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信仰の勝利

NO. 14

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1855年3月18日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」。――Iヨハ5:4


 ヨハネの手紙は愛に香っている。この言葉は絶えず立ち現われ、御霊はあらゆる文章の中に入り込んでおられる。一文字一文字が、この天的な蜜にひたされ、しみ込まされている。彼が神について語れば、その御名は愛でなくてはならない。兄弟たちのことが言及されれば、彼は彼らを愛している。そして、この世そのものについてさえ、彼はこう書いている。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」[ヨハ3:16]。その冒頭から結尾に至るまで、愛が作法であり、愛が内容であり、愛が動機であり、愛が目当てである。それゆえ、私たちが少なからず驚かされるのは、これほど平和的な文章の中に、非常に好戦的な言葉が見いだされる、ということである。というのも、ここには戦争の響きが聞こえるからである。確かに、このように云うのは愛の声ではないに違いない。「神によって生まれた者はみな、世に勝つ」。見よ、ここには争いと戦闘がある。「勝つ」という言葉には、剣と戦い――争いとせめぎ合い――抗争と格闘――を伴う何かが含まれているように見受けられる。これは、物柔らかで優しい愛とは大違いである。愛は、その唇にいかなる辛辣な言葉もいだかず、その口は天鵞絨で裏打ちされ、その言葉は牛酪よりも柔らかい。その物云いは油よりもなめらかに流れる。だが、ここには戦いがある。――血戦がある。「神によって生まれた者はみな、世に勝つ」、と記されているからである。死ぬまでなされる争い、一生を通じての戦闘、勝利の確信をもってなされる交戦。一体いかにして、常に平和について語る同じ福音が、ここで戦争を宣言しているのだろうか? なぜそのようなことがあるのだろうか? それは、世には愛に敵対するものがあるからにほかならない。世の中には、光に耐えられない主義主張があふれており、それゆえ、光がやって来る前に、光は闇を追い払わなくてはならない。知っての通り、夏が威を振るう前には、老いた冬と戦を構えて、それを三月の風の中に追い出しては遠吠えさせ、四月の雨の中で涙を流させなくてはならない。それと同じく、いかに素晴らしいもの、良きものであれ、それがこの世で思い通りに働けるようになる前には、そのための戦いを始めなくてはならないのである。サタンはその血塗られた王座に着いている。全力を挙げて交戦し、戦う以外のしかたで、だれが彼を引きずりおろせるだろうか? 暗闇は国々の上にのしかかっている。太陽も、その光の帝国を確立する前には、降り注ぐ矢のごとき陽射しで夜を突き刺し、それを逃走させなくてはならない。こういうわけで聖書には、キリストがやって来られたのは地に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためだと記されているのである[マタ10:34]。主が来られたのは、「父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗」させるためである[ルカ12:53]。意図してではなく、目的のための手段としてそうなる。なぜなら、真理と義が支配する前には、必ず格闘がなくてはならないからである。悲しいかな! 地上は善が悪と戦闘せざるをえない戦場だからである。御使いたちは、固唾を呑んで見守り続け、自分もこの争闘に加わりたいと熱望している。だが、《救いの指揮官》の軍隊には、十字架の兵士しか入れない。そしてこの細々とした一団は、孤軍奮闘せざるをえないが、しかし、華々しい勝利をおさめることになるのである。彼らは勝ち得て余りあるであろう。彼らの軍旗に記された題銘は《余りあり》である。助けを給う《三位一体》の御腕により、余りあるのである。

 神の御助けによって私は、この聖句に見いだされる3つの事がらをあなたに語りたいと思う。第一に、この聖句は大いなる勝利について語っている。「これこそ……勝利です」、と記されている。第二に、大いなる誕生について言及している。「神によって生まれた者はみな」。そして、第三に、私たちが世に勝つ際に用いられる、大いなる恵みが称揚されている。「私たちの信仰」である。

 I. 第一に、この聖句は《大いなる勝利》について語っている。――勝利の中の勝利――何にもまして偉大な勝利である。知っての通り、これまでも国々が相争い、一国が他国を打ち負かすという大戦闘はいくつも行なわれてきた。だが、世を打ち負かしたというような勝利について、だれが読んだことがあるだろうか? ある人々は、アレクサンドロス大王は世界を征服したと云うであろう。だが、私の答えは否である。彼は、すべてをその掌中にしていたときでさえ、自分自身が敗北者であった。彼は世界を手に入れるために戦い、それをかちとった。だが、注目するがいい。その後、いかに世界がその主人をしもべにし、その征服者を征服し、その笞であった君主を鞭打ったことか。見るがいい。この青年王が、いかにさめざめと涙を流し、白痴的な叫び声とともに両手を差し伸ばし、自分の破壊することのできる来世を求めているかを。彼は、見かけの上では、古き地を打ち負かしたかのように見えた。だが実は、その魂の内奥では、地が彼を征服し、圧倒し、野心の夢で包み込み、貪欲の鎖で締めつけていた。それで彼は、すべてを有していたときにも、まだ満足することなく、あわれな奴隷のように、この世という戦車の車に縛りつけられ、引きずられていたのである。別の世界をかちとることができないと泣きながら、呻きながら、嘆いていたのである。一体だれが世に勝ったことがあるだろうか? その者は一歩前に進み出るがいい。そのような人は燕雀の中にいる鴻鵠である。そのような人にくらべれば、カエサルも形無しである。そのような人は、先に逝去したわが国のウェリントン公さえ――公が世に打ち勝ったと云えるとしてだが――顔色なからしめるであろう。これはあまりにも滅多に見られないことであり、あまりにも桁外れの勝利であり、あまりにも途方もない征服であるため、世に勝ったと主張できるような人は、サウルのように、その同胞たちの間を、肩から頭1つ高く出して歩くことができよう。そのような人は私たちの尊敬の的となり、そのような人が目の前にいるというだけで私たちは畏敬の念にかられるであろう。そのような人の言葉に私たちは唯々諾々と従うであろう。そして、敬わなければならない人を敬って私たちは、その人の声を聞くときこう云うであろう。「まるで天使がその翼を振るわせているようだ」、と。

 さて私は、いま示唆したばかりの観念を展開し、いかに様々な意味においてキリスト者が世に打ち勝つかをあなたに示してみよう。方々。これが熾烈な戦闘であることは私が請け合おう。ひ弱な優男が勝てるようなものではない。易々と勝てるような小ぜり合いではない。青天の昼ひなかに戦闘に突入し、敵軍を眺めては、自分の駿馬の手綱を返し、絹織りの自分の天幕のところで優美に下乗するようなものではない。――自分の利得になるようなものでもない。今日、連隊服を身につけたばかりの新兵が、一週間も軍務に服すれば確実に栄冠にありつけると愚かにも想像するようなものではない。否、方々。これは終生の戦いである。――この筋肉と、この強靭な心臓の全力を必要とする戦闘である。勝とうとするなら、私たちのあらゆる力が求められるせめぎ合いである。そして、もし私たちが圧倒的な勝利者として立ち現われるとしたら、私たちについては、ハートがイエス・キリストについて云ったのと同じことが云われるであろう。「十全(また)きちからもて、そをふりしぼりて」、と。いかに勇敢な心もひるみかねない戦闘である。いかなる勇者でさえ、主が味方しておられるのだ、それゆえだれを恐れよう、と思い起こさない限り、身震いしかねない戦いである。世とのこの戦いは腕ずくのものでも、物理的な力によるものでもない。もしそうなら、私たちも簡単に勝てるかもしれない。だが、それをいやが上にも危険なものとしている事実は、それが精神の争い、心のせめぎ合い、霊の格闘、魂の争いだということである。私たちは、1つのしかたで世に勝つときも、自分の務めを半分も成し遂げていない。というのも、この世は変幻自在のプローテウスで、その形を絶えず変化させるからである。それは変色蜥蜴のように玉虫色で、ある形でそれに損害を与えても、別の形であなたに襲いかかるのである。あなたは、死ぬまで常に格闘すべき世の現われを次々と相手にするであろう。そこで、キリスト者が世に勝ついくつかの形について、ここで言及させてほしい。

 1. キリスト者が世に勝つのは、世が自らを立法者だと自称し、従うべき習慣をキリスト者に教えようとするときである。あなたも知る通り、この世には、その種々の習慣を記した、古く浩瀚な法律書があり、世の流行に従って身を処そうとしない者は、社会からつまはじきにされることになっている。あなたがたの中のほとんどの人々は、他のだれもが行なっているように行なっており、それで事が足りている。もしだれそれが商売で不正直なことをするのを見たならば、それだけで、あなたにとっては、だれもがそうするのに足る理由なのである。もしも人間の大多数がある特定の習慣を身につけているのを見たならば、あなたがたは屈服し、あなたがたは従う。私が思うに、あなたがたは、大勢で地獄に行進して行けば、それだけで底知れぬ穴の灼熱の劫火を弱める助けとなると考えており、薪束が多ければ多いほど火勢がすさまじいものとなることに思い至らないのである。人々は普通、死んだ魚のように流れに沿って泳ぐ。生きた魚だけが流れに逆らって行くのである。キリスト者だけが、種々の習慣を軽蔑し、自らにこう問いかけるのである。「これは正しいことだろうか、間違ったことだろうか? もし正しいとしたら、私は変わり者になろう。たといそのように行なう人がこの世にふたりといないとしても、それを行なおう。世界中から怒声が天に上ろうとも、それでも行なおう。地面の石という石が浮き上がって私を打ち殺すとしても、それでも行なおう。たとい彼らが私を火刑柱に縛り付けても、それでも私はそれを行なわなくてはならない。私はたったひとりでも正しい者となろう。群衆が私について来ないとしても、私は彼らなしに行こう。私は彼らがみな行って正しい行ないをすれば喜ぶであろう。だが、たといそうでなくとも、私は彼らの習慣を軽蔑しよう。私は他の人々が何を行なうかなどどうでもよい。私は他の人々によって評価されるのではない。私の《主人》の心次第で、私は立つか倒れるかなのである[ロマ14:4]。それゆえ私はこの世の習慣を打破し、それに勝つのである」。美しきこの世よ! 彼女は白毛皮の外套を着て、判事の法服をまとい、厳かにあなたに告げる。「人よ。お前は間違っている。お前の仲間たちを眺めるがいい。彼らがどう行なっているか見るがいい。私の法をよく見るがいい。何百年もの間、人々はそうしてこなかっただろうか? お前は何様なので、私に逆らい立とうというのか?」 そして彼女は、古色蒼然たる法律書を引っ張り出すと、その黴臭い頁を繰っては云う。「見よ。ここにはネブカデネザルの治世に可決された条例がある。また、ここにはパロの時代に制定された法律がある。これらが正しくないはずはない。なぜなら、古さそのものが、これらをその公認の判例として記録しているからだ。お前は、自分ひとりで大群衆の意見に逆らい立とうというのか?」 しかり、私たちはそうする。私たちは、この世の法律書を取り上げて、あのエペソ人たちが自分の魔術書を焼いたように[使19:19]それを焼き捨ててしまう。彼女の捺印証書を取り上げて、紙くずにしてしまう。壁に貼られた彼女の布告を破り捨ててしまう。他の人々が何をしているかなどどうでもよい。私たちにとって習慣など、蜘蛛の巣のようにやわく、はかない。私たちも変人になるのは愚かだと思うが、変わり者になることが正しく行なうことだという場合には、それを最も誇りにできる知恵とみなす。私たちは世に勝つ。その種々の習慣を踏みにじる。独特の民、単独の種族、選ばれた一族、特異な民として歩む。キリスト者は、あざけり笑う不信心者があてこするような偽善者にはならない。人は、偽善者のやり方をこう説明しては、せせら笑っているのである。「坊主。砂糖には砂を混ぜておいたか?」 「はい、ご主人」。「胡椒には鉛を混ぜておいたか?」 「はい、ご主人」。「紅茶にはリンボクの葉を混ぜておいたか?」 「はい、ご主人」。「では、祈りに行くことにしよう」。キリスト者たちはそのようにはしない。彼らは云う。「私たちは、そのようなことが良くないことを知っている。私たちは、この世の習慣にならうことはできない。もし私たちが祈るとしたら、行動も行なう。さもないと偽善者になるであろう。途方もない偽善者となるであろう。もし私たちが神の家に行き、神を愛すると告白するとしたら、私たちはいずこにおいても神を愛する。私たちは自分のキリスト教信仰をかかえたまま店に行き、帳場に行き、事務所に行く。私たちはそれをどこにおいても有していなくてはならない。さもないと、神はそれを全くキリスト教信仰とはおみなしにならないであろう」。ならば、あなたがたは人間の種々の習慣に対して逆らい立たなくてはならない。たとい、これが三百万人の人口を擁する大都市であろうと、もし世に勝とうというなら、あなたがたはそこから出て行き、分離すべきである。

 2. 私たちはこの世の種々の習慣に従わない。では、もし私たちがそのようにすると、私たちの敵はいかにふるまうだろうか? 彼女はその容貌を一変させる。「あの男は異端者だ。あの男は狂信者だ。あいつは、とりすまし屋だ、偽善者だ」、と露骨にこの世は云い始める。彼女はその剣をつかみ、その柳眉を逆立てて、悪鬼のようににらみつけ、自分の回りに嵐をめぐらし、こう云う。「あの男は、あえて私の支配に公然と反抗している。あいつは他の者らが行なうように行なおうとはしない。では私はあいつを迫害することにしよう。中傷よ! 地獄の淵から出てきて、あいつを野次り倒すがいい。妬みよ! お前の歯を研ぎ、あいつに咬みつくがいい」。彼女は、あらゆる偽りの物事を呼び集め、できるものなら人の舌でその人を迫害し、それができなければ、人の手で迫害する。彼女は、その人がどこへ行こうと苦しめる。その人を取引において破滅させようとする。あるいは、もしその人が真理の擁護者として雄々しく立っているとしたら、左様、彼女は笑い、あざけり、蔑む。ありとあらゆる手立てを尽くして、その人を傷つけようとする。それでは、主の戦士は、世が自分に向かって戦端を開くのを見るとき、また、全地が一大軍隊のように自分を追跡し、完全に自分を滅ぼそうとやって来るのを見るとき、いかにふるまうだろうか? その人は降伏するだろうか? 降参するだろうか? 屈するだろうか? ぺこぺこへつらうだろうか? おゝ、否! ルターのように、その人は自分の幟に「Cedo nulli」――「われ何者にも屈さじ」――と書き記す。そして、世が自分に対する戦いを始めるならば、世に対する戦いに乗り出す。

   「よし地のすべてに 武器あふるとも、
    彼は住まえり 全き安きに」。

あゝ! あなたがたの中のある人々は、一言でも反対の言葉を告げられると、たちまちそのなけなしの信仰を手放してしまう。だが、真に神から生まれた子どもは、人の意見などほとんど意に介さない。その人は云う。「あゝ、私は、自分のパンなどなくなってもよい。この広い世間を無一文でさまよう定めとなってもよい。しかり、死んでもかまわない。この身を流れる血の一滴一滴はキリストのものなのだ。その御名のためなら、それを流す覚悟はできている」、と。その人は、キリストを得るため――また、キリストの中にある者と認められるため――とあらば、一切のことを損と思う[ピリ3:7-9]。そして、この世の雷鳴が炸裂するときも、その轟きに微笑みかけ、自分の愛唱歌を口ずさむ。――

   「幸なるわが家、エルサレムよ、
    その名は常に われに慕わし。
    わが労苦はいつ 終わらんか、
    喜び、安き、汝がうちに」。

この世の剣が抜き放たれるとき、その人はそれを眺めて云う。「あゝ、稲妻がその雷のねぐらから飛び出すとき、それは雲を断ち割り、星々を恐怖させるかもしれない。だが、岩屋根の下にいる登山者に対しては無力である。彼はその壮観に微笑みかけるであろう。それと全く同じく、今この世は私を傷つけることはできない。というのも、困難が起こるとき、御父は私をその大天幕の中にかくまい、ご自分の幕屋の内陣に隠し、岩の上に立たせてくださるからだ」。このように私たちは、世の渋面を気にとめないことによっても、世に勝利するのである。

 3. 「よろしい」、と世は云う。「私は別のやり方を試すことにしよう」。そして、確かにこれは、すべての中で最も危険なものである。微笑みを浮かべた世は、顔をしかめた世よりも悪い。彼女は云う。「私は、何度打ちかかっても、あの男を打ちのめすことができない。それでは私の鎧の籠手をはずして、私の白い手を見せてやろう。それに口づけするように命じよう。あの男に、私はお前を愛していると云ってやろう。あの男におもねり、いい気にさせるようなことを云ってやろう」。ジョン・バニヤンは、この《泡ぶく夫人》をまざまざと描き出している。彼女は、人を惹きつける様子をしている。一言云っては微笑する。調子の良いことをたくさん語り、人を口説いては、云い寄ろうとする。おゝ、嘘ではない。キリスト者たちが、迫害されるよりも、はるかに大きな危険に陥るのは、賞賛されるときである。私たちは、人気の絶頂に立っているときには、震えおののいた方がいい。罵声を浴びせられ、野次られるときに警戒すべき理由は何もない。富の膝枕の上であやされ、人々からちやほやされるときこそ、警戒すべきである。私たちがあらゆる人からほめそやされるときこそ、災いが忍び寄っているのである。冷たい冬風の中では、私は自分の義の衣を脱いで放り出したりしない。太陽が昇り、陽気な気候となり、空気が爽やかになるときこそ、私は警戒も忘れて自分の服を脱ぎ捨て、丸裸になるのである。善なる神よ! いかに多くの人がこの世の愛によって裸にされてしまったことか! 世はその人にへつらい、称賛した。その人は、そのへつらいを飲み下した。それは人を酔わせる一杯であり、その人はよろめき、千鳥足になり、罪を犯し、自分の評判を失った。そして、以前は天空を突進していた彗星が遠い虚空へ踏み迷い、暗闇にかき消されてしまうように、その人もそうなってしまう。いかに大いなる者であっても、その人は転落し、いかに力強い者であっても、道をそれて、失われてしまう。しかし、神のまことの子どもは決してそうならない。世が微笑むときも、しかめ面をするときに劣らず安全である。彼女の責め言葉と同様、彼女の褒め言葉をもほとんど気にとめない。その人は、もし褒められて、それが真実なことだとしたら、こう云う。「私の行ないは褒められるに値するものだが、私はすべての栄誉を私の神に帰すものである」。偉大な魂は、自分の批判者たちから何を得られるかがわかっている。彼らにとってそれは、日ごとの収入を施すことにすぎない。ある人々は、大げさに褒められなければ生きていけない。だが自分に値するだけの褒め言葉を得ているとしたら、それでよしとするがいい。もし彼らが神の子どもたちなら、彼らはしっかりと守られ、滅ぼされることも、駄目にされることもあるまい。むしろ、彼らは雌鹿のような足で高い所に立つであろう[詩18:33]。――「これこそ、世に打ち勝った勝利です」。

 4. また、時としてこの世は、キリスト者にとって看守となることがある。神が患難と悲しみをお送りになるために、人生が監獄となり、この世がその看守――しかも、浅ましい看守――となってしまうことがある。愛する方々。あなたは今まで種々の試練や困難の中に陥ったことがあるだろうか? そのとき、一度もこの世は、あなたのもとにやって来て、こう云ったことがなかっただろうか? 「あわれな囚人よ。私には、お前を外に出してやれる鍵があるのだ。お前は金銭上の困難に陥っている。私がお前に自由になれる方法を教えてやろう。あの《良心氏》を追い払うのだ。奴は、それが不正直な行動かどうかをお前に問いかけるが、奴のことなど気にしてはいかん。奴を眠らせろ。正直のことを考えるのは、まず金を手にしてからにし、暇になってから悔い改めるがいい」。そのようにこの世は云う。だが、あなたは云う。「私にはそのようなことはできない」。「よろしい」、と世は云う。「ならば、呻いて、愚痴を云っているがいい。お前のように立派な人間が、こんな監獄に閉じ込められているとはな!」 「否」、とキリスト者は云う。「私の御父が私を欠乏の中に送られたのであり、御父はご自分の時に私を呼び出してくださるであろう。だが、たとい私がここで死ぬとしても、私は愚痴を云いはしない。たとい私の骨がここに横たわるとしても、――たとい私の棺がこうした石の底になるとしても、――たとい私の墓石が私の土牢の壁にはめこまれようとも、――不正な手段で外に出ようと指一本でも動かすくらいなら、ここで私は死ぬであろう」。「あゝ」、と世は云う。「だとしたら、お前は馬鹿だ」。嘲る者が笑いながら通り過ぎて行き、こう云う。「あの男には脳がない。大胆なことをしようとしないのだ。勇気がないのだ。海に乗り出そうとしないのだ。道徳などという古ぼけた、ありきたりの道を踏み続けたがっているのだ」。左様、その人はそれを望んでいる。というのも、このようにしてその人は世に打ち勝つからである。

 おゝ! 私は、これまで戦われてきた戦闘のいくつかについて、あなたに告げることができよう。世には、働いて、働いて、働き詰めの、荒れた指が骨と皮になるほどになった貧しい女工たちがたくさんいる。彼女がその僅かな生計を立てるために働いた成果を、私たちは身につけていながら、自分が貧しい娘たちの血と、骨と、筋を着ていることを知らない。その貧しい娘は一千回も誘惑を受けてきた。悪い者が彼女を誘惑しようとしてきた。だが、彼女は勇敢にその戦闘を戦ってきた。断固としてその清廉さを保ち、貧困の中にあっても、なおも廉直に立っている。「太陽のように明るい、月のように美しい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの」*[雅6:10]、いかなる悪徳の誘惑にも誘いにも打ち負かされることのない女丈夫である。別の場合もある。多くの人は、何かを掴みとろうとしさえすれば、ほんの一歩で金持ちになり、一瞬にして裕福になる機会を有してきた。だが、その何かにその人は目をくれもしなかった。なぜなら、神がその人の内側で、「否」、と云われたからである。この世は云った。「金持ちになれよ、金持ちになれよ」。聖霊は云われた。「否! 正直であれ。あなたの神に仕えよ」。おゝ、何と激しいせめぎ合いと、勇敢な戦闘が心の内側でなされたことか! しかし、その人は云った。「否。たとい私が星々を変えて黄金の山にできたとしても、そうした富の世界のために自分の原則に背き、魂に害を与えようとは思わない」。このようにして、その人は勝利者として歩んでいるのである。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」。

 II. しかし、本日の聖句は、《大いなる誕生》について語っている。ある非常に親切な友人が私に告げてくれたところ、私がエクセター公会堂で説教している間は、私は自分の聴衆の多様な意見に敬意を払うべきだという。私はカルヴァン主義者でバプテスト派かもしれないが、この場には様々な信条の人々がいることを思い起こすべきだというのである。さて、もし私があなたがた全員を喜ばせるだろうようなこと以外、何も語るべきでないとしたら、一体全体、私は何をすればよいだろうか? 私は、自分が真実だと信ずることを宣べ伝えている。そして、たとい自分の信ずる真理を1つ省きさえすれば永遠に英国国王になれるとしても、それを省略しようとは思わない。私の云うことを好まないという人々には、それを捨てる自由がある。思うにそうした人々は自分を喜ばせるためにここに来たのであるから、もし真理が喜ばしくないとしたら、それを捨てることは自由である。私は、真理を語ることにおいて口をつぐむことなく、口ごもることなく、どもりもしない者から、正直な英国人の聴衆が離れ去るなどいうことは全く心配していない。

 よろしい。さて、この大いなる誕生について私は、ことによると厳しいことを云うことになるかもしれない。だが私は、ジェイ氏によって真っ先にこう云われるのを聞いたことがある。ある人々は、新しい誕生が幼児洗礼のときに起こると云うが、この尊ぶべき老師がこう云ったのを私は覚えているのである。「教皇制は嘘っぱちである。ピュージー主義は嘘っぱちである。洗礼による新生は嘘っぱちである」。その通りである。これは、あまりにも明白な嘘っぱちであるため、私には、これを宣べ伝える人の頭に少しでも脳みそがつまっているなどとはほとんど想像もできない。これは、あまりにも如実に馬鹿げたものであるため、これを信じている人は常識人の範疇から逸脱していると云えるほどである。一滴の水によって、あらゆる幼児が新しく生まれると信ずるとは! ならば、あなたが闘技場で見かける賞金稼ぎの拳闘家も新しく生まれているのである。なぜなら、かの聖別された滴は、幼児だった彼の額にも落ちたからである! 別の人は悪態をついている。――その人が酔っ払って、通りを千鳥足で歩く姿を見るがいい。その人も新しく生まれているのだ! 何とご立派な新生であることか! 思うに、その人には、もう一度、新しく生まれることが必要である。そのような新生は、その人を悪魔にふさわしいものにしかしていない。そして、人を欺くこの効果によって、その人を七倍も悪いゲヘナの子にすらしているかもしれない。しかし、呪いを吐き、悪態をつき、物をくすね、盗んだりしている人々や、縛り首になるあわれな恥知らずどもは、この美しいピュージー的教会の虚構によれば、全員新しく生まれているはずなのである。馬鹿な! 馬鹿な! あゝ、神が人々に新しい誕生をお送りになるときには、それよりもましなものを人の心にお送りになる。

 しかしながら、この聖句は、大いなる誕生について語っている。「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」。この新しい誕生は、キリスト教信仰全体の中でも神秘的な点である。もしあなたが、この新しい誕生以外のことについて説教するなら、あなたは常に自分の聴衆とうまくやって行けるであろう。だが、もしあなたたが天国に入るためには根本的な変化がなくてはならないと主張するなら、これが聖書の教理であるにもかかわらず、人間一般に対するその不快さのあまり、彼らに耳を貸させることはほとんどできないであろう。あゝ! 今あなたがたは、私がこう告げ始めるとしたら、立ち去って行くであろう。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」[ヨハ3:5]。私にはわかっている。もし私があなたに、あなたの精神には、聖霊の力によって新生の影響力が行使されなくてはならない、と告げるとしたら、そのときあなたがたはこう云うであろう。「それは熱狂主義だ」。あゝ! だが、それは聖書の熱狂主義なのである。そこに私は立つ。これによって、私は審きを受けるであろう。もし聖書が私たちは新しく生まれなくてはならないと云っていないとしたら、そのときは私もそれを捨てる。だが、もし聖書がそう云っているなら、方々。あなたの救いがかかっているような真理に疑念を持ってはならない。

 では、新しく生まれるとはいかなることだろうか? 非常に手短に云うと、新しく生まれるとは、人間の言葉では語れないような、非常に神秘的な変化をこうむることである。私たちが自分の最初の誕生を云い表わせないのと同じように、第二の誕生について云い表わすことも私たちには不可能である。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」[ヨハ3:8]。しかし、これは、それほど神秘的なものではあるが、知ることができ、感じることができる変化である。人々は、寝床に入って眠っている間に新しく生まれ、それを知らずにいるわけではない。人はそれを感じる。それを経験する。ガルヴァーニ現象、すなわち電気の力は神秘的なものかもしれない。だが、それは、ある感覚――ある知覚を生じさせる。新しい誕生もそれと同じである。新しい誕生の時に魂は非常な苦悶の中にある。――しばしば、涙の海に溺れている。時として魂は、そこここに希望の甘露が入り混じった苦味を飲む。私たちが死からいのちに移りつつある間、そこには神の子ども以外の何者にも本当には理解できないような経験がある。それは神秘的な変化である。だが、それと同時に、それは、はっきりとした変化である。それは、この心が私の中から摘出され、真っ黒い血の滴が絞り出され、それから洗われ、きよめられ、私の魂に再び戻されたような変化と同様である。それは、「新しい心と新しい霊」である[エゼ18:31]。神秘的ではあるが、それでも現実の、実際の変化である!

 さらに私があなたに告げたいのは、この変化が超自然的なものだということである。それは、人が自分で自分に及ぼす変化ではない。それは、酒を飲むのをやめて、素面になることではない。ローマカトリック教徒からプロテスタント教徒に転ずることではない。非国教徒から国教徒に転向することでも、国教徒から非国教徒に転向することでもない。そうしたことより途方もなく大きなことである。それは、新しい原理が吹き込まれて、それが心の中で働き、魂そのものの中に入り、人格全体を動かしているということである。私の名前の変化ではなく、私の性質の刷新である。私はかつての私ではなく、キリスト・イエスにある新しい人となっているということである。それは超自然的な変化である。――人にはできない何か、神だけがもたらせる何かである。これは、聖書をもってしてさえ、神の御霊が伴ってくださらなければ成し遂げえないものである。いかなる教役者の雄弁も引き起こせないものである。――あまりにも力強く、あまりにも驚くべきものであるため、これは神のみわざである、神おひとりのみわざである、と告白せざるをえないようなものである。ここで述べるべきだが、この新しい誕生は永続的な変化である。アルミニウス主義者たちが私たちに告げるところ、人々は新しく生まれ、それから罪に陥り、再び自分を取り戻し、またキリスト者となる。――罪に陥り、神の恵みを失い、それから再び立ち戻る。――その生涯において何百回も罪に陥り、そのように恵みを失っては回復することを続けるのだという。よろしい。私が思うに、そのようなことが記されているのは、聖書の新しい版なのであろう。しかし、私の聖書の中に記されているのは、もし真のキリスト者が堕落してしまうならば、彼らをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできない、ということである[ヘブ6:4-6]。さらに私が読むところ、神が良い働きをお始めになったところではどこでも、神はそれを最後まで成し遂げてくださり、いったん神がお愛しになる者たちを、神は最後まで愛される、ということである[ピリ1:6]。もし私が単に生活を改めただけでしかなかったならば、私が今後、酔いどれになることもありえるし、河原乞食になった私の姿をあなたが見ることもありえよう。しかし、もし私が、その真に超自然的な変化によって本当に新しく生まれているとしたら、私は決して堕落することがない。罪に陥ることはあるかもしれないが、決定的に堕落することはない。私はいのちの続く限り立ち続け、常に安泰である。そして、私が死ぬときには、こう云われるであろう。――

   「神のしもべよ、よくなせり!
    休めよ、汝の 良き務めより。
    戦い終わり 勝ち得られたり。
    汝が喜びの 安きに入れ」。

愛する方々。自分を欺いてはならない。もしあなたが、自分は新生したが、神から離れてしまった、やがて再び新しく生まれるだろう、などと想像しているとしたら、あなたはこの件について何もわかっていないのである。というのも、「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きない」からである[Iヨハ5:18]。幸いなことよ、真に、また現実に新生して、死からいのちへ移っている者は!

 III. しめくくりに、ここには《大いなる恵みがある》。新しく生まれた人々は真実に世に勝つ。これはいかにしてもたらされるのだろうか? この聖句は云う。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」。キリスト者たちは理性によって世に勝利するのではない。全然そうではない。理性は非常に良いものであり、いかなる者もそれにけちをつけるべきではない。理性は蝋燭である。だが、信仰は太陽である。よろしい。私は蝋燭を吹き消しはしないが、太陽の方を好むものである。私はキリスト者として自分の理性を用いる。それを常に行使している。だが、実戦に臨むとき、理性はただの木刀である。それは割れて、ぽっきり折れてしまう。一方、信仰は、純粋なエルサレム鋼の剣であり、魂とからだを切り分ける。本日の聖句は云う。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」。この世で何事かを行なう人々とはだれだろうか? それは常に信仰の人々ではないだろうか? それを天性の信仰としてさえ取り上げてみるがいい。戦闘に勝つのはだれだろうか? 左様、自分が勝つと知っている人、そして自分が勝利者になると誓っている人である。この世で決してうだつの上がらない人とはだれだろうか? 失敗するのを恐れて、常に何かを行なうのを恐れている人である。アルプスの頂上に登るのはだれだろうか? 「私はやりとげてみせる。さもなければ、死ぬまでだ」、と云う人である。そのような人が、自分には何かができると決意を固めた場合、もしそれが人間に可能な範疇にあるならば、その人はそれを行なうものである。軍旗を高く掲げて、堅固な手で掴み、苛烈な争いと戦闘の最中で持ち上げてきたのはいかなる人々だろうか? 左様、信仰の人々である。大いなる物事を成し遂げてきたのはだれだろうか? 恐れおののく人々ではない。恐怖にかられた人々ではない。信仰の人々である。大胆な顔と、青銅でできた額をした人々である。――決して身震いせず、決しておののかず、神を信じて、自分の力がやって来る山に向かって目を上げる人々である。

 「地上でなされたいかなる驚異といえども、信仰から生起しなかったものはない。いかに高貴で、寛大で、偉大な物事といえども、それが成し遂げられた根本には信仰があり、いかに美しく、有名なものといえども、その称賛は信仰にある。レオニダスが人間的な信仰によって戦ったように、ヨシュアは天来の信仰によって戦った。クセノフォンはその用兵の妙に信頼を置き、マッテヤの息子たちは自分たちの大義に信頼を置いた」。信仰は、ありとあらゆる力の中で最も強大なものである。それは精神という領土の君主であり、その力にまさる存在は何もなく、その天来の勇敢さに脱帽しない被造物は1つもない。信仰の欠けによって人間は見下げ果てた者となり、豆殻の中に住めるくらいしなびてしまう。信仰がありさえすれば、人は海の深みに飛び込めるレビヤタンである。戦闘に及んでヒヒーンといななく軍場である。国々を手に取っては粉々にする巨人である。軍隊に立ち向かっては、武をもってそれを潰走させ、王笏を束ね、あらゆる王冠を自分のものとして集める。信仰のようなものはない。方々。あなたは、信仰によって神性の力を借りることにより、ほとんど神と同じくらい全能になる。信仰さえあれば、私たちにはいかなることもできるのである。

 私があなたに告げたいのは、いかにして信仰がキリスト者たちを助けて世に打ち勝たせるか、ということである。それは常に、同種療法的になされる。あなたは云う。「それは奇抜な考え方だ」、と。そうかもしれない。その原理は、「毒をもって毒を制する」、ということである。そのように信仰は、同種のものをもって同種のものを制することによって、世に打ち勝つのである。いかにして信仰は、世に対する恐れを踏みにじるのだろうか? 神への恐れによってである。「さあ」、と世は云う。「もしお前がこれを行なわなければ、私はお前のいのちを奪うであろう。もしお前が私のにせの神をひれ伏して拝まなければ、お前はあそこにある灼熱に燃える炉に投げ込まれるのだぞ」。「しかし」、と信仰の人は云う。「私は、魂もからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れているのだ[マタ10:28]。確かに私はお前を恐れて当然であろう。だが、私には、それよりも大きな恐れがある。私は、自分が神を不快にさせることを恐れるのだ。私の《君主》を怒らせることにおののくのだ」。それで、ある恐れが別の恐れと平衡するのである。いかにして信仰はこの世の希望に打ち勝つのだろうか? 「そら」、と世は云う。「もしお前が私の弟子となるなら、私はお前にこれをやろう。あれをやろう。お前には明るい望みがあるぞ。お前は金持ちになるし、偉くなれるのだぞ」。しかし、と信仰は云う。「私には、天にたくわえられてある望みがあるのだ[コロ1:5]。消えて行くことのない、永遠の、朽ちることのない、不死の望み、黄金の望み、いのちの冠があるのだ」。そして、栄光の望みは、世のあらゆる望みに打ち勝つのである。「あゝ!」、と世は云う。「なぜお前は、自分の同輩たちの模範に従わないのか?」 「なぜなら」、と信仰は云う。「私はキリストの模範に従いたいからだ」。世が私たちの前に1つの模範を置くとしても、信仰は別の模範を置く。「おゝ、このような者の模範に従うがいい。彼は賢く、偉大で、立派なのだぞ」、と世は云う。だが信仰は云う。「私はキリストに従いたい。主はだれにもまして賢く、偉大で、並びなきお方なのだ」。それは模範によって模範に打ち勝つ。「よろしい」、と世は云う。「お前がこうしたすべてによっても打ち負かされというなら、来るがいい。私はお前を愛するであろう。お前を私の友としてやろう」。だが信仰は云う。「世の友となる者は、神の友となることができない[ヤコ4:4参照]。神は私を愛しておられるのだ」。そのようにして、信仰は愛をもって愛に対抗する。恐れをもって恐れに、希望をもって希望に、恐怖をもって恐怖に対抗する。そして、そのようにして信仰は、同種のものをもって同種のものを制することで、世に打ち勝つのである。

 これで私は話をしめくくる。方々、そして兄弟たち。私はほんの子どもにすぎない。私は今朝、あらん限りの力を尽くしてあなたに語ってきた。ことによると別の際には、もっと雷を浴びせ、もっとふさわしく神のことばを宣言できるかもしれない。だが私は、これだけは確信している。――私は、私の知る限りのことをあなたに告げており、何もかも包み隠さずに語っている。私は雄弁家ではない。だが、私の心から湧き上がるままのことをあなたに告げている。しかし、終わりにする前に、おゝ、あなたの魂に一言語りかけさせてほしい。この場にいる人々のうち、新しく生まれている人々はどのくらいいるだろうか? ある人々は聞く耳も持たずにこう云う。「これはみな、たわごとだ。われわれは規則正しく礼拝所に通っているし、自分の賛美歌と聖書を腕にかかえているし、非常に宗教的な種類の人間だ」。あゝ、魂よ! もし最後の審判の法廷で私があなたと出会うとしたら、私の云ったこと――そして神のことばが云ったこと――を思い起こすがいい。「人は、新しく生まれなければ、神の国にはいることはできません」*[ヨハ3:3、5]。あなたがたの中の他の人々は云う。「われわれには、新しく生まれることがあなたの語るような変化だなどとは信じられない。私は、以前の自分よりも、はなはだ良い者になっている。私は今は悪態もつかないし、非常に生活が改まっているのだ」。方々。私はあなたに云いたい。新しく生まれるとは、決して小さな変化ではない。水差しを補修することではなく、それを砕いて、新しいものに取り替えることである。心につぎを当てることではなく、新しい心と正しい霊を有することである。罪に対して死に、義に対して生きること以外の何物をもってしても、あなたの魂を救うことにはならない。

 私が宣べ伝えているのは決して新奇な教理ではない。英国国教会の信仰箇条に目を向けて、そこにこの教えがあるのを読んでみるがいい。国教徒の人々が時々私のもとに来ては、私たちの教会に加入したいと云うことがある。私はそういう人たちに、彼らの祈祷書の中に私たちの教える数々の教理があるのを示してやる。するとその人々は、自分たちは一度もそれがそこにあるとは知りませんでした、と云うのである。話をお聞きの愛する方々。なぜあなたは自分の教会の信仰箇条を読むことができないのだろうか? 左様、はっきり云えば、あなたは自分の祈祷書の中に何があるか知らないのである。近頃の人々は自分の聖書を読まず、その大方は、全くキリスト教信仰をいだいていない。そうした人々にも一種の宗教はあるが、それはすべて見せかけだけであって、それが本当は何を意味しているかを自分で調べてみようなどとは考えない。方々。あなたにとって役に立つのは、キリスト教信仰の隠れ蓑ではない。あなたに必要なのは、生きた敬虔さである。信仰的な日曜日ではなく、信仰的な月曜日である。信心深い教会ではなく、信心深い私室である。膝まづいている聖所ではなく、一日中立っている聖なる場所である。さて、あなたは何と云うだろうか? あなたの信仰は世に打ち勝っているだろうか? あなたは世を制して生きているだろうか? それとも、世と、世にあるものを愛しているだろうか? もしそうだとすると、方々。あなたがたは、そこから向きを転じて自分の心をキリストにささげない限り、ひとり残らず自分の道を進み続けて滅びるしかない。おゝ! あなたは何と云うだろうか? イエスはあなたの愛にふさわしくないのだろうか? 永遠と天国に関わる事がらは、現世にある事がらほどの値打ちもないのだろうか? この世の子らとして生きることは、苦悶の中に横たわることになってもかまわないほど甘やかなことだろうか? 罪人であることは、そのため自分の魂の永遠の至福を危険にさらしてもいいほどありがたいことなのだろうか? おゝ、私の愛する方々。一時の快楽のために、永遠の災いという危険を冒すのは、あなたにとってそれほど価値あることだろうか? 舞踏会ではねまわることは、吠え猛る悪鬼どもとともに地獄ではねまわることに値するだろうか? 神に従う者たちに天国の栄光があるというときに、一場の夢を楽しんで、すさまじい目覚めを味わうというのは、それほど値打ちがあるだろうか? おゝ! もし私の唇が私をあなたに語りかけさせるとしたら、あなたが自分のあわれな魂を可哀想に思うようになるまで、私の心は私の目からこぼれ落ち、私は涙で自分を押し流すであろう。私は自分がある程度まで、あなたの魂の責任を負っていることを承知している。もしも見張り人が彼らに警告しなければ、彼らは滅びるが、彼らの血の責任は見張り人に問われるのである[エゼ33:6]。「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。主はそう告げておられる。酔いしれて、自分の悪しき意志に満たされ、悪に傾いている人々。それでも聖霊は今朝、私によってこう語っておられる。「あなたがたが、全き真心をこめて主に立ち返るなら、そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださる」*[イザ55:7参照]。私にはあなたを連れて行けない。あなたを連れて来ることはできない。私の言葉は無力であり、私の思いは貧弱である! 古きアダムは年端の行かないこの子どもにとっては強力すぎて、引きずることも、引っ張って行くこともできない。だが、神があなたに語りかけておられる。愛する心よ。神が真理を心に遣わしておられる。そしてそのとき、私たちは、蒔く者も刈る者もともに喜ぶであろう[ヨハ4:36]。なぜなら、神が私たちに収穫を与えてくださったからである。願わくは神が、あなたを祝福してくださるように。あなたがたがみな新しく生まれ、世に勝つ信仰をいだくことになるように!

   「われ かの信仰 持ちおるか、
    キリスト仰ぎ、世と罪に勝ち、――
    主を預言者、祭司、王として、
    良心きよむる 信仰を。

   「もしこの尊き 恵みあらば、
    すべての賛美 汝れに帰さん。
    あらざれば、われ 御手に乞わん、
    いま主よ、われに 与え給え」。

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信仰の勝利[了]

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