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天来の介入

NO. 1432

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1878年9月8日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた」。――詩18:16


「王女アリス号」の沈没に思う

(注:外輪汽船「王女アリス号」は、ロンドン橋から日帰り旅行客を運ぶテムズ川の遊覧船だったが、1878年9月3日、その日の最後の運航の帰路、鉄造の石炭運搬船「バイウェル・キャスル号」と衝突した。どちらの水先案内人も、相手の船が航路を譲るものと考えていたためである。石炭船の船首によって船腹を引き裂かれた同号は、五分足らずのうちに真二つになり、沈没した。六百四十人以上が水死し、救出されたのは、ほんの六十九人しかなかった。)


 あなたが今いかなる感情を覚えているか、私には分からない。私の兄弟たち。だが、私について云えば、陰鬱な雲が終日、頭上に垂れ込めているような気分がする。先週火曜日に起こったすさまじく不幸な出来事は、あまりにも人心を呆然とさせ、広く影響を及ぼすものであったため、先週の間中、私たちは、寄るとさわるとこのことについて語り合っていたに違いないのではないかと思う。脳内の思いからも、心中の感情からも、このことを拭い去ることはできない。ロンドン全体が、こう書かれているあの古代の町のようになっていると云えよう。――「シュシャンの町は混乱に陥った」[エス3:15]。人々は、知り合い同士で尋ね合っている。「お身内の方は無事でしたか?」 そして、こう答えが返されても決して不思議ではない。「あゝ、大切な人を亡くしたのです」。私たち自身、ごく間近な所で格別な嘆きをともにしている。この教会の会員の中でも、少なくとも五人が世を去り、兄弟たちの誰かと話せば、決まってその親戚か友人を失っていると分かるからである。悲しいかな、かの不幸な船が沈んだときには、いまだかつて西班牙の大型帆船に船積みされたいかなる財宝よりも貴重なものを道連れにしたのであり、その難船によってこの町にもたらされた損失は、それが膨大な金塊を積み込んでいた場合にまして大きい。この恐ろしい患難について考えずにいることはできない。それゆえ、考えた上で、それを多少とも実際的な役に立てる方が良いと思う。

 この突然の悲嘆の出所は、他のいかなる事件とも変わりないと私は信じる。神である。これは、私たちのこの町に対する神の御声としてやって来たのである。――その御声は、確かに耳に入り、顧みられているものと思いたい。「聞け。主が町に向かって叫ばれる。――御名を恐れることがすぐれた知性だ。――聞け。鞭と、それを定めたお方に」[ミカ6:9 <英欽定訳>]。私たちは、こう語った古の預言者と同じ意見である。「町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか」(アモ3:6)。災害という形で人の子らのもとにやって来るもののうち、主の許しと支配と統御を受けていないものがあるだろうか? 何1つない。「主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる」[Iサム2:6]。多くの人々が、この途轍もない打撃に唖然としていることは分かる。だから、このことと神を結びつけて考えることなど到底できず、そこに《遍在の神》はおられなかったのだと半ば信じたがっているであろう。この問題によって、そうした人々の理性はたじろぎ、それを信仰の奥義としておくことができずにいる。ヨブは、患難がつまらぬ所からやって来ることを認めず、それを主に帰してこう云った。「神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか」[ヨブ9:12]。人々は、それと同じ確信をまだ得ていない。むしろ、主を愛し、主に信頼している人々の中にさえ、次のように云ったときのマリヤやマルタに通ずる思いをしている者がある。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」[ヨハ11:21、32]。その一方で、もっと分別があってしかるべきでありながら、臆病にも、すべてを統御する摂理を信じていることを押し隠そうとする者もいる。野卑な者たちから嘲られるといけないからである。嘲らせておけば良いではないか。私たちの神は、その道がはるかに高く、私たちの目に見えないほどのお方であるにもかかわらず、栄光に富んでおられるからである。いずれかの場所から神を閉め出そうとするのは、無神論的な考え方である。神があらゆる場所にいるのでないとしたら、どこにもいないのである。遍在は《神格》の本質的要素である。また、もし神の御手が悪を統御していないとしたら、それは全能ではない。だから、そうした考え方は神性の属性として欠かせないものをもう1つ欠いているのである。神の統治権に制限があるなどと思うのは空恐ろしいことである。「その王国はすべてを統べ治める」[詩103:19]。

 私たちは、2つの拮抗する力が存在すると信じているような人々とは違う。双方が至高の権力を帯びており、一方は種々の災害を作り出し、もう一方は様々な祝福を分け与えているのだなどと信じはしない。悪の支配者は、私たちの信仰によれば、万物の偉大な主に服従している。そのようにエホバは、そのしもべイザヤの口を通して語っておられる。「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者」[イザ45:7]。主は穏やかな夏の日の中で統治しており、大切な収穫の実を私たちに与えてくださる。だが、それと等しく主は、破壊の限りを尽くす嵐の中にも、野を荒らす葉枯れ病の中にも臨在し、君臨しておられる。神の摂理は目指す港へと船を急がせるが、それと等しく、帆船とその水夫たちを海底へと沈めるのもやはり神の摂理である。主の御力はオリオン座の綱を解き、すばる座の鎖を結びつける[ヨブ38:31]。稲妻も日光も主のものであり、雷電も雨粒も主のものである。主は、天を鉄のように、地を青銅のようにしては、地にその産物を出させないようにすることがおできになる[レビ26:19]。飢饉を地の上に招き、パンのための棒をことごとく折ることがおできになる[詩105:16]。飢饉も、疫病も、戦争も、主の御手の中にある鞭だからである。いずこにも神はおられ、あらゆる事がらの中に神の御手は存在している。私たちにとって悪と思われる事がらの中でも、私たちにとって善であるように見受けられる出来事の中と同じくらい神は働いておられる。神はいかなる悪事も行なわれない。悪に誘惑されることのないお方であり、ご自分で誰を誘惑なさることもないからである[ヤコ1:13]。だが、私たちがいま語っているのは、物理的な悪のことである。悲しみと、痛みと、死を人々の間に引き起こす不幸な出来事のことである。そして、私たちは云うのである。そこには確実に神がおられる、と。もしも雀一羽でも、私たちの御父のお許しなしには地に落ちることがないとしたら[マタ10:29]、いかなる大災害も神を抜きにして私たちに降りかかるはずがないことは確実である。神は、私たちのいかに深い悲しみにおいても私たちから遠く離れてはおられない。また、ある災害がいかに人間たちの不注意や過ちから引き起こされたものと判明しようと、それは第二原因でしかない。単なる一切の細部の背後には、主の許しが見てとれるのである。そうでないとしたら、いま哀悼している人々は、事を従順に受け入れるべき最大の理由を奪われ、心に慰藉をもたらす最も確実な源泉を奪われることになるであろう。

 たとい犯罪の結果として何かすさまじい出来事が起こる場合でさえ、神は除外されはしない。神は、その罪責の一端を負うわけではないが、そうした行為を越えて支配されるのである。私たちの主の十字架刑について考えてみるがいい。そして、思い出すがいい。確かにその罪は、この悪事を行なった者たちの上に重くのしかかっているとはいえ、その遠大な構想は神のものであったことを。『使徒の働き』にあるペテロの言葉を読むがいい。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」[使2:23]。神がカルバリにおられたことを誰が否定するだろうか? 確かに罪はそこでその極致に達していたが関係ない。

 私たちは、自分がこのことを理解できないと認めるにやぶさかではない。それゆえ、このことを説明しようと試みもしない。だが、私たちは信じて、あがめる。幸いなことに、神の道を人間に対して正当化すべき必要はない。神は私たちによって弁護されることなど求めておらず、ご自分の行なうことについていちいち答えてはくださらない[ヨブ33:13]からである。ただ私たちはこう決意するのみである。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」*[ヨブ13:15]。

 さて、多くの人の心にごく自然に思い浮かんだ問いは、こうであろう。――この世に摂理というものがあるとしたら、なぜそれは、このように恐ろしい悪がいくつも起こることを許しているのだろうか? 人命がこれほどの規模で失われるのは、慄然とさせられることである。神は全能であり、誰もそのことを疑いはしない。それでは、なぜ神は救いの手を割り込ませないのだろうか? そこから、今朝の私たちの講話の第一の点が示唆されると思う。すなわち、私たちは現世の事について、奇蹟的な介入を期待すべきではなく、本日の聖句の言葉を文字通りに用いてこう云うことは許されない。「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた」。そして第二に注意したいのは、本日の聖句によると、別の種類の摂理的な介入は請け合われているということである。そして第三に、また、何にもまして良いことに、人々の救いのためには様々な恵み深い介入が与えられるということである。たとい主が、現今では、いと高き所から御手を伸べてそのしもべたちを捕えず、奇蹟によって彼らを川の水から引き上げることがないとしても、それでも主は、私たちを苦難の深みから救い出してくださる。特に、罪の深みから私たちを持ち上げ、永遠の救いへと至らせてくださる。主はそう仰せられたからである。「わたしはバシャンから彼らを連れ帰る。わたしは海の底から連れ帰る」[詩68:22]。

 I. まず第一に、《現世の様々な災厄においては、奇蹟的な介入を期待すべきではない》。私が今ここに立っているのは、そうした介入を行なわない神のご性格を弁護するためではない。というのも、反対する者たちに対する神の唯一のお答えはこうだからである。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか」[ロマ9:20]。たといあなたが自分の《造り主》を告発しても、この方はあなたに答えはしないであろう。あなたがた、そうした告発状をでっち上げた人たちが、自分の好き勝手な答えをひねり出すがいい。だが、誰にも否定できない困難が1つあり、その困難は1つの事実に存している。そもそも神が全能であり、御座についておられるというのに、なぜ1つでも悪が存在しているのだろうか? これは、誰ひとり答えることのできない太古からの謎である。ある黒人が、これを非常に自然なかたちで云い表わした。彼は宣教師にこう尋ねたというのである。もし神様が、そんなに悪魔の奴よりずっと強いお方だとしたら、なんでまた、とっとと悪魔をぶっ殺して、その悪さをやめさせねえだか? まさにその通り。それが肝心要の点である。そこに問題がある。だが、誰がそれに答えられるだろうか? 一個の愚者は、いかなる賢人が一世紀かけても解決できないような異議を、一時間もかけずに次々と唱えることができるであろう。さて、どれほど秀抜な理屈も事実を変更することはない。あなたや私が考えるだろうことは、現実のありようと比べればごく小さなことでしかない。そして、この世に道徳的な悪が存在していることは全く確実であり、神が存在しておられることも全く確実である。この世に物理的な悪が存在していながら、愛が最高のものであること、また、《全能者》が火や水にご自分の被造物たちを滅ぼすことを許しておられながら、彼らを救出するために干渉なさらないこと、だがしかし、この方が優しさと憐れみに満ちておられることは全く確実である。もちろん、一部の者たちは、向こう見ずにも自分の《造り主》を罪に定め、私も知らない、身の毛もよだつ恐ろしい名で神を非難するであろう。そうした思い上がった人々の口から、「化け物」という言葉さえ吐き捨てられるのを私は聞いたことがある。もう一度云うが、こうした反対者どもには答えるだけ無駄である。なぜなら、そうした者らは、説明を受け入れることがなく、受け入れたいとも思っていないからである。そして、その反面、《いと高き方》にとって、そうした者どもがご自分をどう考えるかなど、大した問題ではない。神はご自分の望む通りに事を行ない、ご自分の被造物どもの許可など決してお求めにならない。

 しかし今、ほんのしばし、ある問いを考察してみよう。この問いは、慎みをもって提起されているものと思いたい。かりに、何か大きな危険に脅かされるたびに、天からの奇蹟的な介入が期待できるとしたら、どうなるだろうか? この仮定は馬鹿げたものではない。そうした介入はありえるからである。神が全能であられる以上、その可能性は認めなくてはならない。ある列車が線路の上を轟音を立てて走りつつある。このままでは、別の列車と衝突し、多くの人命が失われるであろう。だが、もし主がお望みになるとしたら、その御手を内燃機関の上に置き、驀進しているその列車を止めることがおできになるはずである。また、八百人の乗客を乗せた船が沈没しようとしている。だが、もし主がお望みになるとしたら、主はそれをご自分の掌に載せて浮かばせておくことがおできになるはずである。だが、主はお動きにならない。線路には死人が散乱し、川面は死体で埋まる。私たちには、なぜそうした干渉がなされないのか、すべての理由は分からない。だがしかし、少しは見てとれることもあると思う。そして、その少しについて考えることにしよう。最初のこととして、このような介入がなされれば、世界に定められたありようそのものが全く変わってしまうであろう。世は、まるで異なる場所となるであろう。主はこの世界を造り、それを一定の決まった法則によって支配しておられる。もしそうした法則が気紛れなもので、絶えず変更されているとしたら、世は全く別の形の被造世界となり、人間は異なる被造物になる必要があるであろう。人間の肉体的、道徳的状態は、そして、霊的状態さえもが、何から何まで変わることであろう。主がお定めになったのは、ご自分の御力が、ある特定のしかたに沿って発揮されることであった。それが、私たちが自然法則と呼ぶありようであり、そうした定めを主はお守りになる。一部の人々が常に夢見ていることとは違い、「自然」は何か独立した力として存在しているのではない。また、神ご自身の御力から離れた、単なる自然法則としての原動力などもない。人はいくらでも法を定めることができるが、法の中には何の力もない。法を施行するには王の権力がなくてはならない。いかなるものであれ、あらゆる力は神から発している。神こそ、被造世界を通じて働いている一切の力の源泉であり根源であられる。だが、神は初めからこう決めておられた。ご自分の御力は、通常は、ある特定のしかたによって、また、決まった法則や規則の下において発出されるものとしよう、と。神は、お望みになれば、そうした法則を一時棚上げにすることもおできになる。火の勢いを消し、獅子の口をふさぎ、大水をせきのよう真っ直ぐに立たせることがおできになる[ヘブ11:33-34; 出15:8]。だが、神はめったにそうはなさらななかったし、現今では決してそうなさらない。それがなぜかは、ある程度までは見てとれると思う。もしそうしたことが絶え間なく続けば、神が今の世界を造られた計画と目的の全体が放棄され、別の様式の力が取って代わることになるだろうからである。

 やはり思い起こすべきこととして、神のご計画がいかなるものであれ、今やそれは《堕落》という影の下で遂行されつつあるのである。罪が全くなかったとしたら、何の痛みも、病も、吐息も、死も存在していなかったのではないかと思う。もしもエデンの林間地から一個の人類が増殖して行き、より広大なパラダイスの中へと出て行くことも可能だったとしたら、また、そのパラダイスが、《造り主》の御手の中から出てきたばかりのアダムのようにきよく、聖なるものであったとしたら、そこには飢饉や、戦争や、海上の難船だの陸上の事故だのといった大惨事は全くなかったと信じられる。むしろ、人類がいかにおびただしい数になっていたとしても、その記録は、決して今日の新聞の一面を暗くしているような、悲痛な詳細によって汚されてはいなかったであろう。しかし、悲しいかな、人間は堕落してしまい、そのような状態にある種族にとって、あらゆることが陽光に照らされた夏のようであるとしたら不釣り合いであろう。今やそこには、嵐の轟きや、死の叫びが、罪の成果として聞こえなくてはならない。大惨事が決して起こらないことになったとしたら、人間の反逆に対する神の不快さを示すしるしはどこにあることになるだろうか? 罪は、その結果において、従順や聖潔とどこで違うことになるだろうか? ちょっと考えてみれば、あなたにも分かるであろう。なぜ神がその救出の御手をお止めになるかが。

 さらに、一部の人々が望むだろうように、かりに敬虔な人々の生命を救うためにだけ、あれこれの介入がなされることになったとしたら、そのときには、この世が審判の場となってしまうであろう。だが、この世はそうなるべきものではない。今なお多くの人々の中に迷信のようにとどまっている考えがある。何らかの事故が起こって人々が苦難に遭うと、そうした災害の犠牲者たちは何か特別の罪を犯していたに違いないとする考えである。だがしかし、私たちの主がお告げになった通り、シロアムの塔が倒れ落ちる下にいた人々は他の人々よりも罪深かったわけではないし、ピラトに殺されたガリラヤ人たちは他のガリラヤ人よりも罪深かったわけではなかった[ルカ13:4-5]。不慮の死は必然的に神の審きに違いないなどという考えを、どうかあなたの念頭から払拭してほしい。いかなる建物が倒壊しようと、いかなる船が難破しようと、いかなる爆発や、そうした類のことが起ころうと、それで命を落とした人々の人格について決して推断を下してはならない。さもないと、残酷な不正の罪を犯すことになるからである。恵みに満ちた人が誰か命拾いをしたとしたら、その解放は摂理のおかげだとするがいい。だが、命を落とした人々が、その人よりも恵みに乏しかったのだと考えてはならない。あなたは、時として根性の曲がった人々が逃れたのに、聖徒たちが死ぬままにされることがあるのに気づくはずである。私は先日、摂理によって、ひとりの敬虔な婦人が救われたと語った。そのため愚かな人々は、命を落とした人々を私が罪に定めたのだと推論した。それほど私の意見からかけ離れたものはありえない。私は、生も死も同じように摂理によるものとしており、その人の人格については何の推断も下さない。もしもある人が「王女アリス号」に乗っていて水死したとしたら、どうだというのか。だからといって神がその人に怒りを発しておられたと想像してはならない。というのも、その人はいまパラダイスにいるかもしれず、いずれにせよ、同じ難破船は主の愛する者たちの多くを道連れにして水没したからである。さて、もし神がご自分の民が危険に遭うとき必ず介入してお救いになるとしたら、この世は裁判による分離の場となるであろう。だが、この世はそのような場ではないし、そのような場となるべきものでもない。審きは、来たるべき世のために取っておかれている。キリストが号令のうちに[Iテサ4:16]天から下り、その大きな白い御座[黙20:11]に着座なさるとき、――そのときには主は毒麦と麦を分離なさるであろうが、今は両方とも育っている[マタ13:30]。そのときには、主は山羊を左に、羊を右に置かれるであろうが[マタ25:32-33]、今のところ彼らは同じ牧草地で草を食んでいる。同じ出来事が彼ら全員に起こる。愚か者に起こることが賢者にも起こるのと同じである。この国は審きの国ではなく、むしろ、深い忍耐の国である。神が判決を下す場所ではなく、忍耐をもってしばし待っておられる場所である。現世では国々の審きが行なわれる。だが、個々人の審きは、まれな例外を除き、最後の決算のときまで取っておかれている。

 愛する方々。やはり留意するがいい。もしも神がいかなる惨事の場合も介入なさるとしたら、それによって数多くの悪が生じるであろう。というのも、見よ、もしも来年、幾多の農夫たちが畑に種を蒔くことを拒否し、世界諸国の全体で土地がただ雑草を生やすばかりにされたとしたら、途方もない穀物不足が起こるであろう。かりに、そのような場合に神が介入して、奇蹟によって突然に収穫をもたらしてくださり、膨大な数の人々が飢餓を免れたとしたら、その結果どうなるだろうか? 何と、至る所で怠惰が助長されるであろう。人々はこう云うであろう。「主はおやさしすぎるので、われわれを飢えさせないだろう。だから、鋤は錆びるにまかせて、その間、踊り暮らしていて良いのだ」。それが良いことだろうか? やはりまた、考えてみるがいい。ある地方に伝染病が広がったとき、主が奇跡的にそれを命取りのものにならないようにしてくださったとする。たとい人々が不注意によって熱病の巣窟を腐るにまかせ、家々に人々を詰め込みすぎ、空気そのものをも汚染するほどとなっても関係ない。私は云うが、考えてみるがいい。私たちがみな衛生法をないがしろにし、それでも、あわれみ深い神によって貧民が熱病や虎列剌で死なないようにされると知っていたとしよう。そのとき、わが国の諸都市の不潔さは、いや増し加わり、巨大なごみの山になるほどとなろう。そして、今でさえ想像しうる限りのしかたで河川を汚染し、神の地上を汚すことに長けた人間は、全地を一個の醜悪な腐敗の球体と変えることになるであろう。しかし、今は、悪疫や疫病や熱病でさえ良い面がある。それらは、警鐘を打ち鳴らす見張り人たちであり、私たちに警告を与える預言者たちなのである。それらは人を目覚めさせ、自分の存在の諸法則を発見させ、このようにして人類に恩恵を施すのである。やはり、また考えてみるがいい。事故が起こりそうな見込みがあれば常に神が直ちに御使いを遣わして介入させ、衝突や難破を防ぐとしたら、何が起こるだろうか? 何と、そのときは、もちろん、いかなる鉄道会社も汽船会社も、いくらでも好んで事故を起こそうとするであろう。それらが無害であり、魅力的にすらなるからである。船の舳先で見張りをする理由など全くなくなり、船楼端だの信号灯だのの必要もまるでなくなるであろう。もはや、人命に気を遣う必要などなくなり、私たちひとりひとりは好きなだけ無謀なことを行ない、あれこれの実験をして自分を満足させてかまわないであろう。何をしても命取りにはならないのだから。そのような事態が生ずれば、多くの美徳は台無しになり、多くの悪徳が無害にされるであろう。私は、そのような体系によって統制された世界を考えることができない。私は、神が時たま、天来の介入を行ない、ご自分の諸法則を棚上げにすることなら想像できる。それが、みこころにかない、何か大きなことを教える目的があるとしたらそうである。だが、関わり合うすべての者にとって賢明かつ有益と思われるのは、《創造主》が人間を今あるようなものとしてお造りになった以上、むしろ人間に、定められた物質上の諸法則に違反した結果を甘受させることであって、そうした諸法則を気紛れで不確かなものとすることではない。

 それから、愛する方々。奇蹟的なしかたで天来の介入が行なわれるとしても、私たちが考えるかもしれないような良い効果は、不敬虔な者たちに及ぼされないであろう。なぜなら、もし種々のあわれみの奇蹟が神の民のためだけに行なわれ、彼らを水死からか、猛火の中からか、致命的な衝突事故の結果から救い出すとしたら、そのときには、種々の審きの奇蹟が行なわれることも期待できようし、当然、行なわれるはずだからである。もしもあなたが荒野の中に入り、そこではマナが天から降り、水が岩から噴き出すとしたら、思い起こすがいい。あなたが入り込んだ土地は、地面が口を開き、コラや、ダタンや、アビラムを呑み込んだ土地であり、砂そのものが燃える蛇を生じさせては、神に反逆する者らを咬んで死なせた土地でもあることを[民16:32; 21:6]。あわれみの不思議が介入するとしたら、それと並んで審きの不思議も必ずや起こるに違いない。そして、全体から見ると、しばらくの間は、罪人たちをそのままにしておき、ある出来事があらゆる人々に起こるようにさせておく方が、ずっと寛大な神のお取り扱いなのである。なぜなら、神の寛容は罪人たちを悔い改めに導き[ロマ2:4]、神の子どもに降りかかる悲しみはその人にとって祝福となるからである。もしあらゆる事故死が罰だったとしたら、世は、いま私たちが前にしているものよりもはるかに凄まじい様相を呈することになるであろう。それゆえ、今のままのあり方が最善なのである。

 たとい人が奇跡的に救出されるという不思議がしばしば繰り広げられるとしても、それは私たちが想像するほど人類に感銘を与えないであろう。もし常に悪人が溺れるか焼かれるかし、常に義人があらゆる危険のただ中から救い出されるように神がなさるとしたら、人々は結局それを大したものだとは思わないであろう。最初はほのかに感銘を受けるかもしれない。だが、そのうちに自分たちの心をかたくなにするであろう。エジプトでは、イスラエル人の家々に光があったときも、エジプト人には全くの暗闇しかなかった。また、神は、エジプトを激しく打ってはいたが、イスラエルを祝福しておられた。だが、この事実によってパロの心が動されることはなかった。彼は一層その心をかたくなにしただけだったからである。荒野の中でイスラエル人が、神に向かってつぶやいていた際に、自分たちの仲間の何人かが呑み込まれて滅ぼされるのを見たとき、それは彼らの心をほとんど動かさなかった。一切のことを考慮してみると、現在のままのありようが最善であり、主はそう知っておられる。それゆえ、物理的法則に自然の経過を辿らせることをお続けになるのである。たとい時折そのために数百人の命が失われることになろうとである。

 また、一部の人々の想像とは違って、敬虔な人々が常に危険な時に命拾いするのは、彼らに大きな益をもたらしはしないであろう。私たちはいつの日から死ななくてはならない。兄弟姉妹たち。そして、この下界に何があろうと、私たちは、むやみに自分の出立の時を延ばしたいとは思わないであろう。どんなしかたで死のうと変わりはない。少なくとも、死に方を選ぶ余地はほとんどない。もしある人が、どのように死ねば神の栄光を現わすか尋ねられるとしたら、なかなかそれを選べないかもしれない。そして、それから、おそらく最も苦痛に満ちた死に方を選ぶことであろう。ある人々は、溺れるといけないからといって船に乗るのを怖れる。だがしかし、そうした恐れにはほとんど理由はない。ある船長が船に乗るのは怖くないか尋ねられて、「いや全く」、と答えた。「しかし、船長。あなたのお父上は溺れ死んだのでしょう?」 「ええ」。「お祖父様も溺れ死んだのでしょう?」 「ええ」。「ご兄弟たちも溺れ死んだのでしょう?」 「ええ」。「だのに船に乗ることが怖くないのですか?」 「ええ」、と彼は云った。「全く怖くありませんな。では、私も同じことをお訊きしましょう。あなたのお父上は死なれましたか?」 「ええ」。「どこで死なれました?」 「寝床の上です」。「では、お父上のお父上は、どこで死なれました?」 「寝床の上です」。「では、そのお父上は?」 「寝床の上です」。「では、あなたのご兄弟たちは、どこで死なれました?」 「寝床の上です」。「だのに、あなたは寝床に入るのが怖くないのですか?」 確かに、私たちはどこかで死ぬに違いなく、定められたその時間よりも一分たりとも早くは死ぬことがない。私は予定を心から信じており、鉄砲弾に当たるも当たらぬも定められていると確信している。神が生かそうと決めておられる人には、決して死が降りかからないと確信している。そして、神の民はいついかなる折にも安全なのである。生きようと死のうと関係ない。「まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない」[民23:23]。暗闇の諸力がいかにその魔術と魔力を振り絞ろうと、私たちを害することはできない。主は宣言しておられる。神を自分の避け所とする者は、神の陰に宿ることになる、と。それゆえ、私たちは義務によって求められる場へと、おののくことなく向かうことができる。また、神が私たちの霊に向かって帰れとお命じになるときには、これっぽっちも恐れることなく死ぬことができる。私たちは決して死を免れることを願いはしない。なぜ死から免除されるべきだろうか? 多くの場合、長寿を得るよりは死ぬ方がまさっている。下界という流刑地にとどまっているよりも天国にいる方が良い限りはそうである。そこで、神の介入がないという問題についてはここまでとし、実際に起こる種々の介入について、手短に考えることにしたい。

 II. 《神の民の間では、種々の摂理的な介入がしばしば起こる》。彼らは、往々にしてこう云うことができる。「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた」、と。種々の天来の介入は、悩みの大水からの救出としてやって来る。あなたはそれを経験したことがないだろうか? いかに際立ったしかたで神は、私たちの中のある者らを救出してくださったことか! いかに著しいしかたで私たちのいのちは、失われないようにされてきたことであろう。それは確かに奇蹟的にではなかったが、それでも驚異に満ちていた。私たちは、そうした救出について、自然法則が棚上げにされた場合に劣らず神を賛美する理由がある。というのも、私たちが完全に守られたという点では全く変わらないからである。私たちは、悲しみの折に様々な助けを受けてきた。愛する者が私たちのもとから次々に取り去られていったとき、あるいは、彼らが墓の瀬戸際に近づいたのに、それでも命を取り留めたときがそうである。いかにしばしば私たちは商売上の問題において助けられ、間近に迫った破産や、深刻な損害から救われたことか! 中傷を受け、いわれもなく誹謗されるとき、いかに恵み深く神は私たちの潔白を明らかにしてくださったことか! もう一度云うが、奇蹟によってではない。だがしかし、非常に驚異的なしかたで私たちの神は私たちを救出してくださった。祈りに答えて神は、ご自分の民の益になるように働き、その間、摂理の車輪を一個たりとも停止させることがない。私たちは時々、奇蹟によってある結果がもたらされば良いのにと願うことがある。だが神は、自然の法則を1つたりとも破ることなく、同じ目的をもたらすことがおできになる。神が燃えさかる火焔をお消しにならなくとも、貴重な命は燃え上がる家屋から救い出される。水死が起こらないようにはなさらないが、いかに多くの祈りに答えて船が救われ、人々の命が守られてきたことか! 神は、商売上の普通の営みを停止したり、世界の動く道筋を変更したりすることはしないが、それでも貧者を助け、悪戦苦闘している商人を祝福し、義人を深い苦悩の中から引き上げるべきすべをわきまえておられる。あえて云って良ければ、結局において、奇蹟とは手荒な処置であり、主が現在事を処しておられるやり方の方がずっと優美である。何にもまさって壮大な偉業は、主なる神が、奇蹟も行なうことなしに奇蹟的な結果をもたらし、自然法則を棚上げにせずには不可能と思われるようなことを、種々の一般的な手段によって引き起こしては、ご自分のしもべたちの叫びに答えてくださることである。見るがいい。いかに主が、自然界の諸力すべてにその通常の行路を疾駆させておられながら、しかし、そうしたすべての成果として、主のしもべが解放され、その祈りが答えられるかを。

 神はこのことを非常に変化に富んだしかたで行なわれる。私たちの知っているある人々が大水から引き上げられたのは、突如として健康を回復することによってであった。あるいは、自分の生活を支えてくれている人々が健康になることによってであった。これは神のあわれみであり、それゆえ神をほめたたえるがいい。時には種々の環境が大いに変えられる。ある人が、自分の商売については何年もの間、先細りになる一方だったのが、全く思いがけないことが起こって、やはりじりじりと上り坂になり安楽な身分になる。愛する方々。思いもかけないことが起こると信じるがいい。いま私は一個の逆説を口にするところであった。予期できないことを予期するがいい、と。今のあなたが全く知っていないことを、神があなたのために行なわれるだろうことを信じるがいい。主のもとには、常に何らかの計画が備えられている。あなたは思うであろう。主は、そのお手持ちの策が尽きてしまったのだ、自分はもう滅びるしかないのだ、と。だが、そうではない。まさに正しい瞬間に、何か新しい、驚かされるような知恵の一撃を主は繰り出されるであろう。それを主は、ある特定の瞬間まで見合わせておられたのである。だから、主がそれを行なって、ご自分のしもべを大水からお引き上げになるとき、その賛美と栄光は、より一層主の御名を高めることであろう。私たちは知ってきた。主が、悩みの時にあるそのしもべたちを救うのに、彼らの敵の心にお触れになることを。それまで意地悪と残酷の限りを尽くしていた人々が、突如として寛大きわまりない思いやりに満ちた人になるのである。別の折には、敵たちが死ぬか、混乱させられてきた。かのよこしまなハマンがユダヤ人の破滅をはかったときがそうである[エス6-7]。主は、ハマンを木に吊し、ご自分の選びの民が救い出されるようにされた。モルデカイは王の門のところから王の家に行き、ハマンは王の食卓から王の絞首台へと上った。私は、主がご自分の民の通り道をすっきりとお片づけになるやり方のすべてを挙げることはできないが、このことだけは分かっている。私たちの人生の中には、ある者が立ち止まって、こう歌わざるをえないことが良くあるのである。「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた」、と。

 人によっては神の御手が見えないであろうが、私はあなたに請け合おう。兄弟たち。大水の底から救い出された人々にはそれが見えるものである。彼らは、自らの経験によって、神が今も私たちの間におられることを教わるのである。他の人々は「自然の法則」について語るかもしれない。あたかも神が眠りに落ちてしまい、ご自分を抜きにしても動くぜんまい時計として世界を巻き上げておられるかのように。だが、耐えがたいほどの患難と危難の中に陥りながら、そこから連れ出された人々は、永遠にほめたたえ、賛美することであろう。苦しむとき、そこにある助け[詩46:1]なるお方を。しかり。私の兄弟たち。私たちがここまでやって来た道は、この町が人で満ちているのと同じくらい、神で満ちている。人間の足が一度として踏みしめたことのない砂漠はある。だが、神の御足が置かれたことのない荒野はない。あなたは何と云うだろうか? 私の愛する方々。あなたは狂信者ではないし、熱狂的な献身の念によって気が触れているわけでもない。だが、あなたは、自分がはっきり摂理的に救出されたことを自覚していないだろうか? 「自覚していますとも」、とあなたは云うであろう。「実際、もし私たちがそのことを愛と感謝をもって語らないとしたら、町通りの石畳そのものが、私たちのよこしまな沈黙を非難して叫ぶことでしょう。何度も何度も、主は、いと高き所から御手を伸べて私たちを救い出してくださいました。私たちは、モーセのように、水から引き出されました[出2:10]。そして、モーセのように、主のしもべとなりたいと思います」、と。

 III. さて第三に、《恵みという件における様々な介入こそ、何にもまして大きなことである》。しめくくりに、できる限りの力を尽くして、この主題について多少とも語りたいと思う。神は、ご自分の選ばれた民の魂を救うためにさえも、ご自分の法則をお破りにはならない。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。「すべての違反は当然の処罰を受ける」*[ヘブ2:2]。だが、主はご自分の民を救おうと思われた。いかにして主は、この2つを合致させるべきだろうか?――いかにして主は、ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる[ロマ3:25]べきだろうか? 私たちのほむべき主イエス・キリストというお方においてである。このお方においてこそ、1つの法が別の法に歯止めをかけながら、しかし、それを順守している姿が見られる。その陰鬱な結果を取り除きながら、しかし、それを尊重している姿が見られる。あなたも思い起こす通り、メディアとペルシヤの法は取り消すことができなかった[ダニ6:8]。さて、1つの法がアハシュエロスによって制定されていた。ある特定の日に、国中の人々がともに集まり、ユダヤ人を殺して良いという法である。ハマンは、すでにこの勅令を津々浦々で公布させており、王はそれを取り消すことができなかった。この残酷な法がいかに対処されたかに注目するがいい。彼らは別の法を作った。ユダヤ人は自分の身を守って良く、彼らを殺そうとする者たちを殺害し、その財産をかすめ奪ってかまわないという法である[エス8:9-11]。このことによって、問題に対処しながら、いかなる勅令も破棄せずにすんだ。さて神は、罪が罰されなくてはならないというご自分の法を決して取り消しておられないし、これからお取り消しになることもない。だが、そこに別の法がやって来る。その法が定めたのは、一個の代表的な人間によって最初の罪が犯された以上、一個の代表的な人間が登場し、その結果として生じた当然の罰を身に負うことが許されるということである。このことがなされた。いかなる法も破られなかったが、しかし神のあわれみは存分に施された。

 ここで、しばしの間この偉大な救いについて、また、それがいかにこの聖句で述べられているかについて考えてみよう。「主は、いと高き所から御手を伸べて」。おゝ、ほむべき主よ。全人類は、わざの契約という老朽船に乗って沈没しつつありました。それは、最初の罪によってぼろぼろに引き裂かれていました。彼らは束になって破滅へと下りつつありました。そのとき、あなたは、いと高き所から御手を伸ばされました。しかし、その御手はいかなるお方として現われたでしょうか? 智天使の中の最も輝かしい者でも、御使いたちの一団のかしらだった者でなく、《あのお方》でした。私たちが喜びとしている契約の使者、神の御子、《いと高き方》のひとり子、御父の栄光の輝き[ヘブ1:3]でした。この方がメシヤであり、遣わされたお方でした。そして、いと高き所から下っては、私たちの贖いを達成されました。兄弟たち。この恵みの契約の使者、すなわち、イエス・キリストを眺めるとき、あなたの心を喜び踊らせるがいい。崇敬すべき、また、永遠にほむべき、《いと高き方》の御子を見てそうするがいい。

 さて、次の言葉に注意するがいい。「私を捕え」。私たちが神から全く手を放してしまっていたとき、そのとき、このほむべき使者が私たちを捕えてくださったのである。主は私たちを、ご自分に対する御父からの贈り物として受け入れてくださった。また、羊の大《牧者》としての責任を引き受けてくださった。御父から与えられた者たちを守り、失わないようにするという責任をである。彼らは今にも滅びそうであったが関係ない。それから、いかなるしかたで主は私たちを捕えてくださったことか。主は御使いたちを助けるのではなく、アブラハムの子孫を助けてくださった[ヘブ2:16]。そのために一個の人となられた。ベツレヘムの赤子、ナザレの労働者、ゲツセマネで苦しむ人として、あなたはまことに私たちを捕えてくださいました。生においても死においても、ご自分では何の安楽も得ないほどに! 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」[ヨハ1:14]。そして、天から伸べられた御手として、主は私たちを捕えてくださった。

 では、そのように、ひとたび掴んだ後で主は、いかに驚くべきしかたで引き寄せ始められたことか。主は私たちを大水から引き上げてくださった。自ら水の中に入り、悲嘆と弱さの川に、そして呪いの水へと沈み込み、「私たちのためにのろわれたものとなって」[ガラ3:13]くださった。いわば、地獄のどん底まで深々と潜っては、主の宝石をざくざく引き上げ、それを穴の中から救出しようとされたのである。おゝ、何と比類なきしかたで主は私たちを高く持ち上げてくださったことか。私たちを大水から引き上げるのに、主はご自分の生において苦しみ、死において苦悶されたのである。兄弟たち。イエスのみわざに、あなたの目を据えるがいい。見るがいい。全人類は沈没しつつある。見よ、いかにそれが望みなく、無力であることか。すると、見るがいい。主が降って来ては、水を渡り、その右の御手で沈みつつある人間たちを、破滅の波浪から救い出し、彼らを《千歳の岩》の上に上陸させては、彼らの口に新しい歌を授けられた[詩40:2-3]。自分もこの救出にあずかっていると感じているなら、あなたがたひとりひとりは云うがいい。「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた」、と。

 これは、それ自体で偉大な行為であった。だが、ちょっと待ってほしい。ぜひ思い出してもらいたい。それが、あなた自身の経験にどのように当てはめられたかを。覚えているだろうか? あなたの足の下からすべてが沈み込みつつあるように感じられたときのことを。私自身の難破について話せば、あなたの経験を説明する助けになるであろう。私は、自分のあれこれの行ないという立派な船に乗って雄々しく帆走していた。耳には音楽が聞こえ、楽しみに満ち、危険のことなど夢にも思わなかった。だが、突如として神の律法が現われ、その恐ろしい航路を断固として進んで来た。そして、私の行ないという船を切り裂いてしまった。まるでそれが、うつろな夢ででもあったかのようにである。それは、私もろとも沈み始めた。あたりを見回し、何かつかまる物はないかと目探ししたが、何1つ見つからなかった。司祭がそこにいて、自分の考案したものを差し出してくれたが、私は昔から彼のことを知っており、彼も私と一緒に沈むだろうと分かっていた。ならば、彼が私のために何をできるだろうか? 種々の儀式もそこにあったが、それらが、いくら信頼しても泡ぶくとなることを私は知っていた。自分を抑制することで救われようという希望や、そうした類のものもそこにあったが、それらは明らかに私のような罪人の重みには耐えきれなかった。私は沈みに沈んだ。また、私には救われたいという意志や願いもなかった。いのちを求めて葛藤してもいなかった。だが、イエスはやって来られた。その恵みの意志は、私たちの意志に先立っており、その愛の目的は、私たちが救われたいと願望するはるか前を走っていた。「私を捕え」。私は今でも主に握られたときのことを覚えている。主は私をその聖霊によって捕えられた。そして、私は主から捕えられたことが分かった。自分が強く主から握りしめられ始めるのを感じたからである。主は徐々に私を引き寄せ、私にご自分を仰ぎ見させ、信頼させ、自分と自分のあらゆる希望とを全く御手にゆだねさせてくださった。その上で、私を一気に大水から引き上げ、私の心に喜び歌わせてくださった。あなたも自分のそうした時のことを思い起こさないだろうか? あなたは先週の大惨事から救出された何人かの人々を驚異の目で眺めるであろう。だが、私はあなたに、それと等しい驚異を感じつつ自分自身のことを眺めてほしいと思う。あなたは、さらに大きな救出を経験したからである。あなたは、かの底知れぬ所へと沈み込みつつあるときに救い出されたのである。罪へと、また腐敗の奥底へと沈み込む中を救われたのである。主は天から来られた。あなたを捕えられた。あなたを大水から引き上げられた。それゆえ、主の御名を賛美し、ほめたたえるがいい! あなたは不安のあまり何の希望も持てずにいたが、しかし主は、ご自分のあわれみに希望を置くようあなたに教えてくださった。あなたは絶望のあまりもがくこともできずにいたが、主はあなたに、聖なる激しさ[マタ11:12]をもって御国に入ろうとさせてくださった。あなたは倦み疲れ、失意落胆していたあまり信頼することもできずにいたが、主はあなたを信仰へと導いてくださった。主の天来の御霊は、あなたのあらゆる行ないをあなたの中に作り出してくださった。そして、今朝ここであなたは、この祈りの家の中で座ってこう云っているのである。「主は私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました」*[詩116:8]、と。

 さて、それ以後のあなたが、自分のあれこれの霊的な希望について、まさに難破しかけたことがあったとしても、また、二度三度と救出されたとしても不思議ではない。あなたは、いささか冷たくなり、主のもとからさまよい出したことがある。それゆえ、あなたは自分の霊の内側で真のキリスト教信仰が全く滅ぼし尽くされたのではないかとおののいた。そして、恐れて叫んだ。「私は偽善者だったのだ。さもなければ、ただの形式尊重主義者だったのだ。だから結局は滅びてしまうのだ」。しかし、暗闇の諸力の誘惑の下であなたが今にも全くあきらめきろうとしたとき、主は再びあなたを回復してくださった。主はもう一度いと高き所から御手を伸べてあなたを捕え、あなたを大水から引き上げてくださったではないだろうか? しかり。主の御名はほむべきかな。主はあなたを捜し、ご自分の道へと引き戻してくださった。もし私がいま話しかけている方々の中に信仰後退者がいるとしたら、もしその人が今ずぶずぶと深みに沈みつつあるかのように感じているとしたら、その人のために私はこう祈りたい。キリストがいかに沈みつつあるペテロのごとき者を救い、いかに一個の逃げ出したヨナのごとき者を再び岸へと連れ戻すことがおできになるかを、どうか今からあなたが知ることができるように、と。

 最後の最後に、私たちはじきに死という大水の中に入るはずである。ことによると、私たちの考えよりも早くそうなるかもしれない。ある人々にとって、死の流れは非常に浅い。私たちの知っている何人の聖徒たちは、靴を濡らすこともなく、ずっと歌いながら渡りきる。彼らはほとんど死を意識することもできず、いつ地上を最後に離れ、いつ天国へと最初に至ったのかも分からない。しかし、他の人々は、ヨルダン川が岸一杯にあふれる[ヨシ3:15]ときにそれを渡らなくてはならず、『天路歴程』の基督者のように首まで流れに浸かり、慰めの言葉を必要とする。あなたも、いかにある人がこう云ったか覚えているであろう。「元気をお出しなさい。兄弟よ、私は底に触っています。それはしっかりしたものです」*1。その道のりの間中ずっと、底は岩のように磐石である。滑りやすい砂でも足を沈める泥でもなく、岸から岸まで堅固な岩盤があるのであり、川がいかに深くとも、決して信仰者の希望を溺れさせたり、彼の魂を滅ぼしたりするほど深くはない。だが、最上の聖徒といえども、その最期の時には、押し寄せてくる多くの悩みに埋没させられることは想像できる。――肉体的な弱さ、霊の抑鬱、サタンの種々の誘惑、家庭内の諸問題、そうした一切がヨルダンの増水を悪化させる。だが、そこに何が起こるか分かるだろうか? 主は、いと高き所から御手を伸べてあなたを捕え、あなたを大水から引き上げてくださるであろう。そして、あなたは栄光へと上ることになる。水底から高みへと一気に上るとき、あなたは他にまさる、いかなる天の天へと上る心地がすることであろう! de profundis[深き淵より]in excelsis[いと高き所に]一気に踊り上がり、死の汗と断末魔の失神から陶酔と云い知れぬ栄光へと跳ね上がることは、いかに超越的な至福であろう! 老いさらばえてよぼよぼになった者にとって、あるいは、自分の死に際の証しをほとんど一言も云えないだろう者たちにとって、突如としてあらゆるうずきや苦痛を取り除かれ、そのしぼんだ肉体のすべてが取り去られ、完璧な自由を得た霊となること、自分の主の至福の光景に魅了され、その主と二度と再び離れることがなくなることとは、いかなる急転となるであろう。何と、思うに私たちは、どちらかと云えば、ほとんど死の路を選んで良いかもしれない。ある人々は、自分の主が確実に間に合うようにやって来て、自分たちが死なないようにしてくださると期待することを非常に好んでいる。あゝ、よろしい。そうしたことが起こるとしたら非常に感謝して良い。だが、私はそれが自分の世を去るしかたではないと思うし、あなたが信じているような他の見通しについて、あなたを羨ましく思うと云うことはできない。天国で、あなたは私たち、死を味わった者らのもとにやって来て、私たちに尋ねるであろう。――イエスにあって眠る[Iコリ15:18]とはどのような気分でしたか? 肉体を脱ぎ捨てるときには、どのように感じましたか? 死において、私たちの《契約のかしら》と同じようにされるとは、どのような喜びでしたか、と。あなたが、墓場に下らなかったことを悔やむだろうとは私も云わない。だが、このことだけは確信している。眠りにつくことになる私たちの中の誰ひとり、あなたが自分たちよりも贔屓されたとは思わないであろう。

   「死せる肢体(からだ)の などて宿(あ)るべき、
    彼らの死せる かしら離れて」。

《主人》がその道を行き、墳墓の中に下り、そのようにして復活の丘に沿って黄金の門に上られた以上、私たちはエノクやエリヤをさえ羨ましがらないであろう。彼らは、取っておきの通路を取って、裏門を通ってその都に入ったが関係ない。私たちは、イエスにあって休みにつくとしたら、万事申し分はないはずである。というのも、最後には主は、いと高き所から御手を伸べて私たちを捕え、私たちを大水から引き上げてくださるからである。その御名が口々にほめたたえられんことを。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――詩篇18:1-13


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 18番、296番、428番。

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(訳注)

*1 ジョン・バニヤン、『天路歴程』、p.274、(池谷敏雄訳)、新教出版社、1976。[本文に戻る]

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天来の介入[了]

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