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「彼を園の管理人だと思って」

NO. 1699

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1882年12月31日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼を園の管理人だと思って」。――ヨハ20:15 <英欽定訳>


 二週間ほど前に私は、とある非常に麗しい庭園に座っていた。ありとあらゆる種類の花々が、そこら中で色も鮮やかに咲き誇っていた。張り出した橄欖の枝の下で炎暑を避けながら私は、椰子や甘蕉、薔薇や椿、蘆薈やラベンダー、また木立瑠璃草に目を向けることができた。その庭園は色彩と美麗さ、芳香と豊穣さで匂い立っていた。確かにこの麗しい場所を設計し、造り上げ、丹精している管理人は、それが誰であろうと、非常な褒め言葉に値するに違いない。そう思ったとき私は、ふと神の教会を1つの庭園とし、主イエス・キリストをその園の管理人であるとする黙想へと導かれた。そして、それが真実である場合、必然的にどういうことになるかを考えさせられた。「彼を園の管理人だと思って」私は、1つのパラダイスを思い描いた。そこでは、甘やかなものがことごとく大輪の花を咲かせ、悪しきものがことごとく根絶やしにされているのである。もしも、そのとき私が眺めを楽しんでいたような美しさを、普通の庭師が地上で作り出したとしたら、「彼を園の管理人と思」うとき、いかなる豊麗と栄光がもたらされるに違いないことか! むろん、私たちが「彼」と云っているのがどなたであるかは分かるであろう。永遠にほむべき神の御子、本日の聖句でマグダラのマリヤが園の管理人と間違えたお方である。今回に限り私たちは、ひとりの聖徒の間違いにならって進むことにするが、それでも正しい道に至ることに気づくはずである。彼女は、「彼を園の管理人だと思っ」たとき間違ってはいたが、主の御霊の教えのもとにある場合、私たちが間違いを犯すことはないであろう。そこで私たちは、いま静かな黙想の中で、私たちの永遠にほむべき主を「園の管理人だと思って」みたいと思う。

 これは確かに不自然な想定ではない。というのも、もし私たちが本当に、

   「われらは囲まる 庭園(にわ)にして
    選ばれ、御神の 土地とぞなる」

と歌えるとしたら、この囲い地には管理人が必要だからである。私たちはみな、主の右の手が植えた植物[詩80:15]ではないだろうか? 私たちはみな、主の絶えざる、恵み深い心遣いによって水を注がれ、世話を受ける必要があるではないだろうか? 主は云われる。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」[ヨハ15:1]。これは1つの見方である。だが、私たちはこのようにも歌ってよい。「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え……た」[イザ5:1-2]。――すなわち、彼は果樹園の管理人としての務めを果たしていたのである。このようにしてイザヤは、《愛する者》とその葡萄畑の歌を歌うように教えている。また私たちは、たった今、この言葉によって私たちの主について読んだばかりである。――「園の中に住む者よ、わたしの友だちはあなたの声に耳を傾けます」[雅8:13 <口語訳>]。主が葡萄園の中に住む目的は、葡萄の木々が生き生きと生長しているかどうか目を配り、他のあらゆる植物の世話をするためでなくて何であろう? 私は云う。このたとえは、不自然なものであるどころか、この上もなく示唆に富み、有益な教えに満ちたものにほかならない。私たちは、「彼を園の管理人だと思」うとき、自然の調和に逆らってはいないのである。

 この比喩は非聖書的なものでもない。私たちの主は、そのたとえ話の1つで、ご自分のことを葡萄園の番人にしておられるからである。今しがた私たちは、この大きな警告に満ちたたとえ話を読んだ。「ある人」がやって来て、いちじくの木を見たが何の実も生っていなかった。そこで彼は自分の葡萄園の番人に云った。「これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか」。その役立たずの木と斧との間に身を呈して立ちはだかったのは、私たちの大いなる《とりなし手》また《仲裁人》なる主でなくて誰であったろう。主こそは、絶えず進み出てはこう云ってくださるお方である。「どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから」[ルカ13:6-9]。この場合、主ご自身が、ご自分を葡萄園の番人の役割につけておられる。それで私たちは、「彼を園の管理人だと思って」も間違いではない。

 予型による裏づけを得たければ、私たちの主は「第二のアダム」という名を取られたが、最初のアダムは園の管理人であった。モーセが私たちに告げるところ、主なる神は人をエデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた[創2:15]。人は、その最上の状態にあったとき、この世界において、決して楽園の中でのらくらと贅沢に暮らすのではなく、ある園に置かれた代わりに、骨を折って働くべきであった。見よ。教会はキリストのエデンである。いのちの川で潤され、肥沃にされ、あらゆる種類の実が神のために結ばれる所である。そして主は――私たちの第二のアダムは――この霊的エデンの中を歩き回っては、それを耕し、それを守っておられる。こういうわけで、予型によっても私たちは、「彼を園の管理人だと思って」間違いないことが分かる。また、ソロモンも主のことを同じように考えていた。彼は、かの高貴な《花婿》を、自分の花嫁とともに園へと下って行く者として描き出している。そこでは地に花が咲き乱れ、いちじくの木は実を生らせていた。彼は自分の愛する者とともに園の禁猟地に出て行きながら、こう云っている。「『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や子狐を捕えておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから」[雅2:15]。自然も、聖書も、予型も、歌も、決して私たちのあがむべき主イエス・キリストを、ご自分の教会の花々や果実の世話をなさるお方として考えることを私たちに禁じてはいない。私たちは、主について「彼を園の管理人だと思って」も間違いではないのである。それで、私は腰を落ちつけて、このように示唆された考えに沿って思いを巡らしてみた。そして、今からそれをあなたに聞かせたいと思う。あなたの心にも多くの黙想の路を開くことができればよいと思う。このような主題については何もかも網羅して考えようとしない方が良いであろう。むしろ、尊い黄金の鉱脈を見いだすべきいくつかの方角を指し示すのが良かろう。

 I. 「彼を園の管理人だと思」うとき、ここには、主の教会という庭園に見られる《多くの不思議を解き明かす鍵》がある。

 第一の不思議は、そもそもこの世に教会などというものがあるということである。この不毛の荒地の真中に花咲き誇る庭園があるということである。火打石のような非常に堅い岩盤の上に、主はその教会というエデンを作り、成長させておられる。いかにしてこのようなものが生じたのだろうか?――この死の砂漠に、いのちに満ちた肥沃地があるのである。不信仰の最中に、いかにして信仰が生じたのだろうか? 卑屈な恐れだらけの地に、いかにして希望が生じ、憎悪のはびこる地に、いかにして愛が生じたのだろうか? 「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして全世界は悪い者の支配下にあるのです」*[Iヨハ4:4; 5:19]。他の何もかもが悪魔にがっしりつかまれているというのに、なぜこの「神から出た者」たちがいるのだろうか? いかにして神の民などというものが生じたのだろうか? いかにして彼らは他から切り離され、きよめられ、聖別され、御名のために実を結ぶべく定められたのだろうか? それが人にまかされていたとしたら、決してそのようなことは全くありえなかったに違いない。私たちは、「彼を園の管理人だと思って」初めてその存在を理解できるが、他の何によっても説明がつかない。主は茨の代わりに樅の木をすくすくと生えさせ、おどろの代わりに月桂樹を生やすことがおできになる。だが、他の何者もそうした変化を成し遂げることはできない。私が座っていた庭園は、むき出しの岩盤の上にあった。その花壇の中にある土のほぼすべては、眼下の岸辺から、たいへんな労働によって運び上げられたものであった。それで、岩の上に土壌が作り出されたのである。その庭園は、ひとりでにそうした場所に存在するようになったのではない。巧みなわざと人手によって造り上げられたのである。それと全く同じように、神の教会は主イエスによって造園された。主こそこの庭園の創始者であり完成者でもあられる。痛み苦しみながら、傷ついた両手で主は、それぞれの花壇を造り、1つ1つの苗床を整え、一本一本の植物を植えられた。すべての花々は、主の流した血の汗によって潤されなくてはならなかった。主の涙する目によって見守られなくてはならなかった。主の御手の釘跡と、み脇腹の傷跡は、主が新しいパラダイスを作るために払われた代償のしるしであった。主は、その庭園内のあらゆる植物のいのちのために、ご自分のいのちを投げ出された。そこにある草花は、そのすべてが、「彼を園の管理人だと思って」初めて説明がつくものである。

 さらに別の不思議もある。神の教会は、このような気候のもとで、いかにして生き生きと成長していられるのだろうか? 今の悪の世界[ガラ1:4]は、恵みの成長にとって非常に相性が悪いものであり、教会は自分だけでは、自らを取り巻く悪の影響力に抵抗することができない。教会は自分の内側に、放っておかれれば自らの不調と破滅を引き起こしがちな要素を含んでいる。その庭園の土の中には、もつれあうあらゆる雑草の萌芽が存在している。キリストが地上で有しておられる最上の教会も、神の御霊から見捨てられれば、ほんの数年のうちに、真理から離れ去るであろう。世は決して教会を助けない。徹底的に教会に敵対している。この世の大気にも土にも、これっぽっちも教会の肥やしとなりえるものはない。ならば、こうしたすべてにもかかわらず、いかにして教会は神にとって麗しい庭園となり、その苗床の中に甘やかな香辛料が育ち、その遊歩道回りの花壇から御手によって美しい花々が摘み取られるようなことがあるのだろうか? 教会が存続し、生き生きと成長し続けていることは、「彼を園の管理人だと思」わない限り説明がつかない。全能の力が、人間たちの間に聖なる場所を維持するという、他のしかたでは不可能な働きに込められているのである。全能の知恵が、他のしかたでは打ち勝ちがたい困難の上で働いているのである。主のことばを聞いて、ここから下界にある主の教会が成長している理由を学びとるがいい。「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」[イザ27:3]。それこそ、不敬虔で曲がった世代の最中にあって、なおも霊的な人々が存在していられる理由である。これこそ、周囲の悪徳と世俗性と不信仰のただ中に恵みの選び[ロマ11:5]がある理由である。「彼を園の管理人だと思って」私は、罪の荒野の真中においてさえ、実りと、美しさと、甘やかさがある理由を悟るのである。

 別の謎も、こう思うことによって解決される。その不思議とは、そもそもあなたや私が主の植物の間に植えられたということである。なぜ私たちが、主の恵みの庭園の中で育つことを許されているのだろうか? なぜ私なのですか? 主よ。なぜ私なのですか? いかにして私たちはそこで保たれ、これほど不毛な者でありながらも我慢されているのだろうか? とうの昔に主は、「これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか」、と仰せになって良かったはずである。他の誰が私たちのようなわがままさに我慢しようとするだろうか? 誰がそのような無限の忍耐を表わすことができただろうか? 誰がこれほどの心遣いをもって私たちの面倒を見ることができただろうか? しかも、その心遣いが、これほど報われること僅かだというのに、誰がそれを日々新たに注ぎ、限りない愛の意図を貫き通そうなどとしただろうか? 誰が、自分の葡萄畑にこれ以上のことを行なえただろうか? 誰が、これほどのことを行なえただろうか? 行なおうとしただろうか? ただの人間であれば、私たちの恩知らずさに腹を立てて、愛想を尽かしていたであろう。神のほか何者も、私たちの中のある者らを忍耐などできなかったであろう! 私たちがとうの昔に実を結ばない葡萄の枝として取り去られなかったこと、なおも幹にくっついたまま保たれていること、最後には実を結ぶようになるだろうと望みをかけられていることは、非常に驚嘆すべきことである。私たちが見逃されてきた根拠として、私に分かっている唯一のこと、それは、――「彼を園の管理人だと思」うことである。というのも、イエスは優しさと恵みに満ちており、その剪定刀を振るうことが非常に遅く、その斧を用いることを非常にしぶり、非常に希望的で、私たちが1つか2つ蕾を見せれば、あるいは、ことによると酸い実を1つつけただけで、――私は云う。非常な希望をいだいて、それが次第により良い何かとなる幸先の良さだと思ってくださるからである。無限の忍耐よ! 測り知れない寛容よ! かの《愛する者》の胸中を除いて、どこにお前たちを見いだせようか? 確かに私たちの中の多くの者らが鍬で除草されずにすんできた理由はただ1つ、かの心優しく、へりくだっているお方[マタ11:29]が管理人であられる、ということでしかないに違いない。

 愛する方々。この教会について私がしばしば神に感謝せざるをえなかった1つのあわれみがある。すなわち、悪がこれほど長い間閉め出されてきたことである。私たちが牧師と信徒として生活をともにしてきた長い期間のあいだ――それは今ではほぼ二十九年になるが――、私たちは、途切れることなく生き生きと成長し、主の働きにおいて力から力へと進む[詩84:7]ことができてきた。悲しいかな! 私たちは、この教会と同じくらい有望であった他の多くの教会が、不和のために分裂し、堕落のために失墜し、異端の教えのために転覆されるのを見てきた。私は、彼らの過誤を辛辣に裁きがちではなかったものと思いたい。だが私たちは、彼らを打ちのめしてきた種々の悪から免れてきたことについて感謝しなくてはならない。いかに私たちが愛によって心を1つにされ、多くの労をとるべく助けられ、信仰を堅く守ることができてきたことか。それは特別な恵みが私たちを見守っていたからとしか思えない。私たちは過ちに満ちている。誇るべきものは何もない。だがしかし、いかなる教会もこれほど天来の恩顧を受けてはいないのである。不思議なのは、この祝福がこれほど長く続いたことであり、唯一私にとって納得がいく説明は、「彼を園の管理人だと思」うことである。私は、私たちの幸福を牧師のせいにすることはできない。私の愛する友たる長老たちや執事たちのためとさえできないし、あなたがたの中の最善の人々の熱心な愛や聖なる熱心のためとさえすることはできない。それは、イエスが園の管理人であられたからに違いないと思う。主は、もしかすると私が開け放しにしていたかもしれない門を閉めてくださった。森の猪が、弱い草花を根こぎにしようとして入り込んだまさにそのとき、主はそれを追い払われた。主は、うろつく盗人どもを寄せつけないために、夜も見回っていたに違いなく、真昼の炎熱の中でもここにおられ、あなたがたの中にいる、世間的な財において繁栄している人々を、あまりにもぎらつく太陽の輝きから守っておられたに違いない。しかり。主は私たちとともにおられた。主の御名はほむべきかな! こういうわけで、ここには平和と、一致と、熱情がふんだんにあるのである。願わくは私たちが決して主を嘆かせ、私たちから目を背けさせるようなことがないように。むしろ、主に向かって、こう嘆願しようではないか。「私たちとともにいてください。園の中に住む者よ[雅8:13]。ここを、あなたが快くお住まいになる庭園の1つとしてください。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまで[雅2:17]」。このように、私たちの想定は多くの不思議を解き明かす鍵なのである。

 II. あなたの想像力を、私の想像に沿って走らせてほしい。私は云う。「彼を園の管理人だと思って」、私たちは《多くの義務へと駆り立てられる》べきである。

 キリスト者の義務の1つは喜びである。ほむべきキリスト教信仰は、その数ある戒めの中で、人々に幸福になることを命じている。喜びが義務となるとき、誰がそれをないがしろにしようなどと思うだろうか? 確かに、イエスが園の管理人であると花々が囁き交わしているときには、いかに小さな植物も、陽光を深々と吸収することが助けられるに違いない。「おゝ」、とあなたは云うであろう。「私は、これほど小さな植物なのです。私は育ちがよくありません。葉っぱもたいして伸ばせませんし、私の回りの花々ほど多くの花もつけていません!」 あなたが自分のことを軽視するのは全く正しい。ことによると、あなたの頭を垂れることが、あなたの美しさの一部かもしれない。多くの花々は、その頭を垂れるというわざを実践していなかったとしたら、その半分も麗しくなかったであろう。しかし、「主を園の管理人であると思」うとき、主はその地所全体の中で最も貫禄のある椰子の木の管理人であるのと同じくらい、あなたの管理人でもあられるのである。私の目の前にあるマントンの庭園には、橙や蘆薈その他の、人目を引く見事な植物が育っていた。だが、私の左手の壁には、平凡な匂い紫羅欄花や、雪の下や、わが国の岩地でよく見かける小さな草の葉が生えていた。さて、園の管理人はこうしたすべての世話をしていた。大きなものも小さなものも。実際、そこでは、何百もの、ごくごく取るに足らない下生えの見本がしかるべく分類され、名称が記されていた。いかにちっぽけな雪の下もこう云うことができたであろう。「彼はグロワール・ド・ディジョン[蔓薔薇の名品種]やマーシャル・ニール[同左]の管理人であるのと同じくらい、私の管理人なのだ」。おゝ、神のか弱い子どもたち。主はあなたの世話をしておられる! あなたの天におられる御父は、鳥を養い[ルカ12:24]、雀の群れを導いておられる。あなたのことは、いやまして手厚く世話してくださるはずではないだろうか。あゝ、信仰の薄い人たち。おゝ、小さな植物たち。あなたは十分に正常に育っている。ことによると、あなたは、今は上に向かうよりも下に向かって伸びつつあるかもしれない。思い出すがいい。ある種の植物は、地表の外側の部分よりも、地中の根の方が尊ばれるのである。ことによると、あなたは、それほど早く生長してはいないかもしれない。あなたは、生来ゆっくりとしか育たない潅木なのかもしれない。そして、もしあなたが大木になるようなことがあるとしたら、それは不健康なことであろう。いずれにせよ、このことをあなたの喜びとするがいい。あなたは、主の庭園の中にあるのである。そして、「彼を園の管理人だと思」うとき、主はあなたを最も良い方向に生かしてくださるであろう。あなたがそれ以上にすぐれた世話を受けることはありえない。

 もう1つの義務は、主の臨在を尊び、それを求めて祈ることである。私たちは、安息日の朝が明けるたびに、私たちの《愛する者》に向かって祈るべきである。ご自分の庭園に来て、ご自分の美味な果実を食してくださるようにと。主を抜きにして私たちに何ができるだろうか? 一日中私たちの叫びは主に立ち上るべきである。「おゝ、主よ。あなたの葡萄の木を、またあなたの右の手が植えた葡萄畑をご覧になり、訪れてください」。私たちは、主を相手に苦闘すべきである。主が私たちのもとにやって来て、世には現わさないようなしかたで[ヨハ14:22]、ご自分を私たちに現わしてくださるようにと。というのも、管理人が全く寄りつきもしないとしたら、それはいかなる庭園となるだろうか? その園の持ち主が全く手鋤を取り上げもせず、高枝切りを振るいもしないとしたら、それと荒野に何の違いがあるだろうか? それゆえ、「彼を園の管理人だと思」うとき、キリストにともにいていただくことが私たちには必要なのである。また、私たちの苗床や遊歩道回りの花壇の間をキリストが歩き、あらゆる植物に目を配り、すべての枝を整え、すべてを栽培し、すべてを成熟してくださることは、私たちの至福なのである。「彼を園の管理人だと思」うとき、それは良いことである。というのも、主の手によって私たちの実は見いだされるからである。主から切り離されているとき、私たちは無である。ただ主に見守られているときにのみ、私たちは実を結ぶことができる。人に信頼することはやめにしよう。型にはまった慣習や、わめき声や、儀式尊重主義や、騒々しいふるまいによって主の霊的臨在という事実を埋め合わせようとする試みはみな捨て去ろう。むしろ、祈ろうではないか。私たちの主が常に私たちとともにいてくださり、その臨在によって私たちの庭園を成長させてくださることを。

 「彼を園の管理人だと思」うとき、もう1つの義務がある。すなわち、私たちはみなひとりひとり、自分を完全に主に明け渡そうではないか。植物は、自分がいかなる扱いを受けるべき分かっていない。自分にいつ水が注がれるべきか、いつ乾かされておくべきかを知らない。果樹は自分がいつ余分の枝をおろされるべきか、いつ回りを掘られ、肥やしをやられるべきかについて、まるで分かっていない。園芸の極意は花々や灌木にではなく、その管理人に存している。ならば、もし今日ここであなたや私が自分について何らかの我意や肉的判断を有しているとしたら、それをことごとく打ち捨て、自分を絶対的に私たちの主の自由にまかせようではないか。あなたは、ただの人間の手に自分を盲目的にまかせることはいさぎよしとしないかもしれない(そうするような人は哀れな者である)。だが確かに、主の右の手の植えた植物であるあなたは、何の疑問もなく自分を主の愛する御手にゆだねて良いであろう。「彼を園の管理人だと思」うとき、あなたはこう云える。「私はいかなる意志も、意欲も、分別も、気まぐれも持つことなく、むしろ園の管理人の手におとなしく自分をゆだねましょう。そして彼に私の知恵、私のすべてとなっていただきましょう。さあ、いつくしみ深い管理人よ。あなたのあわれな植物は、あなたの御手の前に頭を垂れます。み思いのままに私を刈り整えてください」、と。嘘ではない。幸福は、神のみこころに完全に黙従する精神の隣に宿っており、そうした完璧な黙従を発揮することは、私たちが主イエスを園の管理人と思うとき、容易になるであろう。もし主が何かをなさったなら、聖徒は何と云うべきだろうか? おゝ、苦しめられている人よ。主がそれをなさったのである。あなたは、それ以外のことを願うのだろうか? 否。あなたは、まさにそのようになったことについて感謝していないだろうか? それが、あなたのいのちを掌中にし、あなたの道のすべてを握っておられるお方の意志だからである。服従の義務は、「彼を園の管理人だと思」うとき、ごく当然のこととなる。

 もう1つの義務に私は言及したい。他にいくつも思いつくことはできるが、「彼を園の管理人だと思って」いるとしたら、私たちは主のために実を結ぼうではないか。私は今朝、神に仕えようが仕えまいが全くどうでもいいと感じているような人々に語りかけようとは思わない。あなたがたの中のほとんどの人々は、神の栄光を現わすことを願っているであろう。恵みによって救われたあなたは、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の素晴らしいみわざを宣べ伝えたい[Iペテ2:9]という聖なる大望を感じているからである。あなたが他の人々をキリストに導きたいと願っているのは、あなた自身、主にあるいのちと自由に至らされているからである。さて、イエスが園の管理人であられることを、あなたが実を結ぶための1つの刺激とするがいい。今まであなたが一房しか実らせていなかったとしたら、「彼を園の管理人だと思って」、千房も実らせるがいい! もし主が誉れを得ることになるとしたら、主の令名を大いに高めるようなことを行なうよう精を出すがいい。私たちの霊的状態が私たち自身の、あるいは私たちの教役者の、あるいは私たちの同胞キリスト者の誰彼のおかげだとしたら、私たちは、自分が実を結ぶべき非常に大きな必要があるとは感じなかったかもしれない。だが、もしイエスが園の管理人であられ、私たちが生じさせるものの責めも誉れも負うべきお方であるとしたら、あらゆる樹液を一滴残らず使い尽くし、あらゆる繊維を目一杯働かせて、私たちの人間性に可能な限り、私たちの主の激しい苦しみ[イザ53:11]に対して麗しく報いようではないか。このような指導と薫陶の下にあるとしたら、私たちは卓越した学者となるべきである。キリストは私たちを訓練しておられるだろうか? おゝ、私たちは決して世に私たちの《師》を見下させないようにしよう。学生は、母校のためとあらば大いに努力すべきであると感じる。それで、自分の大学の名を高めるように努力するのである。それと同じく、イエスが私たちにとって指導教官であり大学であられる以上、私たちには、これほど大いなる教師、これほど神聖な御名の名誉を高める義務がある。どう云い表わせば良いかわからないが、確かに私たちはこのような主にふさわしい何かを行なうべきである。主の庭園に咲くあらゆる小花は、イエスから世話を受けている以上、自らの最も鮮やかな色合いを帯び、自らの最もかぐわしい香りを放つべきである。私たちの御父の庭園にあるあらゆる植物は、可能な限り、最も素晴らしいものを生じさせるべきである。「彼を園の管理人だと思って」。

 さて、ここまでの所は、この2つの点についてであった。――多くの不思議を解き明かす鍵と、多くの義務へ駆り立てる拍車である。

 III. 第三に私がこの想定の中に見いだすのは、《押しつぶされんばかりの責任からの解放》である。人は、なすべき働きを神から与えられており、まともに行なおうとしたら、それをぞんざいにすることはできない。目覚めたとき第一に問うことは、「あの働きはどのくらい進んでいるだろうか?」、であり、夜に最後に考えるのは、「自分の召しを果たすため私には何ができるだろうか?」、である。時として、そうした懸念はその人の夢をも悩まし、その人は、「おゝ、主よ。今こそ生き生きと成長させてください!」、とため息をつく。私たちが面倒を見るよう託されている庭園は、よく育っているだろうか? 私たちは、すくすく育っているように見えるものが全く見当たらないからといって、悲嘆に暮れているだろうか? 季節が悪いのだろうか? それとも、土が痩せていて、不毛なのだろうか? 「彼を園の管理人だと思」う習慣を身につけることができた場合、それは非常に幸いなことに過度の心労を軽くするものとなる。もしイエスがあらゆる事がらにおいて《主人》であり主であられるとしたら、全教会を秩序正しくしておくことは私の務めではない。私は、あらゆるキリスト者の成長について、あるいは、あらゆる信仰後退者の過ちについて、あるいは、あらゆる信仰告白者の誤った生き方について責任はない。そのような重荷を負うとしたら、私はそれによって押しつぶされてしまうに違いない。「彼を園の管理人だと思」うとき、教会は私などよりもすぐれた監督を受けるであろう。その庭園が受ける世話は、いかに警戒を怠らない見張り番に行なえる世話よりもすぐれている。夜は霜が、昼は炎熱が襲いかかっても関係ない。「彼を園の管理人だと思」うとき、長期的にすべてはうまく行くに違いない。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない[詩121:4]。私たちは苛立つことも、意気消沈することも必要ない。私はあなたに願いたい。失意に陥りつつある、熱心な働き人たち。このことを、よく考えてみてほしい。あなたは、主イエスのもとで働くことが自分の務めだと悟っている。だが、まるであなたが主の重荷を背負い込まなくてはらないかのように、主の職務の心配事をあなたの魂の内側にかかえこむことは、あなたの務めではない。庭園で下働きをしている園丁は、その庭園全体が自分にまかされているかのように気をもむ必要はない。否、否。あまりも多くを自分で背負い込んではならない。ぜひともあなたの懸念を事実で制限してほしい。あなたの回りには、何人かの青年たちがいて、あなたは神に弁明する者として、彼らの魂のために見張りをしている[ヘブ13:17]。それは良いことである。だが、心痛のあまりやつれたり、へとへとになったりしてはならない。というのも、結局彼らの魂を救うのも守るのも、あなたの手の中にはなく、あなたよりもはるかに有能な《お方》次第だからである。主が園の管理人であることだけを考えるがいい。私は、それが摂理という問題にあてはまることを知っている。ある聖職者が、騒然たる時代の中で、自分の義務を全く果たせなくなってしまった。時代に伴う困難の多くを心にかかえこみすぎてしまったからである。その人は抑鬱し、神経が衰弱してしまい、外国へ行こうとして船に乗り込んだ。自国はもはや彼が耐えられるような状況ではなくなっていた。そのときある人が彼に向かってこう云った。「ホワイトロック先生。あなたは世界の管理者なのですか?」 否。彼は全くそのような者ではなかった。「神は、あなたが生まれる前も世界を全く手際よく運行させていたではありませんか? また、神はあなたが死んでからも、それを全く苦労なくお取り扱いになるのではありませんか?」 こうした意見に助けられて、この善良な人の精神は解放された。そして彼は、自分の義務を行なうために取って返した。このように、あなたも自分の責任の限界に気づいてほしい。あなた自身が園の管理人なのではない。あなたは、園の管理人の小僧のひとりであって、使い走りをしたり、そこらを掘ったり、通り道を掃いたりする者でしかない。この庭園は、あなたが主任管理者でなくとも、十分によく管理されているのである。

 それは、私たちの懸念を軽減する一方で、キリストのための労働を非常に甘やかなものとする。なぜなら、たといその庭園が私たちの労苦に報いてくれないとしても、私たちは自分に向かって云うであろう。「結局、これは私の庭園ではないのだ。『主を園の管理人だと思って』、私は不毛の岩盤の上でも全く喜んで働こう。枯れた古枝を縄でくくろう。役に立たない土地を掘り返そう。たといそれがイエスしか喜ばせないとしても、その唯一の理由によって、この働きほど有益なものはないのだ。私の務めは、自分の任務が賢明なものかどうかを議論することではなく、私の《主人》であり主であるお方の御名において、それに取りかかることだ。『主を園の管理人だと思』えば、私からは巨大な責任が取り除かれ、私の働きは快く喜ばしいものとなる」。

 人々の魂を扱う際に、私たちはひどく困難を覚える場合がある。ある人々はあまりにも臆病で恐れているため、どう慰めてよいか途方に暮れてしまう。別の人々は、あまりにも自信満々の増上慢で、どう助けてよいかほとんど見当もつかない。ある人々は裏表がありすぎて理解に苦しみ、他の人々は移り気すぎて押さえておくことができない。ある花々は、普通の園丁を困惑させる。私たちが出会う植物の中には、とげだらけのものがあり、その枝を刈り整えようとすると、それを助けようとする者の手を傷つける。あなたがこうした奇妙な生育物の管理人だったとしたら、非常なへまをすることになるであろう。だが、「彼を園の管理人だと思」うとき、あなたは幸福にも絶えず主のもとに行き、こう云うことができるのである。「いつくしみ深い主よ。私はこの奇妙な生き物が理解できません。これは私と同じくらい風変わりな植物です。おゝ、あなたがそれを管理してください。あるいは、どのようにすべきか教えてください。私はそれを告げにあなたのもとに来たのです」。

 また、私たちがしきりに感じてやまない困難は、面倒を見るべき植物が多すぎて、1つ1つを最善のしかたで栽培する時間がとれないということである。なぜなら私たちには、同時に注意を払う必要のあることが五十以上もあるからである。それで私たちは、如雨露を使い終えないうちに、長柄の鍬と、熊手と、手鋤を取り上げなくてはならず、次から次へと気を配らなくてはならないことがあるため目が回ってしまう。パウロがこう云ったときと全く同じである。「日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります」[IIコリ11:28]。あゝ、ならば、これはほむべきことである。私たちは、自分にできる僅かなことを行ない、残りは、「彼を園の管理人だと思って」、イエスにおゆだねすれば良いのである。

 また、神の教会の中には、戒規を執行できないときがある。戒規を執行することは、戒規を執行すべきだと感じるのに執行できないことにくらべれば半分も困難ではないと思う。あの家の主人のしもべたちは、毒麦を抜き集めてはならないと云われて困惑した。「ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう?」 「敵のやったことです」。「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか?」 「いや。麦もいっしょに抜き取るかもしれない」[マタ13:27-29]。キリスト教の教役者も、疫病を生じさせる邪魔な雑草を取り除いてならない場合には悩まされる。しかり。だが、「彼を園の管理人だと思」うとき、また、その雑草を残しておくことが主のみこころであるとき、あなたや私は沈黙する以外に何ができよう? 主は、私たちが行なうよりも格段に確実で安全な戒規を執行なさり、しかるべきときに毒麦はそれを知ることになる。忍耐して辛抱しようではないか。

 それからさらにまた、この庭園の中には、私たちの手に負えない跡継ぎ問題がある。植物は枯れていく。他のものを植え替えなくては、庭はしだいにさびれていくであろう。だが、私たちは、そうした新鮮な花々をどこで見いだすべきかが分からない。私たちは云う。「あの立派な人が死んだら、誰が後を継ぐのだろうか?」 こうした問いを私は聞きすぎて、今ではいささかうんざりさせられるほどである。これこれの人の後に誰が続くだろうか? その人がいなくなり、後継者が必要な時が来るまで待とうではないか。なぜ、ある人がその上着を着ていられるうちから、その上着を売ろうとするのか? 私たちは、この立派な兄弟たちの種族が死滅したときには、彼らの靴の紐を解く値打ちのある者が誰ひとり起こらないだろうと考えがちである。よろしい。愛する方々。云いたいことはいくらでもあるが、今朝の聖句は、「彼を園の管理人だと思って」、であり、そのように考えるとき私はこう期待するものである。すなわち、主は別の植物を取っておいておられ、それをまだあなたは見ていないのである。それらは、様々な役職が空席になったときに、そこにぴったりと当てはまるであろう。そして主は、再臨の日が来るまで、この真の使徒的継承を続けさせてくださるであろう。暗闇と失意に陥るあらゆる時期、心が沈み精神がうなだれるあらゆる時、また、神の教会が一巻の終わりだと思われるそのとき、「彼を園の管理人だと思って」、このことを拠り所としようではないか。そして、今よりも大きなこと、今よりもすぐれたことを見るのを期待しようではないか。私たちは途方に暮れているが、主はこれから明け初めるものを有しておられる。私たちは進退きわまっているが、主は決してそのような羽目には陥らない。それゆえ、おとなしく待っていようではないか、「彼を園の管理人だと思って」。

 IV. 第四に注意してほしいのは、この想定によって示される、《多くの陰鬱な恐れからの解放》である。その庭園をそぞろ歩きしていた私は、ある場所に目がとまった。そこには、通り道の一面に落ち葉と、折れた枝と、石ころが散らばっており、花壇の土は掘り返され、根が完全にむき出しになっていた。何もかもが取り散らかされていた。犬が面白がって気晴らしをしたのだろうか? それとも、悪戯小僧が悪さをしたのだろうか? だとしたら、それは非常に残念なことであった。しかし、否。一二分のうちに私は、園の管理人が戻ってくるのを見た。そして、彼がこうしたすべての混乱を作り出していたことを察知した。彼が切り取り、掘り起こし、刈り落とし、散らかしていたのである。そして、それはみな庭園を良くするためであった。あなたがたの中のある人々も、最近、大きな刈り込みを受けたかもしれない。あなたの家庭事情は、あなたに望みえたほど麗しい状態にはないかもしれない。教会内でも私たちは、悪い雑草が摘み取られ、不毛の枝が刈り込まれるのを見て、何もかも混乱しているように思えたかもしれない。よろしい。もし主が片付けておられるのだとしたら、陰鬱な恐れは不要である。「彼を園の管理人だと思」うとき、すべては順調である。

 このことについて私の友人と話し合っていたとき、私は彼に云った。――「彼を園の管理人だと思」えば、蛇は散々な目に遭うであろう、と。アダムが管理人だと思えば、蛇はもぐり込んで、彼の妻とお喋りをし、そこから害毒が生じるであろう。だが、イエスが管理人だと思うとき、蛇よ、お前は災いだ。お前が敷地の内側に姿を見せるや、三十秒も経たないうちに、お前の頭は打撃を受けるであろう。それで私たちは、自分たちの間に蛇がもぐり込むのを心配しているとしたら、常に祈りによって、悪魔の入り込む余地が全くないようにと願い求めようではないか。なぜなら、主イエス・キリストはすべてを満たし、敵を閉め出されるからである。庭園には蛇以外の生き物も侵入してくる。毛虫や、大量に発生する芋虫、そしてあらゆる種類の害虫が私たちの諸教会をむさぼり食おうとしがちである。いかにして私たちは彼らを入らせずにしておけるだろうか? いかに高い壁も彼らを排除することはできない。考えられる防護は1つしかない。すなわち、「彼を園の管理人だと思」うことである。こういうわけで、こう書かれている。「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――」[マラ3:11]。

 時として私は、この疑問に悩まされることがある。もし苦い根[ヘブ12:15]が芽を出して私たちを悩ましたらどうなるだろうか? 私たちはみな、非常に誤りに陥りがちな者であり、どこかの兄弟が自分の胸中で不和が種の育つのを許すとしたら、ある姉妹の心でもその種が芽を出すかもしれない。そして、彼女からその種が他の姉妹に飛び移り、そこから風で散っては、兄弟姉妹がみな悲嘆と苦悩という実を心の中に結ぶことになるであろう。誰にこれが防げるだろうか? 主がその御霊によって行なうしかない。「彼を園の管理人だと思」えば、主はこの悪を閉め出すことがおできになる。苦悩の種を結ぶ根は、イエスがおられるところではほとんど育たない。主よ。私たちとともにお宿りください。教会として、また信徒としての私たちとともに、また、私たちのうちに、あなたの聖霊によってお住まいください。そして、決して私たちから離れ去らないでください。そうすれば、決して苦い根が芽を出して私たちを悩ますことはないでしょう。

 それから別の恐れもやって来る。神の御霊の生ける水が園を潤しにやって来なかったとしたら、どうなるだろうか? 私たちがそれを流れさせることはできない。御霊は主権者であり、みこころのままに流れるからである。あゝ、だが神の御霊は、「彼を園の管理人だと思」えば、私たちの庭園内におられるはずである。イエスが管理しておられるとき、園が潤されないのではないかと恐れる必要はない。「主は潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぐ」*[イザ44:3]。しかし、もし主の愛という日光がその庭園の上に照らなかったとしたらどうなるだろうか? もしその果実が決して熟さなかったとしたら、もし主にある何の平安も、喜びも生じなかったとしたら? そうしたことは、「彼を園の管理人だと思」えば、ありえない。主の御顔は太陽であり、そのお顔は、聖徒たちを恵みのあらゆる甘やかさのうちに成熟させるのに必要な、健やかにする光箭と、完全にする影響力とを放散しているからである。それで私は、この年末の時、「彼を園の管理人だと思って」、疑いや恐れを振り捨てる。また、あなたがた、教会のことを心にかけている人たちも、同じようにするよう招くものである。キリストの御国の進展に全く差し障りはない。それは主ご自身の手の中にあるからである。主は失敗することも落胆することもない。神のみこころは彼によって成し遂げられる[イザ53:10]。

 V. 第五に、「彼を園の管理人だと思」うとき、ここには、《無頓着な者に対する警告》がある。この大会衆の中にいる多くの人々は教会にとって、庭園にとっての雑草のようなものであろう。彼らは神によって植えられたのではない。彼らは神の養いの下で育っているのではない。神の栄光のために何の実も結んでいない。愛する方々。私はしばしばあなたに迫り、あなたに感銘を与えようとしてきたが、そうすることはできなかった。用心するがいい。というのも、「彼を園の管理人だと思」えば、そのうちに主はあなたに手を伸ばし、あなたはこの言葉の意味を知ることになるからである。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます」[マタ15:13]。どうか用心してほしい。

 私たちの中の他の者らは、実を結ばない葡萄の枝のようである。私たちはしばしばこうした人々に対して厳しく語ってきた。取り違えようのない言葉で、正直な真理を語ってきた。だがしかし、彼らの良心に触れることはなかった。あゝ、だが、「彼を園の管理人だと思」えば、主はこの宣告を成就なさるであろう。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き……ます」[ヨハ15:2]。私たちにできなくとも、主はあなたをつかみ取るであろう。願わくは、この古い一年が完全に死んでしまう前にあなたが心底から神に立ち返り、雑草ではなくえり抜きの花となるように。枯れた棒切れではなく樹液の多い、実を結ぶ葡萄の枝となるように。主がそうしてくださるように。だが、もしこの場にいる誰かが警告を必要としているとしたら、このことをただちに心に銘記するよう願いたい。「彼を園の管理人だと思」うとき、主の目を逃れるすべはない。主の御手から免れることはできない。主は、「ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられ……殻を消えない火で焼き尽くされ」[マタ3:12]るお方であるのと同じく、ご自分の庭園をすみずみまできよめて、無価値なものをことごとく投げ捨てなさるであろう。

 VI. 「彼を園の管理人だと思」うとき、やはり思い起こされるのは、《苦情を口にしている人々に対するとどめの一撃》となるいくつかの考えである。私たちの中には、激しい肉体的苦痛を受けている人々がいる。それはしばしば精神をむしばみ、心をうなだれさせる。他の人々は重い物質的な損失をこうむっている。仕事が全くうまく行かず、むしろ逆に欠乏を、ことによると窮乏をさえ忍ばなくてはならない。あなたは、こうしたすべてについて今にも主に泣き言を云おうとしているだろうか? どうか、そうはしないでほしい。この聖句から思わされることを今朝、あなたの思いの中に取り入れるがいい。主はあなたを鋭く剪定してこられた。あなたの最上の大枝は切り落とされ、あなたは馬鹿にされてでもいるかのように、絶えず短刀で切り苛まれている。しかり。だが、「彼を園の管理人だと思って」、あなたの愛する主がそれらすべてをなしておられるのだと思うがいい。あなたのあらゆる嘆き、あらゆる切り傷、あらゆる深傷、あらゆる災難は主ご自身の御手から出たものなのである。これは物事を一変させないだろうか? 主がそれをなされたのではないだろうか? よろしい。もしそうだとするなら、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]。私の確信するところ、主はご自分の民のいかなる者に対しても間違ったことをなさらない。主の子らは誰ひとり、自分に対する主の鞭打ちが厳しすぎると正当な文句を云うことはできない。また、この葡萄の木のいかなる枝も、自分を刈り込んだ刃先が鋭すぎると真実に云い切ることはできない。しかり。主がなされたことは、なされうる限り最善のことであり、あなたや私が――もしも無限の知恵と愛を有していたとしたら――まさに行なってほしいと願っただろうはずのことである。それゆえ、いちいちつぶやきの思いにふけるのは止めて、「主がこれをなされたのだ」、と云って喜んでいようではないか。

 特に私は、愛する人を喪って苦しんでいる方々に云いたい。私は、今この瞬間に、自分がいかに奇妙な感覚を覚えているか、到底云い表わすことができない。この説教を語る中で私は、ある甘やかな記憶が、ことのほか無惨な出来事によって打ち砕かれたときのことをまざまざと思い起こさせられたのである。十五日ほど前に私は、自分の友人であり秘書でもあるひとりの人と一緒に、その庭園に座っていた。そのときの私たちは完璧に健康で、主のいつくしみ深さを喜んでいた。それから私たちは家に帰ったが、五日もしないうちに私は起き上がることもできないほどの苦痛によって打ちのめされてしまった。それよりも悪いことに――はるかに悪いことに――、私の友人は自分の妻を喪わなくてはならなかった。私たちは、そこに座って神のことばを読み、黙想しながら云い交わしていた。「私たちは何と幸せなのだろう! これほど幸せで良いのだろうか? これは、すぐに終わるのではないだろうか?」 そのときの私は、やがて彼にこう云わなくてはならなくなるなど夢にも思っていなかった。「あゝ、兄弟。君はひどく苦しんでいるね。今の君は、全くうつろな目をしているもの」。しかし、ここに私たちの慰めがある。主がそれをなされたのである。庭園中で最も美しい薔薇がなくなってしまった。誰が取っていったのか? 園の管理人がこの道を来て、摘み取っていったのである。彼がそれを植え、それを見守り、そして今それを取り去ったのである。これほど自然なことがあるだろうか? そのために誰が泣くだろうか? 否。それは誰もが正しいことだと知っている。また、自然の秩序に従えば、彼はやって来て庭園中で最も美しいものを摘み取るはずである。たといあなたが自分の愛する人を喪ったことで激しく悩まされているとしても、「彼を園の管理人と思って」、あなたの嘆きを乾かすがいい。あなたにこれほどの嘆きをもたらした御手に口づけするがいい。愛する兄弟たち。次に主が庭園内のあなたの区画に来られたときには――しかも主は今週中においでになるかもしれない。――、思い出すがいい。主は、ご自分の花を摘み取っておられるにすぎない、と。ならばあなたは、たとい自分にできるとしても、主がそうされるのを妨げようなどと思うだろうか?

 VII. 「彼を園の管理人と思」えば、そこには《希望に満ちた見通し》がある。「彼を園の管理人と思」うとき私は、主がお働きになっておられる庭園の中では、ありうべき限り最高に素晴らしい花々が咲き乱れるのを期待する。いかなる花が干からびることもなく、いかなる木が実を結ばないこともないのを期待する。最も見事で、最も素晴らしい果実が、最も優美な花とともに実っては、この庭園の偉大な《所有者》に日ごとにささげられるのを期待する。この教会においても、それを期待し、そのために祈ろうではないか。おゝ、もし私たちに信仰がありさえすれば、私たちは大いなることを見るであろう。私たちの不信仰こそ、神を制限しているものなのである。キリストがその御霊によってご自分の民の心の中で行なっておられる働きから大いなる事が起こるのを信じようではないか。そうすれば失望させられることはないであろう。

 さらに、愛する方々。「彼を園の管理人だと思」うとき、私たちは、言葉に尽くせないほど尊い神聖な交流を期待できよう。今しばしエデンに立ち返るがいい。アダムがその園の管理人だったとき、何が起こっただろうか? 主なる神は、そよ風の吹くころ園を歩き回っておられた[創3:8]。しかし、「彼を園の管理人だと思」うとき、主なる神は私たちの間に住んでおられ、そのあらゆる御力の栄光において、また、その父なる御心のありったけにおいて、ご自分を現わし、私たちにご自分を知らせておられるのである。それは、私たちが神の満ち満ちた豊かさに全く満たされるためである。これは何という喜びであろう!

 もう1つ思わされることがある。「彼を園の管理人だと思」い、園にやって来ては木々の間を歩き回られる神だと思うとき、私は主がこの庭園全体を取り上げて、ご自分とともに一段と麗しい空の高みへと連れて行かれるのを期待する。というのも、主がよみがえられた以上、主の民も主とともによみがえるに違いないからである。私は、こうした下界の花々すべてが、格段に清浄な天界の大気へと植え替えられるほむべき時を期待する。その花々は、こうした煙や、濃霧や、湿気から脱し、決して太陽が曇ることなく、決して花が枯れることのない場所、決して果実が腐ることのない場所へ行くことになるであろう。おゝ、私たちが、彼方の高みにある神の庭園の香辛料の丘で受けることになる栄光の奇しさよ。「彼を園の管理人だと思」うとき、いかなる庭園を主は天界でお造りになるであろう。また、そこであなたや私はいかに育ち、いかに想像も越えたありさまへと生長を遂げるであろう。「後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」[Iヨハ3:2]。主が私たちの信仰の創始者であり完成者であられる以上[ヘブ12:2]、いかなる完璧さへと主は私たちを導き、いかなる栄光へと私たちを至らせてくださるであろう! おゝ、主の中にある者と認められる[ピリ3:9]ことができれば、どんなに良いことか! 願わくは神が私たちをそうしてくださるように! 「彼を園の管理人だと思」うとき、主の庭園の中にある植物であることは、私たちの望みうる天国のすべてである。

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「彼を園の管理人だと思って」[了]

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