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第6章 記憶に残る事件と手紙

 この説教刊行に関連して起こった記憶すべき事件のうち十分の一を記録するだけでも、また、そうした説教によって恩恵と祝福を受けた著名な人々数人に言及するだけでも、現在のこのような小冊では到底おさまらないほどの紙数を占めるはずである。だが、いくつかの典型的な事例を示すことはできよう。

 ことによると、これらの説教が流布し始めた頃の最も尋常ならざる出来事の1つは、それらが豪州で広く知られるようになった成り行きかもしれない。同国のひとりのキリスト者紳士は、辺地に《福音》を伝播する必要を感じていた。それも、それが確実に読まれるような形でである。そのため彼は、C・H・スポルジョンの許可を得た上で、その説教の何編かを新聞紙上の広告として出すことにした。これは、説教者自身が語ったように、必然的にその広告主に、「毎週毎週、ほとんど口にできないほどの金額を支出させることになった。口にできないというのは、とても信じてもらえないだろうからである」。C・H・スポルジョンの講話を《植民地》で称賛していたこの人が、いかなる志をもってその物入りな伝道活動に乗り出したかは、次のような手紙から汲み取れるであろう。「恵みによって私は、前々からイエスの愛と力、また、栄光に富む《福音》の祝福をそれなりに感じるように導かれていました。また、わが国の広大な地域に点在する大人数の住民たちに大きな必要があることも分かっていました。そこへ、あなたの説教の中で救いの道が余すところなく完全に述べられていることを知って私は、当地の新聞の中でそれらを公にしようと思わさせられたのです。しかし娯楽紙である『豪州新報』の経営者は、わざわざ私の思いつきを実行することに乗り気ではないように思われました。それで彼は私に注文したのです。その説教を載せたければ、広告代金として全額を請求させてほしい、と。ですが、この手段がいかに重要か感じていた私は、彼の云い値を支払おうと決意しました。そのうち彼の読者たちが関心を寄せるようになれば、もっと良い条件を獲得できるだろうと考えたからです。その刊行が六箇月か九箇月続いた後で、私はその経営者を訪問しましたが、その時でさえ彼は私の求めた値下げに応じたがってはいないようでした。そこで、読者たちがこうした説教をありがたく思っているはずであることを彼に確信させられなかった私は、読者たちがこれらについていかなる意見をいだいているか表明してもらおうではないかと提案しました。その結果、四百通の手紙が届いたのです。ここにそれを何通か同封しますので、お働きの励みにしていただければ幸いです。ただし、いかなる名前も公にはしないでいただけますでしょうか。私も自分の名を当地の新聞では明かさないようにしてきました。人の称賛を求めたがっていると敵に云わせてはならないと恐れるためです。これらの手紙をあなたにお送りするのは、○○氏が拙宅を訪ねた際にこれらを見せたところ、それはあなたにお見せするべきだと云われたからです。

 「私は、サミュエル・モーリー氏、ピーボディ氏、シャフツベリー伯爵その他の方々にも、この説教入り新聞を多少送らせていただきました。その方々も同じようなことを行なうお気持ちを起こされないかと希望しています。小冊子を受け取ろうとしない人たちの手にも、新聞ならしばしば渡るからです。これ以外に、私たちの主イエス・キリストの御国をさらに進展させ、押し進めるため、私にできることが何かあるなら、ぜひお教えください。

 「最後にどうかこの者自身のためにお祈りください。私は恵みと神の愛の知識において成長したいと願っています。また当地におけるこうした説教刊行の働きが大きな実を結びますようにどうかお祈りください」。

 四百通の手紙とは、そうした初期の時代に《植民地》の一新聞によって行なわれた呼びかけへの返事として受け取るには多大な数であった。また、その回答は豪州とニュージーランドの全域に及ぶ町々や村々の住民から、また、《未開懇地》の孤独な居住者たちから寄せられた。こうした異例のしかたで刊行された説教は、多くの場合、祝福されて魂の救いをもたらしていた。さらに少なからぬ場所の人々が、点在している地域から毎週のように集まっては、そうしたありがたい広告が読み上げられるのを聞きに来ているらしく思われた。それらの手紙は、いずれもみな、この上もない励ましとなるものであった。

 「拝啓」、とヴィクトリア州の辺境地にいたひとりの人は手紙に書いている。「『豪州新報』で毎週刊行されている説教の1つの冒頭に、最近、ある公示を見かけました。それによりますと、そうした説教が用いられているかどうかについて意見を述べるようにとのことでしたので、慎みながらあえて次のようなお答えを簡単に、また、短く述べたいと存じます。私は、この五年かそこらの間、世間から『ほっつき者』と呼ばれる不幸な人間のひとりでした。仕事にあぶれるようになってから何箇月かあちこち旅をして回った後で、私は沿道に建っていた一軒の居酒屋に入りました。たいそう疲れていたので、一杯ひっかけながら一時間ほど骨休めをするためでした。ところが、その売り台の上に乗っていた新聞に、次のような聖句に基づいたスポルジョン氏の説教が含まれていたのです。『背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ。――わたしが、あなたがたの夫になるからだ』[エレ3:14]。ぐいぐい引き込まれるのを感じながら読み通しました。それは、まさに私のためのものでした。それによって私は、自分がこの上もなくどす黒い罪人であり、全く失われた状態にあると痛感させられました。それと同時に、《十字架》の根元であわれみと平安を求めるよう、この上もなく励まされました。私は、それに抵抗できませんでした。そして、私の求めは無駄ではなかったと、今は慎みながら希望し、信じております。その居酒屋を出るときには、二度と居酒屋になど入るまい――少なくとも、何かのっぴきならない事情がない限りそうすまい――と決心していました。それからの私は、長いこと縁がなかったような平安のもとで喜んでおります。私は今、神のことばを日々学びながら、できる時には常に、《天来の》礼拝式に出席しております。私は、名目上は英国国教会人でしたが、かれこれ七年ほど前にこの《植民地》に到着してからというもの、先にお話しした説教を読むまで、ほんの一度しか教会に行ったことがありませんでした。私が個人的に知る限り、これらの説教は、この国のあちこちで広く読まれています。少なくとも私としては、その週刊新聞が届くのを心待ちにしています。――私の雇い主がいつも貸してくれるのです。――それが私自身への喜びと慰めの使者となっているからです。そして、私は祈っています。それが他の何百人もの人々にとっても同じこととなりますように、と。終わりに、一言お頼みいたします。どうか、スポルジョン氏の説教を広告とするための代金を払っておられる親切な方へ、私からのへりくだった、心からの感謝をお伝えください」。

 別の投書主は、こう書いていた。「『豪州新報』を読んでいたところ、スポルジョン氏の説教に賛成の者は連絡してほしいとのことでしたので、以下の事実を貴紙にお知らせしたく存じます。私は、当《植民地》に来てからほぼ十六年になりますが、その間、礼拝所に顔を出したのは三回ほどしかなく、それもたまたまそうなっただけで、意図してのことではありません。この《植民地》に居住しているうちに、残念ながら私は、恐ろしい飲酒癖を身につけてしまったのです。時には、立て続けに『二週間』から三週間も、いわゆる遊興酩酊にうつつを抜かしていました。ところが一昨年の夏、私は二度、酒精中毒による『震えの発作』を起こしました。そして、昨年の夏には、まさに振顫譫妄症を患う一歩手前でした。座ることも、立つことも、横になることも、歩き回ることもできません。そのとき、何げなく『豪州新報』を手に取ったところ、私の目を引きつけたのは、スポルジョン氏による『イエスの近づきやすさ』という説教(第809号)だったではありませんか。私は、それを読み始めました。さほど読み進まないうちに、目に涙が浮かび、半ばまで読むと、恥ずかしさのあまり手で顔を覆わなくてはなりませんでした。それを読み通したとき、私はキリストを仰ぎ見る者となっていました。そして、このお方は、私のぞっとするほど恐ろしい罪の重荷から私を救ってくださいました。そして、驚くなかれ、あの振顫譫妄症は、夏の日の朝の大粒の夜露のように消え去ってしまったのです。長年の痛飲のため私は弱り切っていましたが、心では全く幸福に感じました。そして、嬉しいことに、それ以来、これまでの一生で一度も知らなかったような平安を楽しんでいるのです」。何年も後になってから、トマス・スポルジョン牧師[C・H・スポルジョンの子息]がジロング市にいるとき、この手紙の筆者が師のもとを訪れ、ひとしきり四方山話に花を咲かせた。そうする中で、彼は自分のかくしから、あちこち千切れた、色あせた新聞紙を引っ張り出したという。そこには、聖霊によって用いられ、彼を回心させた説教が記載されていた。

 もちろん、上で述べた、この四百通の手紙の筆者たちだけが、『豪州新報』紙上の説教によって祝福された人々ではなかった。C・H・スポルジョン自身、長年のうちに、同じような趣旨の手紙を数多く直接に受け取った。そして、時折、同じ手段による他の回心の事例が知られるようになった。ある手紙の中では、ひとりの教役者が尋常ならざる回心の一例を記していた。「私は数年前に」、と彼は云う。「ジロング市はアバディーン街のバプテスト教会で説教していました。そのとき、ある夕拝式の後で、ひとりの年配の男性が演壇の方にやって来て、私に『さようなら、先生』と告げたのです。見知らぬ人でしたので、私は彼に、どこから来たのか、また、主を知ってからどのくらいになるのか尋ねました。それで彼は、自分の回心の物語を告げてくれたのです。彼がいかに不思議なしかたで《救い主》に導かれたことでしょう。その五年ほど前に、バララットから何哩か行った先で羊飼いをしていた彼は、一枚の週刊新聞紙を拾ったというのです。それは、その大草原を越えて、風で吹き寄せられたものでした。一文か二文を読んでみたところ、たちまちその先が読みたくなり、ついつい読みふけってしまうことになったのでした。C・H・スポルジョン氏による一編の説教を。『読み始める前から説教だと知っていたら』、と彼は云いました。『ポイと投げ捨てていたことでしょうよ』。だが、その講話をいざ読み始めてみると、それがどう終わったのか知りたくなりました。彼はそれによって考え込まされました。その新聞紙を注意深くしまっておき、深い関心をもって何度も何度も読み、とうとう最後には、それを手かがりとして《十字架》に導かれることになったのです。何年もの間、彼は礼拝所に足を踏み入れたことが絶えてなく、自分の魂について全く無頓着にしていたところへ、この新聞紙が足元に吹き寄せられてきたのです。今の彼は、機会さえあれば常にどこかのバプテスト派の礼拝式に出席しています。ですが、それはまれな楽しみとなっています。未開懇地での彼の孤独な生活と職業のためです。しかしながら、彼は週刊説教集を受け取っては、それによって励まされ、慰められ、霊的に養われています」。

 それよりも、さらに尋常ならなかったのは、ひとりの婦人が回心した場合のことであった。英国で、とある酒場を営んでいる男の細君であった彼女は、豪州にいる友人から一個の小包を受け取った。そして、たまたまその包装紙になっていた新聞紙に、C・H・スポルジョンの説教の1つが載っていたのである。この婦人は、何の気なしにそれを読み始め、興味を引かれ、魂に影響が及ぼされるのを感じ、ついには主イエス・キリストを彼女の《救い主》として信頼するよう導かれた。それとどことなく類似した事例がジャージー島で起こった。そこでは、ひとりの紳士が定期的に、C・H・スポルジョンの説教の掲載された新聞を受け取るのを常にしていた。彼は、『豪州新報』に載った説教の1つを読んで回心した人物であったが、そうした講話集の英国版があることを知らなかったため、この植民地新聞を購読していたのである。何年も後になって、この説教者について聞き知った彼は、以下のような手紙を説教者に書いて寄こし、その数ある有益な働きのいずれかのためにと寄付金を同封していた。「私は、この十七年余、あなたの説教をずっと読んできました。そして、神は恵み深くもそれらを祝福し、私の魂を救ってくださいました。それ以前の私は、自分の《救い主》がほとんど私のことなど忘れてしまったのだろうと考え始めていました。自分が長いこと主を無視していたことを知っていたからです。最近、この説教を何部でも獲得できる方法を知った私は、喜んでそれを大いに利用しています。今ではほぼ六百部は手に入れていると思いますし、本形式で五十部は貸し出しています。私は、それを他のいかなる恵みの手段にもまして尊んでいます。かの《書》は別ですが。あなたは、ご自分の携わっている有益な働きのために頻繁に資金を必要としておられますので、私の端金も軽くおみなしにはならないと思った次第です。その五十倍もお送りできればと思うのですが。あなたの説教が私に得させてくれた、そして、今なお得させている助けへの、私の、真摯で心からの感謝をお受け取りください」。豪州関係の事例については、もうひとりの場合しか述べる紙数がない。それは、ニューサウスウェールズ州にあった有名な製材所の経営者の場合である。彼は、有能で熱心な、ウェスレー派教会の地元説教者となっていた。ある伝道礼拝式で、彼は次のように自分自身の事例について言及した。

 「私は、人生の二十五年の間、罪の暗闇の中に生きていた。プロテスタントの礼拝所の中には一度も入ったことがなかったし、その間ずっと、キリスト者である人には会ったことがなかった。私はメソジスト、長老派、バプテスト等々の区別について何も知らなかった。それらは、私の目には、みな同じように蔑まれていた。みなひどい間違いに陥っているように見えていたのである。だがその頃、五人の仲間がポートスティーヴンズで溺死し、その出来事が、私の心に深い印象を与えた。次のような考えが、否応なしに思い浮かんで来るのだった。『お前がそのひとりに入っていたとしたら? お前も今ごろ地獄の失われた魂たちの間で、泣いて歯ぎしりしていたのではないか?』

 「私は大いに苦悩し、唯一できることを行なった。……神に祈ったのである。だが、キリストを信じる信仰による救いの道について全く無知であった私は、導いてくれる人が誰もいなかったために、二年の間、この上もなくすさまじい苦悶の中で暮らした。その二年間をもう一度送るくらいなら、むしろ死んだ方がましだと思う。私は、当時の大説教家のことを何も知らなかった。だが、とうとう、たまたまスポルジョン氏のことを小耳に挟み、ある友人がシドニーを訪問することになっていたため、スポルジョンの説教集を一巻持って来てくれるように頼んだ。私はそれを熱心に読み、多くの光と慰めをそこから得た。そしてついに、『イエスを捜して』という題名の説教(第947号)に至ったとき、それを読むうちに神が私の苦悩する魂に平安を語ってくださったのである。私は、自分の罪が赦されるのを感じた。喜びのあまり大声で歌えるほどだった。ある素晴らしい安息日の昼頃に、大いなる変化が起こった。それが起こった場所のことは今も良く覚えている。それ以来もう十年にもなるが、私は可能な限りいかなる場所においても《十字架》の物語を告げ続けているのである」。

 C・H・スポルジョンに手紙を書いてこの出来事を伝えた、とあるウェスレー派の教役者は、それから一日か二日後の晩に、ひとりの老紳士が礼拝式の間に起立し、こう述べたと云っている。その紳士は、二十一年前、「今は」という題の説教(第603号)を読むことを通して決心へと導かれたのだという。

 米国からも、同様の尋常ならざる出来事のことが絶えず告げられていた。ここでは、1つ挙げれば十分に違いない。1867年、シカゴで開かれた大きなキリスト教の《協議会》に、極西部地方に最近形成された入植地からの代議員がひとり出席しており、彼は、同地のキリスト者たちの霊的必要のために説教者をひとり遣わしてほしいと熱心に願った。なぜなら、C・H・スポルジョンの説教集を読むことを通して、それまで二百名もの人々が神に回心していたからである。

 それは、いずこにおいても同じであった。その説教集に心惹かれたのは決してある特定の階級や、信条や、国民性の人々だけではなかった。そこには神のことばが含まれており、神のことばはいかなる者をも分け隔てしないのである。それらは、説教者を立てることができない、小さな村々の諸会堂で読まれていた。また、高雅な儀式を誇りとしている英国国教会の諸教会でも読まれていた。その実例が、C・H・スポルジョンに宛てられた一通の手紙の中で言及されている。その手紙を記した人はこう云っていた。「こうお知らせすれば、先生を喜ばせることになると思いますが、○○街の聖○○教会[ロンドン西端にある上流階級の礼拝所]は、普通は、いわゆる『非常な高教会』と思われていますが、四旬節の間の毎週木曜午後には、霊想的な書物の朗読が行なわれてきました。読まれるのは、在世中の様々な聖職者たちの著作からの抜粋です。きょうの午後読まれたのは、十四、五年前に先生が語った説教の一節でした。『もし父上が、きびしい返事をなさったら』という主題聖句のものです(第1188号)。その講話の大部分が、次席の副牧師によって読まれたのです」。

 多くの著名な人々が、こうした説教を肌身離さず持ち歩いた。リヴィングストン博士[1813-73]は、暗黒大陸の最奥地で孤独な生活を送る中で、これらの講話に慰めを見いだしていた。彼の死後発見された所持品の中には、色褪せて、よく読み込まれた一編の説教、『事故と罰』(第408号)があった。それは、彼が旅行の間中、携帯していたものであり、冒頭の頁には彼がこのように手書きしていた。「大変良い。D.L.」。

 ウェルドン主教はC・H・スポルジョンの親しい友人であり、自分の祖母がいかにその説教集を宝のように大切にしているかを、この説教者に告げた。そこですぐにC・H・スポルジョンは、この老婦人に優しい手紙を書き、孫を介して彼女に送った。ウェルドン博士はこう答えた。「祖母へのご厚情まことに深く感謝いたします。人生も最期の日々に差しかかっている彼女にとって、先生からのこのお言葉ほど励ましになるものはなかろうと思います。ことによると、こうお知らせすればご興味を引くかもしれませんが、何年か前に、私が独逸での暮らしを始める前に、祖母は先生の説教集を何冊か私の手に持たせ、帰国するまでの毎日曜の朝、それを一編ずつ読むように私に約束させたのです。それは、あゝ、胸も詰まる思いがします! 祖母なりに、《先任古典学者》など懐疑主義者たちに決まっているだろうと考えたからなのでした。そのため、英国国教会の中でも誰にもましてあなたの説教集を良く知っている者、あるいは、そのおかげをこうむっている者は、この私という次第なのです」。

 それと同じ頃に、ウェストミンスターのフレデリック・ハーフォード主教座聖堂参事会員が手紙を寄こして、この説教者に、ある頼み事をした。彼の説教集の中で、来世のいのちに関して詳しく物語ったものの号数か聖句を教えてほしいというのである。それに答えてC・H・スポルジョンは講話を二編送った。一つは、かの有名な、『彼を園の管理人だと思って』と題された説教(第1699号)であった。この参事会員は、すぐさまこの贈り物への礼状を次のように認めた。「昨夜の十時半に帰宅したとき、私はこのように得がたく尊い饗宴が支度されているとは夢にも思っていませんでした。どちらの説教も貴重な宝物ですが、マントンで霊感された夢[上で挙げた説教]の方は、用いられるという点にかけても、この上もなく妙を得ているという点にかけても、この二十五年間に私が英国の、また、米国の文献の中で読んだ記憶すべき説教すべてを凌駕しております。私は本日、同じ説教を五十部注文しました。その最初の一部は、身内の者を失って悲嘆に暮れている、ひとりの可哀想な人に送ってやるつもりです。あなたの使信がその慰めとなるに違いありません。もう一部は、アシュバートン令夫人のルイザ様に送ります。この奥方は必ずやあなたの賞賛者になることでしょう。また何部かは仏蘭西に送るつもりです。そこで同国の国語に翻訳されると思います。さらに何部かは、最近私が『働きかける』ように召された、何人かの弱い兄弟たちのもとに行くでしょう。私は彼らを不可知論と、いわゆる心霊主義から離れさせたばかりなのです。……最後に、忘れずにお伝えしなくてはならないのは、私の知りえた中でも最も卓越したひとりの婦人のことです。――彼女の喪失を私はこれからずっと嘆くことになると思いますが、――彼女はあなたの説教集を、私がクロイドンで叙任された1856年以来、1868年に取り去られるまで読み続けたのです」。

 この説教集の価値については、マイルドメイのモートン連隊長によっても同様の証しがなされている。彼はこの説教者にこう手紙を書いた。「午後も遅くなってからのお手紙で失礼しますが、一言感謝させていただければ幸いです。先生は何度となく、われわれ陸軍兵士を清新にし、強めてくださいました。印度その他の諸国にあって、いかなる礼拝所からも(通常の意味における)いかなる恵みの手段からも、はるかに何哩も隔たってしまうことの多い私たちは、軍営から多少離れた木々の下で集会を開き、祈りと賛美の後で、先生を私たちの予言者としておりました。最近わが連隊では大きな聖書研究会が持たれており、この愛すべき連中は、先生のために大きな祝福を乞い願っております。先生の説教の中でも、『園であの人といっしょに』(第2106号)が、ごく最近、私の同伴者となりました。マルタから英国に至る途中の、パレルモの近くのペレグリーノ山を登っている間のことです。この広い世界のいかなる片隅においてであれ、兵隊や水兵たちが点々と駐在する場所のうち、先生がやって来ては神の愛と真理の使信をもたらさない所がどれだけあるでしょうか? 私は長いこと先生に感謝したいと祈念しておりましたし、その気持ちは他のおびただしい数の者らが分かち持っております。そして、いま私はその機会を得たわけです。願わくは神が、いよいよ先生を祝福してくださいますように!」

 グラッドストン氏[英国首相 1868-74, 80-85, 86, 92-94]は、一度ならず講壇に立つC・H・スポルジョンの話を聞いたことがあり、1891年7月、この大説教家がノーウッドで病床に伏していたときには、スポルジョン夫人に次のような見舞い状を書き送った。「私自身の家の中も、現在は暗いものとなっておりますが[グラッドストン氏はその長男を喪ったばかりであった]、スポルジョン氏の病状を日々報じる記事は悲しい興味をもって読んでまいりました。そして、私はお伝えせずにいることはできません。奥様に対する、また、ご夫君に対する、私の切なる確かな同情の念を。また、単に氏の素晴らしい諸力に対してばかりでなく、それにいやまさって、氏の献身的で万福の信頼を置くことのできる性格に対する、私の心からの賞賛の念を。願わくは、へりくだりつつ願わせていただけますでしょうか。いかなる不測の事態にあろうとも、尽きることのない《天来の》愛とあわれみとの無限の貯えが、奥様とご夫君の上にありますように、と」。この説教者の死後、その説教集の一冊を受け取ったとき、グラッドストン氏はこう書いている。「私は、スポルジョン氏の数々の偉大な資質に対して、常に高い印象をいだいてきた。その誠実さや男らしさは、氏の雄弁の中に著しく見てとることができた。……」。

 本章を閉じる前に、ある珍しい事件について記しておかなくてはならない。それは、C・H・スポルジョン自身の言葉で告げてもらうのが最上であろう。

 「かつて私はあることを学んだが」、と彼は云う。「それは普通、人が教訓を得ないようなしかたによってであった。当時の私は、心に非常な怒りと、非常な悲しみと、非常な重苦しさをかかえており、自分の思いの中で疑いを感じるようになっていた。果たして私は、自分が他の人々に宣べ伝えていることを本当に自分のものとしているのか、と。恐ろしいのは、私が福音の祝宴において、ただの給仕でしかなく、招待客ではないような気がすることであった。とある田舎町に足を運んだ私は、安息日に、あるメソジスト教会に入った。礼拝式を執り行なっていた人物は、ひとりの技師であった。彼は聖書を朗読し、祈り、説教した。私の目から、とめどなく涙が流れ落ちてきた。その説教の一言一句によって、魂の深い琴線が揺さぶられたのである。そして、自分の困難がことごとく取り除かれたのを感じた。というのも、私は見てとったからである。《福音》が私にとってきわめて慕わしいものとなり、私自身の心に素晴らしい影響をもたらしたことを。私はその説教者のもとへ行き、『ありがたい説教をしてくださって、まことに感謝します』、と云った。彼がどちら様でしょうかと尋ねるので、それに答えると、彼はこれ以上ないほどに赤面し、こう云った。『何と、今朝私が説教したのは、あなたの説教の1つだったのですよ!』 『ええ』、と私は云った。『それは分かっていました。ですが、まさにその使信こそ、私が聞く必要のあったものだったのです。なぜなら、それで私は自分自身が宣べ伝えている当のみことばが本当に自分のものであることを見てとったのですから』、と。幸いにも、それは神の素晴らしい摂理によって取り計らわれていたことであった。もしもそれが彼自身の説教だったとしたら、私の説教の1つだった場合ほど、その目的にかなうことは到底なかったであろう」。


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