っているある説教者は、この場所から十哩以内にある会堂まで歩いて行き、午前中に説教すると、また歩いて戻って行った。夕方にも説教し、また自宅へ歩いて戻って行った。では、執事たちが彼にいかほど与えたと思うだろうか? このあわれな人に生活費の足しとなるものは他に何もなく、年は八十歳近かった。だが彼が務めを終えたとき(おゝ! 御使いたち! 聞かないでほしい。どうか耳を閉じてほしい)、彼らが彼に与えたのは――1シリングだったのである! それが彼の一日分の労賃であった。別の兄弟が先日私に告げたところ、彼は八哩を歩いて行ったり来たりして、3つの説教を語り、その間、全く正餐をとらずにいた。だが執事たちが気前よく彼に与えた金額は――半クラウン[2シリング6ペンス]であった! おゝ! もしあなたが、この基金に関連したあらゆる状況を知っていたとしたら、自分の慈善心を長く抑えておくことはないであろう。この基金から支給を受けているのは、ほとんどが福音を宣べ伝えている人々である。――最上の種類の、福音の教役者たち、私たちが福音と考えるものを宣べ伝えている人々――カルヴァン主義的見解を伝える人々である。そして、この基金は常にそのような方面へと与えられるに違いない。というのも、そのように証書が指示しているからである。私はこの協会のゆえに神をたたえる。そして、神のもとにあって、あなたがたに願う。この協会を大事に守り、「若い獅子が乏しくなって飢える」ときも、主に仕える教役者が「良いものに何一つ欠けることはない」ようにしてほしい、と。

 

獅子は欠くるも子らは満ちぬ[了]

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