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神は告げられた!――喜び勇め!

NO. 2864

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1903年12月31日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1876年10月12日、木曜日夜


「神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう。シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう」。――詩108:7 <英欽定訳>


 1つの古い約束が、神の民についてこう語っている。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」[イザ65:24]。今回の聖句は、主がこうした約束の線に沿ってご自分の聖徒たちをお取り扱いになった実例の1つである。直前の節を読むがいい。ダビデはこう祈っている。「あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください」。ところが、この人物は、神からの答えを待っている間に、すでに神がお語りになっていたことを思い出すのである。実質的に、こう心に思うのである。「私は答えを待っているが、神はすでにそれを与えておられたではないか」。これは決して珍しいことではない。信仰者の嘆願に対する応答は、実際的には、その人が何か要求を持ち出す前から与えられており、必要なのはただ神によって目を開かれ、こう悟らされることしかない。神は、自分が呼び求める前から、自分の願いに答えておられたのだ、と。実際、キリストにある兄弟姉妹。ある意味で、あなたのあらゆる祈りは、――すなわち、聞き届けられてしかるべき祈りは、――すでに聞かれているのである。というのも、あなたが神に願ってかまわないものは何であれ、実はあなたのものとなっているからである。キリストを私たちに与えることによって、すでに神がすべてを私たちに与えておられる以上そうである。1つの重要な信仰の義務は、いま自分が祈り願っていることは自分のものなのだ、やがて得るはずのものなのだと信じることにある。これはほむべき哲学である。願わくは、私たちがみなそれを学びとれるように! 私たちが神に叫び立てているとき、また、自分の嘆願に対する答えを待っているとき、身の回りを眺めさえするなら、また、もっと鋭い観察力を持っていさえするなら、――もしも霊的にもっと鋭敏に精神を働かせることができるなら、――こう感知するはずである。自分は、いま願っているまさにそのことを、すでに得ていたのだ、と。あなたがたの中のある人々は、ことによると、こう言ってきたかもしれない。「おゝ、私が本当に主の民であったならどんなに良いことか! そうすれば私の祈りは、ささげる前から聞き届けられているであろうに」と。よろしい。ならば、この《書》に向かうがいい。そうすれば、そこで主がこうあなたに告げていることに気づくであろう。もしもあなたが本当に神の御子、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストを信じているとしたら、あなたは主のものなのだ、と。神は、この上もなく確かな証しの言葉によって、あなたが個人的にキリストの恩恵にあずかっていることを、可能な限り明確に証明しておられる。もしもあなたが願い求めていることが、何か一層いつくしみ深い、確信を与えるような言葉によって恐れを静められることだとしたら、聖書に目を向けるがいい。そこには、まさにあなたに必要な言葉があるからである。だから、それを探し求めるがいい。このほむべき《書》の中にある神の啓示については、真実にこう言えるからである。――

   「いかな恵みを 言い足しえん、
    イェスを避け場と 逃げ来し者に」。

 ここから実際的な指摘に移ることにする。すなわち、もしかすると、あなたがこれまで祈りに祈ってきた当のそのことは、すでにあなたが得ているものかもしれない。そして神は、もはやあなたがそのことについて祈らないことを望んでおり、モーセに告げたようにあなたにもこう仰せになるかもしれない。「『なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え』[出14:15]。自分の求めている祝福はすでに得ていると信じ、その信仰によって前進するがいい。もはや、そのことについて祈り求めるべき時ではない。今や信仰によってその祝福をつかみ、それをわたしの賛美と栄光のために用いるべき時である」と。本日の聖句も、それと同じように思われる。ダビデは祈っていたが、突如として、自分の願っていた当のそのことをすでに受けとっていたことを思い起こしたのである。それで、からだを揺すってちりの中から立ち上がり、確信と喜びに満ちて叫ぶのである。「神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう。シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう」と。

I. この聖句は3つのことを明らかにしている。第一に、《神のことばは信仰の基である》ということである。「神はご自分の聖によって告げられた」。それこそ、信仰を築き上げるべき堅固な基盤にほかならない。

 このことは非常に尊い真理であり、キリスト者生活のほんの幼少期にあってさえ変わらないと思われる。「神はご自分の聖によって告げられた」。神が私たちの前に置いておられるのは、単にその数々のみわざだけではない。みわざは象形文字のようなもので、時として判読しがたいことがある。だが、神は現実に、そうしない限りは永遠の沈黙であったものを打ち破り、子どもでも理解できるような言葉で語りかけてくださった。信じていない人々は今も、昔のようにこう言う。「『先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか』[IIペテ3:4]。いやしくも神が存在しているとしたら、神と人間たちの間には大きな懸隔が広がっている。いかにすれば少しでも神のことが分かるというのか?」 あゝ、方々! もしも神がその霊感されたみことばによって与えてくださった啓示を信じないとしたら、その大きな懸隔はあなたとあなたの神の間にいつまでもあるであろう。神が雷鳴のような御怒りの声音で語り、咎ある被造物たちをご自分の審きの場にお召しになるすさまじい日が来るまで、あなたに聞こえる神の御声は、みことばであなたに語りかける声しかないであろう。

 しかし、「神はご自分の聖によって告げられた」。そして、私たちは、おしの神に仕えなくともよいことを感謝すべきである。私たちの最初の親たちがそむいて罪を犯したとき、神はエデンの園でお告げになった。蛇に向かってこう言われた。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」[創3:15]。この、ご自分の御子に関する大いなる約束を神が告げられたとき、それは世界にとって希望の使信となった。それ以来、神は「多くの部分に分け、また、いろいろな方法で」、そのしもべたちを通して、また「御子によって」告げられた[ヘブ1:1-2]。このほむべき《書》に記録されている通りである。そして、それが私たちに対するあわれみと愛の使信である以上、私たちは「神が……告げられた」*ことを直ちに喜ぶべきである。罪人よ。あなたは神にあわれみを願い求めている。神があなたに一言もお答えにならないとしても何も不思議ではないであろう。だが、すでに「神は……告げられた」。そして、あなたの願いに対する答えはすでにそのみことばに記されている。かりにアダムが罪を犯したとき、神が私たち反逆の種族に背を向け、こう仰せになっていたとしたらどうであろう。「これからわたしは、お前たちと何の関わりも持たないことにしよう。火と剣によって、お前たちの多くのそむきのためにお前たちを罰するそのときまで何も言うまい」。私たちは神に何の文句も言えなかったはずである。確かに、神の正義に疑いを投げかけたり、神の厳しさにあらを探したりすることはできなかったであろう。しかし、「神は……告げられた」。私たちにとって死となっていただろう沈黙を破られた。そして、御名はほむべきかな。神は、まさに《神のことば》――神の大いなるロゴス――である《お方》によって天から私たちにお告げになられた。それこそ、神のたましい全体を全く余すところなく告げ、人間たちに神を理解させることのできる唯一の御声であった。そして私たちは、神からその御子によって告げられたことに、自分の信仰を基づかせなくてはならない。神がお告げにならなかったとしたら、自分の信仰の基が全然なくなるほどにそうしなくてはならない。だが、私たちの喜び、それは「神が……告げられた」*ということにある。

 私たちの中の多くの者らは、少なくとも幾分かは神が何と告げられたかに通じているものと思いたい。とはいえ私は、私たちがみな、より完璧に神のみことばに親しんでいてほしいと願うし、私たちの確信がより完全に、みことばによって主が啓示されたものの上で安定してほしいと思う。

 なぜあなたは神のことばに信頼できるのだろうか。確かに、こう知っているからに違いない。神にとって、告げることは、そのことば通りに行なうことに等しい、と。そのみことばによって、神は天と地をお造りになった。また、そのみことばによってこそ、天地は今日まで同じものであり続けている。パウロがそのヘブル人への手紙で言う通り、神は「もう一度」お語りになるとき[ヘブ12:26-27参照]、ご自分が造られたものを抹消し、着古した衣を投げ捨てられる。というのも、賛美歌の旧百番が私たちに教えている通り、――

  「主のみぞ……造りてこぼつ方」

だからである。神が告げられるとき、それは人間とは非常に異なる。人間はよく、自分はこれこれのことをしましょうと話す。だが、そのことについて話してしまうと、その人自身に限っては、この件は沙汰止みになってしまう。人間は告げてきた。おゝ、しかり! だが、話をする舌に、働きを行なう手が伴うかどうかは決して定かではない。急いで約束する者が、迅速に実行するとは限らない。多くのことわざも、人間たちの約束は軽んじられていると教えている。だが、神の約束が軽んじられることは決してない。「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ」[詩33:9]。だから、愛する兄弟。もしも苦難の時に助けとなる神の約束、あるいは誘惑の時に支えとなる神の約束、あるいは試練の時に解放を与える神の約束、あるいは、あなたの日に応じてあなたに恵みを与える神の約束があるとしたら、その約束はすでに実行されたも同然に効力があるのである。神のことばが、しかるべき時に確実に成就する以上そうである。ならば、私は切に願う。その約束を読むときには、自分に向かってこう言ってほしい。「このことは、神が語られた通りに行なわれるのだ」と。もしもあなたの取引先の資産家が、未払い金と同額の小切手をあなたに寄こしたとしたら、あなたはその人が支払いを行なったと言わないだろうか。だが、その人は現金では一銭もあなたに手渡してはいないのである。紙幣や金貨や銀貨は、一枚たりともあなたがたの間で行き来しなかったのである。だが、その人があなたに支払いをしたと言うのは正しい。なぜなら、その小切手に記された署名は、お金と同じくらい有効だからである。そして、神のことばは人間のことばと同じくらい有効と言えないだろうか。しかり。そして、それ以上である! ならば、そう見なすがいい。おゝ、今この瞬間にそうする信仰があればどんなに良いことか!

 さらに、神が告げられたことは決して取り消されない。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない」[民23:19]。神は、公に告げたことを、ひそかに取り消したりなさらない。神ご自身こう宣言しておられる。「わたしは隠れた所、やみの地にある場所では語らなかった。ヤコブの子らに『むなしくわたしを尋ね求めよ。』とも言わなかった」[イザ45:19]。予定における神の目的を記している、封印された神の巻き物の中に何とあろうと、そこには、天来の啓示を記している開かれた巻き物に書かれたことと矛盾するものは決してありえない。求める魂をしばしば脅えさせる選びの教理については、決して脅えるべきではない。神の隠れたご計画の中には、神のみことばの中に記録された平明な御約束に反するものは何1つありえないからである。神は、ある箇所で「しかり」と言っておきながら、別の箇所で「否」と言われたことはない。そして、もし今日「しかり」と言うのなら、明日「否」と仰せにはならないであろう。神ご自身、遠い昔にこう言われた。「主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない」[マラ3:6]。ひとたび何らかの使信が御口から発されたなら、それは永遠に堅く立つのである。

 おゝ、だとすれば、これは信仰にとって何と堅固な基であろう! まず、「神は……告げられた」。そしてそれは、すでに語られた通りに行なわれたも同然に有効である。それから二番目に、「神は……告げられた」。そして、神がお告げになったことは決して取り消されない。もしも聖書の中に、悔悟した罪人に対する約束が1つあるとしたら、また、もしもあなたが悔悟した罪人だとしたら、その約束はあなたに対してかなえられるに違いない。もしも信じる魂に対する約束が1つあるとしたら、また、もしもあなたが信じる魂だとしたら、その祝福は確実にあなたに与えられる。もしもあなたが自分の重荷を神に投げかけるときには、神があなたを支え、炉をくぐる時も髪の毛一本焦げない[ダニ3:27参照]ようにしてくださると約束しておられるとしたら、神はそうなさるであろう。というのも、神はこれまで一度としてご自分の約束を違えたことがなく、これからも決して違えることはなさらないからである。天地は滅び失せるだろうが、神がその御約束を一点一画たりともお守りにならないことはない[マタ5:18参照]。エホバのみこころが行なわれることは、不磨の法令のように決してすたれることがない。そして、エホバのみこころはこうである。――ご自分が人の子らにお与えになった約束がすべて、一言隻句たりとも決して破られないことである。おゝ、信仰はいかにありがたい心で、このような基に安んじるべきであろう!

 本日の聖句は言う。「神はご自分の聖によって告げられた」。さて、時として私たちが神の約束を信じる際に最も問題となるのは、神の聖さである。例えば、イエスを信じる魂には免罪が与えられるという約束がある。私たちは厳酷な正義のことを思い、正義の荘厳だが峻烈な顔つきのことを考える。私たちは心底からそうした正義を畏怖し、こう自問する。「いかにして神はご自身が義でありながら、不敬虔な者を義とお認めになる[ロマ3:26参照]ことなどできるだろうか?」 折に触れ私たちは、神の完璧なきよさのことを思い浮かべる。――その御目にとっては天もきよくなく、その御使いたちにさえ誤りを認める[ヨブ15:15; 4:18]お方のきよさのことを。神の、しみ1つないきよさについて考えるとき、私たちは無に消え失せるかのような思いでわななくことがある。そして、私たちは言ってきた。「この聖なる神が、本当に私たちのような罪人をありのまま受け入れようとしておられるのだろうか? ヨブが言うように[ヨブ9:31]、自分の着物にさえ忌み嫌われるこの者たちを? 神が私たちを栄光の中でご自分の右の座に至らせ、天の御国で仕える廷臣たちの中に入れようとなさることなどありえるだろうか?」 しかり。神はそうしたことさえ行なおうとしておられる。さて、ダビデが喜びとしたのは、神がこの栄光に富む――

  「エサイの根より出(い)づ芽」――

についてお語りになったとき、それを「ご自分の聖によって」お告げになった、すなわち、その欠けなきご性質から、その完璧にきよいご性質の全体をもって告げられたということである。神は、その時のダビデがいかなる者であるかも、それからのダビデがいかなる者となるかも、ことごとく知っておられた。だが、そのような人物とさえ、「萬具(よろず)備りて鞏固なる永久の契約」[IIサム23:5 <文語訳>]を結ぶことが、ご自分の無限の完璧さにそぐわないとはご覧にならなかった。そして、愛する兄弟たち。主は、キリストに与えて永遠にキリストの所有とさせようとした者たちについてキリストと契約を結んだが、――また、その契約の中に、際立ってすぐれて偉大な、尊い祝福の数々を書き記し、現在の私たちにはその完全な価値を全く見積もれないほど広大な約束をいくつもなさったが、――そうするとき、ご自分が何をしているか十二分にご存知であったし、そうした際には、あなたが自分の罪深さと神ご自身の聖さとについていかなる疑いや恐れを覚えるか百も承知しておられた。さてここで、ご自分の完璧なきよさをも、たわめることのできない正義をも全くそこなうことなく、「神はご自分の聖によって告げられた」。あわれな失われた罪人たちに向かってそうされた。そして、ご自分の御子イエス・キリストに信頼する者をみな救うことにすると言われた。さらにまた、ご自分のあわれで不完全な子どもたちに対しても、「聖所の中から告げられた」。そして、わたしはあなたがたを祝福しよう、あなたがたに善を施すために、あなたがたに背を向けることはすまい、と言われた。これが、神が御民と結ばれた契約である。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。……あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」[エゼ36:26-28]。こうした一切のことを「神はご自分の聖によって告げ」、それを行なうときには、ご自分のたたえられるべき完璧さという素晴らしい属性を曖昧にすることも、その栄光を傷つけることもなさらないのである。

II. さて、第二のこととして注意したいのは、《信仰の喜び》である。「神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう」。

 あなたがたの中に、いま重苦しい心をしている人が誰かいるだろうか。いるとしたら、この言葉を発したときのダビデの精神をつかんでほしいと思う。あなたは、「神はご自分の聖によって告げられた」ことを喜ぶべきであり、神があなたに向かって告げられたことを感じているとしたら、知っているとしたら、喜ぶに違いない。「神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう」。

 注目するがいい。信仰が有するこの喜びは、神が告げられたということ自体に対する喜びである。確かに私たちのためには何事も行なわれていないかもしれないが、神はすでに告げられた。それゆえ、私たちの心は喜び勇むのである。天来のあらゆる約束は、信仰によって正しく見られるならば、心を喜び躍らせるであろう。かりに今の時点ではその特定の約束を必要としていないとしても、それでも喜び勇むがいい。間もなくそのうちに必要になるだろうからである。その約束が特にあなたに対してなされていないとしても、誰かのためにはなされている。それゆえ、誰か他の人の必要を満たすために「神が告げられた」*ことを喜び勇むがいい。その祝福が現時点ではあなたに達せないほど高いものであったとしたらどうだろうか。それにもかかわらず、未来のために、また、あなたが霊的により進歩した段階に成長した際のために、数々のあわれみが蓄えられていることを喜び勇むがいい。また、かりにそのあわれみが、これまで長いことあなたの恵まれてきたものであったとしよう。それでも、これまでの年月それに恵まれてきたことを喜ぶがいい。そして、「神が告げられた」*ことを喜ぶがいい。「神は告げられた!」 おゝ、このことを題目とするなら、このほむべき《書》の中には、いかに多くの賛美歌があることであろう。その場合、創世記の最初の数頁によって私たちは喜び勇むべきである。私たちは、神がいかに世界をお造りになったかを知って喜び勇むであろう。一頁一頁を辿って、どの頁のどの行によっても目を楽しませるがいい。そして、その間中こう言うがいい。「『神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう』。これを一日中私の喜びの主題としよう。そして、夜ふけて、主のことばを喜び勇もう」。

 先に言ったように、あなたはこう悟るはずである。この喜びは、《約束》が文字通り自分に成就する《前》からやって来る、と。それは信仰の喜びである。あなたの目の前では、この約束はまだ成就していない。だが、あなたの信仰にとっては成就していることを見てとり、喜び始めるがいい。主があなたのために蓄えておられる良いものすべてのために主をほめたたえるがいい。このように書いた甘やかな歌い手の言葉をあなたの唇に上せるがいい。――

   「『新しき歌』 わが口にあり、
    ながく愛唱(したし)む 調べにのせて。――
    み栄えあれや 恵みのゆえに、
    いまだ味わい 知らぬ恵みの」。

病むときには、治った後でありがたく思うことになる健康ゆえに神をほめたたえるがいい。気落ちするときには、再び御顔の光で照らしていただくときに覚えるだろう喜びのため神をほめたたえるがいい。キリスト者であった友の墓に赴くときは、その友と再会できることを思って神をほめたたえるがいい。真珠の門の内側でいかなる喜びが待ち受けているかまだ見てとることはなくとも、ご自分を愛する者たちのために主が用意しておられるものすべてを思って主をほめたたえ始めるがいい。永遠の喜びを前借りするがいい。遠慮はいらない。莫大な量があるからである。そこには無限の喜びがある。それゆえ、少し早めに実現させるがいい。ヨルダン川を越えてあなたの使者たちを使わし、エシュコルの葡萄の房[民13:23参照]を多少持って来させるがいい。遠慮はいらない。それはあなたのものであり、今からその一部を、やがて表わされるべき至福の前味として手に入れてもかまわないからである。ご自分のしもべたちに向かって大いなることを「神は……告げられた」。来たるべき多くの年月の間、そして永遠を通じて、やがて行なわれるだろう大いなることを。神は言われた。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」[ヘブ13:5]。神は言われた。「わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」[ヨハ12:26]。それゆえ、「神が告げられた」*以上、たとい私の魂はまだ暗闇と干魃と飢饉の地にとどまっているとしても、神がその約束を成就なさることを思って私の心は喜び勇むべきである。ダビデは、この詩篇の11節で言う。「神よ。あなたは私たちを拒まれたのではありませんか」。だがここでは、自分も拒まれた者のひとりであるにもかかわらず、こう言うのである。「神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう」。

 ことによると、私の話を聞いている人々の中には、教役者がいるかもしれない。あなたの公の労苦は、うまく行っていないように思われる。私の兄弟。あなたは、いたく嘆き悲しんででいる。あなたの信徒たちがエフライムの人々のように、「矢をつがえて弓を射る者であったが、戦いの日には退却した」[詩78:9]からである。よろしい。今は落胆に屈したり、鈍く悲しい気分に陥ってはならない。むしろ、こう言わなくてはならない。「『神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう』。私の努力には、まだ何の成功も伴わないように見えるが、神はすでに告げられた。『涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう』[詩126:5]と。だから、私もそうなることを信じよう。私は何度となく涙とともに種を蒔いてきたからだ。また、御国の良い種を多くの涙と多くの祈りとともに蒔いてきたからだ。それゆえ、今の私は拒まれた者たちのひとりのように見え、私の行なってきた一切のことからほとんど良いものが生じていないように見えるが、それでも『神はご自分の聖によって告げられた』し、そのことを私は喜び勇もう」。

 私の話を聞いている人々の中には、別のしかたで試みられている兄弟がいるかもしれない。最近のあなたは、愛する兄弟。これまでのように恵みの手段を楽しんでいない。その変化について自分を責めている。そして、あなたがそうするのは正しく、ふさわしいことである。今のあなたは、かつて有していたような幸いな経験をしていない。一年前かそこらには有していたような、ほむべき類の訪れを楽しんでいない。あなたは、それが自分のせいであると知っている。それでも、思い出すがいい。信仰が決して感情まかせのものではなく、私たちの確信は決して自分の内側の状態に基づかせるべきではないことを。さもないと、信仰は飛砂の上に載ったようなものとなってしまう。だが、もしあなたがそうした人であるとしたら、いいかげんに信仰を行使して、こう言うべきである。「確かに私は、拒まれた者のようになっており、主のみことばは今の時点では私の心を慰めてはいないが、それでも、『神は……告げられた』のだ。ならば、確かに私は罪人だが、たとい聖徒ではないとしても、神が信じる罪人たちに仰せになったことを信頼しよう。そして、『喜び勇もう』。たとい拒まれた者のようにしか思えなくとも関係ない」。

 もう1つだけ注意したいのは、この詩篇を書いたときのダビデが、人間を頼りとする空しさを悟っていたということである。12節にはこうある。「どうか敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです」。「私の親友は裏切り者となった。私とともにパンを食べた者までが、私にそむいて、かかとを上げた[詩41:9]。私のもとから離れないと言い、実際、私から得られるものがあるうちは決して離れなかった者たちは、みな去ってしまった。私はあわてて『すべての人は偽りを言う者だ』と言った[詩116:11]。だが、『神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう』」。友人たちが、秋に飛び去る燕たちのように去って行くときも、夏が終わると色褪せる木の葉のように見当たらなくなるときも、神にあって喜び勇むことができるのは壮大な信仰である。それこそ、こう歌った際のハバククが有していた種類の信仰である。「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」[ハバ3:17-18]。これこそ、足なえ者にとって格好のしゅもく杖、否、それよりも良いものである。これは足なえ者からしゅもく杖を取り去り、疲れることなく主の道を走れるようにするものである。何と、兄弟たち。もしあなたが用い方さえ知っているとしたら、ここにはあなたのための鷲の翼があるのである。「神は……告げられた」。もし神のもとに行って、「あなたが仰せになった通りにしてください」と言うとしたら、あなたの魂はいかに強大な力を得るであろう。「神は……告げられた」。これは、敵の眼前で閃かせる、いかなる剣であろう。「と書いてある」は、古のローマを震撼させ、その七つの丘を恐れおののかせる。喜び勇みながら、この偉大な真理をつかむがいい。そうすれば、小人は巨人となるであろう。私たちのうちの最もよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は主の使いのようになる[ゼカ12:8]。

III. この聖句の後半が示しているのは、《信仰の活動》である。「神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう。シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう」。

 すなわち、ダビデは言うのである。「神がそうした場所を私の王国の一部とするよう与えてくださった以上、私は行って、それを占領しよう」と。ある人々の、いわゆる信仰は次のような類のものである。――「神は大いなる祝福を約束してくださった。では行こう。――そして眠っていよう」。こうした人々の哲学はこうである。――「神の約束は確実に成就するであろう。それゆえ、さあ、飲み食いしようではないか。そして、事の成否には何も気を遣わないようにしよう。主はご自分の民を手に入れ、ご自分の目的と定めを実現なさるであろう。神の民は永遠に堅く立つ。だから私たちにとって最善のことは全く何もしないことだ。神は刈り入れがあると言われる。ならば私たちが種を蒔く必要はない。好きなだけ朝寝坊していてかまわないのだ」。それこそ、多くの人々が自分のキリスト教にまで持ち込んでいる種類の運命論である。この人々は、神の永遠の目的とほむべき数々の約束を、何の行動も起こさないでいる理由にしてしまう。だが、まともな頭をした神の子どもはそれとは違う。腰に帯を締めて、こう言う。「神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう。シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう」。

 神のことばを研究して、「神が告げられた」*ことが自分に向かって何と言っているか読む際には常に、それを自分のものとするよう心がけるがいい。かりに神があなたに慰めを約束しておられるとしたら、その慰めを受けないまま満足していてはならない。信じることにおける喜びと平安を約束しておられるとしたら、その喜びと平安を手に入れるまでおとなしくしていてはならない。全き聖化と、悪の力からの完全な解放を約束しておられるとしたら、そうしたすべてから解放されるまで満足していてはならない。決してこう言ってはならない。「あゝ、これは生まれつきの罪なのです。それは私の気質からしてどうしようもないのです」。否、兄弟。もしあなたが敵に対して勝利するという主の約束があるとしたら、あなたの足を敵の首根に置き、敵をあなたに屈服させるまで満足してはならない。一部のキリスト者たちは、霊的な意味では毎日一万両の収入を得て暮らせるというときも、一週間に一銭で暮らしている。あなたは王侯のような暮らしができるのに、乞食のように飢えている。あなたの信仰は神のすぐれて尊い約束の数々をつかんで、その口を良い物で満たすこともできるはずである。だが、そうする代わりにあなたは、不信仰にしびれたまま震えており、そのため、神があなたの手の届くところに置かれたものをつかまずにいる。そこにスコテが広がっているのに、それを配分しない。そこにシェケムが広がっているのに、それを分割しない。だが、その両方とも天来の贈与によってあなたのものなのである。おゝ、もしも私たちの信仰が本当に約束の数々をつかみ、約束をお守りになる神を信じていさえするなら、信仰は、本当に自分のものである祝福をすべて手に入れるまで決しておとなしくしていないであろう! 初信のキリスト者はみな、教会に加入するときにはこう言うべきだと思う。「さあ、私は単に平均的なキリスト者でいたいとは思わない。私は、自分自身としては無である。無以下である。だが、もしも神から何らかの祝福を得られるとしたら、それを得ることにしよう。他の人たちよりも神のそば近くを歩めるとしたら、そう歩むことにしよう。他の人々よりも際立ってキリストの似姿になることができるとしたら、そうなろう。神の恵みによって、『シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう』。もし神が私に何かを受け取ることを許してくださるとしたら、なぜそれを手に入れていけないわけがあるだろうか?」 もしもあなたが、いくらでも好きなだけウィンザー城やバッキンガム宮殿に出かけて行って良いし、そこにあるものを何でも好きなだけ自分のものとして良いと許可されたとしたら、また、王子のような扱いを受けるだろうと言われたとしたら、請け合ってもいい。あなたは人から、「もしもしあなたは、ここ何週間も、どちらの場所にもおいでになっていませんよ」などと教えられる必要はないであろう。そのような特権を与えられたとしたら、確実にあなたはそれを利用するに違いない。だが、ここでは、祈りの宮殿の門が常にあなたの前で開かれているのである。また、主との交わりにつづく扉は、決してあなたに対して閉ざされることがないのである。そして、偉大な王の《王》イエスは、単にみもとに来るようあなたを招いているだけでなく、ご自分のもとにとどまり、二度と離れて行かないようあなたを促してさえおられるのである。――だが、悲しいかな! あなたは、一緒に合わせると一箇月もキリストとの交わりをしていない。もはや痩せこけた信仰告白者のようであってはならない。時たまは天からのマナをちょっぴり味わうが、普通はエジプトの韮だの玉葱だの大蒜だの[民11:5]を常食しているようであってはならない。

 だから、もし私たちに神を信じる信仰があるとしたら、自分のものである一切合財を所有すべきである。そして、さらに、自分が何を本当に所有しているか知るべきである。見るも愉快なことに、ここでダビデは自分の様々な所有地に言及している。「私は……シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。ギルアデは私のもの。マナセも私のもの。エフライムもまた、私の頭のかぶと。ユダは私の杖。モアブは私の足を洗うたらい。エドムの上に、私のはきものを投げつけよう。ペリシテの上で、私は大声で叫ぼう。だれが私を要塞の町に連れて行くだろう。だれが私をエドムまで導くだろう」[7-10節 <英欽定訳>]。ことによると、あなたは言うかもしれない。「私はそんなことに大して興味がありませんし、何のことか意味が分かりません」と。そうであろう。だが、ダビデはそうではなかった。ダビデはシェケムを見たことがあったし、それが所有する価値のある場所であると知っていた。ギルアデも、マナセも、他のどの場所も、あなたには興味がなくとも、ダビデには興味があった。そして、神の子どもが自分の霊的な宝を眺めわたし、その1つ1つについて話をするときには、ただそれを口に出しただけでも興味を覚えるはずである。聖書は、それと何の関係もなく、それにあずかることもできない者[使8:21]にとっては退屈な本である。この世のいかなるものにもまして無味乾燥な読み物は、自分と何の関わりもないような遺言状である。だが、いかなるものにもましてあなたの興味をそそるのは、自分に巨額の富を遺してくれた、老いた伯父の遺言に耳を傾けることである。あなたは一言も聞き漏らすまいと身を乗り出し、耳をそばだてるであろう。また、これほど心に迫る談話は一度も聞いたことがないと思うであろう。では、かりにある人が、いかに「神は……告げられた」か知るとしたらどうだろうか。神が何を自分のために、このほむべき《書》――神の御意志を書き留めた書――に書き記してくださったか知ることになるとしたらどうだろうか。その一言一句は妙なる調べとなり、その人は頼まれなくともえり抜きの言葉を用いて言うであろう。「新生は私のもの、義認は私のもの、子とされることは私のもの、聖化は私のもの、キリストとの結合は私のもの、復活は私のもの、永遠のいのちは私のもの。しかり、すべては私のもの」と。そして、聖なる油注ぎとともに、その1つ1つについて滔々と語り聞かせるであろう。少なくとも、自分の魂に向かってそうするであろう。

 それから、もしもあなたが神から何を与えられているか知っているとしたら、そのすべてを用いるように心がけるがいい。ダビデは何と言っているだろうか? 「モアブは私の足を洗うたらい。エドムの上に、私のはきものを投げつけよう」。東方では、倦み疲れた人は、召使いに履き物を投げつけて足を投げ出し、別の召使いにその足を流水で洗わせるものである。それでダビデは言うのである。「私はモアブとエドムを従僕として使うことになろう」と。さて、キリスト者である人たち。もしあなたが真の信仰を持っており、神と本気でやり取りし、本気に神のために働くつもりがあるとしたら、自分に向かって言うがいい。「私には、この祝福あの祝福、また別の祝福がある。では、そのすべてを神の栄光のために用いることにしよう。私は神によって子とされた。神の子どもとなっている。ならば、神に嘆願しよう。そして、御父からいただけるものをすべて受けて、御父に仕えるために用いよう! 私は義と認められている。神との平安を持っている。ならば、前進しよう。そして、その平安の力によって、他の人々にもキリスト者がいかなる至福を知っているか見せてやろう。それに私はキリストにあって聖化も与えられている。ならば、それを用いて、真の聖徒となることを求めよう。私の生き方が非難されるところなく、聖い、恵みに満ちた、キリストに似たものとなるようにしよう。神の恵みによって、用いられていない特権が1つたりともないようにしよう」。

 さらに言えばダビデは、神を信じる信仰で魂を満たしながら、今や冒険心をありありと示している。というのも、こう言うからである。「神は私にエドムを下さった。では、それを私のものにしよう。そこには、かの岩の町、要塞の町ペトラがある。それは切り立つ岩の上にある鷲の巣のようだ。いかなる大胆な者が、それを攻略して、その財宝を分捕ることができようか? かの峡谷の中では、勇猛果敢なエドム人たちが、その岩の裂け目に最初に行軍して来る者らを打ち殺すに違いない」。「だれが私を要塞の町に連れて行くだろう」とダビデは言う。「だれが私をエドムまで導くだろう」。ダビデの魂の中には冒険心と征服心があった。それで、こう言い足すのである。「神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか」。「あのように語った以上、あなたは確かに私たちを勝利に至らせてくださるはずでしょう」と。それと同じようなしかたで、神のことばを信じる信仰を有する者はみな、冒険の人たるべきである。兄弟姉妹たち。果たしてあなたがたの中に、今このとき、神のための冒険を目論んでいる人がどれくらいいるだろうかと私は思う。――あなたは、何らかの頑固な罪、自分の魂の中でペトラのように難攻不落も同然になっている悪を強襲しようとしているだろうか。あなたの《救い主》がなぜ「イエス」という名をしておられるかは知っていよう。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」[マタ1:21]だからである。ならば、その御名の力によって上って行き、あなたの獅子身中の罪を打ち殺すがいい。あなたの気質から出た罪を根絶するがいい。そして、自分の魂の内側に潜んでいるあらゆる悪にあなたの短刀を突き刺すまで、決して安んじないようにするがいい。

 それから、同胞の人々の間で、いかなる冒険を行なう余地があるか考えるがいい。「地とそれに満ちているものは、主のもの」[Iコリ10:26]である。だが、おびただしい数の人類は、今なお闇と死の陰に座している[詩107:10; ルカ1:79]。あなたがたの中に、今なお主イエス・キリストに反逆している要害の町に上って行くだけの冒険心を有する人は誰かいないだろうか。あなたがたの中に、行って町通りを歩いている人々のことを案じて、キリストのもとに導こうとすることのできる人は誰かいないだろうか。それは、エドムそのものを征服することであろう。あなたがたの中に、貧民窟やロンドンの吹き溜まりに下って行き、誰よりもあわれで卑しい者たちを捜し出そうとするだけの冒険心を有する人は誰かいないだろうか。あなたは、主イエス・キリストの御力によれば、ペトラのごとき町も――盗人たちが寄り集まり、冒涜を共通語とし、卑俗さで空気まで汚れきっているように思われる暗い場所も――攻め落とすことができると信じられる大胆さがあるだろうか。そうした冒険に着手するだけの「胆力」があるだろうか。そう試みようとするだけの男らしさが、あなたがたの中の誰かにあるだろうか。ならば、「だれが私をエドムまで導くだろう」と問うた後で、こう祈るのを忘れてはならない。「神よ。あなたはではありませんか。あなたは告げられました。では御民を通して行動することはなさらないのですか? そうすることで、あらゆる人が、神の救いを見るように[ルカ3:6]なさらないのですか?」 神のあらゆる子どもは言うがいい。「おゝ、私の父よ。私は信じます。確かに自分は弱く、もろい者ではあっても、あなたの御力において奉仕に向かうなら、自分の弱さともろさで足を引っ張られずにすむのだと! 『神はご自分の聖によって告げられた。私は喜び勇もう』。そして、あなたの御名によって、私は仇を征服し、あなたのために分捕り物を集めましょう」。13節でダビデは言う。「神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます」。それゆえ、もしも信仰があるとしたら、神の敵からの分捕り物のもとに急ぐがいい。男らしく、強くあるがいい![Iコリ16:13] もしもあなたが本当に全能とつながっているとしたら、それを証明するがいい。口で云々するのではなく、行ないで示すがいい。万軍の主があなたとともにおられ、ヤコブの神があなたのとりで[詩46:7]であることを。もし実際に主の御腕があなたとともにあるなら、主が打つように打つがいい。もし実際に神があなたを通して語っておられるなら、神が語るように語るがいい。強く、雄々しくあって[ヨシ1:7]、前進するがいい。神の御名によって、あなたの旗を打ち立てるがいい。そのとき、誰に知れよう。私のこの貧弱な使信でさえ、神のことばへの信頼に基づいてあなたを奮起させることによって、敵の何らかの要害を攻め落とし、どこかの強大なエリコの城壁を地に打ち崩すことにならないとは。主がその御名ゆえにそうしてくださるように! アーメン。

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神は告げられた!――喜び勇め![了]

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