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除夜礼拝

NO. 59

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1855年12月31日、月曜日夜の集会
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


哀歌2:19


 もしも私がなぜ除夜礼拝を開くのかと問われたとしたら、こう答えてほしい。――私は、主がその礼拝をご自分のものとしてくださり、魂が救われるようになることを望んでいるからだ、と。私はイエスの福音を、いついかなるときも宣べ伝えてきたし、聴衆を集められさえするなら、真夜中に宣べ伝えてはならないという法はないと思っている。私がそうするのは人真似からではなく、この上もない理由からである。――すなわち、善を施し、イスラエルの散らされた者たちを集める手段となりたいとの望みからである。私は、この身体と精神が任に堪える限りは、一日のうちの何時にでも説教したいと思う。いかに魂が罪に定められつつあるか、またいかに僅かな者しかそれらのために叫ぶことも、嘆くこともしていないかを思うとき、私はパウロとともにこう叫ばざるをえない。「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」[Iコリ9:16]。おゝ、願わくは新年が過ぐる年よりもはるかに良いものとなるように。

 私は、この礼拝の模様が印刷されたのを見て、ほとんど申し訳ないような気持ちがしている。多くの人々が正規の《説教》から得ている週毎の食物を奪うのではないかと恐れるからである。だが、印刷されてしまったからには、主がこれをイエスのためにご自分のものとしてくださるように祈るものである。――C.H.S. 


立錐の余地もないほど混み合っている会堂の中で、説教者が講壇に立ち、祈りに続いて、以下の節を読み上げた。――それを会衆が、続けて歌った。――

  「汝ら賢き おとめら、起きよ!
すべての死人(しびと)の 目覚めとともに。
      いざ救いへと
  汝が器(うつわ)に 油をとりて。
  立てよ、彼方の《夜中の声》に。
   汝が花婿の 近きを見よや」。

その後、二人の兄弟が《教会》と《世》のために祈った。それは、イエスを知る知識が広まり、それによって、新年が栄光の衣をまとうようにとの祈りであった。――それから講解が続いた。

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《講解》

詩篇90:1-12

1. 「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」。

しかり、エホバよ。《私たち》、あなたの子らは、あなたが私たちの家であり、私たちの安全な住まいであると云えます。そして私たちは、おゝ、いかなる喜び、いかなる平安を、神の聖なるふところのうちに見いだしていることか。主の御胸のような家は他にない。そこへと、世々にわたって真の信仰者はみな飛んで行くのである。不信者の方々に尋ねたいが、どこにあなたの喜びがあるだろうか。あなたがた、罪の子ら、愚かさの娘たち。どこにあなたの住まいがあるだろうか?

2. 「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です」。

そして、この同じ神は、ご自分の民を愛し、彼らの罪を見過ごし、彼らの不義を覚えておられない。おゝ、愛する方々。こう思って励まされるがいい。この方は、昔も、今も、これからも神であられる。ここに変化は登って来れず、ここに変転は近づけない。世々とこしえに、この方は神であられる。

3. 「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』」

今年は何人の人々がみまかっただろうか。おゝ、もし私たちがそうした人々のひとりだったとしたら、私たちは今どこにいただろうか? 私たちの中の多くの者らは、こう云うことができるであろう。私たちは至福の中にあり、神のもとに帰っていたことであろう、と。だが、悲しいかな、この場にいる多くの人々は、地獄の火の中にはいり、その決して終わることのない苦悶を始めていたであろう。

4. 「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです」。
5. 「あなたが人を押し流すと」。

このように押し流されるのはだれだろうか? 話を聞いている方々。あなた自身であり、私自身である。私たちは、自分ではそれと気づかなくとも、常に動きつつある。猛烈な時の奔流は、滔々と流れる大河のように私たちを押し流している。私たちは、自分を押しやりつつある力に対抗することができない。わらしべほどにも無力な私たちは、絶対それに抵抗できない。どこに私たちは向かっているのか? どこにこの川は私たちを押し流しつつあるのか? 私たちには、この奔流をせき止めることができない。この大水から逃れることができない。おゝ! どこへ、おゝ! どこへ私たちは向かっているのか!

5. 「あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです」。
6. 「朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます」。
7. 「まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います」。

だれにもまして、このことをよく理解しているのは、罪を確信させられ、神の鞭のもとで傷の疼痛を覚えている罪人にほかならない。そのとき、まことに私たちの力は全く消え失せてしまい、私たちの心の悩みは大きくなる。

8. 「あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます」。

これを聞くがいい! 「私たちの秘かな罪を」!<英欽定訳> あなたがたの中のある人々は、その額に地獄の目印をつけている。あなたがたの中のある人々は、カインのように[創4:15]、額に処罰の目印を帯びている。あなたのもろもろの罪は、あなたよりも先に審きの場に到着する。あゝ! それらは今晩そこにあって、あなたの生涯という悲しい悲しい物語をぺらぺら告げている。しかし、この場には、「秘かな罪」を有している人々がいる。あなたがたの真の姿は、まだ暴かれていない。夜闇はあまりにも暗くて、あなたは人間の目にはつかない。その行ないはあまりにも秘やかすぎて、定命の者には見通せない。だが、それはどこかに置かれている。さながら私たちが黄金の指輪に宝石をはめ込むように、神はあなたの「秘めごとを御顔の光の中に置かれ」る。あなたのもろもろの罪は今晩、無限のエホバの御前にあるのである。

9. 「まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます」。

ウルガタ訳の聖書には、こうある。「私たちの年々は、蜘蛛のそれのように過ぎ去る」。その暗示によれば、私たちの人生は蜘蛛の巣の糸のようにもろい。蜘蛛の巣の作りのいかに精緻なことか。しかし、これほどもろいものがあるだろうか? 人体という複雑な仕組みの中にあるものほど、奥深い知恵があるだろうか? だが、これほど破壊されやすいものがあるだろうか? この柔肌にくらべれば硝子など花崗岩であり、いのちにくらべれば湯気も岩である。

10. 「私たちの齢は七十年」。

注目するがいい。詩篇作者は、「私たちの年の日々」 <英欽定訳>と云っている。私たちがそれを考えることの、いかに少ないことか! 私たちは、自分の年については考えるが、「私たちの年の日々」については考えない

10. 「私たちの齢は七十年。健やかであっても[これは実に大きな「も」である。というのも、何と多くの人々がこの年に至る前に死んでいくことか!]八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」。

どこへ飛び去るのだろうか? 上方へ向けて、鷲にもまさる勢いで飛んで行くのだろうか? それとも、自分のもろもろの罪を石臼のように首につけて、下方に沈んでいくのだろうか? おゝ! 私たちは下へ、下へと降って行き、地獄に至って、苦悶の中から目を上げることになるのだろうか?

11. 「だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく」。
12. 「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」。

これが天的な算術である。こうした数え方の応用は、賢人でさえめったに考えることがない。願わくは私たちが、来年中に、自分の時を計り、真の知恵なるイエスに自分の心を注ぎ出せるようになるように。

アーメン! 主よ。願わくはそうなさせ給え!

さて、私たちは、この厳粛な賛美歌の一節を歌うことにしたい。――

   「汝、義(ただ)しき 審判主(さばきて)来たらば」

その後で、《牧師》はあなたがたのために夕べの祈りをささげ、それから、神に代わってあなたがたの魂と語り交わすであろう。

《賛美歌》

「おらせ給え 汝が聖徒(たみ)の間(ま)に、
  御使いの長(おさ) 喇叭ふくとき、
  われ汝が微笑む かんばせ仰がん。
 さらば誰にも まさる大音声(こえ)もて
  われは御国の 邸宅(やかた)響かせ
  主権(たか)き恵みを 叫び歌わん」。

《祈祷》

 おゝ、神よ。お救いください、私の民を! お救いください、私の民を! あなたは、そのしもべに重大な務めを与えられました。あゝ! 主よ。それは、このような子どもには全く重すぎます。この者をお助けください。あなた自身の恵みでこの者を助け、その務めをしかるべく果たさせてください。おゝ、主よ。そのしもべに告白させてください。民の魂のためのその祈りが、しかるべきほど熱心なものではないこと、この者がしかるべきほど頻繁には、火と、勢いと、かの人々の魂に対する真の愛をもって説教してはいないことを。しかし、おゝ、主よ。説教者の罪ゆえに、聴衆を罪に定めないでください。おゝ、羊飼いの不義ゆえに、群れを滅ぼさないでください。彼らをあわれんでください。いとも良き主よ。彼らをあわれんでください! 父よ、そこには自分で自分をあわれもうとしない者がいます。私たちがいかに彼らに対して説教し、彼らのために労してきたことでしょう! おゝ、神よ、あなたはそれが嘘でないことをご存じです。彼らが救われるようにと、いかに私は彼らのために労してきたことでしょう! しかし、その心は、人間が溶かすにかたくなすぎ、鉄でできたその魂は、血肉が柔らかくするには硬すぎます。おゝ、神よ。イスラエルの神よ。あなたは、お救いになれます。そこに牧師の望みがあり、教役者の信頼があります。人にできないことも、あなたにはおできになります。主よ。彼らは来ようとはしませんが、あなたは彼らを、あなたの力の日に[詩110:3]、喜んで来るようになさいます。彼らは、いのちを得るためにあなたのもとに来ようとはしません[ヨハ5:40]。ですが、あなたは彼らを引き寄せることがおできになりますし、そのとき彼らはあなたのあとから急いでやってまいります[雅1:4]。彼らが来ることはできません。ですが、あなたは彼らに力を与えることがおできになります。というのも、「父が引き寄せられないかぎり、だれも来ることはできません」*[ヨハ6:44]が、父がお引き寄せになれば、そうした人々にも来ることができるからです。おゝ、主よ。また一年、このしもべは説教してまいりました。――それがいかなるものであったかは、あなたがご存じです。この者の働きの行く末について嘆願することは、この者のすべきことではありません。――それは別の者の手の中にあり、神に感謝すべきことに、数年来そうあり続けています。しかし今、おゝ、主よ。私たちは切に願います。私たちの民を祝福してください。この私たちの教会、あなたの教会が、なおも一致のうちに強く結び合わされますように。そして今晩、願わくは彼らが、清新な祈りの時代の幕を開きますように。彼らは祈りの民であり、あなたの御名はほむべきかな、その全心をこめて彼らの教役者のために祈っています。おゝ、主よ。彼らを助けて、より熱心に祈らせてください。願わくは私たちが、今まで以上に祈りにおいて格闘し、あなたの御座を攻め立てて、あなたが、この場ばかりでなく、あらゆる所でエルサレムを賛美としてくださるほどになるように。しかし、父よ。私が涙を流しているのは、教会のためではありません。私が呻いているのは教会のためではありません。この世のためです。おゝ、忠実な約束の給い主よ。あなたは、あなたの御子に対して約束なさったではないでしょうか。彼が無駄死にすることはない、と。御子に魂をお与えください。お願いいたします。御子が大いに満足する[イザ53:11]ようにしてください。あなたは、あなたの教会に対して、それが数を増すと約束なさったではないでしょうか。おゝ、それを増し加えてください。増し加えてください。また、あなたは、あなたに仕える教役者たちが無駄働きをすることはないと約束なさったではないでしょうか。というのも、あなたはこう云われたからです。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤す。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない」*[イザ55:10-11]、と。今晩、そのみことばが、むなしく帰らないようにしてください。むしろ今、あなたのしもべが、この上もなく熱心に、この上もなく熱烈な心をもって、その《救い主》への愛と、魂に対する愛に燃えて、もう一度、ほむべき神の栄光に富んだ福音を宣べ伝えられるようにしてください。聖霊よ、来てください! 私たちは、あなたがおられなければ何もできません。神の大いなる御霊よ、私たちは厳粛にあなたにお頼りします! アブラハムに、イサクに、ヤコブに宿られたお方よ。夜の幻の中で人々にお語りになるお方よ。《預言者たち》の御霊、《使徒たち》の御霊、《教会》の御霊よ。今晩、私たちの御霊となってください。地が震え、魂があなたのみことばを聞かされ、あらゆる人がともに喜んであなたの御名を賛美するようにさせてください。父、御子、聖霊なる、この畏るべき《至高者》が永遠にほめたたえられますように。アーメン。

《説教》


「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」。――哀歌2:19


 これは元々はシオンに対して語られた言葉である。そのときシオンは、悲しくも、荒廃した状態にあった。かの涙の預言者エレミヤは、彼の民の娘の殺された者のために[エレ9:1]泣いて泣いて、目から一滴も涙が出ないほどになった。そして彼は、自分にできることをすべて行ない、あわれなエルサレムのために涙を注ぎ出した上で、エルサレムに向かって、彼女自身のために泣くよう懇願している。私は今晩、自分がエレミヤとなり、彼のように泣けるような気がする。というのも、確かに教会全体は、ほとんどそれと同じくらい悪い状態にあるからである。おゝ、シオンよ。いかにお前は雲に覆い隠され、いかにお前の誉れは塵の中で踏みつけにされていることか! シオンの子らよ! 立って、あなたがたの母のために泣くがいい。しかり、激しく泣くがいい。というのも、彼女は他の愛人たちに身をささげ、自分を買い取ってくださった主を捨ててしまったからである。私は、この厳粛な集会の真ん中で、証言するものである。教会全体は、邪悪にも生ける神から離れつつある、と。彼女は、かつては彼女の栄光であった真理を見捨てつつあり、国々と混じり合いつつある。あゝ! 愛する方々。もし今のシオンが時々は泣けたとしたら、どんなによいことか。自分の民の娘の傷を痛切に感じようとする者たちが、もっと多くいればどんなによいことか。いかにして、この都が遊女になったのか![イザ1:21] いかにして、美しい黄金が曇ったのか![哀4:1] そして、いかにして栄光が去ったのか![Iサム4:21-22] シオンは雲に覆われている。彼女の教役者たちは、古には神のしもべたちの口に宿っていた勢いと火をもって告知することをしておらず、きよく汚れのない教理が彼女の街路で宣告されることはない。熱烈な心をもって東奔西走しては福音を宣べ伝えていた、彼女の伝道者たちはどこにいるのか。至る所で救いの良き訪れを宣告していた、彼女の使徒的な説教者たちはどこにいるのか。あゝ、怠惰な羊飼いたち! あゝ、眠りこけている教役者たち! おゝ、シオンよ、激しく泣くがいい! 激しく泣くがいい。再び改革がお前の床を掃き清めるまで。泣くがいい、シオンよ。手に箕を持つお方がやって来て、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられる[マタ3:12]時まで泣くがいい。というのも、審きが神の家から始まる時が来ているからである[Iペテ4:17]。おゝ、今イスラエルのつかさたちが知恵を得て、主を求めるようなことがあれば、何とよいことか。だが、悲しいかな。私たちの指導者たちは、偽りの教理に身をささげている。正しいことを愛してもいない。それゆえ、私はお前に命ずる。おゝ、シオンよ。「立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」。

 しかしながら、私たちはシオンを離れて、シオンが必要とする以上に勧告を必要としている人々に向かって語ろうと思う。シオンの敵たちに対して、あるいはシオンに従ってはいるが、まだ彼女の隊伍に属していない者たち。そうした人々に向かって、私たちは今晩、二言か三言、語っていこうと思う。

 1. 第一に、本日の聖句から私たちが学べるのは、――祈るのに早すぎることはない、ということである。「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」。あなたは寝床で横になっている。恵み深い御霊が囁く。――「起き上がって、神に祈るがいい」。よろしい。朝の光まで、それを先延ばしにすべき理由は何1つない。「夜の見張りが立つころから……あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」。私たちがここで告げられているところ、祈るのに早すぎることはない。いかに多くの青年たちが、宗教は老人のものだとか、せいぜい中年を越えた人々のものだと想像していることか。彼らの思い描くところ、青春の真っ直中にある間は、キリスト教の警告になど気をとめる必要はないのである。私たちの見かける、いかに多くの人々が、キリスト教信仰を老年のための精神的支えとみなしていることか。そうした人々は、信仰が白髪の飾りだと思っているが、青年にとっても、信仰が首に巻いた黄金の腐りのようなものであることを忘れているのである。信仰は、若い人々にとって、宝石をちりばめた装身具にも似て、その人を誉れで飾るものである。いかに多くの人々が、イエスの十字架を一瞬でも負うことなど、まだまだ自分には早すぎると考えていることか。こうした人々は、早まって重荷をになうことで、自分たちの若い肩をすりむきたくないのである。彼らは、「人が、若い時に、くびきを負うのは良い」[哀3:27]とは全く考えない。また、その「くびきは負いやすく」、その「荷は軽い」[マタ11:30]ことを忘れている。それゆえ、時々刻々、また毎日毎日、意地の悪い悪鬼たちは彼らの耳にこう囁くのである。――「まだ早すぎる、早すぎる! 後にしろ、後にしろ、後にしろ! ぐずぐず引き延ばせ!」 だが、よく云われるあの格言を、もう一度あなたに告げる必要があるだろうか? 「ぐずつきは時間泥棒」なのである。こう思い出させる必要があるだろうか? 「一瞬の遅れが一生たたる」、と。それらがサタンの働きであるとあなたに告げる必要があるだろうか? 「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」[ヘブ4:7]。愛する方々。決して祈るのに早すぎることはない。今晩のあなたは子どもだろうか? あなたの神は、子どもたちの声に耳を傾けてくださる。神はサムエルがまだ子どもだったときに彼を呼ばれた。「サムエル。サムエル」。そこで彼は云った。「はい。ここにおります」[Iサム3:4-10]。私たちの間には、ヨシヤのような子どもたちがいる[II歴34:1-3]。テモテのような子どもたちのことを聞いたことがある[IIテモ3:15]。私たちは、年端もいかないうちに《救い主》のもとに至らされた子どもたちを見てきた。おゝ! 覚えておくがいい。まだ成年に達していないとしても、《救い主》を求めるのに早すぎるということはない。もし神がそのあわれみによってあなたをみもとに召しておられるとしたら、私は切に願う。一瞬たりとも神があなたの祈りに耳を傾けてくださらないなどと考えないでほしい。私は自分が神の御名を知っていると思う。しかり。それ以上である。私は、自分が御名を知っていることを知っている。「私は、自分の信じて来た方をよく知って」いる[IIテモ1:12]。しかし、神が私を召されたのは早すぎはしなかった。ほんの子どもでしかなくとも、私はバプテスマの水の中に降って行き、そこで私の《救い主》とともに葬られた[ロマ6:4]。おゝ! 私は、それ以前の私の人生の十四年か十五年を棒に振らなかったと云えたら、どんなによいことかと思う。御名はほむべきかな、神は決して私たちを早まってお召しになることはない。もし神が朝早く出かけて、ある者たちを自分の葡萄園に遣わす[マタ20:1-2]としたら、彼らが行くべき時より早く遣わす――彼らになすべき仕事がないうちに遣わす――ことはなさらない。青年よ。それは早すぎはしない。「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」。

 2. さらに、主に向かって叫ぶのに遅すぎることはない。というのも、たとい太陽が沈み、夜回りがその番を始めているとしても、あわれみの座は開かれているからである。いかなる店にもまして遅くまで開いているのは《あわれみの家》にほかならない。悪魔は人間に2つのごまかしを仕掛ける。時として彼は、彼らの時計を遅らせては、「まあ待て、時間はまだある」、と云い、それでも効き目がないと、針を動かしては、「もう遅すぎる! 遅すぎる!」、と叫ぶ。老人よ。悪魔は、「もう遅すぎる」、と云っているだろうか? 罪の確信を得ている罪人よ。悪魔は、「もう遅すぎる」、と云っているだろうか? 悩みと苦悩の中にある人よ。あなたの魂の中に、この思いが――苦々しく暗い思いが――浮かんでいるだろうか?――「もう遅すぎる」、と。だが、そうではない。もう十五分もすれば新年となる。だが、もし神の御霊が今年あなたをお召しになるとしたら、年内にあなたをお召しになるのに遅すぎはしない。たといあなたの人生の最後の一秒に、聖霊なる神があなたをお召しになるとしても、御霊のそのお召しは遅すぎはしない。あゝ! あなたがた、意気阻喪した、すべてはもう遅すぎると考えている人たち。――遅すぎはしない。

    ともしび燃える ことやめぬ間(ま)は
    いかに悪しかる 罪人(もの)も帰らば、

あわれみと平安を見いだすのである。あなたよりもずっと年老いていた者で、あなたと同じくらい罪深く、よこしまで、極度に邪悪な者、神を怒らせてきた者、しばしば神に背いて罪を犯してきた者でありながら、だがしかし、赦免を見いだした者たちがいるのである。罪人よ。もし神があなたをお召しになるとしたら、もし今晩お召しになるとしたら、午前一時が早すぎないのと同じくらい、午後十二時が遅すぎはしない。もし神があなたをお召しになるとしたら、それが真夜中であれ、鶏の鳴く頃であれ、真昼であれ、私たちは、人々がかの盲人に云ったように、あなたにも云いたい。「さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」[マコ10:49]。そして神は、あなたをお呼びになっておられるのと同じくらい確実に、祝福も与えずにあなたを送り出すことはなさらない。神に叫び求めるのに遅すぎることはない。夜の闇は深まりつつある。夜が来つつあり、あなたは死に近づいている。起きよ。眠っている者よ、起きよ! いま最後の死のうたたねをしている者よ。「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」。

 3. 次に、私たちが祈るのに激しすぎることはない。というのも、この聖句には、「夜の間……立って大声で叫び」、と記されているからである。神は熱烈な祈りを愛しておられる。猛烈な祈り――激しい祈り――を愛しておられる。たとい人の行なう説教が冷淡で、緩慢なものであったとしても、決して祈りがそのようなものであってはならない。神は大声で叫ぶ祈りを愛される。「私はどう祈っていいかわかりません」、と云うあわれな男がいる。「だって、先生」、とその人は云う。「あっしは、ちっとでも長く、英語の文法通りのしゃべり方ができねえんで」。英語の文法などくそくらえである! 神は、そんなものを一顧だにされない。あなたが自分の心を指し示しさえすれば、それで十分である。神の前で大声で叫ぶがいい。「あゝ!」、とある人は云う。「私は神に哀願してきました。私はあわれみを求めてきたと思います」。しかし、あなたは大声で叫んでこなかったかもしれない。神の前で大声で叫ぶがいい。私はよく人々が、祈ったのに聞かれなかったと云うのを耳にする。しかし、私にはその理由がわかる。そうした人々は、たとい願ったとしても、願い方が間違っていたのである。そして、弱々しい声で叫ぶ人々、声に出して叫ばない人々は、祝福が得られると期待してはならない。あなたがあわれみの門に行くときには、私に少し助言させてほしい。そこに行ったら、貴婦人のように優美に戸を叩いてはならない。乞食のように、一回しか叩かないようであってはならない。むしろ、叩き金具をつかんで、扉そのものが揺れ動くほど叩きつけるがいい。渾身の力を込めて叩きつけるがいい。そして、神はあわれみの門を激しく叩く者を愛しておられることを思い出すがいい。「たたきなさい。そうすれば開かれます」[マタ7:7]。私には、真夜中のこのような光景が目に浮かぶ。それは、私たちの《救い主》がたとえ話の中で口にされた光景であって、今の場合にあてはまるであろう。ある人にパンがなくて困っていた。旅をしていた友人が訪れ、非常に弱っていたので、パンを食べさせる必要があったのである。それで彼は隣に住んでいる人のところへ行き、その戸を叩いたが、だれも出てこなかった。彼は窓の下に立って、友人の名を呼んだ。彼の友人は家の最上階に寝ていたが、そこから答えた。「妻も子どもたちも、私と一緒に寝ているのだ。起き上がって、物をやるわけにはいかないよ」。しかし、この人はそんなことなどおかまいなしだった。自分の可哀想な友がパンをほしがっているのだ。それで彼は大声で叫んだ。――「パンがほしいんだ。パンをくれるまでは動かないぞ!」 横になって眠っていた人の姿が目に見えるようである。彼は云う。「起きてなどやるものか。今晩はひどく冷え込んでいるし、なんで私が起き上がって、下まで降りて、あんたにパンをやらなきゃいけないんだ? そんなことはしないよ。私にはできないし、するつもりもない」。それで彼は再びぬくぬくとした寝床の中にもぐりこみ、もう一度眠りにかかる。下にいる人は何をするだろうか? おゝ! まだこう云っているのが聞こえる。「お願いだから、起きてくれ! 何としてもそれがいるんだ! それがなきゃいけないんだ。友だちが腹をすかしているんだよ」 「もう行ってくれ! 夜中のこんな時間に騒がないでくれ」。「パンをくれよ! ここを開けて、パンを私にくれよ!」、ともうひとりが云う。だが、その友人は苛立ち、怒ったまま、再び寝床の中に横になる。それでも扉からは、がんがん叩きつけるような音がますます激しく聞こえ、その人はまだ叫んでいる。「パンをくれよ、パンを! 下に降りてきて、それをくれるまでは、一晩中寝かさないぞ!」 まことに、あなたがたに云うが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるであろう[ルカ11:8]。「夜の間……立って大声で叫」ぶがいい。そして、あなたが心全霊を傾けて大声で叫び、御前であなたの心を注ぎ出すとしたら、神はあなたに耳を傾けるであろう。

 4. さて私たちが最後に指摘したいのは、――私たちが祈るのに、単純すぎることはない。詩篇作者がいかに述べているか聞いてみるがいい。「あなたの心を……主の前に注ぎ出せ」。「あなたの洗練された言葉を注ぎ出せ」、でも、「あなたの美辞麗句を注ぎ出せ」、でもなく、「あなたの心を注ぎ出せ」、というのである。「滅相もありません」、とある人が云う。「私の心には真っ黒なものがあります」。ならば、それも一緒に外に出すがいい。かかえこんでいるよりは、外に出すがいい。「私にはできません」、と別の人が云う。「どもったり、つかえたりするのです」。それを外に出すがいい。注ぎ出すことである。――水のように! あなたは、ここで気づかなかっただろうか? ある人々は云う。――「私は、自分の願い通りの祈り方ができません。私がどんなに叫んでも、それはかすかなものなのです」。よろしい。あなたが水を注ぎ出すとき、それは大した物音を立てない。そのように、あなたも自分の心を水のように注ぎ出すことができる。それは流れ出して、ほとんどどこに行ったかわからなくなる。屋根裏でささげられる多くの祈りがある。だれも、それを聞く者はいない。――だが、待て! ガブルエルはそれを聞いた。神ご自身がそれを聞いてくださった。多くの叫びは、下の地下室で、あるいは上の屋根裏で、あるいは、靴直しが自分の靴を窓の下で修繕している、どこか寂しい場所で発され、世はそれを聞くことがないが、主はそれをお聞きになる。あなたの心を水のように注ぎ出すがいい。水がいかにして流れ出すだろうか? あっという間である。それで終わりである。流れ行くうちに立ち止まったりしない。だからこそ主がそうしたものを愛されるのである。あなたがたの中のある人々が優美にささげている祈りは、ポタリ、ポタリと一滴ずつ注がれており、いつかは壮大な、聖職者用の、祈祷書めいたものになるに違いない。だが、あなたの心を取り上げて、それを水のように注ぎ出すがいい。「何ですと」、とある人は云う。「悪態だの何だのを、みなひっくるめてですかい?」 しかり。「私の罪の一切合切と一緒にですか?」 しかり。あなたの心を水のように注ぎ出すがいい。あなたのあらゆる罪を告白することで、それを注ぎ出すがいい。キリストゆえに自分をあわれんでください、と主に乞い願うことで、注ぎ出すがいい。水のように注ぎ出すがいい。そして、それがことごとく注ぎ出されるとき、主はやって来て、その心を「よくこされたぶどう酒」[イザ25:6]で再び満たしてくださる。「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」。

 このように私は、自分を神の御前で罪人と認めるであろうあらゆる人々に語っているが、こうした人々でさえ、聖霊の助けがなくては、「おゝ、私の神よ。この祈りをかなえてください」、と叫ぶことはできない。

 さて今、愛する方々。恵みがあなたの上にあらんことを。今晩、あなたがたが自分の心を注ぎ出すことができるように! 話を聞いている方々。覚えておくがいい。今晩、このような時間に私たちが集まっていることは、つまらぬことと思えるかもしれないが、しばし時計が秒を刻む音に耳を傾けてみるがいい! [ここで説教者は言葉を切り、厳粛な沈黙の中で、あらゆる人が、時計のチクタク云う音を耳にした。] これは、永遠の脈が打っている音である。あなたには、あの時計が秒を刻む音が聞こえる!――それは、あなたの後を追う死の足音である。時計が一秒を刻むたびに、死の足はあなたの背後の地面にいや近く踏み降ろされるのである。あなたはじきに新しい年を迎えるであろう。今年は、もうほんの数秒で終わるであろう。1855年はほとんど去ってしまった。愛する方々。来年はどこで過ごすことになるだろうか? 今年は地上で過ごしてきた。来年あなたはどこで過ごしているだろうか? 「きっと天国で!」、とある人は云う。別の人は口の中でこう呟く。「私は来年は地獄で過ごすことになるかもしれない」、と。あゝ! その考えは厳粛なものであるが、あの時計が十二時を打つ前に、この場にいるだれかが地獄にいることになるかもしれない。そして、神の御名はほむべきかな。私たちの中のだれかが天国にいるかもしれない! しかし、おゝ、話を聞いている方々。あなたは、自分の齢がどれだけか[詩39:4]知っているだろうか? おゝ! 今晩、私に語るべき言葉はない。あなたは、時々刻々、墓に近づいていることを知っているだろうか? 一時間ごとに審きに近づきつつあること、御使いのかしらがあなたの人生の一秒ごとにその翼をはばたかせ、喇叭を口に当てて、あなたに近寄りつつあることを知っているだろうか? 自分が静止した人生を送っているのではなく、絶えず墓場に向かって動いて、動いて、動きつつあることを知っているだろうか? 早瀬へと――災いと滅びの早瀬ヘと向かっていることを知っているだろうか! 神の福音に従わない人々の終わりは、どうなることだろうか?[Iペテ4:17] あなたの余命は、旧年中よりも少なくなるであろう。自分のかくしに数シリングしか持っていない人を見てみるがいい。いかにそれを取り出しては、1つまた1つと使っていくことか! 今やその人には数枚の銅貨しかない。だのに、ちびた蝋燭にはいくらいくらかかり、数切れのパンにはいくらいくらかかる。その人は品物を指折り数え、そうこうするうちに、次第に金銭がかくしから出て行く。おゝ! もしあなたが、あなたがたの中のある人々が、いかに自分が貧しいか知っていたとしたら! あなたは、自分のかくしが底なしだと思っている。自分には無限の時間の蓄えがあると思っている。――だが、そうではない! 主に誓って云うが、この場にいる青年たちの中には、もう一年と生きていられない人がいる。だがしかし、その人は自分にとって価値あるすべての時間を、罪と、愚行と、悪徳の中で費やしつつある。あなたがたの中のある人々は、それほど長くも生きられない。だがしかし、いかにあなたは自分の時間を費やしていることか! おゝ、気をつけるがいい! 気をつけるがいい。時間は貴重である! そして、僅かしかないときの時間は常に、いやが上にも貴重である。しかり。何にもまして貴重である。願わくは神があなたを助けて、地獄からのがれて、天国へ行けるようにしてくださるように! 私は今晩、ロトに手をかけて、こう叫んだ御使いのような気がしている。「逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう!」[創19:17]

 さて今、私は沈黙の力を認めるものである。どうか、あの時計が時報を打つまで、完全に厳粛な沈黙を守っていただきたい。そして、おのおのの方は、それまでの時間を思うがままに過ごしてほしい。[時刻は12時2分前であった。深甚なる沈黙があたりを包み、それを破るのは、悔悟した人々の口からはっきりと聞こえる、《救い主》を求める啜り泣きと呻き声だけであった。時計が時報を打ち終えたとき、スポルジョン氏は語を継いで云った。] あなたがたは今まで一度もいたことのない所にいるのである。また、今晩これまでいた所には、二度と戻ることがないであろう。

 さて私たちは厳粛な集会を行なってきた。それを朗らかに終えることとしよう。帰路につくにあたり、私たちの心を励ます甘やかな賛美歌を歌おうではないか。

[そこで賛美歌が一曲歌われた。]

 では、願わくは主があなたを祝福し、その御顔の光をあなたの上に照らし[詩4:6]、あなたに平安を与えてくださるように! 願わくはあなたが、この恵みの年の間に、多くの恵みを受け取り、天国へと前進していけるように! また、願わくは私たちが教会として、教会員として、教役者として、執事として、イエスを信ずる信仰のために、互いに力を尽くし、その真理のうちに建て上げられることができるように! また、願わくは主が不敬虔な人々を救ってくださるように! たとい去年が完全に過ぎ去ってしまい、彼らがまだ赦免も赦しも得ていないとしても、別の年も彼らがあわれみを見いださずに消え去っていくことがないように!

 主があなたがた全員を、その甘やかな祝福とともに解散させてくださるように。そのほむべき御子のゆえに。アーメン。また、願わくはイエス・キリストの愛、その御父の恵み、そして、そのほむべき御霊の交わりが、もしあなたがたがキリストを知っているとしたら、愛するあなたがたとともに、限りなくあらんことを。アーメン。

 さて、愛する方々。最も高く、最も良い意味において、私はあなたがた全員に云いたいと思う。願わくはあなたがたが良い年を迎えられんことを。

 

除夜礼拝[了]

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