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今は

NO. 603

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1864年12月4日、主日朝
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」。――IIコリ6:2


 私たちは、いつが最上の時代かという問題がしばしば論じられるのを耳にする。ある人々は、年がら年中、「古き良き時代」をたたえる歌を歌っている。とはいえ、歴史の頁を読めば、そうした古い時代に何か特に賞賛されるべき値打ちがあるとは思えない。抑圧や、無知や、迫害や、数多の苦しみが、歌の題目としてふさわしいというのであれば別だが。年輩者たちは、目に涙を浮かべながら、「昔のほうが今より良かった」、と云うのが習い性になっている。だが、そうした問いは知恵のあるものではありませんよ、と彼らに告げるとき、私たちにはソロモンの知恵という後ろ盾がある。「『どうして、昔のほうが今より良かったのか。』と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない」[伝7:10]。他の人々は、常に現在の多事多端な時期を誇りとしている。このような時期はこれまでになかった。これこそ、発明と進歩の年代、自由と光の時代なのだ。今こそ奴隷制はその足枷を投げ捨てるに違いなく、迷信はそれと同じ穴の狢ども、もぐらやこうもり[イザ2:20]の間に身を隠すに違いない、と。しかし、私には今世紀が、何か非常に熱狂的な称賛を必要とするような黄金の世紀であるとは感じとれない。その最大の美徳の数々を相殺するような、いやまさる様々な罪がある。自由へ向けてのなされている進歩は、放縦へ向けてのその進展にくらべれば遅々たるものである。種々の障壁が打ち壊されてきたことは確かだが、いくつかの所では防壁までが倒壊してきた。多くの人々は、目を輝かせて未来を待ち望んでおり、彼らの宣言するところ、もし「もうほんの少し待つ」ことをしさえすれば、「良い時代がやって来る」という。先を眺めさえすれば、この獣は殺され、かの鉢はぶちまけられ、別の封印が解かれるであろう。そのときこそ私たちは、繁栄の時代に達するのだ、と。私たちは、このように注意深く見守りながら待っている人々に同意する。黄金時代はまだ来ていない。《再臨》こそ、世界の最善にして最も輝かしい希望である。それは、自らの王を愛するあらゆる者が執拗にこう叫ぶほどである。「すぐに来てください。そうです。主イエスよ、すぐに来てください」[黙22:20参照]。

 しかし、時や時期について語っているときに、私たちの思いから離れるべきではない1つの思想がある。すなわち、今である。今は、――たった今は、――この現在の飛び去りつつある瞬間は、――向こうの大時計の秒針によって刻まれつつある一秒一秒は、――それをもって私たちが働きを行なわなくてはならない唯一の時である。私は、過ぎ去った日々では何も行なえない。未来の日々では何も行なえない。――それでも、私はそうした日々に手を差し伸ばす。――だが、それを活用することはできない。過去と未来という畑は、私の耕作範囲をはるかに越えている。私は未来を耕すことも、そこに種を蒔くこともできない。過去を刈り込んだり、矯正することもできない。あらゆる点から考えて、私の有している唯一の時間は、たった今、過ぎ去りつつある時間である。私の有している、と云っただろうか? 私が有していると云っている間にも、それは過ぎ去ってしまう。天空を駆け下る流星のように、あるいは、はるか彼方を飛ぶ鷲のように、あるいは、水平線の向こう側に消失する足の早い船のようにである。

 現在の時だけが、私の有するだろう唯一の時である。何らかの未来が現在になる前に、私は永遠に呑み込まれているかもしれない。私の知る限り、この日が私の生涯最後の日になることもありえる。そして、向こうの太陽がその安息所へと沈むとき、私も、時間に関する限りは自分の安息所へと沈むことがありえる。たといそれより多くの時が私に割り当てられているとしても、それは現在の時という装いや形を取らずには、決して私のもとにやって来ないであろう。私は今はそれを未来と呼んでいるが、それを得るとき、例えば、1866年か、1880年にとって、それは今のこの瞬間と全く同じようなものであろう。私にとって、そのとき、それは現在となっているであろう。そういうわけで、あらゆる点から見て、いかに私たちが過去や未来について思索しようと、現在の瞬間だけしか私たちは有していないし、有さないであろうし、有することはありえない。そして、それが重要となるのは、もし私たちが自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものとしたければ[IIペテ1:10]、思念のすべてをそこに集中すべきだからである。本日の聖句によって私たちは、その厳粛な務めへと差し向けられており、非常に鋭利な議論によってそうされる。

 本日の聖句が一個の引用句であることは察されているであろう。いかに私たちは旧約聖書を尊ぶべきであろう! もしも霊感された神の人々が、聖霊によって語りながらも旧約聖書を引用したとしたら、その宝石で飾られた幾多の文章は、いかに価値あるものに違いないことか! ここで使徒が引用しているのはイザヤ書49章8節である。その箇所で、主なる神はメシヤに向かって語りかけている。私たちの主イエス・キリストに向かって語りかけて、こう云っておられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」。だから、この節の前半はイザヤ書からの引用であり、この節の後半は、その箇所に対するパウロの注釈である。「確かに、今は恵みの時……です」。彼は自分の主題聖句を旧約聖書から取り上げているが、それをもとに私たちに新約聖書の説教を与えているのである。使徒が云わんとすることをつかめるかどうか試してみよう。

 パウロがイザヤ書を読んでいたときに察知したところ、主なるエホバは、この、「人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者」[イザ49:7](これは、主イエスでなくて誰であろう?)に向かって明確にこう云っておられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え……た」。イエスの吐息も、涙も、ゲツセマネの園における血の汗も、顧みられないまま落ちはしなかった。それはアベルの血のように[創4:10]地面から叫び声を上げ、天で聞かれて恵み深くも受け入れられた。1つの答えが与えられた。これは、あの御使いが天から降って《救い主》を力づけたことによってはっきり証明された[ルカ22:43]。だから、預言者の言葉はこうつけ足している。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」。使徒は、ここから次のように推論している。神が恵み深く受け入れてくださったキリストが、その民の代表者であったからには、神はそれによって、人々を恵み深く受け入れる時代の到来をお告げになったのである。《救い主》が恵み深く受け入れられたということは、使徒の見解によると、罪人たちが恵み深く受け入れていただけるということであった。キリストの訴えが聞き届けられた以上、――キリストの祈りはご自分のためではなく、私たちのためのものであった。――それゆえ、私たちのための恵みの時が始まったのである。キリストがかの木へと赴き、その御手を釘に向かって伸ばし、その頭を垂れて死に渡され、「完了した」[ヨハ19:30]、と仰せになった時から、開始したのである。この聖句を次のように云い換えるがいい。「恵みの時に、わたしは保証人なるイエスに答え、救いの日に、力ある《救い主》である彼を助けた。それゆえ、あなたがた、わたしの民よ。あなたがた、あわれな、失われた、さまよっている罪人たちよ。あなたにとって、今は恵みの時、今は救いの日なのだ」。もしキリストが死ななかったとしたら、決して救いの日などなかった。キリストが恵み深く受け入れられなかったとしたら、決して私たちのもとに恵みの時がやって来ることはありえなかった。だが、この、人間の代表者なるお方が神の恵みをいただくことができ、その完全したみわざを通して、その恵みをご自分の上に永遠に確保された以上、神の御心の中には、キリストによって代表されている者たち、すなわち、キリストがとりなしておられる、そむいた者たち[イザ53:12]への恵みがあるのである。

 いま私たちはこの聖句を取り上げて、神の御助けがある限り、それを用いて、第一に信仰者たちの今を眺めたい。それから、罪人たちの今を眺めよう。そして、その後でこの聖句から飛び立って、天国における今について、いくつかの思いを差し出したいと思う。そして、地獄における今についての、いくつかの厳粛な考えをもって閉じることにしたい。

 I. まず第一に、《信仰者にとっての今》である。信仰者にとって、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」。

 信仰者として、キリスト者が現在に生きることは良いことである。私は、信仰者としてと云っている。というのも、悲しいかな! 私たちの信仰を過去のものとしようという1つの誘惑があるからである。今から数えてほぼ十六年前に、私は最初に十字架につけられた《贖い主》を仰ぎ見た。その時、私は輝かされ、私の顔ははずかしめられなかった[詩34:5]。では、今の私の中には、こう云おうとする誘惑があるだろうか? 私は、あの年少の日々に行使した、キリストを信じる信仰によってずっと救われているのだ。それゆえ、今の私は当時とは異なる立場にあるのであり、最初に感じたような思いを今は感じる必要はないのだ、と。もしそのような誘惑があるとしたら、それは振り払わなくてはならない。それは、凍てつく気候の中で、人が命にかかわるまどろみを振り払わなくてはならないのと同じである。今朝の私も、私自身の内側では今なお、かつての私と全く同じであると感じなくてはならない。厭わしい罪人で、何の値打ちもなく、報いを受けて当然であり、地獄に堕ちてしかるべき者である、と。ということは、どうなるだろうか? 何と、そのため私は今朝も、私の救いのあの最初の瞬間に立っていた所に――《救い主》の十字架の根元に――立っていなくてはならない。そして、上を仰いで、魂を贖う主の血潮が流れるのを見なくてはならない。主が私のために神との平和を作り出されたと知って、天来の確信に満ちなくてはならない。この瞬間、私の愛する兄弟たち。あなたのしかるべき地位は、血によって救われた罪人としての地位である。あなたの赦罪がしたたっている、あの愛しい御傷を仰ぎ見る者としての地位である。その時以来、あなたは数多くの美徳を得ているだろうか? 神の恵みによって、あなたの信仰には勇気を、あなたの勇気には経験を、あなたの経験には兄弟愛を、兄弟愛には愛を[IIペテ1:7]加えてきただろうか? だが、そうしたすべてにもかかわらず、あなたの最も安全で、最も幸福で、最も聖く、最もすぐれた場所は、十字架の根元にある。あなたの手の中に、自分の救いの代価となるような、こうしたものを何1つ持っていないまま、あなたの《贖い主》を仰ぎ見ている状況にある。このお方だけが、あなたのための身代金を見いだしてくださったのである。そのあなたの婚礼の日以来、あなたは多くの罪を犯してきた。あなたは、それらを、恐れおののくこともなく、あえて眺められるだろうか? いかにしばしば私たちは、私たちの主を悲しませてきたことか! 主に対する私たちの愛! それが、愛などと呼べるしろものだろうか? 主を信じる私たちの信仰、それがいかに不信仰と入り混じっていることか! 私たちの熱心、いかに利己心が加味されていることか! 私たちの謙遜、いかに高慢で汚されていることか! 私たちの忍耐、いかに呟きで損なわれていることか! 私たちのあらゆる良いものは傷物であり、無価値なものに成り下がっている! 私たちの心という土壌は、いかなる雑草の収穫を生み出してきたことか! 自らの内側をのぞき込むとき、私たちは見てとる。「私たちのうちに住む霊は、ねたむほどに渇望する」*[ヤコ4:5 <英欽定訳>]ことを。そして、あらゆる汚れた鳥が、私たちの心の中に宿を求めようとする。下らないものの生い茂る潅木ででもあるかのようにである。ならば、どうすべきだろうか? 何と、今すぐ、こうした一切の罪をかかえて出て来て、もう一度あの泉で身を洗うがいい。それは、その満ち満ちた豊かさをいささかも失っていない。そして、かの尊い血の力を感じるがいい。それは、その効力をみじんも減じさせていない。どこか高遠な場所へ登りたいという誘惑を私は知っている。だが、あの自慢満々のパリサイ人が受け入れられなかったことを思って警戒しよう。そして、あの謙遜な取税人が義と認められたことから教えられ、今もこう叫ぼう。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、と。神の御前で教役者ぶって生きようとしないように用心するがいい。同労の教役者たち。それは、あわれな生き方である。公務の上でしか生きることなく、密室に行くことも、神の家に入ることも、単に特定の職業に就いているからだけでしかないという生き方は、おゝ! これは飢えさせられる働きである。もしあなたが、ただの教会員として生きることをしがちであるとしたら、世俗の人々とさほど変わりばえのしない生き方をしがちだとしたら、どうか自分を奮い立たせてそこから逃れてほしい。そして、パウロとともに告白してほしい。「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」[ガラ2:20]、と。キリスト者のしかるべき身分は、恵みの記念碑(かたみ)、血にて救わる罪人となり、そこから一吋も越えないことである。私はイエスにあって、イエスに基づき、イエスのために、イエスとともに生きており、じきに完璧にイエスと似たものになることを希望している。私は思い起こさなくてはならない。もし一瞬でも私の魂がキリストから離れて立ち、もはやキリストに頼らず、もはやキリストの義に覆われなくなるとしたら、その瞬間に、私は罪に定められるに違いないのだ、と。というのも、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないが[ロマ8:1]、キリストから離れてあるすべての魂は、すさまじいしかたで罪に定められるからである。あなたがたは、あのあわれな盗人の身分よりはるかに高い所へと登ってしまっているのだろうか? もう一度戻って来るがいい。兄弟よ。あなたは危険な高度へと登ってしまっており、おそらく、それがハマンの吊された絞首台[エス7:10]であることに気づき、彼とともに吊されることになるかもしれないからである。あるいは、あなたは自分の堕落を感じるあまり深みへと沈みすぎ、なおもあなたを救うことのできるイエス・キリストにより頼むことを忘れてしまっているだろうか? 私の兄弟よ。底知れぬ所の穴から目を上げるがいい。というのも、そこには水が全くなく、あなたははなはだしい飢餓の中で滅びるだろうからである。おゝ、ならば、そうしたすべてを捨てて、イエスだけを取るがいい! イエスのみなるぞ。これが、死の門における私たちの合言葉でなくてはならない。そうすれば、それによって私たちは天国に入るに違いない。私たちは主なるキリスト・イエスを受け入れたのと同じように、主なるキリスト・イエスにあって歩まなくてはならない。主こそアルファでありオメガでなくてはならない。初めであり終わりであり、創始者であり完成者であり、最初であり最後でなくてはならない[黙22:13; ヘブ12:2]。信仰者として私たちは、聖霊なる神の恵みにより、自分たちの信頼を、最初に置かれたところにとどめ続けようではないか。神が私たちのもろもろの罪のためのなだめの供え物として、公にお示しになった[ロマ3:25]お方のうちに。

 「今は」という言葉をもう一度取り上げ、告白者としてのキリスト者を眺めるがいい。今は、あなたは神の家の中にいる。私の愛する方々。そして、自分がキリストに従う者であると告白していることを思い起こしている。それゆえ、今は、あなたは聖なる賛美歌を歌い、神への厳粛な祈りに加わっている。キリスト者が神への礼拝においてすべき通りにである。だが明日の朝、ことによると、あなたがたの中のある人々は、コペンハーゲンが原市場にいるかもしれない。あなたがたの中のある人々は、ニューゲート市場にいるかもしれない。あなたがたの中の別の人々は、自分の主人の家で火をたきつけているかもしれない。別の人々は、自分の大人数の家族の世話を焼いているかもしれない。別の人々は店の鎧戸を開けているかもしれない。では、愛する方々。あなたは思い起こすだろうか? そのとき、あなたがいる場にあって、今は自分はキリスト者なのだ、と。あなたは、「私は昨日はキリスト者だった」、と云うべきではない。むしろこう云うべきである。「今は、今の私は、キリスト者なのだ」、と。得意客が入って来るであろう。ことによると、取ってしかるべきもの以上のものを取ろうとする誘惑があるかもしれない。ぜひ思い起こしてもらえるだろうか? 「今は、私は神の子どもなのだ」、と。「昨日、タバナクルでスポルジョン先生の話に耳を傾けていたときには」、ではなく、今は、である。あなたが市場にいるとき、そこには、あなたをうるさく悩ませ、苦しめるものがごまんとあるであろう。ことによると、あなたはこう思うかもしれない。「ここでは、私は神の臨在を享受できない」、と。おゝ! だが、私の愛する兄弟よ。「今は恵みの時」である。羊を買い、雄の子牛を売り、鎚を振るい、鋏で切り、鍬で働き、自分の羊の面倒を見るとき、――今は、今は、今は、救いの日なのである。あなたは、なおもキリスト者である。それゆえ、キリスト者として行動するがいい。しかし、あなたは大いにうるさく悩まされ、苦しめられている。あなたをいじめる者がおり、物事はうまく進まない。そうした、ちょっとした激情の高まりを何にもましてよく抑えることのできるもの、暴れたくなる気分を何にもまして制することのできるもの、それはこう思い起こすことである。「今は、今の私は、キリスト者なのだ。――このような今でも」、と。真のキリスト者は、自分の性格を振り払うことができない。その人は、本当に生地のままの人である。その人は、常にキリスト者でなくてはならない。私は先日、とあるスコットランド人の穏健な教役者の話を聞いた。彼は、自分の教区にいるひとりの人によって非常に怒らされて、こう云ったという。「もし私が教役者でなかったとしたら、あなたをしこたまぶちのめしていますぞ」。だが、それからさらに苛立たせられたとき、彼は自分の上着を脱ぐと、こう云った。「さあ、教役者はそこだ。――そこに寝そべっているぞ」。――そのとき彼は、襯衣姿になっていた。――「そこにいるのが教役者で、私はただの何の誰それだ。そして、お前に当然の報いを与えてやるわ」。そして、ただちに相手の男をしこたまぶちのめしたというのである。さて、その男がそれに値していたということは、本当にありえることだが、それが私の云いたいことではない。だが、もしある人が、「そこに教役者が寝そべっているぞ」、と云えるとしたら、あるいは、今晩あなたが自分の服を脱いだとき、「そこに《教会》の会員が寝そべっているぞ」、と云えるとしたら、あるいは、善良な婦人よ。もしもあなたが、自分の洋服を脱いだとき、あなたの一番上等の服を衣装箪笥に吊しながら、「さあキリスト者は、しまいましょう」、と云えるとしたら、その場合、あなたには全く何のキリスト教信仰もないのである。持つに価するような信仰は何も持っていないのである。あなたには、あなたを罪に定めるだろう、悪魔どもの信仰はあるが、あなたを救うだろう、キリスト者としての信仰はない。大切なのは信心深げな上着ではなく、更新された心である。どうか、このことを、いついかなる時もあなたの思いにとどめておいてほしい。「今は、私は恵みによって受け入れられています。今は、私は救われています。どうして、私のような者がこのようなことを行なえるでしょうか? 『どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか?』[創39:9]」 モルデカイは一度、王服を着たことがあったが[エス6:11]、すぐに脱いでしまった。本当は王ではなかったからである。そして、それと同じように多くの人は行なっている。神の家の中では、キリスト教信仰の装いをしているが、家に帰ると、それを脱ぎ捨ててしまうのである。エリザベス女王の顧問官であったバーリー卿は、自宅に帰り着いたとき、国事の煩わしさにむしゃくしゃしたあまり、自分の衣を脱ぐと床に投げ捨てて、云ったという。「そこに横になっていろ、大蔵卿殿」、と。あゝ! 一部の人々のキリスト教信仰は、彼ら自身にとって何とうんざりさせられるものである違いないことか! また、いかに嬉々として彼らはその束縛を脇に打ち捨てることか! だが、あなたがた、本当に主のものである人々は、自分の信仰が絶えざる助けとなっていること、また、自分の信仰告白が自分の不断の誉れとなっていることを感じているものと思う。あなたは神から生まれたので、罪を犯したいとは思わないし、罪のうちを歩むこともできない[Iヨハ3:9]。

 かりに、ある兄弟が自分の洋筆を手に持ち、時として私たちが猛烈な手紙と呼ぶものを書こうとしているとしよう。――だが、例えば、ひとりの御使いが、それを認めている彼の耳元でこう囁いたものとしよう。「今は、今のあなたは、神の選民のひとりなのですよ。あなたはキリストの尊い血によってすでに洗われたのであり、今はキリストのからだの器官であると告白しているのですよ。王となり、神のための祭司となっているのですよ」。何と、思うに彼は、洋筆を投げ捨て、その便箋をずたずたに引き裂くであろう。あるいは、あなたのあわれみを乞い求めている、どこかのあわれな魂に対して、まさに非常手段に訴えようとしているとき、もしあなたがこう思い起こすことができたとしたらどうであろう。今はあなたは、今でさえ天の相続人なのである、と。思うにあなたは云うであろう。「主よ。私が、自分の信仰告白にふさわしく行動できる恵みをお与えください。そして、自分の帯びている性格を汚さないようにさせてください」、と。あなたの信仰告白および、それがもたらす義務に関して、この「今は」を常に覚えておこうではないか。

 愛する方々。あなたの心を慰めるために、次のことをあなたに思い起こさせてほしい。すなわち、今は、あなたは神の子どもとして、現在の種々の特権を所有しているのである。私は、今朝のあなたが、いかなる心持ちをしているか知らない。あなたは、非常に大きな誘惑を受けているかもしれない。何らかのからだの病のために、明朗とは到底云えない気分をしているかもしれない。だが、もしあなたがキリストを信じているとしたら、思い出すがいい。今は、あなたは神の子どものひとりなのであり、後の状態はまだ明らかにされていないが、キリストが現われたなら、キリストに似た者となるのだということを。なぜならそのとき、あなたはキリストのありのままの姿を見るからである[Iヨハ3:2]。まさに今の瞬間、私は、キリストを信じる信仰者として、完全に罪赦されている。もし私がイエスを信じているとしたら、罪のしみ1つ、私の上には残っていない。あの尊い血で洗われた魂はみな、新雪のように白い。この非常に嬉しい真理のことを考えるがいい。意気阻喪しているキリスト者よ。そして、あなたの顔が、もはや以前のように悲しげでないようにするがいい。あなたの信仰の目はかすんでおり、あなたの種々の証拠は非常に微かであり、あなたの種々の恵みは衰えている。だが、この瞬間のあなたは、かの《千歳の岩》にあなたの魂がより頼んでいるとしたら、完全に赦されており、赦免されており、無罪放免にされている。あなたは、あなたのもろもろの罪にもかかわらず、完全に義と認められている。あなたの《救い主》の義を着ているあなたは、神の御前では全く現実とは思われないほど美しい姿をしている。あの花嫁に対するソロモンの言葉は、あなたに対するキリストのことばである。あなたが一千もの心配事に悩まされているとしても関係ない。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」[雅4:7]。主の義で覆われ、主の血で洗われている以上、神のきよく聖なる御目でさえ、あなたには何の欠点も見いだせない。そして、このことの結果、あなたはこの瞬間に恵み深く受け入れられている。神は「ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない」[民23:21]。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」[ロマ8:33]。神が怒りをこめてあなたをご覧になることは決してない。あなたの心は罪と格闘し、罪に悩まされているかもしれないが、それでも、もしあなたが神の御子により頼んでいるとしたら、神の愛は、いかにしてもとどめられない川となってあなたに向かって流れているのである。この甘やかな思想を考えるがいい。そして、そのかぐわしい香りであなたの魂を満たすがいい。いま神に愛されている者、ほむべきお方の全能の愛情の的となっている者が、今のあなたである。否。それをも越えて、あなたは単に恵み深く受け入れられているだけではない。今はキリストと結び合わされているのである。愛する信仰者よ。あなたは、そのことを十分に理解できるだろうか? あなたは、キリストのからだの一器官であり、キリストの肉の、骨の、一部分なのである。この瞬間に、あなたと栄光の主との間には、生きた結びつきがあるのである。かしらなる主からの生き血があなたに流れ込んでいるのである。そして、この瞬間、あなたが感情的には最悪の状態にあろうと最上の状態にあろうと、あなたは今はイエスと一体なのである。永遠の結合によって1つなのである。私たちが自分の現在の種々の特権を悟ることができれば、どんなに良いことであろう。私たちは、来たるべき天国については考えていながら、地上の天国を忘れている。最初のことは行なうべきである。だが、二番目のことも怠るべきではない。恵みを受けている人々は、楽園の果実が壁を越えて張り出した枝に生っていることに気づき、かの真珠の門をくぐる前から、それを摘み取っては食べ始めるのである。さあ、キリスト者よ。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」。イエスが恵み深く受け入れられている以上、あなたも今からさえ受け入れられている。あなたの現在の種々の特権に頼って生きることにし、喜ぶがいい。

 思い起こすがいい。現在の特権がある場合は常に、果たすべき現在の義務があるということを。それで私は、いま爪弾いたばかりの弦を奏でることにしよう。罪人たちにとって「今は恵みの時」である以上、おゝ、キリスト者。今はあなたが働いて受け入れられる恵みの時である。私は、あなたが何をしようと意図しているか知っている。あなたには、数々の大きな計画と目論見がある。私の兄弟よ。私はあなたが明日、何をするつもりでいるかには関心がない。だが、あなたが、きょう何をしようと意図しているかについては関心がある。おゝ! 私たちのこの白日夢の数々よ! 私たちは常に、もう一、二年もしたら、これこれくらい勇敢な信仰の擁護者になろうと意図している。これこれくらいキリスト・イエスの立派な兵士になろう、これこれくらいすぐれた魂の獲得者になろうと意図している。私の愛する兄弟よ。あなたは今は何をしているだろうか? その瞬間が、そこを飛び去って行く。それは、翼の上に何を乗せているだろうか? 時の流れのもう一滴が過ぎ去った。その水晶の表面には、あなたのいかなる行動が映っているだろうか? あなたは今は何事かを行なっているだろうか? 「分かりません」、とある人は云うであろう。「たった今の自分に、何ができるかなど、分かりません。この礼拝が閉じたら、私は家に帰るでしょう。それから、何かを行なうように努めましょう」。どうか覚えておいてほしいが、「今は恵みの時」なのである。それゆえ、今あなたの心を暖めるようにするがいい。そして、礼拝が終わったときには、自分が「今は」について聞いたことを考え、同じ会衆席に座っている人々に語りかけ始めるがいい。あるいは、帰路の途中で出会うだろう誰かに話をするがいい。そして、明日、こう云ってはならない。「日曜は終わった。そして、私は週日には何も善を施すことができない」。むしろ、この「今は」という言葉の喨々たる響きが聞こえているものと考えるがいい。あなたには、救われていない妹がいる。いま彼女のために祈るがいい。あなたには、まだ回心していない弟がいる。じかに話せないというなら手紙を書くがいい。それも、今そうするがいい。訪問が必要な裏路地、袋小路がある。教えを必要としている人が死にかけている。――今それを行なうがいい。あなたには、何らかの才質があると感じているだろうか? 今それを用いるがいい。あなたは、もう十年以内に、もっとすぐれた活動範囲が得られるだろうと考えている。どうか、いま何らか活動範囲を得てほしい。というのも、今は救いの日だからである。もう一度云うが、私はあなたが、あなたの明日で何を行なうかに関心はない。もしあなたが神に、あなたの今をささげようとしさえするなら、あなたの明日は万事問題ないであろう。だから、義務についてキリスト者は、「今」を尊ぶがいい。

 もう一言だけ云わせてほしい。キリスト者よ。思い起こすがいい。いま自分が死ぬこともありえることを。今はいかなる見通しがあるだろうか? 勇気を出すがいい。もし自分の主が今おいでになるとしたら、腰に帯を締め[ルカ12:35]、自分のともしびを良く整えておくがいい[マタ25:7]。そうすれば、いつでも宴会に出る準備ができていることになる。その人は、盗人にでも襲われるかのようなことはなく、むしろ、自分の主がおいでになったときには、目を覚ましているところを見られる[ルカ12:37]はずである。そして、《再臨》の前に死がやって来るとしたら、その人はこう云えるであろう。「今は、私の安息に入ることにしよう。今は、私の主イエスの御顔を、主を隠す顔覆いなしに拝することにしよう。そして、主とともにあって、この上もなく幸いになろう」。栄光に富む《再臨》か、天国の至福が、今あなたの期待することである。あなたがもう二十年のうちに死ねば天国に行くだろうというのではない。むしろ、たとい今あなたが死んでも、たとい死の手が町通りであなたをつかむことになろうとも、あるいは、あなたが会衆席にいる間に、死の痺れさせるような影響力を感じることになろうとも、今は、天界の楽隊があなたを栄光の荘厳さへと運んで行き、あなたの愛するお方にあなたを引き合わせてくれるのである。今は、キリスト者よ。喜ぶがいい。今は、労苦するがいい。今は、《救い主》の十字架の根元で生きるがいい。

 II. 願わくは、《主人》が私たちに、第二の点を取り扱う力を与えてくださるように。それは、《罪人に関係する際の「今は」》という点である。

 ほとんどの人々の大きな難点は、ぐずぐずと事を引き延ばすことである。何も彼らは地獄に墜ちようと決意しているわけではない。むしろ、彼らは明日、救われようと決意しているのである。何も彼らは永遠にキリストを拒絶しているのではない。むしろ、きょうはキリストを拒絶するのである。だが、実を云えば彼らが、「今は」キリストを拒絶することを絶え間なく続けるのであれば、永遠に拒絶しているも同然である。罪人よ。あなたの「今は」を、人間としてのあなたの前に置かせてほしい。あなたは、じきにこの世を去り、忘れられてしまうしかない。秋には枯れ果てる花々のように、また、夏の間はひらひら飛び回っている昆虫たちのようにである。ならば、今は、永遠について考え、あなたの神に会う備えをすべき[アモ4:12]あなたの時間である。「まずは自分の商売に身を入れることだ、ジェームズ」、とある締まり屋の父親が云った。「良い職に就くがいい。その後で、自分の宗教のことを心がけるのだ」。ここに、一個の愚か者が口を利いている。無限の知恵であるお方が、こうお命じになったことを知らないのである。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」[マタ6:33]。あなたは神に、あなたの人生の残りくずを与えようというのだろうか? 何の老年期も全くないということにならないように気をつけるがいい。多くの蝋燭は、火をともされるや否や吹き消されるからである。子羊としてのあなたは、サタンのものになりたいのだろうか? そして、あなたがしなびて疲れ果てたときに、その骨と皮ばかりの、よろめく弱々しいものが持ち出されて、祭壇の上に置かれて良いだろうか? そうしないようにするがいい。あなたの花は、蕾のうちに摘み取って、それをイエスの御手に握らせるがいい。願わくはあなたが、あなたの若い日に[伝12:1]神を求める恵みを授けられるように。というのも、約束によれば、「わたしを早いうちに捜す者は、わたしを見つける」[箴8:17 <英欽定訳>]からである。人間として私はあなたに命ずる。「救いの日」は日が沈むまでの一日しかない以上、また、永遠の滅びという暗黒の夜があなたの上に臨むことになる以上、あなたの前に置かれている望みを捕える[ヘブ6:18]がいい、と。

 罪人としても、やはり私は、この「今は」に関して、あなたに語りかけよう。「今は救いの日です」。あなたはそれを、いま必要としている。神は今あなたを怒っておられる。あなたは、すでに審かれている[ヨハ3:18]。あなたが恐れおののかなくてはならないのは、地獄の苦悶だけではない。正気をしているなら、あなたは自分の現在の状態にも恐れおののくであろう。今は神もなく、今は望みもなく、今はイスラエルの国から除外され[エペ2:12]、今は罪過と罪との中に死んでおり[エペ2:1]、今は必ず来る御怒りにさらされているあなたは、今朝《救い主》を必要としている。若い男よ、若い婦人よ。私はこれから二十年後の疾患のための薬を蓄えるように命じているのではない。きょうの病こそ、あなたに直ってほしいと私が願うものである。私が心配せよとあなたに勧告しているのは、あなたが年老いたときにのしかかるはずの危険についてではない。あなたがいま瀕している危険についてである。それゆえ、あなたは今、救われる必要がある。

 しかし、ここに本日の聖句の美しさがやって来る。福音の下にある罪人として、私はあなたに思い起こしてほしいと願う。「今は恵みの時」であることを。私の話をお聞きの方々のうち、まだ回心していない人々のほとんどは、このことを信じていない。私には、あなたが何と云っているか分かっている。「私は、キリスト教信仰についてなら、色々と大いに考えてきましたとも」。だが、なぜあなたは今キリストを信じないのだろうか? 「よろしい」、とあなたは云う。「私は、そのことについて真剣に考えるよう、これから努力しましょう」。だが、あなたの考えの結果はどうなるだろうか? これまでに、これほど考えてきた後で、あなたは考えることで自分を救いに至らすことができると想像するだろうか? もし福音の命令が、「考えて救われよ」、であったとしたら、私は朗らかにあなたが一箇月も考えることを許すであろう。だが、その命令は、「主イエス・キリストを信じなさい」[使16:31 <英欽定訳>]であり、「確かに、今は恵みの時」なのである。「しかし、先生。そうしたことをあせって行なうべきではないと思いますよ」。あせって! ダビデは何と云っているだろうか? 「私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」[詩119:60]。あせって! 人が罪に定められる瀬戸際にあり、墓場すれすれにいるというときに! あせるなどということについて語らないでほしい。生死に関わる場合は、稲妻の閃きのように迅速に飛びかけようではないか。「よろしい。ですが、私はまだ準備ができていないように思うのです」。あなたは、神に背くことで、より良い準備ができると思うのだろうか? もしあなたが信じることをせずに一箇月生きるとしたら、一箇月罪の中で生きるのである。あなたは、より多く罪を犯せば、あなたのもとにやって来ているこの命令に従う準備がより良くできると思うのだろうか? 「いま主イエス・キリストを信じなさい」。「ええ。ですが、私の心はひどくかたくなに感じられるのです」。愛する方々。今週から来週、あるいは、来月、あるいは、来年の間には、あなたはそれを柔らかくすることができると思うのだろうか? 神のことばの中には、あなたにこう信じさせるようなものがあるだろうか? あなたは、いかなるしかたにおいてであれ、自分で自分の心を柔らかくすることができる、と。それは、恵みの大いなる働きではないだろうか? そして、この聖句が、「今は恵みの時……です」、と云うとき、これは次のように示唆していないだろうか? たといあなたにかたくなな心があろうと、それでも、今が恵みの時であることは真実なのだ、と。「よろしい。ですが」、とある人は云うであろう。「私は、十分に罪を確信している気がしないのです」。あなたは、自分がもっと罪を確信することになる別の時が恵みの時だと思っている。それは、取りも直さず、愛する方々。あなたが、「今は恵みの時」だとは考えていないということである。ここに、神とあなたとのいさかいの種がある。神は、「今は」と仰せになり、あなたは云うのである。「いえいえ。それが本当のはずありません。私がもっと罪を確信したとき、それがその時ですよ」、と。私の愛する方々。あなたは、完全に間違ってはいないだろうか? おそらく、あなたが今よりも罪を確信するようになることは決してないであろう。もしあなたが今こうした事がらについて考えるよう導かれているとしたら、そうである。あなたの心は確かに、時が経つにつれて、よりかたくなになって行くであろう。だが、より柔らかくなることは決してない。私は、ぐずぐず遅れることによって心が柔らかくされた人のことを一度として聞いたことはない。「ええ。ですが、私は家に帰って祈りたいのですが」。本日の聖句によると、あなたが家に帰って祈る時が恵みの時だとは云われていない。それが語るのは、「今は」である。そして、私はあなたが「今は」その会衆席にいるのを見いだしている以上、「今は恵みの時……です」。もしあなたが今キリストを信頼するなら、あなたは恵み深く受け入れられる。もしあなたが今、単純にキリストの御手に自分を投げかけようという思いにさせられるなら、今は、神とあなたの間で恵みの時となる。「よろしい」、と別の人は云うであろう。「私が今朝救われることになるなどという考えは、実に奇妙に思われます。確かに、多少は時間をおいてからになるに違いないではないでしょうか?」 本日の聖句は、「今は恵みの時……です」、と云う。それは、こうは云っていない。「何週間か、何箇月か続く恵みの期間があります。その間に私たちは、自分を恵みの状態に押し込まなくてはなりません」。むしろ「今」、一瞬のうちに、恵み深く受け入れられるのである。「しかし、それは本気で仰っているのですか?」、とある人は云うであろう。「私が、このようなあり方のままで、今朝キリストを信頼するなら、事前の準備を何もしていなくとも、恵みによって受け入れられると」。私の愛する方。それは私が本気で云っていることではない。聖書が本気で云っていることなのである。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」。罪人は、キリストに信頼した瞬間に救われる。そして、もしあなたが今キリストを信頼するなら、きょうがあなたにとって救いの日である。

 できれば、その聖句を眺めてみてもらえるだろうか?――今あなたの聖書を開いて、それを眺めてみるがいい。――特にあなたがた、この説教を聞くか読むかしている、まだ回心していない人たち。そこには、案内となるべき2つの道しるべがある。2つの「見よ」がある。「見よ。今は恵みの時です」<英欽定訳>。さて、立ち止まって、それを眺めるがいい。あなたは、それを信じるだろうか? 「はい」、あるいは、「いいえ」、と云うがいい。もう1つの「見よ」がある。――「見よ。今は救いの日です」<英欽定訳>。あなたは、それを信じるだろうか? 私があなたにこの聖句を眺めるように求めたのは、あなたに正面からそれと向き合ってほしかったからである。そして、あえて云えるものなら、「これは嘘っぱちだ」、と云ってほしかったからである。否。云えはすまい。では、あえてそう云えないとしたら、あなたが持ち出した一切の云い訳は、ことごとく消え失せなくてはならない。かたくなな心だの、十分に罪を確信していないことだの、祈りだの、聖書を読むことだの、準備をすることだのは、みなそうである。事は今、時計の秒針が1つ時を刻むうちに決まる。十五分ほどかけて起こる出来事としてではなく、一瞬のうちに、事はすべてなされる。「今は救いの日です」。では、あなたはそれに対して何と云うだろうか? 聖霊なる神は、今あなたの魂を導いて、こう云わせようとしておられないだろうか? 「恵み深い主よ。私の魂を今あなたにゆだねます」、と。おゝ! それですべては決着する。天国へと舞い上がるがいい、御使いたち! この知らせを持って行き、《救い主》の御国の進展を気遣わしげに見下ろしている霊たちに告げるがいい。栄光の相続人がまたひとり生まれたことを。放蕩息子がまたひとり自分の御父の家に戻ったことを。今は! 今は! 今は! おゝ、神よ。征服の恵みに勝利を収めさせ給え! いかに私の魂はこの聖句について切望してきたことか! そして、今それに手をかけると、望んでいる通りには取り扱うことができない。だが、もしできるものなら、私は、喜んであなたがたの中のある人々の手を取りたいと思う。――私が今あなたの手を取っているものと考えてほしい。――そして、私はあなたにこう云うであろう。私は、もう二度とこの聖句をあなたの耳に宣べ伝える機会を持てないかもしれない。あなたが、それを耳にする別の時が来る前に世を去ってしまうかもしれないからである。「よくなりたいか?」[ヨハ5:6] 「信じられるか?」 「信じる者には、どんなことでもできるのです」[マコ9:23]。古のナバルはダビデに云った。「このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている」[Iサム25:10]。彼は、よこしまな老いぼれではあったが、自分でも知ることなく、云い得て妙な一言を語ったのである。この場にいる一部の人々は、昔からの自分の主人のところから脱走したいと思っていないだろうか? 喜んでキリストの奴隷となりたい、もはや悪魔の奴隷でいたくはないという者はいないだろうか? おゝ、魂たち。もし神があなたに、サタンと縁を切りたい、キリストをとらえたいと望ませておられるとしたら、きょうは、キリストがあなたを拒否なさらない日である。というのも、主はすでに明確に、今あなたを受け入れてくださると仰せになっているからである。「今は恵みの時」だからである。「でも、先生。私は、悪徳に首までつかった遊女なんです」。それでも、「今は恵みの時……です」。「あゝ! ですが私は白髪頭になってしまいました。先生、私は七十か八十にもなっています。そして、その間ずっと罪の中で生活してきたのです」。しかり、だが、「今は恵みの時……です」。あなたは、それを信じるのか? 信じないのか? 「おゝ! 私は、これまで一千回も招きを拒否してきたのです」。しかり。だが、それでも、それでも神の豊かな恵みは云う。「今は恵みの時……です」、と。願わくは、あなたがたの中のある人々が、まさにこの朝、今あなたがその会衆席に座っている、まさにこの朝、決心するとしたらどんなに良いことか。今は、おゝ、生ける神の御霊よ。あなたが選んでおられた者たちを目覚めさせ、永遠のいのちへと取り分け給え。

 もはや他の2つの点については詳しく語る時間がない。それゆえ、それらについては、いくつかの示唆を示すにとどめよう。

 III. 《天国における》今は! そのことについて、あなたは考えられるだろうか? 天国における今は!

 彼らは今は、キリストとの交友を楽しんでいる。今は、栄化されたあらゆる霊との交わりで祝福されている。今は、その労苦と、その骨折り仕事と、その苦しみからの安息を得ている。今は、喜びに満ちている一方で、自らの黄金の立琴に合わせて歌っている。まさに今は、主の恩顧と、その全きいつくしみとに満ち足りている。今は、地上で知らなかったことを知っている。彼らが完全に知られているのと同じように、彼らも完全に知っている[Iコリ13:12]。彼らは今は、圧倒的な勝利者[ロマ8:37]であり、その棕櫚の枝を振っている。今は、あらゆる危険の恐れが締め出された所で安全にしている。彼らは、今は完璧であって、いかなる罪の汚点も腐敗の残物もない。今は、この上もなく祝福されている。私は、単に私の翼では行くことのできない所、また、私の目では見ることができない所を指さしているにすぎない。そうした者に、すでに世を去ったあなたの友人たちはなっているのである。あなたの妻は今はそこにいる。あなたの子どもであった、いたいけな幼子はそこにいる。あなたの兄弟はそこにいる。あなたの祖父はそこにいる。そして、私たちも、いま死ぬとしたら、神の御名はほむべきかな。私たちの中の多くの者らは、瞬時にして彼らが知っていることを知り、彼らが享受していることを味わうことになる。

 IV. それから、陰鬱なことを考えよう。――《地獄における今は》

 私の話を昨年聞いていた方々、またこの一年間聞いてきた方々の中の何人かは、今は――今は――地獄にいる! 今は、何の希望もやって来ない所にいる。今は、何の福音も決して宣べ伝えられることのない所にいる。今は、自分たちの浪費してきた数々の安息日、蔑んできた数々の機会を激しく悔やんでいる所にいる。今は、記憶が恐ろしい支配権力を握っており、彼らに自分たちのあらゆる罪を思い出させている所にいる。今は、「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」[マコ9:48]。そこで彼らは、火に責め苛まれている自分の舌を噛むが何にもならない。そこでは神の憤りが、トフェテ[イザ30:33]の見るもぞっとさせられる火の中で完全に明らかにされている。今は、かつては自分たちを誘惑する者どもであった悪鬼たちが、彼らを責め苛める者どもとなっている。今は、かつては愉快な仲間つき合いをしていた罪人たち同士が、吐息と、呻きと、涙と、歯ぎしりという陰惨な哀歌を高め合っている。今は、神の呪いを受けており、永久永遠に呪われている! そして、一瞬のうちに、それが、この場にいるあらゆる罪人の運命となりうる。またたくまに、私たちの間にいる、キリストから離れている者たちが、ひとりの例外もなしにそれを知ることになるかもしれない。血液の一滴でも腐り果てれば、――私たちが呼ぶであろうところの一千もの偶然が、それを引き起こしうるが、――そのとき、地獄があなたの割り当て地となるのである。あらゆる解剖学者が知っているように、一時間のうちの何百という折に、人間の体質の内的な仕組みを通して、私たちのいのちは危険にさらされている。否。そうではない。危険にさらされていない時間は一秒たりともない。「大いなる神よ! いかなる細き糸に、永遠に関することがかかっていることか!」

   「われらが生には 千もの発条(ばね)あり、
    一筋切れるば いのちは絶えなん。
    奇しきかな、千弦(ちすじ)の琴の
    かくも永くに、調子(ふし)乱さずは!」

私たちは、このような危険の中にいる間、自分の運命へと着々と去りつつある。

   「旅の天幕 夜 われら張り
    この日の行程(ほど)は 故郷(いえ)近づけり」。

しかし、あなたがた、未回心の人々がともにすることになる故郷の町とはどこにあるだろうか? 急行列車が初めてスコットランドまで通じるようになったとき、ある晩、駅にひとりの紳士が現れたという。背が高く、痩せぎすで、頬には消旅行用携行品耗性の紅潮が浮かんでいた。駅の荷物運搬夫たちが、山と積まれた彼の旅行鞄についてあれこれ尋ねた。そして、何人かの運搬夫にさんざん尋ねられた後で、もうひとりがやって来て云った。「旦那、行き先はどちらまでですかい?」 怒りっぽい性質をしており、ひどく急いでいた彼は云った。「地獄へだよ!」 そのとき、神のしもべがひとり、そこへ通りかかり、その答えを聞いた。彼は同じ客車に入ろうと努め、そうしたが、一番向こう端になった。見ると、この紳士は、色々な人々と自由闊達に四方山話をしていた。そこで、その人は思った。「できるときに、口を出すことにしよう」。そこで彼は、一般的な調子で会話に加わり、そうこうするうちに休憩駅に着いた。その機会をとらえて、彼は紳士に云った。「ご旅行が終わるのは、いつになりますか?」 「おゝ」、と紳士は云った。「今晩は、これこれの町を小舟で渡り、明日の午前十二時頃に旅の終わりに達することになりますよ」。この人は云った。「私の質問をお取り違えになったようですね。あなたは、ついさっき運搬夫が行き先を訊いたときには、全く別の所へ行くと仰っていましたよ」。「あゝ! そうですな、思い出しましたよ」、と紳士は云った。「ですが、私は時々苛々することがありましてね」。もうひとりの人は云った。「それは本当だったのですか? あなたは地獄に行こうとしているのですか? もしそうだとしたら、いつそこに着くと予想しているのですか?」 そして、相手の頬にはっきり浮かんでいる病について話を始め、こう警告した。もし別の路を求めて、唯一の隠れ場であるキリストへと逃げて行かないとしたら、確実にその陰惨な末路へと至ることになりますよ、と。この場にいる一部の人々は、もしも今朝、自分の行き先の貼り紙を貼られるとしたら、「地獄行き」と書かれなくてはならなくなるであろう。あなたは、それが真実であると知っている。では、あなたはいつあなたの旅を終えることになるだろうか。この場にいる一部の人々は、もう五十年生きられるかもしれない。願わくは、私のこの問いがあなたにつきまとってほしいと思う。そして、もしそれが、それ以前には祝福されなかったとしても、そのときには祝福されるように。「あなたはいつあなたの旅を終えることになるだろうか?」 いつあなたは地獄に着くだろうか? 今朝、あなたがたの中のある人々が心の中でこう云うようになるとしたらどんなに良いことか。「私は、そこへ向かって旅をしつつある。だが、神の恵みによって、急停止した。そして、もう一吋たりとも先へは進むまい。主よ。私に、天国へ行く備えをさせてください。今は私に、《救い主》を信頼させてください。そうすれば、私は生きることでしょう」。願わくは、神が、私のこの弱々しい言葉を祝福してくださり、ご自分の栄光を現わし、あなたに益を授けてくださるように。アーメン。

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今は[了]

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