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第10章 「スポルジョンば忘れんなよ」

ジョン・ワトソン博士(イアン・マクラーレン)によって記された以下の興味深い回想は、実に生彩に飛んでいるため、許可を得て本巻の中に再録させていただいた。

 市の立つ日には、彼の様々な指図がこの善良な男に与えられた。馬屋から雌馬を引き出し、二輪馬車につなぐ間にも、牛酪の籠を座席の下に押し込める間にも、外套を礼儀上もぞもぞと着込んでいる間にも、いざ出発するという時になっても、戒めに戒め、規則に規則[イザ28:13]が少しずつ、受けとめきれるだけ与えられた。だが、事のしめくくりとして最後を飾るのは、十年一日のごとく同じであった。「スポルジョンば忘れんなよ」。

 「乾物屋さは牛酪を十二听、俺方(おらほう)の製品でも最高の出来(でぎ)だがら、1シリングでねげば売(う)て駄目(わがんね)ぞ。んでねど、二度ど俺方からアンドラ・ダヴィさは売渡(よご)さねがら。んでも、まずは十四ペンスがら始めっぺな。でねげば十一ペンスで買おうどすっぺな。あの若(わが)い衆(しゅ)、アンドラあ、えれ吝嗇(けちくせ)え奴だがら。

 「卵さは絶対(ぜって)気ぃ付けろな。蕪扱うのど違うんだがらよ。――お前(め)さ籠持だせんのあ神様の摂理(おはがらい)お試(だめ)しする様(みで)なもんだげどな。――1打(ダース)当だり九ペンスな。産み立(だ)てのほやほやで、県境(アイルランド)がら持てきた物(もん)どあ違うがら! あすこの細君(かあちゃん)さは花ど、病気(びょおぎ)の小僧(むすこ)さは蜂蜜(はぢみつ)少量(ちいっと)あっけど、商売の話片づぐまで一言も言(ゆ)たら駄目(わがんね)ぞ。

 「紅茶と砂糖(さど)は小紙(こがみ)の上で良ぐ確かめでな。一月前様(みで)に、菜っぱの種袋(ぶぐろ)を持て来ても使用不能(なじょもさんね)がら。それど、絶対(ぜって)灯油と棒砂糖を同じ籠さは入れねようにすろな。お前(め)が言(ゆ)た様(みで)に、似合いの一組さ見えっかもすんねべげど実(じづ)は大して仲良(ながい)い隣組じゃねえがら。それがらジョンよ、スポルジョンば忘れんなよ」。

 日中は、何度も何度も、そして多くの実際的な作業の中で、その善良な細君が、自分の女中たちにこれからどうなるかを予言し、毎週してきたように、何もかもうまく行かないに違いないと告げるのだった。

 「旦那様あ、絶対(ぜって)市場(いぢば)ん中(なが)一日中(いぢんじじゅ)つんたらしてんべしたあ。買う気(ぎ)もねえ牛さ値え付けだり、借りるつもりもねえくせ農地(たはだ)の交渉(かげひぎ)すたり、仕事(おつけえ)の事あて、最後の最後まで考えねに決まってっからよう。

 「少量(ちいっと)あ油ば持て帰って来(く)っかもすんね」と彼女は陰気に続けた。あたかも、それが男性が注意を払う、人生唯一の必須事項であるかのようだった。「んだげど、来週まで紅茶は手に入んねべな」。――あかたも家には一週間分の紅茶の蓄えがないかのようにである。――「そして、これは間違(まぢげ)ねえべげど、安息日(にぢようび)さは何のスポルジョンの説教もねえべな」。

 先見の明のあるこの婦人が、必要品の一切合財を――金物屋で手に入れる油と、呉服屋で買うスポルジョン以外は――紙に書き、牛酪を覆っていた甘藍(キャベツ)の葉の天辺に留め針で留めておいたため、さほど大きな危険はなかった。だが、その週、この善良な男の様々な能力に関する、こうした目の肥えた預言は、的中するかに思われた。というのも、油こそあったものの、スポルジョンが見当たらなかったからだ。二輪馬車の中にも、座席の座布団の下にも、馬具と馬具の間にも、洋袴の後ろのかくしにも――どれも馴染みの落ち着き先だったが――なかったのである。そして、ついに外套の内かくしからその説教が救い出されたとき、――男は、この衣類とはさほど深いつき合いがなかった。――特にお誉めにあずかるわけではなかった。説教を買っておきながら、どこに置いたか忘れるような場所に置くなど、説教を買うのをきれいに忘れるよりも悪いとやりこめられたからである。

 「『マナセの救い』」と、この善良な細君は読み上げた。「お前(め)のおがげで、これなしで済ますことになったっけどれ。きっとこれも泣ぐだぐなる話だべな。んでも、良(しぇ)え話ばりだもねえ」。それから安息日まで『マナセ』は、人目につきやすい、名誉ある場所に置かれた。最上の客間にある蝋の花束を挿した籠の後ろである。

 その情け深い家庭には、安息日の晩には労働者小屋から「若(わが)い衆(しゅ)たち」を台所に呼び入れるという良い習慣があった。「若い衆」たちは、一張羅を着込んで、おずおずとやって来ては、居心地悪そうに椅子に腰かけ、何を言われても黙りこくっていた。しかしながら、食事はもりもりと食べ、「お休みなせえまし」を言うときには、もごもごとでも感謝の意を表わすという暗黙の了解があった。そのとき、男たちの取り纏めは、「大層結構な」お茶と、「素晴(すんばら)らしい」お説教を「有難(ありがど)ごぜえました」と言うのだった。というのも、お茶の後で「旦那様」が「お台所(でえどこ)」にやって来ては、全員が聖書をかかえているのを確かめると、音頭をとって、詩篇をコールズヒルかマータダムの節に合わせて歌わせたからである。――この家の音楽的嗜好はあまり広いものではなく、かなり保守的であった。――それから、この善良な男は、説教の冒頭で挙げられている聖書の章を読み上げ、親しみをこめた前置きとしてこう言った。

 「んでは、今晩、スポルジョン先生が何て言うが見でみっかな」。

 ことによると、私は過去を美化しているのかもしれず、ことによると、この年頃の若者に物事の良し悪しなど分からなかったかもしれないが、その朗読は見事なものに思われた。重々しく、一言一言が明晰で、敬虔で、優しさと哀感に満ちていた。眠りこんだり、身動きしたりする者はひとりもなかった。そして、炉火の光が屈強な男たちの真剣な面差しに照り映え、燭台の輝きが善良な人々の半白頭に降り注ぐ中で、ひとくだり、またひとくだりと福音が全員の心に届けられている光景を思い出すと、私は今も敬虔な気持ちになる。このように素朴な人々の集会に出席していたとしたら、スポルジョン氏も大いに喜びを覚えたろうと思う。

 しかしながら、『マナセ』が読まれたのは収穫期で、通常より多くの男たちがいたため、この小さな集会が持たれたのは、製粉所で脱穀する前の麦をたくわえておく納屋の二階であった。重く、たわわな、よく熟れた黄金の小麦の束が山積みになっている中、機具類の前にだけ広い空間があり、会衆は半円をなして麦束に腰かけた。熊手で小麦を二階に投げ込む戸口が開け放されており、埃だらけの低い屋根には天窓がついていたため、良く晴れた八月の夕べには、それだけで十分な明かりが得られた。窓からは、何哩(マイル)も広がる麦畑のそこここに、刈り取られた後ですでにしっかり野積みされ、取り込まれるばかりとなった穀草の山が点々と見え、その西の端に位置する森林やなだらかな丘陵の彼方には、太陽がつるべ落としに沈みつつあった。その夕べに私たちが歌ったのは、確か

  「嶺々(やまべ)に向かいて われ目をあぐ」

で、フレンチの節に乗せて歌ったと思うが、その後、『マナセ』を朗読する名誉は私に課せられた。それが、この説教の題名なのかどうか私は知らないし、それがスポルジョン氏の名説教の1つなのかどうかも分からない。また、今の私の手元にその説教があるわけでもない。だが、その納屋の二階では救うに力強い説教であり、豊かな収穫が永遠の倉に収められたことは疑いない。その中のある箇所では、神のあわれみがこの罪人のかしらの上にとどまった後で、ひとりの御使いが《天》の隅から隅まで飛びかけて、こう叫んでいたとあった。「マナセが救われた、マナセが救われた」。その時点まで読み上げたこの若者は、それ以上読み続けることができなかった。あなたも、さんざんに聞かされているであろう。学校の男子生徒などというものが、いかに無神経で無頓着か、いかに洗練された感情などと無縁で、情緒の持ち合わせが全くないかを。……それゆえ、この話を信じてほしいとは言うまい。あなたは農夫などというものがいかに鈍感で愚鈍であるか知っているであろう。そう聞かされているであろう。……それゆえ、私の話を信じてほしいとは言うまい。

 その若者の目には何か光でも入ったのであり、その声を詰まらせたのはちりででもあったのであり、ひとりの農夫が手の甲で目を拭ったのも、きっと同じ理由であったに違いない。

 「もう疲(つが)れだんだべ」と、この善良な男は言った。「後(あど)は終わりまで俺が読むがら」。だが、その説教は今も終わりに達してはおらず、決して終わることはないであろう。永遠のいのちへと続くものとなったからである。

 あなたが名前を挙げることのできる、今の時代の説教者たちの中で、このような男たちが一心に話を聞けるだろうような者が、スポルジョン以外にいるだろうか。こうした、なじみ深い説教集が、いずれ村々の店や農家の棚から完全に姿を消すとき、それに取って代われるものが何かあるだろうか。これほど民衆に理解され、これほど人の心を動かす福音が、スポルジョンによってわが国語の最上の言葉によって語られた説教以外にあるだろうか。この善良な男とその細君は、すでに安息に入って久しく、その場に集っていた男たちのひとりとして今どこでどうしているか私には分からない。だが私は、そうした黄金の束を背景にして耳を傾けていたその姿が今も目に浮かぶし、あの御使いの「マナセが救われた」という声が今も耳に響いている。その夕べを始めとする、私の心にとってきわめて神聖な数々の夕べのために、私はスポルジョンを忘れることができないのである。

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驚異の説教集 [了]


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