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第9章 C・H・スポルジョンの死後

 C・H・スポルジョンの出版された説教集との関わりにおいて、何にもまして尋常ならざる事実は、それが彼の死後も博し続けた人気の高さである。説教集というものは、一巻ものであれ数巻ものであれ、売れ筋とは言えない読み物であり、大きな町の古書店に行けば、二束三文で叩き売られている本の山の中に、いかに大量の説教的な内容の本が含まれているかはすぐに分かる。だが、この説教者が世を去ってから十二年以上になる今でさえ、その説教は毎週きちんと発行されては飛ぶように売れており、英語圏のあらゆる人々によって熱心に待望されているのである。新しい説教が今なお大量に売れているだけでなく、古い講話も根強い需要があり、折にふれ英国のいずれかの地方から、あるいは、海外から、この説教集の全巻を送ってほしいという注文がやって来る。その申し込みは、あらゆる大陸の、ほぼあらゆる国の、あらゆる教派の人々から送られて来る。国教会の主教その他のお偉方たちからも、高教会の聖職者からも低教会の聖職者からも、ローマカトリック教徒からもプリマス・ブレズレンからも、貴族からも陸海軍の士官からも、法律家からも医者からも、商人からも行商人からも、職人からも労働者からも、男からも女からも、老人からも若者からも、子どもたちからさえ送られて来る。

 私は、この出版者たちがつけていた覚え書きの本に目を通す機会を得たことがある。彼らは、この説教集の販売との関わりで生じた記憶に残る事件を忘れないように書きとめていたのである。ここで、その中から無作為に選び出した手短な記録を、以下の数頁で示して良いであろう。

 ひとりの貴婦人が、スコットランド旅行に出かけようとしていた際に、この説教者の説教集を相当数買い込んだ。休暇中に人々に無料で配るためにである。彼女が差し出した人はみな喜んで受け取ったという。

 それまで大いに旅をしてきた、ひとりの紳士は、何冊か説教集を買いながら、世界のどの地方にもこの説教者はありましたよと言及した。エジプトでもシリアでも、ごく最近ではジャマイカのブルー山脈でも目にしたということである。

 ひとりの聖職者がこう言明している。ヒューロンの主教と食事していたとき、この主教は、何が最も読んで有益な本ですかと尋ねた三人の青年の問いに答えてこう言った。「スポルジョンに没頭しなさい。けれどもスポルジョンの教師であられたお方、聖霊を忘れてはいけませんよ」

 ある教役者が、印度の丘陵地帯で、辺境に駐屯中の二人の将校と会食したときのことを述べている。そのひとりは、従軍牧師の不在中は礼拝を司式する責任を負っており、C・H・スポルジョンの説教集からその一編を読み上げるのを常にしていたという。

 別の教役者によると、ボーガン聖堂参事会長は、鉄道で旅行する際に、しばしばスポルジョンの説教集を読みふけっている姿が見られたらしい。

 ひとりの耳が全く聞こえない人は、毎週のようにこの出版社を訪れては説教を一編買っている。その人は、たびたびこう言うのだった。「残念ですが、私は《福音》が説教されるのを聞くことはできません。でも、スポルジョンが私の牧師です。その説教は聖書の次に私の最も大きな慰めです」。

 マルタ島の海員たちを相手にしているひとりの宣教師は、山ほどの説教を購入しては、これほど有益なものはありませんと言っている。ごく最近も、ひとりの水夫に渡した一編の説教が、その水夫本人と細君を回心させる手段になったという。ローマカトリック教徒や、普通はプロテスタントの信仰書など見向きもしない人々さえ、スポルジョンの説教は読もうとするのである。

 ひとりの婦人宣教師がこの出版者たちに、こうした説教集はその宣教活動において何よりも役立っていると告げ、聖地の自分宛てに発送してくれるよう常々注文しているとのことである。

 ひとりの顧客が何編かの説教を買い、会話する中でこう言った。「実は私は国教会に通っているんですが、そこで話される説教があまりにもお粗末で聞くにたえんのですよ。だから、スポルジョンの説教を持っていっては、祈祷書に挟んでおき、聖職者が講話を語っている間、それを読んどるんですわ」。

 こうした事例は、みな過去三年以内に記入されたものの中から抜粋したものである。ほとんど毎朝のように、世界のあらゆる国々から手紙が郵送されてくる。近頃も一日のうちに、合衆国の各地と、智利と、加奈陀と、新西蘭と、印度と、黄金海岸からの注文があった。

 先に古書店に行けば説教本という説教本が山と積まれていると述べた通り、出版された講話集はほとんどみな、いずれは二束三文で買えるようになるものである。しかし、例外が1つある。スポルジョンの説教集だけは決して一山いくらで売られてはいない。筆者は倫敦の古書店に足繁く通っては、本を買い込み続けているが、この二十年のあいだ一度として、『メトロポリタン・タバナクル講壇』の一巻が、古書店の雑本の中で売られているのを見たことはない。

 C・H・スポルジョンの講話集について、最近の著名な人々がどのような意見を述べているかをことごとく引用するとしたら、途方もない紙数を占めるであろう。だが、見本として、いくつかを選んで示すことはできよう。最初の2つを除くすべては、最新巻の第五十巻の出版に際して語られたものである。

 現在のダラム主教であるヘンドリー・モウル博士は、その著書『わが若き兄弟たちへ』の中でこう言っている。「平均的な人々にとって、私の知る限り最も完璧に自分の理想にかなっている文章法は、最近刊行されているスポルジョン氏のものである。たまたま知ったことだが、スポルジョン氏は常に自分の文章に磨きをかけようと苦心し、励んでいたらしい。氏の文章は、その内容において決して軽くも弱くもなく、常に事を真っ向から言い切っている」。ロバートソン・ニコル博士は、バプテスト同盟の総会に出席した代議員たち相手の講演でこう語った。「何にもまして、あなたの聖書を読むがいい。そして、あなたの聖書にいかなる書物を加えるにせよ、あなたがたの偉大な使徒、チャールズ・スポルジョンの書物を何冊か加えるがいい。――そのままそれを説教するためではない。スポルジョンの文章を剽窃しようなどと考えるのは、ほとんどローマ人への手紙の文章を剽窃しようとするようなものだからである。スポルジョンを読むべき理由は、この人物が、《新しい契約》の奥義を比類ないしかたで解釈しているからである。私は、スポルジョンの本を手に取るときには常に、ブラウニングのこの言葉を自分が繰り返していることに気づく。――

  『首(こうべ)まわさば須臾(しゅゆ)にして、事のさなかに至るなり、
   鬱蒼(しげ)れる森に囲まれて、翳(かげ)りの中にわれら立つ』」。

 現在の全英国の首位聖職は、ちなみにC・H・スポルジョンの葬儀で祝祷を唱えた人物だが、自分の補助司祭を通して著した言葉で、こう書いている。「このような説教集を読むことは、非常に有益、かつ興味深いものである」ことが分かった、と。

 シンクレア大執事は言う。「スポルジョン氏の教えの多くには、あらゆる人に善を施すものがある。それは特に、聖書の逐語霊感という清教徒的見解を単純に信奉する、神を畏れるおびただしい数の人々に好適なものである。現在のいかなる説教者といえども、スポルジョン氏と比べものになるような影響力を有してはいない。氏は、その出版された説教集の、ほとんど無限の発行部数によって影響を及ぼし続けている」。

 ルフロイ聖堂参事会長は、こう書いている。「私は『神は告げられた』という号の説教を丹念に読んだ。その講話の中には、一文たりとも削除したり変更したりしたいと思うものはなかった。その言葉は真実で、体験的で、ことごとく受け入れるに値する。このような説教は、途方もない善を施すに違いない。特に、《恵みの福音》が迷信や懐疑主義によって損なわれている方面ではそうである。願わくは、神がこの第五十巻に伴い給わんことを」。

 次に挙げるのは、ウェッブ・ペプロー主教座聖堂名誉参事会員の意見である。「スポルジョン氏の説教は、神のことばが霊感された書物の中には含まれないが、全く無二の作品と言わなくてはならない。いかなる人も、これほど多くの説教を、これほど多彩な文体と思想をもって、だがしかし、常にその聴衆を(そして読者を)ひとりの《中心的なご人格》へと導いたことはない。この《ご人格》とは、氏がそのために生きて労したお方、すなわち、私たちの主イエス・キリストである。このことは、スポルジョン氏の説教を読むたびに、氏の紡ぎ出す一切の言葉の鍵となる思想、あるいは中心的な観念であることに気づかされる。この人物は、キリスト・イエスを明らかに示すために生き、かつ労していた。氏にとって《福音》とは一個の《ご人格》であり、その《ご人格》とは、肉において現われた神であった。この『敬虔の奥義』[Iテモ3:16]こそ、氏がこれほど多くの説教を豊かに生み出すことのできた理由であり、これほど驚異的な成功を収めた鍵であった。主イエス・キリストを真摯に真心から愛する人々はみな、スポルジョン氏が万軍の主の使者として行なうことを許されたことに感謝するに違いない。むろん、他教派に属する者たちが、何らかの点で、この十九世紀の大説教家と意見を異にすることはあるかもしれないが、人類のほむべき救い主を尊び、礼拝する者であれば誰しも、神が私たちの時代にC・H・スポルジョンほど素晴らしい説教者を起こしてくださったことを感謝せずにはいられないに違いない」。

 「私のささやかな判断によれば」、とジョン・ワトソン博士(筆名イアン・マクラーレン)は言う。「また、こう言い表わすのは私として欣快に堪えないことだが、スポルジョン氏は、私たちの時代に神が英語圏の民族に対して遣わされた、最も大いなる説教者であった。また、やはり喜びに堪えないのは、氏の未刊行の説教がきわめて多数残っているということである。というのも、私が読んだことのあるスポルジョン氏の説教という説教には、――そして、そこには少年時代から今日に至るまで読んできた数多くの氏の説教が入るが、――主イエス・キリストの《福音》が満ち満ちていたからである」。

 J・H・ジャウエット博士の考えるところ、「こうした説教集を広く配布するのは、キリストの御国の進展にとって測りがたい価値のある働き」である。博士は言う。「私は多年にわたり、スポルジョン氏の驚異的な講解の数々のうちに、自分の講壇の糧となる養分を求めてきたし、見いだしてきた」。

 「思うに」、とディンスデール・T・ヤング師は書いている。「スポルジョンは、過去一世紀のあいだ世界に知られた中で最大の説教者である。いかなる者も、こうした無類の講話によって、どれほどの善がこれまで成し遂げられ、今後も成し遂げられることになるのか測り知ることはできない。スポルジョンの《福音》が今日ほど必要とされたことはない」。

 グラスゴー主教座聖堂の教役者、ピアソン・マカダム・ミューア博士はこう宣言している。「これまで空前の発行部数を誇ってきた説教集を推薦する必要などない。しかし、こう証言することはできよう。こうした説教は、私の見知っている人々の上に深甚な影響を及ぼしてきたし、一部の人々が毎週熱心に待ち受けているものである。それは、別の人々がきわめて扇情的な雑誌を待ち受けている熱の入れ方に劣りはしない、と」。

 「スポルジョン氏の記念すべき五十巻目の説教集は、金文字で印刷するのが至当であろう! 黄金には黄金こそふさわしい!」とF・B・マイアー師は言う。「それらによって私がいかに大きな恩義を受けたかは、到底言葉にすることができない。若い成年期にそれらを毎週毎週読むことによって私は、失いえないような形で福音の意味を悟らされ、いかにすれば福音を剛直に、平易に、また説得力ある言葉遣いで提示できるかという概念を与えられた。それによって、私の牧会活動のすべてが影響を受けたのである。やはり見れば驚異的なことに、今回出版されたばかりの最新巻は、既刊とくらべて何も欠けていないように見受けられる。これは、無数の人々にとって、何とほむべきみことばの取り次ぎであろう!」

 「氏の説教集ほど永続的な利益をもたらすものを私は何1つ知らない」。これがアーチボルド・ブラウン師の意見である。「少年の頃に私は、神のみこころの事は何も知らなかったが、氏の説教には魅了された。神のことばを学び、説教する五十年を経る中では、氏の説教をいよいよまして尊ぶようになっている。氏の語るあらゆる言葉には尽きることない清新さがある。氏が常に変わらず生きていること、説教していることについて、いかに神をほむべきであろう」

 マーシャル・ハートレイ師も、こうした説教集の価値を強調する点ではひけをとらない。「私は長年の間スポルジョン氏の書いたものを読み耽ってきた。そして、その中に表明されている氏の熱烈な伝道精神と、当意即妙の機知と、深い霊性に多くの恩恵をこうむってきた」。

 J・ウィルソン師はこう書いている。「キリスト教会はこう言って良いであろう。十九世紀の『奇蹟』の1つは、スポルジョンの説教の流布である、と。そして私の信じるところ、それは二十世紀の奇蹟でもあり続けるであろう。この説教は、秋の落葉のように世界中にまき散らすべきである」。

 J・モーガン・ギボン師は言う。「私が思うに、スポルジョン氏の説教集の刊行は、聖書の無尽蔵の豊かさと、スポルジョン氏自身の多才さと、一般民衆の好みの健全さとを驚くべきしかたで例証するものである」。

 W・カフ牧師が宣言するところ、「この[説教集が刊行され続けた]五十年のうちの四十年間、私はスポルジョン氏の説教集を注意深く読み、そこから学んできたが、今日でさえ、それらは私の心と知性にとって、霜の降りた朝のように清新である。これらの説教ほど私に訴えかけ、助けとなってくれる説教は、これまでも今も他にない。今なお私は、精神的な飢えをもってこうした説教を向かって行って、決して失望させられることがない。パンを求めて、石が与えられることは決してない。水を願って泥が差し出されることは決してない」。

 「これらの説教は、今の時代の人々に手を差し伸ばすために必要とされている型の説教を示す模範である」とジョン・F・ウェイカーリー師は書いている。「こうした説教には、《福音》の教えが満ち満ちており、その教えは、飾らない、それでいながら魅力的な衣裳が着せられており、『傷つけ、またいやす』、そして『殺し、また生かす』[申32:39]御霊の力により、決して衰えることがない。いかに私の心は、この『メトロポリタン・タバナクル講壇』の働きについて神に感謝することであろう。その働きによって豊かに富まされてきた他の働きがいかに多いことか! この偉大な現代の清教徒が、自分の宝物庫の中から手当たり次第に放出することができたものは、多くの凡人たちにとって大きな価値を持つ財産となってきたはずである」。

 キナード卿は、今後何年もの間この説教が毎週発行されると知って、その喜びを表明している。「私が個人的な経験によって知るところ、神はスポルジョン氏の説教を祝福し、多くの聖徒や罪人のもとに送り届けては、その助けとしてこられた。そして、それらはスコットランドの高地や島々で、これまでも今も大いに尊ばれている」。

 他の多くの著名な教役者や平信徒が同じ調子で書いている。R・J・キャンベルによると、スポルジョン氏の説教集は、出版されればされるほど「世界のためになる」といい、ホートン博士は、こうした講話およびスポルジョン氏の素晴らしい働きに対する深甚な感謝の意を表わしている。しかし、印刷されたその説教集の価値について寄せられたすべての意見をここで繰り返すことは不可能である。そうした意見は、大きく主義や立場の異なる人々、また、ほぼありとあらゆる教派から発せられており、出版界も――宗教的、世俗的を問わず――同じように熱烈な賛辞を呈している。『教会時報』の<旅人>氏によると、「私は直接その説教を聞いたことは一度もないが、《放蕩息子》のたとえ話にある、『口づけした』[ルカ15:20]という言葉についてなされた講話は、これまで私が読んだ講演録の中でも、最も壮大な雄弁の1つである」。

 同様に、《低教会》系の『岩』誌は、この説教集の最新刊についてこう言っている。「巷にあふれる、去勢されたような《高等批評家》たちの講話(普通に考えれば説教の名になど値しない)や、どこかの講壇から、啓示された真理の代わりに並べ立てられる、受け売りの科学だのから目を離し、このような《福音》の純金に目を向けることは何とすがすがしく爽やかなことであろう。ここでは、あの古い、古い十字架の物語が、魅力的な清新さとひるむことなき真実さをもって、力強く語られているのである」。

 C・H・スポルジョンの死後ほどなくして創設された《スポルジョン記念説教協会》は、スポルジョンの講話の分冊を無料で貸し出すことを目標とする組織であったが、この十数年間で急成長し、今や世界のあらゆる場所で働きを行なっている。ひとりの若い紳士の寛大な行為によって、パスモアとアラバスターの両氏のもとに、いずれの説教にもまさる最大の注文が舞い込んだのは、まさにこの組織のためであった。その注文は百万冊の説教を送ってほしいというものであり、それは正式に配送され、同協会によって社会に配布されている。この協会の主導の下で、二十五万部もの説教が毎週、持ち主を変えているのである。

 先ごろ第五十巻が出版された今、すでに約2,950編の講話が公刊されたことになる。それらの主題聖句は、ヨハネの手紙第二を除く聖書のあらゆる書から取られており、それぞれの書名に、そこから行なわれた説教の数を付して列挙するのは興味深いことであろう。創世記、80。出エジプト記、51。レビ記、15。民数記、25。申命記、40。ヨシュア、12。士師記、15。ルツ、6。第一サムエル、32。第二サムエル、23。第一列王、25。第二列王、23。第一歴代、12。第二歴代、21。エズラ、2。ネヘミヤ、8。エステル、2。ヨブ、78。詩篇、389。箴言、36。伝道、8。雅歌、58。イザヤ、233。エレミヤ、90。哀歌、10。エゼキエル、47。ダニエル、18。ホセア、45。ヨエル、5。アモス、11。オバデヤ、1。ヨナ、9。ミカ、14。ナホム、4。ハバクク、8。ゼパニヤ、4。ハガイ、2。ゼカリヤ、30。マラキ、10。マタイ、211。マルコ、78。ルカ、213。ヨハネ、274。使徒、84。ローマ、128。第一コリント、72。第二コリント、50。ガラテヤ、38。エペソ、64。ピリピ、34。コロサイ、27。第一テサロニケ、13。第二テサロニケ、9。第一テモテ、17。第二テモテ、20。テトス、7。ピレモン、10。ヘブル、127。ヤコブ、20。第一ペテロ、38。第二ペテロ、12。第一ヨハネ、50。第三ヨハネ、1。ユダ、10。黙示録、71。

 初めから今まで発行された説教の実際の部数は分からない。あまりにも膨大すぎて、いかなる勘定も追いつかなかったのである。だが、この形で、およそ一億五千万部が配布されたと見積もられている。それに加えて、各国語で発行された、莫大な数の海外版があり、新聞紙上に掲載されたものがあり、おそらくは三億部ほどのスポルジョンの説教が、伝道的な目的で送付されたであろう。人間の知性では、こうした数字が何を意味するか全くつかむことはできない。定期的に毎週刊行されている説教だけを取り上げてみるがいい。これまで発行された説教を左右並べていけば、13,889哩の距離、すなわち、地球の半周以上になるであろう。もしも一枚一枚の頁を切り離し、その端と端をつないでいけば、ほとんど地球から月まで至るであろう。また、こうした種類の数字は、際限もなく増やすことができよう。出版史上、これと似たようなものは全く前代未聞であった。聖書はこれまで途方もない規模で配布されてきたが、スポルジョンの説教集に比べれば何ほどのこともなく、こうした説教集の刊行に匹敵しうるようなものは今後も決してないだろうと言っても何ら過言ではあるまい。将来について言えば、出版者たちの手元には、まだ数年は優にまかなえるだけの未刊行の説教がある。いま出版されつつある説教は、以前のものほど長くはない。それらは、日曜日にではなく木曜日に語られたものだからである。しかし、これは不都合ではない。そのため出版者たちは、説教に加えて、毎週、説教に先立って行なわれた聖書朗読と講解を印刷することができるからである。終わりに、こう言明しなくてはならない。『メトロポリタン・タバナクル講壇』は、決してスポルジョンの刊行された説教すべてを網羅したものではない。多くの説教が種々の単行本や、雑誌類の中に散在しており、この大全集の中に含まれたことは一度もないからである。

 チャールズ・ハッドン・スポルジョンは実に驚嘆すべき人物であった。だが、その生涯と事績にまつわる一切の驚異の中でも、その奇抜さと広大さにかけては何事も、その説教集の流布とは比べものにならない。事実、スポルジョンは、刊行された説教集というものを、書籍という大世界の中で、これまで一度として占めたことのないような地位へと引き上げたし、『メトロポリタン・タバナクル講壇』は、世界中のどこにも見いだされないような「神学体系」として常にとどまり続けるであろう。1898年に、ロバートソン・ニコル博士はこう書いている。「スポルジョン氏の刊行された説教集の、絶えることのないいのちと力は、氏の雄弁さが――確かに著しいものではあったが――その第一の部分ではなかったことを示している。私たちの堅く信ずるところ、これらの説教は、時とともにいやまさる興味と驚嘆の念をもって学ばれ続けるであろう。究極的にそれらは、今世紀になされた、体験的キリスト教文学に対する比類なき最上の貢献であると認められるはずである。そして、それらの伝える使信は、今の時代における他の説教がことごとく忘れ去られた後も、人々の人生を変革し続け、生かし続けることであろう」。さらに、より最近になって博士はこう語っている。「こうした、五十年前に行なわれた説教は、今日においても生きた使信であり、あえて予言するならば、この二十世紀が終わりに近づきつつある頃になっても、時代遅れにはなっていないであろう」。


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