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第8章 さらなる祝福の実例

 その死の直前まで、C・H・スポルジョンは、ほぼ毎週のように、自分の刊行された説教を読んで祝福を受けた様々な人々の話を知らされるのが常であった。いずれも心励まされることだったが、いくつかの事件には際立った特徴があり、明らかに非常に特別なしかたで神の証印がこの働きに押されたことを示していた。例えば、ある珍しい例が記録されている。スコットランドに住んでいたひとりの婦人が、キリスト教とすっぱり縁を切ろうと決心して、家中の聖書や信仰書を片端から火中に投じたという。一枚の配布物がふわりと火の中から戻ってきたので、この婦人はさっさと火の中に投げ戻した。それはもう一度、火の中から出て来た。再び炎の中に投げ込んだ。ところが、半分ほど焼けたところで、またも暖炉の前にするりと落ちたので、彼女はそれをつまみ上げて叫んだ。「この紙には悪魔が宿ってるに違いないわ。焼けやしないもの」。好奇心にかられて中身に目を走らせると、それはC・H・スポルジョンの説教の1つであり、彼女を回心に至らせるものとなった。

 それよりも尋常ならざる事例は、この説教者がタバナクルで自分の会衆に物語った別の出来事である。「ある日の礼拝が終わった後、ひとりのあわれな女が二人の隣人に付き添われて牧師室にやって来た。見るからに苦しげな様子だった。夫がこの国から逃げ出してしまい、悲しみに暮れたまま神の家にやって来たところ、私の説教の中で語られたあることを聞いて、この先生は私の個人的な事情を知っているのだわと思ったのだという。むろん、私はその婦人のことなど何も知らなかった。ただ彼女の特別な事例に当てはまるような一般的な例証を用いたにすぎない。この婦人から聞かされた物語は非常に悲しい話であった。私は云った。『今は膝まずいて主に叫ぶしかありません。主がご主人を今この瞬間に回心させてくださるようにと』。私たちは膝まずき、私が祈った。妻を捨て去ったこの男の心に主が触れてくださり、その魂を回心させ、家庭に連れ戻してくださるようにとである。それから私たちは立ち上がり、このあわれな婦人に云った。『この件について気を揉んではなりません。ご主人はお宅に帰って来るという気が確かにします。そして、この教会につながるようになるだろうと感じます』。

 「彼女が出て行くと、私はすっかりこのことを忘れてしまった。ところが数箇月後に彼女は、隣人たちとひとりの男性とともに再び現われたのである。紹介によると、これが私の主人ですという。彼は本当に戻って来た。それも回心して戻って来たのである。あれこれ問いただし、覚え書きを確認したところ、私たちが彼の回心のために祈ったまさにその日、彼は沖合遠く離れた船の中で、全く思いがけなくも私の説教集から抜け落ちた一部に出くわしたのだと分かった。彼はそれを読み、真理が心に入って来るのを感じた。悔い改めて主を求めた彼は、できる限り急いで妻と自分の日々の仕事のもとに取って返したのだという。彼はタバナクルの教会員として認められ、その時までに教会に加入していた細君とともに、私たちの交わりの中に受け入れられたのだった

 「その婦人は祈りの力を疑うことがない」、と説教者は云い足した。「世界中の不信心者が寄ってたかっても、この世にはご自分の民の懇願を聞いて、それに答えてくださる神がおられるという彼女の確信を揺るがせることはできないであろう。また、この世で最も不合理な人間にでもならない限り、これほど尋常ならざる経験に満ちた日々を送っている私が、この件についてひとかけらでも疑いをいだくことはできまい。私はこのことを奇蹟的だとみなしてはいない。それは宇宙の確立した秩序の本質的部分である。来たるべき出来事が、その実現を求める祈りという形で、一部の信じる魂の上に、前もってその影を落とすのである。信仰の祈りは、その働きを開始する《天来の》定めにほかならない」。

 上の出来事が物語られたのと同じ説教の中で、C・H・スポルジョンは別の人が回心した場合についても告げた。それは、その講話が語られる数日前の出来事であった。

 「二週間ほど前に、ひとりの青年がチープサイドに立って、私の説教の一編を読んでいた。読むうちに、次のような箇所に差しかかった。

 『もし主イエス・キリストを信じるなら、あなたは今救われる。しかし、私が願うのは、あなたが自分の信仰をその先に差し伸ばし、これからの一生についてもイエス・キリストを信じることである。というのも、そうするなら、あなたは単に今救われるだけでなく、間違いなく永遠に救われるからである』。それから、『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます』という聖句[ヨハ10:28]の後に、このような解説が続いた。――『さて、永遠のいのちは終わることがありえない。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。永遠のいのちが終わることはありえない。それは永遠に続く。永遠のいのちを求めて信じるがいい。そうすれば、それを得るであろう。あなたは永遠に救われることになる』。その青年は云った。『そこに立ちながら、私はただ告げられたままに信じました。キリストを信頼し、その上で、キリストにあって自分が永遠のいのちを持てるのだと信じました。その次の瞬間に私は感じたのです。「おゝ、これは何と栄光に富んだことか! 私のためこれほど大きなことをしてくださったキリストを、どうして愛さずにいられよう! このお方にお仕えするためにできることはないだろうか。いかなる罪であれ、手放さずにはおくものか」。そのとき』、と彼は云い足した。『歩きながらは私は内心こう考えたのです。「何と、私は救われているのだ! なぜなら、今や私はキリストを愛しているからだ。今や罪を手放したいと欲し、今やキリストにお仕えしたいと欲しているからだ」』。そして、これは彼が救われている確かな証拠ではないだろうか」とC・H・スポルジョンは続けて語った。「なぜなら、彼は自分に対する《天来の》愛の大きさを見てとり、そのことによって感謝をいだいたからである。また、その感謝の念によって方向転換し、新しい人となったからである」。

 次に挙げるのは、別の祝福の実例である。これは、キリスト教青年会のとある地方部会の主事から、この説教者に宛てられた手紙の中で物語られている。――

 「親愛なる先生。――先日、私はひとりの青年と出会いましたが、彼の経験は先生にとって興味深いものとなると思います。彼が現在のあり方に導かれるに際しては、先生の働きが大いに関係していたからです。W・T君が回心したのは七年前のことでした。彼は大きな醸造所の所長をしていましたが、心に鬱々としたものをかかえ、毎週、先生の説教を読むようになったのです。ところがそのため、一層惨めになりました。なぜなら、そうした説教によって、自分が完全には自分を主に明け渡していないと分かったからです。そして、この仕事を続けていては決して《救い主》に仕えられないと感じました。いよいよ、どちらかを捨てなくてはならないことがはっきりしたとき、彼は会社の総支配人であった自分の伯父に、辞めなくてはならないこと、また、その理由を告げました。父親と伯父は、そんな馬鹿な真似はやめろ、今の仕事を放り捨てたら、身を立てるどんな望みがあるのかと説得に努めましたが、彼の答えは変わりませんでした。「ぼくには、これを放り捨てるか、キリストを放り捨てるしかないのです。キリストを捨てることはできません。ですから、仕事を捨てなくてはならないのです」。伯父は会社の持ち分を好きなだけくれてやろうと申し出ましたが、それでも彼の答えは変わりません。「いいえ。この仕事とは手を切らなくてはならないのです」。そして、仕事を辞めました。どこへ行くかも、何をするかも分かっていませんでしたが、確信がありました。自分にこれほど明確な態度を打ち出す恵みを与えてくださった主は、自分の主であり《主人》であるお方を喜ばせたいという自分の唯一の望みをかなえることも助けてくださるだろう、と。《市中宣教団》に入る道が開かれ、そこで彼は十八箇月間働き、大きな成功を収めています。先生の説教集からどれほどの恩恵を受けたかお知らせしたかと尋ねたところ、そうしていないと聞きましたので、ならばその旨の手紙を書くべきだと云っておきました。新たな祝福の実例を知らされるたびに、先生が励ましを受けると知っていたからです」。

 ケベックからは一通の手紙が届いた。「かつて私は、先生が遠い昔に語られた、『主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます』という主題聖句の説教(第293号)を読みました。その中で先生は、不信仰がどれほど大きな罪であるかを述べておられました。それ以来、私は先生に手紙を差し上げて、ご労が空しいものではないとお知らせしたいと強く覚えさせられてきました。その説教を始めとする先生の他の説教から、どれほど大きな益が引き出されたか、少なくとも私は証言できます。父は、七年前に私たちがスコットランドを離れるまでは、いつも先生の説教集と『剣とこて』誌を講読しており、そこから大きな益を引き出した後で、丁寧にそれを仕舞っておいたのです。一年かそこら前に、そうした古い説教のいくつかを弟が私宛てに送ってくれたので、それを私は読みました。すると、――神に栄光あれ!――先に述べた説教を読んでいるうちに心の目が開かれ、信じて平安を得たのです」。

 豪州のある婦人は、このような手紙を寄こした。「先生には、ずっとお手紙を差し上げよう差し上げようと思っておりました。十二年前、私は可愛い男の子を亡くしました。何もかも闇のように思われ、何も慰めとなるものはありませんでした。それまで多くの試練の中で支えとなってきた神のことばも、私にとっては暗黒でしかありませんでした。そこへひとりの友人が、先生の説教集の1つを持ってきて、それを読み上げさせてほしいというのです。最初は断りましたが、しまいには折れました。題名は忘れましたが、すべてのことが神によって命じられており、偶然などというものはないという内容の説教でした。私は友人が読み上げている間中、息を呑んで聞き入りました。ただ、『もっと読んで、もっと』、と云うだけでした。聞き終わると、長椅子から躍り上がって云いました。『すべては正しいのね。神よ、感謝します。私の暗い思いはもう一度全き光となりました!』 それから何度も同じような悲しみ、他の試練を味わうことはありました。ですが、私は心から主に向かって云うことができます。「みこころがなりますように。それが最善なのです」。その頃から夫が毎月先生の説教集を注文するようになり、今も購読し続けています。毎週、日曜の夜には、その1つを声に出して読み、できる限り多くの人たちに聞いてもらいます。その後で奥地に送付します。愛する先生。どうかこれからも、お感じになるまま説教し続けてください。これまでしばしば私たちの大きな慰めとなってきたのは、先生が私たちと同じように感じておられると思えることだったからです」。

 米国からは2つの例を示すことができるであろう。テネシー州の、ある教役者がこう書いている。「九年前の私は、ただの荒れくれた青二才でしたが、スポルジョン先生の説教の一編を読んで回心しました。そして、今や大きくて有力な教会の《牧師》となっています。まとこに主の御名はほむべきかな!」 もう1つの例は、カリフォルニア州で、この説教者をさんざんに罵倒していたひとりの人の場合である。この人は、以前は悪口を云っていた相手の説教集を読むことを通して回心した。その手紙にはこう書かれている。「私は、先生に対して当然なすべきこと、また、私たちの主であり《主人》であるお方の定めた模範に従おうと目指している者の義務として、これまでのことについて先生のお赦しを求めます。これまで何年も私は、先生についてひどいことを考えたり口にしたりしてきました。大きな偏見をいだいていた私は、自分の耳で聞き、自分の目で見る機会が日々手の届くところにあったのにそうせず、『すべてのことを見分けなさい』* [Iテサ5:21]という聖書の命令も忘れ、先生を非難する言葉をうのみにし、自分でも人にそう云ってきました。ですが、先生は気高いしかたで仕返しをなさいました。先生の言葉こそ、私に自らの真の姿を示し、神の恵みによって、きよく聖なる生き方を送りたいという願いを呼び覚ます手段となったからです。それだけでなく、先生のお言葉は私に1つの大きな願いを呼び覚ましました。神がお望みであれば、自分も他の人々にその罪深い状態がどれほど危険なものか見てとらせ、救い主に導きたいという願いです」。

 こうした説教集がニュージーランドで行なった働きの尋常ならざる一例は、記録に残すべき価値がある。キリスト者の両親を持つ、すでに成人した三人の息子が――ひとりもまだ回心していなかったが――英国からこの植民地に向けて発った。彼らが出発した後で、父母は息子たちの霊的幸福のために何をしてやれるか相談した。二人が決めたのは、C・H・スポルジョンの説教集をこの若き入植者たちに送ってやり、このもの云わぬ使者たちが、彼らの魂の救いのために神に用いられるよう祈ることだった。実際、神はこの努力を認めてくださったに違いない。この三人の若者はみな、こうした講話を読むことを通して回心したからである。

 この説教者がこのような事例について聞くのは、必ずしも手紙や面談によってばかりではなかった。時として彼は、こうした印刷された説教を読むことに続いて受けた祝福のことが新聞紙上で告知されているのに気づくことがあった。その実例の1つが、米国で刊行されているバプテスト派の一新聞に掲載されている。「親展:スポルジョン兄弟殿」という見出しの下には、次のような段落が書かれていた。「先日の晩の祈祷会の席上で、ひとりの兄弟が、善を施すやり方が様々あることを示そうとして、1つの事件に言及した。しばらく前に、オレゴン州へと向かう太平洋汽船の船上で、ひとりの船客に起こった事件である。日曜のことだった。スポルジョンの説教集の一冊を持っていたひとりの船客が、その一編を読み上げてもらえませんかと片端から人に頼んで歩いていた。どの船客も引き受けようとしなかったためこの人は、先に述べた兄弟のもとにやって来た。兄弟が説教を読む係となるのを承知したところ、相当大勢の人々が周囲に集まり、その講話を読み続けるにつれて次第に人が増えていった。しばらくしてから顔を上げると目に入ったのは、船客ばかりでなく、おそらく当面何もすることがないのだろう乗組員の全員が神妙に耳をすませている姿であった。

 「この非公式な礼拝は、じきに終了した。だが、その説教の効果は消え去らなかった。というのも、何箇月かしてから、この兄弟が桑港にいたところ、ある日、町通りで見知らぬ人から突然挨拶されたからである。相手は――海員だったが――この出会いに大喜びしている様子であった。『お元気ですか? 私のことが分かりませんか? あなたの説教を聞いた者ですよ!』 『すみませんが、私は説教者ではありません。きっと人違いですよ』。『人違いなどしていませんよ! あなたが説教するのを確かに聞きましたとも。オレゴン行きの汽船のことを覚えていませんか?』 『あゝ、そうでした!』、とこの紳士は云った。『思い出しましたよ。私はスポルジョン氏の説教の1つを読んだのでした』。『そうですよ』、と海員は云った。『私は、その説教が忘れられませんで、自分が罪人だと感じるようになったのです。その後、キリストを見いだしたもので、もう一度お目にかかれて嬉しくなったというわけなのです』」。

 この一文を見た、C・H・スポルジョンの友人のひとりが氏に手紙を書き、やはり船中で読まれた説教との関わりで起こった別の事件について告げた。

 「キリスト者の兄弟たちの中でも、これほど熱心で敬虔な人は他にいないという人がドーヴァー号にいました。その小帆船の『平水夫』だったのです。船長は信心深い人で、何箇月も巡航することになる乗組員たちが霊的に害を受けるといけないと、何冊かの聖書を持って行こうと決心しました。船内の者がみな、少なくともみことばの文字には触れられるようにするためにです。しかしながら、何らかの理由のために(たぶん忘れっぽい人だったのでしょう)聖書を持たずに出航してしまいました。ですが、荒天のため帰港を余儀なくされ、再び船出しても同様の結果に終わりました。なすすべもなく停泊しているとき、突如、脳裡に閃くものがありました。主の御手こそ自分の船を引き留めているものかもしれない。そこで、それと信じた上で、自分の船荷に、聖書という形をした、みことばの朽ちない種を乗組員たちのためにいくつか追加しました。そして、それとともに、先生の説教集をも何冊か積み込みました。その一冊をこの船長は、毎主日の午前中に、集まった乗組の人々に向かって読み聞かせたのです。

 「件の兄弟が私に告げたところ、自分が霊的に生まれたのは、この無学な船長によって読まれたこうした説教の1つの実だったということでした。問題のその重大な午前に読まれた説教は、次の箇所を主題聖句としたものでした。『私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました』(第86号)聖霊に導かれたその矢は、この人の心に深々と突き刺さり、ダビデの罪の確信と告白は、この兄弟の場合にも繰り返されました。この人は、自分が行なおうとしていたことに何度も干渉した主の主権の恵みを認め、帆船の甲板上で行なわれた、つつましい礼拝の中で語られた神の真理が救いに至らせる効力を有していたことを感謝して認めました」。

 これまで引用してきた出来事は、この説教集を通して神の聖霊が行なわれたみわざの中でも典型的な事例をほんの僅か述べたにすぎない。だが、こうした例によっても分かるであろう。その祝福が決して特定の階級に限られたものではなかったこと、印刷された講話を読むか聞かされるかすることによって、罪人たちが救われ、信仰後退者たちが立ち戻らされ、聖徒たちが慰めを受けてきたということが。

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