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イエスを捜して

NO. 947

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1870年8月21日、主日朝
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「イエスを捜して」。――ヨハ6:24


 ここでイエスを捜していたと述べられている人々が主を捜していたのは、非常に卑しく利己的な動機からであった。それは、主の語られた恵み深いことばのためでも、主の御手から授かった数々の恩恵について感謝をささげるためでなく、単に、先にパンと魚を食べたので、もう一度そうしたいと思ったからでしかなかった。このように浅ましい動機からは、身を避けようではないか。願わくは、私たちがみな、世俗的な利便のために信仰を告白するという考え方そのものを嫌悪して遠ざかるように。それは、極度に厭うべきものである。下卑た願望によってイエス・キリストを捜す者たち、敬虔によって利益を得ようとする者たちは、最も下等な種類の偽善者である。ユダのように[ヨハ12:6]、彼らは金入れからものをくすねることができる限りは主に従おうとする。そして、あの「滅びの子」[ヨハ17:12]のように、裏切りの報酬として銀貨の二十枚も得られれば、主を売ろうとするのである。そうした者らは知るがいい。このような利益とともに、魂が永遠に失われるということを。

 いま前にしているこの言葉を私が適用したいと思っているのは、本当に、また霊的にイエスを捜す人々である。主をイエスとして――ご自分の民をその罪から救ってくださるお方[マタ1:21]として――捜す人々である。先週の安息日の朝、私は恵みにおける成熟について語ろうと努め、少し先へ進んだ信仰者向けの話をした。そして、私たちには、あらゆる種別の人々に順々に食物の割り当てを与える義務がある以上、今からは、恵みにおいて幼子でしかない人々を取り扱いたいと思う。もしもそうした人々が少しでも幼子となっていればのことだが。私がこれから語りかけたいと思うのは、「自分はすでに見いだしました」、とは云えずとも、熱心に「イエスを捜して」いる人々である。

 I. 第一に注意したいのは、「イエスを捜して」いると述べられた、《この状態の性格》である。その中には、善と悪が入り混じっている。そこには多くの光が見えるが、あまりにも多くの暗闇が見える。それは昼でも夜でもない。ほの暗い薄暮であり、有望ではあるが、雲が垂れ込めている。それは、「光ではなく、目に見える暗黒」*1と呼べるであろう。これは、完全に海でもなければ、確かに陸でもない、あのぬかるんだ場所の1つである。一個の沼沢である。河口の淡海水のように、完全に塩水でもなければ、確実に真水でもない。

 「イエスを捜して」の中には、大きな有望さがある。それは、花で満開だが、まだ実の生っていない巴旦杏の木のようである。そのように、いま捜している者は、いずれにせよ、もはや無関心ではない。もっと眠りたい、もっと手をこまねいていたい、という無頓着な怠け者[箴6:10; 24:33]ではない。冒涜的な図々しさによって、神の怒りを恐れもしない傲然たる反逆者ではない。その人は、もはや啓示を否定してはいない。イエスを捜している以上、《救い主》を信じ、自分がそのお方を必要としていることを信ずる何らかの種類の信仰を――いずれにせよ、理屈ではそう信ずる信仰を――有している。さて、人々が目覚めさせられ、喜んで話を聞こうとしている様子になるとき、それは非常に励まされるしるしである。ある人々を導いて考え込ませることができるとき、私たちは非常にありがたいと思う。というのも、考え深くなることは、罪の確信への途上にあり、罪の確信は、主イエス・キリストを信じる信仰に至る途中にあるからである。私の愛する方々。今あなたがもはや神のことばの訴えに対して耳しいではないことを私は嬉しく思う。あなたの耳が開かれているのは良いことである。また、確かにあなたに聞こえているものは、まだ、何らかの慰めをもたらすにはほど遠いが、これだけは確信するがいい。真理が聞こえるということは、あなたにとって大きな祝福なのである。たといその真理によってあなたが罪に定められるとしても関係ない。私は、あなたが懸念に包まれているのを見て喜んでいる。そして、そこから何かが生じることを希望する。

 あなたの顔は今や正しい方角を向いている。もはやあなたは「イエスを捜して」いるからである。罪深い快楽を捜していたとき、あなたは地獄の穴に面していたが、今あなたの顔は天に向いている。イエスがあなたの探求の的であることを私は嬉しく思う。というのも、嘘ではない。他の何物にも、捜す価値などないからである。罪と地獄からの救いこそ、あなたの魂が願望すべき第一の目的である。懸念に陥らされ、覚醒させられた罪人が種々の儀式の中に安らぎを捜すのは、灰の間でパンを捜すことであろう。あなた自身の義によって救いを得ようと労苦するのは、夢の中で実体を求めることであろう。あなたがイエスを捜していることからして、あなたが正しい道筋にいることは分かる。また、確かにあなたはまだ天国に達してはいないが、舵は正しい方角を向いており、そのことゆえに私は神に感謝し、あなたについて励まされるものを感じる。あなたの現在の状態を私は、来たるべき雨の前兆となる小さな雲とみなすものである。だが、悲しいかな! 私が失望させられることはありえるし、初めの雲が跡形もなく散ってしまうこともありえる。希望は物事についてあれこれ良いことを告げるものだが、間違っていることもありえる。以前は全く祈ることもしていなかった人が、密室で膝をかがめて祈っている姿を見るのは、何と喜ばしい眺めであろう! 読まれもしていなかった聖書が埃を払われ、注意深く学ばれているのを見るのは、何と愉快なことであろう! 思うに、孤独な私室の中でこぼされる新しい涙を見るとき、また、人がぎこちない様子で自分の神の前にひれ伏して懇願しているのを見るときには、御使いも聖なる興味をもって目をこらしているに違いない。かのほむべき霊たちは、このように捜している者がこう云うのを聞くとき嬉しく思うであろう。「おゝ、神よ。私は、あなたを見いだすまで捜します。安かれとのお答えを受けるまで、あなたに叫び求めます」。このような誓いがなされたと知らされるとき、教会は希望をもって喜ぶ。自分の真中に神の新生児が見いだされるべき時が完全にやって来たものと思うからである。もしやキリストを見いだせるかもしれないと、キリストの方に向く心は、明らかに有望な状況にある。

 だが、「イエスを捜して」いる状態には、多くの疑わしい部分がある。というのも、私の兄弟たち。そのようにキリストを捜している者は、福音の偉大な命令に対して不従順なままだからである。もしその人が福音の偉大な戒めに対して従順だったとしたら、その人は即座に捜す者であることをやめ、見いだして幸いを得る者となるであろう。その福音の命令とは何だろうか? 「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。正確に云えば、キリストは捜すべき目標ではない。この方は、私たちの中のいかなる者からも遠く離れてはおられない。モーセによって掲げ上げられた青銅の蛇のように、主は見つけようとされるよりは、見つめられるべきである。私たちは、天に攀じ登って、その《神性》の高みにある主を見いだして引き下ろす必要もなければ、ハデスの奥の間へと潜り込み、再び死者の中から主を引き上げる必要もない。主はこう仰せになる。「『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」[ロマ10:8-9]。イエスは、インマヌエルであられる。私たちとともにおられる神である[マタ1:23]。一言祈るだけで主に届き、ひとたび願うだけで主は見いだされ、呻きの声1つで主の心は揺さぶられるであろう。――心を主に打ち明けさえすれば、主はあなたのものである。咎ある罪人に対する福音の第一の命令は祈ることでも、聖書を調べることでも、説教を聞きに来ることでもない。――これらはみな自然な義務であり、そのいずれをないがしろにする者も災いである。だが、この命令、福音の特別な命令は、「主イエス・キリストを信じなさい」、である! さて、捜している罪人はこの命令に対して不従順である。その人は、あちこち捜し回ってはいるが、信頼することは拒否する。家内にあるものを、戸外で熱心に捜している。自分の近くにある平安を求めて遠くを捜している。不思議を見つめようと東を西を眺めているが、その間、かの《不思議》なるお方、《救い主》がその人の右手に立っていて、いつなりとも赦そうとしておられるのである。罪人としての私にとって救いの道とは、単純にこうである。罪人である私が今、罪人たちの身代わりなるキリスト・イエスに私の信頼を置くことである。神は、十字架につけられた、ご自分の御子を、罪のための、受け入れられたなだめの供え物として公にお示しになった[ロマ3:25]。救いの道は、私がこの方を、神がお示しになった通りのお方として、すなわち、私の罪のための贖罪として受け入れることである。この方に私は自分の全幅の信頼を置く。この方が神である以上、また、この方がご自分の上に人の性質を取られた以上、また、仲保者としてこの方がご自分に信頼するすべての者に成り代わって苦しまれた以上、私はこの方に信頼する。そして、そのことによって、この方の苦しみのほむべき成果を獲得する。――事実、そのことによって私は救われる。さて、確かに捜す者であることはある程度まで良いことだが、もし私が自分の捜すことに従い、神の救いの道を拒否するとしたら、悪いことでもある。使徒ヨハネが何と云っているか聞くがいい。「神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです」[Iヨハ5:10]。この罪を犯すのは決して小さなことではないし、決して軽い罰で済むことではない。というのも、「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]からである。かりに私が自分の病気のための治療法について聞かされたとしよう。よろしい。私が、自分の命にかかわる病気を治したいと願望するのは、ある程度まで良いことである。私が医者を呼びにやったのは、ある程度まで良いことである。しかし、私の病気に1つの特効薬があること、また、それだけしか私を確実に直すものがないことを聞かされた後でも、――もし私がなおも何らかの治療法を捜し続けているとしたら、あるいは、自分はこの唯一真の治療法を捜しているのだと云うとしたら、私は病んだままであり続け、結局は死ぬであろう。癒されたければ、処方されたものを服用するしかない。それを捜すだけでは十分ではない。現実にそれを服用しなくてはならない。だから、捜すことには善もあるが、おゝ、いかに多くの悪があることであろう! ここには光の微かなほのめきと閃きがあるが、おゝ、いかに濃密な闇があることか! この燈心は多少はくすぶっているが、それを火花と呼ぶことは到底できない。おゝ、イエスを捜している人たち。このことを考えるがいい。というのも、私は、あなたを落胆させたくはないが、それでも、捜すのをやめて、信ずる者となるよう励ましたいからである。救いの杯を眺めるのではなく、それを飲むがいい。泉の縁に立っているのではなく、その中で身を洗いきよめるがいい。おゝ、願わくは、聖霊があなたを導き、あなたが良い真珠[マタ13:45]を捜すのをやめさせてくださるように。というのも、素晴らしい値打ちの真珠[マタ13:46]があなたの前にあるからである。イエスは、一個の秘密として発見されるべきではない。イエスは公然とあなたの前に立っておられる。その御手と御足を見つめるがいい。その裂かれた御脇によくよく注目するがいい。そして、眺める中で、信頼するがいい。そうすれば、これからは主は全くあなたのものとなる。

 愛する方々。あなたの真の立場を聞くがいい。あなたは、戦場で傷つき流血している兵士と同じ状況にある。生気がじわじわとにじみ出しつつあり、戦死しようとしている。だが、この兵士は、それが分かるだけの意識はあり、助けを呼び求めている。その声の届くところに軍医がいて、この負傷兵は何度も何度も救援を求めて叫び、懇願する。そこまでは良い。だが、ぜひとも覚えておいてほしいのは、叫んだり泣いたりすること自体では、この病人は癒されないということである。――医者が現実にやって来て、彼の傷に包帯をしなくてはならない。そして、もし彼が医者を受け入れるのを拒否するなら、いくら叫ぼうと、血を流して死んで行くであろう。そのように、覚えておくがいい。あなたがいかに祈っても、いかに捜しても、それ自体ではあなたを救うことができない。イエスがあなたのもとにやって来なくてはならない。そして、自分の不信仰によってこの方を拒否するのは気違い沙汰である。別のたとえ話をしよう。あなたは今日、古の殺人者のようである。あなたは殺人行為を行なってしまった。復讐が武器を取ってあなたに立ち向かっている。稲妻のように審きがあなたを追いかけている。あなたは今や、愚かしい安逸の中でまどろんでいたり、増上慢に復讐者を平然と無視したりしていない。むしろ、幸いにもあなたははっきり目覚めており、逃れの町へ向かって走りつつある。私は、あなたが熱心に走っていることに目をとめて嬉しく思う。だが、いくら走ってもあなたは町の門の中に入るまで安全ではない。いかに猛々しく走っても、逃れの城壁の内側で走り終えない限り、あなたは救われないであろう。その開かれた門に入ること、その避難所の城壁の内側に住むこと、その逃げ込み場所の特権を享受すること、――それが安全である。他の何物も、難を逃れる希望でしかなく、解放そのものではない。祈ること、説教を聞くこと、願望すること、捜すこと、――これらはみな、道路であり、走ることである。だが、キリストご自身が信仰によってつかまれなくては、私たちは救われない。走るがいい、人よ。だが、おゝ! 神のしかたで走るように気をつけるがいい。イエスを信じる信仰によって走るがいい。あなたの様々な決心や感情を頼りにすることで走ってはならない。あなたは、個人的な信仰によってキリストをあなたのものとしなくてはならない。さもないと、永遠に死ななくてはならないのである。まだもう1つの例えを示させてほしい。あなたは、燃える家の中で眠っている人に似ている。とうとう、あなたは目を覚ました。あなたを喜んで救おうとしている人々の叫び声が、あなたの命にかかわるまどろみを引き裂いた。あなたは、跳ね起きて恐怖した。二階の窓に飛びつくあなたの姿が見える気がする。炎があなたに迫りつつある。明らかにあなたは自分の危険を察知している。助けてくれと激しく叫び求めている。あなたの全精力がかき立てられている。そこまでは結構。だが、人よ。こうしたすべてをもってしても、あなたは救出されないであろう。あなたは、いま窓のところに持ち上げられた避難梯子に飛びつかなくてはならない。あなたは、その唯一無二の脱出路を受け入れたくないのだろうか? それは、あなたの間近にある。それは適切なものである。効果的なものである。なぜ別のものを捜すのか? そこにそれはあり、正確にあなたが必要としているものである。あなたの現在の恐怖は、その脱出路をあなたが押しのけるなら、単に絶望の序曲でしかない。こうしたたとえをあなたの前に示したのは、こう見てとらせるためである。あなたがイエスを捜しているだけでしかない間は、いかにあなたに対して好意的な者も、一点も曇りのない希望をあなたについていだくことはあえてせず、恐れおののいてもいるのだ、と。私たちは、秤がどちらに傾くのかとあやぶんでいる。あなたの未来は、微妙な釣合の上で震えている。一艘の帆船が悪戦苦闘しながら港へ向かっているのを不安げに見つめている者がいる。それは今にも岩礁に激突せんばかりの危険にあるように見える。そのように私たちはあなたを見ている。私たちの目には、あなたがロトとその家族[創19]のように見える。《滅亡の都》を喜んで離れようとしてはいるが、まだ山には行き着いていない。それで私たちは、あなたに関して思い惑う。「この人は低地でためらうだろうか? 後ろを振り向くだろうか? それとも、完全に救い出されるだろうか?」 もしあなたが今のままとどまるとしたら、あなたには何の望みもない。今あなたの中にあると思われている善はみな、あなたをキリストに至らせるのでない限り、それ自体では空しい。この詩句を覚えておくがいい。私が伝えよう。――

   「なぜかく恐るや、弱き罪人、
    なぜかく惑い 沈み怯ゆか?
    吐息も憂きも 汝れを救えじ、
    癒しは汝れが 涙にはなし。
    信仰のみぞ、
    魂(たま)キリストに 愛さすは」。

 II. 私たちの講話の第二の部分で扱いたいのは、《この状態の様々な困惑》である。

 「イエスを捜して」いる心の状態にある、あわれな魂は通常、非常な窮地にある。――ジョン・バニヤンであれば、「思いも転倒して」*2いると云うであろう。というのも、捜す者たちは最初、救いの道を知らないがゆえに、非常にしばしば大いに困惑させられるからである。あまりにもしばしば、目覚めさせられた魂は、福音を聞いたことはあったかもしれなくとも、心の中ではそれを理解していない。多くの求道者は、何が信仰であるかを知らない。私の確信するところ、何百万もの私たちの同国人たちは、イエスを信じるということが何を意味するかを知っていない。安息日ごとに告げられてはいるが、それがどういうことかつかむことができない。神の御霊が彼らの精神に照明を与えておられないからである。イエスを信じるとは、私たちが何度も何度も何度も云うように、単純にイエスに信頼することである。――神のことばを額面通りに受け入れ、キリストを神が仰せになる通りのお方であると――すなわち、贖罪であり、罪のための賠償であり、罪人たちのための《救い主》であると――受け入れることである。しかし、あわれな、悩める良心は、信仰を深い神秘だと考え、壁を手探りする盲人のように動き回る。濃い霧の中を進む旅人のように歩き回り、どの道が家路か分からずにいる。希望はいだいているが、無知ゆえに、それは空頼みでしかない。多くの人々は、救われたいと願望していながら、キリストのみわざを理解することも、贖罪とは何かを知ることもしていない。福音の真髄たる代償の教理は、信仰者たちにとってはごく平明きわまりないものだが、捜している多くの者たちはそれを学んでいない。キリストがご自分の民の罪を負ってくださったこと、「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]こと、キリストが私たちの代わりに罪とされた[IIコリ5:21]こと、正義が当然与えられてしかるべきものをキリストの手から受け取ったこと、こうした尊い事実を、多くの悔悟せる罪人たちはつかんでいない。彼らはなおも、まだまだ多くの悔い改めを積まなくてはならず、まだまだ多くの感情を忍ばなくてはならず、まだまだ多くの祈りを経なくてはならず、まだまだ多くの神秘を経験しなくてはならないと思っている。だが、この平明で単純な戒め、「信じて生きよ」、信頼して受け入れられよ、十字架のかげに身を隠して安全を得よ、――このことを彼らは、無知ゆえに理解していない。そして、これにより彼らは困難の上にも困難に巻き込まれ、ついに彼らの道が茨の垣根で取り囲まれるまでとなる。

 このような折に、やはり彼らの困惑を深めることに、彼らは普通、恐れによって気を散らされる。恐慌状態にある人々は、概して自らの安全にとって、考えうる限り最悪のしかたで行動するものである。そして、目覚めさせられた罪人は、それとほぼ同じような状況にある。すさまじい音響が耳の中に響く。永遠の嵐の音がゴロゴロと聞こえ、暴風が次第に強まって行くのが見える。何をすれば良いかも、どこへ逃れるべきかも分からない。彼のもろもろの罪は、以前ならほんの些細なことに見えたものだが、今や彼の前に暗黒の山脈のように隆起する。神の怒りは、以前なら平然と無視できたものだが、深甚な恐れと身震いを生じさせる。彼は、自分のそむきの罪のどす黒い記録を目にして、来たるべき時を予期する。そのとき、自分の一切の罪は、集められた宇宙の前で読み上げられ、御怒りの宣告が自分に向かって発せられるのだ。どこへ逃れれば良いのか! いかにして、あるいは、いずこへ逃げるべきか、彼にはほとんど見当もつかない。脅えて気もそぞろな霊は、決して賢い霊ではなく、しばしば狂気へと突き動かされる。凶事の予感と良心の脅かしによってはなはだしい圧迫を受け、多くの人々はイエスを信じることを拒否し、われとわが身を手にかける。ならば、罪の感覚と御怒りへの恐れの下にある魂が、平穏で落ち着き払った状態からほど遠いところにあるとしても何の不思議があろうか? むしろ彼らは、嵐の中にある水夫に似て、「酔った人のようによろめき、ふらついて」[詩107:27]いる。彼らの狼狽はいかにすみやかに甘やかな静穏へとおさまることであろう。もしも彼らが天来の指令に従い、この偉大な救いを受け入れようとするなら!

 この命がけの格闘の間、精神は普通、一千もの疑問に責め苛まれる。目覚めさせられたばかりの精神は、非常に往々にして、自らの前に横たわる多くの霊的な問題の中で道に迷いがちである。その人は、以前にはこうした件に全く頓着していなかったが、今や知識を病的なほど渇望している。まるで、いくら多くを、いくら早く学んでも足りないというかのようである。いかに多くの求道者が、十字架に目を向ける代わりに、込み入った教理で気を揉むことか。そうした盛んに論じられる点の分野は、神学というよりは形而上学である! 彼らは、「理解しにくいところ」[IIペテ3:16]に心を奪われ、旅人が、たとい愚か者であっても[イザ35:8 <英欽定訳>]たやすく理解できるような諸真理を忘れる。いかに多くの者が、「私は選民だろうか?」、と自問することか。だが、そうするとき彼らはむしろ、こう問うべきなのである。「どうすれば人は不義からきよめられることができるだろうか?」 むろん彼らはラテン語とギリシヤ語を学ばない限り文字を知ることはできず、選びの教理を探りきわめない限り、イエスの贖いを信じようとはしない。彼らは、御子のもとに行く前に御父のもとに行きたがり、自分の赦罪を知る前に自分の予定を知ろうとする。賢人中の賢人をも困惑させてきたもの、すなわち、いかにすれば神の配剤と人間の自由な意志行為とが合致するのかという点を彼らは解決しようと努力するが、その間、自らは消えることのない火に落ちる危険の中にあるのである。彼らは、地獄の口の近くで哲学者ぶった論議を行ない、破滅の顎の中で論戦する。それがいかに馬鹿げたことか、彼らにも示すことができよう。それは、溺れかけた者が水力学について詰まらぬ議論をしたいと思い、流体静力学の何らかの神秘を理解できるまで、親切に投げられた綱をつかむのを拒否するほど馬鹿げている。あるいは、重病にあえいでいる人が、解剖学を理解し、からだの各部位に影響を及ぼす薬品の秘密を把握するまで、いかなる手術も拒否するのと同じくらい馬鹿げている。だが、一部の求道者たちはこうした愚劣さの中にとどまろうとするのである。だが、人が生まれながらいかに愚かであるかを思い起こせば、それも異とは思えない。霊的な領域を全く踏み行くことをせずにいた人々は、それが自分の眼前に開かれるのを見ると、ごく往々にして、自分の心の高慢さにまかせて、その最高峰の上に立つことを憧れ求めがちである。そのヒマラヤ山脈に登頂し、そのボスポラス海峡を泳ぎ渡り、その大西洋を測りきわめたがる。そして、このことゆえに、その緑の牧場、いこいの水[詩23:2]を忘れてしまう。私は、この場にいる、自分の罪を確信しているあらゆる罪人が今朝、私の言葉に耳を傾けてほしいと思う。愛する方々。あなたは福音の平明な真理を相手にしなくてはならない。――すなわち、このことをである。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」[Iテモ1:15]。――あなたのような罪人をである。そして、信仰があなたをこの《救い主》に結びつけるのである。あなたがこの教訓を学び終えたとき、そのときにこそ、あなたは発見するはずである。神があなたを初めから選んでおられたこと、神があなたを永遠のいのちへと定めておられたことを。だが、まだあなたはその件の謎を解くことはできない。あなたの魂がイエス・キリストを信じる信仰によって救われるまでは、そうした栄光に富む教理のことは放っておくがいい。しかしながら、明らかに、こうした堅い食物への欲望によって、幼子は、混じりけのないみことばの乳から注意をそらされてしまうに違いない。こうした問題は、イエスを捜している者を混乱させ、悩ませ、心配させ、その気を散らすのに役立つ。

 そうした折に、やはり混乱をより複雑なものにすることに、サタンは確実にその魂に襲撃を仕掛けるはずである。その悪魔的なほのめかしや示唆により、強力な誘惑と絶望的な思念とにより、襲いかかるはずである。いかなる王も、喜んで自分の家臣を失おうとはしないし、サタンも、自分のとりこたちが今にも逃亡しそうになっているのを見るとき、彼らの回りに特別な番兵を置く。彼は、他の人々をけしかけて彼らを誘惑させるか、彼自らが直々にやって来ては、どぎつく恐ろしい思念、この上もなく冒涜的な示唆、思い浮かべられる限り何もまして絶望的な凶事の予感を魂に吹き込むであろう。自分でもそうしたことを感じたことのある私は、今そうしたことに悩まされている人々に対して優しく語りたいと思う。それらに驚愕してはならない。また、思い悩んではならない。できるものなら、聖霊の助けによってサタンに立ち向かうがいい。彼はあなたから逃げ去るであろう[ヤコ4:7]。「と書いてある」と云って彼を攻めたてることができれば、彼はあなたから離れて行くであろう[マタ4:4、6、7、11]。だが、今しばらくの間、火矢[エペ6:16]が雨霰と降り注ぐとしても、ひどく驚いてはならない。彼には、あわれな失われた魂めがけて一度に一万発も吐き出すことのできる機関銃があるのであり、その魂を恐怖と混迷によって、ぼろぼろに引き裂かれたかのように感じさせることができるのである。だが、信じるならば彼に対して勝利を収めるであろう。主は、すみやかに、あなたの足でサタンを踏み砕いてくださる[ロマ16:20]。雄々しくあれ! あなたは倒れても、再び起き上がるはずである。信仰は、イエスの御力によってあなたを引き上げるであろう。地獄の犬があなたの耳に向かって吠え立てるとき、あなたの霊が慰めを求めて窮しても不思議ではない。

 また、やはり魂は、イエスを捜しているとき、それと同時に、自分が今でも罪をやめられないことにひどく嘆き悲しむこともありえる。「私の古いもろもろの罪」、と心は云う。「私はそれを取り除きたいと思う。だが、いかにして赦しを希望することなどできようか? きょうのこの日も罪を犯してしまったというのに。私は自分の部屋に行き、膝をかがめてこう云った。『神よ。こんな罪人の私をあわれんでください!』。それから階下に下りてきて、油断せずにいようと決意した。だが、何かに苛立たされると、不用意なことを口走ってしまった。いかにして、神が私などにあわれみをかけてくださると考えられるだろうか?」 あるいは、別の人は云うであろう。「私は今朝は《救い主》を捜していた。だが、仕事に出かけて行くと、世俗的な仲間に出会い、私の主のことを忘れてしまった。残念なことに、私は彼らとひどく親密に入り混じり、彼らの罪深い浮かれ騒ぎにあずかってしまった。では今、いかにして主が私のように偽善的に捜す者を憐れむことがおできになるだろうか?」 まるでそのあわれな心は、赦罪を見いだす前から完璧になれると期待しているかのようである! 患者が、自分の医者の助言に従う前から完全な健康体になれると期待しているかのようである! 話をお聞きの愛する方々。もしあなたが、一日でもあらゆる罪をやめることができるとしたら、あなたは地上では場違いな存在になるに違いない。というのも、天国こそ完璧な人々のためのものであり、この罪深い地上はそうではないからである。もしもある泉が、特定の一日の間、清水のほか何も湧き出させなかったとしたら、私たちはそれが完璧にきよらかな泉であると結論して良いであろう。一夏でも良い果実を生らせた木は、良い木である。もしあなたの心が、ある一日の間中、自力で罪を犯さずにいられたとしたら、別の日にもそうできるであろうし、永遠にそうできるであろう。ならば、《救い主》の必要などどこにあるだろうか? 何と、あなたは知らないのだろうか? キリストがやって来られたのは、あなたの古いそむきの罪からあなたを救うためばかりでなく、あなたのもろもろの新しい罪からもあなたを救うためであったことを。主の御腕は、あなたの日ごとの必要に届かないほど短いのだろうか? 主の血には、あなたの真新しい汚れを洗い流せないほど弱々しい力しかないのだろうか? あなたはまだ、自分で自分を改善しようという希望を少しはいだいているのだろうか? そうした詰まらぬこととは、すっぱり縁を切るがいい。告白するがいい。自分が無力な罪人であることを。咎ある者として生まれ、罪ある者としてみごもられた[詩51:5]ことを。心において堕落しており、それゆえ、あなたの神である主の決して絶えざるあわれみを必要としていることを。さあ、今この血で満ちた泉で身を洗うがいい。そして、もし罪が戻ってくるなら、もう一度あなたの足を洗ってくださるようイエスに願うがいい。イエスをあなたの唯一の頼りとするがいい。イエスに向かって叫ぶがいい。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」[詩51:7]。他の何をもってしても、あなたの困惑を絶つことはできない。あなたは、自分の数々の困難というゴルディオスの結び目*3を解くことはできない。ならば、すべてをイエスにまかせることによって、それを断ち切るがいい。あなたが自分のもろもろの罪に打ち勝つには、《小羊》の血によるしかない。あなたが、本来あってしかるべき自分になるには、また、あなたが望んでいる通りの自分になるには、イエスをあなたのすべてのすべてとして受け取るしかない。ここに、あなたのための歌がある。――

   「ついにわれ知る、汝がためわれを
    この手でととのえ あたわざるを。
    ならば、すべてを 汝れにゆだねん。
    そを為すは汝れにて、汝れひとりなり。

    いかに語らば 恵みは動かん?
    いかな懇請(ことば)も われ打ち捨てん。
    われ罪なるも、汝れは愛なり。
    主よ、われ滅べど、――汝れは死にけり!」

 III. さて今、第三のこととして、あなたに警告したいのは、「イエスを捜して」いる《この状態に伴う種々の危険》についてである。

 すでに告げた通り、あなたの状況には大いに有望なものがあるが、大きな危険もある。いま捜しつつある愛する方々。何と悲しいことであろう。あなたが長々と捜し続けていることによって、これほど多くの時間を無駄に費やし、これほど多くの慰めを失っているとは。そうした一切は、今この時にも、幸いな終わりに至らせることができるのである。そもそもの最初に、あなたがイエスを信じていさえしたなら、あなたは即座に光を得ていたのである。主は、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたはそれを好まなかった![マタ23:37] もしあなたがいま主を信頼しようとするなら、明けの明星があなたの心の中に上る[IIペテ1:19]はずである。あなたは、巨人絶望者の城の中にいた有望者と基督者に似ている。彼らは、二人してともに味わっている憂き身を嘆き悲しみ、役に立たない脱出の方法をあれこれ計画していた。だが、とうとう基督者が半ば驚き呆れた者のように、突然熱情こめて話し出した。「私はまあ何というばかであろう。自由に歩いてもよいのに、このような悪臭の胸をつく土牢に横たわっているとは。私は懐に『約束』という鍵を持っている。これは確かに懐疑城のどんな錠でもあけられるであろう」。すると有望者は云った。「それは吉報です。兄弟よ。懐から取り出して試してごらんなさい」*4。話をお聞きの、目覚めさせられている方々。これが、あなたの状況である。あなたの懐には、そして、神のことばの中には、あなたの牢獄のあらゆる扉をあけられるものがあるのである。立つがいい。人よ。そして、いま試してみるがいい。あなたには信じられないのだろうか? イエスがキリストであり、神がイエスを遣わしてあなたの罪を負わせてくださったことが。あなたはこの方に信頼できないというのだろうか? できさえすれば、あなたは自由になるのである。あなたのもろもろの罪は赦され、あなたは救われるのである。ことによると、あなたは、鷹に追われていた一羽の鳩の話を聞いたことがあるかもしれない。その鳩は、野原を歩いていたひとりの人の懐に飛び込んだのである。そして、あなたも覚えているだろう通り、その鳩は、自分が信頼した人によって安全に守られたのだった。鳩は、他に何もなかったとしたら、そこに飛び込みはしなかっただろうが、鷹という脅威の下にあったがために隠れ場を求めたのだった。あなたは、これまでイエスのことを恐れていた。自分のことなど受け入れてくださらないだろうと思っていた。しかし、地獄があなたの後を追っている今、大胆になり、イエスのもとに飛び込むがいい。私たちの賛美歌が云い表わしているように、こう云うがいい。――

   「行きて死ぬるも われは恐れじ
    すでに決せり われ試さんと
    われ知る もしも 離れおるなら
    われ永遠(とこしえ)に 死ぬほかなければ」。

たといキリストが抜き身の剣を手にして立っておられるとしても、キリストなしに滅びるくらいなら、その剣の切っ先に走り寄る方がましである。おゝ、主のもとに行くがいい。他の何物によってもそうできなければ、ただ絶望にかられるがまま、主の懐に飛び込むがいい! あなたは即座に平安を得るであろう。しかし、あなたが捜している限りは、どれほど狂気のようにそうしていようと、時間を無駄にしているのである。慰めを取り逃がしているのである。幸福になる機会を失っているのである。捜すのをやめるがいい。というのも、そこにあなたの捜している《お方》がおられるからである。この方は、あなたの前に明らかに示されている。ここにあなたの指を伸ばし、その釘跡に差し込むがいい。あるいは、もしそれが大胆すぎるというなら、その衣のふさにでも触るがいい。そうすれば、あなたは全く直る[マタ9:20-22]であろう。

 もう1つの悪は、単に現在の平安と慰めを失うだけでなく、絶望へと駆り立てられる危険である。疑いないところだが、かつて真摯ではあったが更新されることのないまま捜していた人々の一部は、今ではキリストを捜そうという思いを全く捨ててしまっているに違いない。なぜなら、彼らはキリストが身近におられるときにも捜し続け、キリストを見つめる代わりにキリストを見つけようとしていたからである。そして、祈りや、聖書を読むことなどにおいて、あまりにも長く待ちすぎたために、今や完全に絶望しており、すべての望みを全く捨ててしまっている。それも不思議はない。事を誤ったしかたで行なおうとするなら、成功することは望めない。人は、地を耕し、種を蒔かない限り、刈り入れることはない。あなたがたが信じないとしたら、確立されることはない。ある人は、実際、自分の行なっていることにおいて非常に勤勉かもしれないが、もし何の成果も生むことがありえないような方法に従っているとしたら、やがて失望することになっても驚いてはならない。あなたは捜している。そして、そのことを私は嬉しく思う。だが、もしあなたがあなたの信頼をイエスに置かず、イエスがあの偉大な犠牲をおささげになった十字架の根元にあなたの荷を下ろさないとしたら、あなたが空しく捜し続けるままであったとしても何の不思議もない。たといあなたが最終的には絶望しきって、鉄の檻に閉じ込められることになったとしても、それは大きな悲しみではあるが、大きな驚きにはならないであろう。おゝ、人よ。おゝ、婦人よ。そこから離れ逃れるがいい。願わくは、神の聖霊が今あなたを救出しにやって来てくださるように! いかに平安を得るべきかというあなた自身の考えを捨てるがいい。神の救いの道を受け取るがいい。そして、永遠のいのちをつかむために、ほふられた《救い主》に信頼するがいい。

 別の危険は、一部の人々の場合、捜しているうちに、そうする思いが消え失せ、無関心に陥ることである。曲がりなりにも祈って捜してみた後で、すぐに平安を見いだせなかったところへ、この世の快楽に立ち戻るようにとの種々の誘惑が魂に襲いかかる。そして、あまりにも多くの場合、その後のその魂は、いかなる勧告をも説諭をも受けつけなくなる。砕かれず、更新されなかった心は、すねてしまい、こう云い放つのである。「私は試してみたが、うまく行かなかった。手に入る限りの快楽を手に入れる方がましだ。霊的な喜びは私には与えられなかったのだから。もしも来たるべき世を私のものにできないとしたら、この世を手に入れて、しゃぶり尽くすまでだ」、と。どうか、このようなところへ決して追い立てられないでほしい。だが、残念ながら、もしあなたがこうした中間地帯にぐずぐずとどまりすぎて、捜しながらもどっちつかずによろめいて[I列18:21]おり、決断することも信じることもしないままでいるとしたら、最後には自分の自然の霊的まどろみの状態へと逆戻りし、あなたの結末は初めよりもさらに悪くなる[ルカ11:26]であろう。

 別の危険は、あなたが、イエス・キリストに達さない何かを取り上げてしまうといけないということである。私の知っているある人々は、一生の間、捜し続ける者のままとどまることで満足していた。彼らは、自分たちが捜している者だと考えて慰めを覚えていた。さて、このような慰めは、しっくいで上塗りする[エゼ13:10]ことである。失業中の人が、何か仕事を見つけようとロンドンの町通りを行きつ戻りつ歩いていた。彼の家族は困窮しており、彼は勤め口を見つけなくてはならなかった。彼が職を捜していることは全く正しい。だが、彼は捜していることに満足しはしないであろう。彼が望んでいるのは見つけることである。いくら町通りをてくてく歩いても、彼の子どもたちを養うことにはならない。店を何軒訪ねようと彼は満足しない。自分の欲していることを見いだすまで、彼は落ち着かないであろう。――また、落ち着くようなことがあるとしたら、大馬鹿者であろう。そのように、キリストを捜しているということ、いわば町通りを行きつ戻りつ歩いていることでは、あなたの飢えた魂は満たされないであろう。あなたはキリストご自身を得なくてはならない。かりに、誰か失業中の、一家の父親がこう云うとしたらどうであろう。「よろしい。私は週日の間あれだけたくさん歩き回り、一日あれだけ何時間もそうしているのだから、何も見つからなくとも全く満足だ」。あなたは彼を途方もない間抜けだと思うであろう。そして、それはあなたも同じことである。食欲があるのは良いしるしである。だが、単なる食欲で人は満ち足りない。――人は、供された食事を食べなくてはならない。あなたは、キリストを捜しているからといって救われはしない。それが、まことに現実にキリストを信じることに至らせない限り、そうである。ある人がこう云うとしたら、それは悪いしるしである。「よろしい。私は自分の最善を尽くしている。私は常に礼拝の場にいるし、聖書を読んでいる。家でも祈りを実行している。私は自分の最善を尽くしているのだ」。私の愛する方々。もしあなたがそうした考えで落ち着いているとしたら、あなたは自分を義としているのであり、道を外れているのである。それに、あなたは自分の心に嘘をついている。というのも、結局、あなたは神に敵意をいだいており、そうした敵意の証拠は、あなたが神の愛する御子を信じるのを拒否することにあるからである。もしあなたが神に和解させられているとしたら、あなたはイエス・キリストを愛し、信頼するであろう。私には分かっている。――結局あなたは、自分で自分の救い主になろうと決心しているのである。あなたは今なお思っているのである。外的な宗教行為の中には何か、救いを生み出すものがあるのだ、と。それゆえ、厳粛にあなたに請け合っておくが、もしあなたがキリストを信ずるまいと頑張り続けるとしたら、もしあなたがあの愛しい御傷へと逃れ行かないとしたら、もしあなたが贖罪という隠れ場の下に身を隠さないとしたら、あなたは礼拝所にいようと、罪の巣窟にいたのと同じく地獄へ行くことになり、聖書を読んでいようと、聖書を焼いたのと同じくらい確実に滅びることになるであろう。

   「イエスのみなるぞ、イエスのみなるぞ
    弱き罪人、救うるは」。

「おゝ、ですが」、とあなたは云うであろう。「私は、自分のもろもろの罪を大いに感じています!」 しかり。だが、もしあなたが自分の感情を頼りとするなら、自分のもろもろの罪の中で転げ回っていたのと同じくらい、そうした感情の中で滅びるであろう。おゝ、魂よ。トップレディとともに決意するがいい。――

   「われに代わりて 苦しみし
    かたをわが身の 《医者》(くすし)とせん。
    われは慰め 受けざらん
    イェスの慰め 受くまでは」。

神の救いの道によらずに救われようとは決して希望してはならない。おゝ、聖霊があなたの心の中で、こうあなたに云わせてくださるとしたらどんなに良いことか。「今みもとに参ります。おゝ、イエスよ。咎ある者ではありますが、私はあなたを見上げます。そして、これが私の祈りです。『あなたのあわれみゆえに、私をお助けださい。私を憐れみ、あなたの血で私をきよめてください。わたしは自分の一切の信頼をあなたに置いているのですから』」。決意するがいい。おゝ、捜している人たち。嘘八百を隠れ家とすることなく、ただ神の《小羊》だけを《救い主》とすることを。

 私はあなたに告白しよう。捜しつつある愛する方々。私は、あなたがきょう導かれて行くものと信頼していることを、私自身、個人的に行なうように、幾度も幾度も駆り立てられているのである。私は自分の過去の人生を振り返って眺める。すると、神に感謝すべき多くのこと、その御霊の御手を見てとれる多くのことがありながらも、それでも私の数々の責任と私の数々の短所を感じるとき、私は落胆してしまう。他の誰が知らなくとも私には分かっている数々のそむきの罪を思うとき、また、私よりもさらに徹底的に神にそれらが知られていることを思い出すとき、私は一切の希望が拭い去られるのを感じ、私の魂は全く絶望の中に取り残されてしまう。そのとき、私は再び新たに十字架のもとに行って思い出すのである。そこでどなたが死なれたのか、なぜ死なれたのか、また、その死によって無限のあわれみのいかなる目的が達成されたのかを。この《十字架につけられたお方》を再び仰ぎ見て、こう申し上げることは非常に甘やかなことである。「私は、あなたのほか何もありません。わが主よ。あなたのほか何の頼りもありません。もしあなたが私の身代わりとして受け入れられないとしたら、私は滅びるばかりです。もし神の指定された《救い主》が十分でないとしたら、私には他に何の救い主もありません。ですが、私は知っております。あなたが御父の《愛する方》であること、私があなたにあって受け入れられていることを。あなたこそ、私の望むすべて、私の有するすべてです」。いかに私はあなたも同じことをするようにと、強烈な切望をもって願望していることであろう。それは、あなたにとってほむべき日となるであろうし、私にとって喜ばしい機会となるであろう。いま開いている章の中で、ユダヤ人は私たちの《救い主》にこう尋ねた。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか?」 すると主は答えられた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」[ヨハ6:28-29]。あらゆる行ないの中でも最大の行ない、最も神々しい行ないは、自分を義とするような捜し方をやめて、イエスに信頼することである。

 IV. さて、しめくくりに、《こうした「イエスを捜して」いる人々に対する指針》を1つか2つ伝えることにしよう。それは非常に手短に行なうことにしたい。

 最初の指針はこうである。――愛する方々。信仰の対象に注意を払うがいい。あなたが救われることのできる唯一の道は、信仰による道である。これは解決しなくてはならない問題だとみなすがいい。さて、もしもある人が、「そんなことは信じられない」、と云ったとしたら、――その場合、どうすべきだろうか? 何がその人の取るべき最も賢明な方針だろうか? かりにあなたが、ある知らせを信ずることに困難を覚えたとしよう。――あなたは何をすべきだろうか? 何と、それがどのくらいありそうなことかを考察するのである。かりに、皇帝ナポレオンが拳銃自殺をしたと噂されていたとしよう。私はその知らせを信じるべきだろうか? 私は、その噂の出所を尋ねるであろう。いかなる情報機関がそれを確認したのか、いかなる権威に立ってそう言明されているのか。すると、すぐにそうした手段によって、果たしてそれがおそらく真実であろうことか、他愛もない与太話かどうかの結論に達するであろう。さて、もしあなたが真剣に信じたいと願望しているとしたら、信仰は神の賜物であり、御霊の働きではあるが、神は精神の法則に従ってお働きになり、キリストを信じる信仰は、そうした法則に従ってこそ、最も容易にあなたのもとにやって来るであろう。「信仰は聞くことから始ま……る」[ロマ10:17]。なぜ聞くことからなのか? 何と、それは、聞くことによって私がキリストに関する真理を学び、私の聞いたことが私の識別力と理解力とに好印象を与え、それで私は信じるようになるからである。信仰は私たちのもとに読むことによってもやって来る。読むことは、聞くことの別の形である。聖書がメシヤとそのみわざについて何と語っているかを読むがいい。そうすれば、あなたは神の証しを信じることが助けられるであろう。それがいかなることで、いかなる権威に立ってあなたのもとにやって来ているかを知ることによって、そうされるであろう。あなたの聞くこと、また、あなたの読むことに、瞑想を伴わせるがいい。《処女マリヤ》のように、こうした事がらを心で思い巡らす[ルカ2:19]がいい。「耳を傾け」、と御霊は云われる。「わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」[イザ55:3]。さて、そのように耳を傾けるとは、敬虔に、また、勤勉に、かの良い知らせに注意を払うこと、また、それをあなたの心の内奥で熟考することを意味する。さあ、それを眺めるがいい。あなたは罪を犯してきた。そして、神は罪を罰さなくてはならない。この2つの事実は、あなたの良心にとって十分すぎるほど明らかである。実に驚嘆すべき仕組みによって、神は罪を取り除いてくださるではないだろうか? それは1つの贖罪によってである。その罪を別の者の上に置くこと、それをご自分の御子というお方において罰することにおいてである。これほど見事にこの状況に合致するだろう仕組み、また、あなたにうってつけのものとなるだろう仕組みを、あなたは何か他に知っているだろうか? 私の信ずるところ、聖書の真正さは、まさにこの教理が存在することによって、他の何にもまして見事に証明されている。というのも、いかなる人間知性も、これほど神にとって正しく、それでいながら無限に恵み深い道を考案することや、思いつくことはできなかっただろうからである。私は、確かにそれが真実であると感じる。そう確信する。さらに私は、それが神ご自身によって何度も何度も約束されていることに気づく。もし私がキリストを信頼するなら、私はキリストのあらゆるみわざの恩恵を得ることになるというのである。それゆえ、私はこのことが理に適っていると信じる。それは、天来の権威によって宣告されている。私には、そのことについての神の約束がある。私は、《全能者》が嘘をつけないことを知っている。私は、この方が私のために供しておられることを朗らかに受け入れ、そして私は救われる。話をお聞きの愛する方々。もしあなたがそう信じることを難しく感じるとしたら、きょうの午後はあなたの部屋に閉じこもり、あなたの心の目に、次のような永遠の神の御姿を描き出すまで外へ出ないようにするがいい。この神は、その言語に絶する光輝を明らかにしており、ご自分の上に人間の性質をまとわれる。見るがいい。この栄光に富むお方がカルバリの木の上に釘づけられるのを。神に捨てられ、苦悶の中で大声で叫び、ひとりの友もなく死ぬ姿を。そして、すべては神の律法への埋め合わせをするためなのである! このことにあなたの目を据えているうちに、また、ひれ伏して謙遜に祈りをささげているうちに、信仰はあなたのもとにやって来るであろう。聖霊があなたを覆い、それをあなたの魂の中に生み落としてくださるであろう。信仰は、天からの露のようにあなたの魂の中に下るであろう。あなたは、自分の心のかたくなさがことごとく消え失せ、あなたの不信仰が全く離れ去ったのを知って驚くであろう。そして、あなたは云うであろう。「信じます。不信仰な私をお助けください」[マコ9:24]、と。

 しかしながら、別の指針はこうである。――私の愛する方々。あなたが信じる妨げとなるだろう一切のものを、可能な限り一掃するよう気をつけるがいい。さて、これは嘘ではないが、罪に従事することは信じる妨げとなる。故意に罪を犯し続けながら信ずる者となることはできない。心にいだかれた罪は、有効な妨げである。人は、柱に縛りつけられていながら、逃げ出すことはできない。もしあなたが自分を自分の罪に縛りつけるなら、あなたが逃れることはできない。ただちに悪い仲間から身を引くがいい。――これは、年若くして捜している人々にとって非常に致命的な害悪である。あなたは、ある印象的な説教を耳にする。だが、それから、愚にもつかないうわさ話にふけりながら家路につき、安息日の午後は軽薄なおしゃべりにふける。こうした影響下では、あなたの魂が正しい方向に成長することは見込めない。膝まずくがいい。ひとりきりになるがいい。自分の神に向かうがいい。イエス・キリストに向かうがいい。これこそ、入口をふさいでいる石を転がすものである。

 そして、やはりまた覚えておくがいい。あなたが信じるまで、あなたの危険は何にもまして差し迫った種類のものであることを。あなたは、単に何らかの未来の危険の中にあるだけではない。今しも危機の中にあるのである。というのも、神の怒りはあなたの上にとどまっている[ヨハ3:36]からである。あなたは、まだ遠くにいる軍隊によって攻撃されようとしている町のようなものではない。現実に包囲されているのである。敵兵たちがあなたをぐるりと取り囲んでいるのである。彼らは攻城梯子を持ち上げる。すぐに城壁に登って来るであろう。用心するがいい。おゝ、罪人よ。用心するがいい。というのも、あなたの現在の状態は恐ろしいものだからである。あなたの未来の状態は望みないものであろう。今日が恵みの時[IIコリ6:2]である。あなたがたの中のある人々にとっては、今をおいて他にはない。――今、いのちがけで逃げるがいい[創19:17]。いま捜すがいい。だが、正しいしかたで捜すがいい。人々の子らの《救い主》なるお方を信じることによってそうするがいい。

 いかに私は今朝、筆まめな人の洋筆のような舌があればと切望してきたことであろう。いかに私は、私の口を開いて、こうした事がらを熱心で真剣に語ろうとあえいできたことであろう。というのも、私はあなたの救いに飢えているからである。私は確かに魂の奥底から語っている。だが、私は自分で望んでいるほどには説教できない。さもなければ、この説教を自分の涙で埋没させるであろう。おゝ、《主人》が私の語り口のつたなさをすら祝福し、真理をあなたの心と良心に突き入れてくださるならどんなに良いことか。私は、あなたがたの中のただひとりさえ、こうした事がらをよくよく考えることなしに、また、自分の心をイエスにささげることなしに家路につかせたくはないと思う。おそらく私は、あなたがたの中の多くの人々に対しては、二度と再び語りかけることはないであろう。確実に、あなたがた全員に対してそうすることはないであろう。あなたがたの中のある人々は、海を越えてここにやって来て、地の果てに向かおうとしている。私は神の御名によって語る。おゝ、今、あなたがこの言葉の下から離れて行く前に、今、信仰に満ちた眼差しを向けるがいい。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。これは、十字架につけられた《救い主》の叫びである。その愛しい御声から、これほど苦悶に満ちた御声から、離れ去ってはならない。いまだ茨の冠の跡が残っている、かの額から、あなたの目を隠してはならない。あの釘づけられた御手と御足を蔑んではならない。むしろ、この方に降服するがいい。この方は、もう一度、愛の苦悶のうちにこう叫んでおられる。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。おゝ、主よ。彼らを帰らせてください。そうすれば、帰ります[エレ31:18]。アーメン。 

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(訳注)

*1 ミルトン、『失楽園』、第1巻の言葉。[本文に戻る]

*2 ジョン・バニヤン、『天路歴程 続編』の言葉。[本文に戻る]

*3 ゴルディオスの結び目。フリギア王ゴルディオスが戦車のながえをくびきに結びつけた結び目で、将来アジヤの支配者となる人でなければ解けぬとされていたのをアレクサンドロス大王が剣を抜いて切断した。[本文に戻る]

*4 ジョン・バニヤン、『天路歴程』、p.213、(池谷敏雄訳)、新教出版社、1976。[本文に戻る]

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イエスを捜して[了]

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