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イエスの近づきやすさ

NO. 809

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1868年5月3日、主日夜
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」。――ルカ15:1


 私たちの主を取り巻いて、その話を最も身近に聞いていたのは、社会の中でも最も堕落し、最も蔑まれていた種別の者たちであった。このことから察するに、主はいかなる人にもまして近づきやすいお方であった。主は、よそよそしい態度を取ることをせず、人々が心を打ち明けることを求め、また、人々がご自分と親しく語り合うことをお喜びになっていた。

 私は今晩、この1つのことを詳しく語りたいと思う。願わくは、聖霊がそれを一個の天然磁石として、多くの心をイエスに引き寄せてくださるように。東方の君主たちは、人々から隔絶することを好み、自らの回りに通行不能の障壁が十重二十重に張り巡らされている状態を欲した。いかに忠実な家臣といえども、そうした君主に近づくには大変な苦労が必要であった。エステルの場合を覚えているであろう。彼女は、その君主が自分の夫であったにもかかわらず、あえてアハシュエロス王の前に出るには、いのちがけでなくてはならなかった。というのも、召されずに王の前に出る者はみな死ななくてはならないという命令があったからである。だが、《王の王》の場合、そうではなかった。この方の宮廷は、はるかにまさって壮麗である。そのご人格は、はるかに尊敬すべきものである。だが、あなたはこの方に、いついかなる時であれ何の支障もなく近づいてかまわない。この方は、ご自分の宮殿の門に、いかなる武装兵も配しておられない。この方のあわれみの家の扉は、大きく開かれている。この方の宮殿の門柱の上には、こう書かれている。「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」[マタ7:8]。

 この現代においてすら、有力者たちのもとには、そう簡単には辿り着けない。あまりにも多くの裏階段を登らなければ、助けになりそうな役人のもとに達することができない。交渉しなくてはならない下士官の数、通り過ぎなくてはならない召使いの数があまりにも多いため、目指す相手には全く行き着けないのである。その御大たち本人は、十分に取っつきやすい性格をしているかもしれないが、私には古い露西亜の寓話が思い出される。ある村に、ひとりのもてなし好きの男が一家を構えていた。彼は、自分の玄関の所にやって来る貧しい人間をみな喜んで助けてやろうとしていた。だが、大きな犬を何匹も庭に放し飼いにしていたため、誰ひとり敷居の所まで行き着くことができず、そのため、彼の個人的な愛想の良さは、風来坊たちにとって何の役にも立たなかった。私たちの《主人》の場合そうではない。いかに偉大な者よりも偉大で、いかに高貴な者よりも高貴でありながら、主は、ご自分の恵み深い歓待が待つ大広間へと罪人がやって来るのを妨げる、あらゆるものを片づけてくださった。無作法に立ち入る者への威嚇など、その御口からは一言も発されず、むしろ、この上もなく近しく親密な交わりへの招きが何百度となく発されている。イエスのもとへは、時たまにではなく、いついかなる折にも近づくべきである。また、特に目をかけられている一部の者がではなく、その奥の間まで入りたいとの願いを主の聖霊によって心に燃やされているあらゆる者が、そうすべきである。

 私たちの主の時代の哲学の教師たちは、好んで雲の上の存在になろうとしていた。彼らは自分たちの教えがあまりにも深遠で多岐にわたるものであるため、一般大衆の聞いているところではそれを口にすべきでないと考えた。「離れ去れ、汚れし者ども」*1。これが、蔑みに満ちた彼らの合言葉であった。彼らは、うぬぼれという、自分の想像上の高い柱の上に聖シメオン*2のように立ち、時たま下にいる粗野な群衆の上に、ちらほらと思想を投げ落としてやってはいたが、身をへりくだらせて彼らと親しく語ろうとはしなかった。大衆に伝えるなど、自分たちの哲学の沽券に関わると考えていたのである。最大の哲学者のひとりは、自分の玄関の上にこう書いていた。「幾何を解せざる者、何人も入るべからず」。だが、私たちの主は、その前ではいかなる賢人も愚者でしかないお方であり、事実、神の知恵[Iコリ1:24]であるにもかかわらず、決していかなる罪人をもその無知ゆえに放逐されなかった。決していかなる求道者をも、入門の儀を経ていなからといって拒まれなかった。そして、一度たりとも天来の真理という水晶の泉から、渇く者を追い払われなかった。主のあらゆることばは金剛石であり、主の唇からは珠玉の真珠がこぼれ落ちていたが、主がいついかなる時にもましてくつろいでいたのは、一般庶民を相手に話をし、神の国について彼らを教えておられる時であった。

 このように、私たちの主の優しいふるまいを、いかなる王や貴人や賢者たちのそれと比較対照しようとも、その誰ひとりとして、身をへりくだせる優しさにおいて主に匹敵する者はいないはずである。この、私たちの主の魅力的な資質に、私は今晩、神の御助けによって、あなたの熱心な注意を引きつけたいと思う。第一に、それを証明することにしよう。第二に、それを例証しよう。第三に、それを励ます、すなわち、活用するようにしよう。

 I. 第一に、私たちは、《キリストの近づきやすさを証明する》ことにしよう。とはいえ、本当のところ、それを証明する必要など全くない。これは、主のご生涯からありありと浮かび上がっている事実だからである。

 1. このことは、主の職務において、はっきり見てとることができよう。そうした職務はあまりにも数が多く、そのすべてを今晩取り上げることはできない。ほんの一握りのものだけを抜粋しよう。私たちの主イエスは、神と人間の間の《仲保者》であると云われる。さて、注目するがいい。仲保者という職務によってたちまち暗示されるのは、主が近づきやすいお方だということである。ヨブが云うように、仲裁者は、双方の上に手を置くことのできる者である[ヨブ9:33]。だが、もしイエスが親しげにご自分の御手を人間の上に置こうとされないとしたら、確かに神と人間の間の仲裁者では決してないに違いない。仲保者は、片一方の仲保者ではない。――彼は、自分が仲立ちする双方の側に似通っていなくてはならない。もしイエス・キリストが、神と人間の間の完璧な仲保者になるとしたら、主は、神からご自分の仲間の者と呼ばれるほど神の身近に行かなくてはならないし、それから、人間をご自分の兄弟と呼ぶことを恥じないほど人間に近づかなくてはならない。これこそ、まさに私たちの主について云えることである[ゼカ13:7; ヘブ2:11]。あなたがた、イエスを恐れている人たち。このことをとくと考えてみるがいい。主は仲保者なのである。そして、仲保者としての主のもとに、あなたは行ってかまわないのである。ヤコブのはしごは、地上から天に届いていた[創28:12]。だが、もし腿の外側の肉が五、六筋切り取られていたとしたら、そのはしごが何の役に立っただろう? 誰が、主の山に登りえようか?[詩24:3] イエス・キリストは、地上と天との間の大いなる繋ぎ渡しだが、もしご自分のもとにやって来る、あわれな定命の人間に触れようとなさらないとしたら、何とそのとき、主は、人々の子らにとって何の助けになるだろうか? あなたの魂と神との間には、本当に仲保者が必要である。仲保者なしに神のもとへ行こうなどと考えてはならない。だが、あなた自身とキリストとの間には、いかなる仲保者も必要ない。神のみもとに行くには備えがいる。――完璧な義を持たずに神のみもとに行ってはならない。だが、キリストのもとに行くには、何の備えも、何の義もなくて良い。なぜなら、仲保者として、主はご自分のうちに、あなたが必要とするあらゆる義と資格を有しておられ、それを喜んであなたに授けようとしておられるからである。あなたは、今しも大胆に主のもとに行くことができる。主は、ご自分の血によって、あなたを神と和解させようと待ち受けておられるからである。

 もう1つの主の職務は、祭司のそれである。「祭司」という言葉は、最近では非常な悪臭を放つようになっている。だが、そうしたすべてにもかかわらず、聖書の中に見いだされるときには、非常に甘やかな言葉である。「祭司」という言葉は、けばけばしい装いをした詐称者を意味するのではない。他の礼拝者たちから離れて門扉の中に立ち、他の民衆から二歩高い所にいて、人間の罪のための赦免を施したり、他の何やらを行なったりする権限を有している、そうした者のことではない。真の祭司は、真に民全員の兄弟である。宿営全体の中でも、アロンほど兄弟らしい者はいなかった。アロンと彼の後を継いだ祭司たちは、神のために、人間たちとの最初の接点になっていたため、あるらい病人が他の誰も近寄れないほど汚れ果ててしまったとき、彼に触れる最後の人間は祭司であった[レビ13]。その一家にはらい性があったかもしれなかった。だが、祭司は彼と言葉を交わし、彼を調べた。社会から追放された、その惨めな人間と親しく接する、イスラエルの最後の部族である。そして、もしも後になってその病人が癒されたなら、彼に最初に触れる人間は祭司でなくてはならなかった。「行って、自分を祭司に見せなさい」[マタ8:4]。これこそ、正常な状態に戻ったあらゆるらい病人に対する命令であった。また、祭司が彼と交わりを持ち、彼に健康だとのお墨付きを与えない限り、彼はユダヤ人の宿営に受け入れられることができなかった。祭司は、民の真の兄弟であり、彼ら自身の中から選ばれていた。いついかなる時も近づくことができた。彼らの真中、宿営のまさに中央で暮らしていて、罪深く、悲しんでいる者のためにいつなりともとりなしをしようとしていた。私たちの主もそれと同じである。たった今、私があなたがたの聞いている前で朗読したように、主は私たちの弱さに同情できるお方であり、罪は犯さなかったが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた[ヘブ4:15]。確かに、あなたは決して疑いはしないであろう。もしもイエスがその祭司の職務を完璧に保持するとしたら、――そしてイエスは確かにそうなさるが、――イエスこそは、万人にまして近づきやすいお方であることを。犠牲によってしか救われることのできない、あわれな、自暴自棄になった罪人も近づくことのできるお方であることを。宿営の外に追い出されている、血によってしかきよめることのできない、汚れた遊女も近づくことのできるお方であることを。自分の犯した数々の犯罪の罰を受けなくてはならず、かの偉大な《大祭司》しか無罪放免にすることができない、惨めな盗人も近づくことのできるお方であることを。他のいかなる人も、あなたに触れたいとは思わないかもしれない。おゝ、追放されて震えている人よ。だが、イエスは触れてくださるであろう。あなたは全人類から引き離されているかもしれない。あなたのもろもろの不義からすれば正当であり当然のことである。だが、あなたは、かの大いなる、罪人たちの友からは引き離されていない。このお方は、今この時にも、取税人や罪人たちがご自分のもとに近づくのを望んでおられるのである。

 三番目の職務として言及したいのは、主イエスが私たちの《救い主》だということである。だが、救われる必要のある者たちが近づけないようなお方だとしたら、いかにして主が《救い主》となることがおできになるのか、私には見当もつかない。祭司やレビ人は、エリコに向かう路上で人が血を流して倒れていても向こう端を通り過ぎて行った。それゆえ、彼らは救い主ではなかったし、救い主になることもできなかった。だが、救い主となった人は、わざわざこの男がいる所までやって来て、身をかがめ、葡萄酒と油を取り出しては、それを男のざっくり開いた傷口に注ぎ、優しい愛をもって彼をかつぎ、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行った[ルカ10:30-35]。この人こそ真の救い主であった。そして、おゝ、罪人よ。イエス・キリストは、まさにあなたがいる所までやって来てくださる。そして、たとい罪というあなたの数々の傷口が腐り果てていようと、慌ててあなたから遠ざかるようなことはなさらない。主の愛は、あなたの不義の、吐き気を催させるような厭わしさをも乗り越える。というのも、主はあなたのような者を救う力も意欲もお持ちだからである。私は、他にも多くの、キリストの職務に言及できようが、この3つで十分であろう。確かに、もし御霊がこうした事がらを祝福してくださるなら、あなたはいやでも見てとるであろう。イエスのもとに近寄ることが難しくはないことを。

 2. 主の御名と称号のいくつかを考察してみるがいい。しばしばイエスは「《小羊》」と呼ばれている。ほむべき御名よ! この場にいる誰ひとりとして、子羊のことを恐れはしないと思う。向こう側にいる小さな女の子も、子羊を見て怖がりはしないであろう。どんな子どもも、ほとんど本能的に子羊の頭の上に手を載せたがるように思われる。おゝ、あなたがやって来て、自分の手をキリストの頭の上に載せるとしたらどんなに良いことか。世の罪を取り除く、この神の《小羊》[ヨハ1:29]の上に。

   「見よ、イェス、いかに 身をかくも
    幼稚(おさな)き愛に ゆだねしか、
    その自由(のび)やかな 態度(そぶり)にて
    我らが真剣味(まこと) 試すごと!
    主は聖き御名 地をみたし
    もろびと呼ぶを 聞かんとす。
    主のまといたる 大威光(おおみいつ)
    愛の近づき えぬはなし」。

 また、見れば主は《羊飼い》とも呼ばれている。誰も羊飼いを恐れる者はいない。もしあなたが東方を旅行しているとして、遠方に遊牧民の部族か、土耳古人の軍隊が見えたとしたら、恐れを感じて良いであろう。だが、もし誰かが、「おゝ、あれはただ何人かの羊飼いですよ」、と云うとしたら、彼らを恐れないであろう。羊は羊飼いのそばにいるとき、全くびくつきはしない。おゝ、あわれな、さまよい歩く羊たち。あなたは、ことによると、キリストのことを恐れるようになっているかもしれない。だが、恐れる理由など何1つないのである。というのも、この天的な《羊飼い》はこう云われるからである。「わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出しして、世話をする」[エゼ34:12]。

   「見よ、イスラエルの 良き《牧者》を、
    心ことごと 魅するなり」。

あなたは臆病で、愚かで、さまよっているかもしれないが、この良い《羊飼い》のみもとから逃げ出すべき理由は何1つない。むしろ、この方は、あなたを引き寄せる魅力に満ちている。それから、また、主は私たちの《兄弟》とも呼ばれている。そして人は、自分の兄弟にはいつでも近づけると感じるものである。私は、いかなる苦難や苦悩をも、ここにいる弟に伝えるのをはばかるなどということは考えられない。というのも、彼はしごく気立てが良く、親切だからである。私は、自分が何か問題に陥ったとき、彼が全力を尽くして私をそこから助け出そうとしてくれることに万福の信頼を置いている。決して彼と私の間に何か隔意があるなどとは感じない。あなたも、望むらくは、自分の兄弟との間でそう感じているはずである。それと全く同じことが、この、苦しみを分け合うために生まれた《兄弟》[箴17:17]についても云える。信仰者よ。いかにしてあなたは、時としてイエスに対して、それほど気後れし、それほど冷ややかになるのか? キリストは近づきやすいお方であられる。

   「愛の光は 御足を照らし、
    主の道つゆも 翳(かげ)ることなし。
    主はわれらにぞ 近づける、よし
    われらはあえて 主に近づけずとも」。

あなたの問題を、主のもとに持ち出すには取るに足らなすぎると思う必要はない。主は、日常生活の細々とした悩みについても聞く耳を持っておられる。兄弟たち。あなたは、いかなる時にも、この気の良い《長兄》のもとに行くことができる。なぜ来たのかと主から責められるようなことがあったら、私に知らせてほしい。また、主は《友》とも呼ばれている。だが、自分が愛していると公言している者たちを全く近づけもしないような者は、非常に友だち甲斐のない友であろう。もし私の友人が自分の回りに垣根を巡らし、私が話しかけることもできないほどお高くとまっているとしたら、むしろ私は彼を友だちになどしていたくないと思う。だが、もし彼が純粋な友だとしたら、私が彼の家の戸を叩くときには、こう云うであろう。「やあ、入り給え。よく来てくれたね。ぼくにできることが何かあるかい?」 そのような友こそイエス・キリストである。主は、あらゆる困窮した、助けを求める心が会うことのできるお方である。

 3. これは大いに詳しく物語る余地のあることだが、これ以上は話している時間がない。それで、もう1つだけ、あなたに訴えることにしよう。主が肉体をとられた際のあり方を思い起こすがいい。私たちの主イエス・キリストの現身は、この真理を大音声で宣言している。私が主の現身と云うのは、主が人間だからである。女から生まれた、私たちの骨の骨、私たちの肉の肉だからである。主イエス・キリストは神であられるが、神でしかなかったとしたら、あなたは遠く離れて立ち、主の威光の輝きを恐れて震えていても良い。しかし、主は神であるのと同じくらい人間であられる。そのため、ウォッツ博士がこう云い表わしている通りのことが起こる。――

   「神を人体(にく)にて 見ゆまでは
    われに慰め つゆもなし。
    聖く義しき 三つなる主
    恐怖(おそれ)満たさん わが想念(たま)を。
    されどインマヌエルの 御顔(かお)現(い)ずば
    希望(のぞみ)と喜悦(えみ)は 始まらん。
    御名は禁ぜり 奴隷(ぬ)の恐れ、
    恵み 赦せり わが罪を」。

角を生やした雄牛が餌を食べる飼い葉桶の中に、キリストがおられるのを見るとき、あるいは、ひとりの女の乳房にしがみついているのを見るとき、あるいは、ご自分の両親に従っておられるのを見るとき、あるいは、「悲しみの人で病を知って」[イザ53:3]おり、枕する所もないほど[マタ8:20]貧しい人であるのを見るとき、私は自分が自由に主のもとに行けると感じる。主が、罪を除けばありとあらゆる点で、全くあなたと同じようなあり方をしていることを考えてみるがいい。そのとき、あなたは決して思わないであろう。主が、近寄ってきたあなたに小言を云ったり、思い切って願い事を口にしたあなたを追い払われるなどとは。しかし、私が特にあなたに云いたいのはこのことである。もしあなたが私の《主人》の現身を、主がこの地上におられたときに見ることができたなら、主のもとに行けないなどという考えを、それから未来永劫に念頭から放逐してしまうであろう。私は、主の美しさがいかなるものであったか、また、主の麗しい御顔がどのように見えたかについて、知ってはいないが、このことだけは確信している。すなわち、もし主が今晩ここにおいでになることがありえたとしたら、私はこの演壇を主に明け渡すことができよう。私は、主のくつの紐を解く値打ちもない者である。そのとき、あなたがた、自分は無価値な者だと感じて呻いている人たちは、逃げ出しはしないであろう。もしモーセがここに立ち、その燃え上がる顔を示すとしたら、あなたは目をかばって願うであろう。もし彼を眺めなくてはならないとしたら、顔に覆いをかけてほしい、と。だが、もしキリストがここにおられたとしたら、おゝ! いかにあなたがた、切望し、求めている人たちは、主を一心に見つめることであろう! 目を伏せることも、顔を覆うことも、恐怖も、苦悶も、全くないであろう。――主の御顔はそうするには甘やかすぎるであろう。そして、もし《主人》が、そこの通路をお歩きになるとしたら、あなたがたの中のいかに臆病な人もその御衣のふさに触りたい、主がその御足で踏まれた床に口づけしたいと切望するであろう。私は、あなたがその御顔をのぞき込むのを恐れないと知っている。そして、それから、あの御声は、いかにあなたを魅了するであろう。あなたがた、あわれな震えている求道者たち。もし主がこう仰せになるのを聞いたならどうであろう。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」[マタ11:29]。あなたは、主がきわめて心優しく、へりくだっていることを悟って、後ずさりしようなどとは思いないであろう。おゝ! 私の感じるところ確かに、もしあなたの目が主を見られさえしたら、主の魅力に恵み深く引き寄せられ、あなたの心は主のもとに飛んで行くであろう。よろしい。信仰者よ。主のもとに行くがいい。主のもとに行くがいい。主に近づくがいい。あなたのもろもろの苦難をかかえて行き、洗いざらい主に打ち明けるがいい。あなたのもろもろの罪をかかえて行き、それらを新たに洗い流してくださいと願うがいい。

   「さらば御許で 素朴(かざらず)あらん、
    怖じず、構えず、冷淡(ひえ)おらず、
    などてわれらが、ベツレヘムは
    古(かつて)のシナイの ごとくあるべき」。

そして、あなたがた、あわれな震えている罪人たち。主のもとに行くがいい。いま主のもとに行くがいい。というのも、主はこう仰せになったからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。おゝ! もしあなたの目が開かれて主を見るなら、あなたは感知するであろう。主のご人格の栄光は、人をはねつける光輝にではなく、天来の力で人を引きつける威光に存していることを。

 4. もしこれで十分でないとしたら、ここであなたがたにキリストの言葉遣いについて思い出させたいと思う。主は、ご自分の近づきやすさを次のようなことばで宣言しておられる。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。あなたがた、労働で手が荒れ硬くなった、苦役の子たち。あなたがた、鍛冶屋や大工たち。あなたがた、耕作者や穴掘り人たち。わたしのところに来なさい。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます、と。さらにまた、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」[ヨハ7:37]。主は、みもとに来るよう人々を招いておられる。みもとに来るよう嘆願しておられる。そして、彼らが来ようとしないと、次のようなことばで優しく叱ってくださる。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」[ヨハ5:40]。さらにまた、「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」[マタ23:37]。これは、「わたしはそれを好まなかった」、ではなく、「あなたがたはそれを好まなかった」、である。何と、聖書の全体は、その数々の招きにおいてキリストのおことばであると云えよう。また、その中にあなたは、次のような種類の愛に満ちた、嘆願するようなことばを見いだすのである。「さあ、来たれ。論じ合おう。……たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」[イザ1:18]。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」[イザ55:7]。私たちのほむべき主のあらゆる説教は、それだけの数の、愛に満ちた呼びかけであった。あわれな、痛める心に対して、みもとに来て、彼らが必要としているものをご自分のうちに見いだせとの呼びかけであった。私は祈る。聖霊が今晩、あなたがたの中の多くの人々に有効な召命を与えてくださるように、と。もしあなたが救いを求めてみもとにやって来るとしたら、それは天空におられる《贖い主》の御心を喜ばせるであろう。というのも、あなたは行ってかまわないからである。あなたと、人々の救い主との間には何の障壁もない。何があなたを引き留めているのか? 涙とともに繰り返そう。何があなたを引き留めているのか?

 かの古い諺は至言である。「行動は、言葉よりも大きな声で語る」。それゆえ、《贖い主》の普段のなさり方や立居振舞を見直してみよう。そのとき察せられるのは、その生涯の行動からして、このお方が、万人にまして近づきやすいお方だということである。主は常に非常に忙しくしておられた。また、この上もなく重要な問題について多忙をきわめておられた。だがしかし、主は決していかなる嘆願者の面前でも扉をぴしゃりと閉ざしたりされなかった。女王陛下の内閣は、最も重要な政治問題の数々を討議しなくてはならない。だが、《救い主》の御手と御心を占めていた働きと比べてみれば、彼らの討議など些少な問題にすぎない。私たちの《主人》は人々のもとから引きこもることを要求して当然であった。だが、そうされなかった。主はそれをお求めになったが、全く見いだすことなく、唯一の例外は真夜中であった。そのとき主は油断せず祈られた。話を聞いてほしいという、いかなる種類の訴えにも、イエスは眉をおひそめにならなかった。その国には、何人かの母親たちがいた。貧しく素朴な母親たちがいた。ある日、彼女たちは、この《主人》の御手を自分たちの幼子の上に置いていただきたいという考えを起こした。それで彼女たちは、その男の子や女の子の手を引いてやって来た。だが、弟子たちの何人かは云った。「《主人》を子どものことでなど邪魔してはならない。さあ、あっちへ行った。子どもたちを引っこめろ」。しかし、主は何と云われたであろう。ご自分につき従う者たちとは何と異なっておられたことか! 主は彼らの無情さを叱責して、こう云われた。「子どもたちを許してやりなさい。……天の御国はこのような者たちの国なのです」[マタ19:14]。見ての通り、主は子どもの友であられた。愛する若い人たち。このことを考えてみるがいい。イエスは、あなたを追い払われない。むしろ、いかに偉大で、栄光に富み、神の御使いたちすべてから礼拝されるほどのお方であっても、主は身をかがめて、小さい子どもたちの祈りや賛美を聞いてくださるのである。いま主を求めるがいい。主を早いうちに捜す者は、主を見つける[箴8:17 <英欽定訳>]。別の物語をさせてほしい。ある町にひとりの罪深い女がいた[ルカ7:37]。その意味は、あなたに分かるであろう。彼女のような場合の、その呼び名の暗く悲しい意味は、私が説明するまでもない。あわれな魂よ! 彼女は、自らの罪によって、誰からも蔑まれ、爪弾きにされていた。だが彼女は罪を赦された。そこで感謝の念から、高価な香油を自分の愛する《救い主》の御足に注ぎ、それを自分の髪の毛で拭った。そして、パリサイ人シモンが彼女を叱りつけようとしたとき、愛する《主人》は云われた。「彼女はよけい愛しました。それは、多くの罪を赦されたからです」、と。ということは、主は万人が近づけるお方だったのである。最悪の人種によってもである。遊女でさえ恐れることなく主に近づくことができた。――主は、触れるだけで彼女をきよくすることがおできになった。私は、キリストのご生涯に1つ注目したことがある。そして、それに注目して嬉しくなったことがある。私たちの主は常に説教しておられ、しばしば私たちのように倦み疲れた。それゆえ、主は多少の退隠を欲された。だが群衆は、押し寄せては主の孤独を妨げ、主が彼らを避けて船に乗って行かれても、歩いて主の後を追った[マタ14:13]。これは、煩わしいことであったし、私たちにとっては腹立たしいこととなっていたであろう。だが、主は決して一言も、怒った、気難しい言葉を発されなかった。熱心な群衆のために、主には全く何の休息もなかった。だが主がこのようなことを仰せになったことがあるだろうか? 「この連中の何とうるさいことか。何といらつかされることか」。否。決してなかった。主は、その大きな御心によって、ご自分のことを忘れ果ててしまわれた。主は、いついかなる時も近づけるお方であった。主の食事さえ中断されたが、主はそうした無思慮な闖入者たちに対して優しくあられた。一度として主は無情になったり、よそよそしくされたことがなかった。主の全生涯は、この預言の真実さを証明している。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」[マタ12:20]。主は、恵み深く、みもとにやって来る弱い者や虚弱な者らを受け入れ、ひとりとして何も持たせないで追い返すことはなさらなかった。

 6. しかし、もし頂点をなす議論を知りたければ、彼方を眺めるがいい。奉仕にいそしんだ生涯を送った方が、最後には極悪人のような死を迎えている! 眺めるがいい、その頭に巻きついた茨の冠を! 注目するがいい、彼らが髭を引き抜いたその頬を! 見るがいい、かの軽蔑に満ちた口々から吐き出されたつばきが、その傷ついた御顔を汚しているのを! 注目するがいい、彼らが鞭打ったその背中から幾筋も流れ出ている深紅の川を! 見るがいい、釘で刺し通されたその御手と御足を、また、そこから真っ赤な小川が流れているのを! 眺めるがいい、苦悶に満ちたその顔を。聞くがいい、「わたしは渇く、わたしは渇く」、というその叫びを[ヨハ19:28参照]。そして、そこでこのお方が息を引き取りつつあるのを見ている間に、あなたはこの方が求める者をはねつけようとするなどと考えられるだろうか? この方が、頭をめぐらして、かたわらで死につつある盗人に向かって、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」[ルカ23:43]、と云うのを見るとき、あなたは、この方のもとには行けないと考えるほど、この方を中傷しようとはしないであろう。十字架につけられたイエスから後ずさりするとしたら、それは自分の理性を踏みにじることであろう。キリストの十字架は希望であり、信仰の錨地であるべきである。あなたは来て良いのである。罪人よ。どす黒く、卑しく、地獄のような罪人よ。あなたは来て良いのである。そして、かの死につつある盗人がこう云ったときに得たのと全く同じように、いのちを得て良いのである。「イエスさま。……私を思い出してください」[ルカ23:42]。

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり」。

確かにあなたは、罪人たちのためカルバリに赴かれたお方のもとに行くのを恐れる必要はない。なぜ愚図つくのか? なぜためらうのか? なぜそのように恥じ入り、すすり泣き、涙するのか?

   「などて恐るや、ただ行きて
    悩みをすべて 告げまつるを?
    汝れの破滅(のろい)を 主は宣告(つ)げず、
    汝れを睨(にら)みて よも追わず。
    汝れは恐るや、インマヌエルを、
    さなくば怯(おび)ゆか、《小羊》を、
    地獄(よみ)より汝が魂(たま) 救うため
    その御血(ち)を流せし きみなるに?」

私には、1つの囁きが聞こえただろうか? 誰かがこう云うのが聞こえただろうか? キリストは今は天国におられるのだから、お変わりになったかもしれない、と。あゝ、根も葉もないほのめかしである! あなたは、今この瞬間に主が何をしておられるか知っているだろうか? 主が高い所へ上げられたのは、悔い改めと罪の赦しを与えるためなのである[使5:31]。それは、主のみもとに行こうとしている者にとって何という助けであろう! この悔い改めこそ、行こうとしている罪人たちの最大の必要であり、主は天空からそれを供してくださるのである。さらに、「キリストはいつも生きていて、私たちのために、とりなしをしておられる」*[ヘブ7:25]。天空における主の仕事は、ご自分がその血によって贖われた罪人のために嘆願することであり、だからこそ主は彼らを完全に救うことがおできになるのである[ヘブ7:25]。主が魂たちのとりなし手であられる以上、あなたが後ずさりすべき理由は全くなく、むしろ、大胆に天的な恵みの御座に向かうべきあらゆる理由がある。なぜなら、あなたのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司がおられるからである[ヘブ4:14]。

   「血流す愛に 押し出され
    さまよう羊ら、近く寄れ。
    上より主は汝れ 召し給う。――
    聞けよ、愛しき その声音(こわね)!
    望まば、誰しも 来たるべし、
    慈悲(めぐみ)になおも 余地(ゆとり)あり」。

 ここで、この主題のこの部分を離れたい。あなたがたの中のある人々は、この説教がいかに私の思いに重くのしかかっているかほとんど知らない。私はこの日、私の魂そのものをあなたに説教している。私は、あなたがたの中のある人々を今晩、私の主のものとするために、いかに説教すれば良いか分かっていれば良いのにと願う。私は、より上首尾に説教するべきかを学ぶことができるとしたら、患難の学び舎にさえ喜んで入学すると思う。願わくは、《永遠の御霊》が、ご自分の民の祈りに答えて、――私は、それが今も立ち上っているものと希望しているが、――あなたにキリストの十字架の、この甘やかな魅力を感じさせてくださるように。また、あなたがキリストのもとに行き、再び今晩、こう云われるように。「さて、取税人、罪人たちがみな、……みもとに近寄って来た」。

 II. さて、ここで先に進み、できる限り手短に行ないたいと思うのは、《この偉大な真理を例証する》ことである。

 それを例証するために、最初のこととして挙げたいのは、キリストが罪人たちをご自分のもとへ至らせるために開かれた道である。いかなる道によって罪人はキリストのもとへ行くのだろうか? それは、単にこうである。――その罪人が、自分は《救い主》を必要としていると感じて、自分を主イエス・キリストにゆだねることである。これは、少年時代の私を困惑させることであった。だが、今では単純きわまりないこととなっている。キリストのもとに行くよう告げられたとき、私は思った。「よろしい。もし彼がどこにいるか分かっているとしたら、彼の所に行きたいものだ。――どんなに疲労困憊してもかまわない。彼を見つけるまで、とぼとぼ歩いて行こう」、と。私が、いかにすればキリストのもとに行くことができるか理解するには、それが精神的に行くこと、霊的に行くこと、思いによって行くことだと理解しなくてはならなかった。魂が救われるようなしかたでイエスのもとに行くとは、単純にイエスにより頼むことである。そして、もしあなたが今晩、自分の咎に気づいて、イエスの贖いの血により頼むとしたら、あなたはイエスのもとに行ったことになり、救われるのである。いかなる良い行ないも、儀式も、経験も要求されていない。子どものような信仰が、イエスへの王道である。

 この真理をさらに例証するのは、主がやって来つつある罪人たちに与えて、彼らをみもとに引き寄せようとされる助けである。主こそ、最初に彼らを、やって来つつある罪人たちとするお方なのである。主の《永遠の御霊》こそ、彼らをご自分のもとに引き寄せてくださるお方にほかならない。彼らは、自分からは主のもとに行こうとしない。主に向かおうとする願いを有していない。だが、彼らの心に、隠れた絹の綱をかけるのは主のみわざであり、それを主はその力強い御手で引き寄せ、彼らをご自分の近くに至らせてくださる。嘘ではない。主は決してご自分の御霊によって引き寄せる者たちをお拒みにならない。確信して良いが、主は決して、ご自分の愛の力によって動かされて近寄り、福音の祝宴で食事をしに来る、いかなる魂の面前でも扉をぴしゃりと閉ざすことをなさらない。主はかつて、「無理にでも人々を連れて来なさい」[ルカ14:23]、と云われたが、決してこうは云われなかった。「その扉を彼らの面前で閉ざし、閂をかけて追い出しなさい」。

 神の子どもたちに対して、さらにこのことを例証するには、あなたが今あなたの主といかなるしかたで交わりを持っているかを思い出させることであろう。あなたが、主の耳と御心に達するのは、いかに容易なことか! 祈り1つで、ためいき1つで、涙一滴で、呻き1つで、あなたは《王》の応接室に至るのである。あなたは非常に悲しい心持ちをしているかもしれないが、主のもとに行くとき、いかに即座に主は、あなたの魂を高貴な人の車[雅6:12]に乗せてくださることであろう。あなたの深夜は暗いかもしれないが、主に近づくや否や、あなたの夜は明ける。主は「惜しげなく、とがめることなくお与えになる」[ヤコ1:5]。

 キリストの近づきやすさがさらに見られる事実は、主があわれな犯罪人たちをご自分の民に受け入れてくださるということである。あなたや私がキリストのために行なえる、いかに聖なる行為も、せいぜいあわれで欠陥あるものでしかない。昨夜、私が自分の卓子に着いて学びをしていたとき、私の前には小さなしおれた花があった。――あらせいとうの一茎である。――それは何週間か私の卓子の上に載っていた。それは、何哩も離れた所にいる、非常に非常に貧しい、神の子どもからやって来た。その人は私の説教を読むことで祝福を受けており、この世では他に何も私に与えるものがないため、この花を私に送ってきたのである。そして、私がそれを尊んでいるのは、それがキリスト者の愛情と感謝のしるしだからである。私たちの《主人》もそれと同じである。私たちが行なう最上の説教、私たちが主の宝物庫にささげる最高額の寄付も、まさにそのあわれで小さなしおれたあらせいとうのようでしかない。だが、《主人》は私たちの奉仕をご自分のふところにいだき、そこにとどめて、大いに重んじてくださる。私たちを愛しておられるからである。それは、主がいかに気前が良く、いかにへりくだりに満ち、いかに優しいお方であるかを証明していないだろうか? 主をそのようなお方と信じるがいい。あなたがた、恐れている魂たち。そして、主のもとに来るがいい。

 定められた儀式がその真正面に帯びているのは、常に近づくことのできる《救い主》の刻印である。バプテスマは、外的な型によって、主の死と埋葬と復活とにおける私たちと主との交わりを公に示している。――これ以上に身近なものがありえるだろうか? 主の晩餐は、目に見える象徴によって、主のからだを食べ、主の血を飲むよう私たちを招いている。これが何にもまして明らかに私たちに示しているのは、私たちがイエスとの最も親密な交際を持つことが歓迎されているということである。天の天も、私たちにまだ別の例証を与えてくれるはずである。天空に今いる幾万もの者たちは、ただありのままに、失われた状態の汚辱をつけた普段着姿でイエスのもとにやって来た者たちである。そして、主は彼らをひとり残らず、ご自分の愛の心と力の御腕へと受け入れてくださった。地上にいる何万もの人々、今このタバナクルにいる何千もの人々は、こう証言できよう。自分たちはイエスが非常に優しく、気前の良い友であることを見いだしている、と。さて、もし主が私たちを受け入れておられるとしたら、なぜあなたを受け入れないわけがあるだろうか? はばかることなく、こう信じるがいい。他の者たちを受け入れてくださった以上、主はあなたにも両腕を開いてくださる、と。

 喜びをもって思い起こしてほしいが、イエスは決して求める罪人を拒絶なさったことがない。宇宙のいかなる王国の中にも、真摯にキリストを求める者が投げ捨てられた例は1つとして見いだされないし、今後も決してないはずである。というのも、主は、ヤコブの子らに向かって、「むなしくわたしを尋ね求めよ」、と仰せになったことはなく[イザ45:19]、むしろ、こう云われたからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。愛する方々。もし魂が1つでも捨てられたことがあったとしたら、今では、そのことは知れ渡っているはずである。今は一八六八年であり、もしただひとりでも悔悟者が拒絶されたことがあったとしたら、今より以前にそのことについて聞き及んでいたはずである。というのも、そのことを告げ広めたがる者がいると云いたいからである。それは悪魔である。悔い改めて、キリストを信頼したにもかかわらず、キリストが全く何の関係も持とうとしなかったような魂の例を1つでもつかめたとしたら、それは十字架にとって永遠の恥さらしであり、サタンは大喜びでそれを触れ回りたがるであろう。私には分かる。あわれな罪人たち。あなたがキリストのもとに来つつあるとき、悪魔があなたに何と云おうとするかを。――彼はイエスをひどい主人だと述べようとするであろう。だが、彼には云ってやるがいい。お前は初めから偽り者であり、人殺しであり[ヨハ8:44]、その有毒の偽りを飲み込ませることで、私の魂を殺そうとしているのだ、と。

 III. 第三のこととして目を向けたいのは、《この真理を励ます》こと、あるいは、古の清教徒たちが云い慣わしていたように、それを活用することである。

 私が最初に励ましたいことは、こうである。私たちの中で、魂をかちとることで《主人》のために働いている者たちは、この件においてキリストに似た者となるがいい。そして、一部の者たちがなりがちなように、高ぶった、取り澄ました、よそよそしく、格式張った者とならないようにするがいい。おゝ、何たることか! 心優しく、へりくだった者となるべき人々が、何とお高い聖職者風の様子を身につけるのが見られてきたことであろう。過去の時代の説教者たちの一部は、自分のことを何という大人物と考えていたことか! 私は、大主教の役を果たした人々はほとんどみな天国に行ったものと思いたいが、私たちの間にとどまっている数人は、ほとんど温雅さがなく、大いに儀式張っている。大聖職者たちが握手を交わすのは、実際、執事とだけ、また、明らかに優越したごく一団の人々とだけであった。《非国教徒》たちの間でも、事情は国教会と同じくらい悪かった。ほとんどの国教会の集会では、その御大が、常々そのふるまいによってこう云っているかに感じられるのである。「私が誰か忘れないように願いたいですな。私は、この教区の教区牧師なのですぞ」。さて、そうした種類の高慢ちきさは全く間違っている。そうしたしかたで善を施せる人は誰もいない。また、偉ぶったり、超然としたりすることからは何の善も生じない。少年たちのための最良の教師は、自分を少年にすることのできる男性である。また、少女たちのための最良の教師は、自分を少女たちの間にいる少女にすることのできる婦人である。私がしばしば残念に思うのは、私の会衆がこれほど大人数であることである。「なぜですか?」、とあなたは云うであろう。何と、私がパーク街で今より小さな会衆を有していたときには、その頃でさえ多すぎるほどではあったが、私も時には握手することができた。だが、今やあなたがたはあまりにも多く、いくら記憶力が良くとも、私はほとんどあなたのことを知らないし、めったにあなたがたと握手させてもらうことはない。――私は、それができればと思う。この広い世界のいかなる人にもまして、私が、ますます幸いにしたいと願っているのは、あなたがたの幸いさである。それゆえ、私はあなたがたと気の置けない間柄でいたいと思う。もして、もし私が大人物のような風を装い、あなたがた全員の上に立ったり、高ぶったふるまいによって他人行儀になるようなことがあるとしたら、主が私をへこませ、正気に立ち返らせてほしいと願う。私たちがキリストが行なわれたように行なうときには、魂が救われると期待して良い。すなわち、取税人や罪人たちが私たちに近寄って来ると期待して良い。さて、これは、あなたを微笑ませるように感じられたかもしれないが、あなたが忘れないだろうと希望する1つの実際的な点である。

 まだ回心していないあなたには、こう云うべきである。――イエス・キリストがこれほど近づきやすいお方であられる以上、おゝ! いかに私は願うことか、いかに願うことか。あなたが主に近づくことを。主の扉には何の閂もかかっておらず、桟つきの鉄門を通り抜けることもなく、あなたを追い返す猛犬がうようよいたりすることはない。キリストが困窮する万人にとってこれほど近づきやすいお方である以上、困窮する人よ。来て、迎(い)れられるがいい。今しも来るがいい! 何があなたを引き留めているのか? あなたは、自分が自分の必要を十分に感じていないと思っているか、自分には行く資格がないと思っている。――どちらの疑念も、形を変えた、自分を義とするしかたにほかならない。おゝ、あなたがイエスを必要としていると感じられさえしたらどんなに良いことか。あなたの必要を感じるだけのためにさえそうである。あなたは、神の御前では、あわれで、みじめで、破産している。そして、キリストだけがあなたを富ませることがおできになる。資格などについて語ってはならない。そのようなものはない。――

   「主、汝れに要求(もと)む 資格(もの)みなは
    汝が主の必要(もとめ) 感ずことのみ。
    こは 主の汝れに 賜うものなり、
    こは主の御霊の 立ちし光なり」。

ならば、来るがいい。それほどのあわれみを得ることができるのである。それほどの地獄から逃れることができるのである。それほどの天国があなたのために開かれているのである。遅れてはならない。むしろ、今すぐ信じるがいい。来るがいい、来るがいい、来るがいい!

   「来て、迎(い)れられよ。
    来て、迎(い)れられよ。罪人よ、来よ!」

私は今晩、あわれみの扉の前に立ち、通り過ぎるあらゆる人に向かって、《主人》の御名において告げる。「雄牛も太った家畜もほふられました。どうぞ来てください。来てください。この晩餐に来てください!」[マタ22:4参照] おゝ、あなたがまさに今晩そこへ行くならどんなに良いことか!

 あなたがたの中のある人々は、今から主の晩餐に集い、主の愛を記念しようとしている。それは、私たちがまず主ご自身のもとに行ったからである。私は、あなたがた、救われていない人たちに向かっては、この卓子のもとにやって来てほしいとは云わない。――あなたがたがやって来るべきではない。あなたは、まずイエスのもとに行かなくてはならない。そうした上で、この定めの儀式のもとに来ることができるのである。そうするまで、あなたにできる最上のことは、キリストのもとに行くことである。そして、ぜひこのことを覚えておくよう、あなたに願わせてほしい。キリストの近づきやすさに比例して、あなたがキリストのもとに行かない場合、あなたの咎も増し加わるのである。もし主のもとに行くことがたやすいとしたら、あなたが主を受け入れない場合、あなたにとって、いかなる弁解がありえるだろうか? 私は、救いの道がいかなるものかを、あなたに告げようと努めてきた。もし、より良い言葉を使うすべを知っていたとしたら、あるいは、もしそれがあなたに適しているとしたら、ずっと粗野な言葉を使うすべを知っていたとして、それであなたの良心に触れ、あなたの心を砕き、あなたをキリストに導くことができさえすれば、私は選り好みしない。しかし、私はあなたの前で断言するが、もしあなたが私の《主人》のもとに行こうとしないしたら、私にはこれ以上何も行なえない。私は、最終的には、また、最後の審判の日には、あなたの血について責任がないはずである。あなたの滅びの責任は、あなたの頭上に帰されなくてはならない[エゼ33:4]。しかし、そのようにしてはならない。イエスはあなたに来るよう命じておられる。おゝ、あなたがた、困窮する人たち。あなたの必要によって、矢も楯もたまらず即座に行くようにするがいい。主のうちに永遠のいのちを見いだすために。

 最後に一言、――もしイエスが、ここまで私たちが述べてきたような《救い主》であられるとしたら、聖徒も罪人もこぞってこの方をほめたたえようではないか。私たちの愛する主が、これほど私たち、無価値な者どものために身をへりくだらせてくださるとは何と驚くべきことであろう! 主は、私たちのために、わざわざ天国から地上へとやって来てくださった。おゝ、主が悲嘆と死へと身をかがめてくださった、無比の愛よ! おゝ、このようにあわれな罪人たちの心を訪れ、両手一杯にかかえたあわれみを、受けるに値しない反逆者どもにふんだんに与えてくださる、言葉に尽くせぬへりくだりよ! この言語を絶する恵みゆえに、主をほめたたえようではないか! あなたがた、この卓子にやって来ようとしている人たち。あなたの口に称賛をいだきつつ近づくがいい。あなたが今あずかっている、また、あなたを永遠の死から救い出した、このへりくだりの愛を賛美しながらやって来るがいい。あなたがた、離れて見守っている人たちさえ、その思いには感謝あふれる思念が満ちていると思いたい。

   「イエス、シオンの 山に座し
    今も罪人 迎え給う」。

その御名が、代々とこしえにたたえられんことを! 

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(訳注)

*1 「離れ去れ、汚れし者ども」。古のギリシヤの神殿では、密儀を行なう前に、触れ役がこう叫ぶ習慣であったという。[本文に戻る]

*2 聖シメオン(390?-459)。柱の上に住んだというシリアの苦行者。[本文に戻る]

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イエスの近づきやすさ[了]



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