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キリストの民――主にならう者たち

NO. 21

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1855年4月29日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」。――使4:13


 見よ! 天来の恵みが、ひとりの人の上に何という変化を、また、いかに短時日のうちに及ぼすことか! つい最近、自分の《主人》の後を遠くからつけて行き、その御名を知らないと云って呪いをかけて誓った、その同じペテロが[マタ26:58、74]、今や忠実なヨハネと相並んで、イエス・キリストの御名のほかいかなる名によっても救いはない、と大胆に宣言し、自分の死に給う主の犠牲による、死者の復活を宣べ伝えているのである[使4:2、12]。律法学者やパリサイ人たちは、すぐに彼の大胆さの理由を突きとめた。彼らが正しくも推測したように、それはペテロの学識や、才能によるものではなかった。というのも、ペテロもヨハネも教育を受けたことはなかったからである。彼らは漁師として訓練され、彼らの教育は海の知識――漁師としての技能――であり、それ以外に何もなかった。それゆえ彼らの大胆さは、知識による自信からではなく、生ける神の御霊から生じていたに違いない。また彼らは、その勇気を自分たちの地位から得たのでもなかった。というのも、確かに身分によって人は一種の威厳を授かり、大した才幹や天稟を有さない場合でさえ、作りものの権威をもって語ることができるが、このふたりは、原文でいうところの、「idiotai」――普通の人――いかなる公的資格も有していない者――身分も地位もない者たちだったからである。彼らは、ペテロとヨハネの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚き、ふたりの力の源泉について正しい結論に到達した。――ふたりは、イエスとともにいたのである。光と栄光の《君》と過ごした彼らの生活が、これまた知られていたことかもしれないが、聖霊の影響によって後押しされ(それなしには、この卓越して聖なる模範ですら無駄であったろうが)、彼らの《主人》の大義のために彼らを大胆にしていたのである。おゝ! 私の兄弟たち。もしも、このように敵の唇から否応なしに引き出された、この推賞の言葉が、私たち自身の実例によっても発されざるをえないとしたら、どんなによいことか。もし私たちがペテロやヨハネのように生きられたなら、――もし私たちの生活が、「すべての人に知られ、また読まれている、神の生きた手紙」であるとしたら[IIコリ3:2-3参照]、――もし私たちの姿が見られるときには常に人々が私たちについて、私たちがイエスとともにいたことに気づくようになるとしたら、それはこの世にとって幸いなこととなり、私たちにとって喜ばしいこととなるであろう。それこそ、今朝、私があなたに語りたいと思うことである。そして、神によって与えられる恵みに応じて私は、努めてあなたの思いをかき立てて記憶にとどめさせ、あなたが私たちの天的な模範、イエス・キリストにならう者となり、人々に、あなたが聖なる神の御子の弟子であると悟らせる者となるよう促すであろう。

 それでは今朝、まず第一に私はあなたに、キリスト者とはいかなる者たるべきかを告げるであろう。第二に、キリスト者がいつそのような者たるべきかを告げたい。第三に、なぜそのようであるべきか、それから第四に、いかにしてそうなることができるかを告げようと思う。

 I. さて神の御助けによって、まず第一に私たちが語りたいのは、《信仰者はいかなる者たるべきか》ということである。キリスト者は、イエス・キリストの生き写しとなるべきである。あなたは、美しく、雄弁に書き記されたキリスト伝を何度も読んだことがあるであろう。そして、そのように見事に書き表わせる人々の才能を賞賛したことであろう。だが、キリストの最良の伝記は、その民の言葉と行動によって書き出された、生きた伝記にほかならない。私の兄弟たち。もし私たちが自分の告白する通りの者であるとしたら、――もし主の御霊がその子どもたち全員の心の中に、私たちに願える限りの豊かさでおられるとしたら、――また、もし私たちが、形ばかりの信仰告白者を山ほど有しているのでなく、全員が生きた恵みの持ち主であったとしたら、私はあなたに、私たちがならなくてはならない姿だけでなく、私たちがなるはずの姿をも告げるであろう。私たちはキリストの写し絵となるべきである。しかり。それはキリストの生き写しとなるべきであって、この世が私たちを目の前に掲げて、ぶっ通しで何時間も眺め続けた後で、「そうさな、これにはどこか似たようなとこがあるようじゃの」、と云うのではなく、私たちを見るなり、こう叫ぶようにすべきである。「この人はイエスとともにいたのだ。イエスに教えられていたのだ。イエスにそっくりだ。この人は、あの聖なる《ナザレの人》の面影をまざまざと映し出している。そして、自分の人生そのものと、あらゆる日常の所作の中に、それを繰り入れている」、と。

 この点について詳しく述べるにあたり、その前提として必要なのは、私たちがここで人はこれこれのものたるべきであるというとき、私たちが神の民について言及している、ということである。私たちは、彼らに対して、いかなる律法的なしかたでも語りたいとは思わない。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にある[ロマ6:15]。キリスト者たる者は、自分には神のすべての戒めを守るべき義務があると考える。だが、彼らがなぜそう考えるかという理由は、律法が彼らを拘束しているからではなく、福音によって、そうしたいというやむにやまれぬ思いが与えられているからである。彼らの信ずるところ、神の血によって贖われている以上、――イエス・キリストによって買い取られている以上、彼らには、律法の下にあったときよりも、はるかに大きな、主の命令を守るべき義務が負わせられているのである。彼らは、自分たちが、モーセの経綸の下にあって有していたであろうところの一万倍も大きな負債を神に対して負っていると考える。強制されてではない。余儀ないものがあるのである。鞭に打たれてではない。戒律的な束縛によってではない。むしろ、神に対する純粋な、無私の愛と感謝によって、彼らは身をささげて神に奉仕し、内側において、偽りのない本当のイスラエル人[ヨハ1:47]になろうとするのである。ここまでのことを私が宣言してきたのは、だれも私が行ないを救いの道として説いているのだと考えないようにするためである。このことにかけて私は、いかなる者にも譲りはしない。それは、私が常に主張していることである。――私たちが救われるのは恵みによってであって、自分自身によってではない。だが、それと等しく私は、こう証ししなくてはならない。神の恵みがあるところ、それは、ふさわしい行為を生み出すものである、と。そうした行為に向けて、私は常にあなたに勧めなくてはならないし、あなたがたの方でも常に、必要な目的のための良い行ないをなすことが期待されているのである。また私は、信仰者はイエスの生き写しでなくてはならないと云うとき、決して、ひとりのキリスト者が私たちの主なる《救い主》イエス・キリストのあらゆる特徴を完璧に現わすようになるだろうと考えてはいない。だがしかし、私の兄弟たち。完璧が私たちの手の届かないところにあるという事実によって、それを欲する私たちの熱情が減じさせられるべきではない。絵を描いている画家は、自分がアペレスをしのぐことはできないことを重々承知してはいるが、それで意気消沈することはない。その人は、自分の画筆をより懸命に用いて、少なくとも、ささやかな程度ではあれ、かの大画家に似たものになろうとするであろう。彫刻家もそれと同じである。自分がプラクシテレスに比肩しうる者であるなどとは夢にも思わなくとも、それでもその人は、大理石を刻み続け、かの模範に可能な限り近づこうとするであろう。キリスト者もそれと全く同じである。自分はかの完全な卓越さの高みに決して登りえないと感じており、この地上でキリストの正確なかたちになることは決してないと悟ってはいても、それでも、そのかたちを目の前に掲げて、自分とイエスとの隔たりによって、自分の不完全さを測るのである。その人は、すでに達したものをすべて忘れて、この一事に励むであろう。Excelsior![より高く!]と叫びながら、一心に走り、常に上に登ろうとし、いやまさってキリスト・イエスのかたちに似たものとなることを望みとするであろう。

 まず最初に、キリスト者はキリストと、その大胆さにおいて似た者となるべきである。この美徳は、最近では図々しさと呼ばれている。だが、この恵みは、何という名で呼ばれようと変わらず価値あるものである。私が思うに、もし律法学者たちがペテロとヨハネのことを一言で決めつけていたとしたら、彼らはふたりを図々しい奴らだと呼んだはずである。

 イエス・キリストとその弟子たちは、その勇気によって際立っていた。「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見……たが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」。イエス・キリストは決して富者にへつらいはしなかった。権力者や貴人の前でぺこぺこしたりしなかった。主は身を真っ直ぐに起こし、ひとりで多数に対峙し、民の預言者として、大胆に、何はばかることなくご自分の考えをお語りになった。あなたは今まで一度も、主がご自分の暮らして育った町に行った際の、あの大いなるみわざを賞賛したことがないだろうか? 預言者は郷里では尊敬されないと知っておられた主に聖書が手渡された。主はその公生涯をお始めになったばかりであった。だがしかし、ひるむことなく主は、その聖なる巻物を開いた。そして、何をその聖句としてお選びになっただろうか? ほとんどの人は、実家の近隣に来たら、人々の好みに合わせた主題を選んで、評判を高めようとしたであろう。しかし、その朝、いかなる教理をイエスは説教なさっただろうか? 現代においてあざけられ、憎まれている教理――選びの教理である。主は聖書を開くと、こう読み始められた。――「エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました」[ルカ4:25-27]。そして主は告げ始められた。いかに神がご自分のみこころによって人を救い、ご自分のお選びになる者を救い出されるかを。あゝ! いかに彼らが主に向かって歯ぎしりし、主を引きずり出し、崖の縁から投げ落とそうとしたことか。あなたは主の勇敢さを賞賛しないだろうか? 主は彼らが歯がみをするのをごらんになった。彼らの心が敵意に燃え、彼らの口が復讐心と悪意の泡を吹いているのを知っておられた。それでも主は、獅子の口をふさぐ御使いのように立っておられた。主は彼らを恐れていなかった。神の真理であると知っておられることを、忠実に宣告し、彼らすべてを向こうに回して読み続けられた[ルカ4]。これは主のどの説教においても同じであった。たとい会衆の中に律法学者やパリサイ人の姿を見かけても、主は手痛い真実を語るのを手控えることなどせず、指を突きつけてこう云われた。「忌わしいものだ。……律法学者、パリサイ人たち」[マタ23]。また、ある律法の専門家がやって来て、「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです」、と云ったとき、主は彼の方に向き直って、こう云われた。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない」[ルカ11:45-46]。主は掛け値なしの真実を与えた。決して人を恐れることを知らなかった。いかなる者にもおじけづかなかった。神に選ばれた者、神からそのともがらにまして油を注がれた者として立ち[詩45:7; ヘブ1:9]、人々の毀誉褒貶などに頓着されなかった。私の兄弟たち。この点においてキリストのようになるがいい。現代の日和見的な宗教にいかなる関わり合いも持ってはならない。それは、福音主義的な居間でしか見ることができず、温室の中でしか花を咲かせず、気の合う仲間の中でしか認められないようなキリスト教信仰である。しかり。もしあなたがたが神のしもべだとしたら、イエス・キリストのようになり、自分の《主人》のために大胆になるがいい。決して自分のキリスト教信仰を認めることに赤面してはならない。あなたの信仰告白は決してあなたに恥辱をもたらさないであろう。では、あなたの方から決してそれに恥辱を与えないよう注意するがいい。キリストに対するあなたの愛は決してあなたを辱めないであろう。それは、あなたの友人たちからの一時的な軽蔑や、あなたの敵たちからの中傷を招くかもしれない。だが生き続けるがいい。そうすればあなたの誉れは残るであろう。あなたの悲惨事を忘却の彼方に押しやるがいい。生き続けるがいい。そうすれば、あなたは栄化された者らの間に立つことになる。あなたをからかった者らさえ、がその御使いたちによって栄誉を受け、彼を愛する者らから賞賛されるために来られたときには、あなたに光栄を与えるであろう。イエスのようになり、あなたの神のために勇猛果敢になるがいい。それは、彼らがあなたの大胆さを見るときに、こう云うようになるためである。「彼は、イエスとともにいたのだ」、と。

 しかし、単に1つの特徴だけでは、ある人の肖像画にならない。それと同じく、大胆さという1つの美徳だけでは、決してあなたがキリストのようになることはない。これまでも、堂々たる人格をしていながら、勇気を過度に持ちすぎた人々は何人もいた。そのようにして彼らは、キリストの戯画となってしまい、その肖像画にはならなかった。私たちは、自分の大胆さを、イエスの性向の愛らしさと融合させなくてはならない。勇気を青銅とし、愛を黄金とするがいい。その2つを混ぜ合わせ、宮の美しの門を鍛造するにふさわしい、貴重なコリント産の金属としようではないか。実際、大胆な人物は驚異的なことを成し遂げることができる。ジョン・ノックスは非常に大いなることを行なった。だが、ことによると彼は、もう少し愛があれば、さらに大いなることを行なったかもしれない。ルターは征服者であった。――彼の霊とこしえに安らかなれ、そして、彼の名に誉れあれ!――それでも、遠くから彼のことを眺める私たちは、もし彼が時としてもう少し穏やかさを合わせ持っていたとしたら、――もし彼が、fortiter in re[行動は毅然]としていながら、suaviter in modo[態度は柔らか]であり、より優しい物の云い方をしていたとしたら、実際になしたよりもさらに多くの善を施していたのではないかと思う。そのように、兄弟たち。私たちは、大胆である一方で、愛に満ちたイエスをも常にみならうようにしよう。子どもが主のもとにやって来ると、主はその子を膝の上に載せて、こう云われる。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません」[ルカ18:16]。あるやもめが、そのひとり息子を亡くしたばかりだとすると、主は棺のかたわらで涙を流し、一言で死んだ者にいのちを戻しておやりになる[ルカ7:11-15]。主は、手足のなえた者、らい病人、長年寝たきりの者をごらんになると、お語りになり、彼らは起き上がって、いやされる。主は、ご自分のためにではなく、他の人々のために生きておられた。主の絶え間ない労苦の唯一の動機は、世に生きる人々の善であった。そして、何にもまさることとして、あなたがたは主がささげられた大いなる犠牲を知っているはずである。主は人間のために、ご自分のいのちを投げ出された。――木にかけられ、苦悶に身を震わせ、極限まで苦しみを受けつつ吊り下げられながら、主は私たちのため、私たちが救われるようになるため、自ら死についたのである。見よ、キリストのうちなる、強固不変の愛を! 主は、一本の壮大な慈愛の柱であられた。神が愛であられるように、キリストは愛であられる。おゝ、あなたがたキリスト者たち。あなたがたも愛に満ちた者となるがいい。あなたの愛と、あなたの慈悲をあらゆる人々の上に輝き出させるがいい。「暖かになり、十分に食べなさい」、と云うのではなく[ヤコ2:16]、「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ」[伝11:2]。たといあなたがたがハワードにならって、監獄の扉を開くことができないとしても、――たといあなたがたが、この悲惨な哀しみの家を訪ねることができないとしても、それでもあなたがたは、それぞれの持ち場において、親切な言葉を語り、親切な行動を行ない、あなたの生き方の親切さによってキリストが再び生きるようにするがいい。もしキリスト者を最も評判の良いものとする美徳が何か1つあるとしたら、それは親切という美徳である。神の民を愛し、教会を愛し、世界を愛し、すべてを愛することである。しかし、私たちの諸教会にはいかに多くの酸い林檎の木のようなキリスト者たちがいることか。そうした者らは、膨大な量の酸味と、途方もない分量の胆汁をその体質に混ぜ合わせており、ほとんど一言も優しい言葉を語ることができない。こうした者らの想像によると、キリスト教信仰を擁護できる唯一の道は、激した言葉のほとばしりであり、彼らの《主人》が辱められる場合、自分の反対者に向かって怒りを発さずには、その弁護ができないのである。そして、もし何かゆがんだものがあると、それが家の中であろうと、教会内であろうと、他のどこであろうと、彼らは自分の顔を火打石のようにし、何者にも公然と挑戦することこそ自分の義務だと考えるのである。彼らは、孤立した氷山のようなものである。だれも彼らに近寄りたいとは思わない。彼らは、忘却の海の上を漂い流れ、最後には溶け去ってしまう。そして、善良なる方々。確かに私たちは、天国で彼らと会うことは祝着至極ではあるが、地上から彼らがいなくなってくれることを心から喜ぶものである。彼らは常に、あまりにも無愛想な気質をしているため、私たちは彼らと天国で永遠に過ごす方が、地上で5分間ともに過ごすよりもはるかに好ましく思う。このような者になってはならない。私の兄弟たち。あなたの愛に満ちた精神においてキリストにならうがいい。親切に語り、親切に行動し、親切に行ない、人々がこう云うようにするがいい。「彼は、イエスとともにいたのだ」、と。

 キリストの生涯における、もう1つの大きな特徴は、主の深く、また真摯な謙遜さである。この点で私たちは主にならおうではないか。私たちは、卑屈になったり、ぺこぺこしたりはしないが――(それどころか、私たちは真理によって解き放たれた自由人であり、この世をいかなる者とも同等に、だれにも劣らぬ者として歩んでいるが)――、それでも私たちは、キリストのように絶えず謙遜な者となるよう努力したいと思う。おゝ、高慢なキリスト者よ(というのも、そのような者がいるというのは矛盾ではあると思うが、そうした者がひとりもいないと云うほど私は無慈悲になれないからである)、もしあなたがキリスト者であるなら、私はあなたに、あなたの《主人》の姿を見るよう命ずる。主は、子どもたちにお語りになり、ご自分の神性の威光から身をかがめ、地上の人間らに語りかけ、ガリラヤの田舎者たちとともに起居し、それから、――左様、比類なきへりくだりの深みよ、――夕食の後で、その弟子たちの足を洗い、それを手ぬぐいで拭かれた。これが、あなたがたが礼拝すると告白する、あなたの《主人》である。これが、あなたがたがあがめている、あなたの主である。だのにあなたがたは、自らをキリスト者であるとみなす者さえいるのに、あなたがたと同じ種類の衣服を着ておらず、あなたがたと正確に同じくらいの年収を得ていない人に向かっては話すことができない。英国においては、確かにソブリン金貨は1シリング銀貨に口をきかず、1シリング貨幣は6ペンス銀貨を鼻もひっかけず、6ペンス銀貨は1ペニー銅貨をあざ笑う。しかし、キリスト者がそうしていてはならない。私たちは、キリストの教会に来るときには、階級も、身分も、地位も忘れるべきである。思い出すがいい。キリスト者よ。あなたの《主人》がいかなるお方であられたかを。――貧者の人であられた。主は貧者とともに生きられた。彼らとともに食された。だのに、あなたがたは、頭を傲然と上げ、横柄な態度で歩き、耐えがたい軽侮の念をもって、自分よりも身分の卑しい、同胞の芋虫たちを見下そうというのか? あなたがたは何者なのか? すべての者の中で最も卑しい者である。なぜなら、あなたは、詐欺と粉飾によって高ぶらされているからである。憐れむべき、見下げ果てた者たち! 神の御目において、あなたがたはいかにちっぽけに見えることか! キリストは謙遜であられた。他者のためになることなら何でも、身をかがめて行なわれた。主には何の高慢もなく、主は謙遜な人であり、取税人や罪人たちの友であり、彼らとともに暮らし、彼らとともに歩まれた。そのように、キリスト者よ。あなたもあなたの《主人》のようになるがいい。――身をかがめることのできる者、しかり、それを身をかがめることだなどとは一切思わず、むしろ、他人を自分よりもすぐれた者とみなし、キリストの民のいかに貧しい人と席を同じくすることも自分の栄誉と考え、こう云う者となるがいい。「もし私の名前が、いのちの書のいかに人目につかない場所に書かれているとしても、それで私にとっては十分だ。私は主の目にとまるには、あまりにも価値のない者なのだから」。その謙遜さにおいて、キリストのようになるがいい。

 そのように私は続けていけるであろう。愛する兄弟たち。キリスト・イエスの様々な特徴について語り続けていけるであろう。だが、あなたも私と同じくらいそれらについて考えることができるので、私はそうはすまい。腰を据えてイエス・キリストの肖像画を描くのはたやすいことである。というのも、主のみことばの中には、主が描き出されているからである。イエスの似姿を完全に告げようとするなら、時間がなくなってしまう。だが、これだけは云わせてほしい。主の聖さにおいて、主にならうがいい。主はご自分の《主人》のために熱心だったろうか? あなたもそのようになるがいい。常に巡り歩いて良いわざをなすがいい。時間を浪費してはならない。それは、あまりにも貴重である。主は自分を否定し、決して自分の利益を求めなかっただろうか? あなたもそのようになるがいい。主は敬虔だったろうか? そのように、あなたも熱心に祈るがいい。主は御父のみこころに服従しておられただろうか? あなたも自分を主に従わせるがいい。主は忍耐深くあられただろうか? そのように、耐え忍ぶことを学ぶがいい。そして、何よりも良いことに、イエスの人物描写の最高のこととして、主がなさったように、あなたの敵を赦そうとするがいい。そして、あなたの《主人》のあの崇高なおことば、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」[ルカ23:24]、が常にあなたの耳に響いているようにするがいい。あなたが、復讐したい思いに駆られるときには、怒りを発したときには、その暴れ馬をただちに抑えて、その猛然たる突進に引きずられないようにするがいい。思い出すがいい。怒りは一時的な狂気である。自分が赦されたければ、赦すがいい。あなたの敵に親切にしてやり、そのことによってその頭に燃える炭火を積むがいい[ロマ12:20]。思い起こすがいい。善をもって悪に報いるのは、神にふさわしいことである。ならば、そのように神に似た者となるがいい。そして、あらゆるしかた、あらゆる手段によって、あなたの敵にこう云わせるように生きるがいい。「彼は、イエスとともにいたのだ」、と。

 II. さて、《キリスト者たちは、いつこのようであるべきだろうか?》 というのも、世の中には、人は日曜には非常に宗教的であるべきだが、月曜日に何をしていようが大した問題ではないという考え方があるからである。聖日には非常に敬虔な説教者でありながら、平日の間は、非常に不敬虔な説教者となる者たちが何と多いことか! いかに多くの者たちが、謹厳な面持ちで神の家にやって来ては、賛美歌を歌い、祈るふりをしていながら、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできず、「苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」ことか[使8:23]! このことは、この場にいるあなたがたの中のある人々について真実である。ならば、いつキリスト者はイエス・キリストに似た者であるべきだろうか? キリスト者が自分の連隊服を脱ぎ捨てて良い時があるだろうか?――戦士が自分の武具の留め金を外し、ただの人のようになってよいのはいつだろうか? おゝ! 否。いついかなる時も、いついかなる場所でも、キリスト者は、自分が告白する通りの者であるがいい。私は、少し前にある人と交わした話を思い出す。その人はこう云ったのである。「私は、わが家にやって来た客人が宗教の話を持ち出すのを好みませんな。私が思うに、われわれは、聖日に、神の家に行ったときには宗教の話をすべきだが、応接間でそんな話をすべきではないのです」。私はその人に云った。もしも神の家以外の場所に宗教がないとしたら、布張り職人の仕事が途轍もなく増えるでしょうね、と。「なぜそんなことに?」、と尋ねられたので、私は答えて、「なぜって、私たちは礼拝所という礼拝所に寝台を備え付ける必要が出てきますよ。というのも、私たちは死ぬときには宗教が必要になるに決まっていますから、結果的に、だれもが礼拝所で死にたがるでしょうからね」。左様、私たちはみな最期には神の慰めを必要とするものである。だが、生きている間にキリスト教信仰の戒めに従ってもいないで、いかにしてそうした慰めを受けられると期待できるだろうか? 私の兄弟たち。私は云いたい。あなたがたは、いついかなる時にもキリストに似た者となり、公にキリストにならうがいい。私たちの中のほとんどの者は、何らかの形により衆人環視のもとで生きている。私たちの多くは、毎日、同胞の人々の前で働くように召されている。私たちは見られている。私たちの言葉は聞かれている。私たちの生活は吟味され、――精密に分析されている。世間は、鵜の目鷹の目で私たちの一挙手一投足を注視しており、重箱の隅までつつき出そうと手ぐすね引いている。私たちは、公にキリストと同じ生き方をしようではないか。自分をではなく、自分の《主人》を明らかに示すよう気を遣おうではないか。――そして、こう云えるようになろうではないか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」、と[ガラ2:20]。また、教会員であるあなたは、これを教会の中にも持っていくように留意するがいい。教会内でもキリストに似た者となるがいい。あなたがたの中の、いかに多くの人々が、デオテレペスのように、かしらになりたがっていることか[IIIヨハ9]。いかに多くの者が、自分の同胞キリスト者にまさる威厳と権力を少しでも手に入れようとしつつあることか。彼らは私たちの教会すべての根本的な規則を忘れているのである。すなわち、すべての者は同等であり、――同じように兄弟であり、そのような者として同じように受け入れられるべきである、ということを。では、あなたがたがいずこにあろうと、あなたの教会内でキリストの精神を実践するがいい。同じ教会員たちがあなたについて、こう云うようにするがいい。「彼は、イエスとともにいたのだ」、と。

 しかし、何にもまして、あなたのの中でキリスト教信仰を有するように留意するがいい。キリスト教信仰に裏打ちされた家は、真の敬虔さの最上の証拠である。私の会堂ではなく、私の家こそ、――私の教役者ではなく、私の家にともに住んでいる人々こそ、――最もよく私を判断できるのである。召使いや、子どもや、妻や、友人こそ、私の本当の性格を最も見きわめることができる。良い人間は、自分の所帯を向上させる。ロウランド・ヒルはかつてこう云ったことがある。自分がある人を真のキリスト者であると信ずるとしたら、それは、その人の妻や、子どもたちや、召使いたちや、飼い犬や飼い猫さえもが、そのことによってより良いものとなっている場合に限る、と。これこそキリスト教信仰を有するということである。もしあなたの所帯があなたのキリスト教によってより良いものとなっていないとしたら、――もし人々が、「これは、他の人たちよりも良い家だ」、と云えないとしたら、思い違いをしてはならない。――あなたがたは全く神の恵みを有していないのである。あなたの召使いが務めをやめるときに、こう云うようであってはならない。「さあて、これはキリスト教を信じているという割に奇妙な家ですね。朝には何も家庭礼拝をしませんし、私の一日は単調な骨折り仕事で始まったものですよ。夜にも家庭礼拝などありゃしません。聖日にも家から一歩も出られないんです。もしかすると二週間に一遍くらいは昼過ぎの外出を許してもらいましたが、そんな時間には、どこに行ったって福音の説教を聞けませんよ。もちろん、ご主人様と奥様は、神様のありがたい福音を聞ける所に行きましたけども、――それは、おふたりだけのもんなんです。私にとっては、午後になってから近くの国教会で、くたびれた副牧師の箸にも棒にもかかんない話を聞くしかありませんでしたね」。確かにキリスト者の人々なら、このようなやり方はしないに違いない。しかり! あなたの敬虔さをあなたの家の中で実行するがいい。あらゆる人に、あなたには実際的なキリスト教があると云わせるがいい。この世の中でと同じく、家の中でも、それが周知のこととなるようにするがいい。家内におけるあなたの人格に留意するがいい。というのも、そこでいかなる人物であるかこそ、私たちが真にいかなる人物であるかを示すからである。表世間での私たちの生活は、しばしば借り物であり、大舞台で役者が演技するようなものだが、家の中ではその才腕は影を潜め、ありのままの地金が顔を見せる。あなたの家の中における種々の義務に留意するがいい。

 だがさらに、私の兄弟たち。次の点に移る前に、人目につかない所でも、イエスにならうがいい。神の御目以外のだれの目にもふれないとき、――あなたが暗闇に覆われているとき、――定命の者らの注目を全く受けていないとき、そうしたときでさえ、あなたがたはイエス・キリストに似た者となるがいい。主の熱烈な敬虔さを、主の内密の献身を思い出すがいい。――いかに主が、丸一日説教に精魂傾けた後で、夜中の闇にまぎれて外へ抜け出し、その神からの助けを叫び求めておられたことか。思い出すがいい。いかに主の全生涯が、祈りによって引き出された、聖霊の新鮮な霊感によって絶え間なく支えられていたかを。あなたの人目につかない生活に留意するがいい。それを、最後の大いなる審判の日に読まれても恥じるところのないものとするがいい。あなたの内なる生活は神の書に書き記されており、それは、いつの日か、あなたの前に開かれるのである。もし、あなたがたの中のある人々の全生活が知られたとしたら、それは全く何のいのちでもないであろう。死であろう。しかり。私たちは、何人かの真のキリスト者たちについてさえ、そこにはほとんどいのちがないと云えよう。それは、何かがだらだらと存在し続けているにすぎない。――たった一度あわただしく祈るだけの毎日――私たちの魂をぎりぎりで生かしておくに足るだけの一呼吸、それだけである。おゝ、私の兄弟たち。もっとイエス・キリストに似た者となるよう努力するがいい。近年は、私たちがいやまして密室の祈りを必要とする時代である。この一週間、私には大きな恐れがあった。私はそれが本当かどうかわからない。だが私は、そうしたことを感じるときには、あなたがたの中にいる、私の教会と会衆に属する方々にそれを告げたいと思う。私が何についておののいているかというと、自分たちの教会堂から離れていることによって、あなたが、かつてそうしていたほどには熱心に祈るのをやめてしまってはいないか、ということである。私はあなたがたの熱心な呻きや嘆願を覚えている。――いかにあなたがたが群れをなして祈りの家に相集い、神に向かってそのしもべを助け給えと叫び求めたことか。現在の私たちは、そのようなやり方で集うことはできない。だが、あなたはそれでも個人的に祈っているだろうか? あなたは私のことを忘れてしまっただろうか? 神に向かって叫び求めるのをやめてしまっただろうか? おゝ! 愛する方々。人としてあたう限りのあらゆる懇願をこめて、あなたに訴えさせてほしい。私が何者で、また、いかなる者か思い起こしてほしい。――ほんの子どもで、微々たる教育と、微々たる学識、能力、才能しかない。その私が、ここで毎週この大群衆に向かって説教するよう召されているのである。愛する方々。あなたがたは、なおも私のために嘆願しようとしないだろうか? 神はあなたがたの祈りを、これまで一万倍も聞いてくださらなかっただろうか? だのにあなたがたは、今や多くの教会で大いなる信仰復興が起こりつつあるというのに、祈りをやめようというのだろうか? 今あなたがたは自分の請願をやめてしまうというのだろうか? おゝ! 否。自宅に行って、膝まづき、神に向かって大声で叫ぶがいい。山の上のモーセのように、自分の両手を掲げ続けていられるように、そのことによって、下で戦うヨシュアがアマレク人を打ち負かすことができるように乞い求めるがいい。今は勝利を得る時である。それを失っていいだろうか? 今は私たちが浅瀬を越えて浮かぶことのできる高潮時である。今は櫂を突き出そうではないか。熱心な祈りによって漕ぎ出し、御霊なる神が帆をはらませてくださるよう叫び求めようではないか! あらゆる場所、あらゆる教派から来た、あなたがた神を愛する方々は、自分の教役者たちのために格闘し、彼らのために祈るがいい。というのも、なぜ神は、今しもその御霊を注ぎ出さないわけがあるだろうか? 私たちにペンテコステ的な時期が拒まれるべき理由がどこにあるだろうか? なぜ今この時に、1つの大集団として神の前にひれ伏し、その御子のゆえに神に懇願し、そのうなだれつつある教会に息を吹き返させてくださるよう願わないのだろうか? そのときこそ、あらゆる人々は見きわめるであろう。私たちが真実にキリストの弟子であることを。

 III. しかし今、第三に《なぜキリスト者はキリストにならうべきなのだろうか?》 この答えは、ごく自然かつ簡単に出て来る。キリスト者がキリストに似た者となるべきなのは、第一に、自分自身のためである。自分の誠実さのために、また自分の面目のために、キリスト者は、神と人々との前で嘘つきにならないようにするがいい。自分の健全な状態のために、罪から保たれ、道を外れることから守られたければ、イエスにならうがいい。自分の幸福のために、よくこされた葡萄酒を飲たければ[イザ25:6]、――イエスとの聖く幸いな交わりを享受したければ、――この世の心労や悩みを越えて引き上げられたければ、イエス・キリストにならうがいい。おゝ! 私の兄弟たち。何にもましてあなたに利益を与え、あなたを豊かに富ませ、あなたを助け、あなたを天国へ向けてすみやかに歩ませ、あなたの頭を天さして高々と持ち上げさせ、あなたの目を栄光で輝かせることができるのは、イエス・キリストにならうことにほかならない。聖霊の力によってあなたがイエスとともに、まさにその足跡を踏んで、その道を辿って歩めるようにさせられるときこそ、あなたは最も幸いになり、あなたが神の子どもであることが最も明らかになるのである。私は云う。あなた自身のために、私の兄弟たち。キリストに似た者となるがいい。

 次に、キリスト教信仰のために、イエスにならうよう努力するがいい。あゝ! あわれなキリスト教信仰よ。お前は冷酷な敵どもから激しく射られてきた。だが、その矢傷は、お前の友たちによって負わされたものの半分にもならない。だれにもましてお前を傷つけてきたのは、おゝ、キリスト教よ。お前に従うと告白している者たちである。だれが《敬虔さ》のこの美しい手に、こうした傷をさんざんにつけてきたのだろうか? 私は云う。信仰告白者たちがそうしたのだ、と。自分の信仰告白にもとる生き方をしてきた者、――見せかけだけで囲いの中に入り込んだ者、羊の衣を着た狼でしかない者がそうしたのである。方々。こうした者らが福音を傷つけるしかたは、他の者らの比ではない。囃し立てる不信心者よりも、鼻で笑う批評家よりも、キリスト教の進展を傷つけるのは、それを愛すると告白しながら、その行動によって、自分の愛が偽りであることを示す者である。キリスト者よ。あなたはその進展を愛しているだろうか? 愛しい《贖い主》の御名は、あなたにとって貴重なものだろうか? あなたは、この世の国が私たちの主およびそのキリストのものとなる[黙11:15]のを見たいだろうか? 高ぶる者がへりくだらされ、力ある者が低められるのを見たいと願っているだろうか? 滅びゆく罪人たちの魂を切望しているだろうか? また、それらをかちとりたい、彼らの魂を永遠に燃える炎から救いたいと願っているだろうか? それらが罪に定められた者らの領土に落ち込むのを防ぎたいと思っているだろうか? キリストが自分のいのちの激しい苦しみを見て、大いに満足なさること[イザ53:11]は、あなたの願いだろうか? あなたの心は、あなたの同胞たる定命の者らを気の毒に思っているだろうか? あなたは彼らが赦されることを切に願っているだろうか? ならば、あなたのキリスト教信仰において首尾一貫した者となるがいい。生ける者の地で、神の御前を歩き進むがいい[詩116:9]。選ばれた者がすべきふるまいをするがいい。思い起こすがいい。私たちがどれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないかを[IIペテ3:11]。これこそ、世を回心させる最善の道である。しかり。そのようなふるまいは、いかに卓越した伝道協会の努力をもはるかにまさることを成し遂げるであろう。人々は、私たちのふるまいの方が他の人々のふるまいよりもすぐれていることを見さえすれば、私たちのキリスト教信仰がただものではないと信ずるであろう。だが、もし私たちが自分の公言していることと正反対であるのを見るとしたら、彼らは何と云うだろうか? 「このキリスト教がかった連中は、他の者らより全然ましではない! なぜわれわれは、こんな連中の仲間にならなくてはならないのか?」 そして、それは実に理にかなった言葉である。それは常識的な判断としか云えない。あゝ、愛する方々。もしあなたがキリスト教信仰を愛しているなら、そのキリスト教信仰そのもののためにも、首尾一貫した者となり、神への愛のうちを歩むがいい。キリスト・イエスに従うがいい。

 それから、これをできる最高に強烈な形で云い表わすために、こう云わせてほしい。キリストのために、主に似た者となるよう努力するがいい。おゝ! もし私に死につつあるイエスをここに呼び出すことができたとしたら、また、主からあなたに語っていただくことができたとしたら! 私自身は今朝、口ごもるような語り方しかできないが、主の血を、主の涙を、また主の御傷をして私は語らせたい。私はそれら1つ1つに命じて、主に代わって訴えさせる。いかにイエスはここに立って、その両手を今朝あなたがたに示されることか! 「わたしの友よ」、と主は云うであろう。「わたしを見よ! この両手が刺し貫かれたのは、あなたのためなのだ。また、このわたしの脇腹を見るがいい。そこがえぐられたのは、あなたの救いを湧き出させる泉となるためなのだ。私の足を見るがいい。そこに、あのむごい釘が打ち込まれたのだ。この骨々の一本一本がはずれたのは、あなたのためなのだ。この両目はとめどなく涙を噴き上がらせた。この頭は、茨の冠をかぶせられた。この頬は殴打された。この髪の毛は引き抜かれた。わたしのからだは、苦悶の中心となり焦点となった。わたしは焼けつくような陽射しの下で吊り下げられ、身を震わせていた。そして、そのすべては、私の民であるあなたのためだったのだ。だのに、今あなたはわたしを愛そうとしないのか? わたしは、わたしに似た者となることをあなたに命ずる。わたしに何か過ちがあるだろうか? おゝ! 否。あなたがたも信ずるように、わたしは万人にまさって麗しく、万人にまさって美しい。わたしはあなたを傷つけただろうか? むしろ、あなたの救いのためにすべてを成し遂げたではないだろうか? また、わたしは、わたしの父の御座に座って、まさに今も、あなたのためにとりなしをしてはいないだろうか? もしあなたがたがわたしを愛するというなら」、――キリスト者よ。このことばを聞くがいい。この甘やかな一語一語が永遠にあなたの耳で、銀色の鐘の音のように鳴り響くようにするがいい。――「もしあなたがたがわたしを愛するというなら、もしあなたがたがわたしを愛するというなら、わたしの戒めを守るがいい」[ヨハ14:15]。おゝ、キリスト者よ。この「もし」を今朝あなたに突きつけるがいい。「もしあなたがたがわたしを愛するというなら」。栄光に富む《贖い主》よ! それは「もし」でしかないのですか? 尊い、血を流しつつある《小羊》よ。そこに「もし」などありえるでしょうか? 何と、私が、あなたからあなたの血の噴き出すのを見るとき、それは「もし」なのでしょうか? しかり。私は涙ながらに、それが「もし」であると云う。しばしば私の思いはそれを「もし」にしてしまい、しばしば私の言葉はそれを「もし」にしてしまう。だがしかし、私が思うに、私の魂はそれが「もし」ではないと感じている。むしろ、それにくらべれば――

   「わが目に光も 卑しく映り、
    友の愛すら 甘やかならず」。

「しかり。私はあなたを愛します。私があなたを愛することは、私が知っています。主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」、とキリスト者は云える。「よろしい。ならば」、とイエスは、愛情のこもった承認のまなざしで見下ろして云われる。「あなたはわたしを愛しているのだから、私の戒めを守るがいい」。おゝ、愛する方よ。これ以上に大きな理由をあなたに与えることができようか? それは愛と愛情による訴えである。キリストに似た者となるがいい。感謝の念は服従を求めるからである。そのようにして、世にこう知らせるがいい。あなたがたがイエスとともにいたのだ、ということを。

 IV. あゝ! あなたがたは泣いている。そして、私には、あなたがたが大きく哀れみの情を感じているのがわかる。あなたがたの中のある人々がこう自問しているのがわかる。「いかにすれば《私は主にならうことができるだろうか?》」 そこで、あなたがこの場を去る前に私がなすべき義務は、いかにすればあなたがキリストのかたちに変われるかをあなたに告げることである。

 まず第一のこととして、私の愛する方々。あなたの問いに答えて、こう云わせてほしい。あなたは、自分の《贖い主》としてのキリストを知るまでは、決して自分の《模範》としてのキリストに従うことはできない。イエスの模範については多くのことが語られており、私たちの主がこの上もなく聖なる人であり、大いに賞賛されるべき方であることを信じないような人は、今はまず見つけることができないであろう。しかし、主の模範が卓越したものであるとはいえ、それを真似ることは、主が私たちのいけにえでもあられなかったとしたら、不可能だったであろう。今朝あなたがたは、主の血があなたのために流されたことを知っているだろうか? あなたがたは、この一節を私とともに云えるだろうか?――

   「おゝ、かの奇し 甘き十字架に、
    救いの神は 愛し死にけり。
    その御いのちを わが霊うけたり、
    主の御傷と 血流る脇より」。

もしそうならば、あなたはキリストにならう麗しい道の途上にあるのである。しかし、あなたは、主の血管から流れ出た血に満ちた泉で身を洗うまでは、主の真似をしようとしてはならない。あなたには、それは不可能である。あなたの情動はあまりにも強く、あまりにも腐敗しており、あなたは土台なしに建てることになり、その建物は夢のようにはかないものであろう。あなたがあなたの人生を主の範型に添って形作れるようになるのは、あなたが主の義を着せられた後でなくてはならない。「よろしい」、とある人々は云う。「私たちはそこまでは進みました。次に何をすればよいでしょうか? 私たちは、自分が主の恵みにあずかっていることを知っています。ですが、それでも数多くの欠点を自覚しているのです」、と。では次にあなたに願いたいのは、キリストのご性格を学ぶことである。このあわれな聖書は、ほとんど廃本となってしまっている。キリスト者の一部にとってさえそうである。世にあふれる膨大な数の雑誌や、定期刊行物や、そうした類のはかない著作物によって、私たちは聖書を調べることをないがしろにする危険に陥っている。キリスト者よ。あなたはあなたの《主人》を知りたいだろうか? 主を見つめるがいい。キリストのご人格には驚くほどの力がある。というのも、あなたがそれをじっと見つめれば見つめるほど、あなたはそれと同じ有様になっていくからである。私は鏡で自分自身を見ても、立ち去ると、自分がどのような顔をしていたか忘れてしまう[ヤコ1:23-24参照]。だが私がキリストを見つめると、私はキリストのようになっていく。それでは、主を見つめるがいい。福音書記者の書き記した主を熟視し、そのご人格を注意深く吟味するがいい。「しかし」、とあなたは云う。「私たちはすでにそうしたのです。でも、ほとんど何の進歩もしなかったのです」。では、次のこととして、あなたの貧しい模写を毎日訂正するがいい。夜には、この二十四時間のあらゆる行動を指折り数えあげ、それらを仔細に検討するがいい。私は、自分の著作の校正刷りが送られてきたときには、余白に修正を書き込まなくてはならない。私はそれを五十回以上も読み返すことがあり、それでもよくよく注意していないと印刷工たちが誤植を引き起こすであろう。あなたもそのように行なわなくてはならない。もし何か間違ったものを見つけたならば、夜、余白にしるしをつけておくがいい。そうすれば、どこに過ちがあるかがわかり、翌日にはそれを改めることができるであろう。日々絶え間なくこのことを行なうがいい。自分の過ちの1つ1つに注意し、それをより良く避けられるようにするがいい。昔の哲学者たちの格言だが、日に三度、私たちは自分の行動を思い返すべきであるという。そのように私たちも行なおう。忘れっぽい者にならないようにしよう。むしろ毎晩自分を吟味して、自分がどこで間違いを犯したかを見てとり、自分の生活を改善するようにしよう。

 最後に、私の与えることのできる最善の助言として、神の御霊をさらに求めるがいい。というのも、これこそキリストに似た者となる道だからである。主の御霊を求めるまでは、主に似た者となろうとするいかなる努力もむなしい。冷たい鉄を取って、できるものなら、それを何かの形にしてみるがいい。その努力の何と甲斐ないことか! それを鉄床の上に置き、渾身の力をこめて鍛冶屋の大鎚を握るがいい。それを何度も何度を打ちつけてみるがいい。何1つ変わらないであろう。ねじろうが、回そうが、いかなる器具を使おうが、それをあなたの思い通りの形にすることはできないであろう。しかし、それを火の中に入れて柔らかくし、打ち延べられるようにしてから、鉄床の上に置いてみるがいい。一打ち一打ちに素晴らしい効果があり、あなたはそれを自分の願い通りのいかなる形にでもすることができよう。そのように、あなたの心をも取り上げるがいい。今のように冷たいままではなく、生まれながらの石のようなものとしてではなく、それを炉の中に入れるがいい。そこでそれを和らげれば、その後で、それは封蝋のようになり、イエス・キリストのかたちに作り上げることができるであろう。

 おゝ、私の兄弟たち。私がいま今朝の聖句に云い足せる唯一のことは、もしあなたがたが地上でキリストに似た者となるとしたら、あなたがたは天国で主に似た者となるということである。もし御霊の力によってあなたがたがイエス・キリストに従う者となるとしたら、あなたがたは栄光に入ることになるであろう。というのも、天国の門にはひとりの御使いが座っており、私たちのあがむべき主と同じ特徴を有する者しか中に入れようとしないからである。そこに王冠を戴いた人がひとりやって来る。「しかり」、とこの御使いは云う。「確かにあなたは王冠を戴いてはいる。だが、王冠はここに出入りするための手段ではない」。別の人が、高位を表わす儀式服と、学問を示す正服を近づいて来る。「しかり」、と御使いは云う。「それは結構なことかもしれない。だが正服も学問も、あなたをここに入らせるしるしではない」。容姿端麗な別の者が、美しく、端正な顔立ちをして進み出る。「しかり」、と御使いは云う。「それは地を喜ばせるかもしれないが、美がここで求められているのではない」。もうひとりの者が、名声に先触れさせ、人々の歓呼の声の後で姿を現わす。だが御使いは云う。「それは人間にとっては良いことだが、あなたはここに入る何の権利もない」。そのとき、別の者が姿を見せる。その人は貧しかったかもしれない。無教養だったかもしれない。だが御使いは、その人を見るなり微笑みを浮かべて、こう云うのである。「これはキリストの再来だ。イエス・キリストの引き写しがここにある。入りなさい。入りなさい。永遠の栄光をあなたはかちとるであろう。あなたは、自分が座につく天国で、キリストのようになるであろう。なぜなら、あなたはキリストに似た者なのだから」。おゝ! キリストに似た者となるということは、天国に入ることなのである。だが、キリストと似ない者であることは、地獄に下っていくことである。最後には、似た者同士が寄せ集められる。毒麦は毒麦と、麦は麦と一緒にされる。もしあなたがたがアダムとともに罪を犯し、死んだなら、あなたがたは永遠にわたり霊的に死んだままであろう。キリストにおいて、いのちにある新しさへとよみがえるまではそうである。だが、そうなったならば、私たちはキリストとともに永遠に生きることになる。麦は麦と、毒麦は毒麦とともになる。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」[ガラ6:7]。それでは、私の兄弟たち。この思いをいだいて行くがいい。すなわち、あなたは自分をキリストによって試すことができる。もしあなたがキリストに似ているならば、あなたはキリストのものであり、キリストとともにあることになる。もしあなたがキリストと似ていなければ、あなたはこの大いなる相続財産と何の関わりもない。願わくは私の貧しい話が、床を掃ききよめ、殻を明らかに示す助けとなるように。しかり。この話があなたがたの中の多くの方々をして、光の中にある、聖徒の相続分[コロ1:12]にあずかる者となることを求めさせ、神の恵みをほめたたえる者とならせるように。神にあらゆる誉れが帰されるように!

アーメン。

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キリストの民――主にならう者たち[了]

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