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薨去の床

NO. 426

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1861年12月22日、日曜朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「町に悪があれば、それは主が行なわれるのではないだろうか」。――アモ3:6 <英欽定訳>


(注: 1861年12月14日の土曜日、ヴィクトリア女王の夫君、アルバート公は若くして思いがけず急逝した。この説教はそれを受けてなされたものである。)


 私たちは今朝、道徳的な悪について扱うつもりは全くない。実際私たちは、いついかなる場合であろうと、道徳的な悪の起源という途方もない神秘について関わり合うつもりはない。この問題については、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように、この火の中を歩んでも全く無傷ですんだ思索家がごく稀にはいないわけでなかったかもしれないが、この燃えさかる問題の口に近づこうと試みたあらかたの人は、ネブカデネザルの護衛兵たちのようになってしまった。――転落し、その吹き上がる火力のすさまじさによって滅ぼされてしまった。私たちが解決しなくてはならない問題は、いかにして悪が生まれたかではなく、いかにして悪が死ぬか、である。――いかにして悪が世にやって来たかではなく、それがやって来て以来、いかなる害悪が作り出され、いかにすればそれを叩き出せるか、ということである。道徳的悪の起源などといった無益で難解な探求に、自分の時間を空費する人々は、一般には怠惰きわまりない人々であって、現実に悪鬼を追い出そうとするようなことはしない。それゆえ彼らは、自分とは関わりのない深遠な論議と、むなしい口論によって時間をつぶしつつ、自分の良心をなだめているのである。

 この聖句にある悪とは、災難のことであり、私たちはこの節をこう読むことができよう。「町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか?」<新改訳> ――現今ことのほかふさわしい問いである。この町に悪は起こった。常ならぬ、大変な苦痛をもたらす性格の災難が、この国に降りかかった。私たちが喪った方について、きょうは一千もの舌がその賛辞を述べているであろう。この殿下をほめたたえる声は世に満ちている。また、世人の間におけるその名声の高さは、私があえてその思い出をあなたがたの胸に呼び起こす必要など全くないほどである。私たちは、いま自分たちが喪った方について、存命中は、絶え間なく非常な猜疑の念を向けていた。この方がすることなすこと私たちの不信をかき立てないことはほとんどなかった。私たちは常に、容喙の妖怪や、違憲的な権勢に警戒の目を光らせていた。だが今やこの方が逝去してみると、私たちは、自分たちの信頼にあれほど値する方を信用できなかったことに痛恨の念をいだいてよいであろう。その身分や、才幹や、家格に対して、しかるべき敬意を払っていなかったという不平は云えないであろう。だが、この方の墓から、記憶のかすかな細い声が聞こえてきて、私たちは、数々のぶしつけな疑念や、多少の辛辣な判断や、一二の心ない中傷を思い起こさせられるかもしれない。嬉しいことに現代の代表的な雑誌は、王婿殿下の逝去は私たちの薄い敬意と遠慮がちな尊敬を深く悔やませるであろう、といった趣旨の論評を行なっていた。この方は、私たちの手から善だけを受けるに値する方であった。この上もなく危険な立場にありながら、殿下の足は跳ね飛ぶことがなかった。いかに些細な口出しを行なっても憎悪の嵐が頭上にもたらされたであろうときに、殿下は思慮深くも自分を抑え、可能な限り公務には干渉なさらなかった。わが国の統治形態を眺め、現行政体における王位の立場を眺めるとき、私はこう云わざるをえない。「まことに、かくなる女王が、かくなるご夫君を喪われるということは、大変な災難である」、と。この災いは非常に悲惨なものであって、私たちの思い乱れた心は、これが前兆となるかもしれない数々の凶事の不吉な予感に暗くされるほどである。私たちは、ダビデとともに、「私の山は堅く立つ。それは決してゆるがされない」*[詩30:6-7]、と云っていた。だが地震が起こり、山が震え、1つの巨岩が倒れた。――次に何が来るだろうか? 私たちは、戦争については見込んでいたが、王家の葬儀など全く心構えをしていなかった。それなりの懸念とともに海外における紛争を予期してはいたが、国内で損失をこうむるとは思ってもいなかった。だが今、私たちは王家の隅のかしら石が取り去られたのを感じており、悲しみと恐れとともに、次は何が来るか、そしてその次は、そのまた次は、と戦々兢々としている。私たちは、わが国の《政体》に大きな信頼を寄せてはいるが、それにまさる信仰を神に寄せていなかったとしたら、だれか卓越した教役者が取り去られたり、国家の枢要な地位を占めていた大人物が取り去られるたびに、自分たちが地上的な助け手のないまま荒れ果ててしまうのではないかと恐れるであろう。この堂々たる柱石の倒壊だけが私たちに悲しみをもたらしているのではない。この大建築物の別のあちこちの箇所を指す預言的な指こそ、多くの高貴な柱が塵の中に倒れる時代が来るのではないかとの不吉な予感で私たちを満たしているのである。また、それがすべてでも、最も深い悲しみというわけでもない。私たちがこの出来事を町に臨んだわざわいであると感じるのは、それが、ひとりの父親を子どもたちから取り去ったからである。しかも、その子どもたちは普通の子どもたちではない。――王子たちである。王子たち――彼らに、父親が行なうのと同程度の指導を行なおうとする者などどこにもいないであろう。王子たち――彼らの耳には、父親の声を通してでなければ、賢明な助言などほとんど届かないであろう。王子たちと王女たち――彼らには、父君の思慮深い助言が必要である。彼らが成年に達する前の様々な試練を乗り切るためにも、人生の戦いへと乗り出したときに勇気づけられるためにも。いま取り去られた方は、女王と協力して、彼らを非常によく訓練して来られた。そして、殿下を喪ったことが彼らの将来の性格にとっていかなる意味を持つかは、時間だけが明らかにするであろう。それにもまして――そして、ここで私たちは最も微妙な琴線に触れ、最もこの災いの核心に迫る部分に達することになるが――女王陛下は、その愛するご夫君を喪われたのである。その唯一の同等の友人、その唯一の親友、その私事における唯一の助言者を喪われたのである。子どもたちを除いて、陛下はすべてを一度に喪われたのであって、この日、陛下は国中のいかなる貧しい寡婦にもまして、大切なものを喪っておられるのである。夫に先立たれた百姓のおかみは、あまりにもしばしば、冷え冷えとした赤貧につかまれて苦しむ。だが彼女には何人かは仲間や友人がいて、王家の孤独という、それよりも冷えた手で魂そのものを凍らされることからは免れている。私たちは、愛しまつる《元首》のうちに《王者》の悲惨を見ており、云わば、悲しみの女帝を眺めているのである。さながら夏の日の曙光を最初にとらえる山々の頂が、冬の無慈悲な疾風には最もすさまじくさらされるように、王位という高みは、繁栄の際にはあらゆる利点があるが、患難の時には極度の悲しみを伴うものである。通常の折でも、正気の人であれば、だれが最高権力者の心労をわがものにしたいなどと思うだろうか? だが、家族の死別に心が締めつけられている今、そうした心労はいかなるものに違いないことか。重荷を分かち合い、ともに担ってくれる愛情深い夫君はもういないのである。兄弟たち。私たちには同情することしかできないが、慰めることはできない。凡俗の身は、同情を得ることもたやすい。だが一国の最高権威者に当然ささげられるべき敬意を考えると、最も親しい友人でさえ、親身な慰めを差し出すことはできない。だが、そうした親身さこそ慰めのいのちそのものなのである。これは、まことに災難である! おゝ、主よ。心うなだれるすべての者らの慰め手なる主よ。私たちの涙せる君主を支え、慰藉し給え! ロバート・ホールかチャーマズがその墓から立ち上がり、この悲しみを描き出せれば良いものを! 私としては、私の口は宮廷風の云い回しにあまりにも不慣れであり、そうした悲しみの深みについてあまりに僅かしか理解していないため、このような主題について語るすべも、覚悟も有していない。黄金のような言葉を語り、雄弁な講話を行なう機会ではあるが、私は口ごもり、へまをするしかない。天の神は知っておられる。この世で鼓動するいかなる心臓にもまして、私たちの心臓が愛情こめて同情していることを。このように独り残された王家の奥方の悲しみに、これほど真摯に涙することができる目はないことを。あゝ! かの殿下は高き所で倒れた! 会議の間から取り除かれた。あらゆる優美さの住まいから取り去られた。麗しい家庭から、栄誉の座から去っていった。そして、これは災いである。――このような災いは、私たちの中のいかなる者の人生においても、この国に降りかかったことがなかった。――この国でこれほどの悲しみを引き起こすことのできた災いは、このような災いのほかには、もうひとりの方の死を除いて――そして、それがはるかに遠からんことを。――全くなかった。

 しかし今、本日の聖句はその声をあげて、耳を傾けるように求めている。これは《永遠の神》の口から発された問いだからである。「町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか」。

 今朝は、2つのことに関して語りたいと思う。第一に、神がそれを下されたのだ、ということ。第二に、神がそれを下されたのは、意図をもってのことだ、ということである。できるものなら、その意図がいかなるものであるかを見いだそうではないか。

 I. まず第一に、町には災いが起こったが、《それは神が下した》のである。

 世人は、この災いの第二原因を究明しようとして多大な関心を寄せてきた。かの熱病はどこから来たのか? それが、普通よくあるようなしかたで引き起こされたとは考えられない。疫病の巣である、私たちの路地や裏通りでは、その餌となるものをふんだんに汚物が供しており、そこから悪疫が生み出される。だが、今回の病にいかなる初期症状があったのか、そこから何が発達し、どのように進行したかについては、熟練の医師にも見当がつかない。むしろ私たちは、こうした調査を放棄し、第二原因から目を引き離した上で、すべてを行なわれた大いなる第一原因に目を向けるのが良いであろう。「それは主が下された」のである。主は、いのちの息を与え、それを取り去られた。主は、かの男らしい体躯を形作られ、それをちりの中に打ちのめされた。主は、かの人をお遣わしになり、こう云われた。「帰れ! あなたがそこから取られたちりへと」。私は、ある種の考え方を思い起こす。それは、世の中に行き渡っており、今の時代になおも息づいている。――神を追放しようとし、神をご自分の作品世界の中でよそ者にしようとする考え方である。だが、神がこのことを行なわれたに違いない。さもなければ、私たちは別の何らかの選択肢に向かわざるをえない。いかにしてこの災難が生じたのか? それが偶然によるものだと考えて良いだろうか? 今も見いだされる一部の愚かな人々が信じているところ、種々の出来事は、神の予定なしに起こり、それぞれの災難は、すべてを制する神の御手もなく、神の直接的なお働きもなしに発生するのだという。あゝ! もし偶然がこれをしたのだとしたら、あなたや私は何とあわれなことか。あゝ! もし私たちが偶然の手の中にあるのだとしたら、兄弟たち。私たちは何者だろうか! 私たちは、あやしげな船に、海図も舵もなしに乗り込んだ船乗りのようなものとなろう。私たちは、自分が究極的に行き着くことになる港について何も知らないことになる。今の自分が風の慰み者であり、嵐のとりこであり、じきにすべてを呑み込む深海のえじきになると感じるしかないことになる。あゝ! もし私たちが偶然の手の中にあるとしたら、私たちはみな何とあわれな孤児であろう。私たちを見守る父の心遣いなど何もなく、定命の物事の気まぐれや誤りやすさにまかされているのである! 私たちが自分の回りに見ているものは、砂漠の真中で吹き荒れる砂嵐でなくて何であろう。それによって私たちは目をつぶされ、暗闇の中で最初から最後まで見通す望みなど全く持てなくなるのである。私たちは、辿るべき道もない未開の荒野を行く旅人となる。――いつ何時ひっくり返り、打ち倒されるか知れない旅人となる。そして、嵐の犠牲となった私たちは、干からびた白骨となって残され、だれにも知られぬまま、忘れ去られることになる。だが神に感謝すべきことに私たちはそのような者ではない。偶然は、愚か者の心の中にしか存在していない。私たちは、何事であれ自分に起こることは、私たちの《父》であり《友》であられるお方の賢く、優しいみこころによって命ぜられていると信じている。そして私たちは、混乱の中にも秩序を見てとり、他の人々が不毛の荒れ地と思う所でも、種々の目的が成し遂げられているのを見てとる。私たちの信ずるところ、「主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり」[ナホ1:3]である。

 その逆に、ある人々は別の極端に走り、さらに自分たちの神を忘れ果ててしまう。彼らは偶然という思想を否定するが、運命という考え方に屈している。神を信じない一部の予定説信奉者たちは、その考え方において、神を信じずに偶然を信じている人々と同じくらい大きく道を踏み外している。というのも、一部の人々の云う「運命」とは何だろうか? それが私に思い出させるのは、鉛鉱で用いられているような巨大な機械である。その中では2つの巨大な車輪が絶えず回転していて、縦坑から切り出されてきた石を砕いている。その石は、最初は遠く離れたところに横たわっているが、このすべてを食い尽くす巨大な車輪の口へと、絶え間なく近づきつつあり、最後には粉砕されて、すり潰されてしまう。それが、一部の人々の思い描く運命である。あるいは、別のたとえにしてみよう。それは、ジャガナート神像を載せた巨大な車である。それは、抵抗しがたい力によって引かれている。それがやって来ると、その車の下敷きになった人を押し潰し、ぐしゃぐしゃにし、ぺしゃんこにし、血まみれのからだが路上に横たわるままになる。身の毛もよだつ、この運命という車からは、だれも逃れることができない。闘争しようと試みる者さえいない。彼らは手足を縛られ、その通り道に横たえられており、時が来ると、その車輪があわれな人々を粉砕してしまうのである。よろしい。私は神に感謝する。私は予定を信じてはいるが、それと運命との違いを知っている。運命は、盲目の、発狂した、脳なしの予定であって、ふらふらとさまよい歩いては、目的もなしに驚くべきことを行ない、山々を覆し、杉の木を根こそぎにし、燃えさしを撒き散らし、そこら中に死を投げつけるが、すべてが無目的である。それが運命である。――単に、そうならざるをえないからそうなるのである。――物事は、起こらざるをえないがために起こるのである。しかし、予定は栄光に富んでいる。多くのことを視野に入れた上で、それは神の利益にかなうことを目指している。また、神の被造物たちの利益にかなうことをも目指している。そしてそれは、あることが起こらなくてはならない、と述べる一方で、それが起こらざるをえないのは、それが賢く、正しく、いつくしみ深いことであるからこそ起こらなくてはならないのだ、と述べる。また、私たちは、結局は同じだと考えるかもしれないが、それでも私たちの心にとって、その違いは南極と北極ほどにもかけ離れたものである。運命を信じてはならない。むしろ神を信ずるがいい。それが彼の運命だったのだと云ってはならない。むしろ、これが神のみこころなのだと云うがいい。冷酷で不可抗の運命が彼を引ったくっていったのだと云ってはならない。むしろ、こう云うがいい。ある優しい御手が、時機が到来したのを見て、彼を来たるべき悪から連れ去られたのだ、と。

 こうした2つの仮説を片づけた後でも、もう1つの仮説が残っている。「町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか」。たとい愚かな偶然がそれをしたのでも、非情な運命がそれをしたのでもないとしても、ことによると、悪の霊がそれを下したのかもしれない。ことによると、サタンが私たちの上に災いをもたらしているのかもしれない。ことによると、彼が人々をその墓へと引きずり込んでいるのかもしれない。ことによると、彼が生命の糸を断ち切っているのかもしれない。ことによると、彼が世界に悪い感化を与える者、死の門の番人なのかもしれない。兄弟たち。私たちはこうした考えを即座に私たちの思いからはねつけるものである。ここから遠く立ち去れ! 汚れた《過誤の王》めが! お前は空中の支配者[エペ2:2]だが、王の王ではなく、今や死の王でもない。死の鍵はお前の帯で揺れているわけでもなく、お前のどす黒い唇から、「あなたはあなたの滅びに会う備えをせよ」、との召還を発することができるわけでもなく、お前の汚い指によって私たちが自分の家から、また自分の王座から引き上げられるわけでもなく、お前の冷酷さによって私たちが暗黒の日に引き渡されるわけでもない。お前の専制的で暴虐な思いは、私たちに君臨する何の権威も有していない。しかり。イエスよ。あなたはサタンを打ち破られました。あなたは私たちを死の恐怖そのものから解放してくださいました。あなたは死の力を持っていた者、悪魔を滅ぼされたからです[ヘブ2:14]。一千もの御使いが総掛かりでも私たちを墓に引きずり込むことはできない。そして、暗黒の霊よ。いったん御使いのかしらの喇叭が私たちを眠りから目覚めさせるときがきたら、お前が私たちをそこに閉じ込めておくことはできない。しかり。サタンがこのことを行なったのではない。キリストにある私の兄弟たち。あなたの困難や試練を、地獄から来たものとみなしてはならない。時としてサタンはあなたに痛みをもたらす道具となるかもしれないが、それでもそれらは神から出ている。私たちの悲しみの杯には、御父がそこにお入れにならなかったものは一滴もない。その混合物がいかに苦くとも、賢き永遠の御手がその全体を混ぜ合わせたのである。鞭は打ち下ろされるかもしれないが、サタンがそれを振るっているのではない。父親が「その子を訓練するように」[申8:5]、主は「主を恐れる者」を訓練されるのである。

 しかし、今ひとたび、私たちの思いにはもう1つの考えが起こる。ことによると、現代における最大の誘惑は、起こり来るあらゆることを自然法則によるものとしようとすることかもしれない。さて、これは哲学を満足させるかもしれないが、神学はもう少し先まで進む。神学は、あらゆる物理法則を認める一方で、何らかの法則がそれ自体では完全に無力であると主張する。法則は、それを実行する力から離れていては、無力である。それは、これこれの事がらがなされるという法則かもしれないが、その法則を実効あるものとする何らかの力がない限り、そうした事がらは決してなされないであろう。現代のある人々の考えによると、この世界は、何年も前にねじを巻かれた巨大な時計のようなものであるという。事実、ある人々は永久運動を信じている。――そして、世界が自分で自分のねじを巻いたのだと教えているかに思われる。神をお払い箱にし、可能な限り遠くへと追い払おうとして、彼らは原始時代に立ち戻り、そのときに、あらゆる中枢機構が始動されたのだと思い描く。そのときに、十分量のはずみが全体にこめられたので、今やそれは自動的に動き続けているのだというのである。神の介入を彼らは信じない。もちろん奇蹟など馬鹿げている。すべては通常の自然法則にまかされているのだ。ある人々によると、世界には、特定の法則や規則に従って自分で自分の活動をひとりでに維持し続けるだけの活力があるという。神はほむべきかな。私たちは、それが本当ではないことを知っている。私たちは、すべての衛生手段を用いて疾病の種を取り除くことが自分たちの義務であると信ずる。疫病が起こる際に、断食を布告する人々は間違っていると信ずる。それよりは、街路を掃き清める方が先決である。行って、荒れ放題の不潔な長屋を引き倒しては、より清潔な家並みを建てるべきときに、祈祷会にしか来ないという人々は誤っていると思う。立って、人々のため真剣に働いているべきときに、膝をかがめようとする人々は、非実際的であり、聖書を理解していないと思う。だが、それと同時に、やはり私たちはこう主張するものである。主がすべてを行なわれたのであり、こうした災難は主が御手をお出しにならなかったとしたらやって来なかったのだ、と。――人々を死によって取り除くのは主のみこころであり、ただ主のみこころによってのみ人々は死ぬことができるのだ、と。何と、私たちをすべて機械的仕組みにゆだねるというのは、「私の父よ。天におられる私の父よ」、と云うことのできる者にとっては、みじめな考え方である。それは、まるで子どもが乳母や親もなしに置き去りにされたが、そこには機械仕掛けで作動する揺りかごがあり、一日何時間もその子を揺すり続けるというようなものである。その子が目覚めるべきときには、機械によって目を覚まさせられる。きちんと食べ物を与える仕掛けもある。夜にはその子の服を脱がせる装置があり、朝には服を着せる仕掛けも用意されている。その子は成長していき、なされるべきことはみな、機械によってなされる。――何の愛も、何の父親も、何の優しい乳母も、何の親切で愛情のこもった母親もなく――その子は機械と駆動機関の子どもである。そして、そのようにして年々歳々、その子はある機械から別の機械へと受け渡されていく。そして、その子が成年に達したときも、やはり機械によって食べ物を与えられる。彼は眠り、旅に出るが、彼が行なうすべてのことにおいて、生きた顔を全く見ない。柔らかな手を全く感じない。愛に満ちた優しい声を全く聞かない。一個の、魂のない、いのちのないからくり仕掛けがすべてに伴っているだけである。さて、神をほむべきことに、私たちにとってそれは真実ではない。私は、《父》の御手を見ることができる。食べ物が与えられることで神に感謝するが、私は父が私に食べ物を与えておられることを知っている。私は自然法則が生命維持に寄与していることを知っているが、《父》の臨在が私のいのちに刻印されているのを見ている。そして私は、もしもこの世界がその神から見捨てられており、いかなる《父》からも遠く離れてひとりで動いてきたのだとか、ひとりでに《父》の意図した結果を生み出しているのだとか信じていたとしたら、私は悲しくみじめな孤児のようで、何かを愛したいという自分の心の渇望が空回りするように感じるであろう。神はほむべきかな。私たちには、この問いに対する自分の答えについて何の疑いもない。町に災いが起こるとしたら、それは主が下されたのである!

 ここで、しばし立ち止まり、考えてみよう。もし神がそれを下したのだとしたら、あらゆる災難はいかなる崇高さを帯びていることか。この薨去の床の傍らに立つとき、私は、ひとりの殿下の前にいるのだと思っていた。だが、見よ。そこに見えるのは、ひとりの人なのである。おゝ、《いと高き方》よ。これはあなたのみわざです。あなたがその両の目を暗闇の中に閉ざされたのです。あなたが、あの心臓に鼓動を止めるように命じられたのです。あなたが、あなただけが、あの男らしい体躯を力なく打ち倒されたのです。いかに私たちは神の近くにいることであろう! 忍び足で歩くがいい。あなたの幼子の死んだからだが、まだ葬られないまま横たわる小さな部屋を通り過ぎるときには。神はそこにおられ、そのつぼみを摘み取っては、ご自分のものとしておられるのである。あなたは昨日、何らかの試練を有していた。「あなたの足のくつを脱げ」[出3:5]。神がその燃える柴の中におられるからである。人は災難のほか何も見ないが、信仰の目は神を見る。時として私たちは、今は故人となっているこれこれの偉人が、これこれの部屋で寝たことがあるとか、これこれの場所で物書きをしていたとか聞く場合、それを興味深く考えることがある。ならば、神がそこにおられた――神がここにおられた――ことを思い起こすとき、何と云えば良いだろうか? 私たちが、この悲しみの衣服を身につけている間も、また、たった今、頭を垂れて貰い泣きをしていた時も、神ご自身がここにおられたのである。――すべてを行なう、《王の王》、《主の主》なるお方が。息をひそめて語るがいい。叱! 静かに。あなたは御威光を前にしているのである。国家的な災難、あるいは個人的な不幸のことは、自分の前に《神格》がおられるという意識によって吹き込まれた畏敬の念とともに考えるがいい。

 さらにまた、もし神がそれを下したのだとしたら、その正しさに対する疑念はことごとく、永遠に捨て去るがいい。それは正しいに決まっている。誰かが口答えしようというなら、私たちはパウロの簡潔な言葉によって答えよう。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか」[ロマ9:20]。しかし、あの方を取り去り、しかも、よりによって国家が大難にある時に、あの方を取り除くことが――それが正しいなどありえるでしょうか? 兄弟たち。正しいに決まっている。殿下は最善の時に逝去されたのである。この患難は最もふさわしい折にやって来たのである。そうならなかったとしたら、正しくなかったであろう。殿下のいのちが長らえることは賢明でも、親切なことでもなかったであろう。そして、私がそう推測するのは、神が彼を取り去られたという事実からである。それゆえ、これは最も賢明で、最も正しく、最も親切なことに違いない。あなたのいかなる損失についても、これと同じことしか語ってはならない。あなたがたの最愛の友が取り除かれようとも、口をつぐみ、沈黙を守り、文句を云わぬがいい。なぜなら、あなたが、あなたご自身がそうなさったからです。ですから、おゝ、神よ。私たちは云います。「みこころをなさせ給え」、と。

 また、このことは私たちの最上の慰めでもある。神がこのことをなさったのである。何と! 私たちは、神が行なわれたことについて、泣いて良いだろうか? 《主人》がご自分のものを取り去られたとき、私たちは悲しんで良いだろうか? 「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]。ある庭師が、自分の花壇で一本の大切な花を育てていた。ところがある日、その花がなくなっていた。それは彼が、わが子に愛情を注ぐ父親のように丹精を込めて世話してきた花であった。そこで彼は、庭園中を走り回って、召使いのひとりを発見した。きっと不埒な奴がその花を摘み取っていったに違いないと思ったからである。彼は云った。「だれがあの薔薇を摘み取ったのだ?」 召使いは答えた。「今朝早く日の昇る頃に、ご主人様が庭園を歩いておられるのを見ました。そして、あの花をご自分で持ち去って行かれたのです」。そこで、薔薇を育ててきた庭師は云った。「ならば良い。ご主人に恵みあれ。あれはご主人のものなのだ。ご主人のために私はあれを守ってきたのだ。ご主人のために世話してきたのだ。もしご主人があれをお取りになったのだとしたら、それで良い」。あなたの心も、これと同じようになるがいい。あなたが友を喪ったのは、あるいは、あなたの最愛の親族を喪ったのは、最善のことであると感じるがいい。神がそれを下したのである。

 慰めで満たされるがいい。神がなされたことは、決して涙を流すにふさわしい理由にはなりえないからである。諸天よ。あなたがたは、神が星々を覆い隠したからといって泣くだろうか? 地よ。あなたは、神が太陽をお隠しになったからといって泣くだろうか? 神がなされたことは、常に詩歌とハレルヤを生じさせるべき理由である。そして、ここでさえも、いまだ葬られていない死者を前にしていてさえも、私たちの信仰はその歌を歌い始めるのである。――「そは良し、なべて良し。たたえよ御名を代々とこしえに」。

 II. さて第二の項目に移るので、もう少しだけ注意して聞いてほしい。《もし神がそれを下したとしたら、神は何らかの目的のためにそうされたのである》

 天来の行為についてその理由を尋ねるのは、必ずしも常にふさわしいことではない。というのも、もし神がご自分の問題について何の説明もお与えにならないとしたら、私たちが何らかの説明を求めるべきではないからである。敬虔そうに見せかける軽薄な人々は、信仰を告白するキリスト者らの中にさえいるが、誤った考え方をしては、あらゆる患難を審きと呼び、だれかが突然に取り去られると、それを本人あるいは他の人に対する審きによる死だと考える。こうした考え方を私は心底から忌みきらうものである。不信心者は、通常このことを私たちの最大の弱点として攻めたてる。だが、これは私たちの最大の弱点ではない。私たちはこれと何の関係もない。このように語る人は自分の聖書について何も知らないのである。シロアムの塔の下敷きになった人たちがいた。あなたがたは、彼らが他のどの人よりも罪深かったと夢想するだろうか? 私は、キリスト教界の一部に見られる、信心めかした澄ました態度に全くむかつかされるのを感じる。彼らは、私がかつて云ったことに対して、一悶着を起こした。私はそれを今も繰り返して云うが、日曜日に起こる鉄道事故は神の審きではなく、通常の《摂理》の道において起こることであり、私たちはこうしたいかなる出来事についても、手近にある直接的な理由を探し求めるべきではない。神の審きは広大かつ深遠なものである。そのような、どんな馬鹿でも底を探れる浅い水たまりのようなものではない。神は、そのみわざの内側に、赤子でも突きとめられるものをはるかに越えた大きな神秘を有しておられる。しかし私たちは、個人的な災難と、国家的な災難との間に線を引くものである。国家に来世はない。それゆえ、《国々を審くお方》は現世で国家を審かなくてはならない。個々人について、罪の罰は現世にはなく来世にある。だが国々は、国々としてよみがえることはない。――個々人としてよみがえる。これによって、死が国家的災難となるとき、その理由を探るのはふさわしく、適切なことである。あまりにも深く詮索するのでなければ、私たちは、なぜ神がそうされたのかを問うべきである。個人に対する審きは来世にあり、その生涯の結末は来世においてやって来る。だが国々については、現世で審きがあると私は思う。そして、もし私たちが神のお取扱いを見過ごしにし、「鞭と、それを定めたお方」[ミカ6:9 <英欽定訳>]とに聞くことをしないでいるとしたら、それは間違いだと思う。

 さて、なぜ神は私たちの女王のご夫君を取り去られたのだろうか?

 第一に、ここにある動機としては、こうすることで殿下が、地上のあらゆる国王や君主たちに対する、この上もなく厳粛な警告となることにあると思われる。エホバは――《王の王》、《主の主》は――こう云っておられるのである。「皇帝たち、君主たちよ! あなたがたも人のように死ぬのだ。自分の冠が永久に自分のものだと思ってはならない。滅びることなく、目に見えない《王》はひとりしかいない。あなたが自分の王笏を国々に差し伸ばすとき、それを《全能の》腕と考えてはならない。あなたの腕は杖を落とし、あなたの頭はその冠を失い、あなたの紫衣は屍衣に取って代わられ、あなたの宮殿は狭い墓場の中でしかなくなるであろう」。彼らの墓所から、死者は叫んでいる。――

   「王らよ、この泥 汝が寝台(とこ)ならん
    高きちからも 定めを変えず。
    気高く賢し 尊いかしらも
    われらと同じ 低きに伏さん」。

あなたは云うであろう。「ですが、なぜ市井の平凡な人を取り除かないのですか?」 それでは、このような効果が得られないからである。神よ。あなたは、かの城から語っておられます。悲しみを表わし、半旗となった旗を垂らしたあの城から。そしてあなたは、君主たちにこう語っておられます。彼らは聞かざるをえません。皇帝たちにこう語っておられます。彼らは耳を傾けざるをえません。「わたしが神であって、ほかにはいない。あなたがた、国王たち。あなたについて云えば、あなたは鼻で息をしている。身分の高い人々はむなしい。そんな者に、何の値うちがあろうか」。私たち、大衆は、毎日のように説教を聞くことができる。自分の同胞たち、同輩たちが死によって私たちのもとから取り除かれるのを目にするときそうである。だが、こうした高くあがめられる人々は、そオリュンポス山上の神々のように堂々と座しており、自分たちと同じ身分の者が死にでもしない限り、自らを半神と評価し、私たちの手から礼拝を要求しかねないのである。おゝ、帝国よ。お前の誇りは、お前の紋章入りの盾は、傷つけられ、汚点をつけられているではないか! 《死》が――かの先駆けが――皇帝や国王たちの尊厳に挑戦し、自らの鎧の篭手を地の君主たちに思いきり叩きつけた。あなたがたは、自分の農奴や奴隷たちと同じように眠る。あなたがたは、自分の臣下たちと同じように死ぬ。勇士たちは、自分が殺戮の場に引き連れていった郎党たちと同じように世を去る。そのように、あなたがた、権力を有する者たち。あなたがたも見いださなくてはならない。《死》は、同じ歩調で王の宮殿にも、貧民のあばら家にも、押し入ってくることを。

 それだけではない。わが国の宮廷の中にいて無頓着であった人々、わが国の貴族たちの中にいる無頓着な人々のいかに多くが考え込まされることになるか、だれに分かるだろうか? もし何事かがそうできるとしたら、今回のことがそうであるに違いない。光彩陸離たる輝きに目がくらみ、虚栄の喧噪によって考えをなくしてしまった人々は、自分たちが軽蔑できない説教者による説教には、一度は耳を傾けるであろう。というのも、神は彼らにこう云われるからである。「廷臣たち! 華族たち! 貴族たち! 私はあなたがたの頭をあなたから取り去った。あなたの神に会う備えをせよ!」 そして、あるいはきょう、これまでは一度も祈りのためにかがめられたことのない膝が、かがめられているかもしれない。きょう、死のためばかりでなく、罪のために涙を流している目があるかもしれない。喪失感のためばりかでなく、咎の自覚のために張り裂けている心があるかもしれない。金持ちが天国に入るのは困難である[マタ19:24]。それで《摂理》はそれを容易にしようとするのである。宮廷生活につきものの華やかさやあれこれの関心事にこれほど浸りきった耳をとらえるのは、容易なことではない。だが、これなら引き留めることができる。死は、結婚式に向かう招待客の足をとどめ、その痩せこけた、骨と皮ばかりの手を掲げながら、物語を語っては彼らに耳を傾けさせ、その物語が終わるまで彼らをはばみ、食い止めておく。もしかすると神は、百年前の神の《教会》にとって、ハンティングドン夫人やアン・アースキンが立っていたのと同じようなことを、この今の時代の《教会》に対して行なう人々を引き出そうとしておられるのかもしれない。もしかすると、神は今日、宗教改革者たちの友であったボヘミアのアン女王のように、キリストの福音の後ろ盾となるべき婦人たちを訓練しておられるのかもしれない。こうしたことでもなければ無縁であった人々が、その影響力と権力を振るって、真の敬虔さと人々の真のいのちを押し進めることになるかもしれない。

 こうしたことを語るのは、筋の通らないことではないと思う。私たちには、神がここでその目的を有しておられることを、見ようと思えば見てとれるであろう。それに、神は今日、民衆としての私たちに語りかけておられるような気がする。神は私たちに、私たちが完全に神に依存していることを示された。神は、あらゆる殿下、あらゆる貴族、あらゆる閣僚、あらゆる枢密顧問官を取り去ることがおできになる。お望みになれば、舵から操舵手を取り去り、船を波間に漂流させ、戦争の雲、審判の稲妻で取り囲むこともおできになる。そうなれば、私たちの国家全体は、古のニネベやバビロンのように難破することになるであろう。英国よ! 神はお前を祝福してこられた。だが、覚えておくがいい。それは、あなたの神なのである。英国よ。神はお前を尊んでこられた。だが、お前を守っておられる神を忘れてはならない。おゝ、国民よ。自らの力を誇ることのあまりにも多い国民よ。今のお前は荒布を着ており、頭に灰をかぶっている。頭をかがめて、云うがいい。「神だけが神です。強者の証印は神に属しています。栄光と誉れとが神に、神だけに、永遠にありますように」。

 それから神は、私たち個々人に語りかけておられる。私には、自分にこう語りかける声が聞こえる。「説教者よ! 時が良くても悪くてもしっかりやるがいい[IIテモ4:2]。真剣かつ熱心に立ち働くがいい。あなたの日は短く、あなたの時はすぐに尽きるからである」。《教会》の役員たち。私にはあなたに対する声が聞こえる。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えるがいい[ロマ12:11]。というのも、すぐに蒼白な死があなたを襲い、そのひやりとする手をあなたの白髪頭の上に置き、あなたを冷たい墓に横たえるからである」。私は、自分にゆだねられている民――キリスト教会の教会員たち――に語りかける声が聞こえる。「『きょう』と云われている間にわざを行なうがいい。だれも働くことのできない夜が来るからである」*[ヘブ3:13; ヨハ9:4]。そして私には、葬送の棺についた鈴が鳴るように、1つの厳粛な澄んだ声音があなたがた、未回心の人々に語りかけているのが聞こえる。その使信を私はこう通訳しよう。――「あなたの神に会う備えをせよ。あなたがた、無頓着な人たち。安逸にしている人たち。覚悟をするがいい。というのも、主がやって来られるからである。あなたがた、思慮のない人たち。永遠について何も面倒なことはしようとしない人たち。覚悟するがいい。主が来られるからである。酒に酔う人たち。神よりも快楽を愛する人たち。覚悟するがいい。主は来られるからである。悪態をつく人たち。神を冒涜する人たち。もしこの場にそのような人がいるとしたら、覚悟するがいい。主は来られるからである。あなたが冒涜してきた主が来られる。そして、あなたがたひとりひとりは、もしキリストから離れているとしたら、もしあなたのもろもろの罪が今なおあなたの上に置かれているなら、もしあなたが一度もあなたの父なる神の口から発される赦罪を求めることも、見いだすこともなかったとしたら、それを求めるがいい。求めるがいい。というのも、主は来られるからである」。バラクラヴァの戦いで、騎兵隊が死の谷に乗り入れたとき、戦友が鞍の上でよろめき、落馬するのを見るのは恐ろしいことだったに違いない。弾丸につぐ弾丸が自分の耳元で唸りを立てて飛び交うのを聞き、自分のそばにいる者に命中するのを見、路の一面に死体が散乱するのを見、隊列が絶え間なく穴だらけにされ、薄くなっていくのを見るのは、恐ろしいことだったに違いない。そして、私たちの中の多くの者らの人生は、そのような突撃でなくて何だっただろうか? 少年時代の仲間たち! あなたがたはどこにいるのか? 青年時代の友人たち! あなたがたの何人が倒れただろうか? そして白髪頭の老齢に達した人は、振り返って見たとき、こう云えるであろう。「かつて私が知っていた者たち全員の中で生き残った者の何と少ないことだろう。いかに多くの者が去っていったことか! かの谷間で、いかに大勢の者が倒れ伏したことか!」 そして、私たちは寛容の奇蹟として立っている。私たちはあわれみの記念碑として立っている! 私たちの番もじきに必ず来るではないだろうか。私たちの番もじきに来るに違いないではなかろうか。私たちには自分の人生の賃借権などあるだろうか? 私たちがその恐ろしい瞬間を延ばすことなどできるだろうか? いかに長い人生でさえ短い一生と云われるのに、長生きすることなど希望できるだろうか? 備えようではないか。明日は私たちの棺が測られるのを見ることになり、明日は私たちが埋葬着を着せられるばかりとなるのを眺めることになるかもしれないからである。否。今晩、沈み行く太陽が私たちの死体を照らすかもしれない。私は切に願う。方々。自分が定命の者であることを思い出してほしい。哀悼を示すこの厳粛な衣類によって、また、その衣服によって思い起こすがいい。あなたの悲しみとなることに、じきにあなたが悲嘆の的とならなくてはならない。じきに哀悼者たちがあなたのために町通りをぞろぞろ歩き、あなたが自分の終の住みかへ行くことになるであろう。私は今朝、あなたがたの中のある人々に向かって語りかけている。私の最も愛情のこもった不安をかき起こす人々に向かって。あなたは、あなたがたの中のある人々は、この声を以前も聞いたことがあるし、震えおののいたことがある。だが、あなたの強い情動はあなたの手に負えなかった。あなたは云った。「帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」[使24:25]。そして、良い「おり」はまだ訪れていないのである。あなたは救われたいと願ってはいるが、地獄に落ちるに違いない。あなたは、時にはいのちを切望することもあったが、かの古き情欲の渇仰、かの酩酊の古き習慣、かの古き悪徳、こうした古き腐敗がやって来て、あなたは犬のように自分の吐いた物に戻って行き、身を洗って、また泥の中に転がる豚のようになった[IIペテ2:22]。私が今朝、語りかけている方々の中のある人々は、この家でみことばが説教されるのを聞いて、震えたことがある。それから彼らは家に帰り、しばらくの間は、厳粛な感銘を受けていた。だが彼らは、あわれみの鈎を自分から遠ざけてしまった。自分自身の救いをないがしろにした。よろしい。あなたがそのようにできるのは、もうほんの数回しかない。あなたが自分自身の魂を軽んじることができるのは、もうほんの数日しかない。その後あなたは、自分の臨終の床の上で知るであろう。私たちがあなたに嘘をついていたのではなく、神の真理を語っていたことを。願わくは神が、早いうちにそれをあなたに確信させてくださるように。審きが始まり、あなたのからだが再び1つに結び合わされ、審きの座の前に立ってから気づくのでは遅すぎる。私の言葉がいかに力弱いものであろうと、その精算の際の悲しい部分となるのは、あなたが自分の後の日について考えて、神に立ち返るよう警告されたことがあるということである。おゝ! もし信仰によっては成しえないというのであれば、死とそのすべての恐怖にかけて、――あなたが赦されないまま滅びる場合の復活とそれが増し加える戦慄にかけて、――審きとその途方もない壮観にかけて、――宣告とその永劫の確実さにかけて、――時間と永遠にかけて、――死と墓場にかけて、――天国と地獄にかけて、――神と《救い主》の御傷にかけて、――目覚めよ! あなたがた、眠っている人たち! 目覚めよ! 死の眠りにつく前に! 救いの道が、いま一度宣告されているのである。「だれでも主イエス・キリストを信じる者は永遠のいのちを持つ」*[ヨハ3:36]。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなた……も救われます」[使16:31]。向こうの木の上で主は、いけにえとしてご自分の血を注ぎ出しておられる。あなたの魂を主にゆだねるがいい。そうすれば主はあなたを救ってくださる。主の御手に魂をまかせるがいい。そうすれば、主はそれを守り、最後には責任をもってそれを、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない」[エペ5:27]ものとして、父なる神の御座の前に差し出してくださる。願わくは主が、ここまで語られたことに、ご自分の祝福を伴わせてくださり、主に栄光が帰されるように。

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薨去の床[了]

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