HOME | TOP | 目次

天下の公道を開き、きれいに片付ける

NO. 293

----

----

1860年1月8日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「ふたりは、『主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った」。――使16:31 <英欽定訳>


 あなたも覚えている通り、イスラエル人がカナンに定住したとき神がお定めになったのは、彼らがいくつかの町を取り分け、《逃れの町》と呼び、人を死なせた者たちが逃げ込んでは、身の安全を守れる場所とすることであった。それと知らずに、また、以前から何の悪意をいだいていたわけでもないのに他人を殺してしまった人は、直ちに《逃れの町》に逃げて行ってかまわなかった。そして、血の復讐をする者につかまる前にこの町の門の中に入ることができれば、そのいのちは保証された。ラビたちの伝承によると、一年に一度、あるいは、それよりも多く、その地区のつかさたちは、こうした町に続く公道という公道を見回る習わしであったという。石ころをみな丁寧に拾い集め、路上に何のつまずきの石もないように細心の注意を払った。あわれな逃亡者が転んだり、何らかのしかたで急ぎ走るのを妨げられたりしないようにするためである。さらに聞くところ、――また、その言い伝えは事実に基づいていると私は信じるが、――その路沿いには数々の道しるべが立てられており、特に大きく「逃れの町」と書かれていたという。それは、逃亡者が交差路に差しかかったとき、どちらが逃げ道か一瞬も迷うことなく、「逃れの町」というよく知られた言葉を見るだけで、息せき切って、まっしぐらに走り続けられるようにするためである。そのようにして《逃れの町》の近郊に達すれば、そこで直ちに全く安全になれるのである。

 私の兄弟姉妹たち。いかに神は人の子らのために1つの《逃れの町》を用意しておられることか。そして、その町に至る道は《キリスト・イエスを信じる信仰》である。しかしながら、キリストに仕える教役者たちは、ごく頻繁にこの路を見回り、あわれな罪人の向かう先に、何のつまずきの石もないようにしておくべきである。今朝はこの道を行くことにし、その途上にサタンが置いたかもしれないいかなる障害をも、神の恵みによって取り除くことにしたい。願わくは神の御助けにより、この見回りがあなたがた全員の魂に霊的な益をもたらすように。また、これまで信仰の道を歩む上でつまずきを覚えてきた人があなたがたの中にひとりでもいるとしたら、その人がいま勇気を奮い起こし、大喜びで前へ走り出し、自分のもろもろの罪というすさまじい復讐者から逃れる希望を持つことができるように。

 教役者が、求道中の罪人のために信仰の路を心してきれいに片付けておかなくてはならないのも当然である。というのも、その罪人は重い心をかかえているに違いなく、この路は可能な限り、きれいに片付いた、平坦なものとしておくべきだからである。こうした、あわれな、行き暮れた魂の足のためには、まっすぐな道を作ってやる[ヘブ12:13参照]べきである。私たちは努力して、この通り道を横切るあらゆるぬかるみに約束という土嚢を投げ込まなくてはならない。そのようにして、これを天下の公道としなくてはならない。そうした、きわめて重い心をかかえているはずの倦み疲れた足が、容易に辿れるものとすべきである。それに加えて思い出さなくてはならないのは、罪人が、種々のつまずきの石を自分でしこたま作り出すものだということである。私たちの方で、その道に自然と横たわっている他のつまずきの石を、いかに細心の注意を払って、いかにおさおさ怠りなく取り除こうとも関係ない。というのも、これがそうしたあわれな、意気阻喪した魂の悲しい愚かしさだからである。――それは、自分で自分の路を悪路とするのである。ことによると、あなたも、あの新しく発明された機関で町通りで見たことがあるかもしれない。自分で道を敷いては、後でそれを回収していくという移動機関車である。さて罪人は、それとは全く逆のことをする。自分の前にある路を自分でだいなしにし、自分の背後には自分自身の不幸という泥だの汚れだののありったけを引きずっていく。あわれな魂よ! 自分の前に次々に石を投げつけては、自分が通るべき低地を引き裂き、山々を引っくり返す。ならば教役者たちは、この道をきれいに片付けておくように注意を払っていて当然である。そして、もう1つ重大な理由があると云い足させてほしい。その人の背後には怒りに燃える血の復讐者がやって来るのである。おゝ、いかにその人が飛ぶように走ることか! そこには、神の怒りで完全に身を固めたモーセがいる。後ろからひたひたと迫る《死》がいる。――青白き馬にまたがった乗り手である。そして、《死》の後にやって来るのは、《地獄》と、サタンの全勢力、全軍団であって、みなが血に飢え、殺すのに速い。真っ直ぐな路を作ってやるがいい。おゝ、キリストに仕える教役者たち。山々を平らにし、谷を埋めるがいい。これは必死の逃走であり、この罪人は数多の獰猛な敵どもにつかまらないように逃亡しているからである。1つの《逃れの町》――キリスト・イエスの贖い――へと。

 このように私は、なぜ今朝このような見回りをするよう霊の押し迫りを感じているかという理由を示してきた。おゝ、御霊よ。来てください。《慰め主》よ。そして私たちをいま助けてください。天国への公道から、あらゆる石を投げ捨てることができるように。

 天国への路とは、私の兄弟たち。《キリスト・イエスを信じる信仰》である。良い行ないによっては、人は救われることができない。悪い行ないによって人は、――キリストに信頼を置かない限り、――罪に定められることになるが関係ない。あなたに行なうことのできるいかなることによっても、あなたが救われることはできない。救われた後であれば、神の道に歩み、その戒めを守ることはあなたの喜ばしい特権となるであろう。だが、信仰を持つ前にいくら自分で戒めを守ろうとしても、泥沼に深く沈み込むことにしかならず、決してあなたの救いの一因にはならないであろう。天国に行ける唯一の路は、《キリストを信じる信仰によって》である。あるいは、それをもっと分かりやすくすれば、田舎の人が言うように、天国への階段にはたった二段しかない。――自我からキリストに上る段と、キリストから天国に上る段である。信仰を簡単に説明すれば、キリストに信頼することである。見れば、キリストは私に命じておられる。ご自分を信じよ、あるいは、ご自分を信頼せよ、と。なぜ私などがキリストを信頼することを許されるのか、私自身のうちには何の理由があるとも感じられない。しかし、主はそうするよう私に命じておられる。それゆえ、私がいかなる品性をしているかだの、私のうちにどれほど備えができていると感じるかだのとは全く関わりなしに、私はこの命令に従い、のるかそるかキリストを信頼する。さて、それが信仰である。――自分自身のうちに、どれほど希望をいだくべき証拠があるかには全く目を閉ざし、思い切って《全能の贖い主》の御腕に飛び込むことである。聖書の中で信仰は、時としてキリストにもたれかかることと語られている。キリストにわが身を投げかけること、あるいは、古の清教徒たちが言いならわしていたように、(いささか難しい言葉を使えば)キリストの上に安臥することである。――その十字架の上に全体重をかけること、自分自身の力で立とうとすることをやめ、この千歳の岩に全くより頼むことである。魂をイエスの御手にゆだねることこそ、信仰の真髄である。信仰とはキリストを、空っぽの私たちの中に迎え入れることである。そこにおられるキリストは、買物広場にある噴水に似ている。導管から水が流れ出しているように、恵みは絶えずキリストから流れ出ている。信仰によって私は、自分の空っぽな水差しを持ち出し、水が流れている所に差し出す、その満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受ける[ヨハ1:16]。私の渇きを癒すのは、私の水差しの美しさではない。その清潔さですらない。単に、それを水の流れる所に差し出すことである。それと同じように、私は入れ物でしかなく、私の信仰は、この空の入れ物をこの豊かな流れに差し出す手である。魂を救うのは恵みであって、受け手の資質ではない。そして、その水差しを持つ私の手が震えているにもかかわらず、また、私の求めるものの大半が私の弱さゆえに失われるかもしれなくとも、魂をこの泉に差し出しさえすれば、そして、一滴でもその中に滴り落ちさえすれば、私の魂は救われるのである。信仰とは、理解力をもって、また、意志をもってキリストを受け入れることであり、一切のものをキリストに引き渡すことであり、キリストを自分のすべてのすべてとすることであり、それ以後の自分は全くの無であると承知することである。信仰とは、被造物を見限り、《創造主》のもとに行くことである。自我から目を離し、キリストに頼ることである。この私の内側にある、いかなる美点からも全く目をそらし、あらゆる祝福をその開かれた血管に求め、そのかすかに搏動する心臓に求め、その茨の冠をかぶった頭に求めることである。この方をこそ神は、「私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物」として、公にお示しになったのである[Iヨハ2:2、ロマ3:24参照]。

 よろしい。このように、この道について述べた上で、これからは、本日の本当の務めである、こうした石を取り除くことに取りかかろうと思う。

 1. 救われたいと願っている魂が辿る路に実によく見受けられる障害物は、それまで送ってきた人生の記憶である。「おゝ」、と罪人は言う。「キリストを信頼することなどできません。私の過去のもろもろの罪は、並外れてどす黒い染みなのです。私は普通の罪人ではありません。数多の人々の中でもえり抜きの罪人、罪の怪物そのものだったのです。私は、悪魔の大学の最高学位を取得し、ベリアルの修士となった者です。嘲る者の座[詩1:1]に着くことを学んでは、他の人々を教えて、神に逆らわせてきた者なのです」。あゝ! 魂よ。私はこの障害物を知り抜いている。というのも、それがかつては私の道に横たわっており、いたく私を悩ませたからである。自分の魂の救いについて考えていなかった頃の私は、自分の罪はごく僅かしかないと夢見ていた。私の想像では、私のもろもろの罪はことごとく死んでおり、忘却という墓場に埋葬されていた。しかし、罪の確信という喇叭が私の魂を呼び覚まし、永遠の事がらについて考えさせたとき、それは私のあらゆる罪に伝わり、おゝ、それらをよみがえらせた。その数知れぬおびたたしさは、海辺の砂にもまさっていた! 今や私は見てとったのである。私の様々な思念そのものが、私を罪に定めるに十分であることを。私の様々な言葉が、私を地獄のどん底へ沈めるだろうことを。そして、私が現実に犯す罪について言えば、それらは今や鼻につくような悪臭を放ち始め、我慢ならなかった。今でも思い出すが、私は人間よりは蛙か蟾蜍に造られた方が良かったと思った。いかに汚らわしい生き物であれ、いかに厭わしく卑しいものであれ、私自身よりはましに思えた。というのも、私は《全能の神》に逆らって、はなはだしく、言語道断の罪を犯してきたからである。あゝ、私の兄弟たち。今朝は、あなたがかつて口にした、神を涜す呪詛の数々が、あなたの記憶の壁の中からこだましているかもしれない。あなたは、自分がいかに神を呪ってきたかを思い出して、言うであろう。「この私が、かつて呪ったお方を信頼することなどできるだろうか?」 また、かつてあなたをとらえた情欲の数々が今あなたの前に立ち上がりつつあるかもしれない。真夜中に犯した数々の罪が、真っ向からあなたを見据え、放歌高吟したみだらな歌という歌の切れ端が、罪を確信させられた、あなたのあわれな良心の耳に喚き立てられつつある。そして、あなたの犯した一切の罪が立ち上がっては叫ぶのである。「離れよ! 呪われた者よ。離れよ![マタ25:41参照] お前は、罪を犯して恵みから飛び出してしまったのだ! 罪に定められているのだ! 離れよ! お前には何の望みもないのだ、何のあわれみもないのだ!」

 さて、神の御力と御名により、このつまずきの石をあなたの道から取り除かさせてほしい。罪人よ。私はあなたに告げるが、あなたの一切の罪は、いかに多くあろうとも、もしあなたが主イエス・キリストを信じるなら、決してあなたを滅ぼすことはできない。もし今あなたがイエスの功績に単純に身を投げかけることができるとしたら、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、……羊の毛のようになる」[イザ1:18]。ただ信じるがいい。思い切って信じるがいい。キリストは、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになるのだ、と[ヘブ9:19]。主のことばを額面通りに受け取り、主を信頼するがいい。また、そうするための根拠もある。というのも、こう書かれていることを思い出すがいい。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7]。それゆえ、あなたは信じるよう命じられているのである。いかにどす黒い罪人であろうと、この命令があなたの根拠である。――おゝ、願わくは神があなたを助けて、この命令に従わせてくださるように。今、ありのままのあなたで、キリストに身を投げかけるがいい。問題なのは、その罪人の犯してきた罪の大きさではない。その罪人の心のかたくなさである。たとい今のあなたが、どれほどすさまじい咎を意識していようと、ひとたびキリストの血があなたに降り注がれるのを神がご覧になれば、あなたの咎は神の御前では無となる。それだけではない。たといあなたのもろもろの罪が、今より一万倍も多くとも、キリストの血はそのすべてを贖うことができる。ただ、思い切って信じるがいい。今、後先考えない信仰によって、自分をキリストにまかせるがいい。この天来の医者が治療しようと試みた、あらゆる哀れな人々の中でも最悪の重症患者があなただったとしても、それだけこのお方に帰される栄光は大きなものとなる。小指の痛みだの、ちょっとした病だのを治療したとしても、それが医者にとって何の誉れになるだろう。しかし、全身が病にとりつかれ、腐った山のようになってしまった人間を癒せるとしたら、その医者の栄誉は大したものである。そして、あなたをキリストがお救いになるときも、それと同じであろう。しかし、この石を道の上からきれいさっぱり排除してしまおう。覚えておくがいい。罪人よ。キリストを信じないでいる間中、あなたは自分の罪に、この不信仰という大きな罪を加えつつあるのである。信じないことこそ、この世で最も大きな罪である。しかし、もしあなたがこの件において神に従い、キリストに信頼を置くとしたら、神ご自身のみことばが請け合っているのである。あなたの信仰は報われ、あなたの多くの罪はみな赦される、と。タルソのサウロや、七つの悪霊を追い出していただいた女の傍らに、いつの日かあなたも立つことになる。あの盗人とともに、天来の愛について歌うことになる。そして、マナセとともに、いかに汚れた罪悪をも洗いきよめることのできるこのお方を喜ぶことになる。おゝ、今日、この大群衆の中に、内心こう言っている人がいればどんなに良いことか。「先生。先生がこれまで述べておられたのは私のことです。私は本当に自分が、いかなる所にいる罪人にもましてどす黒い罪人だと感じています。ですが、一か八かやってみましょう。キリストに信頼を置き、キリストにだけ信頼しましょう」。あゝ、魂よ。神があなたを祝福し給わんことを。あなたは受け入れられた者である。もしあなたがそうできるとしたら、今朝、私は身を張って神の保証をしよう。神は、あなたに対しても、御子に対しても真実を尽くされるであろう、と。というのも、思い切ってキリストの尊い血を信頼した罪人のうち、滅びた者はひとりとしていないからである。

 2. さて、別のつまずきの石を持ち上げ、排除するよう努めさせてほしい。覚醒した罪人たちの多くが悩みに陥るのは、自分の心がかたくなであり、自分が真の悔悟と思うものに欠けているからである。「おゝ」、とその人は言う。「どれほどおびただしく罪を犯してきた者も救われることができることは、私も信じられます。ですが私は、自分のもろもろの罪の邪悪さをしかるべきほどに感じていないのです」。――

   「いかにわが心(たま) いと頑(かた)く、
    重きさまにて ありたるか!
    重く冷たく 胸にあり、
    凍れる岩も かくやあらん」。

「私には感じられないのです」、とある人は言う。「泣けないのです。他の人々の悔い改めについていくら聞いても、自分が石のようにしか思えないのです。私の心は石質化しています。律法の雷鳴をどれだけ聞いてもおののきません。キリストの愛によって、いかにねんごろに語りかけられても溶かされません」。あゝ、あわれな心よ。これは、本当にキリストを求めている人々の途上でよく見受けられるつまずきの石である。しかし、1つ尋ねさせてほしい。心がかたくな者たちは信じなくて良いなどと、神のことばのどこに書いてあるだろうか。そうした箇所が見つかるとしたら、あなたのことは気の毒に思うが、「私は心がかたくななのでキリストを信頼できません」とあなたが言ってもしかたないであろう。だが、聖書にこう書いてあることをあなたは知らないのだろうか。「御子を信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」*[ヨハ3:16]。さて、もしあなたが信じるなら、いかにあなたの心がかたくなであろうと、信じることによってあなたは救われるし、それどころか、信じることによって、あなたの心は柔らかくなるのである。たとい今、自分の願うほど《救い主》の必要を感じられないとしても、覚えておくがいい。《救い主》を手に入れたときには、このお方を自分がどれほど大きく必要としているか日に日に感じ始めるだろうということを。何と、私の信じるところ、多くの人々が自分の必要を見いだすのは、満たしを受けることによってなのである。あなたは町通りを歩いていて、店屋の飾り窓の中に何らかの品物を見て、「何と、これこそまさに私の欲するものだ」と言ったことが一度もないだろうか。それがどうして分かったのか。何と、それを見たから、それを欲したのである。そして私の信じるところ、多くの罪人たちは、キリスト・イエスについて聞いている間に、「それこそまさに私の欲するものだ」と言うよう導かれるのである。その前に、それを知っていただろうか。否。あわれな魂よ。キリストを見てとって初めて知ったのである。私は、いま自分がキリストを必要としていることを、キリストを見いだす前より十倍も切実に感じている。その当時も、非常に多くのことのためにキリストを欲していると思っていたが、今の私は、あらゆることのためにキリストが必要であると分かっている。当時は、キリストを抜きにしては行なえないことがいくつかあると思っていたが、今の私はキリストを抜きにしては何事も行なえないことが分かっている。しかし、あなたは言うであろう。「先生。私は悔い改めなくてはキリストのもとに行けません」。できるものなら、そういう箇所をみことばの中に見つけてみるがいい。みことばは、こう言っていないだろうか。「神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました」[使5:31]。私たちの賛美歌の1つは、この節を韻文にして、こう言い表わしてはいないだろうか。

   「まことの信仰 真の悔悟
    われらを近づく あらゆる恵み――
    金銭(あたい)なくして
    イェス・キリストに来て 購(え)よ」。

おゝ、こうした恵みは天性に紡ぎ出せるものではないのである。被造物の織機で作ることはできないのである。自分がいかにキリストを必要としているか知りたければ、いま信仰によってキリストをとらえるがいい。そうすれば、感覚も感情も後からついて来るはずである。いまキリストをあらゆることのために信頼するがいい。思い切ってキリストを信頼するがいい。あなたの心がいかにかたくなであっても、言うがいい。「ありのままの我にて、誇れるもの何もなきまま、ただ汝の、われに来よと命じ給うがゆえ、われは行かん!」 あなたの心は、キリストを見ることによって柔らかくなり、天来の愛は、実に甘やかに好ましく思えるようになり、いかなる恐怖によっても動かせなかった心が愛によってわななかされるはずである。

 どうか分かってほしい。話をお聞きの愛する方々。私が今朝、涙しながら、最大限に明白なしかたで説教しているのは、人が信仰のみによって義と認められるという教理である。人が信じるよう命令されているということ、また、自分のうちにあるいかなるものとも全く無関係に、人には信じる権利があるのだということである。その人の感じるいかなる心の備えからでも、自分自身の中に見分けられるいかなる善からでもなく、単に信じるよう命令されているというだけの理由によって、その人には信じる権利がある。そして、命令されているという事実に立って聖霊なる神は、その人が信じられるようにしてくださる。信仰によって確実に魂が救われ、必ず来る御怒りから解放されるようにしてくださる。ならば、心のかたくなさに関する、そのつまずきの石を取り上げさせてほしい。おゝ、魂よ。キリストを信頼するがいい。そうすれば、あなたの心は柔らかくなるはずである。そして、願わくは、聖霊なる神があなたを、かたくなな心も何もかも主にまかせられるようにしてくださるように。また、あなたのかたくなな心がすぐに肉の心に変えられ、あなたが、自分を愛してくださったお方を愛する者となるように。

 3. さて、三番目のつまずきの石に移りたい。「おゝ」、と一部のあわれな魂は言うであろう。「私は自分が信じているのかいないのか分からないのです、先生。時には本当に信じることもあります。ですが、おゝ、それはごく小さな信仰で、キリストが私を救えるとは思えません」。あゝ、やはり毎度おなじみの、自分自身を頼りにすることである。この石によって多くの人が足を取られ、倒れてきた。願わくはこの石をあなたの道から取り払えるように。あわれな罪人よ。覚えておくがいい。あなたを救うのは、あなたの信仰の力ではなく、あなたの信仰が現実のものかどうかである。それだけではない。あなたを救うのは、あなたの信仰が現実のものかどうかでさえない。あなたの信仰が何を目当てとしているかである。もしあなたの信仰がキリストに据えられているなら、その信仰は、それ自体としては蜘蛛の巣ほどの細糸でしかなくとも、時と永遠を通じてあなたの魂を保つであろう。というのも、覚えておくがいい。信仰というこの錨鎖の太さではなく、錨の力こそ、この錨鎖に力を分け与え、そのようにして、あなたの船をいかに恐るべき嵐のただ中でも保っておくのである。人を救う信仰は、時としてあまりにも小さく、その人本人も見てとることができない。からし種は、種の中でも一番小さいものだが[マコ4:31]、そのからし種ほどの信仰がありさえすれば、あなたは救われた人なのである。あのあわれな女が何をしたか思い出すがいい。やって来て、キリストのおからだを手でつかんだのではない。腕を伸ばしてキリストの膝のあたりに触ったのでもない。ただその指を伸ばし、それから、――キリストの足に触れもせず、その御衣にすら触れずに、――キリストの衣のほつれ、へりに触れただけで、健やかにされたのである。もしあなたの信仰がそれほどの小ささでしかないとしたら、もっと多くを得ようとするがいい。だが、それでも、それであなたが救われることは覚えておくがいい。イエス・キリストご自身が《小さな信仰》をくすぶる燈心にたとえておられる[マタ12:20]。それは燃えているだろうか。そこに少しでも火があるだろうか! 否。ただ、少々の煙があるだけで、それは不快きわまりないものである。「しかり」とイエスは言われる。「だが、わたしはそれを消しはしない」。また、主はそれを傷んだ葦にたとえておられる。それが何の役に立つだろうか。それは損なわれており、それで笛を吹くことはできない。そんなものはぽきんと折って、投げ捨ててしまえ? 「否」と主は言われる。「わたしは傷んだ葦を折りはしない」。さて、たといあなたにあるのがそうした信仰だとしても、――くすぶる燈心の信仰、傷んだ葦の信仰だとしても、――あなたは救われている。それほど小さな信仰しかないあなたは、天国に行く中で多くの試練、多くの苦難を経るであろう。というのも、舟にほとんど風が吹きつけないときには、大いに櫂を漕がなくてはなくてはならないからである。それでも、そこにはあなたを栄光に上陸させるに足るだけの風はあるであろう。単純にキリストを信頼しさえすれば、その信頼がいかにか細いものであろうと、そうである。思い出すがいい。小さな子どもも、世界最大の巨人と同じくらい人類に属していることを。そのように、恵みにおける幼子も、路上のあらゆる巨人と戦うことのできる大勇氏と同じくらい真に神の子どもなのである。そして、あなたも、いかに未熟で、いかに恵みにおいて幼くはあっても、やがて大きくなり、完全に成長したキリスト者となり、キリスト・イエスにある成人[コロ1:28]となった場合と同じくらい天国の相続人なのである。私はあなたに告げるが、肝心なのは、あなたの信仰がどのくらい力強いかではなく、あなたの信仰が何を信じているかである。ヒソプではなく、血が、――かもいにつけた手ではなく、血が[出12:22]、――神の復讐が通り過ぎるとき、イスラエル人を安らかに保つのである。そのつまずきの石を道から取り除こうではないか。

 4. 「ですが」、と別の人が言うであろう。「確かに時には私にも小さな信仰があると思うことがありますが、私にはあまりにも多くの疑いや恐れがあるのです。私はこう思うような気分にかられるのです。イエス・キリストが死なれたのは私のためではなかったのだとか、私の信心は純粋なものではないのだとか、私は決して聖霊の御力によって新生してはいないのだ、と。教えてください、先生。これほどの疑いや恐れをいだいている私が、キリストを信じる真の信仰者だなどということがありえるでしょうか?」 私はただこう答えたい。聖書は決してこのように言ってはいない。「信じても、その信仰に疑いが混じっている者は罪に定められます」。たといいかに小さな信仰であろうと、いかにおびただしい数の疑いや恐れが入り混じっていようと、「信じる者は、救われます」[マコ16:16参照]。私たちの《救い主》が弟子たちとともに舟に乗っておられた際の、記憶すべき物語を思い出してほしい。風は轟々と吹き、舟は右へ左へ揺さぶられ、帆柱はたわんで折れんばかりとなり、帆はぼろぼろに裂け、あわれな弟子たちは恐れに満たされた。――「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです」[マタ8:25]。そこには疑いがあった。イエスは何と言ってお叱りになっただろうか。「なぜこわがるのか」、――信仰のない者たちよ? 否。「信仰の薄い者たちだ」[マタ8:26]。だから、大きな疑いがあるところにも少しは信仰がありえるのである。夕まぐれにも、あたりに光はある。暗闇が相当濃くなっていても、まだ光がある。そして、たといあなたの信仰が決して真昼にならないとしても、たそがれほどになりさえすれば、あなたは救われた人なのである。いや、それ以上である。たといあなたの信仰がたそがれにならないとしても、星明かりほどになりさえするなら、いや、蝋燭の光、いや、火花1つほどになりさえすれば、――蛍の光ほどになりさえするなら、――あなたは救われている。そして、あなたにいかなる疑いがあろうと、いかなる恐れがあろうと、いかなる苦悩があろうと、また、それらがいかにすさまじいものであろうと、決してあなたが、ちりの中に踏みにじられることはない。あなたの魂は決して滅びない。あなたは知らないのだろうか。神の子どもたちの中の最上の者たちも、最後に至るまで疑いや恐れに悩まされていたことを。ジョン・ノックスのような人物を眺めてみるがいい。ここにいるのは、世界中の顰蹙を買おうと物ともせず、一個の王のように王たちに語りかけ、いかなる者も恐れずにいられた人物である。だが、その臨終の床の上でこの人は、自分がキリストの恵みにあずかっているかどうかについて苦悩した。自分を義とする思いに誘惑されたからである。もしこのような人物が疑いをいだくとしたら、あなたが疑いもなしに生きることなど期待できるだろうか。もし神の最も輝かしい聖徒たちが悩まされるとしたら、――もしパウロその人が失格者とならないように自分のからだを打ち叩いていたとしたら[Iコリ9:27]、――なぜにあなたが何の暗雲もなしに生きることを期待できるだろうか。おゝ、私の愛する方。自分に疑いが立ちこめているからといって、この約束が真実でないと証明されたなどという考えは捨てるがいい。重ねて信じるがいい。あなたのあらゆる疑いを捨て去るがいい。のるかそるか、自分をイエスに投げかけるがいい。そうすれば、あなたが失われることはありえない。というのも、イエスの栄誉は、ご自身に信頼するあらゆる魂を救うことにかかっているからである。

 5. 「あゝ」、と別の人は言うであろう。「ですが、先生はまだ私の恐れに行き当たってはいません」。私は、《救い主》を最初に知ったとき、ある特定のしかたで自分を試すことを常としており、そうすることによってしばしば自分の通り道につまずきの石を投げ込み続けていたものである。それゆえ、私は、あなたがたの中でも、それと同じことを今している方々に対して非常な愛情をもって語ることができる。時として私は二階の寝室に上っては、自己吟味のために、こう自問するものだった。――私は死を恐れているだろうか。もし自分の寝室でばったり倒れて死ぬとしたら、私は喜びをもって目を閉じると言えるだろうか。よろしい。多くの場合、私は正直にそう言うことができなかった。死を非常に陰気なものと感じることが常であった。あゝ、そのとき私は言った。「私はキリストを信じたことなどなかったのだ。もしも自分の信頼を主イエスに置いているとしたら、死ぬのも恐ろしくなく、むしろ、全く動揺しないはずだ」、と。疑いもなく、この場にはこのように言っている多くの人がいるに違いない。「先生。私はキリストに従うことができません。なぜなら死ぬのが怖いからです。私はイエス・キリストが私を救ってくださると信じることができません。なぜなら、死を目にすることによっておののかされるからです」。あゝ、あわれな魂よ。神に祝福された者たちの中には、死の恐れゆえに、一生の大部分を奴隷となって過ごす人々が大勢いる。私はいま神の大切な子どもたちを知っている。その人々が死ぬときには、勝利に満ちて死ぬだろうと信じている。だが、やはり私に分かっているのは、死という思いが決してその人々にとって心楽しいものではないということである。そして、それは十分説明のつくことである。なぜなら、神は天性の上にその法則を――いのちを愛し、自己を保存しようとする思いを――刻印しておられるからである。また、親族や友人たちがいる人にとって、愛しい人々を後に残して行くことがまず好ましく思えないとしても、ごく当然であろう。より多くの恵みを得れば、死を思っても喜ぶであろうことは分かる。だが、私が確かに知るところ、いざ死ぬ段になれば、全く危なげなく、勝利に満ちたしかたで死ぬことができるだろう多くの人々も、いま死ぬことを思えば、それを恐ろしく感じるのである。私の老いた祖父が、あるとき1つの説教をしたことを覚えているが、それを忘れることができない。その日の主題聖句は、「あらゆる恵みに満ちた神」[Iペテ5:10]であった。そして祖父は、集まった人々をいささか面白がらせたことに、神がお与えになった異なる種類の恵みについて説明した後で、1つ1つの区切りごとにこう言ったのである。「しかし、あなたがたには必要ない種類の恵みが1つある」。ひとくさり語るごとに、「しかし、ある1つの種類の恵みはあなたがたには必要ない」といった一言が語られた。そして、しめくくりに祖父は言った。「あなたがたは、生きている瞬間瞬間には、死ぬための恵みは必要ない。だが、必要になったときには、死ぬための恵みが手に入るはずである」と。さて、あなたは、自分が置かれていない状況によって自分を試している。その状況に置かれたとしたら、十分な恵みを得るはずである。キリストを信頼しているとしたらそうである。親しい人々が集まっている中で私は、この問題を討議することがあった。殉教すべき日が来るようなことがあったら、私たちは火で焼かれる覚悟ができているかどうかということである。よろしい。いま私は、きょう感じているままを語るとしたら、自分には火で焼かれる覚悟がないと率直に言わなくてはならない。しかし、私は固く信じている。もしも今スミスフィールドに火刑柱が立っており、午後一時に自分が焼かれることになると知っているとしたら、私は午後一時には、火で焼かれるために十分な恵みを得るであろう。だが、今は十二時十五分にも達しておらず、その時はまだ来ていない。必要になるまで、死ぬための恵みが与えられると期待してはならない。その時が来たなら、それに耐えるに足るだけの恵みを得ることになると確信してよい。ならば、このつまずきの石を打ち捨てるがいい。キリストにあって安らい、死を迎えるときも、生けるキリストがあなたを助けてくださると信頼するがいい。

 6. 求道中の多くの魂にとって最も嘆かわしく困惑させられる、もう1つのことは、このことである。「おゝ、私はキリストを信頼したいのですが、何の喜びも感じていないのです。聞くと、神の子どもたちは自分の受けている数々の特権について甘やかに歌っています。自分たちはピスガの頂に立ち、約束の地を遠望したことがあるというのです。また、来たるべき世を望み見て心喜ばされたことがあるというのです。ですが、おゝ、私は信仰によって何の喜びも得ていません。自分は信じていると希望してはいますが、それと同時に、そうした心躍るような喜びを全く感じないのです。この世的な数々の悩みが重苦しく私にのしかかり、時には霊的な悲しみさえ耐えきれないほどになります」。あゝ、あわれな魂よ。その石をあなたの路から投げ捨てさせてほしい。思い出すがいい。「喜ぶ者は、救われます」とは書かれておらず、「信じる者は、救われます」と書かれているのである。あなたは信仰によって、次第次第に喜びを得るであろう。だが、たとい信仰によって喜びを得られないときも、信仰によって十分救われることはできる。何と! 神の民の多くを眺めてみるがいい。そうした人々が、これまでいかに悲しく、悲哀に満ちていたことか。それが、しかるべきあり方でなかったことは私も知っている。これは、そうした人々の罪である。だが、それでも、それで信仰の効力が損なわれることはない。聖徒がいかに悲しみを感じていようと、それにもかかわらず、信仰はなおも生きており、神はなおもご自分の約束に対して真実であられる。覚えておくがいい。あなたを救うのは、あなたが何を感じるかではなく、何を信じるかだということを。感じることではなく、信じることだということを。「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」[IIコリ5:7]。自分の魂が氷山のように冷たく、岩のように固く、サタンのように罪深く感じられるとき、そうした時でさえ、信仰は人を義と認めることをやめはしない。信仰は、悲しい感情をいだくときも、幸せな感情をいだくときと全く同じくらい真の勝利を収める。というのも、そのときには、何の支えもなしに立つことによって、自らの大きな力を著しく際立たせるからである。信じるがいい。おゝ、神の子よ。御子を信じるがいい。そして、自分のうちには何も捜さないようにするがいい。

 7. さらにまた、多くの人々が苦悩するのは、冒涜的な思いをいだくからである。ここでもやはり、私は心から多くの人々に共感できる。ある田舎町にある、狭く曲がりくねった小道のことを覚えているが、ある日、まだ《救い主》を求めている頃の私が、そこを歩いていた。突如として、あなたがたの中の誰にも思いつけないほど恐るべき、神を涜す呪詛の数々が、私の心に押し寄せてきたのである。私は口に手を当てて、そうした言葉が発されないようにした。これは確実なことだが、私はそうした言葉をそれまで耳にしたことがなかった。そして、確かに私は、幼少の頃からその時に至るまでの人生の中で、そのうちの1つとして用いたことは決してなかった。神を涜すようなことは一言も口にしたことがなかったからである。しかし、こうした事がらは私を激しく悩ませた。三十分ほどの間、途方もなく恐るべき呪いの言葉が私の脳裡を駆け巡り続けた。おゝ、いかに私が神の前で呻き、叫んだことか。その誘惑は過ぎ去った。だが、何日もしないうちに、再び始まったのである。そして、私が祈っているか、聖書を読んでいるかするときには、こうした冒涜的な思いが、他の時にまして私に浴びせかけられるのだった。このことを、ある年老いた敬虔な人に相談したところ、その人は私に、「おゝ、こうしたことはみな、神の民の多くが君以前にも経験してきたのだよ。しかし」、とこの人は言った。「君は、そうした思いを憎んでおるかな?」 「はい」と私は心から言った。「なら、そうした思いは君のものではないのだ。そうした思いは、昔の教区が浮浪者をあしらったようにあしらうがいい。――鞭で打ち叩いて、そいつらの出てきた教区に追い返すのだ。そのように、そうした思いを扱うのだ。そうした思いについて呻き、悔い改めたら、そうした思いを悪魔のもとに追い返すがいい。そうした思いは悪魔から生まれた、悪魔のものなのだ。――君のものではないのだからな」。ジョン・バニヤンがいかに巧みにこの件を描き出したか思い起こすではないだろうか。バニヤンによると、基督者が死の影の谷を通り抜けつつある間、「一人が歩みより、彼の耳に神を涜す思いを囁いたため、あわれな基督者は、それが自分から出た思いだと考えた。だが、それは彼の思いでは全くなく、冒涜の霊が注入したものだったのである」。そのように、あなたがキリストを今まさにつかもうとしているとき、サタンはその奸計の限りを尽くして、あなたを滅ぼそうとするものである。悪魔は自分の奴隷をひとりたりとも失うことに我慢がならない。信仰者ひとりひとりについて目新しく誘惑を発明しては、キリストに信頼を置かせまいとするものである。さて、あわれな魂よ。こうした、あなたの魂に生じる一切の冒涜的な思いにもかかわらず、来るがいい。思い切ってキリストに信頼を置くがいい。たとい、そうした思いが今まで耳にしたことがないほど冒涜的なものだったとしても、キリストに信頼を置き、やって来ては、自分をキリストに投げかけるがいい。聞くところ、象が橋を渡ろうとするときには、一本の足をかけてみて、その材木が自分の体重に耐えられるかどう探ってみるという。来るがいい。あなたがた、自分を象のように巨大な罪人だと思っている人たち。ここにある橋は、あなたをも、また、あなたのこうした思いの一切すらをも、支えるに足るだけ強い。――「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」[マタ12:31]。こうしたしろものはサタンの顔に叩きつけてやり、自らをキリストにまかせるがいい。

 8. もう1つのつまずきの石について語って、話を終えることにしよう。ある人々はこう言う。「おゝ、先生。私はキリストが私を救ってくださるものと信頼したいと思うのです、もし私の信仰から生じる実を見られさえしたなら」と。私自身の感じたことをいちいち例証として挙げることを許してほしい。だが、試みを受けている罪人たちを相手に説教しているときには、自分自身の経験を証しすることが、普通は他の何にもまして力強い例証になると感じるのである。嘘ではない。私がこれまで自分の味わった感情について縷々説明するのは、決して自己中心の現われではなく、ひとえにあなたの心にじかに訴えたいと願っているからである。キリストのもとに行った後で最初に迎えた日曜日、私はとあるメソジスト派の会堂に出かけた。その説教は次の聖句に関するものであった。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:24]。私は、前の週にようやくそこに達したばかりであった。自分がキリストに信頼を置いたことは分かっていたし、その祈りの家に座っている間も、自分の信仰がただ単純にこの《贖い主》の贖罪にだけ据えられていることは分かっていた。しかし、私の心には重くのしかかるものがあった。自分の望むほど聖くなれなかったからである。どうしても罪を犯さずにはいられないのである。朝、起きたときには、人に厳しい言葉は決して口にしないようにしよう、悪しき思いをいだいたり、悪しきものを見たりしないようにしようと思ったのに、その会堂に行ったときには呻いていた。「善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っている」[ロマ7:21]からであった。だが、この教役者によると、先に引用した節を書いたとき、パウロはキリスト者ではなかったのだという。これは彼が主を知る前に経験したことだというのである。あゝ、何たる誤りであろう。というのも、私はパウロがキリスト者であったことを知っているからである。また、キリスト者が自分自身を見つめれば見つめるほど、呻かざるをえないことを知っているからである。それは、自分の望むようなあり方ができないからにほかならない。何と、自分が完璧になるまでキリストを信じないと? ならば、決してあなたはキリストを信じることがないであろう。尊いイエスにおまかせすべき罪がなくなるまで、イエスを信頼しないと! ならば、あなたがイエスを信頼する日は決して来ないであろう。というのも、確実にあなたは、天国で神の御顔を見るその時まで、決して完璧になりはしないからである。私の知っているひとりの人は自分のことを完璧な人間だと思っていたが、その人はせむしであった。その人の高慢を私はこう叱責した。「確かに、もし主があなたに完璧な魂を与えるとしたら、それを中に入れる完璧なからだをお与えになるでしょうな」。完璧は、墓のこちら側では見つからないであろう。あなたの務めは、キリストに信頼することである。キリストの血のほか何も頼りにしてはならない。キリストに信頼するがいい。そうすれば、あなたのいのちは保証される。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。腐敗と戦うのは私たちの義務である。それを征服するのは私たちの特権である。罪と戦っていると感じるのは私たちの栄誉であり、いつの日か罪を足で踏みにじることになるのは私たちの栄光であろう。しかし、今日は完全な勝利を期待してはならない。罪を意識すること自体、あなたにいのちがある証拠である。自分の望む通りのあり方をしていないという事実そのものが、あなたの中に、天性によってもたらされるはずのなかった高貴で気高い思いが宿っている証拠である。あなたは、ほんの一箇月半前には全く自分に満足していたではないだろうか。そして、いま不満足に感じているという事実は、神が新しいいのちをあなたに入れてくださった証拠である。そのいちのがあればこそ、より高貴で、より善良な大気を呼吸したいと願っているのである。自分の望むような者に地上でなれるときには、絶望するがいい。律法によって義と認められようとするとしたら、あなたは恵みから落ちてしまったのである。パウロはこう言っているからである。「律法によって義と認められようとしているとき、私たちは恵みから落ちてしまったのです」[ガラ5:4参照]。しかし、私は、律法が自分を罪に定めるのを感じてはいるものの、喜びとともに知っていることがある。キリストを信じているならば、「今は、キリスト・イエスにある者、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1 <英欽定訳>]。

 さて今、ここまで私はこの道をきれいに片づけようとしてきたが、自分でも1つか2つはこの路に石を置いてきた公算が非常に高いことを意識している。願わくは神が私をお赦しになるように。――それは、不注意の罪である。私はこの路を、ある町から別の町へと続く道路として可能な限り真っ直ぐで、邪魔物のないものにしようとしてきた。罪人よ。あなたからキリストを信じる権利を奪い取れるものは何1つない。あなたは、この婚礼の宴席へと価なしで招かれている。その食卓は広げられ、その招待は価なしに与えられている。その扉の所には、あなたを追い払うような門番はひとりもいない。あなたに入場券を見せろと言うような者は誰もいない。

   「良心により 逡巡(まよう)なかれ、
    ふさわしくなりて、と夢見るなかれ。
    主、汝れに要求(もと)む 資格(もの)みなは
    汝が主の必要(もとめ) 感ずことのみ。
    こは 主の汝れに 賜うものなり、
    こは主の御霊の 立ちし光なり」。

ありのままのあなたで、主のもとに来るがいい。しかし、あゝ、私は知っている。私たちが自分の書斎に座っているときには、福音を説教し、人々にキリストを信じさせることなどたやすいと思われるが、いざ実行する段になると、この世でこれほど困難なことはないのである。もしも、何か難しいことをあなたに告げたとしたら、あなたはそれを行なおうとするであろう。だが、単にそれが、「信じよ。身を洗って、きよくなれ!」であるとき、あなたはそうしないであろう[II列5:13参照]。もし私が、「私に一万ポンドを与えよ」と言ったなら、あなたはそれを与えようとするであろう。四つん這いになって一千哩行くことも、これまでに調合されたことのある最も苦い杯を飲み干すことも行なおうとするであろう。だが、このようにキリストに信頼することは、あなたの高慢な霊にとって難しすぎるのである。あゝ、罪人よ。あなたは高慢すぎて救われないのだろうか。来るがいい。人よ。私はキリストの愛ゆえに、あなた自身の魂への愛ゆえに、あなたに懇願する。私とともに来てほしい。そして、ともに十字架の根元に行こうではないか。そこに吊り下がって呻いておられるお方を信じるがいい。このお方に信頼を置くがいい。死者の中からよみがえり、多くの《捕虜》をお引き連れになった[エペ4:8]このお方に。そして、もしこの方を信頼するなら、あわれな罪人よ。失望することはないであろう。信頼の置きどころを誤ったことにはならないであろう。もう一度言うが、もしあなたがキリストに信頼しながら失われるとしたら、私が失われることになっても文句はない。私はあなたとともに、よみに床を設けよう。もしあなたが自分の単純な信頼をキリストに置きながら、神に拒絶されるとしたら、そうしよう。私はあえてそう言う。大胆に正面から見据えてそう言う。というのも、そのときあなたは、イエスに信頼しながら失われることになる最初の罪人となるだろうからである。「しかし、おゝ」、とある人は言うであろう。「私には考えられません。自分のように見下げ果てた者に信じる権利があるなどとは」。魂よ。私はあなたに告げる。問題は、あなたが見下げ果てた者かどうかではない。この命令が、あなたの根拠である。あなたは信じるように命令されている。そして、ある命令が力をもって心にやって来るとき、その力はその命令とともにやって来る。そして、命令された者は、心に意欲を起こされて、自らをキリストに投げかけ、信じて、救われるのである。

 今朝、私は、この教理に関して、できる限り明確に話をしようと努力してきた。私も人が救われるとしたら、それが最初から最後まで聖霊なる神の働きであることは知っている。「誰かが新生するとしたら、それは人の意欲によってではなく、血によってでもなく、ただ、神によってである」[ヨハ1:13参照]。しかし、私としては、決してその大いなる真理が、このもう1つの真理を妨げることになるとは思われない。「キリストを信じる者は、救われます」[マコ16:16参照]。そして今一度願いたい。この膝を折っても、ちょうど神が私を通して懇願しているかのように、「キリストに代わって」、あなたに願う。「神の和解を受け入れなさい」[IIコリ5:20]。そして、「あなたがたが、神が遣わした主イエス・キリストを信じること」*、それが和解である[ヨハ6:29参照]。それを理解できるだろうか。あなたがたが、自らをキリストに投げかけることである。キリストが行なってくださったこと以外、何も頼りとしないことである。あなたは救われるに違いなく、失われることはありえない。全くキリストに飛び込み、自分のもろもろの罪という重荷を、また、自分の種々の疑い、恐れ、不安をことごとくここに投げかけることである。さて、これが値なしの恵みという教理を説教することである。そして、もしも誰か、いかにしてカルヴァン主義者がこのように説教できるのか不思議に思うとしたら、私に言わせてほしい。これはカルヴァンが行なった説教なのである。また、それよりも良いことに、私たちの主イエス・キリストとその使徒たちの説教なのである。私たちは、天来の根拠とともにあなたに告げる。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]と。

 

天下の公道を開き、きれいに片付ける[了]

HOME | TOP | 目次