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回 心

NO. 45

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1855年10月7日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」。――ヤコ5:19、20


 真の信仰者は常に、自分の魂の救いに関わることを聞くのを嬉しく思う。その人は、自分のために永遠の昔に練られた契約の計画について聞くのを喜ぶ。カルバリの十字架上における大いなる成就について、《救い主》のあらゆる約定について、聖霊によるそれらの適用について、信仰者がキリストというお方において有する安泰さについて、また、救いに伴って、その相続人たる者たち全員に与えられている種々の賜物と恵みについて聞くのを喜ぶ。しかし、私が確実なこととして感じているのは、むろん私たちは自分自身の救いと、地獄からの救出に関わる事がらを聞くとき非常に嬉しく思いはするが、神に仕える説教者として、また、キリストにあって新しく造られ[IIコリ5:17]、キリストに似る者とされた者として、私たちは真に慈悲深い霊を有しており、それゆえ、他者の救いに関して聞いたり、語ったり、考えたりするときに常に嬉しく思う、ということである。私は確信するが、キリスト者として私たちは、自分自身の救いに次いで、常に他の人々の救いを尊ぶはずである。自分にとってこれほど甘やかな経験であったものを、他の人にも経験してほしいと常に願うはずである。また、自分の魂にとってこれほど計り知れないほど尊い値打ちのあるものが、神から永遠のいのちに召さるであろうすべての人々のものとなってほしいと常に願うはずである。愛する方々。私はこう確信している。今から私は、不敬虔な人々の回心について説教しようとしているが、あなたがたもこのことについて、あたかも自分の魂に直接関わることであるかのように深い関心を持つであろう、と。というのも、結局において、あなたがたの中のある人たちは、以前はそのような者だった[Iコリ6:11]からである。あなたは回心しておらず、不敬虔であった。そして、もし神があなたのことを思いやり、ご自分の民をあなたの魂のために労させなかったとしたら、あなたはどこにいただろうか? ならば、神と、神の民が、最初にあなたに対して発揮した愛と慈悲を他の人々に対して発揮するようにするがいい。

 本日の聖句には、まず第一に、1つの原則が関わっている。――すなわち、媒介的手段の原則である。――「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出(す)……のだということを、あなたがたは知っていなさい」。第二に、ここには、一般的な事実が述べられている。――「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう」。そして第三に、ここには、この事実の特別な適用がある。「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば」。これは、ひとりの罪人が「迷いの道から」引き戻される――回心させられる――場合と同じ原則である。

 I. まず最初に、ここには1つの原則が関わっている。――非常に重要な原則――すなわち、《媒介的手段》の原則である。神は、その測り知れない知恵と叡知により、媒介的手段によって他の人々の回心をもたらしておられる。確かに神は、あらゆる場合において《そのように》行なわれるわけではないが、それが神の一般的ななさり方である。媒介的手段は宇宙の方式である。新しい創造[ガラ6:15]においても、ほとんど常に、神の一般的な規則は、媒介的な手段を通して回心させることにある。さて、この第一の原則について、私たちは一、二のことを指摘したいと思う。

 まず第一に云いたいのは、媒介的手段は、神にとって必要ではない、ということである。神は、お望みになれば、いかなる媒介的手段も一切なしに魂を回心させることがおできになる。時として剣を用いることをお選びになる、大いなる《造り主》は、お望みになれば、剣なしに人を殺すことがおできになる。職人と、こてと、槌をお用いになるお方は、それをよしと見られれば、一瞬のうちに家を建てることがおできになり、その土台石から冠石に至るまで、御口から出たみことばによって完成させることがおできになる。私たちは、アブラハムの回心に、何らかの媒介的手段が用いられたとは全く聞かされていない。彼は、遠い国で偶像崇拝者たちに囲まれて暮らしていたが、カルデヤ人のウルで召された。そこで神は、疑いもなく天からの直接の語りかけによって彼を召し、カナンの地へと導き出された。それは、神ご自身の働きかけによるものであり、いかなる預言者もそこでは用いられなかった。私たちに見てとれる限り、アブラハムに説教し、彼に真理を教えることができたような者については一言も記されていないからである。さらに近代になってからも、人間の力によらずに回心をもたらす神の力には、大いなる実例がある。馬上、ダマスコへ旅しつつあったサウロは、神の子どもたちに対する激しい憤りに燃えて、男も女も捕えて投獄しよう、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来よう、と急いでいた。だが、突如として1つの声が天から聞えた。「サウロ! サウロ! なぜわたしを迫害するのか?」[使9:4] そしてサウロは新しい人となった。いかなる教役者も彼の霊の親ではなく、いかなる書物も彼を自分の回心者であると主張することはできなかった。いかなる人間の声でもない、イエス・キリストの御声が、一瞬にして、その場で、ただちにサウロに真理を悟らせたのである。さらに、ある人々は一度も回心を必要としなかったように思われる。というのも、聖書の中には、バプテスマのヨハネという1つの実例が記されているからである。こう云われている。「彼は、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされていた」*[ルカ1:15]、と。そして私の知るところ、実際ある人々は、非常な幼児期に心の変化を経験している。あらゆる幼児(その全員が選ばれているに違いないため、天国に上る者たち)が何の媒介的手段もよらずに心の変化をこうむることは確実である。また、それと同じように、ある人々については、こう記されている。すなわち、彼らは、罪ある者として生まれ、咎ある者として産み出されてはいても、非常な幼児期に主を知ることを教えられ、物心つくかつかないかのうちに主の御名のもとに導かれたために、ほとんど何の媒介的手段もなかったに違いない、と。いかなる御使いもお用いにならずに自然の大塊を打ち延ばし、それを丸い地球に形作られた、大いなる世界の《造り主》、鎚も金床もなしにこの栄光に富む世界を形作られたお方は、お望みとあらば、一言お語りになるだけで、事が実現し、一言お命じになるだけで、それが堅く立つはずである。神は手段を用いるが、それらを必要としておられるわけではない。

 第二に、別のことを指摘したいが、それは、媒介的手段は、神にとって非常に誉れとなるものであって、決して不名誉にはならない、ということである。ことによると、一見しただけでは、こう考える人がいるかもしれない。もし神が人間など用いずに、すべての回心をご自分でもたらされたならば、その方がずっと神の栄光を現わすだろうに、と。だが、それは大間違いである。神がキリスト者や他の手段によって人を回心させることは、ご自分おひとりで回心をもたらされる場合と同じくらい、神の誉れとなるのである。例えば、ある職人が自分の手だけで、ある特定の品物を形作れる力と技巧を有しているとしよう。だが、あなたは彼の手に、手に入る中でも最悪の器具を渡すとする。あなたは彼が自分の手でそれを作れるとわかっているが、こうした器具は恐ろしいほどに出来が悪く、あなたが彼の前途に置ける最悪の障害物となるであろう。さてここで私は云う。もし人が、こうした不出来な器具、あるいは貧弱な道具――刃もなく――壊れていて――ぽきんと折れそうな弱いしろもの――で、何か麗しい織物を作ることができるとしたら、その人にとっては、そうした道具を使う方が、単に自分の手だけで事を行なった場合よりも、いやまさる手柄となるのである。なぜなら、そうした道具は、利点となるどころか、その人を不利にするものでしかなかったからである。助けとなるどころか、思うに、その人の働きにとって、損害を与えるものでしかないからである。人間という媒介的手段についても、それと同じである。神にとって何か助けとなるどころか、私たちは神にとって妨げでしかない。教役者とは何だろうか? 彼は神によって救いの手段とされている。だが素晴らしいことは、これほど欠陥があり、これほど不完全で、これほど稚拙な者が、それでも神によって祝福され、主イエスのために子どもたちを生み出しているということである。これは、人が火から雨を作り出すか、どこかのごみための廃棄物から、高価な雪花石膏の壷をひねり出すのと同じくらい驚愕すべきことに思われる。神はそのあわれみによって、手段なしにキリスト者を作り出す以上のことをなさっておられる。神は、悪い手段を使って、それで良い人々をお作りになり、そのことによって、ご自分の手柄をいやまして輝かされる。なぜなら、神の媒介的手段はみながみな、非常に貧弱なしろものだからである。彼らはみな、ひどい土の器[IIコリ4:7]であって、そこに入れられた黄金の栄光を引き立たせざるをえない。それは、宝石を陳列している箔か、ある絵画の中の黒い部分が光をいやまさって輝かしく見せているのと似ている。だがしかし、箔や黒い部分は、それ自体が高価でも価値あるものでもない。そのように、神は、ご自分の栄光を現わすために種々の媒介的手段を用い、ご自分を高めなさるのである。

 ここから、また別のことを指摘しよう。通常、神は媒介をお用いになる。ことによると、千人にひとりは、神の直接的な働きかけによって回心するかもしれない。――また、ある意味で人はみな、神の働きかけによって回心するものではある。――だが、通常は、九分九厘まで、神はご自分に仕えるしもべたちや、そのみことばや、キリスト者の人々や、他の種々の手段といった媒介を用いて、私たちを《救い主》のもとに導かれる。私はある人々の話を聞いたことがある。――今でもその人々を思い出せるが――、そうした人々はサウロのように、天から直接呼ばれたのである。思い出すのはある兄弟の物語で、彼は夜の闇の中で、天からの幻と彼が信じたもの、あるいは、彼の想像力に及ぼされた何らかの効果によって、《救い主》を知るように召されたという。一方に彼は、自分の咎を記した黒い板を見たが、彼の魂は、キリストがその上に白い板を投げつけたのを見て喜んだ。そして彼は、こういう声を聞いたと思った。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」[イザ43:25]。ここにいるのは、ほとんど何の媒介もなく回心した人である。だが、あなたはこうした場合にめったに出会うものではない。ほとんどの人が罪を確信させられるのは、敬虔な姉妹たちの会話や、自分の母の聖い模範や、教役者や、日曜学校や、小冊子を読むことや、聖書を精読することによってである。それゆえ私たちは、神が媒介なしにお働きになることもしばしばある、などとは信じないようにしよう。じっと黙って座り込み、「神はご自分のみわざをなさるだろう」、などと云っていてはならない。神がみわざをなさることはまぎれもなく正しい。だが、そのとき神は、そのみわざを、ご自分の子どもたちを媒介として用いて行なわれるのである。神は、あるキリスト者が回心したとき、その人にこう仰りはしない。「そこに座っているがいい。お前がすることは何もない。わたしが何もかも行ない、すべての栄光をわたしのものとするであろう」、と。否。神は云われる。「お前は、あわれで弱い媒介である。お前には何もできない。だが、見よ! わたしがお前を強め、お前には山々をも打ち負かして小さくさせ、丘々を殻のようにさせるであろう。それでわたしは、わたしの力強い手で山々を打ち、それらを粉々に砕くよりも、お前がそれをすることによって、いや高い誉れを得るであろう」、と。

 さて、もう1つの思想はこのことである。――たとい神が私たちのいずれかを、他の人々の回心のためにお用いになられるとしても、だからといって私たちは、当然、自分が回心しているはずだと思ってはならない。これは、厳粛きわまりない思想である。神は、不敬虔な人々をも、罪人たちの回心の媒介としてお用いになる。そして奇妙なことに、最もすさまじく邪悪な行為のいくつかが、人々の回心の手段となってきた。チャールズ二世は、諸教会で『遊戯の書』が読まれ、さらに、礼拝後に教職者が、午後はいわゆる無害な気晴らしや遊戯に費やしてかまわないと全員に向かって読み上げるように命じた。私は、そうした気晴らしや遊戯がいかなるものであったか、この場で言及するつもりはない。――だが、このことさえ、回心の手段とされたのである。というのも、ひとりの人が内心こう思ったからである。「俺はいつだって聖日にはそうやって遊び興じてきたもんだ。だが、こんなことが教会の中で読まれるとはな! 俺たちはどれだけ悪くなるに違いねえことか! 国中がどれだけ腐り切っちまうことか」。こうしたことから彼は、自分の腐敗に考えを至らされ、《救い主》に導かれたのである。ある種の悪態は、ほとんど悪霊から出てきたものと云いたくなるようなものだが、それが回心の手段となることもままある。恵みは、腐った木の樋を通って来ようとそこなわれはしない。神は一度、ろばによってバラムに語られた[民22:28]が、だからといって、神のことばがそこなわれたわけではない。そのように神は、単にろばによって語るだけでなく――それはよくあることだが――、それ以下のものによってお語りになる。神は烏の口をエリヤへの食物で満たすことがおできになるが、烏は烏のままである。私たちは、神が自分を、用いられる者としてくださるからといって、私たち自身が回心していると考えてはならない。

 しかし、さらに別のことがある。たとい神がそのあわれみによって私たちを罪人たちの回心のために用いられる者となさらないとしても、だからといって私たちは、自分が神の子どもでないに違いない、と云ってはならない。私の信ずるところ、ある教役者たちは年々歳々痛ましい労苦を重ねていながら、ただひとりの魂も新生するのを見ることがない。だが、こうした人々は自分たちの責任に忠実なのであり、自分の職務をよく果たしているのである。私も、こうした場合がしばしばあるとは云わないが、そうしたことが時たま起こると信じている。だが、よく聞くがいい。彼らの職務の目的は結局果たされているのである。というのも、福音を宣教する目的とは何だろうか? ある人は、それは罪人たちを回心させることだと云うであろう。それは付帯的な目的である。別の人々は、聖徒たちを回心されることだと云うであろう。それは正しい。しかし、返すべきふさわしい答えは、――神の栄光を現わすことであり、神は、罪人たちが罪に定められることにおいてすら、ご栄光を現わされるのである。たとい私が罪人たちに神の真理を証言し、彼らが神の福音を拒絶しても、たとい私が忠実に神の真理を宣べ伝え、彼らがそれを蔑んでも、だからといって私の宣教活動は、無駄にはならない。それは、むなしく神のところに帰っては行かない[イザ55:11]。というのも、こうした反逆者らに対する刑罰においてすら、神の栄光は現わされ、彼らの滅びにおいてすら、神は誉れを得られるからである。たとい神が、彼らの賛美歌によってほめたたえられることができなくとも、神は最終的には、彼らを炎へと永遠に投げ込むとき、彼らの断罪と滅亡によって誉れを得られるからである。私たちが常に労すべき真の動機は、魂を回心させ、神の民を建て上げることにおける神の栄光であるが、決して大きな目的を見失わないようにしよう。神に栄光が帰されるようにしよう。そして、私たちが神の真理を忠実に、かつ正直に宣べ伝えるならば、神には栄光が帰されるであろう。それゆえ、私たちは魂を追い求めるべきである一方、もし神が、魂を私たちのものとすることを否まれるならば、「神がお与えになった他のあわれみも、私は受けとらないのだろう」、とは云わないようにしよう。むしろ、こう考えることによって慰められよう。――彼らが救われないとしても、イスラエルが集められないとしても、神は私たちを尊ばれ、誉れを最後には与えてくださるであろう、と[イザ49:5参照 <英欽定訳>]。

 この主題について、もう1つの思想だけ述べておきたい。――神は私たちを媒介として用いることによって、人間の受けうる最高の栄誉を私たちに授けておられる。おゝ、愛されている者よ! 私はこのことをくどくど述べようとは思わない。このことを考えるだけで私たちの心は燃えるべきである。私たちは、神が魂を回心させるために私たちをお用いになることによって、大きな光栄を与えられていると感じるべきである。また、その一方で、神の恵みだけが私たちに、私たちを有用なものとしているのは、恵みであり、恵みだけであると教えている。私たちが魂を《救い主》のもとに導いていると考えても、私たちをへりくだらせ続けることができるのは、恵みだけである。この働きは、いったんここに入り、神によって祝福されたなら、やめることのできない働きである。その人は働きたくてたまらないであろう。より多くの魂をイエスにかちとろうと切望するであろう。こうみなすであろう。こう考えるであろう。この労苦は実に楽なものであり、自分は、何とかして、幾人かでも救い[Iコリ9:22]、人々をイエスのもとに連れて行きたい、と。このようにご自分の民に誉れを与えてくださる神に、栄光と誉れ、賛美と力がささげられるように。しかし、神が私たちを最も高めてくださるとき、私たちはそれでもこう結論するであろう。「私たちにではなく、私たちにではなく、栄光を、ただあなたの御名にのみ永遠に帰してください」*[詩115:1]。

 II. 第二に考えたいのは、《一般的な事実》である。「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう」。定命の胸で知りうる最高の幸福は、慈悲という幸福――自分の同胞に善を施すという幸福――である。肉体を死から救い出すことは、私たちにとって、ほとんど地上で天国を味わうほどの喜びとなる。ある人々は、自分が幾人もの魂を破滅に送り込んだこと、自分の同胞たちの多くのこの世から叩き出したことを平然と自慢するであろう。時折私たちは、自分が何人もの敵兵を戦いで打ち殺したと云っては大威張りの兵士に会うことがある。自分の抜く手も見せぬ冷酷な剣が幾多の敵の心臓をえぐってきたのだと。だが、私はそれを栄光とは思わない。もし私が、ひとりでも、だれかの死をもたらす手段になったと考えたとしたら、私は夜ほとんど休むことができないと思う。というのも、そのように殺された哀れな人の陰惨な亡霊が、私の眼前で私を見つめるだろうからである。私は自分が彼を殺したこと、そして、ことによると、彼を汚れたまま、洗われていないまま、その《造り主》のもとへ送り込んだことを思い出すであろう。兵士になりたがる人がいるというのは、私には驚くべきことに思われる。私はそれが良いとも悪いとも云わない。それでも、そういう人々がいくらでも見つかることに驚くものである。私は、いかにして彼らが戦闘の後で自分の手から血を洗い流し、自分の剣を拭って仕舞っておき、それから横になって眠りにつき、安眠できるものか、見当もつかない。私であれば、夜には悲しみのあまり頬に涙を熱く流し、死に行く人の悲鳴や、永遠に近づきつつある人の呻きが耳を苦しめるであろうと思う。他の人々がいかにしてそれに耐えられるのか私にはわからない。私にとっては、自分が同胞の滅ぼし手となったなどと考えられるとしたら、それは地獄の表玄関となるであろう。しかし、肉体を死から救い出す媒介となるのは、何という至福であろう! あのサンベルナール峠の修道僧たちは、人々を死から救出するとき、幸福を感じるに違いない。救助犬が扉の所にやって来れば、彼らはそれが何を意味しているかがわかる。その犬は、どこかの疲れきったあわれな旅人が行き倒れになり、雪の中で眠って、寒冷と疲労のために死にかけているのを発見したのである。僧たちは心地よい暖炉のそばから立ち上がり、その遭難者に対する良きサマリヤ人として行動しようと一心になる。ついに彼らはその人を見つけ、呼びかけてみるが答えはない。そのからだにまだ息が残っていないか確かめようとする。そして彼らはその人が死んでいるのだと思う。彼らは彼を抱え上げ、手当をし、自分たちの宿泊所へと急行する。彼らは彼を火のそばに横たえ、暖め、からだをこすってやり、情け深げな不安とともにその顔をのぞき込む。あたかもこう云うかのようである。「可哀想に! もう死んでいるのかい?」 そしてとうとう、彼らがかすかに肺の上下するのを感知したとき、「まだ息があるぞ」、と云うこの兄弟たちの胸に何という喜びがあることであろう。私が思うに、もしも地上に幸福がありえるとしたら、それはこのあわれな、死にかけている人の手をこすり暖める助けをし、その人を再び蘇生させる手段となるという特権であろう。あるいは、別の例を考えてみるがいい。ある家が火事で燃え上がっており、その中にひとりの婦人とその子どもたちがいる。彼らはどうしても脱出することができない。階段を下りようとしても下りることができない。彼女は冷静さをまったく失っていて、何をどうすればいいかわからない。そこへひとりの強壮な男性がやって来て、「どいてくれ! どいてくれ! あの人を助けなければ!」 そして、慈悲心という情け深い流水によって冷やされつつ、彼は突き進む。身を焦がされながら、また、ほとんど窒息しそうになりながら、彼は手探りで進んでいく。ある階段を上り、また別の階段を上る。そして、階段がぐらぐらしているにもかかわらず、彼はその婦人を腕の下にかかえ、子どもを肩に乗せて、下りてくる。それまで持ってもいなかっような大きな力を発揮し、その偉躯は二倍も大きく見える。彼は自分のいのちを危険にさらした。ことによると、腕の一本は不具になったかもしれない。手足の一本は切断されるかもしれない。あるいは感覚を失うかもしれない。あるいは取り返しのつかない何らかの損傷を肉体に受けているかもしれない。だが彼は手を打ち鳴らして云う。「私は死からいのちを救い出したぞ!」、と。通りの群衆は彼を、自分の同胞の救出者として歓呼する。そして、ある都市を急襲し、町を略奪し、無数の人々を殺した王侯に対するよりも大きな栄誉を彼に与える。

 しかし、あゝ! 兄弟たち。今日、死から救い出された肉体は、明日死ぬかもしれない。死から救い出された魂はそうではない。それは永遠に救われている。破滅する恐れなどないまでに救われている。そして、もし肉体を死から救うときに、慈悲深い人の胸に喜びがあるとしたら、その人が神の御手の下にあって、「たましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう」手段とされたときには、いかにいやまさる至福があるに違いないことか。かりに、あなたが、何らかの会話によって、ある魂を死から解放する手段とされたと考えてみるがいい。愛する方々。あなたは、いかなる回心も神の下にある教役者によって行なわれると想像しがちである。それは大きな間違いである。多くの回心は、何の変哲もないひとりの人から出た、素朴きわまりない言葉によってもたらされた。語られたほんの一言が、丸々1つの説教よりも、回心の手段となることがありえる。あなたは、そこに私の前で座っている。私はあなたに突きかかるが、あなたは遠すぎる所にいる。しかしながら、ある兄弟があなたに向かって一言意見を云う。――それは、あなたの心をぐさりと刺す一突きにほかならない。神はしばしば、ひとりの友人から出た短い簡潔な云い回しの方を、教役者からの長い講話にまさって祝福してくださる。以前ある村に、信仰復興が起こっていた頃、ひとりの断固たる不信心者がいた。教役者や多くのキリスト者の人々のあらゆる努力にもかかわらず、彼はいかなる試みにも抵抗し、自分の罪にますます凝り固まっていくように見えた。とうとう人々は、特に彼の魂のためにとりなす祈祷会を開いた。その後、神は、その教会の長老のひとりの心に、このあわれな不信心者のために徹夜で祈る思いを与えられた。朝になってこの長老は立ち上がり、自分の馬に鞍を置くと、その男の鍛冶場へと乗っていった。彼は相手に山ほど云いたいことがあったが、いざとなると、ただその男のもとへ行き、その手を取って、ただ一言しか云えなかった。「おゝ、お前さん。わしはあんたの救いのことが深く心にかかっておる。あんたの救いのことを深く気に病んでおる。わしは、あんたの救いのために一晩中神と格闘したのだよ」。それきり彼は何も云えなくなった。胸が一杯になったのである。それで馬にまたがって、再び去っていった。その鍛冶屋は鎚を置いて、すぐに自分の細君に会いに行った。彼女は云った。「あんた何かあったの?」 「えらいこった」、と彼は云った。「今度は新手の理屈で攻められたのよ。某長老が今朝ここに来てな、『わしは、あんたの救いが心にかかっておる』、と云うだよ。さてとだ。もしあん人がおらの救いのことを心にかけてるってのに、おらがそのことが心にかけてねえのは、変てこなことじゃねえか」。その男の心は、この長老の親切な言葉によって、すっかり捕えられてしまったのである。彼は自分の馬を引き出すと、その長老の家までやって来た。彼がそこに着いたとき、この長老は自分の居間にいて、まだ祈っていた。そこでふたりは一緒に膝まづいて祈った。神は彼に悔いた魂、砕かれた心を与え、このあわれな罪人を《救い主》の足元に導かれた。そこには、「死から救い出されたたましい、また、おおわれた多くの罪」があったのである。

 さらに、あなたは、あなたが書く一通の手紙によって、回心の手段となることがある。あなたがたの中の多くの人々は、口で多くのことを語ったり、云ったりする力がない。だが、ひとり自分の居室に座れば、神の助けによって、自分の親しい友に手紙を書くことができる。おゝ! これは、用いられる者となろうと努力する非常に甘やかな方法だと思う。私は、自分が最初に《救い主》の御名を愛したときほど、自分の同胞たちの魂に対する大きな熱意を感じたことは一度もないと思う。そして、そのときの私は説教することなどできず、群衆に向かって証しできるなどと決して考えもしていなかったが、小さな紙切れに聖句を書いて、そこら中にそれを落として歩いたものである。それは、どこかのあわれな人がそれを拾い、その魂に対するあわれみの使者として、それを受け入れてくれないかと思ってのことであった。そこにあなたの兄弟がいる。彼は無頓着で、かたくなである。姉妹よ。座って彼に手紙を書くがいい。それを受け取るときの彼は、ことによると、微笑むかもしれないが、彼は云うであろう。「あゝ、そうだ! 何にしても、これはベッツィーの手紙だからな!」、と。そして、そこには何らかの力があるあろう。私の知っていたある紳士は、愛する妹からしきりに彼の魂に関する手紙を受け取っていた。彼は云った。「私はよく、街灯柱に背中をもたせかけて立ち、煙草を口にくわえながら、ことによると午前二時くらいに、彼女の手紙を読んだものです。私はいつもそれを読みました。そして、妹の手紙を読み終えるたびに、涙があふれてくるのでした。なおも自分の誤った道を歩き続けていても、そうした手紙がいつも私を押し止め、いつも私を罪から引き離す手のように思われました。『戻ってきて! 戻ってきて!』、と叫ぶ声のように思われました」。そして、ついに彼女からの一通の手紙が、ある厳粛な摂理とあいまって、彼の心を砕く手段となり、彼は《救い主》を通して救いを求めたのである。

 また、いかに多くの人々が真のキリスト者たちの模範によって回心させられてきたことか。あなたがたの中の多くの人々は、自分には書くことも説教することもできないと感じており、自分には何もできないと思っている。よろしい。あなたには、自分の《主人》のためにできる1つのことがある。――あなたは、キリスト教を生きることができる。あなたのうちに書き記されている、キリストにある新しいいのちを眺めるであろう人の数は、聖書に書き記されている昔の人々の人生を眺める人よりも多い思う。ある不信心者は、あなたが聖書を彼の前に広げても、理屈をこねてそれに論駁しようとするであろう。だが、もしあなたが、自分にしてもらいたいことを他の人にもしている[マタ7:12]としたら、もしあなたが自分のパンの中から貧者に与え、困窮する人々に分け与え、イエスのように生き、親切と愛の言葉を広め、世にあって正直で廉直に生活しているとしたら、その人は云うであろう。「なるほど、聖書は全部偽善だと思っていたが、今ではそうとは思えない。なぜなら、誰それ氏がいるからだ。彼の生き方を見るがいい。彼さえいなければ、私は自分の不信心を信じていられのだが。聖書は確かに彼の人生にある効果を及ぼしている。それゆえ私はそれを信じざるをえない」、と。

 さらに、いかに多くの魂が、一部の人々の執筆して、出版する賜物によって、回心させられることか。ここにドッドリジ氏の『キリスト教信仰の上昇と向上』がある。その中には私が断固として反対したいことが二、三書かれているが、私はだれもがこの本を読んでいたならばと願うものである。それほど多くの回心をこの本は生み出してきた。ウォッツの『詩篇と賛美』を書くことの方が、ミルトンの『失楽園』を書くよりもずっと誉れあることだと思う。また、老ウィルコックスの『蜂蜜のしたたり』、あるいは神が非常に用いてこられたあの小冊子――『罪人の友』――を書く方が、ホメーロスの全作品を書くよりも、ずっと栄光あることだと思う。私は、人々の魂に施す善によって書物を評価する。いかに私がポープや、ドライデンや、バーンズの天才を尊敬していようと、神が魂をご自身のみもとに引き寄せることにおいて尊ばれたクーパーの素朴な詩歌を私は好む。おゝ! 私たちがあわれな罪人たちの心に届く書物を執筆し、出版できると考えられることの素晴らしさよ。先日、私の魂をことのほか喜ばせたのは、ひとりの敬虔な婦人から訪問してほしいと招かれたことであった。彼女が私に告げたところ、彼女は十年間寝たきりで、そこから全く動くことができなかったという。「九年間」、と彼女は云った。「私は無知で、盲目で、考えなしでした。ところが主人が私にあなたの説教の1つを持ってきてくれたのです。私はそれを読みました。そして神はそれを祝福して私の目を開いてくださいました。それによって神は、私の魂を回心させてくださったのです。そして今、神にすべての栄えあれ! 私は神の御名を愛しています! 聖日の朝ごとに」、と彼女は云った。「私はあなたの説教を待っています。私はそれで一週間を生き延びるのです。それが私の霊にとっては脂肪と髄なのです」。あゝ!、と私は思った。ここには、印刷工たちを、またこの良き働きに労している私たち全員を元気づけるものがあるぞ、と。ひとりの善良な兄弟が、今週私に手紙をこう書いて寄こした。「スポルジョン兄弟。勇気を持ち続けてください。あなたは、英国の大勢の家庭で知られており、愛されてもいます。私たちはあなたの話を聞くことも、あなたの生きた姿を見ることもできませんが、わが国の村々の至る所で、あなたの説教は撒き散らされています。そして、私はそうした説教による回心が何件も起こっているのを知っています。ここでは語り尽くせないくらい何度もです」。別の友人が、英国国教会の教職者のひとりの名を私にあげてくれた。その人は、とある聖堂の参事会員で、聖日にはしばしば説教をしているという。――その聖堂でか、それ以外の場所でか私にはわからないが、彼がそうしていることを願う。おゝ! こうした説教とが印刷されたとしたら、それがいかなる心に達するか、いかなる善を生じさせることになるか、だれにわかろう? 私が三週間前に語った言葉を、いま熟読している目があり、読むにつれて、その目から涙がふきこぼれているのである! 「いと高き神に栄光があるように!」

 しかし、結局のところ、説教こそは、罪人たちの救いのために定められた手段である。そして、これによって、他のいかなる手段より十倍もまさる人々が《救い主》に導かれている。あゝ! 愛する方々。説教によって魂を死から救う手段となること、――これは、何という誉れであることか。ひとりの若者がいる。彼がその教職者生活を始めてから、さほど経ってはいない。彼が講壇に立つと、あらゆる人は、彼がいかに年齢に似合わない深い厳粛さを帯びているかに気づく。彼の顔は青白く、地上のものならぬ厳粛さで蒼白になっている。彼の肉体は、その労苦によってやつれている。絶えまない学びと、深夜のともしびが、彼を消耗させているのである。だが、彼が口を開くと、魂を天国に引き上げるような素晴らしい言葉を発する。そして、年老いた聖徒は云う。「よきかな! わしは、あの人の声を聞くときほど、天国の間近に行ったことは一度もないわい!」 そこにひとりの陽気な青年が入ってきて、耳を傾けては、彼の見解を批判する。その青年は、これはまるで自分にはお呼びでないものだと考える。だが耳を傾け続ける。1つの思想が彼を打ち、また別の思想が彼を打つ。この人を見るがいい。彼はそれまでの人生でずっと道徳的であった。――だが決して新しくされたことがなかった。いまや彼の頬を涙が流れ始める。あなたの耳を彼の胸にそっとつけてみるがいい。すると彼がこう呻いているのが聞こえるであろう。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ17:9]。あゝ! 憔悴したからだ、また、すり切れそうな身体にとって何と素晴らしい報いであろう! あるいは、別の例を取り上げてみるがいい。ある人が神のことばを宣べ伝えている。彼は自分の《主人》の使信を伝えるために立っている。そこに、どこかのあわれな娼婦がこっそり聞き耳を立てている。そのような場合があることに、私は少し前に気づかされた。ひとりのあわれな娼婦が、行ってブラックフライアーズ橋から身投げして死のうと決心した。ある日曜の夜、この会堂の扉の前を通り過ぎた彼女は、足を踏み入れてみよう、そして最後の最後に、自分の《造り主》の前に立つ備えをさせてくれるようなことを聞いておこうと考えた。彼女は通路に無理矢理からだを押し込み、私が講壇に立つまで逃れることができなくなった。その日の聖句は、「この女を見ましたか」[ルカ7:44]、であった。私は、マグダラのマリヤと彼女のもろもろの罪について詳しく語った。彼女が自分の涙で《救い主》の御足を洗ったこと、それを自分の髪の毛でぬぐったことを語った。そこにその婦人は立って、そのように自分のことが語られて、自分の人生が描き出されていると考えて、心が全く溶かされていった。おゝ! ひとりのあわれな娼婦を死から救うこと、このような者が墓に下っていくのを助け出し、神のみこころによって、彼女の魂が地獄に落ちていくのを救うこと! これそ、もし私たちが一万ものいのちを神の祭壇の前にことごとくいけにえとしてささげることができたとしたら、それにも値するではないだろうか? 本日の聖句を昨日考えていたとき、私は、神がこのような栄誉を私に与えてくだっていることを考えて泣くことしかできなかった。おゝ! 方々。あなたがたには、この《贖い主》の御国の進展のために費やすことにまさる時間や富の使い方があるだろうか? 魂を死から救い、多くの罪をおおうという、この聖なる事業ほど聖いものに、あなたは携われるだろうか? これは、あなたがたが持って行くことのできる富である。――魂を死から救い、多くの罪をおおうことによって、神のもとで獲得された富である。

 いま、御座の前には、この祈りの家で最初に悔悟の涙を流し、この声を聞いたことを神に感謝した何人かの人々がいることを私は知っている。そして、私が思うに、彼らは、このように神が誉れを与えられた者に対する優しく情愛のこもった愛をまだいだいている。福音の教役者よ。もし地上にいるあなたが魂をかとちる特権にあずかっているとしたら、あなたが死ぬときには、こうした霊たちが、あなたの守護天使となるのを喜ぶであろう。彼らは云うであろう。「父よ。私たちの愛するあの人が死にかかっています。私たちは行って彼を見守ってもよいでしょうか」。「よかろう」、と神は云われる。「あなたがたは行ってよろしい。天国をあなたがたとともに伴って行くがいい」。その霊たちが下ってくる。仕える御使いたちがやって来る。そして、おゝ! いかに情愛をこめて、彼らが私たちを見下ろすことか。彼らは、もし彼らにできることなら、額の深いしわを打ち消してやりたい、彼らのほむべき手で、じっとりとした冷たい汗を拭い去ってやりたいと願うであろう。彼らがそうすることは許されていない。だが、おゝ! いかに彼らが優しくそこで苦しんでいる人を見守っていることか。その人こそ、彼らの魂に善を施す手段となった人なのである。そして、その人が自分の目を開くときには、彼らが守備兵のように自分の寝台の回りを囲んで、こう云っているのが聞こえるはずである。「ようこそいらっしゃいました。私たちとともに来てください。神の誉れあるしもべよ。私たちとともに来てください」。そして、その人が天国へ向けて、力強い信仰の翼でみるみるうちに舞い上がってゆくとき、その人につきそっているこの霊たちは、自分たちの翼をその人の後ろで打ち鳴らすであろう。そしてその人は、多くの冠を頭に乗せて天国に入り、そのすべてを喜んでイエスの足元に投げ出すであろう。おゝ、兄弟たち。もしあなたがたが、ひとりの罪人をその迷いの道から引き戻すならば、自分が1つのたましいを死から救い出し、多くの罪をおおうのだということを思い出すがいい。

 III. 《適用》については、さらりと言及することしかできない。それはこうである。罪人の回心の手段となる人は、神のもとにあって、「罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう」が、特に注意を払うべきなのは、信仰後退者についてである。というのも、信仰後退者を教会に導いてくることは、罪人を導いてくることと同じくらい多くの誉れを神に帰すからである。「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば」。悲しいかな! あわれな信仰後退者はしばしば最も忘れ去られている。ひとりの教会員が自分の信仰告白に泥を塗ったとする。教会はその人を除籍し、その人は「異邦人か取税人」[マタ18:17]のようにみなされた。私の知っているある人々は、福音の教職者として堅固な立場にあったが、十年前に罪に陥った。そして、今日のこの日に至るまで、私たちの面前に放り出されている。あなたは彼らについて語るだろうか? たちまちこう教えられる。「いや、十年前に、あの人たちはこれこれのことをしたのですぞ」。兄弟たち。キリスト者の人々は、こうした事がらをその後もこれほど長く気に留めていることについて恥じるべきである。確かに、取扱いにおいては普通よりも警戒を用いてよいであろう。だが、ひとりの転落した兄弟を、これほど昔に行なったことにゆえにとがめることは、あのヨハネの精神とは反対である。ヨハネは、ペテロが自分の《師》を三度、誓いと呪いをもって否定した三日後に、彼の後に続いたのである[ヨハ20:6-8]。近頃では、ある人が転落すると、その人とは何の関わりも持たないようにすることが流行りである。人々は云う。「あいつは悪い奴だ。私たちは、あいつの後など追うまい」。愛する方よ。かりにその人が最悪の人間だとしても、それが、あなたがその人の後を絶対に追わない理由になるだろうか? かりにその人が一度も神の子どもでなかったとする。――その人が一度も真理を知っていなかったとする。それは、あなたが彼を追い求めるべき、より大きな理由ではないだろうか? 私は、あなたに、罪人のかしらを追っていかせようとしない、あなたの吐き気を催すような慎みや、あなたの過度の高慢が理解できない。事情が悪ければ悪いほど、私たちが行くべき大きな理由があるはずである。しかし、かりにある人が神の子どもだったとして、あなたがその人を放逐したのだとする。――思い出すがいい。その人はあなたの兄弟なのである。あなたと同じくらいキリストと1つになっているのである。あなたと同じく義と認められており、あなたと同じ義を有している。そして、もし、その人が罪を犯したとき、あなたがその人を蔑むとしたら、その人を蔑むということにおいて、あなたはその人の《主人》を蔑んでいるのである。用心するがいい! あなた自身が誘惑を受けるかもしれない。そして、いつの日から転落するかもしれない。ダビデのように、あなたは自分の家の高すぎる所を歩いていて、自分を罪に至らせるものを見るかもしれない[IIサム11:2]。そのとき、兄弟たちが軽蔑をもってあなたを通り過ぎ、あなたに何の関心も払わないとしたら、あなたは何と云うだろうか? おゝ! もし自分の教会にひとりの信仰後退者を有しているとしたら、その人に特別の配慮をするようにしよう。その人につらく当たってはならない。神の恵みがなければ、あなたも信仰後退者になっていたであろうことを思い起こすがいい。私はあなたに忠告する。もしあなたが、罪のうちに生きている信仰後退者たちを見かけたならば、彼らにはことのほか用心するがいい。だが、もししばらく経ってから、何らかの悔い改めのしるしが見られたならば、あるいは、見られなくとも、行って、そのイスラエルの家の滅びた羊[マタ10:6]を見つけ出すがいい。というのも、覚えておくがいい。あなたがたのうちのひとりが、真理から迷い出て、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだ」ということを思い出すがいい。

 「信仰後退者よ。自分のみじめさを痛感している者よ」。私はしばしあなたの後を追ってみよう。あわれな信仰後退者よ。あなたは一度はキリスト者であった。あなたは、一度そうであったことは期待しているだろうか? 「いいえ」、とあなたは云う。「私は、自分をも他人をも欺いていたのだと思います。私は神の子どもなどではありませんでした」。よろしい。もしあなたがそうでなかったとしたら、こう云わせてほしい。もしあなたがそれを認めるならば、神はあなたを赦してくださるであろう。かりに、あなたが教会を欺いていたとしよう。といっても、そうしたのはあなたが最初ではない。残念ながら、この教会の教会員の中には、そうしたことのある人がいるが、私たちに見つけ出されていないのではないかと思う。私はあなたに云うが、あなたの場合は絶望的なものではない。それは赦されない罪ではない。選民さえも欺こうとした者たちのうち何人かは、それでも救い出されてきた。そして、私の《主人》は云っておられる。ご自分は、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]、と(そして、あなたの逸脱は「完全」をしのぐようなものではない)。ならば、主の御足のもとに来るがいい。身を投げ出して主のあわれみにすがるがいい。そうすれば、いったんは主の陣営に間者としてもぐりこんだことのあるあなたをも、主はそのことのゆえに縛り首にしたりせず、あわれみの戦利品としてあなたを何とかしてご自分のものにすることをお喜びになるであろう。しかし、もしあなたが神の子どもだったことがあり、正直に、「私は以前は主を愛していましたし、主も私を愛しておられました」、と云えるとしたら、私はあなたに告げるが、主は今もあなたを愛しておられる。もしあなたが、それほどはるか遠くまで道を踏み外していったとしても、あなたは今も変わらず神の子どもなのである。あなたはあなたの御父から逃げ出して行ったが、戻って来るがいい。戻って来るがいい。神は今もあなたの御父なのである。神が剣を鞘から抜いてあなたを殺そうとしておられるなどと考えてはならない。「神は私を絶縁してしまったのだ」、と云ってはならない。神はそうしておられない。神は今、あなたを哀れに思って胸を熱くしておられる。私の御父はあなたを愛しておられる。ならば、その御足のもとに来るがいい。そうすれば、神はあなたがしたことをあなたに思い出させることすらなさらないであろう。あの放蕩息子は、自分の父親に、自分のすべての罪を告げて、自分を雇い人のひとりとしてほしいと頼むつもりだったが、父親は彼の口をふさいだ。父親は、息子が、自分はあなたの息子と呼ばれる資格はありません、とまでは云わせておいたが、「雇い人のようにしてください」、と云わせようとはしなかった[ルカ15:21-22]。戻って来るがいい。そうすれば、あなたの御父はあなたを喜んで迎えるであろう。あなたを抱きかかえ、その愛の口づけを何度もあなたに与え、こう云われるであろう。「わたしは、いなくなっていたこの子を見つけた。道に迷っていたこの羊を見つけた」、と[ルカ15:32、6参照]。わたしの御父は、何の行ないもないあなたを愛し、それにもかかわらずあなたを義と認めてくださった。今のあなたの功績は、そのときと同じ程度のものでしかない。来て、信頼して、神を信ずるがいい。

 最後に、あなたがた、自分は信仰後退者ではないと信じている方々。もしあなたが救われるとしたら、魂が死から救い出され、多くの罪がおおわれるのだということを覚えておくがいい。おゝ、愛する方々。もし私があなたがた全員をつかまえるために、百本腕の人になることができるとしたら、私は喜んでそうなるであろう。もしも何か私に語れることであなたの魂をかちとれるとしたら、――もしここで今から真夜中まで説教することで、少しでもあなたがたの中のある人々を《救い主》の愛へととらえる可能性があるとしたら、私はそうするであろう。あなたがたの中のある人々は、盲滅法に地獄へと突き進みつつある。話を聞いている方々。私はあなたを欺きはしない。あなたは、時間があなたを運んで行く限りの早さで破滅へと向かっている。あなたがたの中のある人々、自分は義人だと考えて自分を欺いているが、実は義人などではない。あなたがたの中の多くの人々は、これまで何度も厳粛な警告を受けてきたが、一度もそれによって動かされたことがない。あなたは、そうした警告が与えられるしかたを賞賛してきたが、その警告そのものは一度もあなたの心に入ったことがない。あなたがたの中の何百人もの人々は、神なく、キリストから離れ、イスラエルの国から除外されている[エペ2:12]。では、私はあなたに嘆願してもよいではないだろうか? 陰鬱な宗教上の決まり事が私をとりこにしていて、一言も私に語らせないでいるだろうか? あなたは、「神は、悪人に対して日々、怒る神」[詩7:11 <英欽定訳>]であることを知っているだろうか? 「そむく者の道は厳しい」[箴13:15 <英欽定訳>]こと、「信じない者は……すでにさばかれている」[ヨハ3:18]ことを知っているだろうか? 「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]、ということは一度もあなたに告げられたことがないだろうか? あなたは罪に定められても平気なのだろうか? 私の話を聞いている方々。あなたは地獄に床を設けることができるだろうか? かの穴の中に横たわることができるだろうか? 永遠に炎の波浪に揺すられ、希望も訪れることがありえない場所で悪霊たちに翻弄されていることが、あなたの魂にとって楽な境遇だと思っているのだろうか? あなたは今は微笑んでいるかもしれないが、じきに微笑むのをやめるであろう。神はいま私を使節として遣わしておられる。だが、もしあなたがたが私の云うことを聞かなければ、神は次には使節ではなく、処刑人をお遣わしになるであろう。じきに、あわれみの懇願する声はなくなるであろう。あなたが聞くことになる唯一の勧めは、単調で冷たい死の声となるであろう。それは、「私とともに来い」、と云うであろう。そのときあなたは、私たちが神の賛美を歌う場所にも、正しい祈りが日々ささげられる場所にもいないであろう。あなたが聞くことになる唯一の音楽は、罪に定められた者らの溜め息であり、悪鬼どもの金切り声であり、苦悶を受けている者らのわめき声であろう。おゝ、願わくは神がそのあわれみによって、炎の中から燃えさしを取り出すように[アモ4:11; ゼカ3:2]あなたをひったくり、永遠にご自分の恵みの戦利品としてくださるように。救われる道は、「汝(な)が行為(わざ)と道 嘆きて棄てて」、イエスのもとに逃れ来ることである。そして、もし今あなたが良心を打たれた罪人だとしたら、それが私の欲するすべてである。もしあなたが、自分は罪人であると告白するとしたら、それが神があなたに要求しておられるすべてであり、そのことすら神はあなたに与えてくださる。イエス・キリストは云われる。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。あなたはキリストの懇願する声が聞こえるだろうか? あなたは、キリストのあわれみ深い甘やかなまなざしに背を向けるのだろうか? キリストの十字架は何の影響も有していないのだろうか? キリストの御傷はあなたをその御足のもとに導く力が全くないのだろうか? あゝ! ならば、私に何が云えようか? 人の力にまさる御霊の腕だけが、硬い心を溶かし、強情な意志を地にひれ伏させることができる。罪人たち。もしあなたが今朝、あなたの罪を告白するなら、キリストがあなたのためにおられる。あなたは、「おゝ、どこで彼が探せばよいかわかっていたら」、と云う必要はない。《ことば》はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある[ロマ10:8]。もしあなたが、主イエスを心で信ずるならば、また、あなたの口で告白するならば、あなたは救われるであろう[ロマ10:9-10]。というのも、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められ」るからである[マコ16:16]。

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回心[了]

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