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福音の2つの効果

NO. 26

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1855年5月27日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう」。――IIコリ2:15、16


 この言葉は、パウロが、自分自身と自分の兄弟たる使徒たちに代わって語っているものである。また、これは、神の福音を宣べ伝えるべく御霊によって選ばれ、資格を与えられ、葡萄畑へ押し出されている、すべての人々にあてはまることである。私はしばしば、この章の14節を賞賛してきた。特に、だれの口からこの言葉が発されたかを思い出すときにそうである。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます」。このパウロを思い描いてみるがいい。すでに年老い、ユダヤ人から五度も「三十九のむち」を受け[IIコリ11:24]、死んだものとして引きずられたことのある人物[使14:19]、あらゆる迫害の荒海をくぐり抜けてきた人物、――その彼が、教役者としての自分の生涯の最後にあたって、こう云っていることだけでも考えてみるがいい。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え……てくださいます!」 難破したときも勝利の行列に、鞭打たれるときも勝利の行列に、足枷をかけられているときも勝利の行列に、石打たれるときも勝利の行列に、世の蔑みのもとにあっても勝利の行列に、町から追われて自分の足のちりを払い落とすときも勝利の行列に、キリスト・イエスにあっていついかなる時も勝利の行列に加えられるのである! さて、たとい現代の教役者のだれかれがこのように語るとしても、私たちはそれを大したこととは思わないであろう。というのも、そうした人々は、ぬくぬくと世の称賛にあずかっているからである。そうした人々は、いつでも安穏と成功をおさめることができる。ほめそやす人々ばかりで、公然たる敵はひとりもいない。そうした人々に対しては、犬すら牙をむき出さない。何もかも安全で快適である。その彼らが、「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いて勝利の行列に加えてくださいます」、などと云っても、まるで大したこととは思えない。だが、パウロのように踏みにじられ、試練を受け、悩まされた者がそう云うこと、――そのときには、私たちは云うが、一個の英雄が堂々たる宣言をしているのである。ここには、神への真の信仰を有し、自分の使命が天来のものであることを真に信じている人物がいるのである。

 そして、私の兄弟たち。パウロが、そのあらゆる困難の最中にあって、自分自身の心を浸していた慰めは、いかに甘やかなものであろう。「これらすべてにもかかわらず」、と彼は云っている。「神は、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます」、と[14節]。あゝ! 教役者がこのような思いをもって枕に頭を横たえることができるように。「神は……キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます」。こうした思いとともに、自分の生涯が終わったときに、目を閉ざすことができ、こうした思いとともに、その目を天国で開くことができるように。「神は、至る所で私を通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださったのだ」、と。それに続くのが、本日の聖句であり、私はこれを、特に3つに分けて語りたいと思う。私たちが最初に言及したいのは、福音は、至る所で「甘やかな香り」ではあるが、それでも、人それぞれに異なる効果を生じさせる、ということである。「ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです」。第二に注目したいのは、福音の教役者たちは、自分の成果について責任がない、ということである。というのも、こう云われているからである。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」。そして第三に、それでも福音の教役者の地位は、いかなる意味においても軽くはない、ということである。その人の義務は非常に重い。というのも、使徒そのひとがこう云っているからである。「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう」。

 I. 私たちが第一に言及したいのは、《福音は、異なる効果を生じさせる》ということである。この世にある、ほぼすべての良い物は、結果的に何らかの小さな悪をもたらす。これは確かに奇妙に思えるが、奇妙であっても真実である。太陽が明るく輝くとする。――それは蝋を溶かすが、粘土を硬くする。太陽が燦々と光の洪水を熱帯地方に降り注ぐとする。――それは植生をこの上もなく繁茂させ、きわめて滋味豊かで芳醇な果実を熟させ、目もあやな美しい花々を開花させる。だが、だれもが知るように、そこには最悪の爬虫類や、極度の毒性を有する蛇もまた生み出されるのである。それと同じことが福音についても云える。確かにそれは、まさにこの世を照らす義の太陽[マラ4:2]であり、確かにそれは、神の最良の賜物であり、確かに何物もそれが人類に授ける莫大な量の恩恵とは決してくらべものにならないが、それでも、その福音についてすら、私たちはこう告白しなくてはならない。時としてそれは、「死から出て死に至らせるかおり」になる、と。しかし、だからといって私たちは、このことのゆえに福音を非難しているのではない。それは神の真理の落ち度ではない。それを受け入れない者たちの落ち度である。それを受け入れる開かれた心をもってその響きに耳を傾けるあらゆる人にとって、それは「いのちから出ていのちに至らせるかおり」なのである。それが「死から出て死に至らせる」のは、真理を憎み、それを蔑み、それをあざけり、その進展に反抗しようとする者たちに対してのみである。こうした人物について、まず私たちは語らなくてはならない。

 1. 福音は、ある人々にとっては、「死から出て死に至らせるかおり」である。さてこれは、福音とは何かということに大きくかかっている。なぜなら、世には、福音と呼ばれながら、それを聞く人々にとって、「死から出て死に至らせるかおり」となるものがいくつかあるからである。ジョン・ベリッジの語るところ、彼が道徳を説教し続けた結果、村にはひとりも道徳的な人がいなくなったという。道徳を損ないたければ、律法的な説教にまさるものはない。救いの手段として、良い行ないについて説教し、人々に聖潔を勧めるのは、理屈としては非常に高く賞賛されている。だが実践に移されるとき、それはまるで効果がないどころか、それ以下である。――それは、「死から出て死に至らせるかおり」にすらなるのである。それは、これまで何度も起こったことであった。そして、かの偉大なチャーマズですら、こう告白していたと思う。すなわち、主を知るようになる前の彼は、何年も何年も、道徳と戒めのほか何も説教していなかったが、一度として、泥酔の悪についてまくしたてることによって酔いどれが改心するのを見たことはなかったし、いくら悪態をつくことの極悪さを告げても、悪態をつく者がその悪態をやめるのを見たこともなかった。彼がイエスの愛を、その大いなるあわれみの心によって宣べ伝え始めるまでは、――また彼が、キリストにある福音を、その明確さと、豊かさと、力と、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」[エペ2:10]との教理によって曲がりなりにも宣べ伝え始めるまでは、彼は何の成果もおさめなかった。しかし、彼が信仰による救いを本当に宣べ伝え出したとき、酔いどれたちは群れをなしてその杯から離れ、悪態をつく者たちは悪い言葉を口から発するのを慎むようになった。盗人たちは真人間になり、不義で不敬虔な人々はイエスの王笏の前にひれ伏した。しかし、先に述べたように、人はこう告白せざるをえないであろう。福音は、大方は、それを聞く者に最良の効果を生み出し、その人々に罪を控えさせるか、その人々をキリストのもとに押しやるかするものの、それでも、この大いなる厳粛な事実、私が今朝いかに語るべきか途方にくれているこの事実は残る。すなわち、ある人々にとって、キリストの福音の宣教は、「死から出て死に至らせる」ものであり、善のかわりに悪を生み出すのである。

 (i.) さて、その最初の意味はこうである。多くの人々は、福音を聞くことによって、自分たちの罪の中でかたくなにされる。おゝ! これは、すさまじく厳粛な、だが真実のことである。罪人という罪人の中でも、聖所にいる一部の罪人たちほど極悪な者らはいない。どれほど深く罪に没んでも、まるで良心が平然としており、この上もなく心をかたくなにしていられるのは、神ご自身の家の中で見いだされる一部の人々である。忠実な牧会活動がしばしばこうした人々を刺し貫くこと、ボアネルゲによる厳格な警告が往々にしてこうした人々をおののかせることを私は承知している。時として神のことばがこうした人々に血も凍る思いをさせることは私もわかる。だが、私は(そうした人々を見てきた結果)、多くの人々が神の恵みを放縦に変えていること[ユダ4]、神の真理をさえ悪魔の隠れ蓑にしていること、そして神の恵みを濫用して自分の罪を云いつくろっていることを承知しているのである。私は、そうした人々が、恵みの諸教理を余すところなく聞かされている人々の間にいるのを見てきた。そうした人々は云う。「私は選ばれている。それゆえ悪態をついてもいいのだ。私は、世界の基の置かれる前から神によって選ばれていた者らのひとりである。それゆえ好き勝手な生き方をしてもいいのだ」、と。私は、居酒屋の卓子の上に立ち上がり、その手に酒杯をつかみながら、こう云っていた男を見たことがある。「おいみんな! 俺は、お前たちよりもずっとすごいことが云えるんぞ。俺はな、イエス様の尊い血で贖われた者らのひとりなんだ」。それからこの男は、大杯で酒を飲み干し、一座の前でもう一度踊っては、忌まわしい冒涜的な歌を唄った。さて、このような人間にとってこそ、福音は「死から出て死に至らせるかおり」となるのである。その人は真理を聞いてはいるが、それをねじ曲げている。自分の益となるように神が意図されたことを取り上げて、何をするかと云えば、それで自殺するのである。福音の秘訣を開くために与えられている短刀を、自分の心臓に突き刺すのである。あらゆる真理の中で最もきよく、あらゆる道徳の中で最も高いものを、自分の悪徳に迎合するものとし、自分の邪悪さと罪を建て上げる助けとなる足場とするのである。この場にいるあなたがたの中には、この男のような人がいるだろうか? ――あなたがたがだれしもそうであるように、福音を聞くことは愛している。それでいながら不潔な生き方をしているという者がいるだろうか? ぬけぬけと自分は神の子どもだと云いながら、それでも悪魔の忠実なしもべのようにふるまっている者がいるだろうか? よく知っておくがいい。あなたがたは偽り者であり、偽善者である。というのも、真理は全くあなたのうちにないからである。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません」[Iヨハ2:4; 3:9]。神の選民が常習的に罪に陥ることは許されない。そうした人々は決して「神の恵みを放縦に変え」[ユダ4]はせず、自分の力の及ぶ限り、イエスの間近にとどまろうと努力するものである。確信しておくがいい。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」。「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません」[マタ7:20; ルカ6:43]。しかしながら、そうした人々は絶えず福音を悪に変えている。そうした人々は傲然と罪を犯す。自分の悪徳の云い訳になりそうなことをこの耳で聞いたというので、そうする。私が考えるに、天の下のありとあらゆるものの中でも、何にもまして人々を道からそらしがちなのは、ゆがめられた福音である。通常、ゆがめられた真理は、だれもが偽りと知っている教理よりも悪質である。最も有益な諸元素の1つたる火が、怒涛のような大火災も引き起こすのと同じく、私たちの有する最良のものたる福音も、この上なく邪悪な根拠に変えられてしまうことがありえる。これが、福音が「死から出て死に至らせるかおり」となる1つの意味である。

 (ii.) しかし、もう1つある。これは事実だが、イエス・キリストの福音は、大いなる最後の日における、ある人々の断罪をいや増し加えることになる。もう一度、私は自分のこのような言葉に驚くものである。というのも、これは、あえて口にするにはおぞましすぎる考えに思われるからである。――キリストの福音によって、ある人々には地獄が、そうでない場合にくらべると、ずっと熱くされるというのである。むろん福音がなかったとしたら、人々はみな地獄に沈んでしまっていたであろう。神の恵みは、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」[黙7:9]を改心させる。「主によって救われ、永遠の救いにはいる」[イザ45:17]無数の大群衆を確かに守る。だが、それと同時に、恵みは、それを退ける者たちにとって、その断罪をいやまさってすさまじいものとするのである。その理由を告げさせてほしい。

 第一に、人々が、より大きな光に対して罪を犯すからである。私たちの有する光は、私たちの咎をはかる、この上なくすぐれた物差しである。ホッテントット族の人が行なっても何の犯罪にもならないことも、私にとっては最悪の罪となるであろう。なぜなら、私はより教えを受けているからである。また、ロンドンのある人々が行なっても罰を受けないこと――神によって罪と定められはするだろうが、それほど罪深くはないこと――でさえ、私にとっては、そむきの罪のきわみとなるであろう。なぜなら私は、小さい時から敬虔な生き方をするようしつけられてきたからである。福音は、天からの光のように人々のもとへやって来る。光に照らされながら道をそれるとは、何と言語道断なさまよい人であろう! 目の見えない人がどぶに落ちるとしたら、私たちはその人をあわれむであろうが、目玉に光を受けている人が断崖絶壁から身を投げて自分の魂を失うとしたら、あわれみなど論外ではなかろうか?

   「いかな地獄の 深淵(ふち)ぞ見合うか、
    上つ喜び 嘲む者らは!
    いかな復讐(むくい)の 鎖(くさり)感ずか、
    至高(たか)き愛をば 笑う者らは!」

私たちはあなたがた全員に云う。あなたがイエス・キリストをあなたの《救い主》として見いださない限り、福音は、あなたの断罪を増し加えるであろう。というのも、光を受けていながら、光によって歩まないことこそ、罪と定められることであり、その真髄だからである。咎の病原菌、――それは、「光が世に来たのに、やみはこれを理解しなかった」ことにほかならない。というのも、「人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」[ヨハ3:19]。

 さらにそれがあなたの断罪を増し加えるのは、あなたが福音に反抗する場合である。神があわれみのご計画を立てておられるのに、人がそれに逆らって立つとしたら、その人の罪はいかに大きなものとならざるをえないだろうか? ピラト、ヘロデ、そしてユダヤ人といった人々が背負った大きな咎を、測り知ることができるだろうか? おゝ! 「十字架につけろ! 十字架につけろ!」[ヨハ19:6]、と叫んだ人々の運命を、だれが描写、否、かすかにでも思い描きうるだろうか? また、神に仕える教役者を中傷し、神の民の悪口を云い、神の真理を憎み、できれば地上から敬虔な人々を根絶させたいなどと願う者にふさわしいほど熱い地獄がいかなる場所か、だれにわかるだろうか? あゝ! 神よ不信心者を助け給え! 神よ冒涜者を助けたまえ! 神よその魂を救い給え。というのも、ありとあらゆる人の中でも、それこそ私が絶対になりたくはない人種だからである。方々。あなたは考えているのだろうか? 神は人々が何と云ったかなど気に留めておられない、と。ある人はキリストを呪った。キリストを大ぼら吹きと呼んだ。別の人は、(自分が嘘を云っていると知りながら)、福音などでたらめだと断言した。三番目の者は、好き放題に陳腐なせりふを云い散らしては、神のことばを指さして、「ここにあるのが最悪のものだ!」、と云った。第四の者は、神の教役者たちを口汚く罵り、彼らの欠点を云い立てては嘲笑した。ではあなたは、最後の審判の日に、神がこうしたすべてのことを水に流すと思うだろうか? ご自分の敵たちが御前に出て来るとき、神は彼らの手を取って、こう云われるだろうか? 「あなたはいつぞや、わたしのしもべを犬と呼び、つばを吐きかけました。では、そのことのために、わたしはあなたに天国を授けましょう!」 むしろ、もしその罪がキリストの血で帳消しにされていなかったとしたら、神はこう云われるではないだろうか? 「離れよ。のろわれた者。お前があざけっていた地獄にはいれ。お前が蔑んでいた天国から去れ。そして、お前は神などいないと云ったが、この右の腕が、神がいるという教訓を永遠にお前に教えると思い知るがいい。わたしは、わたしの慈愛のわざによって、そのことを悟らない者には、私の復讐のわざによってそのことを学ばせるからだ。それゆえ、もう一度云う。離れよ!」 人々が神の真理に反抗すれば、それは彼らの地獄を増し加えるはずである。さて、これは福音の非常に厳粛な見方ではないだろうか? それはまさに多くの人々にとって「死から出て死に至らせるかおり」である。

 (iii.) だが、さらにまた私の信ずるところ、福音は、この世において、ある人々を、そうでない場合よりも一層みじめにする。酔いどれたちは、好きなだけ酒を飲んで、この上もなく陽気に浮かれ騒げるはずのときに、こう告げられているのである。「すべて酒に酔う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある」[黙21:8参照]。安息日を破る者たちは、聖日の間中、愉快な乱痴気騒ぎをしていたいだろうに、聖書がこう語っているのである。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ!」[出20:8] また、放埒で放蕩な者は、喜び勇んでその狂気の生涯を突き進みたいだろうに、こう告げられているのである。「罪から来る報酬は死であり、死後にはさばきがある!」[ロマ6:23; ヘブ9:27参照] しかり。真理はその人の杯に苦味を入れている。神の警告は、その人の魂を震え上がらせる。福音は、エブプトでの宴会の興ざましである。人は、日中はそれを笑い飛ばすが、夜になるとぶるぶると震え、夕闇が回りに迫ると、囁き声にもおののくものである。未来の状態を考えるとき、その人の喜びはだいなしになり、魂が不滅であることは、その人にとって恩恵であるかわりに、それを思い巡らすだけでも、自分の存在をみじめなものとしてしまう。あわれみの甘やかな懇願は、その人にとっては、雷鳴の轟きほども甘美には聞こえない。なぜなら、自分がそれを蔑んでいることを知っているからである。しかり。私の知っているある人々は、福音のもとにあって、そうしたみじめさの中にある。なぜなら彼らは、たといいのちが取られても、自分のもろもろの罪を手放そうとはしないからである。おゝ! 何と恐ろしい考えであろう! 福音は、「死から出て死に至らせるかおり」である。この場に、福音がそのようなものとなっている人は何人いるだろうか? いま神のことばを聞いていながら、それによって断罪されることになるのはだれだろうか? 真理の響きによって心かたくなにされつつこの場を去ることになるのはだれだろうか? 左様。それを信じないあらゆる人である。というのも、それを受け入れる人々にとって、それは「いのちから出ていのちに至らせるかおり」だが、不信者たちにとって、それは呪いであり、「死から出て死に至らせるかおり」だからである。

 2. しかし、神はほむべきかな。福音には第二の力もある。それは、「死から出て死に至らせる」だけでなく、「いのちから出ていのちに至らせるかおり」なのである。あゝ! 私の兄弟たち。私たちの中のある人々は、もしも今朝許されるとしたら、私たちにとって「いのちに至らせるかおり」たる福音について、いくらでも物語れるであろう。私たちは、自分が「罪過と罪との中に死んでいた」[エペ2:1]ときのことを振り返ることができる。シナイのいかなる雷鳴も空しく、見張り人たちの呼び覚ます声も空しかった。私たちは、自分のそむきの罪という死の眠りについていた。御使いも私たちを目覚めさせることはできなかった。しかし、私たちは、喜びをもって、かの時を振り返る。それは、私たちが最初に聖所の中に足を踏み入れ、あわれみの声を聞いて、救いに至らされたときのことである。あなたがたの中のある人々にとって、それはまだほんの数週間前のことである。私は、あなたがたが今どこにいるか、また、今いかなる者であるかわかっている。しかし、数週間前、あるいは数箇月前には、あなたもやはり神から遠く離れていた。だが今あなたは主を愛するようにさせられている。私の兄弟であるキリスト者よ。あなたは、福音があなたにとって「いのちに至らせるかおり」となった瞬間を振り返れるだろうか? ――あなたが自分のもろもろの罪を振り捨てて、もろもろの情欲を打ち捨てて、神のことばに向かい、それを心の底から受け入れたときを振り返れるただろうか? あゝ! その時。――ありとあらゆる時の中でも最も甘やかな時! それとくらべものになるようなものは何1つない。私の知っているある人は、四十年か五十年の間、完全に聾であった。ある朝、自分のあばら屋の戸のところに座っていた彼女は、どこかの車が通り過ぎたときに、甘美な音楽を聴いたように思った。それは音楽ではなく、車の音でしかなかった。だが彼女の耳が突如として開かれ、その荒々しい音は彼女には天国の音楽のように思われたのである。なぜなら、それは彼女が、それほどの長年月の間に聞いた、最初の音だったからである。それと全く同じように、私たちの耳が愛のことば――私たちの赦しの確信――を聞くべく開かれた最初の時に聞いたほどの言葉を、私たちは決して聞いたことがない。その言葉が、そのときほど甘やかに聞こえたことは決してない。そして、ことによると、今でさえ、私たちは振り返ってこう云うであろう。

   「いかに安けき 時を持ちしか!
    いかに甘きか その記憶 いまも!」

これは、それが私たちにとって最初に「いのちに至らせるかおり」となったときにほかならない。

 それから、愛する方々。もしそれが一度でも「いのちに至らせるかおり」となったとしたら、それは常に「いのちに至らせるかおり」である。なぜなら、それは、「いのちから出て死に至らせるかおり」ではなく、「いのちから出ていのちに至らせるかおり」であると云っているからである。さて私は、私の敵対者たるアルミニウス主義者に、もう一度攻撃を加えなくてはならない。そうしないわけにはいかない。彼らは、福音が、いのちから出て死に至らせるかおりになる時があると主張しようとする。彼らが私たちに告げるところ、人は霊的ないのちを受けても、永遠に死ぬことがありえるという。つまり、人は赦されても、その後で罰されることがありえる。あらゆる罪から義と認められても、その後で、再び自分のそむきの罪を両肩に置かれることがありえる、というのである。人は、神から生まれても、死ぬことがありえる。人は、いったんは神から愛されても、明日には憎まれることがありえるというのである。おゝ! このような偽りの教理について語ることは耐えられない。それを好む人は信ずるがいい。だが私としては、イエスの不変の愛を深く信ずるあまり、こう思わざるをえない。もしひとりでも信仰者が地獄に行くことになったとしたら、キリストご自身が天国で時を措かずに、すぐにもこう叫ぶであろう。「助けに行くぞ! 助けに行くぞ!」、と。おゝ! もし栄光のうちにあってイエス・キリストの冠の宝石が1つでも欠けているとしたら、もしサタンがその宝石を地獄で持っているとしたら、彼は云うであろう。「あはは! 光と栄光の君よ。俺様は、お前の宝石の1つを握っているぞ!」、と。そして、それを手にかざして、彼は云うであろう。「あはは! お前はこいつのために死んだが、こいつを救うだけの力はなかったのだ。お前は一度はこいつを愛した。――では、お前の愛はどこにあるのだ? そんな愛に三文の値打ちもあるものか。後で憎むというのだからな!」 そして、いかに彼は、この天の相続人を眺めてほくそえみ、その手にかざしては、云うであろう。「こいつは贖われたのだ。イエス・キリストは自分の血でこいつを買い取ったのだ」。それから、その人を地獄の波間にざぶりと沈めて、彼は云うであろう。「ほうら、買い取られた者よ! 俺様がどうやって神の御子から盗み出せるか、見るがいい!」 それから再び彼は云うであろう。「こいつは赦されたのだ。神から義と認められた者を見るがいい! こいつは赦された後で罰されることになるのだ。キリストはこいつの罪のために苦しみを受けたが、それでもだ」、とサタンは悪意のこもった喜びとともに云う。「俺様はこいつを後で手に入れたのだ。なぜなら、神はその罰を二度与えたのだからな!」 そのようなことを云わせてよいだろうか? あゝ! 否。これは、「いのちから出ていのちに至らせるかおり」であって、いのちから出て死に至らせるかおりではない。行くがいい。その忌まわしい福音を携えて、それを好きな所で宣べ伝えるがいい。だが、私の《主人》は云われた。「わたしはわたしの羊に永遠のいのちを与える」*[ヨハ10:28]。あなたは自分の羊に一時的ないのちを与え、彼らはそれを失うであろう。だが、とイエスは云われる。「わたしはわたしの羊に《永遠の》いのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」。私は普通、この主題になると熱くなってしまう。なぜなら、聖徒の堅忍という教理ほど死活に関わる教理は、まずないと思うからである。もし神の子どもがひとりでも滅びるようなことがあるとしたら、あるいは、もしだれかがそうなることがありえると私にわかっているとしたら、私は、自分が滅びざるをえないとたちまち結論するはずだからである。また、あなたがたもみな同じように結論するだろうと思う。では、福音の喜びと幸福はどこにあるだろうか? また、私はあなたに告げたい。アルミニウス主義者の福音は、穀粒の入っていない殻である。果肉の入っていない外皮である、と。それを愛する者らは、それを自分たちのところに持っていくがいい。私たちはその人々と口論しはしないであろう。そうした人々は行ってそれを宣べ伝えるがいい。行って、あわれな罪人たちにこう告げるがいい。もしあなたがたがイエスを信ずるとしても、あなたがたは結局は罪に定められるであろう、イエス・キリストはあなたがたをお赦しになるが、それでも御父はあなたがたを地獄に送るであろう、と。行ってあなたの福音を宣べ伝えるがいい。だが、それにだれが耳を傾けるだろうか? また、たとい人が耳を傾けたとしても、それは聞くだけの価値があるだろうか? 私は否と云う。というのも、もし私が回心の後でも、回心前と同じ立場を占めるのだとしたら、私にとって回心など全く何の役にも立たない。しかし、主は、愛する者たちを最後まで愛してくださるのである。

   「一度 主にあらば 永久(とわ)に主にあり、
    何も主の愛より 断つはかなわじ」。

これは「いのちから出ていのちに至らせるかおり」である。そして、この世において「いのちから出ていのちに至らせる」だけでなく、永遠に「いのちから出ていのちに至らせる」のである。このいのちを有するあらゆる人は、来世を受けるのである。というのも、「主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれ」ないからである[詩84:11]。

 私はこの点をここでやめにしなくてはならない。だが、もし私の《主人》がそれを取り上げ、今朝、ご自分のことばを「いのちから出ていのちに至らせるかおり」としてくださるならば、私は自分の語ったことによって喜ぶであろう。

 II. しかし、私たちが第二に言及したいのは、《福音の教役者たちは、自分の成果には責任がない》ということである。教役者は、自分が何を宣べ伝えるかについては責任がある。自分の生活と行ないについては申し開きをしなくてはならない。だが、他の人々については責任がない。私が神のことばを宣べ伝えさえするなら、たといだれひとり救われなかったとしても、《王》は云われるであろう。「よくやった。良い忠実なしもべだ!」、と[マタ25:23]。私が私の使信を告げさえするなら、だれもそれに耳を傾けないとしても、主は云われるであろう。「あなたは勇敢に戦った。あなたの栄冠を受けるがいい」、と[IIテモ4:7-8参照]。この聖句ではこう語られている。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」。このことは、聖書の中で福音の教役者が何と呼ばれているかを告げさえすれば、はっきりするであろう。時として教役者は、大使と呼ばれている[エペ6:20]。さて、大使は何について責任を負っているだろうか? 大使は、全権を有する者としてある国に赴く。ある会議への講話条件を持って行く。自分の主君のために、持てるすべての才幹を用いる。戦争が、いずれの国の繁栄にとっても有害であると示そうとする。和平をもたらそうと努力する。だが、相手の王たちは傲然とそれをはねつける。その大使が帰国したときに、その主君は云うであろう。「お前はなぜ和平をもたらさなかったのか?」 「ですが、わが君」、と彼は云うであろう。「私は彼らに条件を告げたのですが、彼らは何も云わなかったのです」。「よろしい。ならば」、と王は云うであろう。「お前は自分の義務を果たしたのだ。私は戦争が続いてもお前を罪には定めまい」、と。また、福音の教役者は漁師と呼ばれている[マタ4:19]。さて漁師は自分が釣り上げる魚の量については責任がない。責任があるのは、その漁のしかたについてである。これは、確かに一部の教役者たちにとってあわれみであると思う。というのも、彼らは魚を釣りあげたことも、自分たちの網の回りに魚を引きつけたことすらないからである。彼らは、最高に優雅な絹の綱と、金銀の釣針で漁をしようと一生を費やしている。彼らは常に、見事に洗練された言葉遣いを用いる。だが、それにもかかわらず魚は食いつこうとしない。その一方で、私たちのようにがさつな人種は釣針を何百もの魚に食いつかせている。しかしながら、もし私たちが福音の網を正しい場所におろしているとしたら、たとい一匹もつかまらなかったとしても、《主人》は私たちに何の落ち度も見いださないであろう。主は云われるであろう。「漁師よ! お前は働いたのか? お前は網を嵐の時にも海におろしたか?」 「はい。主よ。私はそうしました」。「何を釣り上げたのか?」 「一匹か二匹だけです」。「よろしい。私は、望みさえすれば、お前を浅瀬に遣わすこともできた。それはお前の落ち度ではない。わたしは、こころのままにわたしの主権によって与えるし、そうしたいと思えばそれを差し控える。だが、お前について云えば、お前はよく労した。それゆえ、お前には報いがある」。時として教役者は種蒔く人と呼ばれる[マタ13:3; マコ4:14]。さて、いかなる農夫も、種蒔く人が収穫に責任を持つなどと期待しはしない。その責任は、種を蒔いたかどうか、また、正しい種を蒔いたかどうかである。もしその人が種を良い地に蒔き散らしたなら、その人は幸いである。だが、もしそれが道ばたに落ちて、空の鳥が来て食べてしまったとしても、だれが種蒔く人を責めるだろうか? その人に何かできただろうか? 否。その人は自分の義務を果たしたのである。その人は種を広くばらまいて、それをそのままにしておいた。だれが責められるべきだろうか? 確かに種蒔く人ではない。それと同じく、愛する方々。もし教役者が天国に行くときに、一束しか肩に背負っていなかったとしても、その《主人》は云うであろう。「おゝ、刈り取り人よ! かつての種蒔く人よ! どこでお前はその束を集めたのか?」 「主よ。私は岩の上に種を蒔きましたが、それは育ちませんでした。ただ、一粒の種だけが、たまたまある聖日の朝に、風に乗って、思わぬ方向に吹き飛ばされて、用意のできた心に落ちました。それで、これが私のたった一束です」。「ハレルヤ!」、と一団の御使いたちが歌声を響かせる。「岩地から得た一束は、良い土地から得た何千束よりも神に誉れをもたらします。それゆえ彼には、向こうにいる者と同じくらい御座近くに座らせましょう。かの人は、余所の豊穣な土地で得られた多くの束を背中にかついで持ってきた人ではありますが」、と。私の信ずるところ、もし栄光に程度があるとしたら、それは成功の度合によるのではなく、私たちの努力の熱心さの度合によるものであろう。もし私たちが正しく意図し、もし精魂を傾けて教役者として正しいことをしようと努力したとしたら、たとい私たちが決して何の効果も見なくとも、それでも私たちは冠を受けるであろう。しかし、天国でこう云われることになる人は、いかにはるかにまさって幸いであることか。「彼は世々限りなく輝く。なぜなら、彼は思慮深く、多くの魂を義へとかちとったからだ」[ダニ12:3参照]。常に私の最大の喜びとなっていること、それはこう信ずることである。すなわち、もし私が天国に入ったならば、私は将来の日々に天国の門が開くのを見るであろう。すると、ひとりの智天使が飛んできて、私の顔をしげしげ見つめて、微笑みながら神の御座へと通り抜けて行き、そこで神の前にひれ伏すであろう。神への敬意を表して礼拝した後で、彼は私のところへ飛んできて、だれかはわからないが私の手をしっかりと握るであろう。もし天国に涙があるとするならば、私は確かに涙するに違いない。そこで彼は云うであろう。「兄弟よ。あなたの口から私はみことばを聞きました。あなたの声が最初に私の罪について私に警告したのです。ここに私はいます。そしてあなたは、私の救いの器だったのです」。それから門という門が1つずつ開いて行き、彼らがとめどなくやって来る。贖われた魂が、贖われた魂が。そして、こうした人々のひとりひとりについて1つの星が、――こうした人々のひとりひとりについて、別の宝石が栄光の王冠に、――彼らのひとりひとりについて、別の誉れが、また賛美の歌に別の調べが加えられる。主にあって死ぬ者は幸いである。彼らの行ないは彼らについて行く[黙14:13]。御霊がそう云われるからである。

 もしも天国での冠が、救われた魂の価値によって量られるとしたら、いまエクセター公会堂にいる、何人かの善良なキリスト者たちはどうなるだろうか? あなたがたの中のある人々が天国で受けとる冠には、そこに、ただの1つも星がついていないであろう。少し前に私は、天国にある星なしの冠について、ある読み物を読んだことがある。――星のついていない冠を天国で受けとる人の話である! だれひとり、その人によっては救われなかったのである! その人は、その人にできる限り天国で幸いに座っているであろう。主権のあわれみが、その人を救ったからである。だが、おゝ! ただの1つも星を持たずに天国にいるとは! 母親よ! あなたは、自分の子どもたちのただひとりからも額を星で飾られることなく天国にいるとしたら、何と云うだろうか? 教役者よ! あか抜けた説教者としてありながら、だがしかし一個も星がないとしたら、あなたは何と云うだろうか? 著述家よ! たといあなたがミルトンのように壮麗な文章を書いたとしても、もしあなたが天国で星のない者となってしまうとしたら、それはあなたに似合うことだろうか? 残念ながら、私たちはこのことにあまりにも僅かしか気を遣っていないと思う。人々は、悠々と腰を据えて、巨大な二折判や大冊を書き上げる。それは、それが永久に図書館に所蔵され、自分たちの名前が声望とともに後世に伝えられるためである! だが、いかに僅かな人々しか、永遠に天国で星々をかちとることを期待していないことか! 刻苦して働き続けるがいい。神の子どもよ。刻苦して働き続けるがいい。というのも、もしあなたが神に仕えたいと願うのなら、水の上に投げられたあなたのパンを、ずっと後の日になって、神は見いだしてくださるからである[伝11:1]。もしあなたが牛とろばとを放し飼いするなら[イザ32:20]、主がその選びの民を集めるために来られる、かの日に、あなたは栄えに富む収穫を刈り取るであろう。教役者は、その成果には責任がないのである。

 III. しかしさらに、最後のこととして、《福音を宣べ伝えるのは、重大にして厳粛な務めである》。牧会活動は、非常に往々にして、ただの商売に引き落とされてしまう。近頃、教役者となるように引き抜かれている人々は、立派な船長となれたであろう人や、流し場では見事に給仕できたであろう人ではあっても、決して講壇に立つことには向いていない人々である。そうした人々は、人間によって選び出され、学問を詰め込まれ、ある程度の点まで教育され、良い服装をさせられる。すると人は、彼らを教役者と呼ぶのである。私は、そうした人々全員に、ひとり残らず幸運を祈りたい。というのも、かの善良なジョーゼフ・アイアンズが云い云いしていたように、「神が彼らの多くとともにいてくださるように。それが、彼らの舌を押さえて何も云わせないことでしかなくとも」。人工の教役者たちは、この世では何の役にも立たず、私たちはそうした人々をお払い箱にするのが早ければ早いほどよい。彼らのやり方はこうである。彼らはその草稿を非常に念入りに準備し、それからをそれを日曜日に、この上もなく甘やかな sotto voce [和らいだ、ひそやかな声]で読み上げる。そして、それで人々は満足して散会するのである。しかし、それは神の説教のやり方ではない。さもなければ、私は永遠に説教していられるであろう。私は、1シリングもあれば草稿説教集を買うことができる。つまり、それまで五十回は説教されたものであれば、ということである。だがもし、私がそれを最初に用いるのだとしたら、値段は1ギニーかそれ以上に跳ね上がる。しかし、それがやり方ではない。神のことばを説教するとは、一部の人が考えているようなことではない。ただの子どもの遊びではない。――人が携わるべき単なる仕事だの商売だのではない。人は、まず自分が教役者となるべき厳粛な召しを受けていると感じていなくてはならない。次に、自分が本当に神の御霊を有していること、また、自分が語るとき、自分の《上に》は、ある影響力があって、神が自分を語らせようとなさる通りに自分に語らせることのできるものがあると悟っていなくてはならない。そうでない場合、その人は講壇から一目散に立ち去るべきである。そのような人には、そこに立ついかなる権利もない。たとい、その聖職禄が自分の財産であるとしても関係ない。その人は神の真理を宣べ伝えるべく召されていないのであって、その人に対して神は云っておられる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語るとは」*、と[詩50:16]。

 しかし、あなたは云う。「神の福音を宣べ伝えることの何が困難なのか?」 よろしい。何かが困難であるには違いない。パウロはこう云っているからである。「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう?」 そして最初に私があなたに告げたいのは、それが困難なのは、みことばを宣べ伝える際、自分の偏見によってねじ曲げられずにいることが、きわめて難しいからである。あなたが厳格なことを云いたいとする。すると、あなたの心は云う。「ご主人様。そのようなことをすると、あなたは人から非難されることになりますよ」。それから、それを云わないようにという誘惑がやって来る。もう1つの試練は、自分の会衆の中の富者たちを不快にさせるのを恐れることである。あなたはこう考える。「もし私がこれこれのことを云ったなら、誰それは感情を害するだろう。ああした人は、この教理に賛成していないのだ。これは割愛した方がいいだろう」。あるいは、ことによると、あなたは、たまたま大群衆の喝采を博するようになるかもしれない。すると、あなたは彼らを立腹させるようなことは何も云ってはならなくなる。というのも、たとい彼らがきょう、「ホサナ」、と叫んでも、明日には、「十字架だ、十字架につけろ」、と叫ぶだろうからである。こうした事がらすべてが、教役者の心に働きかける。教役者も、あなたと同じような人間であり、そうしたことを身にしみて感ずるのである。さらにまた、やって来るのは、批判という鋭利な短刀であり、その人を憎み、その人の主を憎む人々の矢である。そしてその人は、時としてそうしたものを感じずにはいられない。その人は武具をまとい、「私は、あなたがたの悪意など全く気に病みはしないぞ」、と云うかもしれないが、弓を射る者がヨセフをすら激しく攻める時期はあるのである[創49:23]。それから、その人は、思い切って自分の身を守ろうとするとき、また別の危地に立つ。というのも、そのようなことをしようとする者はみな途方もない愚か者だからである。自分の気を散らそうとする者どもなど放っておき、さながら鷲が雀のさえずりを気にとめず、獅子が、歯をむき出して唸るジャッカルたちを引き裂こうと脇へそれたりしないようにする――そのような人こそ大人物であり、敬われるはずである。しかし、危険なのは、私たちが自己弁護に走ることである。では、おゝ! こうした数々の危険の岩礁をよけることのできる者は一体だれであろうか? 私の兄弟たち。「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう?」――聖日ごとに、また毎週毎週、立って、「キリストの測りがたい富」[エペ3:8]を宣言するにふさわしい者はだれだろうか?

 ここまでのことを云った上で、私は――しめくくりとして――こうした推論を引き出してよいであろう。すなわち、もし福音が「いのちから出ていのちに至らせるかおり」であり、もし教役者の働きが厳粛な働きであるとしたら、真理を愛する者すべてにとって、それを宣べ伝える人々すべてのために懇願し、彼らが「このような務めにふさわしい者」となれるようにすることは、いかにふさわしいことであろうか。私がしばしばあなたに告げてきたように、私の《祈祷書》を失うことは、私にふりかかる最悪のことである。私のために祈る人がだれひとりいなければ、私は空恐ろしい状況に立ち至るであろう。「ことによると」、と善良な一詩人は云う。「世界が滅びる日とは、世界が祈りによって白くされなかった日であろう」。ならば、ことによると、ある教役者が真理からそれた日とは、その信徒たちが、その人のために祈ることをやめ、その人のための恵みを嘆願する声が1つもなくなった日であったかもしれない。私は、自分についてもそうなるに違いないと確信している。私が、この公会堂に来る前に見たような――私のような立場の者にとって、それを見るのが誇りであり栄誉であるような――おびただしい数の人々がありさえすれば、また、月曜夜の祈祷会に集まり、神の祝福を祈り求める、あれほどの大群衆がありさえすれば、私たちは、自分たちに逆らい立つあらゆるものをものともせずに、地獄そのものさえ征服するであろう。私たちのあらゆる危険は、私たちが祈っている限りは、何ほどのものでもない。しかし、私の会衆が増加したとする。礼儀正しく上品な人々が増え、――私が影響力と理解力を増したとする。――それでも私は、祈る教会なしには何事を行なうことにも失敗するであろう。私の信徒たち! 私はあなたがたの祈りを失うようなことがあってよいだろうか? ならば、あなたがたは嘆願を少しでもやめるだろうか? この大いなる場所における私の労苦は、ほぼ終わりに近づいており、私たちは、私たちの愛してやまない聖所に戻って幸いになるはずである。ならばあなたがたは、それきり祈るのをやめるだろうか? 残念ながら、あなたがたは今朝、そうしてしかるべきほど多くの祈りをささげては来なかったのではないかと思う。残念ながら、注ぎ出されてしかるべきほど多くの熱心な祈祷がなかったのではないかと思う。というのも、私としては、時として自分が経験するような素晴らしい力を感じなかったからである。私はそれをあなたがたのせいにはしない。だが、決してこう云われないようにするがいい。「この人々は、かつてはあれほど熱心だったのに、冷たくなってしまった!」、と。ラオデキヤ精神を、サザクには入り込ませないようにするがいい。どこかにそれがなくてはならないとしても、それはロンドン西端部にまかせておくがいい。私たちは、それをかかえこまないようにしよう。「聖徒にひとたび伝えられた信仰のため、ともに戦う」*ようにしよう[ユダ3]。また私は、軍隊の旗手がいかに悲しい立場にあるかを知っているために、その人の回りに集結するよう、あなたがたに乞い願いたい。というのも、次のようになることは軍隊にとって不幸なことだからである。

   「もし旗手の 真っ逆様に 倒るれば、
    我れ望み見じ かくも決死の乱戦に」。

愛する方々。立ち上がるがいい。自ら軍旗を手に取って、その日が来るまで高く掲げておくがいい。その日、私たちは、地獄の領土で最後に征服された城の上に立って、こう凱歌をあげるであろう。「ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ! 《全能》の主なる神は支配される!」 その時まで、戦い続けるがいい。

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福音の2つの効果[了]

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