事故は罰ではない
NO. 408
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---- 1861年9月8日、日曜朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。『そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます』」。――ルカ13:1-5
(注: スポルジョンがこの説教を行なった背景には、2つの非常に痛ましい災害があった。1861年8月25日の日曜日、クレイトン隧道(ロンドン-ブリストル間にある全長一・五哩の隧道)内で二台の列車が衝突し、二十三名の人命を奪い、百数十人の重傷者を出した。それからかろうじて二週間ほど経った9月2日の月曜日、ケンティッシュ・タウン・フィールド(北ロンドン)でも別の鉄道事故が起こり、十五名以上の人命が失われたのである。)
1861年という年は、その同輩たちの中でも、数々の災難の年という悪名を馳せることになるであろう。まさに人が自分の労苦の実を刈り取るために出て行くその時期に、――地の穀物が実り、新穀で倉がはち切れそうになり出すそのときに、――かの強大な刈り取り手たる《死》もまたやって来ては、その収穫をなで切りにしている。大束が次々と彼の穀倉――墓場――に集められている。死の収穫歌たる呻き声は、すさまじいものであった。この二週間の間の新聞を読めば、いかに無情な人も、非常に痛ましい感情を覚えるであろう。そこには、思い出すだけでも血が凍るような恐ろしい大惨事の数々のみならず、記事に次ぐ記事が、幾多の災難を報じている。それらは、恐ろしさの度としては劣るが、まとめてみると、私たちの思いを驚愕させるに足るものである。最近は、いかにぞっとするほど頻繁に、人の子らが突如の死に至らされてきたことか。何曜日といえども、二三件は事件がなかった日はない。私たちは、単にあの途轍もない衝突による恐怖の騒音で度肝を抜かれたばかりでなく、別の事件がいくつも、いくつも、いくつも、ヨブのもとに来た使いのように立て続けにやって来たため、ヨブの忍耐と忍従がなくては、こうした災厄の恐るべき話を聞くことができないまでになっている。
さて、兄弟たち。こうした事がらは、世界のいかなる時代にも常に起こってきたことである。これを新奇なことと考えてはならない。一部の人々のように、これが疲弊した文明の産物であるとか、現代の最も驚くべき発見である蒸気の産物であると夢見てはならない。たとい蒸気機関が全く知られることなく、鉄道など全く敷設されていなかったとしても、突然の死や、恐ろしい事故は、何ら変わらず起こり続けたであろう。私たちの先祖たちの時代に書き記された事故や災難の記録を取り上げてみれば、古の乗合馬車も、猛進する列車と全く同じくらい重い戦利品を死にもたらしていたことに気づく。その頃も、ハデスには今と同じくらい多くの門があったし、死に至る路は、この現代と同じくらい険しく急なものであった。また、今と同じくらい膨大な数の群衆がそれを辿っていた。あなたはそれを疑うだろうか? あなたが前にしている章に目を向けてみてほしい。シロアムの塔の下敷きになったあの十八人を思い出すがいい。彼らが衝突事故によって潰されなかったからといって何だろうか? 彼らが暴走機関車によって堤防から引きずり下ろされなかったからといって何だろうか? それでも、どこかの杜撰な造りの塔が、あるいは嵐に打ちつけられたどこかの壁が、一度に十八人の上に倒れ落ち、彼らが非命の最期を遂げることがありえたのである。あるいは、それよりも悪いことに、人々のいのちを自分の宮殿の鍵のように腰にぶらさげている独裁的な支配者が、こともあろうに神殿の中で礼拝者たちに襲いかかり、彼らの血を、彼らがまさに天の神にささげようとしていた雄牛の血と混ぜ合わせるということがありえたのである。ならば、現代は、過去の時代よりも神が人間を厳しく取り扱っておられる時代だなどと考えてはならない。神の摂理に、かつてよりも締まりがなくなっているなどと考えてはならない。突然の死は常にあったし、これからも常にあり続けるであろう。死の狼たちが飢えた群れとなって狩りをする時期は常にあったし、おそらくこの経綸の最後まで、この最後の敵は、周期的にその祭礼をあげ続け、人肉でうじ虫たちを満腹させ続けるであろう。それゆえ、にわかに起こる恐怖によって決して打ちひしがれてはならない。こうした災難に脅えてはならない。自分の務めに精を出すがいい。職業柄、死そのものの原野を越えて行く必要があるときには、それを行なうがいい。勇敢に行なうがいい。神はこの世界の手綱を投げ出してはおられない。この巨船の舵綸から、御手を放してはおられない。今もなお、
「いずこにても 主は統べ給い
ものみな御力(ちから)に 仕えなん。
みわざはなべて 祝福(めぐみ)のみにて
主の道はみな さやかな光」。神にただ信頼することを学ぶがいい。そうすれば、にわかに起こる恐怖に不安を覚えることはないであろう。「あなたのたましいは、しあわせの中に住み、あなたの子孫は地を受け継ごう」*[詩25:13]。
しかしながら、今朝特に考えたい主題は、このことである。――神が世界の歴史上に特筆大書しておられる、こうした恐ろしい文字を、私たちは何のために役立てるべきだろうか。神は一度、否、二度告げられた[詩62:11]。人はそれを無視した、と云われないようにするがいい。私たちは神の御力の微光を見た。神がいかに容易に私たちの同胞を滅ぼすことがおできになるか、多少とも目にした。「鞭と、それを定めたお方」[ミカ6:9 <英欽定訳>]に聞こうではないか。そして、それを聞く中で、2つのことをしようではないか。第一に、迷信深い無知な人々と同じように推断する愚を犯さないようにしよう。――そうした推断は、この聖句の中でも示唆されている。すなわち、このような事故によって命を落とした人々は、国中のいかなる人よりも罪深い人なのだ、という推断である。また第二に、私たちは正しい推断を行なおう。こうした出来事すべてを、自分自身の個人的向上という実際的な役に立てるようにしよう。《救い主》がこう云われる御声を聞くようにしよう。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。
I. まず第一に、《私たちは、性急で軽率な推断を下さないように用心しよう。悲惨な事故が起こったときの被害者は、自らの罪ゆえに被害に遭ったのだ、などと思ってはならない》。
ある人々のきわめて愚劣な言明によると、一週間の最初の日に旅行していて事故に遭う人々は、その事故を自分に下された神の審きとみなすべきであるという。彼らは、キリスト教の礼拝日を破っていたからである。敬虔な教役者たちでさえこうした言明をしている。彼らの述べるところ、先日の嘆かわしい衝突は、あのクレイトン隧道内に居合わせた不幸な人々の上に、きわめて驚くべき、また尋常ならざる神の御怒りが訪れたものとみなすべきだというのである。さて私は、こうした推断に対して厳粛な抗議を申し立てるものである。私自身の名による抗議ではない。キリスト者の《主人》にして、キリスト者の《教師》なるお方の御名による抗議である。あの隧道の中で潰された人々について、私はこう云うものである。あなたは、その人々が、ほかのどの人よりも罪深い人たちだったとでも思うのだろうか? 「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。あるいは、先日の月曜日に命を落とした人たちについて、彼らは、ロンドン中のどの人よりも罪深い人たちだったとでも思うのだろうか? 「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。さて、注意してほしいが、私も、特定の人々に対する神の審きが時として下ることがあるのを否定しようとは思わない。ごくまれには、そうしたことが起こっていると思う。私たちの中のある者らは、自分自身の経験でも、こうした事例を耳にしたことがあるであろう。ある人々が神を冒涜し、自分を殺せるものなら殺してみろと云った途端に、突然倒れて死んでしまったのである。こうしたいずれの場合にも、罰はあまりにも素早くその冒涜の直後に起こったために、私たちはそこに神の御手を感じとらざるをえなかった。彼がたわむれに神の審きを求めたところ、その祈りがかなえられ、審きが下ったのである。また、疑いもなく自然な審きと呼ばれて良いものもあるに違いない。たとえば、ある人が襤褸を着て、貧しく、家なしであるとする。それまでその人は、放蕩の限りを尽くし、酒に酔い、品性を失っていた。ならば彼が飢えるようになり、寄るべのない者となるとしても、それは、その人に対する神の正義の審きでしかない。病院に行けば、汚らわしい病にかかった男や女の忌まわしい見本が目に入る。こうした場合――罰が罪の自然な結果であるときには――、私たちは決して神の審きが、放縦や、不敬虔な情欲の上に下ることを否定するものではない。同じことは、罪とその罰との間に明白なつながりがある多くの場合についても云えるであろう。そうした場合には、いかに暗愚な人々でも、神が《悲惨》を《罪》の子どもとされたことを見てとれるものである。しかし、私が言及しているような種類の事故や突然死の場合、やはり私は、そのように滅びた人々が、無傷でぴんぴんしているどんな人々よりも罪深い人だったのだ、という愚かで滑稽な考えに対して真剣に抗議するものである。
この件は、キリスト者である人々を相手に論じさせてほしい。というのも、一部の愚かなキリスト者たちは、私がいま語ったことに怖気を振るうであろうからである。こじつけ上手な人々は、私が礼拝のための日を破ることを弁護しようとしているのだとさえ夢想するであろう。さて私はそのようなことをしているのではない。そうした罪を軽く見ているのでもない。単に私がここで証言し、宣言しているのは、種々の事故を罪ゆえの罰とみなすべきではない、ということである。というのも、罰は現世でなく、来世に属しているからである。私は、災難が起こるたびにそれを審きとみなす人々すべての考え方を正したいと熱心に願いつつ語りたいと思う。まずこう云うことから始めさせてほしい。私の愛する兄弟たち。あなたには分からないだろうか? 自分の云っていることが真実ではない、と。そして、それこそ、あなたがそうしたことを云うべきではない最大の理由である。あなたは、自分の経験や観察から教えられていないだろうか? ある出来事は義人にも悪人にも起こる。確かに、時には悪人が町通りでばったり倒れて死ぬこともある。だが、教役者が講壇の上で倒れて死ぬことはないだろうか? 確かに、日曜日に自分の楽しみを求めている人々を乗せた遊覧船が突如として沈没することはあった。だが、宣教旅行に赴く敬虔な人々だけが乗り組んだ船が沈没してきたことも、それと等しく真実ではないだろうか? 神の、目に見える摂理は、人をえこひいきしない。そして、奔放な罪人たちを満載した船の回りにも、宣教船『ジョン・ウィリアムズ』号の回りにも、暴風雨は全く同じようにつのり行くものである。何と、あなたは感じたことがないだろうか? 神の摂理は、そのうわべのお取り扱いを見れば、事実、悪人よりも善人にとって厳しくあるのである。パウロは彼の時代の義人の悲惨さを眺めて、こう云わなかっただろうか? 「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」[Iコリ15:19]。義人の通り道はしばしば人々を拷問台や、獄舎や、絞首台や、火刑柱へと至らせてきた。その一方で、罪の路はしばしば人を帝国や、大領土や、同胞たちの間における高い尊敬へと導いてきた。この現世で神が人々を罪ゆえに罰したり、良い行ないゆえに報いたりするというのは正しくない。ダビデはこう云わなかっただろうか? 「私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野性の木のようにはびこっていた」[詩37:35]。また、このことは、しばし詩篇作者を困惑させ、それは彼が聖所に入って、ついに彼らの最後を悟るまで続かなかっただろうか?[詩73:17] 確かにあなたは、摂理の究極的な結果が、神の民の益になるためにしか働かないと信仰によって保証されてはいる[ロマ8:28]。だが、あなたの人生は、歴史という《天来の》舞台のごく一部でしかないとはいえ、あなたにこう教えているに違いない。摂理は、うわべ上は義人と悪人を区別しないということを。――義人が悪人と同じように、にわかに滅びることを。――疫病が罪人と聖徒の分け隔てをしないことを。――戦争の剣が、神の子らに対してもベリアルの子らに対しても、同じように容赦ないことを。神がにわか水を送られるとき[ヨブ9:23]、それは曲がった者や偽り者だけでなく、罪のない者をも突然に殺す。さて、私の兄弟たち。もし復讐し《報いを与える》摂理というあなたの考え方が真実でないとしたら、なぜあなたは、それが真実であるかのような口のきき方をするのか? また、もしそれが一般法則として正しくないとしたら、なぜあなたは、この特定の場合だけは、それが真実であるかのように考えるのか? こうした考え方を、あなたの頭から追い出すがいい。神の福音を信じていさえすれば、不真実を信ずる必要など決してないからである。
しかし第二のこととして、もう1つ理由がある。何か事故が起こるたびに、それを神からの審きとみなすべきだという考え方は、神の摂理を、途方もない深淵とする代わりに、実に底の浅い水たまりにしてしまう。かりに鉄道事故があったとき、それは人々が日曜に旅行していたから起こったのだとしよう。何と、ならば、どんな子どもにでも、神の摂理は理解できるであろう。《日曜学校》の幼児科にいる、どれほど小さな子を連れてきても、「うん、わかるよ」、と云うであろう。しかし、もしそんなものが神の摂理だとしたら、もしそれが理解可能な摂理だとしたら、明らかにそれは聖書的な摂理観ではない。聖書で常に私たちが教えられるところ、神の摂理は「深い海」[詩36:6]であって、エゼキエルでさえ――智天使の翼をもって高々と飛ぶことができた彼でさえ――神の摂理の大いなる象徴である幾多の輪を見たときには、その輪があまりにも高かったために恐ろしいとしか云えず、それに目が一杯ついていたために、「おゝ、車輪よ!」、と叫ぶほどであった[エゼ10:13 <英欽定訳>]。もしも――はっきりさせるために繰り返すが――もしも、ある災難が常に何らかの罪の結果だとしたら、摂理は、二足す二が四というのと同じくらい単純なものとなるであろう。それは、幼児が最初に学べる教訓の1つとなるであろう。しかし聖書の教えによると、摂理は深い海であって、人間の知性はそこで泳いだり潜ったりすることはできても、決してその底をつきとめたり、その果てまで行き着くことはできない。そして、もしあなたや私が、摂理の理由を見いだせるなどと云うとしたら、またもし私たちが神の経綸を自分の指先でこねくり回すことができたとしたら、私たちは単に自らの愚劣さを証明しているにすぎず、自分が神の道をひとかけらも理解していないことを証明しているのである。何と、見るがいい。方々。かりにここで、しばしの間、何らかの大公演が行われているとしよう。そのとき、もしもあなたがその真中に出て行って、舞台上のひとりの俳優を一瞬眺めてから、「ああ、私には理解できた」、などと云うとしたら、あなたは何という間抜けになるであろう! あなたは、この摂理という大いなるみわざが、ほぼ六千年も前に始まったことを知らないのだろうか? また、あなたは、この世にほんの三、四十年前に足を踏み入れたばかりではないだろうか? それが、ただひとりの俳優を見て、何もかも理解したと云うのである。馬鹿らしい! そんなはずはない。あなたは、ようやく分かり始めたにすぎない。ただ神だけが、終わりの事を初めからご存じなのである。ただ神だけが、その大いなる結果がいかなるものであるか、世界が造られた大いなる理由が何であるか、善と悪の双方が起こることを許されているのはなぜかを理解しておられるのである。自分には神の道が分かるなどと考えてはならない。自分にはこうした災難を理解できるとか、隠れている知恵の意図が分かるとか云うとき、あなたは摂理をおとしめ、神の人間の水準に引き下げているのである。
しかし次に、あなたには見てとれないだろうか? こうした考え方が、パリサイ主義を助長するということが。このように押し潰されて死んだ人々、火傷を負った人々、列車の車輪で轢き殺された人々は、私たちよりも罪深い人々だったのだ。それは結構。ならば私たちは、いかに善良な者であることか。何と卓越した美徳の鑑であることか! 私たちは彼らのような憂き目にあっていない。それゆえ神は、物事すべてが私たちにとってすらすら進むようにしておられるのだ。私たちの中のある者らは、平日には毎日旅行しているが、一度として粉微塵になったことはない。そう考える限り、私たちは自分が《神格》の寵児であると評価して良いであろう。だとすると、兄弟たち。あなたには分からないだろうか? 私たちの身の安全は、私たちがキリスト者である論拠となってしまうのである。――私たちが鉄道で安全に旅行していることは、私たちが新生した者である論拠となるであろう。だがしかし、聖書のどこを見てもこのようなことは書かれていない。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、私たちがロンドン-ブリストル間を一日に二度も旅行しているのに無事でいるからです」。私は、こうしたことを云っているような節を1つも見いだしたことがない。だがしかし、もし事故に遭うのは最悪の罪人だということが真実だとしたら、その裏を返すと、自然とこう云えることになるであろう。事故に遭わない人々は、非常に善良な人々であるに違いない、と。このようにして私たちは、何というパリサイ人的な観念を生み出し、促進してしまうことであろう。しかし、私はこうした愚論を一瞬たりとも許すことはできない。あのあわれな、突然に死に襲われた人々の、めちゃめちゃに引き裂かれた遺体をしばし眺め渡すとき、私の目は涙するとしても、私の心は誇りはしないし、私の唇は責めはしない。――いわんや、私は得々としてこう叫びはしない。「神よ。私は、こうした人々のようではないことを、感謝します!」 否、否、否。それはキリストのみ思いではないし、キリスト教の精神でもない。私たちは、自分が守られていることは神に感謝できても、このように云えるのである。「私たちが滅びうせなかったのは、あなたの恵みによる」*[哀3:22]。そして私たちはそれを神の恵みに、神の恵みだけに、帰さなくてはならない。しかし私たちは決して、自分のうちに何か良いものがあるがために、そのように間近な死から守られ、生かされているのだ、などと考えることはできない。ただ神があわれみを有し、私たちに対して忍耐深くあり、私たちが滅びることを望まず、悔い改めに進むことを望んでおられるからこそ[IIペテ3:9]、神はこのように私たちを墓に下ることから保ち、死なずに生きていられるように守っておられるのである。
またさらに、こう指摘させてほしい。私が真剣に反対しているこの考え方は、非常に残酷かつ薄情なものである。というのも、もしこれが本当だとしたら、――このように異常なしかたで非業の死を遂げた人々が、他のだれよりも罪深い人々だったとしたら、――それは残された遺族にとって、いかに胸が潰れるような打撃となるであろう。また、そのような考え方を許すというのは、争う余地ない理由によって、それがすさまじい真実であると受け入れざるをえなくさせられるのでもない限り、私たちの心の狭さを示すものではないだろうか? さあ、私はあなたに挑戦する。このことを、あの未亡人の耳に囁いてみるがいい。この場を出てから彼女のところに行って云うがいい。「あなたのご主人は、他のどの人よりも罪深かったのです。だから死んだのです」、と。あなたは、そんなことができるほど無慈悲ではないであろう。物心もついていない幼子、一度も罪を犯したことのない赤子が――確かにアダムの堕落を受け継いでいるには違いなくても――、ある事故の残骸の中で押し潰されているのが発見される。さて、しばし考えてみるがいい。こうした死に遭った者は他の人よりも悪人だった、という想定から、いかに忌まわしい結果が生ずるだろうか? 物心もついていないこの赤子が、破廉恥行為の巣窟にたむろしながら、今も生き長らえている多くの者ら以下の罪人だとあなたは認めざるをえないであろう。あなたは、このことが金輪際正しくなどありえないと感じないだろうか? そして、ことによると私があなたにその不正義を最もよく示せるのは、あなたにこう思い出させることによってかもしれない。こうしたことは、いつの日かあなたの頭上に降りかかるであろう。あなた自身が、このようなしかたで突如として死に襲われた場合、あなたはそれゆえに自分が地獄に落ちる宣告を受けることに不服はないだろうか? こうした出来事は、神の家の中においても起こりうることである。私自身の、またあなたがたの悲しい記憶に思い起こさせてほしい。かつて私たちがある集会を行なったときに何が起こっただろうか。私はきよい心をもって云えるが、私たちがあの集会を行なったのは、私たちの神に仕える以外のいかなる目的のためでもなかった。この教役者があの場所に向かったのは、ただ、そうでもしなければ自分の声を聞こうとしなかった上流人士を集めたいという目当てしかなかった。だがしかし、その聖なる努力の結果(というのも、それは聖なる努力であったと私たちはなおも公言するからであり、後に受けた神の微笑みがそれを証明しているからである)、いくつもの葬儀が引き起こされたのである。そこには死があり、神の民の間に死があった。他の人々よりも、神の民の間の死であって良かったとさえ云いたい気持ちがする。恐ろしい恐怖が会衆をつかみ、彼らは逃げ出した。では、あなたは見てとらないだろうか? もし事故が審きとみなされるべきだとしたら、公正な推論により、私たちはあの場にいることによって罪を犯していたことになる、と。――そのようなほのめかしを、私たちの良心は軽蔑をもって否認するものである。しかしながら、もしそうした論理が真実であるとしたら、それは他の人々に対してと同様、私たちに対しても真実である。あの場所で神を礼拝しようしていただれかが、地に倒されたり、傷つけられたりしたのは、その罪ゆえなのだという非難を、憤りとともに拒絶しようとするというのであれば、あなたが自分について拒絶することを、他の人々についても拒絶するがいい。そして、過去二週間の間にいのちを失った人々に対して持ち出される非難――彼らが何らかの大罪のゆえに滅びたのだ、という非難――には与しないようにするがいい。
ここで私が予期するのは、思慮深くも熱心な人々のあげる叫び声である。彼らは神の箱のためにおののき、ウザの手でそれに触れようとするであろう[IIサム6:6]。「よろしい」、とある人は云うであろう。「だが、私たちはそのように語るべきではありません。というのも、それは非常に重宝する迷信だからです。なぜなら、この事故によって、多くの人々が日曜には旅行しなくなるだろうからです。ですから私たちは彼らに告げるべきです。あのように非業の死を遂げた人々が死んだのは、彼らが日曜に旅行したからなのだ、と」。兄弟たち。私は魂を救うために嘘をつこうとは思わないし、これは嘘をつくことになるであろう。これは事実ではないからである。私は日曜日の業務や罪を止めさせるためなら何でも行ないたいと思うが、そうするためであってさえも、嘘っぱちをでっちあげたくはない。人は日曜と同じように月曜にも非業の死を遂げたであろう。神は、一週間のいかなる曜日にも、特別の免疫を与えてはおられないし、ある時に起こりえる事故は別の時にも起こりえるであろう。そのように、人々の迷信につけこんで、キリストのためになることをしようとするのは、嘘も方便というやり口でしかない。ローマカトリック教の司祭であれば、こうした議論を首尾一貫して用いることができようが、正直なキリスト者は――自分が偽りを云わなくとも、キリストの信仰は自分で自分の面倒を見られると信じている人間は――、そうすることを軽蔑する。こうした人々が非業の死を遂げたのは、日曜に旅行したためではない。あわれみの働きをするために外出していた他の人々が、事実、月曜に非業の死を遂げたことがあると証言するがいい。私は神がなぜ、いかなる次第であの事故を送られたのかは分からない。だが神がご自分の理由を示していない際に、私たちが自分自身の理由をあげるなどということは決してすべきでない。私たちは、神の栄光を前進させるための手段として、人々の迷信を利用することは許されない。知っての通り、プロテスタント教徒の中にも教皇制は色濃く残っている。私が出会う人々の中には、こうした口実で幼児洗礼を是認する人々がいる。「まあ、これには害があるわけではないし、全く悪気があってしていることでないではない。また、これが善を施すこともありえる。堅信礼でさえ、人によっては祝福となりえるのだ。それゆえ、これに反対することはしないようにしよう」。私はそれが害を及ぼすか及ぼさないかには何の関わりもない。私が関わりを有すべき唯一のことは、それが正しいか、聖書的か、真実か、である。そして、もし真理が危害を及ぼすとしたら(これは私たちがいかにして認めることができない想定だが)、その危害は私たちの責任ではない。私たちには真理を語る以外の何の責務もない。もう一度云うが、天が落下しようとも、人々の迷信に基づいているような福音の進展は、それがいかなるものであれ、偽りの進展であり、やがてこれは、そのような不浄の武器を用いている人々の上にはね返るであろう。私たちの有するキリスト教信仰は、人々の識別力と常識に訴えるものであって、それで成功できなければ、それ以外の手段で前進することを私は軽蔑する。そして、兄弟たち。もしだれかが心をかたくなにして、「よろしい。私はどんな曜日にも同じように安全なのだ」、と云うとしたら――それは確かに真実であるが――、私はその人にこう云わなくてはならない。「真理をそのようなしかたで用いる罪の責任は、私にではなく、あなたにある。だが、たとい私が、迷信的な憶測をあなたの前に置くことによって、キリスト者の安息の日をあなたに守らせることができるとしても、そうしようとは思わない。なぜなら、私が感じるところ、確かに私はしばらくの間はあなたをその1つの罪から遠ざけておけるかもしれないが、じきにあなたはもっと賢くなり、私に騙されなくなるであろうし、そのときあなたは私を、あなたの識別力に訴える代わりに、あなたの恐れにつけこんだ一個の司祭とみなすようになるであろうからである」。おゝ! いいかげんに私たちは知るべきである。私たちのキリスト教が、決して弱いものでも、身震いしているものでも、無知で暗愚な精神のちゃちで迷信的な恐れに訴えるものでもないことを。キリスト教は男らしいもの、光を愛するもの、聖別された詐欺などなくとも身を守れるものである。しかり。批判者よ! あなたの角灯を私たちに向け、それで私たちの眼の中を照らし出すがいい。私たちは恐れはしない。真理は強大であり、勝利する。そして、たといそれが日光の中で勝利できないとしても、私たちは、太陽が沈んでそれに機会が与えられることを望みはしない。私の信ずるところ、不信心をごまんと生み出すもととなってきたのは、一般人の誤りを利用したいという一部のキリスト者たちのごく自然な願いである。「おゝ」、と彼らは云った。「大衆がいだいているこの過ちは非常に良いものだ。それは人々を正しい生き方に保つであろう。ならば、いつまでもこの間違いを犯させていよう。これは明らかに善を施すからだ」。そしてそれから、その間違いが発覚したとき、ここにいる不信者たちは云った。「おゝ、諸君も今こそ分かっただろう。いかさまを見破られた、このキリスト者の連中を見るがいい」。兄弟たち。私たちは何のいかさまも用いないようにしよう。人々を、幽霊や魔女の話で怖がらせることのできる小さな子どもであるかのように語りかけてはならない。事実は、これが天罰の時ではないということであり、それがそうであるかのように教えるというのは、根拠がないという以上に悪いことである。
そして今、最後のこととして――その後で私はこの点を後にしよう――、あなたは感じとらないだろうか? 非キリスト教的で、非聖書的なこの考え方――人々が突如として死に出会うとき、それは罪の結果である、という――が、魂の不滅を証しする、キリスト教の最も高貴な論拠の1つを奪ってしまうということを。兄弟たち。私たちは日ごとに聖書の裏書きとともにこう主張する。神は正義であり、神が正義である限り、神は罪を罰し、義人に報いを与えなくてはならない、と。明らかに神は現世ではそのことを行なっておられない。すでにはっきり示したと思うが、この現世では、ある出来事は両者に起こる。義人は悪人と同じように貧しく、義人は、最も恵みに欠けた人々と同じように突然に死ぬ。よろしい。ならば、明らかにして自然な推断は、こうした事がらが正されるべき来世がなくてはならない、ということである。もし神がいるとしたら、神は正義でなくてはならない。そして、もし神が正義だとしたら、神は罪を罰さなくてはならない。そして、神がそれを現世では行なっていない以上、人々が自分の行ないに応じた報いを受けることになる別の状態がなくてはならない。肉のために蒔いた者は肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔いた者は御霊から永遠のいのちを刈り取るのである[ガラ6:8]。この現世を刈り取りの場とするとき、あなたは罪からとげを引き抜いてしまったことになる。「おゝ」、と罪人は云うであろう。「もし人が現世で忍ばなくてはならない悲しみしか、人間の受ける罰はないというなら、われわれはいくらでも罪を犯してやろう」。こうした者たちには云うがいい。「否。現世は罰が与えられる世界ではなく、執行猶予中の世界なのだ。これは正義の法廷ではなく、あわれみの地なのだ。恐怖の牢獄ではなく、寛容の家なのだ」。そして、あなたは、彼の目の前に未来の門を開いてやった。あなたは彼らの目の前に審きの御座を据えた。あなたは彼らに思い起こさせた。「さあ、わたしの父に祝福された人たち」、と「のろわれた者ども。わたしから離れよ」*、とを[マタ25:34、41]。あなたがたは、彼らの良心と彼らの心に訴えるべき、より聖書的、とは云わないまでも、より理性的な根拠があるのである。
このようにして私は、あらん限りの力を尽くして、不敬虔な人々の間であまりにもはびこっている考え方を鎮圧しようと語ってきた。その考え方によると、私たちキリスト者は、あらゆる災難を審きであると考えているのだという。だが、私たちはそうは考えていない。シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人が、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったと私たちは思っていない。
II. さて、第二の点に移ろう。《ならば、死に行く人々の悲鳴や呻きの最中に聞こえる、この神の御声を私たちはいかなる役に立てるべきだろうか?》 2つのことの役に立てるべきである。最初に、問いかけとして。二番目に、警告としてである。
私たちが自分に投げかけなくてはならない、最初の問いかけは、こうである。「なぜ私も、近いうちに突然断ち切られることがないと云い切れるだろうか? 私に自分の人生の賃借権があるだろうか? 私には、自分が墓の正門を突如くぐることにならないと保証できる特別の庇護があるだろうか? 私は長生きの特許状でも受けているだろうか? 死の矢にも傷つけられないような鎧で覆われているだろうか? なぜ私が死なないことがあるだろうか?」 そして、ここから示唆される第二の問いはこうである。「私は、あの死んだ人たちと同じように大きな罪人ではないだろうか? 私にも、私自身にも、主なる私の神にそむくもろもろの罪があるではないだろうか? 外的な罪においては、他の人々の方が私にまさっているとしても、私の心の思いは悪ではないだろうか? 彼らを呪っているのと同じ律法が、私を呪うではないだろうか? 私は、律法の書に書いてある、すべてのこと[ガラ3:10]を堅く守って実行しては来なかった。彼らと同様、私も自分の行ないによって救われることはできない。私は彼らと同じく生まれながらに律法の下にあり、それゆえ、彼らと同じく呪いの下にあるではないだろうか? こうした疑問が生ずるべきなのだ。私を高ぶらせるだろうような彼らの罪を考える代わりに、私をへりくだせるような私自身の罪を考えるべきなのだ。私とは何の関わりもない、彼らの咎について沈思する代わりに、私自身のそむきの罪に内側で目を向け、それについて考えるべきである。それについて私は《いと高き神》の前で個人的な責任を問われなくてはならないからだ」。そして次の問いは、「私は自分の罪を悔い改めただろうか? 彼らがそうしたかどうかを問いかける必要はない。私はそうしたろうか? 同じような災難を私も免れない以上、私はそれに遭う備えができているだろうか? 私は、聖霊の確信させる力によって、自分の心のどす黒さと堕落を感じているだろうか? 神の前でこう告白するように導かれているだろうか? 自分は神の御怒りに値するものです、神のご不興が私に下るとしたら、それは私が当然受けるべき分です、と。私は罪を憎んでいるだろうか? それを忌みきらうようになっているだろうか? 聖霊によって、猛毒から目を背けるように罪から目を背けているだろうか? また、私はいま私の《主人》キリストを尊ぼうとしているだろうか? 私はその血潮で洗われているだろうか? キリストと似たかたちを帯びているだろうか? キリストのご人格を反映させているだろうか? キリストをほめたたえるために生きようとしているだろうか? というのも、もしそうでなければ私は、彼らがそうであったのと同じくらい大きな危険のうちにあり、同じくらい突然に断ち切られかねず、それから、私はどこにいるだろうか? 私は彼らがどこにいるかは問うまい」。また、こうした不幸な人間たちの将来の運命について詮索する代わりに、私たち自身の運命と私たち自身の状態について詮索することの方がいかにまさっていることか!
「われは誰ぞや? わが魂(たま)、覚めよ、
検分(けみ)をばせよや、かたよらず」。私は死ぬ備えができているだろうか? もしいま地獄の門が開いたとしたら、私はそこに入ることになるだろうか? もしいま私の下で死の顎がぱっくり開いたとしたら、私は自信をもってその中を歩き通すことができるだろうか? 神が私とともにおられるので、何も恐れずそうできるだろうか? これこそ、こうした事故をしかるべく役立てることである。これこそ、神の審きを私たち自身に、また私たち自身の状態にあてはめる最も賢明な道である。おゝ、方々。神は過去二週間のうちに、ロンドンのあらゆる人に語りかけられた。私に語りかけられた。あなたがた、男にも、女にも、子どもたちにも語りかけられた。神の御声はあの暗い隧道から鳴り響いた。――夕暮れの中から、また人々の亡骸に取り巻かれた、あの紅蓮のかがり火から語りかけられた。「あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから」[マタ24:44]。そのように語りかけられたあなたは、こう自問させられているものと私は希望する。「私は、備えができているだろうか? 用意ができているだろうか? いま私の《審き主》に面と向かうことを望んでいるだろうか? 自分の魂に対する宣告が下るのを聞きたいとを望んでいるだろうか?」
このように、このことを問いかけのために用いた上で、これを警告としても用いるべきであることを思い起こさせてほしい。「あなたがたもみな同じように滅びます」。「否」、とある人は云うであろう。「同じようにではありません。私たちはみなが押し潰されはしません。私たちの中の多くの者らは自分の寝床で死ぬでしょう。私たちはみな焼かれたりしません。私たちの多くの者らは安らかに目を閉ざすでしょう」。左様。だが、この聖句は、「あなたがたもみな同じように滅びます」、と云っているのである。そして、こう思い起こさせてほしいが、あなたがたの中のある人々も、全く同一のしかたで滅びることがありえる。あなたも、町通りを歩いているとき突然に断ち切られることがないと信ずべき理由はない。あなたは食事をしている間にばったり倒れて死ぬかもしれない。――いかに多くの人々が、いのちの支えを手にしているときに滅びてきたことか! あなたが自分の床の中にいるときに、あなたの寝床は突然あなたの墓に変わるかもしれない。たといあなたが頑健で、強壮で、元気いっぱいで、健康であるとしても、事故か血液循環の障害によって、突然に、あなたの神の御前に急行させられるかもしれない。おゝ! 願わくは突然の死が、あなたにとって突然の栄光となるように!
しかし、私たちの中のある者らは、他の人々と同じように突然、死を迎えることがありえる。しかし、最近米国では、ある兄弟が、みことばを説教している間に、そのからだと務めを同時に下に降ろした。あなたはボーモント博士の死を覚えているであろう。博士は、キリストの福音を宣言している間に、地上に向けていたその目を閉ざしたのである。また私は、この国の、とある教役者の死を覚えている。それは、まさにその人がこの詩句を告げたばかりのときであった。――
「父よ、わが目に 見させ給えや
汝が御住まいの ところをば。
われは望めり、地の宮殿(みや)去りて
天つ汝が家へ 逃れんことを」。そのとき、神は彼の心の願いをかなえ、麗しい姿で《王》の前に現われるようにしてくださった。ならば、そのような突然の死があなたや私に起こらないことがありえようか?
しかし、確実なこととして、死がいつやって来ようと、いくつかの点において私たちには、最近あれほど急激に世を去った人々と同じことが起こるのである。第一に、死は同じように確かにやって来るであろう。彼らは、いかに急速度で旅をしていようと、この追っ手から逃れることはできなかった。彼らは、時が来たときにその矢軸を逃れられるようなところを旅行することができなかった。私たちもそのように滅びるであろう。まだ葬られていない、あの屍たちに、死がその証印を貼りつけたのと同じくらい確かで、同じくらい確実に、彼はその証印を私たちにも(その前に主がやって来なければ)確かに貼りつけるであろう。というのも、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」[ヘブ9:27]からである。この道を免れることはできない。いかなる個人も、何か横道を通って逃れることはできない。この川を越える橋はない。足を濡らさずにこのヨルダン川を越えられるような渡し船はない。おゝ、川よ。お前の冷え冷えとした深みに、私たちひとりひとりは下っていかなくてはならない。お前の冷たい流れに、私たちの血は凍らなくてはならない。また、お前の泡立つ波の下に私たちは頭を沈めなくてはならない! 私たちも確かに死ななくてはならない。「分かり切ったことを」、とあなたは云うであろう。「当たり前のことではないか」。そう、死は当たり前のことである。だがそれは、私たちに一度しか起こらない。願わくは神が、そのように一度死ぬことが常に私たちの思いの中にあり、ついには私たちが日々死ぬまでとしてくださるように。そして、最後に死ぬことが辛い務めとならないようにしてくださるように。
よろしい。さて死は、彼らにも私たちにも確かにやって来るように、彼らにも私たちにも、この上もなく力強く、また抵抗しがたいしかたでやって来るであろう。死が彼らを驚かせたとき、彼にいかなる助けがあっただろうか? 子どもが骨牌で組み立てる家よりも簡単に、あの重たい客車は潰れてしまった。彼らは、互いの助けとして何ができただろうか? 彼らは隣り合って座り、話をしていた。叫びが聞こえたかと思うと、二番目の叫びを発することもできないうちに、彼らは粉砕され、めちゃくちゃに潰されてしまった。夫は妻を脱出させようとするかもしれないが、重い材木が彼女のからだにのしかかり、彼に見いだせたのは彼女の頭だけで、彼女は死んでいる。そこで彼は悲しみに満ちて彼女のそばに座り、手を彼女の額の上に置き、それが石のように冷たくなるまでそうしている。そして彼は、骨折した人々がひとり、またひとりと、この残骸の塊の最中から引き出されるのを見ているが、彼女のからだはそこに残して行かなくてはならない。悲しいかな! 彼の子どもたちは母なし子となり、彼自身は最愛の伴侶を奪われる。彼らに抵抗することはできなかった。彼らがたとい何をしていようと、その瞬間が来れば、即座に去って行かなくてはならなかった。そして死か骨折がその結果となった。あなたや私もそれと同じである。たとい医者に山ほど心付けをつかませようと、彼にはあなたの血管に新鮮な血液を詰め込むことはできない。金塊を彼への謝礼にしようと、彼は鼓動1つ打たせることはできない。死よ。人間たちの抵抗しがたい征服者よ。お前に立ち向かえる者はひとりもいない。お前の言葉が法であり、お前の意志が運命なのだ! 彼らにとってそうであったように、私たちにとってもそうである。死は力強くやって来て、私たちの中の何者も抵抗することはできない。
死が彼らのもとにやって来たとき、それは即座にやって来た。遅れようとはしなかった。それが私たちのもとにやって来るときも同じであろう。私たちは、彼らよりも早めにその通知を受け取るかもしれないが、その時刻になったら、いかなる遅延もないであろう。おゝ、族長よ。あなたの足を床の中に入れるがいい[創49:33]。あなたは死ななくてはならず、生きてはいられないのだから! あなたの妻に最後の口づけをするがいい。十字架の老兵士よ。あなたの手を子どもたちの頭に置き、臨終の祝福を与えるがいい。いくら祈っても、あなたのいのちを延ばすことはできず、いくら涙を流しても、あなたの生の渇ききった泉に一滴たりとも加えることはできないからである。あなたは行かなくてはならない。《主人》があなたを呼んでおられ、彼はいかなる遅延もお許しにならない。しかり。あなたの家族全員がそのいのちを犠牲にして、あなたにもう一時間の猶予を購う覚悟をしていたとしたも、そのようなことは起こりえない。一国が、進んで全焼のいけにえとなり、その主君に、もう一週間だけ統治する時を与えようとしても、そのようなことは起こりえない。信者の群れ全体が自ら進んで暗い地下墓所を踏み歩き、自分たちの牧師のいのちをもう一年だけ保ってもらうことに同意したとしても、そのようなことは起こりえない。死は何の遅延も猶予しない。時は来た。時計は打った。砂の粒は落ちきった。そして、自分たちの時間が来たときの彼らが戸外で、突然の事故によって死んだのと同じくらい確実に、私たちも確実に死なくてはならない。
また、やはり覚えておきたいのは、彼らの場合と同じように、死は私たちのもとに恐怖とともにやって来る、ということである。ことによると、材木の砕ける轟音や、隧道の暗黒や、煙や蒸気や、女たちの悲鳴や、死に行く男たちの呻き声はないかもしれないが、死は恐怖とともにやって来る。というのも、私たちがどこで死と出会うとしても、キリストのうちにいないとしたら、また、かの羊飼いの鞭と杖[詩23:4]が自分の慰めとなっていないとしたら、死ぬことはぞっとするような、途方もないことに違いないからである。しかり。おゝ、罪人よ。たといあなたのからだが、ふかふかした枕の上に頭を横たえていても、妻の優しい腕があなたをかかえ起こしていても、優しい手がべたつく汗を拭ってくれていても、この怪物と向かい合い、彼のとげを身に感じ、彼の恐ろしい領土に入っていくのは、すさまじいわざであることに気づくであろう。用意していない人が死ぬのは、いついかなる時、いかなる場合、いかに最善かつ最も好都合な環境においても、すさまじいわざである。
さていま私はあなたを家に送り返すにあたり、この1つの考えを記憶にとどめておいてほしいと思う。私たちは、死につつあるものであって、生きつつあるものではなく、じきに世を去るであろう。ことによると、私がここに立って、こうした神秘的な事がらを無遠慮に語っているうちにも、たちまちこの手がだらりと垂れ下がり、呂律の回らぬ話を語っているこの口が沈黙することになるかもしれない。至高の権威よ。おゝ、永遠の《王》よ。おいでになるときに、おいでください。おゝ! 願わくは決して、時間を浪費している時にあなたが踏み込まれることがありませんように。むしろ、私が高い瞑想に包まれ、自分の大いなる《創造主》をほめたたえているところにやって来られるように。貧しく乏しい人々に対して、あわれみのわざを行なっているところに、あるいは群れのあわれで困窮した者たちを腕で抱きかかえているところに、あるいは失意のうちにある人々を慰めているところに、あるいは福音の喇叭を耳しいた滅びゆく魂の耳に吹き鳴らしているところに来てくださるように! そうであれば、いつなりともおいでください。もしあなたが生にあって私とともにいてくださるならば、私は死にあってあなたにお会いすることを恐れません。だが、おゝ、私の魂よ。自分の婚礼の服を着る備えをするがいい。そのともしびの芯を整え、そのあかりが燃えているようにするがいい。自分の《主人》に会い、その主の喜びに入る備えをするがいい。魂よ。あなたがたは救いの道を知っている。あなたがたはそれを何度となく聞いてきた。もう一度聞くがいい! 「主イエスを信じる者は永遠のいのちを持つ」*[ヨハ3:36]。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。「あなたの心で信じて、口で告白するがいい」*[ロマ10:10]。願わくは聖霊が、その両方を行なう恵みをあなたに与えてくださるように。それが行なわれさえしたら、あなたはこう云えるのである。
「来たれ、死よ。また、天界(あま)つ一団(つかい)よ、
わが魂を かかえ去るため!」----
事故は罰ではない[了]
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