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愛する子を気遣う問いかけ

NO. 1433

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1878年9月5日、木曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「王が、『若者アブシャロムは無事か。』と聞くと」。――IIサム18:29


「王女アリス号」の沈没に思う


 こう語ったのはダビデであり、時は多数の戦死者を出した大戦闘の後であった。アブシャロム配下の軍勢は、二万人に上る戦死者を出し、それも剣に倒れた者ばかりでなく、森に生い茂る樫や、絡み合う茨の間で死ぬ者も多かった[IIサム18:7-8]。軍が潰走し始めるや半狂乱になって逃走した叛徒たちは、深い森に隠されていた断崖絶壁や巨大な洞窟の中に飛び込んで行ったのである。彼の父親が気遣わしげに問いかけたのは、自分のよこしまな、だが、なおも愛する息子のことだった。「若者アブシャロムは無事か?」 彼は、「戦いの勝利はいかにして収められたのか?」、と尋ねていたようには見えない。むしろ、「若者アブシャロムは無事か?」、である。「わが軍の大黒柱、将軍ヨアブは生きているか?」、ではなく、「若者アブシャロムは無事か?」である。「わが軍の精鋭は何人戦死したか?」、ではなく、「若者アブシャロムは無事か?」である。この箇所の彼は、王よりも父親としての姿を見せている、――知恵よりも、愛情を示している、――と云われてきた。そして、疑いもなく、この老人の溺愛ぶりを批判するのは正しい。この場合のダビデが、その盲愛によって愚かにふるまっているのは間違いない。しかし、兄弟たち。こうした状況にある一個の父親を責めるのは簡単だが、そうした父としての感情を、私たちはどこまで思いやることができるだろうか? さらに云い足せば、自分が一度も味わったことがないような経験をしている人に対しては、審きを下すよりは、同情を寄せる方がずっと賢明であろう。ことによると、私たちも同じ立場に置かれたとしたら、ダビデと同じ感情がこみあげてくる以外ないかもしれない。この現在の瞬間にも、他に非常に重要な仕事をかかえていながら、今は同じことしか考えられずにいる人がどれだけたくさんいるだろうか? 「あの若者は無事だろうか? あの子は無事だろうか? 父は無事だろうか? 妻は無事だろうか?」 一隻の船が、何百人もの乗客を乗せたままテムズで沈没した。そして、泣き悲しむ家族たちが諸処を行きつ戻りつしている。愛する誰かの遺体が確認できないかと願いながら、同時にそれを恐れている。あの運命の時から連絡が取れなくなっている者を見つけようとしつつも、その間中おののいている。もしや、あの冷たい流れから引き上げられた死体の間にその人が見つかるのではないかと思うからである。今晩、おびただしい数の人々の思いを何にもまして占めている考えは、このことである。――「私の愛する者は無事だろうか?」 それを非難するというのか? そうした人々は仕事を放り出している。日々の務めを投げ捨てている。だが、それを責められるだろうか? 山ほどの重要な事がらが忘れ去られ、1つの切迫した問いかけがなされている。それを責めるというのだろうか? 責めることができるだろうか? できはしない。それは、人情というものであり、それゆえ、正しいとしか云えないと思う。疑いもなくダビデも後には、それなりに意固地になった所を見せ、神に反抗する様子になりはするが、そして、何から何まで褒めるわけにはいかないが、それでも父親の情を胸に宿した人であれば、この老父をとがめるよりは、それをもっともなことだと云おうとするではないだろうか? この老人は息子について、「若者アブシャロムは無事か?」、と尋ねて、そうではないと知るや、泣き出している。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ!」[IIサム18:33] そのとき私たちは、ヨアブのようにずかずかと乗り込んで行き、荒々しく叱責したりはしない。いかにそうされて当然のふるまいをしていようと、むしろ、腰を下ろして、身内の安否を気遣っている人々への惻隠の情から涙を流したいと思う。そして、その人々の悲しみから何か学ぶべきことはないか考えたいと思う。もしもそうした方面で気遣うことがないとしたら、本当に有益な、そして神の栄光を現わす別の方向へと私たちの気遣いを向けようではないか。

 今晩しばしの間、第一に考察したいのは、こうした安否を気遣う問いについてである。それから考えたいのは、いかなる折にそうした気遣いを用いるべきかということであり、第三に、それにいかなる答えを返せるかを示唆したいと思う。

 I. 第一に考えたいのは、《こうした安否を気遣う問い》についてである。「若者アブシャロムは無事か?」

 そして最初に云いたいのは、これが、ひとりの父親によって、自分の息子について発された問いだということである。「あの子は無事だろうか?」 両親がわが子を気遣う気持ちは非常に大きいものだが、一部の若者たちは、それをあまり深く考えていない。さもなければ、もっと感謝を覚えるだろうし、無思慮なふるまいでそうした気遣いを倍加させたりしないであろう。私の確信するところ、多くの青年子女たちは、故意に自分の親たちを悲しませようとしてはいないものの、それにもかかわらず、現実には親たちの人生を大きな悲嘆の海へと沈み込ませている。必ずしも無邪気とは云えないしかたで彼らはそうする。多くの場合、そこには、わがまま放題に悪を行なうという面が伴っている。そうした若者たちは、自分のふるまいによって親しい人々がどう感じるか、あらかじめ明確に見てとっているからである。特に一部の青年たちは、彼らのいわゆる自由にふけることによって、産みの母親の繊細な感情を踏みにじり、両親双方に眠られぬ夜を過ごさせ、心を押しつぶすような苦悩をもたらす。これは、神の法廷で責任を負うべき犯罪である。というのも、神は、親孝行な子どもたちに特別の約束を与え、反抗的な子どもたちに特別な呪いを取っておかれたからである。親というものは、いやでも心痛を覚えるものである。赤ん坊が母親の胸にすっぽりおさまるや否や、それとともに不安と苦労、悲嘆と心痛がやって来る。子を持つ親になることには喜びもあるが、あのか弱い幼児期を通じて、途方もない気遣いと不安を必然的にかかえこまざるをえない。そうした時期には、この華奢な、いのちという底浅の軽舟は、もっと強い帆船に打ちかかればどうということもないような一千もの波によって、たちまち水浸しになりそうに見えるからである。灯されたばかりのこの蝋燭は、今にも吹き消されんばかりで、多くの母親はそれを大事にいつくしみ、精根を尽くして、細心の配慮を払う。しかし、子どもたちのことで私たちが何にもまさる気遣いを覚えさせられるのは、その幼児期や、学校時代ではないであろう。彼らを寝床に入れて、おやすみの口づけをし、何もかも平穏無事だと感じていられる時ではないであろう。重い気遣いが襲いかかるのはその後である。――やがて彼らが私たちの支配を脱するときである。彼らが自立して一本立ちし、実家を離れ、私たちの叱責の届かない所に行き、今や以前のようには私たちの権威を感じなくなり、私たちの愛もほとんど感じとれなくなるときである。多くの親たちにとっては、そのときから厳しい試練の時が始まり、疑いもなく多くの白髪頭の人々は悲しみとともによみに下らされてきたに違いない。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった」[イザ1:2]、と泣かざるをえなかったからである。多くの父母は、殺されて死ぬ。短刀や毒によってではなく、自分の子どもたちのむごい言葉や冷酷な行為によって殺される。おびただしい数の墓場は、息子や娘たちの涙で濡らされてしかるべきである。なぜなら、子どもたちの恩知らずなふるまいによって早死にした親たちによって、そうした墓場は満たされてきたからである。私たちの中の、幸いまだ親が残されている者らは、みな考えようではないか。自分がいかに多くを両親に負っているかを。そして、たといそのお返しはできないにせよ、少なくとも自分のふるまいによって両親を慰め、私たちの感謝を示そうではないか。両親が自分を喜びとするようにしよう。二人には、過去に味わった気遣いが無駄骨折りだったと悔やませることなく、むしろ、世に送り出したわが子を嬉しく思わせよう。もしもこれまで両親が、私たちのために気を配り、気遣わしげに、「あれは無事だろうか?」、と云ってくれていたとしたら、神に感謝しようではないか。そして、この尊い恩恵をぞんざいに扱うことで、神のあわれみを見くびらないようにしよう。

 二番目のこととして、これは自分の父の家から離れていた息子についての問いであった。「若者アブシャロムは無事か?」 すでに述べたように、私たちが子どもたちのことで本当に気遣わされるのは、彼らが家にいて、子供部屋の中にとどまっているときよりも、私たちの手の届かないところにいるときである。すでに彼らは自分の好き嫌いを決めてしまっており、完全に自立した生き方を始めている。たとい同じ町に住んでいてさえ、それでも彼らが不自由していないかと心配になる。だが、彼らが他の土地にいるとしたら、いやまして気遣わしく思われる。もしかすると、あなたがたの中のある人々の息子や娘たちは、あなたから全く遠い所にいるであろう。その場合、疑いもなくあなたは、幾晩もこう自問することがあるに違いない。「あの子に変わりはないだろうか? うまくやっているだろうか?」 あなたの子は、はるか彼方に移民しているか、船乗りとして海に出ているか、どこか遠くの地方の町で生計を立てている。それで、あなたはその子が生きて無事にしているか案ずるのである。子どもが陸上にいるとしたら、きちんと安息日には神の家に通っているか知りたいと思う。晩にはどこで過ごしているのだろうと案じる。どういう種類の人々とつき合っているのか、どういう種類の主人や仕事仲間と一緒にいるのか、今の家でどのような影響を受けているのかと案じる。私の全く確信するところ、こうした気遣わしい問いがしばしば浮かび上がっては、あなたの思いに深い鋤跡を刻んできたに違いない。今晩この場にいる青年たちの中には、ロンドンに上京して、この大都市の中でひとり暮らしをしている人々がいる。私は彼らに、実家のご両親がいかに気を揉んでいるか思い起こさせたいと思う。――いかに母上や父上は、ことによると今この時にも、あなたのことを思い、あなたのために祈っていることであろう。おそらくお二人は、あなたが今どこにいるか分かれば喜ぶであろう。だが、時々あなたがどこで夜を無駄に過ごしているか、また、安息日の一部をどこで過ごし始めたかが分かれば悲しむかもしれない。お二人は、あなたが実家で身につけた習慣を忘れ始めていると知れば嘆くことであろう。――あなたが、相部屋の人々の眠っている所では怖くて膝をかがめて祈れず、母上から名前を書いてもらった聖書、また、毎日読む約束をした聖書が読まれておらず、非常に疑わしい性格の本がその代わりにされていると知れば嘆くことであろう。若い方々。私たちの中の、あなたよりももう少し年長の者らは、あなたのように実家を離れるということがどういうことか知っている。そして、私たちのようにあなたも、両親の祈りと涙によって後を追われるとはいかなることかを、これから経験していくものと思いたい。私たちの両親は、わが子のためにささげた祈りが豊かにかなえられたのを生きて見ることができて喜んだ。願わくは、あなたの場合もそうであってほしい。さもないと、あなたはますます悪を深め、自分の罪の中で滅びることになるからである。だが、若者が母の祈りという無数の障害をよけながら地獄へ向かって疾駆するのは至難の業である。よほど大きな精力を傾けない限り、あなたの父上と母上があなたの救いのために祈っているときに、地獄に墜ちることはできない。だがしかし、中にはそれをやってのける者たちもいる。そして、彼らが滅びと破滅の場に陥るときには、確かに彼らに与えられる刑罰は、貧民街でしつけられ、町通りでものを教えられ、個人的な祈りの対象とされるとはいかなることかを一度も知らなかった者たちよりも重くなるに違いない。おゝ、主イエスよ。あなたは、あのやもめの死んだ息子をよみがえらされました。罪過と罪との中に死んでいる[エペ2:1]この息子たちをお救いください。彼らは今しも、悪徳と腐敗という墓場へと運ばれつつあり、その中に埋葬されようとしているのです。

 「若者アブシャロムは無事か?」 ここから即座に思い浮かぶのは、子どもたちを手放したキリスト者の両親が、わが子のことを思って気遣っている姿であろう。

 しかし、そこには胸を打つ点が1つある。それは、反逆したわが子について父親が発した問いなのである。アブシャロム――若者アブシャロム――について、なぜダビデは気遣うことがあっただろうか? 彼はダビデに刃向かったではないだろうか? 実の父の血を渇望したではないだろうか? 実父を殺害しようと躍起になっている大軍を率いては、すでに簒奪していたその王冠をわがものにしようとしていたではないだろうか? 何と、私ならダビデはこう云って当然だったと思う。「若者アブシャロムは死んだか? 奴さえ片づけば、私の領土は安泰だし、波風立った私の人生にも安息が訪れるというものだ」、と。しかし、否。ダビデは一個の父親であり、血を分けたわが子を愛さずにはいられなかった。いま語っているのは一個の父親であり、父性愛というものは、いかに息子が敵意をいだいてもなくなりはしない。父親は、息子からいのちをつけ狙われてさえ、生き続けること、愛し続けることができる。母性愛や父性愛というものは、何と高貴な情動であろう! それは、神の愛が小型にかたどられたものである。それは何とうやうやしく扱われるべきことか! 何と驚異に満ちたしかたで神は人々に――特に敬虔な人々に――わが子に対する愛情という神聖な本能を授けてくださったことか。それは、神がこの上もなく高貴な目的のために聖別してくださる本能にほかならない。私たちの子どもたちは、最悪の罪にどっぷりと浸かるかもしれないが、それでもなお私たちの子どもたちである。彼らは、そのよこしまさによって私たちの心を千々に引き裂くかもしれない。私たちは彼らを満足に思うことはできない。だが、それと同時に、彼らと縁を切ることも、彼らの姿かたちを自分の心から消し去ることもできない。私たちはなおも彼らのことを一心に思い起こし、この心臓が胸の中で脈を打ち続ける限りはそうするはずである。時として私は、このように云う、信仰を告白するキリスト者たちに出会うことがある。「あの娘には、二度とうちの敷居を跨がせませんよ」。私は、そうした人々のキリスト教が正しいものとは思わない。自分の子どもたちと和解しようとしない父親と出会うたびに、私は彼らが神と和解していないことを確信する。血を分けたわが子に対する敵意を内側に感じていながら、その心が更新されていることなどありえない。というのも、もし主が私たちを赦して、ご自分の家族として受け入れてくださったとしたら、確かに私たちは、いかに自分の感情を害した者をも赦せるに違いないからである。そして、相手が自分の骨肉であるとしたら、そうすべき理由は二倍もある。わが子を打ち捨てるのは不人情なことであり、不人情なことが神の恵みを受けていることはありえない。取税人や罪人たちでさえわが子を赦す以上、私たちはいやましてそうしなくてはならない。たとい彼らが呆れるほどの罪のきわみに達するとしても、それでも神のあわれみが永遠に持ちこたえるように、キリスト者である親の愛はなおも持ちこたえなくてはならない。ダビデは、「若者アブシャロムは無事か?」、と云った。私たちのうちのひとりとして、アブシャロムの半分ほども悪事に走った息子を持つ者はいない。それゆえ、私たちは、自分を嘆かせた者をなおも赦し、愛情をもって関心を寄せ続けなくてはならない。

 この時点で私は、若者たちに語りかけたいと思う。あなたがたの中に誰か、実家のご両親を大いに嘆かせてきた者がいるだろうか? それは大したことではないとみなしているだろうか? ご両親の気遣いなど、あなたにとって馬鹿げたものと思えるだろうか? あゝ、私にこう指摘させてほしい。あなたの人生行路が、あなたにとってはいかに面白おかしいものであろうと、それは実家のご両親には死ぬほど辛いことなのである。あなたは、母上に対する心を干上がらせているかもしれない。だが、母上の心は今なお、あなたに対する愛にあふれている。あなたは、自分が母上の涙を誘っていることを冗句のようにすらみなしているかもしれない。だが、その涙は真摯なものであり、母上の魂の内なる苦悶を明らかに表わしているのである。それほど優しい愛情を笑い物にすることができるだろうか? 私の知っている一部の若者たちは、あまりにも堕落しているため、自分の親の敬神の念を嘲るほどとなっている。だが、キリスト者である親たちの多くは、それほど意地の悪い仕打ちに対しても、ただ祈りと、いやまさる愛情を返すことしかしないのである。そして、なおもわが子のための訴えを神の御前に持ち出しては、御あわれみのゆえに、あの子をあわんでくださいと懇願し続けるのである。さて、過ちの中にいる若者たち。あなたの内側に人間らしいものが何かしら残っている以上、私はあなたの優しい心根に訴えたい。これほど驚異的な愛に背き続けることはやめてほしい。これほど忍耐強い赦しを気ままに踏みにじり続けるのはやめてほしい。アブシャロムは、たとい、「若者アブシャロムは無事か?」、と父親が尋ねるのを聞くことができたとしても、なおも反逆するほど悪辣であったに違いないと思う。だが、この場にいる誰もそのようなことはしないと思いたい。しかり。いかに強情な者でも、自分の両親の心に深く真実な愛があるのを見てとるとしたら、急いで彼らと和解し、残りの一生の間、おのれのしでかした悪を償おうとするであろう。

 本日の聖句の問いは、もし無事でなく死んでいたとしたら、すさまじい苦境にあるに違いない息子について、一個の親が発した問いであった。「若者アブシャロムは無事か?」、とダビデが云ったときには、並々ならぬ真剣味がこもっていた。なぜなら、無事でないとしたら、ただではすまない状況にあると感じていたからである。彼は、実の父に対する反逆の真っ最中に死んでいた。――その咎ある魂は、いかなる影の下に潜り込まざるをえなかっただろうか? おゝ、愛する方々。世を去ったいかなる人についても、このように問うことは深刻なことである。その人は今どこにいるのか? その魂は無事だろうか? 私はほとんどこう祈ることができるような気がする。誰かが突然死するときには、ぜひともその人は神の民でありますように。そして、罪人たちは、キリストを見いだすまで、逃れることができますように、と。ひとりのキリスト者がいたが、それは称賛すべき人であった。彼は、たまたま、ある炭坑の底にもうひとりの者と一緒にいたとき、かごに乗って上に引き上げられるところであった。かごが小さかったため、一度に乗れるのはひとりきりであった。この人物は、すでにそこに乗り込んでいたが、そこから下りて相手の炭坑夫に云った。「俺の魂は救われてるよ。キリストを信じてるからな。お前はそうじゃない。もしお前が死んだら、地獄行きだ。このかごに乗んな」。こうして彼は、回心していない仲間を脱出させ、その代わりに自分のいのちを危険にさらしたのである。もし私たちがキリストの中にいるとしたら、救われていない人の身代わりとなって進んで死のうとするのは、キリストに似ることであろう。そのとき、私たちはダビデの願いを実現するのである。――「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに」。苦い死に方をすることは、恵みによる良い希望があるところでは、もはやない。だが、全く希望もなく、キリストもなく、天国もない人々にとって、死ぬことは、まさに死そのものである。私には、鮮やかにある人々の姿が目に浮かんでいる。自分の息子や娘たちについて真剣に、「あれは無事だろうか?」、と問うている姿である。あなたは知っているのである。もし彼らが突然取り去られるとしたら、彼らには全くその備えができていないことを。もしも人々が回心していないとしたら、死ぬときには二度死ぬことになる。そして、第二の死ほど恐るべきものはない。話をお聞きの方々。あなたがたの中に誰か、そのような危険の中にある人はいないだろうか? 愛する方々。かりに今この瞬間に死の一撃がこの建物を通り抜け、あなたの骨髄そのものを凍らせるとしたら、あなたはどこにいるだろうか? もしも今、目に見えない矢が誰かの胸を射抜くことになっているとして、それがあなたと定められているとしたら、あなたはどこにいるだろうか? 自分にそう問いかけてみるがいい。そして、もしあなたがキリストにある希望を全く有していないとしたら、神があなたを助けて、イエスの尊い血による赦しを求めさせ、見いださせてくださるように。

 だが、もう一言云うと、この問いは、悲しいかな! この父親がそれが発した時点では、実はすでに死んでいた息子についての問いであった。その日、アブシャロムの無事について尋ねてもすでに遅かった。この反逆児に関する限り、すべては終わっていたからである。すでにヨアブの三本の槍が、髪の毛で樫の木に引っ掛かっていたアブシャロムの心臓を突き通してしまっており[IIサム18:14]、彼のからだは宙吊りのまま揺れていた。彼はすでに、自らの犯罪のために正当な処刑を受けていた。だがしかし、彼の父親は問うたのである。「若者アブシャロムは無事か?」、と。私たちの子どもたちが死んでからその無事を尋ねても遅すぎる。ダビデの心は、自分がわが子に対していかに無頓着であったかを思って、悲しみのあまり引き裂かれたに違いないと思う。というのも、彼の生き方の中には、家庭を治めるという問題において、あまりにも怠慢にすぎたのではないかと思われる兆候がいくつか見受けられるからである。確かに彼は、一個のエリ[Iサム3:13]にまでなることはなかった。だが、彼のある息子については、父親から一度もほしいものを拒まれたことがなかったと書かれている[I列1:6]。そして、自分の子どもの誰かひとりについて、そのようなことが云われうる人が良い父親であったとは、私には到底想像できない。一夫多妻制は、しかるべき家庭内の規律にとって、完全に破壊的なものだが、その点でダビデは大きな過ちを犯していた。彼が公務に手一杯であったことに加えて、彼の息子たちは、あまりにも勝手気ままにふるまうことが許されていた。そして今の彼は、むなしく問いを発しているのである。「若者アブシャロムは無事か?」、と。遅すぎた問いである。いくら両手をもみ絞っても、あなたの男の子が育ちきって放蕩者か酔いどれになった後では何の役にも立たない。子どもは幼いうちに訓練するがいい。そして、あなたの祈りと涙によって、まだ小さいうちにキリストへと導くがいい。母親たち。あなたの娘の不身持ちのためにいくら髪の毛をかきむしっても、あなたがその子を誘惑のあふれている場に出入りすることを許してしまった後では無駄である。私たちが子どもたちについてできることは、彼らがまだ幼いうちに行なおうではないか。いわば溶けた金属が流れてきて、柔らかく、どうにでも形を変えられるうちに、それを正しい鋳型に流し込もうではないか。というのも、いったんそれが冷えてしまうと、いくら打ち叩いても何にもならず、こちらの望む形を帯びたり、文字を浮き上がらせたりはしないからである。おゝ、私たちの中の、いま小さい子どもたちをまつわりつかせている人々が、彼らをその行く道にふさわしく教育する恵みを受けられればどんなに良いことか。そうすれば、年老いても、彼らはそれから離れないからである[箴22:6]。木を曲げることはできないが、苗をねじることはできる。心がけてそうするがいい。目の前にある、いかなる機会にも飛びつくがいい。あなたの子どもたちが罪に陥ってしまったときに、あるいは、かの底知れぬ所にすら陥ってしまったときに、あなたがむなしく魂を苦悩させ、「ああ、哀れなこの私」、と泣くことになるといけないからである。私は、ひとりの貧しい文盲の婦人の苦悶を一生忘れないであろう。彼女は、私がキリストに導いた人で、先に訪問したときにはキリストにあって喜んでいた。だが、その次に会ったときには、非常な悲しみの中にあり、霊が押しつぶされそうになっていた。「なぜそうまで悩んでいるのです?」、と訊くと彼女は答えた。「子どもたちのことなんです! 子どもたちの! あたしの子どもたちは、みんな大人になっていて、誰ひとり神を恐れてやしないんです。亭主が死んだ後、あたしは子どもを五、六人かかえたやもめになりました。朝から晩まで働きづめでした。そうしなきゃ、やってけなかったんです。それで、あの子たちに服を着せ、食事をさせ、できる限りのことをして大きくしてやりました。でも、あゝ、何てことなんだろう。あたしは、あの子たちの魂については、これっぽっちも考えなかったんです。どうして、そんなことができたでしょう」、と彼女は云った。「自分の魂のことだって考えやしなかったんですから。今のあたしは救われてます。でも、あの子たちはみんな、世間のことしか考えず、無頓着にしてるんです。あたしは、取り返しのつかないことをしちまったんです」。彼女の語ったところ、わが子に対する愛を感じて、この婦人はその子たちひとりひとりの所に行って、彼らの永遠の状態について話をしようと決心したという。そして、まずその長男の所を訪れると、彼は一家を構えており、自分の子どもたちに囲まれていた。だが、彼女が自分の回心と、救いと、主にある喜びについて語り始めると、彼はひどく残酷なしかたで母をあざ笑って軽蔑したために、彼女は悲嘆に暮れてしまったのだった。私は、できる限りのことをして彼女を励まし、慰めようとした。だが、私は、若いうちに回心した人々に向かってこう云うことしかできない。あなたの回りには、まだ幼い者たちがいる。決して機会を無駄にしてはならない。最後になって、こう泣き声を上げなくてはならなくなるといけないからである。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ! というのも、お前は自分の不義の中に落ち、お前の血の責任はお前の親に問われるからだ」。願わくは、こうした悲痛な問いが、まだ時間のあるうちに賢い親たちによって発されるように。その問いを放置しておいたために、短剣のようになったその答えから突き殺されることがないように。

 II. 第二に、ここまではこの問いについて考えてきたが、今からは、《この問いがごく自然に用いられるだろう、いくつかの場合》について話をしたいと思う。「若者アブシャロムは無事か?」

 この問いは、もちろん、現在のような時期においては、この定命のいのちに関するものとして用いられるであろう。1つのすさまじく不幸な出来事によって、何百人もの人々が一撃で一掃されてしまったとき、このような問いかけはあらゆる人の口の端に上る。水曜日の朝、いかに多くの家庭で、あのすさまじい名簿がのぞきこまれたに違いないことか。それも、家に戻らなかった者を待ち受けて一晩中、耳をすませ、目を覚ましていた後にである。何と恐ろしい夜だったことであろう。いくら待っても息子は、夫は、娘は、母は戻って来なかったのである。そして、何とひどい知らせが夜明けとともにやってきたことか! 私の近所に住む、ある家庭の場合、ひとりの召使いと小さな赤ん坊を家に残して、他の家族全員が日帰りの娯楽と保養のために外出した。ところが、ひとりとして家に戻らなかったのである! 誰ひとり、その召使いと交替する者も、その子を抱きしめる者もいなかったのである! それを知ったとき、この召使いが、この小さな預かり物をかかえて、いかなる心痛を覚えたかは想像できよう。ご主人も、女主人も、家中の全員が帰宅することはないというのである。また、生まれたばかりの赤ん坊とともに二階にいた、ひとりの母親の場合、その夫と他の子どもたちは、外出した後、再び戻ることはなかった。願わくは、私たちが決してこうした悲しみを味わうことがないように! そうしたとき、この問いは恐怖をこめて発されるであろう。「若者アブシャロムは無事か?」

 病気の時にも、こうした問いかけは発される。今でも良く覚えているが、およそ二十四年ほど前に初めてロンドンにやって来たとき、私は痛ましい義務を引き受けなくてはならなかった。日中ばかりか夜間にも、虎列剌に襲われた家々を訪問することである。そして、ほぼ例外なしに、パーク街の愛する方々に会うと悲しい知らせを聞かされるのだった。「誰それ氏が亡くなりました。誰それ夫人がお亡くなりになりました」。しまいには私も悲嘆のあまり病み疲れてしまった。そうした時期に、最も自然だったのは、少し遠い所にいる親類について、誰もがこう問うことであった。「あの人は、まだ生きていますか? あの人はまだ無事ですか?」

 さて、もし将来に、何らかの惨事の影があなたの通り道を横切るようなことがあったとしたら、また、自分の愛する者たちが失われたのではないかと恐れるようなことがあったとしたら、私はぜひ願いたい。もしあなたがキリスト者であったなら、そうした時には信仰を働かせ、神のもとに留まり続けてほしい。思い起こすがいい。もしも心痛のあまり頭がぼんやりした状態になるとしたら、急場のときには物の役に立たなくなるであろう。魂の平静さを保っていてこそ、有用な働きができるのである。だが、精神の舵から手を離し、心労の激流の中に漂い流されるままになれば、足手まといの、無力な者となるであろう。忍耐強く魂を平静に保っているがいい。世界は、結局は神の御手の中にある。若者アブシャロムは、天で定められた時が来ない限り死なないであろう。あなたの子どもたちは、《いと高き方》の守りの外に出されてはいない。彼らがいかにあなたにとって大切な者であろうと、また、いかに彼らの危険が大きかろうと、一切を支配し、一切を越えて支配する《お方》がおられるのである。そして、その方に静かに祈りをささげることには、苛立ちながら気を揉むよりも、ずっと大きな力があるのである。もしあなたの愛する者たちが死んでいるとしたら、あなたの不信仰によって彼らを生き返らせることはできない。また、もし彼らがまだ生き残っているとしたら、根拠もなく落胆し、信じない者になるのは哀れなことである。「あなたの力は、静かに待つことにある」[イザ30:7 <英欽定訳>]。自分がキリスト者であることを思い出すがいい。そしてキリスト者であるとしたら、逃げ場とすべき神を全く有していない者たちよりも沈着であるべきである。信仰によって人が聖く、取り乱さずにしていることは、外の世界にとって信仰を好ましく思わせることの1つである。また、キリスト者たちが平静にしているのを見れば、人々は、気が転倒している他の人々とくらべ合わせて、「これはどういうことだろう?」、と自問し、無意識のうちにこう認めざるをえなくなる。「これは神の指です」[出8:19]、と。だから、いま私たちが前にしている問いを発するときには、なおも神を信じる信仰をもってそうするがいい。

 しかし、愛する方々。時として私たちが友人や子どもたちについてこの問いを発さなくてはならないのは、彼らの永遠のいのちに関してである。彼らは死んでおり、私たちは彼らがキリストにあって死ななかったのではないかと心配している。それゆえ、私たちは問いかけるのである。「若者アブシャロムは無事だろうか?」、と。こうした問いを投げかけられるのは、キリスト教の教役者にとって非常に痛ましいことである。そして、教役者は、ほとんどの場合それに答えるべきではない。一般的に云って、教役者は、判断を下せるほど相手のことを良く知ってはいない。ことによると、一度か二度は訪問したことがあるかもしれない。また、多少は希望が持てるような言葉によって励まされたことがあったかもしれない。だが、臨終の床によって何が判断できるだろうか? 今にも死のうとしている人が、自分をも他の人々をも欺くことは非常にたやすい。だから、あれこれの判断や決定は神の御手におゆだねするのが一番である。その人の人生を細大もらさず知っている人々、また、その病室にずっと詰めていた人々は、いかに判断すべきだろうか? 答えよう。それ以前に敬虔な生き方が全くなされていなかった場合、また、回心が最後の最後にようやくなされ、そのしるしや兆しが微かなものであった場合、――希望をこめて、だが、正直に判断するがいい。希望を持つことはかまわないが、それでも正直であるがいい。そして、何にもまして、一部の人々に見受けられるような愚かさを避けるがいい。そうした人々は、自分の息子か、娘か、友人を例として上げては、その人がさんざん不敬虔な生き方を送り、元気なときには、全く恵みのしるしを示していなかったにもかかわらず、最後になって一言か二言、敬神の念を口にしたと云うのである。希望できるものなら希望するがいい。だが、口の利き方には気をつけるがいい。臨終の二言三言を誇示して、まるでそれらが、もう一方の秤皿に載せられた長大な人生よりも重みがあるかのように扱うのは、非常に愚かなことである。家族の他の者たちにとって、それほど有害なことはない。そうすることによって彼らは、どれほど好き勝手な生き方をしても、死ぬときには聖徒と考えられることができるのだと感じるようになりがちである。むしろ私は、真似しようとは思わないが、ある父親のことを偉いと思いたい。この父親は、自分の不敬虔な息子が死んだとき、むしろ逆のことを残された息子たち、娘たちに語ったのである。「子どもたちや。お前たちの兄について、わしは少しでも希望を持てたらと本当に願っておる。だが、あれの人生全体は、キリスト者の生き方とは途轍もなく不釣り合いであった。残念だが、あれは永遠に失われたのではないかと思う。お前たちに真剣に警告しておくが、あれのような生き方をしてはいかん。あれのような死に方をするといかんからな」。こうした扱いが正直というものである。称賛すべき正直さである。もしあなたが判断を下し、「若者アブシャロムは無事か?」という問いに答えなくてはならないとしたら、自分や他の人々を欺くような希望を持ってはならないし、自分にほとんど分からない事がらについて裁判官をもって任ずるほど峻厳であってはならない。結局、他人の人生など分からないものだからである。ただし、その人の生き方の裏も表も目の当たりにしていた場合、多少は確かな判断が下せるであろう。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができる」[マタ7:20]、と書かれているからである。

「若者アブシャロムは無事か?」 これが、ずっと実際的な問いとなるのは、私たちがそれを、まだ生きている若者たちや老人たちについて云い表わし、彼らの霊的な状態を知ろうとする場合である。「若者アブシャロムは無事か?」 つまり、彼は本当に将来について無事だろうか?――現世と来世について、そうだろうか? 私たちは、彼が求道者室にいるのを見たことがある。彼が心の不安について話すのを聞いたこともある。また、涙を流すところも見たことがある。だが、彼は無事だろうか? そうしたこと止まりだとしたら、否である。それ以来の彼は、神の家にやって来ては、熱心に話を聞いている人々のひとりとなっている。一言たりとも聞き逃さないようにしている。明らかに彼は熱心である。だが、彼は無事だろうか? そうしたこと止まりだとしたら、否である。彼は求道者である。そのことに疑いはない。今や自分の聖書を読み始めており、祈りによって神に近づこうと努力している。彼は無事だろうか? そうしたことをしていてさえ、それ止まりでは否である。彼は、イエス・キリストを信じて、本当に自分をこの大いなる贖罪にゆだねるようにならなくてはならない。贖いを与える血によって成し遂げられたこの贖罪に。さもなければ無事ではない。あなたがた、《日曜学校》の教師たちが、自分の生徒たちについて発すべき問いは、こうである。彼らは無事だろうか? 暗闇から光に――サタンの力からキリストの力へ――立ち返る所まで達しているだろうか? 「若者アブシャロムは無事か?」 彼は救われているか? それが肝心な点である。

 私の信ずるところ、キリスト教のある教派は、救われたいと願望する者なら誰でも会員として受け入れている。私はそうしたやり方を審こうとは思わないが、それにならうつもりはない。救われたいと願望するのは、いともたやすいことであり、ほとんど何の意味もない。問題は、救われることである。それこそ問うべきことであり、そのことを私たちは一心に気遣うべきである。「若者アブシャロムは無事か?」――単に希望しているだけでなく、魂が目覚めているだけでなく、罪を確信させられているだけでなく、「無事」だろうか? 主にあって、永遠の救いをもって救われているだろうか? あなたがた、すべての人々はこれを聞き、自分で答えるがいい。

 III. 第三の点は、《この問いに私たちが返さなくてはならない答え》である。「若者アブシャロムは無事か?」

 これは、ロンドンに上京した子どもたちについて、田舎にいる親族からよく手紙で問い合わされることである。「息子ハリーは無事にしていますか? 愚息のジョンは無事でしょうか?」 時として答えはこうである。「いいえ。彼は無事ではありません。こう云うのは残念ですが、彼は非常な危険の中にあります」。彼がいかなる場合に無事ではないと分かるか、これから告げることにしよう。

 彼が無事でないのは、アブシャロムのように、自分の父親と仲違いしている場合である。おゝ、しかり。彼は礼拝所に出席しているかもしれない。キリスト者であると名乗ってさえいるかもしれない。だが、自分の両親と仲違いしているとしたら、無事ではない。そうしたことは役に立たない。聖書は云う。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」[Iヨハ4:20]。この言葉は、兄弟という部分を父親で読み替えても、全く同じくらい説得力がある。もしある人が地上にいる自分の親を愛していないとしたら、いかにして天にいます自分の御父を愛することができるだろうか? 否、否。その人は無事ではない。

 「その若者は無事でしょうか?」 よろしい。無事ではない。最近、私たちは、彼が悪い仲間とつき合っているのを見かけた。彼は、品行不良な別の若者たちと親しくしている。彼が夜な夜な過ごすのを好んでいる場所で口にされている歌や会話には、ぎりぎりの上品さしかない。しかり。若者アブシャロムは、そこでは無事ではない。彼本人は、非常に道徳的かもしれないが、そうした人々の一員となっている以上、いつまでもきよいままではいないであろう。石炭の間に座っていれば、火傷はしなくとも、黒く汚れるものである。悪いつき合いを選ぶとしたら、たとい彼らのような違反行為を行なうよう強いられることが絶対なくとも、自分の評判を台無しにするであろう。否。若者アブシャロムは無事ではない。

 また、この若者が無事ではないのは、好んで贅沢な習慣にふけり始めているからである。「アブシャロムは」、と書かれている。「自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入れた」[IIサム15:1]。こうした濫費は、悪の兆しである。不要な贅沢品のために湯水のように金銭を使う若者は無事ではない。ロンドンにいるある種の青年たちは、俸給は少ないのに、非常に瀟洒な格好をしている。私たちは、その背後に何か良くないものがあるのではないかと恐れるものである。彼らの、質朴だが正直で、後ろぐらいところのない父親たちは、彼らが着飾った姿を見ても、息子とは分からないであろう。若者が颯爽とした風采をすること、分不相応な様子をすることに血道を上げるとき、それは悪いしるしである。もちろん、いかなる人の出費も、その収入や、社会身分に即して考慮されるべきである。私が言及しているのは、身分や富のある人々の服装についてではない。そうした場合においてさえ、虚栄心の強い様子をするのは悪のしるしではあるが。だが、一部の若い者たちは、二十歳そこそこでありながら、あるいは、徒弟修行が終わってもおらず、自由になる金銭などほとんどないに違いないのとに、それにもかかわらず、ありとあらゆる種類の奢侈にふけっているのである。そのようにしている者らを見るとき、私は確実にこう感じる。「若者アブシャロム」は無事ではない、と。

 もう1つのことがある。若者アブシャロムが無事でないことは、その肉体的容姿を眺めれば見てとれるものである。こう書かれている。「さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった。彼が頭を刈るとき、――毎年、年の終わりには、それが重いので刈っていた。――その髪の毛を量ると、王のはかりで二百シェケルもあった」[IIサム14:25-26]。若者たちが自分の身体に熱中し、自分の髪型や容貌や服装を自慢しているとき、確実に彼らは無事ではない。高慢は常に危険だからである。若い男女は、自分の身分にふさわしい服装をするがいい。私たちは彼らを服装ゆえに罪に定めているのではない。ジェイ氏の言葉が思い出される。「もしもあなたがた、ご婦人たちが、一円一銭に至るまでの収入を教えてくださるなら、私も三尺につきどれだけ飾り紐をつけて良いか教えて差し上げましょう」。そして、私も同じことをあえて云って良いように思う。しかし、実際に注意していると、若い人々が自分の美しさを自慢し始め、衣裳好みになるとき、彼らは様々な種類の誘惑に陥る非常な危険がある。彼らの頭か心のどこかには、尺取虫が巣くっていて、それが彼らの良い決意や立派な人格をむしばんでいるのである。しかり。自分の美しさを誇っている若者は無事ではない。

 そして、確かに若者アブシャロムが無事でないのは、彼が悪徳に走り出したときである。あなたもアブシャロムが何をしたか覚えているであろう。細々としたことに立ち入る必要はない。さて、多くの若者は、悪漢とみなされてはいないが、それでも私生活では道を踏み外しており、一切の秘密が暴かれたとしたら、今は彼をつきあいの中に受け入れてくれている体裁の良い人々の間には、恥ずかしくて座れないであろう。しかり。彼は無事ではない。

 「若者アブシャロムは無事か?」 否。ダビデよ。無事ではない。というのも、私たちが最後に彼を見たとき、彼は戦闘に携わっており、民は彼の回りで死につつあったからである。それゆえ、彼は無事ではない。他の人々が倒れているところで、いかにして彼が無事でありえようか? しかり。そして、私が見かけたひとりの若者は、ある夜、下劣な娯楽場から出て来た。私は思った。「否。若者アブシャロムは無事ではない」。というのも、そこでは多くの人々が滅びるからである。彼が競馬場で賭けをしていると聞いて、私は思った。「若者アブシャロムは無事ではない。あそこでは、おびただしい数の人々が破滅しているのだから」、と。私は彼がある晩、品行不良な連中と一緒にいるのを見て云った。「否。若者アブシャロムは無事ではない。彼は、貴重ないのちをつけ狙っている者たちに取り囲まれているのだから」。他の人々が倒れる所にいては決して無事ではない。彼らが滅びるとしたら、なぜ私たちも滅びないだろうか? 私がそうした危険を指摘したところ、その若者は、その理屈が分からずに、荒々しく食ってかかった。自分には身の処し方くらい分かっているのだという。娯楽のために中に入ったからといって、必ず悪徳に染まるとは云いきれない。「もちろん」、と彼は云った。「若い連中の中には自重できない者もいます。ですが、ぼくはちゃんと自分で自分の面倒を見られます。自分の意のままに歯止めを掛けることができます。派手なことをしてはいますが、悪いことはしていません。自由にしていますが、悪さはしていません」。しかり。だが、私はこう評価した。「若者アブシャロムは無事ではない」、と。――彼が思っている半分も無事ではない。――また、そう思っている分だけ無事ではない。自分のことをひどく高く評価し、特に他の人々が滅びる所でも自分は勝利を収めることができると確信しているからである。しかり。若者アブシャロムは無事ではない。

 さて、今晩この場にいる若者のうち無事ではないのは、次の描写に一致する人々である。彼は、非常に素敵な若人である。私たちの中でも、彼を知っている者はみな彼を愛しており、自分たちの間に彼がいるのを見て嬉しく思う。彼は話を喜んで聞き、《福音》の言葉を愛している。だが、自分の態度を決めていない。決して自分を神の民の立場に置かず、キリストを自分の主と告白しない。「あなたは、ほとんど、私をキリスト者にするところだった」[使26:28 <英欽定訳>]、と彼はしばしば云ってきた。だが、まだすっかりはキリスト者になっていない。この若者は無事だろうか? おゝ、否。彼は非常に有望である。神が彼を祝福し給わんことを! 私たちは、できるものなら祈りによって彼を無事にしてやりたい。だが、彼はまだ無事ではない。「王女アリス号」の難破物からほとんど救出されかかった人々は、溺死した。そして、罪からほとんど救われかかった人々も、今なお失われている。もしあなたがほとんど生きんばかりになっているとしたら、死んでいるのである。ほとんど赦されんばかりだとしたら、断罪の下にあるのである。ほとんど新生するところだとしたら、まだ新生していないのである。ほとんどキリスト者になっているとしたら、神なく、望みがないのである。そして、ほとんど救われた者として死ぬとしたら、完全に失われるのである。

 おゝ、愛する若い兄弟たち。私は、答えてこう云えるとしたらどんなに良いことかと思う。「ええ。若者アブシャロムは無事ですよ。彼は、確固とした一歩を踏み出しました。すでに自分をイエスの御手にゆだねており、イエスは彼を最後まで守ってくださいますよ」、と。願わくは、聖霊があなたをそこへ導いてくださるように。

 残っているのは、心楽しい話である。いま私は、幸いな「しかり」をもってこの問いに答えるであろう。しかり。若者アブシャロムは無事である、と。

 なぜか? よろしい。最初のこととして、彼はキリストを信じているからである。彼は自分をイエスに投げかけている。彼は自分で自分を救うことができないと分かった。だから、キリストのもとに来てキリストに救っていただこうとした。そして、自分を全くイエスの御手にゆだねて、永久永遠にイエスのものとなった。

 この若者が救われているのは、福音を愛しているからである。彼は、福音以外の何物についても聞きに行こうとはしない。彼は真理から離れようとしない。彼は混ぜものをしていない、みことばの乳を知っている。偽の教理によって欺かれたり、道に迷わされたりしない。偽の教理を憎んでいるからである。行って、あれこれのことを聞くことを彼は喜ばない。何によって自分の魂が救われたか知っており、「手本とすべき健全なことば」*[IIテモ1:13]を固く守る。この若者は無事である。

 彼が無事であると分かるのは、非常に謙遜だからである。彼はまだ完璧ではない。自分が完璧だとは云わないし、自分の達した境地を誇りもしない。先頭で馬車を引く馬になりたいとは思わない。役に立てるとしたら、どこに配置されても文句はない。彼はしばしば、そもそも自分がキリスト者となっていることを不思議に思い、すべてを天来の恵みに帰す。彼はへりくだった若者であり、それゆえ、十分に無事である。主はそのような者を保たれる[詩31:23]からである。

 さらに、彼は非常に自分に自信がない。時として彼は、間違ったことをするのではないかと恐れて、一歩も足を踏み出せないことがある。彼は常に膝をかがめて祈っては、指示を求めようとする。神の導きを待ち、みことばと御霊の指示がない限り、あえて何も行なおうとしない。彼は祈り深い。それゆえ、無事である。というのも、贖いの蓋に住まう者を、誰が傷つけることなどできるだろうか? 彼はまた、その日々の歩みにおいて非常に注意深い。彼は、神のみこころに従順であろうと努める。聖くなることを目指す。そして、聖くあるとは無事であることである。

 この世の子らは、彼を勿体ぶった偽善者だと云う。そのようにして、自分たちの烙印を彼に押し、蔑まれた《贖い主》に従う者として彼に目をつける。彼は純粋な人格をしている。さもなければ、人々から迫害されたりしないであろう。神の民は彼を愛し、彼は彼らを愛する。彼は彼らの間に住み、神の家についてこう云う。

   「ここに住まうは わが親友(とも)親族(みうち)。
    ここで統(す)べるは 《救主》(すくい)のわが神」。

郷里にいる彼の父親や友人たちに手紙を書いて、云うがいい。「この若者は無事ですよ」、と。彼はキリストの中にあり、キリストの教会の中にあり、神に仕えることを求めている。彼は《主人》のために働くことを始めつつあり、魂をイエスのもとに導こうとしている。聖霊が彼の中で働いており、彼によって神に栄光を帰そうとしておられる。しかり。彼は十分に無事である。というのも、「イェスに安けく抱(いだ)かれて」いるからである。

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説教前に読まれた聖書箇所――詩篇90


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 90番、566番、「イェスに安けく抱かれて」(『精華集』、25番)。

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愛する子を気遣う問いかけ[了]

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