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迫害されている者への言葉

NO. 1188

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1874年8月16日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「もし父上が、きびしい返事をなさったら」。――Iサム20:10


 ヨナタンが父親から厳しい返事を受ける見込みは決して低くなかった。サウルはダビデを非常に不快に思っていたが、彼の長男ヨナタンは逆に自分と同じほどにダビデを愛していた[Iサム18:1]。ヨナタンは、父親がダビデのように善良な者を本気で傷つけようとしているとは、とても信じられなかった。そこでダビデにそうした意見を述べたところ、最悪のことを予想していたダビデからこう問われたのである。「もし父上が、きびしい返事をなさったら?」 そして、それは現実となった。サウルは息子に激しい言葉で答え、怒りにわれを忘れたあまり彼に槍を投げつけて打ち殺そうとしさえした[Iサム20:33]。だが、ヨナタンはダビデを捨てなかった。愛と誠意の限りを尽くしてダビデに忠実に生き、死ぬまで彼の誠実な親友であり続けた。その死をダビデはいたく嘆いた。さて、ヨナタンに対するこのダビデの問いかけを、私は今朝、キリストを信じる信仰者すべてに向かって発したいと思う。特に、この偉大なダビデの《子》と最近契約を結んだ初信の人々に対してそうしたい。そうした人々は、心に燃える情熱により、自分はいま主のために生き、主のために死ぬことができると感じている。そうした人々には予想してほしいと思う。あなたが自分の最も親しい友人たちから反対に遭うだろうことを。ことによると、自分の父親か、兄弟か、夫か、伯父から厳しい返事をされるかもしれないことを。ことによると、自分の母親か、妻か、姉妹から迫害されるかもしれないことを。そうなったらどうするのか? そうした環境の下にあって何をするだろうか? あなたは悪評を受けても主に従おうとするだろうか? 「もし父上が、きびしい返事をなさったら?」

 この予想が非常に見込みの高いものであることを覚えておくがいい。ごく少数のキリスト者たちは、非常に恵まれた環境にあり、自分の友人たち全員と連れ立って天国への巡礼路を辿る。その聖なる旅にあって、そうした人々がいかに長足の進歩を遂げるべきであろう! 彼らは温室の植物のようである。――すくすくと育って、最も麗しい花々を咲かせるべきである。しかし、そうしたことが云える人々はごく僅かしかいない。大多数のキリスト者は、家族の者から、あるいは、仕事仲間か商売仲間から反対を受けることに気づく。そうなる見込みが高くはないだろうか? 初めからそうだったではないだろうか? 蛇の子孫と女の子孫の間には、敵意があるではないだろうか?[創3:15] カインが弟アベルを打ち殺したのは、彼の方が神に受け入れられたからではなかっただろうか? アブラハム一家には、イシュマエルなる者が肉によって生まれ、御霊によって生まれたイサクを迫害したではないだろうか?[ガラ4:29] ヨセフは兄たちから憎まれなかっただろうか? ダビデはサウルに、ダニエルはペルシヤの太守たちに、エレミヤはイスラエルの王たちに迫害されなかっただろうか? 常にそうだったではないだろうか? 主イエス・キリストご自身、中傷や、残虐な仕打ちや、死にお遭いにならなかっただろうか? また、ご自分が拒絶された所で私たちが愛顧を求めてはならないと仰せにならなかっただろうか? 主ははっきり云われた。「わたしは地に平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」*[マタ10:34]。そして、こう宣言された。福音宣教の直接的な結果、人はその父に逆らい、父は息子に逆らい、そのようにして、家族の者がその人の敵となる、と[マタ10:35-36]。主は、ご自分の軍隊に入隊したいと志願するあらゆる新兵に注意深くお尋ねにならなかっただろうか? 「あなたは、その費用を計算しましたか?」、と[ルカ14:28参照]。あなたは、人々を扱う際の主の包み隠さぬ正直さと見事な用心深さを賞賛したことがなかっただろうか? 主は彼らにこう思い起こすよう命じておられる。もし彼らがご自分について来るのなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い[ルカ9:23]、ご自分のためにすべての人々に憎まれる[マタ10:22]ことに満足しなくてはならない、と。主は私たちに、弟子はその師にまさらないと警告しておられる。というのも、もし人々が家長をベルゼブルと呼ぶとしたら、確かにその家族の者を感じの良い呼び名で呼びはしないだろうからである[マタ10:24-25]。私たちの主からあらかじめ警告されている以上、私たちは主が予告された試練を覚悟しておき、自分に向かって、キリストゆえの抑圧を耐える覚悟があるかどうか自問するべきである。私がこの問いかけを突きつけている相手は、あなたがた、これから自分が信仰者であると公言しようと考えている人々にほかならない。というのも、あなたの心には、この問いが実際的に突き入ることになるだろうからである。そして、家を建て始めるときには、それを完成できるかどうか計算する方が良い。

 この場にいる、神のしもべたちの非常に多くは、自分の不敬虔な親族や知人たちによって悩まされてやまないために、つらい生活を送っている。しばしば彼らは吐息をついては、自分に鳩の翼があれば飛び去って休めるものを、と思う。私はそうした人々に対して、きわめて深い同情を感じる。そして、単に初信の人々にあらかじめ警告するためばかりでなく、この燃える炉の中に長いこと入れられている人々を激励し慰藉することも望みつつ、今朝はこの聖句について語りたいと思っている。「もし父上が、きびしい返事をなさったら?」

 I. 私たちの第一の点はこうである。《あなたは、何をしかねないだろうか》。もしあなたの友人たちが厳しい返事をしたとしたら、あなたは何をする可能性があるのだろうか? キリストに対する愛を初めて確信したあなたは、行って父上に自分の回心のことを告げる。よろしい。もし父上がそのすべてを嘲ったとしたらどうだろうか? あなたは母上のもとに走って行き、自分の心の変化を伝える。もし母上がそれを小馬鹿にしたらどうだろうか? ある友人に自分の心を少しばかり打ち明ける。もしその友人が向き直って、あなたに散々にこき下ろすとしたらどうだろうか? 私は云うが、その場合、ことによると、あなたはこうするかもしれない。私は決してそのようなことをしないよう切に願うが、あなたは「すぐにつまずいて」[マタ13:21]しまうかもしれない。つまり、主の十字架は負えないからといって、キリストを全く捨ててしまうかもしれない。そして、道がなだらかであれば主とともに天国に行くことにやぶさかではなくとも、あの柔順者のように、乗り越えなくてはならない沼があることに気づくと、良い国に背を向けて、《滅亡の都》に戻って行くかもしれない。多くの者がそうしてきた。私たちの主が語られた、岩地に蒔かれた種のたとえ話の教えによると、多くの者たちは豊かな収穫が見込まれるようなしかたで芽を出すが、焼きつけるような日が上ると、根がないために枯れ果ててしまう。人々を観察していると、この言明の正しさが確証される。向こう側にいる、好天時だけの信仰告白者たちも、もしも日ごとに世間一般から歓声と歓呼を浴びせかけられるようなことがありえたとしたら、それなりのしかたで堅固であり続けたことであろう。だが、予期してもいなかった剣突や冷や飯を食わされた彼らは、キリスト教信仰を全く見捨てて、人受けの良い世界に加わってしまった。このような人々にとっては、地上の父親の方が天にいます御父よりも大切なのである。肉の兄弟の方が、苦しみを分け合うために生まれた《兄弟》[箴17:17]よりも大切なのである。そして、不敬虔な夫の方が、永遠の花婿よりも大事なのである。それで彼らは自分たちの主を見限ってしまう。

 あるいは、こういうことが起こるかもしれない。すぐにつまずく代わりに、あなたはしばらくの間は続けるが、だんだんと挫けて行き、最後には全く屈してしまうかもしれない。私たちの中の多くの者らは、キリストのために一打ちで頭を切り落とされることには耐えられるであろう。だが、とろ火で焼かれること、――あゝ、それは私たちの試練となる! そして、もしもそのとろ火が一日や二日ではなく、何週間も、何箇月も、何年も続くとしたら! そのときは、どうだろうか? もしも、いかに長いこと忍耐強く耐えた後でも、残酷な嘲罵がなおも続くとしたら、また、きつい言葉や辛辣な物云いが全くやまないとしたら、――そのときは、どうだろうか? 確かに、恵みによって支えられない限り、肉はこの不快なくびきから逃れさせてくれと喧しく叫び立てるであろう。この険路の厳しさから逃れる間道を探しては、この世に舞い戻るであろう。恵みは最後までずっと支えてくれるが、天性はいかに純良なものであろうと、いかに決意を固めていようと、ある特定の点まで試練に遭うと、確実に屈してしまうであろう。これは、私たちが行ないかねないことである。だが、願わくは私たちが、このように悲惨なふるまい方に走ることから守られるように。というのも、もしも不敬虔な友人たちからの反対ゆえに屈するとしたら、そこには途方もない咎が伴うからである。迫害ゆえにキリスト教信仰を放棄するのは、自分が富み栄えることの方を好み、利己心に駆られて自分自身の安逸の方を主の栄光よりも重視し、自分自身の平穏無事の方を主の栄誉よりも顧慮することである。たとい私たちが、ご自分の血によって自分たちを贖われた主を自分は他の何よりも愛しています、と云っていようと関係ない。そうしたふるまいは、私たちが主を全く愛しておらず、むしろ、恩知らずで、不誠実で、偽善者であるしるしである。いかに正しい信仰告白をしていようと、迫害に尻込みするとしたら、それはこう証明するであろう。私たちが自分の代金を欲しがっているだけであり、ユダのように自分の《主人》を――おそらく銀貨三十枚のためではないだろうが、嘲りを避けるか悪意を避けるために――売り渡すだろうことを。

 また、やはりそれは明らかにするであろう。私たちが人々の称賛の方を神からの是認よりも好んでいることを。すぐ死ぬことになる顔からの微笑みの方を、神の愛、あるいは、《贖い主》の称賛よりも値打ちがあるとして尊ぶのである。ペテロは一時、主への忠誠よりも、愚かな女中の問いかけによって大きな影響を及ぼされていた。だが、そうした状況に故意に陥り、死すべき人間を、また虫けらでしかない人々の子らを、私たちの《主人》であり《審き主》である、唯一恐れられる方なる主よりも重く考えるということの何と恐ろしいことか。これは愚行、反逆、すさまじい不義ではないだろうか?

 迫害のために主を捨てるのは、永遠よりも時間を重んじ、天国をこの世の快楽と引き替えにし、永遠のいのちを束の間の安楽のために放棄し、下らない冷やかしや、たわけた嘲りを耐え忍ぶくらいなら、果てしない悲惨に自ら巻き込まれようとすることである。結局そういうことである。多くの人々は、いのちと死とに直面してきた。そのいのちは十字架の影が差すものであり、その死は束の間の歓楽で全面が輝かされていた。そして、その人々は、一時的な試練を伴う永遠のいのちよりも、きらびやかな永遠の死を好んで、それを選びとってきた。願わくは私たちが、決してそのように気違いじみた心にならないように。というのも、そうなれば私たちは、黙示録の中でこう言及された者たちとともに数えられることになるからである。そうした者らのことは、「恐れる者」<英欽定訳>と云われており、これは臆病者のことであると解釈されている。「……、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者ども」――というのも、こうした種別の者らこそ、臆病者の仲間だからである。――「の受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である」(黙21:8)。このような死から、神の無限のあわれみによって私たちが救い出されんことを。真の兵士のように、私たちが鎧を身につけ、こう決意できるように。いかに戦闘が熾烈なものとなろうと、天来の恵みによって自分の軍旗を見捨てることはすまい、と。死そのものさえ、これほど真実な大義、これほどきよい教理、これほど恵み深い救い主、これほど高貴で、これほどこの上もなく忠実な奉仕にふさわしい《君主》を捨てる不名誉よりはましである。

 しかし、もし自分にまかされたとしたら、私たちは公然たる背教と同じくらい悪いものに陥りかねない。夫か、妻か、友人が自分に厳しい返事をするのに気づくとき、私たちは、キリストとこの世との浅ましい妥協を行なうことがありえる。私は、他の何にもましてこのことについては厳粛に警告したい。それを行なうことは思慮ある適切なことのように見える。「私は、人々を喜ばせ、神を喜ばせることができないのだろうか? 少しはキリストとともに歩み、少しはこの世とともに歩んでも良いではないだろうか?」 おゝ、魂よ。そうしたことを試みるなら失敗は必定である。そして、それ以上に、あなたは何にもまして険しい路を選んだことになる。というのも、もし人が神に仕え、それも徹底的に神に仕えるなら、自分の数ある十字架を埋め合わせる幾多の慰めと出会うだろうからである。また、もし人が徹底的にサタンに仕えるなら、罪の中から得られるなけなしの慰めは楽しめるだろうからである。だが、もし人がどっちつかずのまま行くとしたら、双方の不愉快なものを感じ、どちらの快いものも感じないであろう。軍艦の上で、両側から鞭打つ者らの列の間を走り抜ける刑罰を受ける方が、同時にキリストとサタンの友となろうと試みるよりはましである。私の信ずるところ、信仰を告白する多くの婦人たちは、断固たる態度を取るべきであった所で、自分の不敬虔な夫に譲ってしまったために、残りの一生の間ますますひどい状況の中で過ごすことになる。また、多くの夫や、多くの子どもや、多くの実業人たちは、事なかれを思って小さなことで曖昧な態度を取り、その瞬間から相手側は、そうした人々の真摯さを決して信じなくなる。そして、一吋を譲ってしまった以上、この世はその一尺を要求し、それ以後はいかなる自由も消え失せてしまう。もしあなたが正直さの、あるいは、真のキリスト教信仰の一点でも譲歩するなら、未回心の者は、あなたが徹底的に堅固だった場合にそうするようには、あなたを信じないであろう。人々は純血種のキリスト者を尊敬するが、雑種になど誰ひとり鼻もひっかけない。どちらか一方であるがいい。熱いか冷たいかであるがいい[黙3:15参照]。さもないと、キリストはあなたを拒否し、この世もそうするであろう。もしもあることが正しければ、それを行なうがいい。もしも主に仕える決意をしているなら、そうするがいい。人を怒らせようと喜ばせようと関係ない。あるいは逆に、もしサタンに奉仕する方を好むなら、少なくとも正直になり、主の側についているふりはしないようにするがいい。あのエリヤの挑戦を思い出すがいい。「もし神が神であれば、それに仕え、もしバアルが神であれば、それに仕えよ」*[I列18:21]。だが、妥協を試みてはならない。それはもろもろと崩れ果てるであろう。マルクス・アントニウスは、1つのくびきでつないだ二頭の獅子を御してローマの町通りを進むことができた。だが、いかなるマルクス・アントニウスも、ユダ族から出た獅子と、底知れぬ所から出た獅子とを一本の革紐でつないで御すことは決してできないであろう。両者は決して一致しないであろう。ならば卑しい妥協に陥らないように警戒するがいい。というのも、妥協とは、うわべだけ取りつくろった神への反逆、神の主張への嘲り、神の審きへの侮辱以上の何物でもないからである。願わくは神の恵みにより、私たちがこのことから守られるように。というのも、自分にまかされれば、私たちはこの罠に落ちてしまうからである。

 やはりあなたが行なうことのありえることを告げることにしよう。そして私は、聖霊があなたを導いてそうさせてくださるよう祈るものである。あなたは、へりくだりつつ、だが、きっぱりと、次のような断固たる態度を取ることができる。――「もし私の父が厳しい返事をするとしたら、しかたがない。だが、私には天におられる、もうひとりの御父がある。そして、その御父に私は訴えることにする。もしこの世が私を罪に定めるとしたら、私はその判決を、万物の偉大な《審き主》からの、恵み深い無罪放免の判決として受け入れよう。というのも、私はこう書かれていることをよく覚えているからだ。『もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい』。また、『もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです』[ヨハ15:18-19]」。イエス・キリストの立派な兵士として、苦しみを受けようではないか[IIテモ2:3参照]。願わくは私たちが、キリストのゆえに受けるそしり[ヘブ11:26]を、世界中の宝にまさる大きな富と思うことができるように。願わくは私たちが、イエスを恥ずかしく思って臆病に頬を赤く染めることなど決してないように。むしろ、はるかに願わくは、一瞬たりとも私たちの《愛する主》の脇を向くことを考えるよりは、喜んで衆人環視の的となることを願うように。偽り者にも臆病者にも決してならないように。断固として、かつ、穏やかに、決して揺るぎえない愛を信じて、私たちの主から固く離れないようにしよう。いかなる人が主を捨てるとしても関係ない。――

   「学べや、人の 称賛(ほまれ)蔑(なみ)すを!
    学べや、神と ともに失(な)くすを。
    イェス、世を得しは 恥辱(はじ)のゆえにて、
    汝れを招かば、同じ路(みち)へと」。

 II. 第二の項目は、《私たちがその試練の下にあって挫けることも弱ることもせずにいるとしたら、それによってどうなるか》である。「もし父上が、きびしい返事をなさったら?」 最初のこととして、それは私たちを悲しませるであろう。正しいことを行なっているとき、私たちを助けてしかるべき人々から反対されるのは、決して心楽しいことではない。自分の愛する人々と逆方向に行くのは、血肉にとって非常に悲痛なことである。さらに、キリスト者たちを憎む人々は、私たちをひるませずにはおかないようなしかたで悪口を云い表わすしかたを心得ている。彼らは私たちの弱点を見守っており、舌を巻くような鮮やかさで自分たちの発見したことにものを云わせる。かの古の、あらゆる悪意の名手によって鍛えられた彼らは、私たちの最も鋭敏な部分に、すかさずその鞭を浴びせかける。もしも何か他のこと以上に癪に障ることがあるとしたら、彼らは確実にそれを口にし、かつ、私たちがそれを最も耐えがたい時期に口にするであろう。彼らは非常に慇懃な人々かもしれない。そして、その場合、あなたの洗練された迫害者たちは非常に優美なしかたで骨身にこたえさせながら、その間ずっと微笑んでいる。彼らは、悪意に満ちたことをきわめて上品なしかたで云えるため、あなたはそれを憤ることも我慢することもできない。迫害という芸は、蛇の子孫によってきわめて長い間研究されてきたため、彼らは完璧にそれに熟練しており、魂を虐待して苦しめることはお手のものである。それゆえ、あなたが激しく悩まされても驚愕してはならないし、何か思いがけない種類のことが自分に起こったかのように驚いてはならない。殉教者たちは、まやかしの苦痛を受けたのではない。彼らが引き延ばされた拷問台は安逸の寝床ではなかったし、彼らの監獄は慰安の客間ではなかった。彼らの苦痛は苦悶であったし、彼らの殉教は責め苦であった。あなたの悲しみがまやかしだとしたら、あなたに予期できる喜びは偽物である。あなたの患難が現実であることによって、来たるべき栄光も現実であると確信するがいい。

 あなたの友人たちによる反対は、あなたの真摯さを試すであろう。あなたが偽善者だとしたら、たちまち反対に屈するであろう。「これは割に合わない」、とあなたは云い、手を切るであろう。また、教会のためには、それは祝福となる見込みが高い。というのも、麦は、もみがらが除かれれば、それだけ良いものとなるからである。そして、迫害の風があなたを吹き飛ばせるとしたら、あなたはもみがらなのである。反対者たちの厳しい返事は、あなたの信仰を試すであろう。あなたは、自分はイエスを信じていますと云う。いま私たちは本当にあなたが信じているかが分かる。というのも、もしあなたが人間たちからのちょっとした試練にも耐えられないとしたら、確かに悪魔やその使いからのさらに悪い試練になど耐えられないであろう。「あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう」[エレ12:5]。もしあなたが人生の種々の試練に耐えられないとしたら、いかにして死の苦しみに耐えられよう?

 迫害は、イエスに対するあなたの愛を試すであろう。もしあなたが本当に主を愛しているとしたら、あなたはイエスとともに朗らかに非難のさらし台に立つであろう。また、敵どもから汚物を投げつけられても、こう云うであろう。「主よりは私に投げつけなさい。何かをなじりたければ、私の主よりは私をなじりなさい」、と。

   「よしわが顔に 主の御名ゆえの
    恥と責めとが 浴びせらるとも、
    ことほぎ迎えん、咎めも恥も。
    そは主の我れを 覚えたまわば」。

私は云うが、それはあなたの愛を試すであろうし、同じように、あなたのあらゆる恵みを次々に試すであろう。そして、それはあなたの益となることである。こうした美徳の強さを増したければ、それを活動させるしかない。そして、もしそれらが試されないとしたら、それがいかなる種類のものか誰に分かろう? 本国の平穏な兵営で勇ましくしている兵士も、疑いもなく戦うことはできるであろうが、何らかの軍役をくぐり抜けるまで、どうしてそれが分かるだろうか? 大砲の砲口めがけて突撃したことのある者、軍刀の切り裂き跡で額を飾っている者、また、それ以外にも、自分の国王のための軍務で多くの傷跡を負った者こそ、疑念の余地ない勇者である。良い金は火で精錬されることを予期しなくてはならないし、こうした種々の反対が送られるのは、私たちの信仰が、また、私たちの愛が、また、私たちの一切の恵みが、試験に耐え抜くことを通して純粋なものであると証明されるためなのである。

 私たちの友となるべき人々からの厳しい返事によって、私たちは目を覚まし続けていられるであろう。確かアースキンだと思うが、彼は常々こう云っていた。「主よ。眠っている悪魔からわれを救い出し給え」。そして、まことにそれはささげられる価値のある祈りである。何もかも順調に進み、誰からも嘲りを受けないとき、私たちは十中八九警戒を怠りがちになるが、云われなき非難や侮辱で刺されているとき、また、自分の愛に引き替えて怒りか意地悪しか受け取らないとき、私たちが眠り込む見込みは少ない。そうした種々の患難によって、あなたは祈りへと駆り立てられる。ことによると、あなたもロス州の教役者たちのひとりであるイレイザー氏の物語を読んだことがあるであろう。彼の妻は、冷淡で無情な婦人で、彼に非常につらく当たり、決して彼の書斎では明かりや火を灯すことを許さなかった。それで彼は、暗闇の中を手探りで歩き回っているうちに、自室の両端の壁土をすりへらし、現実に2つの穴を開けたという。あるとき、教役者たちの集会があった。彼らは、神のみこころに関することについて彼と意見が一致しない人々であった。その中のひとりが、彼をからかってやろうとして、こう云った。あなたも、「われらの妻たちの健康を祝して」、という乾杯の音頭には、心から同意なさるに違いないでしょうな、と。彼らを驚かせたことに、彼はこう答えた。「私の家内は、みなさんの奥さんたちのどなたにもまして、私にとって良い家内ですとも。家内は私を、否応なしに日に七度も祈らせてきたのです。あれがいなければ、そうはできなかったでしょう。みなさんもご自分の奥さんについて、これほどのことは云えますまい」。個人的に私は、それほど不快な人間が不断に自分に貼りついていないことをずっと好ましく思うが、かの良き《医者》がそれほど厳しい試練を私に定められたとしたら、それには歴とした理由があるだろうことを疑わない。人々が雑草と呼ぶものから、賢い人は薬を抽出する。そして、こうしたつらい試練の数々から、主は聖なる強壮剤を生じさせ、ご自分との交わりという、より高い生き方のために私たちを強めてくださるのである。

 イエスの敵から出た種々の試練によって、私たちの信仰は堅固にされる。一度も試練を受けたことのない者たちが有しているのは、通常、あわれな、よちよち歩きの信仰だが、試練、特に迫害は、唸りを立てて森林を吹き抜ける荒々しい三月の突風のようである。そのため若い樫の木は、最初はほとんど根こぎにされそうになるが、それが土壌を都合良く緩めて、より多くの支根を伸ばせるようにするため、後には、大暴風が荒れ狂ってもびくともしないほどがっちり土地を把握するようになる。最初はそれらを揺るがすものが後には強めることになるのである。試練を受けた聖徒は大胆な聖徒、また、堅固な聖徒である。それゆえ、厳しい返事も喜びをもって受け取り、そこから良い結果が生ずるのを待ち受けるがいい。今の英国の教会にとって、ちょっとした迫害は素晴らしいものとなるであろう。私たちは、非常に物事が温柔な時代に巡り合わせており、そこでは神への熱心がめったに見られず、真理のための決断に出会うことはほとんどない。教会はこの世と馴れ合って眠り込んでいる。サタンがその揺りかごを揺らしている。多くの人はキリスト者であると告白するが、洗礼を受けたこの世の子ら以上の何者でもない。また、多くの人はキリストに仕える教役者のふりをしているが、実は他人の説教を読み上げているにすぎず、羊のことを心にかけていない雇い人[ヨハ10:13]でしかない。迫害という箕は、もしそれが教会という脱穀場をきよめるとしたら、大きな恩恵を教会に授けることであろう。

 厳しい言葉は、純粋なキリスト者たちにも次のような良い効果をもたらすであろう。すなわち、それによって彼らは、それを発した者たちのためのとりなしへと導かれるであろう。私が覚えているひとりの善良な人は、ある悪態をつく男について常々こう云っていた。その男は自分の嘲罵やののしりによってこの人を悩ませるのを楽しんでいたが、「よろしい。結局、私は彼のために祈ることを忘れるかもしれないが、彼は私にそれを思い出させてくれるのだ。彼は、呪いの言葉を吐かずには私を去らせてくれないのだから」。もし私たちの友人たち全員が口達者で、キリストに対するその敵意を押し隠していたとしたら、私たちは彼らについて偽りの希望をいだき、彼らのために祈らないかもしれない。だが、そこに古い性質があるのを見るとき、また、それが騎虎の勢いであるのを見るとき、それによって私たちは、いやでも彼らのためのとりなしへと駆り立てられるし、主が彼らの魂を私たちへの報いとして与えてくださらないと誰に分かるだろうか?

 確かに反対には別の良い効果もあるに違いない。すなわち、それによって、そうした反対を受けている者たちは、真に分離された通り道へと押しやられる。彼らは、彼らの悪口を云う者らによって、キリスト者であることが知られ、そう宣言される。それは悪いことではないと思う。若者よ。あなたがあの商店に行けば、彼らはあなたがキリスト者であることを宣伝して、大声でこう叫ぶであろう。「おーい、そこに、あのメソジスト野郎のひとりが来たぜ」。あなたが何者であるか知られていることは、あなたにとって良いことである。もしあなたがしかるべきことを行なっているとしたら、あなたは札付きになることも、試みられることも気にしないであろう。それによって助けられて、誘惑が生ずるときも、あなたは正しく保たれるであろう。また、そのことによってしばしばあなたは、ずっと魅力的な種類の様々な試練から救い出されるであろう。というのも、あなたがキリスト者だからといって彼らがあなたとつき合わなくなったとしたら、それは良いことではないだろうか? 誰かがそうした理由であなたを捨てるとしたら、あなたは損して非常な得を取ることになる。今は神とともにいる、ひとりの尊敬すべき奥方が、この教会に加入したとき私に告げたところ、彼女がバプテスマを受けた後で、彼女の貴族の友人たちの多くは、彼女を訪問することも、自宅に招待することもやめたという。私はそのことで彼女にお祝いを云った。というのも、それによって、彼女が自分の心にかなった人々とつき合うことは、ずっと容易になったからである。彼女の尊い性格と親切な心根により、つき合う価値のある人々はみな戻って来たし、残りの人々は幸いなしかたで取り除かれた。あなたが主に従っているからといってあなたを遠ざけるような人々は、あなた自身が遠ざけてかまわない人々なのである。私たちは、神を愛していない者たちに愛されることで何の得もしない。

 家庭の中で迫害されることの1つの良い効果はこうである。それによってあなたは、家の外でずっと優しい人になる。私の兄弟であるキリスト者たち。もしあなたの家庭の中にあなたを不幸にする者らがいるとしたら、あなたが賢い人である場合、より良く外部の人々に対しても忍耐をもって接することができるようになるであろう。人々は、ソクラテスが自分の弟子たちにあれほど忍耐強く、寛容に接していたことに驚いた。だが、彼によると、それは彼が他の人々の反対によって強くさせられ、家庭では口やかましい妻クサンティッペによって訓練されていたからだという。ことによると、嘲る人々に対してあなたがいやまして大きな忍耐を持ち、嘲られている人々に対していやまして大きな同情心をいだくことになるためには、聖徒たちに共通する憂き目にあずかることが必要なのかもしれない。こういうわけで、あなたにとってもサムソンにとって同じく、食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出る[士14:14]のである。この獅子は、あなたに吠えかかるが、来たるべき日にあなたはその中に蜜を見いだし、主の御名をほめたたえることであろう。

 III. 私の第三の点は、《この試練の下で、あなたはいかにふるまうべきか?》ということである。願わくは聖霊があなたを強めて、決然と行動するばかりでなく、非常に思慮深く行動できるようにしてくださるように。決して反対を自ら招いてはならない。断じてそのようなことをしてはならない。一部の熱心者たちは、キリスト教信仰を鼻持ちならないものにしようと決心しているように見受けられる。私たちが罪深い世に差し出している杯そのものが、堕落した性質にとっては十分に厭わしいものなのである。それを、睨みつけるような顔で提示することによって、さらに鼻持ちならないものとすることは決して賢いことではありえない。子どもに薬を与えようとするとき、一緒に一包の砂糖を見せるのと同じである。そのように、あなたの親切さや、朗らかさや、優しさによって、この世がいずれにせよ受け入れる見込みの少ないものを甘くするがいい。愛とともにそれを提示し、自分がすべての人と穏やかに暮らしたいと願っていること、自分自身の慰めよりも他の人々の慰めを顧みたいと思っていることを示せば、それだけ恨みをいだかれることは少なくなるであろう。

 それから、耐え忍ばなくてはならないものは、最大限の柔和さをもって耐え忍ぶがいい。ひとりの農夫がいた。その妻を非常に苛立たせたことに、彼は非国教徒の礼拝所に集い、キリスト者たちの仲間となった。彼女はしばしば、もういい加減にしとくれと云い放ったが、彼は非常に忍耐強く、細君には決して辛辣な答えを返さなかった。ある日、彼女は彼を刈り入れ中の畑から呼び出して云った。「もう、けりをつけさせてもらうわ。あんたは、あの連中の所に行くのをやめるか、あたしを捨てるかよ」。そして、一反の織物を持ち出すと云った。「さあ、この半分を取っておくれ。残りはあたしのものにするよ。あたしは出て行くんだから」。彼は云った。「いいや、お前や。これは全部お前のものにして良いよ。お前は今までずっと働き者の良い女房だったからな。全部お前のものにおし」。それから彼女は、二人の所帯の持ち物を半々にし、何もかも処分してすっぱり別れようと申し出たが、やはり彼は云った。「あるものは全部お取り。お前が出て行くというなら、ほしいものを何でも持って行きなさい。わしは、お前に不自由をさせたくないし、いつでも好きなときに戻って来てほしいよ。わしは、いつだって喜んでお前に会いたいからな」。彼がこのように話すのを見て、彼女は云った。「本気であたしを出て行かせたいのかい?」 「いいや」、と彼は云った。「それは、お前が望んでいることで、わしじゃない。わしは信仰を捨てることはできんが、その他に、お前をここにいさせて、幸せにすることで、わしにできることなら何でもするよ」。これには彼女も降参し、それからは反対しない決心をした。そして、まもなく夫とともにその礼拝所に行き、自分も信仰者となった。これこそ、勝利を確実に得る道である。譲っては間違いとなることを除き、一切のことを譲るがいい。決して怒りをつのらせてはならない。冷静さを保ち、売り言葉に買い言葉を発さないようにするがいい。レスターのロビンソン氏が牧会している教会に通っていた、ひとりの貧しい敬虔な婦人がいた。彼女の夫は、非常に粗野で無慈悲な男であり、ある日、怒りにまかせて彼女にこう云ったという。「もし二度と聖メアリー教会に出かけたりしたら、お前の両足をぶった切ってやるぜ」。彼は恐ろしい男であり、どれほどの暴力も平然と行なうことができた。だが、次に礼拝する機会があったとき、彼の妻は以前と同じように出かけた。自宅に帰ってきた彼女は自分を神にゆだね、襲いかかられるのを予期した。彼女の夫は云った。「どこに行ってやがった?」 「聖メアリー教会に行ってきました」、と彼女は云った。それを聞くなり、彼は彼女の横っつらを思いきり殴りつけて打ち倒した。起き上がりながら彼女は優しく云った。「あんたがもう一方をぶっても、今してるのと同じくらい喜んであんたを赦しますよ」。彼女は、回心の前には非常に血の気が多い婦人で、夫からぶたれれば、それと同じくらい力こめてぶち返すのが常だった。そのため、彼は彼女の穏やかさに呆然としてしまった。「どこで、そんなに辛抱強くなれるようになったんだ?」、と彼は云った。彼女の答えはこうであった。「神様のお恵みにより、聖メアリー教会でよ」。「なら、お前の好きなだけ行くがいいや」。すぐに彼も行くようになり、戦争は終結した。柔和さにまさるものは何もない。それは、いかなる強者をも打ち負かすのである。

 柔和に耐え忍んだ後で、悪には善を返すがいい。残酷な言葉に代えて、ずっと暖かな愛と、いやまさる親切さを返すがいい。キリスト者がその敵対者たちと戦うための最も名高い武器は、善をもって悪に打ち勝つという武器である。悪に代えて悪を返すのは、獣に似たことであり、いかなるキリスト者もそれに携わりはしないであろう。だが、悪に代えて善を行なうのは、キリストに似たことであり、私たちはそれを実行しなくてはならない。この物語は以前も話したことがあると思うが、ひとりの夫がいた。非常にだらしがなく、放埒で、堕落した俗物だったが、彼の妻は長年彼の嘲りや意地悪に耐えながら、日夜彼のために祈っていた。だが、彼には何の変化も訪れず、むしろ、いやまさって大胆な罪を犯すようになるばかりだった。ある晩、彼は、気の合う仲間たちと酒盛りをしていた席上で、自分の細君の自慢をした。うちの女房は亭主の願うことなら何でも行ない、子羊のように従順なのだ、と。「今頃」、と彼は云った。「あいつはもう何時間も前に寝床に入っているだろ。だがな、俺がお前たち全員を家に連れて帰ったら、即座に起き上がってお前たちをもてなし、文句1つ云わねえだろうぜ」。「んなこと、ありえねえ」、と彼らは云い、それが賭けになった。そこで彼らは出かけた。それは、とっくに真夜中を過ぎた時間になっていたが、ほんの数分で彼女は起き出し、良かった、みなさんのために鶏が二羽用意してありますよ、と云い、もう少しお待ちくだされば、すぐ晩御飯を支度しますからね、と云った。彼らが待っていると、ほどなくして、深夜にもかかわらず食卓の用意がなされ、まるで普通のことででもあるかのように彼女は食卓で設けの席に着き、朗らかに女主人の役割を果たしていた。彼らの中のひとりが、人間らしい心根に返って、こう叫んだ。「奥さん。俺たちゃあ、こんなふうに、えらい時間に押し掛けちまったことをお詫びせにゃなりませんや。ですが、分からねえのは、なんでまた奥さんは、これほど機嫌良く俺たちをもてなしてくださるかってことですよ。信心深い奥さんにゃあ、俺たちのふるまいなど賛成できねえもんでしょうが」。彼女の答えはこうであった。「私もうちの人も、元々は回心なんかしていませんでしたの。ですが、神さまのお恵みによって、今は私は主イエス様を信じる者になりましたわ。私は、うちの人のために毎日祈ってきましたし、うちの人の心がけがもっと良くなるようにと、できることなら何でもしてきました。でも、この人が全然変わりばえしないもんで、残念だけど、永遠に失われることになるんじゃないかと思っていますの。それで、決心したんです。せめて地上にいる間くらい、うちの人をできるだけ幸せにしてあげようって」。彼らが立ち去ると、彼女の夫は云った。「お前は本当に思ってんのか、俺が永遠に不幸になるなんて」。「ええ、残念だけどね」、と彼女は云った。「神様があんたを悔い改めさせて、赦しを求めさせてくださるといいんだけど」。その晩、忍耐によって彼女の願望はかなえられることになった。彼はじきに、妻とともに天国への道を歩く者となった。原則に関わる点では決して譲ってはならないが、他のあらゆることにおいては、キリストゆえに喜んで非難され、蔑まれ、嘲られることに甘んじるがいい。In hoc signo vinces[汝この印にて勝て]――忍耐をもって負われた十字架によって、あなたは勝利する。「これはひどいことばだ」[ヨハ6:60]、とあなたは云うであろう。私もそれは分かっている。だが、恵みはいかに重い荷をも軽くし、義務を喜びに一変させることができる。

 ここでもう一言指摘したいのは、こうした優しい忍耐に加えて、迫害されているキリスト者は、非常に厳正な生き方をしていなくてはならないということである。私たちは、このように鵜の目鷹の目で注視されているときには、非常に几帳面にしていなくてはならない。なぜなら彼らは、もし私たちが罪を犯しているのを発見できれば、たちどころに私たちに襲いかかるだろうからである。たといそれが、ほんの些細なことであり、他の誰かのふるまいだとしたら気にもとめないことであったとしても、彼らはそれを針小棒大に云い立てて、大騒ぎするであろう。「あゝ、それがお前のキリスト教信仰かよ」、と。あたかも、私たちが絶対的に完全無欠であると主張しているかのようにである。それゆえ、油断してはならない。よくよく注意して[エペ5:15]歩むがいい。彼らにつけこまれるようなことがあってはならない。信仰に関すること以外では、何についても非難させてはならない。この世の何にもまして反対者たちを黙らせるのは、誠実さ、真実さ、聖さである。彼らはあなたの悪口を云いたいと切望するが、好機をつかめない。日ごとに注意して、短気を起こさないでいられる恵みを願い求めるがいい。というのも、そこであなたが失敗すると、彼らはあなたを打ち負かしたと得意がり、同じようなしかたで再びあなたを激しく攻撃するだろうからである。忍耐強くなる恵みを願い求め、神に対して以外は言葉数を少なくするがいい。彼らのために大いに祈るがいい。というのも、祈りは今なお聞かれており、おゝ、信仰を有する婦人よ。あなたの信じていない夫をそれで救えるかもしれないではないか。ただ油断せず祈り続けるがいい。そうすれば、祝福がやって来るであろう。

 IV. 《こうしたすべてを行なう際には、いかなる慰めを期待できるだろうか?》 あなたは、自分の慰めとしてこう考えて良い。すなわち、その迫害者は神の御手の中にある。彼は、神がお許しになる以上のことを行なえないし、もし神が苛立たせることをお許しになるとしたら、あなたはそれを朗らかに耐え忍んで良い。次に覚えておくべきは、もしあなたが自分の良心をきよく保つとしたら、それは大いなる喜びだということである。良心は、いかなる雲雀や夜啼鳥よりも甘やかにさえずる小鳥である。内側できよい良心が神に返事しているとしたら、外部の厳しい返事によって悩まされる必要はない。あなたの良心を損なうなら、その慰藉は失われるであろう。それを悪から保てば、あなたは幸福にならざるをえない。覚えておくがいい。忍耐強く耐え忍び、持ちこたえることによって、あなたは、これまで生を受けた中でも最も堂々たる霊たちの仲間となるということを。今の時代に人は殉教者となったり、血で赤く染まった冠を受けることはできないが、少なくとも自分が召されている限りの苦しみを受けることはできる。恵みがあなたを強めているとしたら、あなたは殉教者の栄誉にあずかるかもしれない。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました」[マタ5:12]。

 また、やはり覚えておくがいい。もしあなたが並外れた苦難を受けるとしたら、イエスは倍増しであなたの身近におられるということを。これこそ、何にもまさる最大の慰めである。というのも、あなたのあらゆる患難において、主も苦しみを受けておられるからである。あなたは、儀式における主の臨在が非常に喜ばしいものであることに気づくであろう。その隠れた交わりの中で主があなたにお与えになる盗んだ水[箴9:17参照]は甘露であり、こっそりと得るその一片はいかに甘やかなことか! 古の盟約者たちの語るところ、彼らがいかなる折にもまさる大きな喜びをもって神を礼拝したのは、クレイヴァーハウスの竜騎兵たちに追われて各地の峡谷や丘陵の間にいた頃であったという。狩り立てられた主の鹿たちにとって、生きることは非常に清新である。主のために万人から拒絶されている者たちにとって、主の御胸は非常に柔らかく暖かである。主への愛ゆえに恥辱で顔を覆われている者たちに対して、主は驚異に満ちたしかたで御顔を露わにしてくださる。おゝ、愛する方々。あなたの主を見つめることで満足するがいい。

 あなたは、次のように甘やかな思いをいだくこともできる。あなたは、現在の場所にいることによって、敬虔な人々しかいない所に置かれた場合よりも、大きな善を施しているのである。向こうにある光は、荒海に取り巻かれたエディストンの岩の上に立てられている。見るがいい。いかにその回りを嵐が吹きまくり、その上を荒波が乗り越えて行き、その炎を消し去らんばかりになるかを。だが、その光は愚痴を云うだろうか? それは、今ある場所で大西洋の怒濤に打ちつけられ、嵐の猛威に正面から勇敢に立ち向かっている方が、ハイド公園に置かれて紳士淑女から眺められている場合よりも、ずっと大きな善を施しているのである。迫害を受けている聖徒は、警告を発し、光を放つ場所を占めており、それゆえに苦しむのである。その人は、前方に配置された守備隊のようなもので、危険な場所こそ栄誉の場所である。ただ我慢し、忍耐する力だけを願い求めるがいい。最後には栄光を得るであろう。覚えておくがいい。路が険しければ険しいほど、安息は甘やかなものとなるのであり、苦しみが大きければ大きいほど、最後の冠は輝かしいものとなるのである。イエスのために最も耐え忍ばなくてはならない者たちは、イエスが最も甘やかなしかたでこう仰せになる者たちであろう。「よくやった。良い忠実なしもべだ。……主人の喜びをともに喜んでくれ」[マタ25:21、23]。

 あゝ、兄弟たち。たといあなたがちょっとした厳しい言葉遣いを我慢しなくてはならないとしても、苦しめられてきた主の民の多くが耐え忍んだものにくらべれば、それが何だろうか? その点を伝える小さな事件のことをあなたに告げて、話をしめくくることとしよう。昨日、郵便配達人が私に届けてくれた郵便物の中に、一通の手紙があった。豪州から届いたその手紙は、長年のあいだ私の手に入ったどの手紙よりもありがたく思われた。それは私の胸を打ったし、あなたもそれを聞けば不思議には思わないであろう。その差出人のことは、彼の願いによってこの手紙を代筆した紳士によって次のように述べられている。「私は、この差出人と知り合ってからほぼ八年近くになりますが、その間ずっと彼は全くなすすべもなく、麻痺したままでした。彼は片足が切断されており、視力は失われ、手や足を動かすこともできません。寝床の上に置かれると、蝿にまとわりつかれたり、その他のことに苦しめられても、そのまま横になっているしかないのです。それで、先生もこのような人に慰めを与える手段となるとしたらお喜びになるに違いないと思いますが、しかし彼はほとんどの時を喜んで過ごしているのです。この人ほど、会いにやって来た人々を教えたり、勧告したり、その人たちが自分で読むための適切な神のことばの箇所を指し示したりするのに適した人はいません」。さて、このあわれな人は、1858年以来、ということは十六年もの長きにわたり、なすすべもなく生きていたが、このように私に書き送ってくれた。「聖霊によって動かされて、ここに感謝の言葉を短く書かせていただきたいと思います。先生の説教集を読むことによって、私は大きな恩恵を受けたからです。1850年、私は真理の知識へと導かれ、イエスを信じることを通して平安を見いだしました。1858年、私は深刻な事故に遭い、生計を立てることができなくなったものの、主を信頼する中で、主によって正しい道に導いていただきました。1866年、主は私を完全に寝台に閉じ込めてしまわれました。その《聖なる御名》は賛美されるべきかな、私は主の愛の綱で縛られていると云うことができ、私の長い幽閉を通じて主は私を支え、慰め、主の栄光を希望して喜べるようにしてくださいました。そして、先生の卓越した説教集を読むことは、――その特権を私はここ数年自分のものととしておりますが、――私の魂にとって大きな慰めと楽しみの源となっており、私を高く舞い上がらせ、甘やかな交わりを享受させています。私は愛にしいられて、このお礼状を送らざるをえませんでした。ことによると、先生がこれによって少しはご自分の熱烈なご労苦において励まされることを望んでのことです。そして、もし私たちの天にいます御父がふさわしいとご覧になるなら、御父の真実さに対する私のこの証しは、御父によって祝福されて、先生の群れの中にいる何人かの苦しんでいる方々を慰め、元気づけることになるかもしれません。私も知る通り、こうしたすべての事がらは、ともに働いて神を愛する者たちのために益となるからです」。考えてみるがいい。この、苦しみを受けてきた無私の人は、私を慰めるために手紙を書いてくれたのである。人は、彼自身が慰めを必要としていると考えたであろう。だが、主はこの人を励まし、慰藉を求めるどころか、その手紙の中で、自分が足を失ったことも、麻痺していることも、視力を失っていることも言及せずにいさせておられる。彼が私に告げているのは、ただ彼の喜びと平安のことでしかない。さて、これほどの窮地にある神の子どもたちが、なおも神の真実さを証しすることができるとしたら、あなたは、どこそこの愚かな連中が自分を嘲るからといって逃げ出そうとするだろうか? 馬鹿どもが後ろ指を差すからといって、臆病風に吹かれて軍旗を見捨てようというのだろうか? だとしたら、あなたは真の聖徒たちと同じ生地でできているだろうか? 彼らと同じ天来の恵みという背骨があるだろうか? 確かにないに違いない。願わくは、主がその無限のあわれみによって、あなたを健全に回心させ、いかなる試練がやって来ようと、なおもこう歌えるようにしてくださるように。「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって誇ろう」*[ハバ3:18]。

 もし私が語りかけている人々の中に、神の聖徒たちをこれまで何らかのしかたで迫害してきた人が誰かいるとしたら、こう云わせてほしい。「自分のしていることに気をつけるがいい。人は多くのことを我慢するだろうが、わが子に余計な手出しをする者がいるとしたら、それは怒りを発させ、どんな父親の逆鱗にも触れることとなる」。何にもまして主を怒らせるのは、その子どもたちに手出しをすることである。自分のしていることに気をつけるがいい。そして、おゝ、私は主に祈る。もしあなたが、それを知らずにしていたとしたら、――本当に彼らのことを間違っていると考え、彼らを偽善者と思っていたがゆえに彼らを嘲っていただけだったとしたら、――願わくは、天からサウロに語りかけ、「なぜわたしを迫害するのか」[使9:4]、と云ったお方が、あなたに、実はイエスご自身を傷つけていたことを見てとらせてくださるように。願わくはその方が、あなたにこう見てとらせてくださるように。あなたがその忠実な婦人から絞り出していた何滴もの涙、また、その真面目な人にもたらしていた幾晩もの眠れぬ夜は、同じ数だけのキリストに対する不正であったということを。最終的にキリストは、そのことゆえにあなたの清算を行なわれるであろう。主イエスの方を向くがいい。そして、願わくは聖霊があなたを、このあなたのよこしまさについて悔い改めさせてくださるように。というのも、イエスはあなたでさえも、古のパウロに対してそうされたように喜んで受け入れ、祝福しようとしておられるからである。主イエス・キリストを信じるがいい。そうすれば、あなたも救われる[使16:31参照]。神があなたがた全員を祝福し給わんことを。キリストのゆえに。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――マルコ4章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 76番、670番、667番

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迫害されている者への言葉[了]

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