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第7章 いくつかの傑出した説教

 チャールズ・ハッドン・スポルジョンの印刷された講話は、どれもみな途方もない売れ行きを見せてきた。だが、特にいくつかの説教は、その内容か語られた状況のために、他のすべてをはるかにしのぐものがあった。常ならぬ需要を引き起こした初期の説教の1つは、《印度暴動》の折に布告された《断食日》、1857年10月7日に、水晶宮で語られた説教(第154号)であった。その頃のC・H・スポルジョンは、二十三歳の青年であり、23,654名の人々に語りかけるという厳しい肉体的な試練そのものがあまりにも大きなものであったため、この説教者は後に水曜の晩から金曜日の朝まで昏睡してしまった。公の《布告》によると、その日は、「我等が罪の赦しを求めて《全能の神》の御前で厳粛に断食し、へりくだり、祈るべきこと、かつ、我等が印度鎮定軍への祝福と御助けを求めて懇願すべきこと」のために指定されていた。そして、C・H・スポルジョンはためらうことなく、社会が犯している公然たる罪の数々を糾弾し、それを捨て去るよう会衆に要請した。彼は云う。「私は、私たちの階級の罪こそ最も嘆かわしいものであると考えたい気がする。この日、富者のもろもろの罪を眺めてみるがいい。貧者がいかに抑圧されていることか! 困窮する者たちがいかに虐げられていることか! 多くの場所で、人々の平均賃金は、彼らの主人たちに対して彼らが有する価値をはるかに下回っている。この時代、多くのお偉方は、自分の同胞たちを単に富への踏み石としかみなしていない。その人は工場を建てては大きな鍋を作る。醸造酒の製造で一財産こさえようというのである。あいつを働かせろ。やつは、ただの事務員にすぎない。一年に百シリングもあれば暮らせるだろう。<あいつに精を出させろ!> そこにいるのは、ただの作業時間係だ。何人もの家族がいるが、そんなことはどうでもいい。人はいくらでも安く働かせることができる。<仕事をさせろ!> ここには仕事をしなくてはならない者が何十人も、何百人も、何千人もいるのだ。<やつらに精を出させろ。>火を燃やせ。大鍋を沸かせ。やつらを気張らせろ。何と叫ぼうが気にするな。その労働者への未払い賃金が、天国までかかえられて行くかもしれないが、どうでもいい。何百万もの黄金は無事なのだ。需要と供給の法則がわれわれの味方だ。誰が余計な口出しをしようというのだ? 誰が貧しい者の顔をすりつぶす[イザ3:15]のを邪魔しようなどというのか? 綿業王や大主人たるもの、民衆を好きなように扱う力を持っていてしかるべきではないか。あゝ! だが、あなたがた、地上の力ある人たち。世には神がおられ、その神は、すべて虐げられている人々のために、正義と審きを行なわれる[詩103:6]。いずれ、屋根裏部屋で働くお針子たち、いずれ、むさくるしい住まいで働く仕立屋たち、いずれ、混雑し合った工場で働く熟練工たち、いずれ、あなたの富を稼いでいるしもべたち、あなたの抑圧の下で呻かなくてはならない人たちの声は神の耳に届き、神はあなたに報いをなされるであろう。『聞け。鞭に』[ミカ6:9 <英欽定訳>]。このことのために、鞭はあなたに打ち下ろされるのである。

 「さらに、商人たちの罪がある。英国の商人たちが、その誠実さからこれほど下落した時代がいまだかつてあっただろうか? 彼らの多くは、私の信ずるところ、骨の髄まで正直である。だが、私は彼らの中の誰がそうなのか分からない。近頃は誰をも信頼できない。あなたがたは、商社に商社を積み上げ、無数の人々をだまくらかしている。あなたがたは愚者の金を集めている。そして、それを風に飛ばしている。そして、貧者があなたを訪ねてくると、あなたがたは彼らに、それはなくなってしまったと告げる。だが、どこへ? おゝ! 英国よ。お前はかつては真実で、廉直で、正直だった。人々がその頃のお前を『不実な英吉利』と呼ぶのは正しくなかった。だが今は、おゝ、英国よ。あゝ! お前は! お前が正気に返らない限り、誰がお前を信用できよう? 神はこのことのゆえにこの国に報いをなさるであろう。そして、このことだけでも、私たちが鞭を聞くとき、神が私たちに聞かせたいと望んでおられる事がらの1つであると見てとれるであろう。

 「あなたがたの中には多くの貧しい人々がいる。私には、私が富者に向かって語っている間、あなたが微笑んでいるのが見えた。私はあなたにも語るであろう。もし私たちがこの日、国民として自らをへりくだらせるべきであるとしたら、あなたがたにも、へりくだるべき理由がある。あゝ、私の神よ。いかにおびただしい数の人々が、彼らの雇い主のほんの僅かにしか値しないことか。というのも、彼らは人のご機嫌とりのような、うわべだけの仕え方をするだけで、真心から[コロ3:22]主に仕えてはいないからである。人々がよりまともな働き者になれば、その主人たちもまともになるであろう。この場にいる、何百人もの人々は、この日、自分の働きに忙しくしているべきときに、壁のつっかいをする働きに最も熟練している。また、あなたの時間が買われ、支払われているときに、何か他のことのために、それを盗んでいる。そして、いわゆる下層階級――神よ、この言葉を発明した人を赦し給え。私たちは誰ひとり、全地を《審くお方》の前では、他の人々より下にはいないのだから。――その中にいるいかに多くの人々が、神を見上げてこう云うことのできない者であることか。『神は私をしもべとされたが、私は自分の義務を果たそう。そして、全力を尽くして自分の主人に仕え、自分の神に仕えよう』。貧している者らの罪は多い。あなたがたは、富者とともに自分をへりくだらせるがいい。頭を垂れて、自分の不義のゆえに泣くがいい。こうした事がらのために、神は私たちに報いを与えるのであり、あなたがたはその鞭を聞くべきなのである。

 「きょう私は、到底、この国を汚染しているあらゆる吝嗇、欺き、偏狭、好色、肉欲、高慢、貪欲、怠惰といった罪に踏み込んで語ることはできない。私は、その主立ったもののいくつかを示唆しようとしてきた。そしてそれらのすべてのゆえに神が私たちをへりくだらせてくださることを願う。

 「そして今、『聞け。鞭に』。おゝ、神の教会よ。この鞭は打ち下ろされたのであり、<教会>はそれを聞くべきである。残念ながら、教会こそ最大の罪人であったのではないかと思う。私が『教会』と云うとき、それは国法によって国教会にされたものを意味しているだろうか? 否。私は全体としてのキリスト教会を意味している。私たちは、私の信ずるところ、自分の義務において怠慢であった。というのも、多くの多くの年月にわたって、講壇は決して低い身分の人々のところまで身を落とそうとはしなかったからである。私たちの教役者たちは、偉そうに構え、威張っている。彼らは洗練された修辞学を心得ている。論理学の粋をことごとく自家薬籠中のものとしている。だが、民衆にとって彼らは、おしの犬を手引きする盲人である。というのも、民衆には彼らが何を語っているのか分からず、彼らも民衆を重んじていなかったからである。諸教会自身がまどろんでいた。彼らは正統信仰という帷で自らを覆い、こんこんと眠り続けた。そして、サタンが世を食い荒らし、えじきにしつつあった間も、教会はあぐらをかいて、『私の隣人とは、だれのことですか』[ルカ10:29]、などと云っては、奮い立って自分の神に仕えることをしないでいた。私は、私たちがすでに信仰復興の発端を目にしているものと心から望む。昨年は、使徒たちの時代以来、いかなる年にもまして多くの説教が見られた。私たちは諸処の貧民学校において、また、善を施すための各種の努力において身じろぎをしている。だが、なおも教会は半分しか目覚めていない。残念ながら、まだまどろんでいるのではないかと思う。おゝ、神の教会よ! 目覚めよ! 目覚めよ! まことに鞭はお前のために振り下ろされたからだ。『聞け。鞭と、それを定めたお方に』」。

 会衆は魅せられたように一心に聞き入り、こうした厳粛な言葉によって非常に大きな感銘を受けた。そして、この断食日のずっと後でも、この講話は非常に売れ行きが良く、今日でさえしばしば注文が寄せられている。

 1861年9月8日になされた、『事故は罰ではない』という説教(第408号)は、ブライトン鉄道のクレイトン隧道内で衝突事故が起こった後で語られた。先に言及された通り、この講話は、リヴィングストン博士が阿弗利加大陸の奥地まで携えていったものである。それまで大衆の間には、ある神学的考えが非常に普及していた。何らかの災害が起こると、それはみな特別な、あるいは、はなはだしい罪に対する審判として送られたのだというのである。この説教の中でC・H・スポルジョンは、そうした考え方を論駁している。

 「ある人々のきわめて愚劣な言明によると」、と彼は宣言する。「一週間の最初の日に旅行していて事故に遭う人々は、その事故を自分に下された神の審きとみなすべきであるという。彼らは、キリスト教の礼拝日を破っていたからである。敬虔な教役者たちでさえこうした言明をしている。彼らの述べるところ、先日の嘆かわしい衝突は、あのクレイトン隧道内に居合わせた不幸な人々の上に、きわめて驚くべき、また尋常ならざる神の御怒りが訪れたものとみなすべきだというのである。さて私は、こうした推断に対して厳粛な抗議を申し立てるものである。私自身の名による抗議ではない。キリスト者の《主人》にして、キリスト者の《教師》なるお方の御名による抗議である。あの隧道の中で潰された人々について、私はこう云うものである。あなたは、その人々が、ほかのどの人よりも罪深い人たちだったとでも思うのだろうか? 『わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます』。あるいは、先日の月曜日に命を落とした人たちについて、彼らは、ロンドン中のどの人よりも罪深い人たちだったとでも思うのだろうか? 『わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます』。さて、注意してほしいが、私も、特定の人々に対する神の審きが時として下ることがあるのを否定しようとは思わない。ごくまれには、そうしたことが起こっていると思う。私たちの中のある者らは、自分自身の経験でも、こうした事例を耳にしたことがあるであろう。ある人々が神を冒涜し、自分を殺せるものなら殺してみろと云った途端に、突然倒れて死んでしまったのである。こうしたいずれの場合にも、罰はあまりにも素早くその冒涜の直後に起こったために、私たちはそこに神の御手を感じとらざるをえなかった。彼がたわむれに神の審きを求めたところ、その祈りがかなえられ、審きが下ったのである。しかし、私が言及しているような種類の事故や突然死の場合、やはり私は、そのように滅びた人々が、無傷でぴんぴんしているどんな人々よりも罪深い人だったのだ、という愚かで滑稽な考えに対して真剣に抗議するものである」。

 続いて説教者はこの件を詳細に論じていく。「確かに」、と彼は云う。「時には悪人が町通りでばったり倒れて死ぬこともある。だが、教役者が講壇の上で倒れて死ぬことはないだろうか? 確かに、日曜日に自分の楽しみを求めている人々を乗せた遊覧船が突如として沈没することはあった。だが、宣教旅行に赴く敬虔な人々だけが乗り組んだ船が沈没してきたことも、それと等しく真実ではないだろうか? 神の、目に見える摂理は、人をえこひいきしない。そして、奔放な罪人たちを満載した船の回りにも、宣教船『ジョン・ウィリアムズ』号の回りにも、暴風雨は全く同じようにつのり行くものである。何と、あなたは感じたことがないだろうか? 神の摂理は、そのうわべのお取り扱いを見れば、事実、悪人よりも善人にとって厳しくあるのである。パウロは彼の時代の義人の悲惨さを眺めて、こう云わなかっただろうか? 『もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です』[Iコリ15:19]。義人の通り道はしばしば人々を拷問台や、獄舎や、絞首台や、火刑柱へと至らせてきた。その一方で、罪の路はしばしば人を帝国や、大領土や、同胞たちの間における高い尊敬へと導いてきた。この現世で神が、一般的な法則として、また、必然的に人々を罪ゆえに罰したり、良い行ないゆえに報いたりするというのは正しくない。ダビデはこう云わなかっただろうか? 『私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野性の木のようにはびこっていた』[詩37:35]。また、このことは、しばし詩篇作者を困惑させ、それは彼が聖所に入って、ついに彼らの最後を悟るまで続かなかっただろうか?[詩73:17]

 「またさらに、こう指摘させてほしい。私が真剣に反対しているこの考え方は、<非常に残酷かつ薄情なもの>である。というのも、もしこれが本当だとしたら、――このように異常なしかたで非業の死を遂げた人々が、他のだれよりも罪深い人々だったとしたら、――それは残された遺族にとって、いかに胸が潰れるような打撃となるであろう。また、そのような考え方を許すというのは、争う余地ない理由によって、それがすさまじい真実であると受け入れざるをえなくさせられるのでもない限り、私たちの心の狭さを示すものではないだろうか? さあ、私はあなたに挑戦する。このことを、あの未亡人の耳に囁いてみるがいい。この場を出てから彼女のところに行って云うがいい。『あなたのご主人は、他のどの人よりも罪深かったのです。だから死んだのです』、と。あなたは、そんなことができるほど無慈悲ではないであろう。物心もついていない幼子、一度も罪を犯したことのない赤子が――確かにアダムの堕落を受け継いでいるには違いなくても――、ある事故の残骸の中で押し潰されているのが発見される。さて、しばし考えてみるがいい。こうした死に遭った者は他の人よりも悪人だった、という想定から、いかに忌まわしい結果が生ずるだろうか? 物心もついていないこの赤子が、破廉恥行為の巣窟にたむろしながら、今も生き長らえている多くの者ら以下の罪人だとあなたは認めざるをえないであろう。あなたは、このことが金輪際正しくなどありえないと感じないだろうか?」

 この説教が 苦悩の中にあったおびただしい数の人々にとって助けと慰めとなったのも不思議はない。そして、これは、世間の耳目を集める大災害が起こるたびに、大きな売れ行きを示すのが常であった。

 王婿殿下が逝去された際に行なわれた説教で、「町に悪があれば、それは主が行なわれるのではないだろうか」[アモ3:6 <英欽定訳>]という聖句から語られたもの(第426号)も、刊行されたとき並外れて大きな売れ行きを見せ、時に応じて非常に売れ口があった。これに類した特別な出来事が起こると、需要が高まるのである。その悲しい災難に関してこの説教者が取った方向は、これは神が行なわれたことであり、計画をもってなされたものだということであった。そして、この事実に彼は、後に遺された親族たちの慰めと慰藉を見いだすのだった。

 「もし神がそれを下したのだとしたら」、と彼は云った。「その正しさに対する疑念はことごとく、永遠に捨て去るがいい。それは正しいに決まっている。誰かが口答えしようというなら、私たちはパウロの簡潔な言葉によって答えよう。『しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか』[ロマ9:20]。しかし、あの方を取り去り、しかも、よりによって国家が大難にある時に、あの方を取り除くことが――それが正しいなどありえるでしょうか? 兄弟たち。正しいに決まっている。殿下は最善の時に逝去されたのである。この患難は最もふさわしい折にやって来たのである。そうならなかったとしたら、正しくなかったであろう。殿下のいのちが長らえることは賢明でも、親切なことでもなかったであろう。そして、私がそう推測するのは、神が彼を取り去られたという事実からである。それゆえ、これは最も賢明で、最も正しく、最も親切なことに違いない。あなたのいかなる損失についても、これと同じことしか語ってはならない。あなたがたの最愛の友が取り除かれようとも、口をつぐみ、沈黙を守り、文句を云わぬがいい。なぜなら、あなたが、あなたご自身がそうなさったからです。ですから、おゝ、神よ。私たちは云います。『みこころをなさせ給え』、と」。また、このことは私たちの最上の慰めでもある。神がこのことをなさったのである。何と! 私たちは、神が行なわれたことについて、泣いて良いだろうか? 《主人》がご自分のものを取り去られたとき、私たちは悲しんで良いだろうか? 『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』[ヨブ1:21]。ある庭師が、自分の花壇で一本の大切な花を育てていた。ところがある日、その花がなくなっていた。それは彼が、わが子に愛情を注ぐ父親のように丹精を込めて世話してきた花であった。そこで彼は、庭園中を走り回って、召使いのひとりを発見した。きっと不埒な奴がその花を摘み取っていったに違いないと思ったからである。彼は云った。『だれがあの薔薇を摘み取ったのだ?』 召使いは答えた。『今朝早く日の昇る頃に、ご主人様が庭園を歩いておられるのを見ました。そして、あの花をご自分で持ち去って行かれたのです』。そこで、薔薇を育ててきた庭師は云った。『ならば良い。ご主人に恵みあれ。あれはご主人のものなのだ。ご主人のために私はあれを守ってきたのだ。ご主人のために世話してきたのだ。もしご主人があれをお取りになったのだとしたら、それで良い』。あなたの心も、これと同じようになるがいい。あなたが友を喪ったのは、あるいは、あなたの最愛の親族を喪ったのは、最善のことであると感じるがいい。神がそれを下したのである。慰めで満たされるがいい。神がなされたことは、決して涙を流すにふさわしい理由にはなりえないからである」。

 別の非常に著しい説教は、何ら歴史に残るような折になされたものではないが、印刷された形で途方もなく広い範囲に普及している。それは、すでに言及した、『彼を園の管理人だと思って』である。主題聖句はヨハネ20:15であり、この説教者が引き出した中心的な思想は、神の《教会》が庭園であり、主イエス・キリストが園の管理人だということであった。C・H・スポルジョンのあらゆる講話の中でも、これは最も美しいものの1つである。その内容と、そうした思想の1つ1つにまとわされた言葉遣いとの双方からしてそうである。

 「彼を園の管理人だと思うとき」、と彼は云う。「ここには、主の教会という庭園に見られる<《多くの不思議を解き明かす鍵》>がある。第一の不思議は、<そもそもこの世に教会などというものがある>ということである。この不毛の荒地の真中に花咲き誇る庭園があるということである。火打石のような非常に堅い岩盤の上に、主はその教会というエデンを作り、成長させておられる。いかにしてこのようなものが生じたのだろうか?――この死の砂漠に、いのちに満ちた肥沃地があるのである。不信仰の最中に、いかにして信仰が生じたのだろうか? 卑屈な恐れだらけの地に、いかにして希望が生じ、憎悪のはびこる地に、いかにして愛が生じたのだろうか? 『子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして全世界は悪い者の支配下にあるのです』*[Iヨハ4:4; 5:19]。他の何もかもが悪魔にがっしりつかまれているというのに、なぜこの『神から出た者』たちがいるのだろうか? いかにして神の民などというものが生じたのだろうか? いかにして彼らは他から切り離され、きよめられ、聖別され、御名のために実を結ぶべく定められたのだろうか? それが人にまかされていたとしたら、決してそのようなことは全くありえなかったに違いない。私たちは、『彼を園の管理人だと思って』初めてその存在を理解できるが、他の何によっても説明がつかない。主は茨の代わりに樅の木をすくすくと生えさせ、おどろの代わりに月桂樹を生やすことがおできになる。だが、他の何者もそうした変化を成し遂げることはできない。私が座っていた庭園は、むき出しの岩盤の上にあった。その花壇の中にある土のほぼすべては、眼下の岸辺から、たいへんな労働によって運び上げられたものであった。それで、岩の上に土壌が作り出されたのである。その庭園は、ひとりでにそうした場所に存在するようになったのではない。巧みなわざと人手によって造り上げられたのである。それと全く同じように、神の教会は主イエスによって造園された。主こそこの庭園の創始者であり完成者でもあられる。痛み苦しみながら、傷ついた両手で主は、それぞれの花壇を造り、1つ1つの苗床を整え、一本一本の植物を植えられた。すべての花々は、主の流した血の汗によって潤されなくてはならなかった。主の涙する目によって見守られなくてはならなかった。主の御手の釘跡と、み脇腹の傷跡は、主が新しいパラダイスを作るために払われた代償のしるしであった。主は、その庭園内のあらゆる植物のいのちのために、ご自分のいのちを投げ出された。そこにある草花は、そのすべてが、『彼を園の管理人だと思って』初めて説明がつくものである」。

 他のいくつかの不思議を示唆し、「彼を園の管理人だと思って」それらを容易に説明した後で、この説教者はこう続ける。「あなたの想像力を、私の想像に沿って走らせてほしい。私は云う。『彼を園の管理人だと思って』、私たちは<《多くの義務へと駆り立てられる》>べきである。キリスト者の義務の1つは喜びである。ほむべきキリスト教信仰は、その数ある戒めの中で、人々に幸福になることを命じている。喜びが義務となるとき、誰がそれをないがしろにしようなどと思うだろうか? 確かに、イエスが園の管理人であると花々が囁き交わしているときには、いかに小さな植物も、陽光を深々と吸収することが助けられるに違いない。『おゝ』、とあなたは云うであろう。『私は、これほど小さな植物なのです。私は育ちがよくありません。葉っぱもたいして伸ばせませんし、私の回りの花々ほど多くの花もつけていません!』 あなたが自分のことを軽視するのは全く正しい。ことによると、あなたの頭を垂れることが、あなたの美しさの一部かもしれない。多くの花々は、その頭を垂れるというわざを実践していなかったとしたら、その半分も麗しくなかったであろう。しかし、『主を園の管理人であると思』うとき、主はその地所全体の中で最も貫禄のある椰子の木の管理人であるのと同じくらい、あなたの管理人でもあられるのである。私の目の前にあるマントンの庭園には、橙や蘆薈その他の、人目を引く見事な植物が育っていた。だが、私の左手の壁には、平凡な匂い紫羅欄花や、雪の下や、わが国の岩地でよく見かける小さな草の葉が生えていた。さて、園の管理人はこうしたすべての世話をしていた。大きなものも小さなものも。実際、そこでは、何百もの、ごくごく取るに足らない下生えの見本がしかるべく分類され、名称が記されていた。いかにちっぽけな雪の下もこう云うことができたであろう。『彼はグロワール・ド・ディジョン[蔓薔薇の名品種]やマーシャル・ニール[同左]の管理人であるのと同じくらい、私の管理人なのだ』。おゝ、神のか弱い子どもたち。主はあなたの世話をしておられる! あなたの天におられる御父は、鳥を養い[ルカ12:24]、雀の群れを導いておられる。あなたのことは、いやまして手厚く世話してくださるはずではないだろうか。あゝ、信仰の薄い人たち。おゝ、小さな植物たち。あなたは十分に正常に育っている。ことによると、あなたは、今は上に向かうよりも下に向かって伸びつつあるかもしれない。思い出すがいい。ある種の植物は、地表の外側の部分よりも、地中の根の方が尊ばれるのである。ことによると、あなたは、それほど早く生長してはいないかもしれない。あなたは、生来ゆっくりとしか育たない潅木なのかもしれない。そして、もしあなたが大木になるようなことがあるとしたら、それは不健康なことであろう。いずれにせよ、このことをあなたの喜びとするがいい。あなたは、主の庭園の中にあるのである。そして、『彼を園の管理人だと思』うとき、主はあなたを最も良い方向に生かしてくださるであろう。あなたがそれ以上にすぐれた世話を受けることはありえない」。

 最後に、この説教者は、無頓着な者に対して警告を与えた。「この大会衆の中にいる多くの人々は教会にとって、庭園にとっての雑草のようなものであろう。彼らは神によって植えられたのではない。彼らは神の養いの下で育っているのではない。神の栄光のために何の実も結んでいない。愛する方々。私はしばしばあなたに迫り、あなたに感銘を与えようとしてきたが、そうすることはできなかった。用心するがいい。というのも、『彼を園の管理人だと思』えば、そのうちに主はあなたに手を伸ばし、あなたはこの言葉の意味を知ることになるからである。『わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます』[マタ15:13]。どうか用心してほしい。

 「私たちの中の他の者らは、実を結ばない葡萄の枝のようである。私たちはしばしばこうした人々に対して厳しく語ってきた。取り違えようのない言葉で、正直な真理を語ってきた。だがしかし、彼らの良心に触れることはなかった。あゝ、だが、『彼を園の管理人だと思』えば、主はこの宣告を成就なさるであろう。『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き……ます』[ヨハ15:2]。私たちにできなくとも、主はあなたをつかみ取るであろう。願わくは、この古い一年が完全に死んでしまう前にあなたが心底から神に立ち返り、雑草ではなくえり抜きの花となるように。枯れた棒切れではなく樹液の多い、実を結ぶ葡萄の枝となるように」。

 この講話は、一連の説教集の一部として発行され、様々な小冊子の形でも刊行された。

 「王女アリス号」の沈没によって想を得た二編の説教、『天来の介入』『愛する子を気遣う問いかけ』(第1432号、1433号)は、合併号として発行されたにもかかわらず、その当時、そして今もなお、非常に大きな売れ行きを見た。しかし、チャールズ・ハッドン・スポルジョンによって語られ、一連の印刷講話の一編として出版されたいかなる説教にもまして莫大な部数が発行され、なおも発行され続けているのは、『洗礼による新生』という題の説教である。それが語られたのは、1864年6月5日の日曜日の午前中であり、『メトロポリタン・タバナクル講壇』の第573号となった。説教者本人は、ここで扱った問題について多年にわたり心を悩ませてきていたが、この忘れがたい日曜日の朝には、彼の「会衆」も外の世間も、いかなる爆弾宣言がなされることになるか、予想だにしていなかった。

 その主題聖句は、聖マルコ16:15、16であった。「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』」。多少の前置きの後で、説教者は聴衆にこう指摘した。使徒たちは御霊の剣を振るって、あらゆる敵を敗走させた。一瞬たりとも福音を、人々の趣味や偏見に合わせて作り替えようなどとは夢見なかった。むしろ、直接かつ大胆に、敵対する過誤の脳天にこの強大な剣を振り下ろしたのだ、と。「私は今朝」、と彼は語を継いだ。そして、彼の会衆は、常ならぬ重大な言明が発されようとしているのを察し始めた。「《万軍の主》である、私の《助け主》また《守り主》の御名によって同じことを行なおうと思う。そして、たとい私が何らかの敵意を引き起こすとしても、――たとい私が真理と信ずることを語ることによって一部の人々の友情を失い、それよりずっと多くの人々の憎しみを買うとしても、それは致し方ない。主の宣告が私の上にあり、私は自分の魂を解放しなくてはならない。この働きを行なうのは非常に気が進まないが、それが厳粛な義務であるという恐ろしいほどの感覚を圧倒的に覚えるため、そうせざるをえないのである」。

 それから説教者は、英国中で対抗しなくてはならない、1つの大きな過誤が増え広がりつつあると語り、それは、その日の主題聖句と正反対のもの、すなわち、洗礼による新生という教理であるとした。これは、彼が主張するところ、国教会によって、その《聖公会祈祷書》の中ではっきり教えられている教えである。「しかし」、と彼は言葉を続けた。「多くの善良な人々がこう叫ぶのが私には聞こえる。『その《教会》には、洗礼による新生など信じていない善良な聖職者がたくさんいますよ』。それに対して私は即答しよう。それでは、なぜ彼らは、この教理を平明きわまりない用語で教えているような《教会》に所属しているのか?」 そして、彼は引き続き、この教義に対する福音派の教職者たちの態度について、また、そうした態度に何が伴うかについて、いささか堅い言葉遣いで語った。

 当然ながら、この激しい言葉で語られた説教が出版されると、英国国教会内の福音派全体が憤激することとなった。その後説教されり刊行されたりした応答や論駁は、数十ではきかず、文字通り数百を数えた。発行された小冊子をすべて完全に収集したものは存在していないと思われる。C・H・スポルジョン自身、この主題に関する小冊子や説教を集めた分厚い蒐集帳を十冊所有していた。筆者が吟味することのできた選集は、三寸から四寸の厚みをした一巻本をなしている。一部の応答は学究的な性格をしており、他の説教は悪口雑言に満ちていた。少なくとも、その1つは、色付きの図で飾られており、大部分は、「受けそうな」題名をつけることで互いに競い合っているように見受けられる。そうした題名のいくつかを手当たり次第に抜粋してみれば、こうした応答と再返答がいかに種々雑多な性格をしていたか、何ほどかの印象を示すことになるであろう。『福音主義者による《祈祷書》の「正直な」読み方:当該主題に関する教理――スポルジョン氏の説教によって示唆された小冊子』。『スポルジョン氏の説教における数々の虚偽と虚説を暴露する』。『洗礼と天来の契約に関する英国国教会の教理の図解、および説明の鍵と注釈:C・H・スポルジョン師の数々の虚説に対する完全な回答』。『新生とその贋物』。『偽りの新生』。『聖なる洗礼に関する《教会》の声』。『洗礼による新生なる教皇主義的過誤は英国国教会の教理ではない』。『矯正者を矯正する』。『スポルジョン氏は何を、何者の権威によって行なったのか』。『スポルジョンは正しい! そして英国国教会は間違っている! すなわち、信者の洗礼 対 小児の洗礼』。『大砲が鳴り轟く。教職者たち、用心せよ。すなわち、ほんの数語によってC・H・スポルジョン氏が光の中にあること、福音派の教職者が闇の中にあることが示される』。『誤っているのは誰か? すなわち、バプテスト派とバプテスマ』。『このスポルジョンをどうすべきか? また、聖書は何と云っているか?』。『偉大なのはアルテミスだ。すなわち、母なる教会と幼子たち』。『C・H・スポルジョン師の解決』。『狡猾な狐が発見され、罠にかけられる』。『ランベスの福音、すなわち、万人が自らの救い主』。『奇異なねじれ、すなわち、以下の題名の小冊子における、一教職者の歪曲と曲解。「スポルジョン氏が洗礼による新生を教えていることを証明する。聖職者の論理例証」』。『取り除かれた覆いと明らかに示された真理』。『正当性の証明:C・H・スポルジョン師への手紙』。『誰にバプテスマを授けるべきか?』。『新生と退廃:牧師たちへの丸薬とスポルジョンへの激励』。『不正直なのはどちらの側か?』。『スポルジョン用の解毒剤』。『この一切合切はどういうことか?』。『秤で計量する:C・H・スポルジョン師の自己断罪』。『C・H・スポルジョン師に決着をつける』。『新生は救いにあらず』。『新生:言葉の用法と誤用』。『C・H・スポルジョン師の悪口と無知』。『聖職者たちの云い繕い、すなわち、何某氏の曲芸的妙技』。『形勢の逆転:スポルジョン氏の無知は知恵となり、その批判者たちの知恵は無知となる』。『幼児洗礼、なぜそれをあざ笑うのか?』。

 一部の著名な人々もこの論争に加わった。例えば、英国国教会側で云えば、グード聖堂参事会長、マンチェスターの文学修士ヒュー・ストーウェル師、神学博士ヒュー・アレン師、英国国教会の文学修士ジョウゼフ・バードスレー師である。また、バプテスト派で云えば、ブルームズベリ会堂のブロック博士、リージェント公園会堂のランデルズ博士、ブリストルのヘイロフト博士である。何箇月も小冊子の刊行と応酬が続けられ、それらの発行部数の多寡にかかわらず、スポルジョン氏による元々の説教は、当初の数週間のうちに何十万部も売れに売れた。「その説教が語られたときには」、とこの説教者は宣言している。「そうした説教集の売れ行きが深刻な悪影響をこうむるものと完全に予期されていた。事実、私は出版者のひとりにこう語っていた。自分はこれからほんの一撃ですべてを台無しにしてしまうだろう、だが、その一撃は加えなくてはならないのだ、いかなる代償を払うことになろうと関係ない、というのも私の上には主の宣告が重くのしかかっており、私は自分の魂を解放しなくてはならないのだから、と。私は慎重に費用を計算し、多くの熱烈な友人や助け手を失うことを計算に入れた。また、才知に長けた敵たちが怒りに燃えて攻撃して来ることを予期した。私は他の点では間違っていなかった。だが、こと説教集に関しては全く当てが外れた。というのも、その売れ行きがたちまち跳ね上がったからである。その事実は、私にとって、いかなる意味においても、自分の行動の是非を試すものではなかった。たとい結果的に説教集の刊行をやめることになっていたとしても、私は今と同じくらい自分の取った方針に心の満足を感じていたことであろう。だが、それでも、気づかされて満足させられることがあった。すなわち、人は腹蔵なく語ることによって一部の友人を失うことになるかもしれないが、他の多くの友人を手に入れることにもなるのである。そして、たといそのことである方面における影響力が覆されることになるとしても、他の方面でそれは完全に埋め合わされることになるのである」。紙数の関係上、これ以上特別な講話について詳しく述べることはできないが、C・H・スポルジョンの説教の中でも最も著しい十二編は合本されて定価一シリングで売られている。題名は、『尋常ならざる折々に語られた十二の忘れられない説教』である。もちろん、この本に洗礼による新生の講話は含まれていないし、他の論争的な性格の説教も全く含まれていない。


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