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結婚の関係

NO. 762

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ。――わたしが、あなたがたの夫になるからだ」。――エレ3:14


 これは甘美な言葉である。――悩める良心にとって心地よい鎮痛剤である。この異様な慰めは、魂を元気づけ、そのあらゆる見通しにこの上もなく明るい色合いをつけるにふさわしいものである。こう語りかけられている人は、卓越して幸いな立場にある。サタンは今晩、躍起になってあなたを責め立てるであろう。キリストを信じる信仰者たち。彼は云うであろう。「神がお前の夫になるなどと信じる何の権利がお前にあるのだ?」 彼はあなたに、あなたの数々の不完全さを思い出させ、あなたの愛の冷たさを思い出させるであろう。ことによると、あなたの心が信仰後退している状態を思い出させるかもしれない。彼は云うであろう。「何と、こうした一切のものをまとわりつかせていながらお前は、増上慢にも神の御子と結ばれていると主張できるというのか? お前とあの《聖者》との間に結婚がなされるなどと、どの面さげて期待できるのか」。彼は、まるで聖潔の弁護者ででもあるかのように、あなたに告げるであろう。お前がいかなる者かは自分でも感じているはずだ。そのような者が、主と結婚するというような、えり抜きの特別な特権にあずかるなど到底ありえない、と。こうしたもろもろのほのめかしへの答えとしては、次のことで十分としたい。見れば分かるように、この聖句が語りかけられている相手は、心が元気良く生き生きとした状態にあるキリスト者たちではない。タボル山上にいて、キリストとともに変貌させられている信仰者たちではない。しみ1つないほど貞節で、美しく、愛の旗[雅2:4]の下で、自分の主とともに宴席に着いている花嫁ではない。むしろ、それが語りかけられているのは、「背信の子ら」と呼ばれる者たちなのである。神は、ご自分の教会が最も低く、最も卑しむべき状態にあるときに語りかけてくださる。そして、確かに彼女の罪を叱責せずにおいたり、嘆き悲しまずにいたり、彼女にもそれを嘆き悲しませずにおくことはなさらないが、それでもなおも、そのような状態にあってさえ、神は教会にこう云われる。「わたしが、あなたがたの夫になる」、と。おゝ! 確かに神が私たちの中のいずれかの者の夫になってくださることは、恵みにほかならない。だが、神が「背信の子ら」についてこのように語ってくださることは、まさに恵みの極致であり、恵みという大海の高潮である。神がアダムの堕落した種族のいずれかの者について愛のこもった調子でお語りになることは、「奇妙を通り越した奇妙、仰天すべき不思議」である。だが、ご自分に不実なふるまいをした者たち、ご自分に向かって顔ではなく背を向けてきたような者たち、神ご自身のものであるにもかかわらず、神を裏切ってきたような者たちを、神が選択し、彼らに向かって、「わたしが、あなたがたの夫になる」、と仰せになるということ、これは私たちの知りうる――あるいは、信じうる――いかなることをも越えた恩寵である。天よ、聞け。地よ、あがめよ。理解力あるあらゆる心よ、歌いどよめけ。しかり。あらゆるへりくだった精神よ、《いと高き方》のへりくだりを祝福し、賛美せよ! 元気を出すがいい。あわれな、うなだれた心たち。ここには、あなたがたの中のある者らのための甘やかな励ましがある。抑鬱し、悲しみに沈み、ひとり座している者たち。この泉から生きた水を汲み上げるがいい。水を汲む者たちの声[士5:11]によって、この水汲み場から遠ざけられてはならない。恐れてはならない。祝福を期待している間に呪われてしまってはいけない。もしあなたがイエスに信頼しさえするなら、もしあなたが、かつては低められたが今は高められている主にある、死活に関わる恩恵にあずかってさえいるなら、聖なる大胆さをもってこの聖句のもとに来るがいい。そして、ここにいかなる慰めがあろうと、それを受け入れ、それを喜ぶがいい。

 そうするために、ここで語られている関係を注意深く考察しよう。そして、私たちが経験的にそれをどこまで知っているか尋ねてみよう。

 I. 《ここで語られている関係を考察するとき》、注目されるのは、結婚という親族関係は、この上もなく近しいものでありながら、生まれによるものではない、ということである。

 結婚という人間関係は、生まれついての血族関係ではない。それは、その前半生の間は全く赤の他人ということもありえる二人の人の間に結ばれるものである。彼らは、その婚礼に先立つ数箇月間を除き、それまでほとんど顔を合わせたことがないこともありえる。両家はそれまで全く知り合っておらず、二人はごく遠く離れて、まるで正反対のあり方で暮らしていたことがありえる。一方は富裕で、広大な領地を所有しており、もう一方は貧乏で、困窮しきっていたこともありえる。家系によって、これは規制されない。いかに不釣り合いでも、妨げにならない。その結びつきは、生まれによるものではなく、自発的な協約、あるい契約によるものなのである。そうした関係こそ、信仰者とその神との間に存在するものである。神と人とが元来いかなる間柄であったにせよ、それは堕落によって一掃され、抹消されてしまった。私たちは縁もゆかりもない他人であり、外国人であり、種々のよこしまな行ないによって神からはるか遠く離れていた。それ以来、私たちは《いと高き方》と全く縁もゆかりもなかった。私たちは、神の御前から、その王位への反逆者として追放されていた。神の御力に反乱を起こした犯罪人と定められ追放されていた。私たちの魂と神との間には、何の親交もありえなかった。神は光で、私たちは闇であった。神は聖さで、私たちは罪であった。神は天であり、私たちははるかにずっと地獄に似通っていた。神のうちには至上の偉大さがあり、私たちは弱々しい微々たる者であった。神はあらゆる世界をご自分の御力で満たしておられるが、私たちについて云えば、一日で消え失せる被造物であり、何も知らず、しみのようにたやすく押しつぶされる[ヨブ8:9; 4:19]者である。神と一個の罪人との間の隔絶は、思うだに恐ろしい。神と被造物との間には、その被造物がきよい場合でさえ、広大な違いがある。だが、神と堕落した被造物との間には、――おゝ! どこの誰が、その無限の距離尺を測ろうなどとするだろうか? どこの何をもってすれば、これほど恐ろしく大きな裂け目に橋を架けることなどできただろうか? ただ1つ、主イエスがご自分の肉体の中に、また、ご自分の受難の中に見いだしておられたもの以外に何1つなかった。その無限のご計画を察知することなどいかにしてできただろうか? それは、成し遂げられた事実として私たちに啓示される以外になかった。そのご計画によって神は、私たちを和解させ、ご自分との交わりに導き入れ、私たちが神にめとられるようにしてくださったのである。さて、キリスト者よ。ひととき、自分がいかなる者であったか、また、いかに惨めな家族に自分が属していたか熟考してみるがいい。そのようにして、神の恵みの豊かさをほめたたえられるようにするがいい。神は、低い状態にあったあなたをめとり、ひとりの夫がなすべきすべての誓約をもって契約し、「わたしが、あなたがたの夫になる」、と云ってくださったのである。あなたは何者だっただろうか? それは、使徒がコリント人への第一の手紙の中で示した、下劣な違反者たちの暗い一覧表にほかならない(6:9、11)。その不潔な悪徳の数々を詳説することは差し控えよう。――その最後で彼はこう云う。「しかし……あなたがたは洗われ、聖なる者とされ……たのです」[Iコリ6:11]。彼の列挙する数々の罪悪に、私たちの中の多くの者らは手を染めたことがある。否、私たち全員がそうである! 私たちの父は何をしていただろうか? 私たちの父の家は何をしていただろうか? 私たちの目当ては何だっただろうか? 私たちは実行動で何をしていただろうか? 何を願望していただろうか? 私たちにはいかなる傾向があっただろうか? それは地上的で、下向きで、地獄に向かうものであった。私たちは神から隔たっており、その隔たりをいたく愛していた。しかし、主イエスは私たちの性質をお取りになり、イエスの上に主はご自分の民すべての咎を負わせた[イザ53:6]。では、それはなぜだっただろうか? 単に私たちを必ず来る御怒りから救うためばかりでなく、私たちが、自らの劣悪な状態から主の贖罪によって引き上げられ、御霊の力によって聖められ、ふさわしい者とされた上で、神との間に確立された1つの関係を有するようになるためであった。その関係は、天性によって形作られたものではなく、驚愕すべき恵みによって成し遂げられ、完成されたものであった。今晩、主に感謝をささげようではないか。私たちの掘り出された穴[イザ51:1]を思い起こしつつ、また、今や私たちが血族関係により、愛の絆により、主と結び合わされている事実を思い出しつつ、そうしようではないか。

 結婚という結びつきは、選択の結果である。この規則の例外として申し立てられるだろういかなるものも、道理に欠けたものにほかならない。なぜか? それらは愚かさとそむきの罪から生じているからである。いかなる例外もあるべきではない。双方の側に選択の余地がなかった場合、それはまず決して真の結婚ではない。しかし、確かに私たちの神なる主が私たちの夫となられる場合、また、私たちが神と結婚する場合、それは互いに選択し合うものである。最終的な選択は神にある。その選択がなされたのは、私たちの信ずるところ、世界の基が置かれる前[エペ1:4]であった。

   「太古(いやはて)の日の 煌めく光
    闇の影をば 放逐(ち)らす遼前(まえ)より
    御民は神の 聖き胸にて
    愛されおりぬ、永遠(とわ)の愛もて」。

神は決して、ある時点から御民を愛し始めたのではない。霊的な精神がそれほどふさわしくない思念をいだくことは不可能であった。神は、ご自分の聖定という鏡の中に彼らをご覧になった。その予知の目をもって彼らを予見された。山なす被造物の塊の中で、彼らは全員堕落し、滅びていた。だがしかし、神は彼らを見つめ、彼らを憐れんで愛された。彼らを選び、取り分けられた。「彼らを、わたしのものとしよう」、と主は仰せになる。この点では私たちは全員、同意している。そして、私たちは全員、第二の点でも同意すべきである。私たちもまた、私たちの神を選んだということである。兄弟たち。いかなる者も本人の意志に反して救われることはない。もし誰かが、自分は自分の意志に反して救われたのだと云うとしたら、それはその人が全く救われていない証拠であろう。というのも、不承不承な思いや無関心さは、心の一切の情愛が全くよそよそしいものであることを表立たせたものだからである。もし意志がなおも神と対立しているとしたら、全人が神に敵対している証拠である。天性によっては、私たちは神を選ばなかった。天性によっては、私たちは神の律法に反抗していたし、神の支配権から身を背けていた。しかし、こう書かれていないだろうか? 「わたしの民は、わたしの力の日に喜んで仕えるようになる」*[詩110:3 <英欽定訳> 参照]。あなたには理解できないだろうか? いかにして神が、あなたの自由意志作用を侵害することなく、種々のしかるべき議論と動機を用いてあなたの理解力に影響を及ぼされたかが。私たちの理解力を通して、私たちの意志は納得させられ、私たちの魂は自発的に引き寄せられる。それから私たちは、自分の反逆の武器を投げ捨て、《いと高き方》の足台の下で畏れ慎む。そして、今や私たちは、かつてはよこしまにも嫌悪していたものを自由に選び取るのである。キリスト者よ。あなたは今この時、キリストを、あなたの主また《救い主》として自分の心を尽くして選び取っていないだろうか? もしも、今一度、世を愛するかキリストを愛するかという選択が突きつけられることがありえるとしたら、あなたはこう云うではないだろうか? 「おゝ! 私の《愛する方》は、一万もの世界にもまさるお方です! 主は私のすべての愛を引きつけ、私のすべての情動を夢中にさせます。私は、何の余すところもなく自分を主に引き渡します。主は大いなる代価で私を買い取られました。ご自分の大いなる愛で私をかちとられました。その言葉に尽くせぬ魅力で私を有頂天にさせました。それで私は、自分を主に引き渡すのです」。ここでは、互いに選択がなされている。私たちの友人たちの中のある人々に私が願いたいのは、神が私たちをお選びになるという教理にそれほど抵抗するのを差し控えてほしいということである。もし彼らが偏見のない思いで聖書を読みさえするなら、彼らもそれをそこに見いだすものと私は確信している。私にとって常に説明しがたく思われるのは、人間のためにはあれほど声高に自由意志を主張する人々が、なぜ神にも多少の自由意志を認めないのかということである。私の兄弟たちも、自分が選びもしなかった誰かと無理矢理結婚させられたいとは思わないだろうと思う。では、なぜイエス・キリストには、ご自分の花嫁を選ぶ権利があるべきでないのだろうか? なぜ主はご自分の欲する者を愛するべきでないのだろうか? なぜ主は、ご自分の主権の御思いに従って、ご自分の御心と御手を与える権利を行使すべきでないのだろうか? 主の御心と御手に値することなど、いかなる手段によっても誰ひとりできないのである。いずれにせよ、知っておくがいい。私たちがこの教理に異議を唱えようが唱えまいが、主はご自分の選んだ通りになさるであろう。というのも、主はご自分のあわれむ者をあわれみ、ご自分のいつくしむ者をいつくしむ[ロマ9:15]からである。それと同時に、私が願いたいのは、この真理を信じている友人たちが、もう一方の真理をも受け入れることである。それも同じくらい真実なのである。私たちは、お返しとして本当にキリストを選ぶ。それも、私たちの自由意志作用を全く侵害されることなくそうする。一部の人々は、この2つの真理を同時に見てとることができない。彼らは、神があらゆる真理を二重にしておられることが理解できない。真理には多くの面がある。神の予定が真実である一方で、人間の責任もまた真実である。キリストが私たちをお選びになることが真実である一方で、更新されていない思いがキリストを選ぼうとしないことも真実である。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」[ヨハ5:40]。人間の罪とさばきというのは、こうである。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」[ヨハ3:19]。しかしながら、あなたの思いの中で決着をつけるがいい。神が、「わたしが、あなたがたの夫になる」、と仰せになるとき、それは双方の側でほむべき選択がなされることを暗示しており、それでこれが真の結婚になるのだということを。

 3. 私たちの三番目の考えは、結婚は相互の愛によって強固にされるということである。こうした相互の愛情がないものは、結婚の名に値しない。二人が実感できない祝福の暗い影は、どちらの心にとっても耐えがたい重荷に違いない。だが、真の純粋な愛がある場合、それはこの上もなく甘やかで幸いな生活様式である。それは、堕落の後でも私たちのために取っておかれた、楽園の祝福の1つである。愛がなければ、結婚生活はまさに地上の煉獄に違いない。今晩、私たちの魂を神へと引き寄せてきた、あの厳粛な契約において結婚を保ち、強固にし、強め、喜ばしいものとするのは相互の愛である。神の愛について、私があなたに話す必要などあるだろうか? それは、私たちがほとんど話す資格のない題目である。あなたには、そのことのために座り込み、嬉し泣きする必要がある。その喜びは心を満たし、目をあふれさせはするが、舌をほとんど鎖でつないでしまう。というのも、それは深く、深遠で、言葉に尽くせぬものだからである。「御子は私を愛し私のためにご自身をお捨てになった」*[ガラ2:20]。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、……御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」[Iヨハ3:1]。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」[ヨハ15:9]。おゝ、神の愛よ。――それを述べることは御使いの力をもはるかに越えるであろう。確かに、確かに、私たちがそれを理解することは、永遠の長い時代時代におけるほむべき仕事となるはずである。そして、ことによると、私たちの幸いな魂の上を無数の時代が経巡った後でも、私たちはなおも最初と同じほど大きな驚異に打たれているかもしれない。いかに詳しく調べても、その驚嘆は減じない。いかに馴れても当たり前になることはありえない。近づけば近づくほど私たちの畏怖は深まる。神の愛される者が私たちのように冷たく、信仰薄く、無価値な者であるということは、一万年が過ぎ去った後でも最初と同じほど大きな驚きであろう。ことによると、いやましてそうかもしれない。私たちが自分のことを徹底的に知れば知るほど、主のいつくしみ深さをそれだけ十分に理解するはずである。このようにして、私たちの驚嘆の念は大きくなり、増大するであろう。天国においてさえ、私たちは自分たちに対する神の愛への驚きと賛嘆にわれを忘れるはずである。その歓喜は私たちの感じる畏敬を増すであろう。よろしい。だが、愛する兄弟たち。私は、私たちもお返しに神を愛するものと思いたい! あなたは一度も感じたことがないだろうか? 神のキリストについて思い巡らすとき、柔らかな愛情が次から次へと生じてくるのを。時として、ある説教の中で、あなたに対する《救い主》の愛しい愛情が述べられるのを耳にするとき、あなたはとめどなく涙が頬を濡らすのを感じないだろうか? あなたの心は時として、あたかもあなたの情緒を押さえておけないかのように、膨れ上がらないだろうか? 「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び」[Iペテ1:8]が胸に湧き起こることはないだろうか? あなたはこう云えないだろうか?――

   「イェス、われ愛さん、汝が麗しき名を、
    わが耳に、そは 妙なる調べ。
    われ、そを高く 響かせまほし、
    あめつき共に 聞きうるごとく」。

私は、今晩あなたがこう歌わなくとも良いことを望んでいる。――

   「こは わが切に知らんと欲……すこと」。

むしろ、あなたの魂の厳粛な沈黙の中で、あなたがこう云えるものと思いたい。「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」[ヨハ21:15]。そのように尋ねられたことに悲しみながら、それでもペテロとともに、進んでこう答えることができるものと思いたい。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」[ヨハ21:17]。さて、いかに神を愛したくとも、神があなたを愛しておられるという強く決定的な証拠がなければ不可能である。かつて私が知っていた善良な婦人は、多くの疑いに陥りがちであったが、私が彼女の疑いの最底辺に達したとき、それはこのことであった。彼女は自分がキリストを愛していることは知っていたが、キリストが彼女を愛しておられないのではないかと恐れていたのである。「おゝ!」、と私は云った。「それは、決して私を悩ますことのない疑いですよ。万が一にも決して。なぜなら、私はこう確信しているからです。この心は、生まれながらに腐敗しすぎているため、神への愛がそこにあるということは、神がそれをそこに置いてくださったのでない限りありえなかったはずだ、と」。あなたは確実に安心して良いが、もしあなたが神を愛しているとしたら、それは根ではなく実なのである。それは、あなたに対する神の愛の実であり、あなたのうちにあるいかなる善良さの力によってもそこに達したのではない。あなたは絶対の確実さをもってこう結論して良い。もしあなたが神を愛しているとしたら、神はあなたを愛しておられるのだ、と。神の側には決していかなる困難もなかった。それは常にあなたの側にあった。そして、今やその困難があなたからなくなっている以上、他にはいかなる困難も残っていない。おゝ、あなたの心を喜ばせ、大きな歓喜で満たされるがいい。なぜなら、《救い主》は私たちを愛し、私たちのためにご自分をお捨てになったからである。そのように、この聖句の真実さを悟ろうではないか。「わたしが、あなたがたの夫になる」。

 4. 私が四番目に注目したいのは、この結婚には、必然的にいくつかの相互的な関係が伴うということである。ここで、「義務」と云うことはできない。その言葉は、いずれの側においても場違いと思われるからである。いかにして私は、偉大な神が貞節を守ると公約することについて語れるだろうか? だがしかし、畏敬の念とともに、それをその言葉で表わさせてほしい。というのも、いかなる語彙においても、私はそれを述べるような言葉を到底有していないからである。神がひとりの夫となるとき、神は夫としての務めを果たすことを約束される。神が、「あなたの夫はあなたを造った者」[イザ54:5]、と仰せになるとき、あなたは次のことを確実であると思って良い。すなわち、神は、この関係を取るとき、その状態に属する一切の責任を負われる(よろしい。私はそう云わなくてはならない。)に違いない、と。神には、その無限のあわれみによってへりくだり、ご自分の結婚相手としてくださった者たちを養い、いつくしみ、保護し、守り、祝福する役目がある。主イエス・キリストは、ご自分の教会の夫となったとき、ご自分に私たちとの契約があるとお感じになった。そして、負債が生じていたので、主はそれを支払われた。

   「汝れと行かんと 御子云えり、
    罪と苦悩(なやみ)の 深みまで。
    しかり。十字架に 上げられて、
    苦き死をさえ 耐ゆべし、と」。

主は決して、こうした愛に満ちた働きのいずれを行なうことからも尻込みなさらなかった。ご自分の選ばれた花嫁の夫に属するいかなる働きをもである。主は「夫」という言葉を高く引き上げ、それを、以前のいかなるときにもまして豊かな意味で満たしてくださった。それで、使徒はそれが新しい光で煌めいているのを見てとり、こう云うことができた。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」[エペ5:25]。おゝ、しかり! 愛する方々。この関係からは1つの責任が生じている。だが、私たちの語っているお方はそこから離れてはおられない。それをあなたがたは知っている。さて、では私たちの側についてはどうだろうか? 妻は自分の夫を敬い[エペ5:33]、すべてのことについて従わなくてはならない。それこそまさに、私たちの夫となられたお方に対する私たちの立場である。そのお方の意志を私たちの意志とするがいい。そのお方の願いを私たちの法としよう。鞭で打たれなくとも奉仕するようにし、むしろ、こう云おう。――

   「愛こそ われらが いとわぬ足を
    御旨に従い 迅(と)く歩ましむ」。

おゝ、キリスト者よ。もし《主人》がへりくだって、「わたしが、あなたがたの夫になる」、と仰せになるとしたら、あなたはもはや、「何が私の義務ですか?」、とは問わず、むしろこう云うであろう。「あなたのために私に何ができますか?」 愛に満ちた妻は、「何が私の義務ですか?」、と云って、よそよそしく立ったまま、自分のしなくてはならない範囲はどこまでか、最低限どれだけのことをしなくてはならないか、と質問したりしない。むしろ、自分の夫である人のために、できることなら何でも行なおうとする。また、すべてにおいて彼を喜ばせようと努める中で自分に考えつける一切のこと、自分が専心できる一切のことを、確実に行ない、成し遂げようとする。そして、あなたや私も、自分とキリストの結びつきを悟ったなら、同じことを行なうであろう。おゝ、愛する方々。感傷的になり、一部の人々がしてきたような馬鹿げた空想に精力を浪費してはならない。妻についてあなたがたは語っているだろうか?――大家族になれば、その働きは重労働となり、その責任は重くなる。時間さえ許せば、私は喜んであなたがたに思い出させることができるであろう。レムエル王の言葉を、また、彼の母親が彼に教えた預言を[箴31:1]。ただ、しばしあなたに勧めさせてほしい。あなたの夫が心から信頼するような妻となるがいい[箴31:11]。家の者に食事を整える[箴31:15]よう心を配るがいい。糸取り棒に手を差し伸べ[箴31:19]、たゆまず勤勉に働き、怠惰のパンを食べないようにするがいい[箴31:27]。悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に両手を差し伸べるがいい[箴31:20]。口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがあるようにするがいい[箴31:26]。しかり。そして、自分に向かってこう考えるがいい。あなたの持ち場における一切の義務への心遣いにおいて、あなたは、自分の主に対する必須の責務を果たしているのだ、と。言葉は少なくとも、力強く比類なき行ないによって、イエスが私たちをいかに愛しておられるかは告げられている。私たちの行路に投げ入れられ、私たちの世話に託された何人かのいたいけな乳児の心に、イエスに対する私たちの愛が刻み込まれるようにしようではないか。おゝ、私がいま肉にあって、神の御子を信じる信仰によって送っている人生が一編の詩となるとしたら、また、私を愛し私のためにご自身をお捨てになったお方[ガラ2:20]への感謝に満ちた応答になるとしたらどんなに良いことか。そのとき、私たちは知ることになるだろうと希望する。神が、「わたしが、あなたがたの夫になる」、と仰せになるとき、そこには相互関係が必然的に伴うということを。

 5. 五番目のこととして、そこには、互いに信頼し合うことも含まれる。夫婦がなおも二人の人間であって、まるでそれが契約の周到な条件であるかのように、個別の生き方を保っているようなものを、いかにすれば結婚と呼べるだろうか? そうしたものは、この天来の観念とは全く相容れない。真の結婚においては、夫婦は1つとなる。こういうわけで、彼らの喜びと彼らの心労、彼らの希望と彼らの労苦、彼らの悲しみと彼らの楽しみは、盛り上がっては混じり合い、1つの流れとなるのである。兄弟たち。私たちの神である主はこう云われた。「主の秘密はご自身を恐れる者とともにあり、主はご自身の契約を彼らにお知らせになる」[箴25:14 <英欽定訳>]。「イスカリオテでないユダがイエスに言った。『主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか』」[ヨハ14:22]。そこには秘密があった。なぜなら、キリストとその民の間には、キリストと世との間にはない結びつきがあったからである。このことばは何と楽しげに響くことか。――そこには銀のような響きがある。――「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」[ヨハ15:15]。キリストは、何事もあなたには隠し立てなさらない。主の別のことばを思い出すがいい。「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう」。おゝ、何と喜ばしいことか! 主は云われる。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」[ヨハ14:2]。主は彼らに、ご自身が彼らのための場所を備えに行くと告げ、それから、こう仰せになるのである。「もしなかったら、あなたがたに云っておいたであろう。――わたしは、あなたがたに何の隠し事もしていない。あなたがたは、わたしの近親の者、わたしの骨肉である。わたしが栄光のうちにある父の家を離れたのは、あなたがたと1つになるため、また、わたしをあなたがたに現わすためだったのだ。だから、わたしはあなたがたに何も隠し立てはしない。むしろ、わたしの心底を、また、わたしのたましいそのものをあなたがたに明らかに示そう」。さて、キリスト者よ。よく見るがいい。あなたは花嫁の関係にあり、あなたは自分の心を包み隠さずキリストに申し上げなくてはならない。しかり。行って、それをあなたの隣人に、あなたの友人に告げてはならない。というのも、いかに同情深い心であれ、私たちの悲嘆のすべてに入り込むことは、何としてもできないからである。他人には干渉できない悲嘆というものがある。だが、キリストがお入りになれない心の痛みはただの1つもない。主イエスを親友とするがいい。――主に何もかも告げるがいい。あなたは主と結婚しているのである。何の秘密も持たない妻としてふるまうがいい。いかなる試練も、いかなる喜びも隠しておいてはならない。一切を主に申し上げるがいい。昨日、私はある家にいたが、そこにはひとりの幼子がいて、私はこう告げられた。「この子ったら、変てこな子なんですのよ」。なぜかと尋ねると、その母親は云った。「だって、台所で転んで痛くすると、いつだって泣きながら二階に駆け上がって、転んで痛いよう、と誰かに云っては降りて来て、『痛いって云ったよ』、と云いますの。二階にいるときには降りて来て、転んで痛いよう、と誰かに云いますの。そして戻って行くときにはいつも、『痛いって云ったよ』、と云いますの。そして、それ以上は泣きませんのよ」。あゝ! なるほど、と私は思った。私たちは誰かに痛みを告げなくてはならないのである。同情を欲するのは人間の性質なのである。だが、もし私たちが常にイエスのもとに行き、すべてを申し上げてから、それを置いてくるとしたら、私たちはしばしばその重荷を片づけることができ、感謝に満ちた歌で清新にされることができるであろう。そうしようではないか。そして、私たちの一切の喜び、また、私たちの一切の苦難をかかえて主のもとに行き、云おうではないか。主は、「わたしが、あなたがたの夫になる」、と云っておられるのである。私も、悪魔がこう云うだろうことは承知している。「何と、お前は現在の苦難を主に告げてはならない。それは、あまりにも小さすぎる。それに、お前も分かっているはずだ。お前が間違ったことをしでかして、その報いを身に招いたことは」。よろしい。だが、あなたは自分の夫には告げるではないだろうか。では、あなたの主には申し上げないというのだろうか? おゝ! かつての律法的な状態に逆戻りして、キリストを「私のバアル」と読んではならない。むしろ、「私の夫」と呼ぶがいい[ホセ2:16]。そして、自分のことをいたく愛してくれる夫に、妻が置くものと期待されているような信頼をキリストに置くがいい。

 6. 私たちは六番目の点に行かなくてはならない。この結婚には、そのあらゆる関係における共有が暗示されている。夫が所有するいかなるものも、その妻のものとなる。彼女は、夫が富者であれば貧乏になるはずがない。また、彼女が有しているものは、それが何であれ、夫のもとに行く。もし彼女が負債を負っているとしたら、彼女の負債は夫のものとなる。イエス・キリストは、ご自分の民を取り上げたとき、彼らにご自分の持てるすべてをお与えになった。キリストが持っているものの中で、私たちに与えておられないものは何1つない。特筆すべきことに、主はその教会にご自分の御名を与えておられる! 「どこでです?」、とあなたは云うであろう。よろしい。エレミヤ書には、このことを何にもまして著しく例証している2つの箇所がある(23:6および33:16)。一方にはこう書かれている。「彼はこの名で呼ばれよう」<英欽定訳>。もう一方はこうである。「彼女はこの名で呼ばれよう」<英欽定訳>。どちらにおいても、その名は同一である。「主は私たちの正義」。何と、「彼女は……呼ばれ」ることになると? しかり。あたかも主が、「彼女はわたしの名前になるのだ」、と云われたかのようである。そして、もちろん、その名によって、主の利害は彼女のものとなり、彼女の利害が主のものとなることが公然と認められるのである。そのようなものとして、彼女は主の一切の栄光にあずかっている。もし主が王であれば、彼女は女王である。もし主が天におられれば、「神は、私たちを……彼とともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」*[エペ2:6]。もし主が天的であられれば、彼女もいずれ天的なかたちを帯びるはずである。もし主が不滅であられれば、彼女もそうなるはずである。そして、もし主が御父の右の座に着いておられるとしたら、彼女も主とともに高く上げられるはずである。さて、私が次のように云い足しても、それはごく僅かなことを云うにすぎない。すなわち、それゆえ、私たちに持てるものは何でも、主に属しているのだ、と。――おゝ! それは、あまりにも僅かで、極少にすぎる。だが、それがもっとあれば良いのにと思われる。「おゝ、キリストがそれほど栄光に富んでおられなければ良かったのに」、――と私は時として思うことがあった。それは、半ばよこしまな願いだったが、私は本気でキリストの栄光を富ませる助けをしたいと思っていた。おゝ、主が今でも貧しくあられたら、主を宴会にお招きできるものを! おゝ、主が今でもこの世におられたら、香油の入った石膏の壺[マコ14:3]を割って、それを主の頭に注げるものを! しかし、この上もなくほむべき《主人》よ。あなたはあまりにも偉大で、私たちはあなたを豊かにすることが何もできません! あなたはあまりにも高貴であられ、私たちにはあなたを高めることができません! あなたはあまりにも幸いであられ、私たちにはあなたを祝福することができません! だが、私は何を云っているのだろうか? それは、ことごとく間違いである! 主は今なお地上におられる。主はご自分の民全員を、「そのからだの部分」*[エペ5:30]と呼んでおられる。そして、もしあなたが主を富ませたいと願うなら、貧者を助けるがいい。もし主に食事を差し上げたければ、飢えた者に食べさせるがいい。裸の者に服を着せる者たちは、主ご自身に衣を着せているのである。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」[マタ25:40]。私たちが、ウォッツ博士のこの詩を、偽りなく歌えることを望みたい。――

   「わがすべてをば 主にささげずば
    こはわが義務(つとめ)ならざるや、
    われの、わが神 熱心(あつ)く愛して
    残りなくみな 神に献(ささ)ぐは」。

 7. 七番目の所見を述べて、それ以上は、この点を詳しく語ることをやめにしよう。結婚の絶頂は、互いに喜び合い、満足し合うことにある。ひとりのペルシヤの貴人の奥方が、かのダリヨス大王の催した宴席に出席した後で、夫からこう尋ねられたという。ダリヨス王こそ、この世で最も素晴らしい人物だとは思わなかったかね、と。いいえ、と彼女は答えた。私はそうは思いません。私がこの世で見たいかなる人も、夫であるあなたとはくらべものになりませんわ、と。そして、疑いもなくそれこそ、結婚がしかるべきものである場合に、夫が自分の妻について、また、妻が自分の夫についていだくべき意見に違いない。さて、確かにキリストは私たちを非常に重んじておられる。私が思い起こすのは、ソロモンの雅歌のこの箇所について思い巡らしていたときのことである。私は、それを眺めては、どうしてこれが真実であるだろうと惑っていた。――それを信じてはいたが、しかし理解することができなかったのである。――そこでキリストは、こう云っておられる。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない!」[雅4:7] おゝ、主は何という目をお持ちであろう! 愛は盲目とよく云われる。だが、それはキリストの場合には云えるはずがない。主は一切のものを見通しておられるからである。何と、それは、このような次第である。主は、私たちのうちにご自分をご覧になるのである。あるがままの私たちをご覧になるのではなく、むしろ、ご自分の無限の恵みによって、私たちのあるべき姿を見ておられるのである。ケントはそれをこう歌っている。――

   「アダムの堕(お)ちし 罪と滅びに
    まみれて立てる ものならずして、
    やがて来たる日、真昼の日差しに
    まさり輝き 立てるごとくに」。

彫刻家は、大理石の塊の中に一個の胸像が見えると云う。そして、彼が行なわなくてはならないのは、余計な大理石を少しずつ削り落とし、その胸像を現わすことだけだという。そのように、キリストは、もし私たちが主の民であるとしたら、私たちひとりひとりの中に完璧な存在を見ることがおできになる。そして、主が日々私たちに対して行なっておられるのは、無駄な突出物を取り除き、私たちをご自分に似たものとすることなのである。主は、いつの日か天で神の御座の前に、しみや、しわや、そのようなものの何1つない[エペ5:27]者として立つことになる私たちの姿を見ることがおできになる。あゝ! 愛する方々。主は私たちを大いに重んじてくださる。主は、人の子らを喜ばれる[箴8:31]。私たちの賛美を聞き、私たちの祈りに耳を傾けることを愛される。主の民の歌は、主のかぐわしい香水であり、主の民との交わりは香料の花壇[雅6:2]、ご自分の群れを飼う、百合の花壇のようである。そして、主の民である私たちについて云えば、確かに私たちはこう云えるに違いない。キリストとの交わりに匹敵するような楽しみはどこにもない、と。私たちは、他の数々の楽しみを試してきた。――何と恥知らずなことか!――私たちは、そのいくつかを試してきたが、そうした後で見いだしているのである。私たちの主のようなお方はどこにもいない、と。「空の空。すべては空。伝道者は言う」*[伝1:2]。だが、キリストのもとに行くとき、私たちはそこにいかなる空も見いださず、こう云える。――

   「いずこにありや、かくなる甘さ
    汝が愛に われ味わいぬ、
    汝がうちに わが見いだしぬ」。

キリスト者の心は、ノアの鳩に似ている[創8:8-9]。それは、広漠たる海原の上を飛び回るが、キリストのもとに立ち返るまで、その足を休める場所が見当たらないのである。キリストこそ真のノアであられ、ご自分の手を差し伸べては、疲れきって羽ばたく鳩を捕え、休ませてくださる。世界中探しても、キリストとともにあるような平安はない。

   「地には喜び つゆもなし、
    わがイエスこそ わがすべて。
    主の輝きの ゆくえにて
    わが喜びは 上り、失せん」。

「わたしが、あなたがたの夫になる」、という喜びに満ちたことばの、いわば表面の上澄みをすくい取るようなことは、ここまでとしたい。

 II. 第二の点については、もう二言か三言だけ語ることにしよう。《あなたや私は、このことをどこまで理解しているだろうか?》 残念ながら、あなたがたの中のある人々は今晩、私のことを半ば狂人と考えているのではないかと思う。あなたは云っているであろう。「よろしい。私には、これが何のことやらさっぱり分からない。この男は一体何を話しているのだ? 神が私たちの夫となるだと! キリストが私たちの夫となるだと! わけが分からない!」 話をお聞きのあわれな方よ。願わくは、神があなたをあわれみ、このことを知るよう導いてくださるように! しかし、あなたにこう告げさせてほしい。もしあなたがこのことを知りさえしたなら、ここにある1つの秘密は、この世があなたにもたらすことのできる一切の喜びにもまして千倍もあなたを幸福にするであろう。あなたは私に、ある寓話の料理番を思い起こさせる。それは、こやしの山の上に金剛石を見つけて、それをためつすがめつしながら、こう云った男である。「大麦を一粒見つけた方がましだったわい」。それは、その男の性分のためであった。そして、あなたもそれと同じである。神との結び合いという、この尊い真珠は、あなたには何事とも思えないであろう。ちょっとした世俗の楽しみの方が、ずっとあなたの好みにかなっているであろう。真の喜び、真の楽しみについてこれほどの無知があることに、人は泣いて良い! おゝ! 《救い主》のうちに美しさを見ることのできない盲目の目よ! おゝ! 主のうちに麗しさを見ることのできない石のように冷たい心よ! イエスよ! あなたを愛せない者の何という痴呆、何という狂気であろう! あなたなどなくても良いと云い、あなたから、《義の太陽》なるあなたから離れて、少しでも光が見えると云い、《シャロンの薔薇》、《谷の百合の花》[雅2:1]なるあなたから離れて、世の一切の庭園の中に美に似たものが見えると云う人の子らの、何と思慮を失っていることであろう! おゝ、彼らがあなたを知っているとしたらどんなに良いことか!

   「千の悲しみ われ刺せり、
    万人(よろず)汝がもの ならざれば」。

私が今晩、語りかけている中には、キリスト教信仰を信じるふりをしていながら、主への忠誠を守ることにかけてはだらしない者たちがいるだろうか? そうした者らは数多く、時折この場所にもそうした者が集まる。彼らは、少しは信仰を告白している見せかけをしていないと良心をなだめられない。それで、この厳粛な集会の中で話を聞く者、見物をする者としては私たちに加わる。だが、決して教会には加入しない。なぜなら、敬神の念とともに自分の心をキリストに明け渡していないからである。その理由を聞けば、彼らの答えは慎ましく聞こえる。だがしかし、そこで暗示されている控えめさは、純正なものとはほど遠い。あなたは私たちに告げるだろうか? 自分は裏表のない歩み方ができないのではないかと恐れているのだ、と。こう認める方が真実ではないだろうか? それは、あなたがこの世と関係しているため、また、富に仕えているため、また、通常の気晴らしを有しているため、そして、時たまのお祭り騒ぎのためである、と。あなたは、それが無害であると思い込もうとしているが、キリストとの結婚という見地からすれば、今そのほとんどは恥辱そのものみなされるものである。キリスト教の種々の原則に関する限り、あなたは自分の個人的信念によって裏書きしており、あなたは、ほとんどの福音主義的な教理を好むほどには「プロテスタント教徒」である。だが、あなたのふるまいの中にある留保は、あなたの性格の中にある致命的な留保を明確に指し示している。あなたは神が至高者であると認めているかもしれないが、あなたの心の独占的な主であるとは認めていない。あなたは、主の祭壇を他のどの祭壇よりも尊ぶだろうが、それでも国土を汚している高き所を取り除こうとはしない。あなたの意見によると、イスラエルの神のほか世界のどこにも神はいないというが、あなたのふるまいはリモンの神殿で身を屈めるというものである[II列5:15-18]。あなたは、神のすべての約束が自分に与えられることを願っているが、神の聖所でいかなる誓いをささげることにも断固反対する。あなたのような者にとって、この繊細な訴えは最も嫌悪すべきものである。「背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ。――わたしが、あなたがたの夫になるからだ」。あなたの経験の中のいかなるものも、これと対応していない。あなたは、まるで不当な扱いを受けでもしたかのように超然としている。それゆえ、私はあなたに警告しなくてはならない。神をあなたの神としたければ、この契約による結びつきという絆による以外にない。しかし、キリスト者よ。私はあなたに云う。確かにあなたは、神があなたの夫となるという、このことについて少しは知っているではないだろうか? そうだとしたら、あなたは私とともにこう云えないだろうか? 「しかり。そして、神は私にとって非常に忠実な夫でもあられる」、と。さて、あなたがたの中の誰ひとりとして、そのことに異議を唱えはしないであろう! これまでのところ、神はあなたに対して非常に忠実であられたし、あなたは神に対していかなる者であっただろうか? 神はいかに親切で優しくあられたことであろう。いかに忠実で、いかに寛大で、いかに同情深くあられたことか! あなたが苦しむときには、いつも神も苦しみ、ご自身の使いがあなたを救った[イザ63:9]。あなたがまさに窮地に陥ったときに、神はあなたを助けにやって来られた。今に至るまで、神はあらゆる困難を通じてあなたを運んで来られた。おゝ! あなたは神をほめることができるではないだろうか。そして、神の愛について云えば、キリスト者よ。神の愛について云えば、それをあなたはどう考えるだろうか? それは、あなたにとって地上の天国ではないだろうか? あなたは、それをこうみなさないだろうか?――

   「上なる天ぞ、
    御顔を拝し、御愛を味わうは」。

よろしい。ならば、神をほめるがいい、神をほめるがいい! この世に神の賛美を聞かせるがいい! その銀の鐘を、この世代の金聾たちの耳に鳴り響かせるがいい! 彼らに知らせるがいい。あなたの《愛する方》が何者よりも美しいことを。そして、彼らにこう尋ねさせるがいい。「あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか?」[雅5:9]、と。

 あなたがた、神を知らない人たちについて云えば、私はあなたにこう問いたい。そして、それに個人的に答えてもらえるだろうか。あなたは、キリストを夫としたいだろうか? キリストをあなたのものとしたいだろうか? おゝ! ならば、この縁組みには何の障害もないであろう。もしあなたの心がキリストを慕い求めているとしたら、キリストはあなたをご自分のものとされるであろう。あなたが家に帰って自分の寝床の傍らに行くとき、キリストにこう申し上げるとしよう。「愛する《救い主》よ。ここに私の心があります。これをお取りになってください。洗ってください。私をお救いください」。キリストはあなたの願いを聞いてくださるであろう。あなたがいかなる者であろうと、キリストはあなたをお拒みにはならないであろう。おゝ、主はあなたを求めておられる、あなたを求めておられる! そして、あなたが主を求めるとき、それは主がすでにあなたを見いだされたという確かなしるしである。婚礼の鐘は用意ができている。信仰は、金の指輪であり、結婚の絆の象徴である。《救い主》を信頼するがいい! 主を信頼するがいい! あなたの善行に頼ることはすっぱりやめるがいい。あなたの種々の功績により頼むことはやめるがいい。主の行ない、主の功績を取り上げ、主だけにより頼むがいい。というのも、いま主はあなたにこう云っておられるからである。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう」[ホセ2:19-20]。願わくは主が、あなたがたひとりひとりに対してそのようにしてくださるように。そして、キリストの御名に永遠に誉れが帰されるように。アーメン。

 

結婚の関係[了]


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