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放蕩息子への蕩々たる愛

NO. 2236

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1891年12月27日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1891年3月29日、主日夜


「父親は……口づけした」。――ルカ15:20


 改訂訳聖書の欄外を見ていただければ、そこでこの聖句はこう書かれていることが分かるであろう。「そして何度も何度も口づけした」。これはギリシヤ語のきわめて正確な翻訳である。その原文は、「熱烈に口づけした」、「熱心に口づけした」、「しきりに口づけした」という意味にもとらえられるからである。私としては、ごく平明な言葉遣いが好ましく思われるため、改訂訳聖書の「そして何度も何度も口づけした」という読み方をこの説教の聖句として取りたいと思う。その主題は、みもとに立ち返る罪人に対して神がお与えになる、あふれるほどの愛ということになるはずである。

 最初の「そして」という言葉によって、それまで語られた一切の事がらに目を向けさせられる。このたとえ話は、実になじみ深いものではあるが、神聖な意味合いが満ち満ちているため、常に何か清新な教訓を学ぶことができる。それでは、この口づけがなされる前の時点で何が起こっていたか考察してみよう。息子の方に起こったことがあり、父親の方にもいやまして多くのことが起こっていた。放蕩息子は、こうした口づけを受ける前に、遠い国でこう言った。「立って、父のところに行こう」*[18節]。しかしながら、それ以上のことを行なった。さもなければ、父親の口づけを頬に受けることは決してなかったであろう。この決心は行動になったのである。「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った」[20節]。大樽一杯ほどの決意を固めようと大した価値はない。ほんの一粒でも実行するなら、その全部と同じくらい値打ちがある。家に帰ろうと決心することは立派である。だが、家出した若者が、その立派な決意を本当に実行に移し始めるときにこそ、祝福に近づくのである。もしもこの場にいるあなたがたの中の誰かが、長いこと、「私は悔い改めることにします、神に立ち返ることにします」と言ってきたとしたら、決意するのはもうやめて、実行に移がいい。そして、願わくは神がそのあわれみにより、あなたを悔い改めと、キリストを信じる信仰との双方へと導いてくださるように!

 愛の口づけを受ける前に、この若者は父親のもとへと向かう途にあった。だが、親子が本当に相対する前には、父の方がその道のりの大半を駆け寄っていた。人が神に一寸でも与えれば、神は三尺も四尺も与えてくださる。人が神に僅かでも近寄るとしたら、「まだ家までは遠い」*[20節]のに、神はあなたを出迎えに走り寄ってくださる。放蕩息子に父親が見えたかどうか定かではないが、父親には息子が見えた。あわれみの目は、悔い改めの目よりも鋭い。私たちの信仰の目すら、神の愛の目とくらべればかすんでいる。神は、罪人が神を目にするよりもずっと前から罪人の姿をご覧になる。

 この放蕩息子は、足早にすたすたとはやって来なかっただろうと思う。私には、のろのろ足を運んでいる姿が思い浮かぶ。――

   「心はおもく 目は伏せて、
    涙に濡れて、吐息とぎれず」。

戻る決意はしたものの、半ば息子は恐れていた。しかし、父親は走り寄ったと書かれている。悔い改めの歩みは遅いが、赦しの足は速い。私たちが、よたよた歩きすらしかねる場合も、神は走ることがおできになり、私たちが神に向かってよたよた進んでいるとしたら、神は私たちのもとに走り寄ってくださる。この口づけは大急ぎで与えられた。物語の語り口からして、ほとんどそうであったとしか思えない。言い回しそのものが急な調子をしている。父親は「走り寄って彼を抱き、口づけした」。――熱心に口づけした。一瞬たりとも遅れなかった。息は切らしていても、愛を切らしてはいなかったからである。「彼の首を抱きかかえ、そして何度も何度も口づけした」*。息子はそこに立って自分の罪の告白をしようとしていた。なればこそ父親はいやまさって口づけをした。神は、あなたが自分の罪を進んで認めようとしていればいるほど、進んであなたを赦そうとなさる。あなたがすべての罪を白状するとき、すぐさま神はすべての記録を白紙にしてくださる。あなたが自ら進んで認め、御前でへりくだって告白する罪を、神は拭い去ってくださる。進んで自分の唇を用いて告白しようとした者は、これまで悟ってきた。父が進んでご自分の唇を用いて口づけしてくださることを。

 この対照を見るがいい。そこにいる息子は、父を抱こうなどとは夢にも考えていないが、その父親はわが子を目にするなりその首を抱きかかえている。悔悟する罪人たちに対して、神は実に深く身をへりくだらせてくださる。その栄光の御座から身を屈め、悔悟する罪人の首を抱きかかえてくださるように思われる。罪人の首を抱きかかえる神! 何と素晴らしい光景であろう! それを思い描けるだろうか。だが、たとい想像はできなくとも、実感はしてほしいと思う。神の御腕によって首を抱きかかえられ、神の唇を頬に押し当てられ、何度も何度も口づけされるとき、私たちは理解するはずである。説教者や書物のいかなる言葉にもまさって、神のへりくだり給う愛を。

 この父親は息子を「見つけ」た。その「見つけ」という言葉には、途方もなく大きな意味がこもっている。父親は、それが何者か見てとった。どこからやって来たのか見てとった。その豚飼いの衣を見てとった。汚物まみれの手足を見てとった。ぼろ衣を見てとった。悔悟した表情を見てとった。これまで何をしてきたか見てとった。いま何をしているのか見てとった。そして、じきに何をすることになるのかを見てとった。「父親は彼を見つけ……た」。神は、あなたや私には理解できないしかたで、人々をご覧になる。私たちが硝子でできているかのように、一目で私たちを見通される。私たちの過去と現在と未来のすべてを見てとられる。

 「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ……た」。戻って来る息子に父親が向けたのは、氷のように冷たい眼差しではなかった。その目にはたちまち愛が宿り、放蕩息子を見つめるうちに「かわいそうに思い」、すなわち、その胸中を察して同情した。父は、息子に対する何の怒りも心にいだかなかった。これほど浅ましい状況に陥ってしまった、あわれなわが子への憐憫の情しか感じなかった。確かにすべてはその子が自ら招いたことだったが、そのことは思い浮かばなかった。その子がいかなる状態にあるか、その貧困、その落ちぶれ果てた姿、飢えきって頬のそげた面差しこそ、父親の肺腑をついたものだった。そのように神は、人間たちの災厄と悲惨を可哀想に思ってくださる。そうした苦難は自ら背負い込んだものだったかもしれず、事実その通りである。だが、それにもかかわらず、神は可哀想に思ってくださる。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」[哀3:22]。

 さらにこの父親は「走り寄っ」たと書かれている。神は、可哀想に思った後には迅速に動かれる。怒るには遅いが、祝福するには素早くあられる。悔悟する放蕩息子たちに向かって、どのようにご自分の愛を示そうかと思案して愚図愚図したりなさらない。それは、はるか昔の永遠の契約においてことごとく決まっていた。ご自分のもとに立ち戻る者たちのために備えをする必要などない。それはことごとくカルバリの上で行なわれた。神は、悔悟するあわれな魂1つ1つを心底から可哀想に思って、助けに飛んで来てくださる。

   「ケルブ、ケルビムに
    君臨(の)りて主は、
    毅(つよ)き翼の 風を御(か)り、
    普(ひろ)き四方(よも)へと、飛び来たれり」。

 そして、おいでになると、口づけをお与えになる。大家トラップによると、この父親がその放蕩息子を蹴り飛ばしたとしても、私たちはさほど驚きを感じなかったであろうという。よろしい。私なら大いに驚いたと思う。このたとえ話の父親が神を象徴しているからにはそうである。しかし、それでも、この息子は、どこかの無情な者らが加えたかも知れなかったような、あらゆる手荒な仕打ちを受けて当然だった。また、この物語が利己的な父親の話でしかなかったとしたら、このように書かれていたかもしれなかった。「彼が近くにやって来たとき、父親は彼のもとに走り寄って、蹴り飛ばした」。世にはそういう父親がいる。赦すことなどありえないように思える父親たちである。この父親がこの子を蹴り飛ばしたとしても、それは受けて当然の報いだったであろう。しかし、否。この《書》に書いてあることは、いかなる時代の、いかなる罪人にとっても真実であり続ける。――「父親は……彼を抱き、口づけした」。熱心に口づけし、何度も何度も口づけした。

 このように何度も何度も口づけしたとはどういうことだろうか。それは、罪人たちが神のみもとにやって来るとき、神は愛をもって受け入れ、心から歓迎してくださるということである。もしも私が語っている間に、あなたがたの中の誰かが神のみもとに行き、キリストという偉大ないけにえゆえにあわれみを期待するとしたら、このことは、私たちの中の多くの者らと同じく、あなたについても真実となるはずである。「父親は……何度も何度も口づけした」。

 I. 第一に、このように何度も何度も口づけすることは、《多くの愛》を意味している。というのも、神が愛の表現を示すとき、その無限の御心にその愛を感じておられないことは決してないからである。神は決してユダのような口づけを与えたり、ご自分が抱擁する者らを裏切ったりなさらないであろう。神には何の偽善もない。おゝ、いかに神が罪人たちを愛しておられることか! あなたがた、悔い改めて神のもとに行く人々は、神がいかに大いにあなたを愛しておられるか見いだすであろう。神があなたに対していだいておられる愛を測り知ることはできない。神はあなたを世界の基の置かれる前から愛していたし、時がもはやなくなる時にも愛してくださるであろう。おゝ、みもとにやって来て、そのあわれみに身をゆだねる罪人たちに対する神の測り知れぬ愛よ!

 このように何度も何度も口づけすることは、多くの愛が明らかに現わされることをも意味する。神の民は、常に自分たちに対する神の大きな愛が分かっているわけでもない。しかしながら、時としてその愛は聖霊によって私たちの心に注がれる[ロマ5:5]ことがある。私たちの中のある者らには、時々分かることがある。ほとんど生きていられないほど幸いすぎるとはいかなることかを! 何らかの折に、神の愛をあまりにも圧倒的に経験するため、それ以上耐えられなくなり、さらなる喜びを与えないでくださいとほとんど願わざるをえないことがある。その栄光に多少の覆いがかけられなかったとしたら、私たちはあふれんばかりの陶酔と幸福のために死んでしまったはずである。愛する方々。神は素晴らしいしかたで御民の心を開き、ご自分の恵みを明らかに現わされることがある。神は、ご自分の愛を時たま一滴、二滴注ぐのではなく、滔々たる大激流としてお注ぎになることがある。ギュイヨン夫人は霊を通して自分に襲いかかる、一切のものを押し流すような愛の奔流について語るのを常としていた。たとえ話の放蕩息子は、多くの愛がこれほど明らかに示されたことによって、父の情愛の奔流について歌ったかもしれない。それこそ神が、ご自分のお救いになる者たちをお受け入れになるしかたである。しみったれた量の恵みではなく、満ちあふれ流れる愛を明らかにお示しになるのである。

 このように何度も何度も口づけすることは、さらに心で感知された多くの愛を意味する。父親から何度も何度も口づけされたとき、このあわれな放蕩息子は、それまで一度もなかったとしても、このときばかりは父親から愛されていることを知った。その点には何の疑いもなかった。それを明らかに感知した。ごく往々にして、ある罪人がイエスを信じる最初の瞬間には、こうした「多くの」愛を受けるものである。神からそれを明らかに示され、ごく最初からそれを感知し享受するのである。神が最上の葡萄酒を常に最後までとっておかれると考えてはならない。神は、ご自分の食卓に私たちが着くや否や、その最も美味な佳肴を幾分か与えてくださる。私も自分が初めてイエスを信じたときの喜びを覚えている。振り返ってみれば、まるで昨日のことのように鮮明に記憶している。おゝ、私には、あれほど長く重荷を負わされ、あれほどすさまじく意気消沈していた後で、定命の人間があれほど幸福になりえるとは信じられなかった! 十字架上のイエスを見つめただけで、押しつぶすような心の重荷がたちまち消え去ったのである。その重荷のために吐息をつき、泣くことしかできなかった心が飛び上がって躍り出し、喜びの歌を歌い始めたのである。私はキリストうちに自分が欲していたものをすべて見いだし、すぐさま神の愛の中に安らいだ。あなたがたも、キリストを通して神に立ち返りさえすれば、そのようになることがありえる。この放蕩息子のようなことが、あなたについても言われるはずである。「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼の首を抱きかかえ、そして多くの愛をもって口づけした」*。

II. 第二に、このように何度も何度も口づけすることは、《多くの赦し》を意味する。放蕩息子には、告白すべき多くの罪があったが、その詳細に至る前に、父親は息子を赦していた。私は赦された後に罪の告白をすることを非常に好ましく思う。一部の人々は、赦された後には、何の罪の告白もすべきでないと思っているが、おゝ、愛する方々。そのときこそ私たちは最も真実な告白ができるのである。罪の罪責について最も真実に分かるからである!

 そのとき私たちは哀調に満ちたしかたで歌う。――

   「救主(きみ)よ、数多(さわ)なる わが罪の
    いかに悲しく 汝れに落ちん!
    汝が愛苦(くるしみ)に より見れば
    われ十倍(とたび)もそを 痛感(わきま)えん。
    我れその赦しを さとれども
    なおも苦痛(いたみ)を 感ずなり、
    その悲哀(かなしみ)と 苦悶(もだえ)こそ
    主よ、汝が背負いし ものなれば」。

キリストがご自分の血によって私たちのもろもろの罪を洗いきよめてくださったと思うとき、私は自分の罪をずっと鋭く感じ、ずっとへりくだったしかたで、神の御前で告白する。この放蕩息子は、神に立ち返る者たちの経験をありありと描き出している。父親はその赦しの口づけを与えた。だがしかし、その後で、この若者はさらにこう言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」[21節]。ならば、ためらうことなく、自分の罪を神に対して認めるがいい。たといキリストにあって、そうしたものがみな取り除かれていると知っているとしてもそうである。

 こうした見地からすると、このように何度も何度も口づけすることは、まずこのことを意味していた。「お前の罪はみな消え去っている。また、今後は二度と口にされることはない。わが子よ、私の胸に飛び込んで来るがいい! お前は私をいたく悲しませ、また怒らせたが、私はお前のそむきの罪を雲のように[イザ44:22]、お前の罪をかすみのようにぬぐい去ったのだ」。

 この父親が息子を眺め、何度も何度も口づけしたとき、おそらくそこには次のように言わんばかりの別の口づけもあったことであろう。「腹立たしい気持ちは何も残っていない。私は単に赦しただけではなく、忘れ去ってもいるのだ。すべては消え失せ、きれいさっぱりなくなっている。私はお前を二度と再び非難したりしない。こうしたことがあったからといって、お前に対する愛をいささかも減じさせはしない。お前がまだ価値のない、信用の置けない人間であるかのように扱うことは決してしない」。おそらく、そこには別の口づけもやって来たであろう。というのも、忘れてはならないことに、この父親が息子を赦し、「何度も何度も口づけした」のは、その罪がことごとく赦されたことを示すためだったからである。

 そこに放蕩息子は立っていた。父の慈悲深さに圧倒されながらも、自分の過去の生活を思い出していた。わが身を眺めて、「私はまだこの古いぼろ衣を身にまとっており、豚飼いをしていた所からそのままやって来たのだ」と思ったとき、父親からもう一度、あたかもこう言わんばかりに口づけされたと想像できる。「わが子よ。私は過去のことは思い起こさない。お前を見ることができた嬉しさのあまり、お前についている汚れも、ぼろ衣も全く見えないほどなのだ。お前をもう一度手元に置ける喜びのあまり、ぬかるみの中に落ちた金剛石を拾い上げ、それをまた手元に置いておけるのを人が喜ぶように、私はお前を拾い上げるのだ。お前はそれほど私にとって高価なのだ」。これこそ、神がご自分のもとに立ち返る者たちをお取り扱いになる、恵み深く栄光に富むしかたにほかならない。その罪人たちのもろもろの罪のことは、すっかり片付けてしまい、二度と思い出さないほどである。神は、いかにも神らしくお赦しになる。私たちは、その比類なきあわれみを、このように歌っては、あがめ、ほめたたえて良いであろう。――

   「驚き自失(あき)れ、戦(ふる)え喜び、
    われらは受けぬ、神の赦しを。
    赦しぞ、悪の きわみにも、
    赦しぞ、イェスの 血にて購(か)わるる。
    誰(た)ぞ、汝れのごと、赦す神にて、
    豊けく代価(かた)なき 恵みを持つや」。

 「でも」とある人は言うであろう。「それほど素晴らしい変化が私に生じるようなことがありえるでしょうか?」 神の恵みによって、このことは、進んで神に立ち返ろうとしているあらゆる人の経験となりえる。願わくは、それがいま起こり、あなたが神のことばから、聖霊の力によって、また、自分の贖いのためキリストが流してくださった尊い血を眺めることから、堅固な確信をいただくことができ、こう言えるようになるように。「私も今は理解できる。神がいかにその口づけによって私の罪を取り去られたか分かる。そして、再び罪が起こるとき、神はやはり口づけで払い去られる。また、その罪を思って私が恥を感じるとき、神は別の口づけを与えてくださる。私が自分のよこしまな行為を思い出してもう一度赤面するとき、神は私に何度も何度も口づけして、私が完全に、価なしに赦されていることを確信させてくださる」。こういうわけで、この放蕩息子の父親が与えた多くの口づけは、一緒になって、その不従順な息子に自分の罪が本当にすべて消え去ったことを感じさせたのである。こうした口づけは、多くの愛と多くの赦しを明らかに示していた。

III. このように繰り返された口づけが次に意味していたのは、《元の身分への完全な回復》である。放蕩息子は父親に向かって、「私を雇い人のひとりにしてください」と言おうとしていた。あの遠い国でそう言おうと決意していたが[19節]、父親は口づけによって息子を制した。その口づけによって、その子の子たる身分は認められた。その口づけによって父親は、この見る影もない家出人に向かって、「お前は私の子だ」と言ったのである。父親がこの子に与えた口づけは、わが子に対してしか与えないようなものであった。この場にいるどれだけの人が、誰かにそのような口づけを与えたことがあるだろうかと思う。そこに座っているひとりの人は、この放蕩息子が受けたような口づけについて少しは知っている。その人の娘は身を持ち崩し、何年も罪を犯してきた後で、やつれ果てて、せめて実家で死のうと戻って来た。この人は娘に応対し、その悔悟している姿を見てとって、喜んで家に迎え入れた。あゝ、私の愛する方。あなたは、こうした口づけについて何ほどかは知っているはずである! また、そこにいる善良な婦人よ。あなたには家を飛び出した息子がひとりいた。あなたも、こうした口づけについて何ほどかは理解できよう。息子はあなたのもとから去り、何年ものあいだ便り1つ寄こさず、悪徳の限りを尽くす生活を送っていた。風の噂に聞くことといえば、あなたの胸を張り裂けさせるようなことしかなく、ようやく戻ってきた息子は、ほとんど見分けもつかないほど変わり果てていた。あなたは、その子をどのように見つめたか思い起こせるだろうか。その子が、かつて自分の胸に抱きしめた小さな男の子であってほしいとどんなに願ったことだろう。だが、今やその子は大の男となり、とんでもない罪人になり果てていた。だが、あなたはこのような口づけを与え、「おかえり、おかえり」としきりに繰り返した。その子が決して忘れないほど、また、あなたも忘れないほど繰り返した。あなたには、この父親がこう言って示したような圧倒的な出迎えのことが理解できるであろう。「わが子よ。お前は私の息子だ。お前のしてきたいかなることにもかかわらず、お前は私のものだ。どれほどお前が悪徳と愚行のきわみに達していたとしても、私はお前の父親だ。お前は私の骨の骨、私の肉の肉だ」。あわれな罪人たち。このたとえ話でキリストはあなたがたにこう知らせたいと思われたのである。もしもあなたがイエス・キリストを通して神のもとに行き、自分の罪を告白するとしたら、神はあなたを子どもとして認めてくださるのだ、と。神は喜んであなたを迎えてくださるであろう。というのも、すべてはあなたが立ち返る日のために整えられているからである。

   「祝祭(いわい)の食卓(むしろ) 汝がためぞ、
    見よや、用意(そなわ)る 饗宴(うたげ)をば。
    父のみむねに いだかれて
    再び子よと 告げられぬ
    御住まい二度と 離れじな、
    来て、迎(い)れられよ。罪人よ、来よ」。

この父親は、数多くの口づけによって息子を受け入れ、息子の願いがかなえられたことを証明した。実際、この父親は、この子が願うより先にそれをかなえてやった。息子は、「お父さん。私は罪を犯しました」と言ってから、赦しを乞おうとしていた。だが、その願い事を表わす前にあわれみを得て、口づけによってその証印を押された。このことは、あなたにとっても真実となる。おゝ、罪人よ。イエス・キリストを通して、あなたが神に立ち返るならばそうである! あなたは願うことを許され、神のお答えをいただくであろう。これを聞くがいい。あわれな、絶望している罪人よ。願っても天から締め出されているように思われていた者よ! いま御父の胸に飛び込んで行くがいい。そうすれば、神はあなたの願いを聞き、多くの日を経ずして、明確きわまりない証拠によって、あなたを完全にご自分の恩顧へと回復してくださったことを示し、あなたの祈りに答えてくださるであろう。それによってあなたは、自分に対する主のいつくしみに驚嘆するであろう。

 さらにこれに加えて、あなたは自分のあらゆる特権を回復していただくはずである。家出したこの若者が、戻ってきた後で子どもたちの中に入れられたのと全く同じようにである。この息子が、何度も何度も口づけを受けた後で、今や父親の家の中にいて、子としての衣裳をまとい、家族のあかしである指輪をはめ、この家の靴をはいているようにである。食べ物も、もはや豚のえさではなく、子どもたちに与えられるパンである。あなたも神に立ち返るなら、これと全く同じとなる。今のあなたがいかに不潔で卑しく見えようとも、また事実、見かけよりもずっと汚れた者でさえあろうとも、――そして、ある人々からは鼻をつままれるほど、これまで一緒に生きていた豚の悪臭を強烈にさせているとしても、あなたの御父は、遠い国であなたが手を染めていた職業のしるしをも、そのすさまじい汚れの一切をも御目にとめないであろう。この父親が息子をどのように扱ったか見るがいい。口づけし、さらにまた口づけをしている。それは、わが子を知っているからであり、自分の子どもと認め、自分の父親としての心が息子をあわれに思うのを感じているからである。そして、その子に何度も何度も口づけしては、自分が完全にもとの身分を回復していることを知らせようとするのである。

 さて、このように繰り返し与えられた口づけによって、こうした3つのことが分かる。多くの愛、多くの赦し、そして完全な回復である。

IV. しかし、こうした多くの口づけは、それさえ越えたことを意味していた。それが明らかに示していたのは、父親の《大きな喜び》である。この父親は、心に歓喜があふれ、自分の嬉しさを抑えておくことができなかった。その喜びは、繰り返し眺めることによっても示したに違いないと思う。死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったこの息子に対して、この父親がどのようにふるまったか、私の考えるところを告げることにしよう。それがいかなる様子であったか描写させてほしい。父は息子に口づけをした後で、そこにお座りと告げる。それから、子の正面にやって来ては、まじまじと眺め、幸せに感じるあまり、「もう一度お前に口づけしなくては」と言う。それから、しばらく一歩後ろに引いて立つが、すぐに戻って来て、「おゝ、この子にもう一度口づけしなくては!」と思う。それでもう一度口づけする。それほど幸せなのである。父親は心臓の鼓動が早くなる。無上の喜びを感じる。この老人は音楽を奏でさせたい、踊りの輪を前にしたいと思う。だが、それまでの間は、この長いこといなくなっていた子どもを繰り返し眺めることで満足する。おゝ、私は信じる。罪人が真に悔い改めて御父の家へと戻って来たとき、神がその罪人を眺めては、再び眺め、眺め続けては、その間ずっと、その罪人の姿そのものをお喜びになっていることを。

 このように繰り返された口づけは、繰り返し与えられた祝福をも意味していた。というのも、この父親は、息子を抱きかかえ、口づけするたびに、こう言い続けていたからである。「お前に祝福あれ。おゝ、お前に祝福あれ、わが子よ!」 父は、息子が戻って来たことで自分に祝福をもたらしてくれたのを感じ、その子の頭の上に清新な祝福が下るようことを請願した。おゝ、罪人よ! もしあなたが本当に神がどれほどあなたを歓迎し、どれほどあなたを眺め、どれほどあなたを祝福してくださるかを知っていさえしたなら、確かにあなたはすぐさま悔い改め、その御腕と胸の中に飛び込んで行き、その愛にひたされ幸いになるのを覚えるであろう。

 この多くの口づけは、やはり繰り返し感じられた嬉しさをも意味していた。罪人に神を喜ばせる力があるとは非常に素晴らしいことである。神は幸いな神、あらゆる幸福の源であり泉であられる。私たちがその神の幸いさに何をつけ足せるだろうか。だがしかし、人間的な言い方をすると、神の最高の喜びは、ご自分の強情なエフライムたちを胸にかき抱くことである。その嘆いている声を聞き[エレ31:18]、その、立ってご自分の家へと立ち返って来る姿を目にすることである。願わくは、今しも神がその光景をご覧になり、罪人たちがみもとに立ち返るのを見て楽しみをお感じになるように! しかり。私たちは確かにそうなると信じる。神は私たちとともに臨在しており、聖霊が恵み深く働いておられるからである。確かに、それがこの預言者の言葉の教えに違いない。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」[ゼパ3:17]。考えても見るがいい。永遠の神が歌っておられることを。また、思い出すがいい。家出していた罪人がみもとに立ち返ったからこそ、神がお歌いになるのだということを。放蕩息子の帰還を神は喜び、諸天はこぞって神の喜びにあずかるのである。

V. 私の主題はまだ終わりに達してはいない。第五に眺めるとき、こうした多くの口づけは《あふれ流れる慰め》を意味していることが分かる。このあわれな若者は、飢えて、やつれて、悲惨な状態のまま、長い道のりをやって来た後で、心の張りをほとんどなくしていた。空腹のためからだの活力はからからに干上がり、自分の罪責を痛感していたため父親と顔を合わせる勇気もほとんどなかった。それで、その父親は息子にこう言わんばかりの口づけを与えたのである。「さあ、子よ。落胆していてはならない。私はお前を愛しているのだ」。

 「おゝ、過去のこと、過去のことは、お父さん!」と息子は自分のみじめな歳月のことを思って呻いたかもしれない。だが、そう言うや否やもう一度口づけされた。あたかも父が、こう言ったかのようだった。「過去のことなど気にするな。私はそうした一切のことを忘れてしまっている」。これが、救われた者たちを主が扱われるしかたである。その者たちの過去は、贖罪の血の下に隠されている。主はご自分のしもべエレミヤによって語っておられる。「イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ」[エレ50:20]。

 しかし、そのとき、ことによると、この若者は自分のむかつくような服に目を落として、言ったかもしれない。「お父さん、現在のことは、現在のことは。何の恐ろしい有様を私はしていることでしょう」。すると、さらなる口づけとともに答えがやって来る。「現在のことは気にするな。わが子よ。私はありのままのお前に満足している。お前を愛しているのだ」。これもまた、「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]ている者たちに対する神のおことばである。その一切の卑しさにもかかわらず、そうした者たちはキリストにあってきよく、しみなく、ひとりひとり神からこう言っていただくのである。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している[イザ43:4]。それゆえ、あなたは、自分自身としてはふさわしくなくとも、わたしの愛する御子を通して、わたしの家に歓迎されるのだ」。

 「おゝ、ですが」とこの子は言ったかもしれない。「お父さん、未来のことは、未来のことは! 再び私が道を踏み外すようなことがあったら、あなたは何とお思いになるでしょう?」 そのとき、もう一度この聖なる口づけがやって来て、父親が言うであろう。「未来のことはわたしにまかせておくのだ。わが子よ。わたしがお前のために輝かしい家を作ってやろう。お前が二度と道を踏み外さないような家を」。しかし、私たちが神のみもとに立ち返るとき、神はそれすら越えたことを私たちのために行なってくださる。神は、単にその愛の贈り物で私たちを取り囲むばかりでなく、私たちについてこう仰せになるのである。「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」[エレ32:38-40]。さらに、神は立ち返る者ひとりひとりに向かってこう言われる。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる」[エゼ36:26-27]。

 この息子の心を悩ませるものが出るたびに、父親は口づけを与えて万事問題ないと示した。そして、それと同じように私たちの神は、ご自分と和解させられた子らに疑いや動揺がやって来るたびに愛の贈り物をしてくださる。ことによると、いま私が話をしている方々の中には、こう言っている人がいるかもしれない。「たとい自分の罪を告白し、神のあわれみを求めたとしても、私はそれでも非常な苦悩の中にいることでしょう。自分の罪のために、私は自ら貧困の中に落ち込んでしまったのですから」。主は仰せになる。「ここに、あなたへの口づけがある。あなたのパンは与えられ、あなたの水は確保される[イザ33:16参照]」。別の者は言うであろう。「ですが、私は罪によって病にかかってしまったのです」。「ここに、あなたへの口づけがある。わたしは主、あなたを癒す者である。あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒す[出15:26; 詩103:3参照]」。別の者は言うであろう。「ですが、私はすさまじくうらぶれた状態にあるのです」。主はあなたにも口づけを与えて仰せになる。「わたしはあなたを引き上げ、必要な一切のものを与えよう。わたしは、正しく歩く者たちに、良いものを拒まない[詩84:11参照]」。この《書》にあるあらゆる約束は、悔い改めて、神の御子イエス・キリストを信じて神に立ち返る罪人ひとりひとりのものなのである。

 放蕩息子の父親は、この子に何度も何度も口づけし、そのようにして、その場でその子に幸福を感じさせた。

 あわれな魂たちは、キリストのもとにやって来るとき、すさまじい苦境の中にあり、その中には、今の自分がどういう状況にあるのかほとんど分からない者たちもいる。私の知っているそうした者たちは、絶望のあまり数々の馬鹿げたことを口走り、そのすさまじい疑いの中で、聞くにたえないよこしまなことを神について語ることがあった。主はそうした言葉に必ずしも答えを与えず、ただ口づけを与え、さらに口づけをお与えになる。悔悟する者を何にもまして落ち着かせるのは、主がその変わりなき愛を繰り返し確信させてくださるときである。そうした者を主はしばしば受け入れ、「何度も何度も口づけし」、滅びの穴からさえ引き上げては、その足を巌の上に置き、歩みを確かにされる[詩40:2参照]。願わくは、私がいま話をしている多くの人々が、語られていることを理解できるように!

VI. さて今、本日の第六の項目について語りたい。このように多くの項目を立てると、私が古の清教徒たちのようになりつつあると思う人もいるであろうが、これはしかたのないことである。このような多くの口づけには多くの意味があるからである。愛、赦し、回復、喜び、慰めがその中にあり、そしてさらに《強い確信》もそこにある。

 この父親が何度も何度も口づけしたのは、息子にこのことがすべて本当のことだと全く確信させるためであった。放蕩息子は、このように多くの口づけを受ける中で内心こう思ったことであろう。「この愛はみな真実に違いない。というのも、少し前までは豚のブーブー言う声を聞いていたのに、今は愛する父の唇が立てる口づけの音のほか何も聞こえないからだ」。それで父親は立て続けに口づけを与えたのである。最初の口づけが本物であると確信させるには、繰り返し口づけるに越したことはないからである。そして、もしも二番目の口づけについて何か疑いが残っていたとしても父親は三番目の口づけを与えた。古の夢が戻って来るときも、この解釈が確実だったとしたら、このように繰り返された口づけは疑いの余地を全く残さなかった。父親が自分の愛の贈り物を更新したのは、息子が完全にその愛の真実さを確信するためであった。

 父親がそうしたのは、将来にそれが決して疑問を呈されないためであった。私たちの中のある者らは、回心前に、あまりにも低い状態に陥ってしまっていたため、神は私たちをお救いになるとき、あふれるほどの喜びをお与えになった。私たちが決して忘れないようにである。時として悪魔は私に、「お前など神の子どもではないぞ」と言うことがある。私はとっくの昔に悪魔に言い返すことをやめている。というのも、このように狡猾な、昔からの偽り者と議論するのは時間の無駄だと感じるからである。悪魔は、私などかなわないほど物知りである。しかし、どうしても答えなくてはならないとしたら、私は言う。「何と、私は自分が主によって救われたときのことを覚えているのだ。私の救い主を初めて見た場所さえ忘れることはできない。その時そこで私の喜びは、大西洋の怒涛のように押し寄せ、無数の祝福の泡となって砕け散った。それを忘れることはできない」。それは、悪魔でさえ答えられない議論である。というのも、それが決して起こらなかったことだと私に信じさせることはできないからである。御父は何度も何度も私に口づけなさったし、私はそれを完全によく覚えている。主は私たちの中のある者らが回心した日に、きわめて明確な解放と、きわめて明るい陽光の日をお与えになる。それは、それ以後の私たちが御前における自分の状態に疑いをいだけないようにし、自分が永遠に救われていると信じざるをえなくするためである。

 父親は、いま戻って来た、このあわれな放蕩息子の確信を、いかなる疑いも越えたものとした。たとい最初の何回かの口づけが、父子二人だけしかいない個人的な場で与えられたとしても、後には人々の面前で、他の人々から見える所でこの子に口づけしたはずである。父親は、家中の一同の前でこの息子に何度も何度も口づけした。一家の中にも、この息子が父親の子どもであることに疑問を呈する者がいないようにするためである。兄息子がその場にいなかったことは遺憾であった。知っての通り、兄は畑に出ていた。弟を迎えるよりも、作物の方にずっと関心があったのである。現代の時代にも、私はそうした人を知っていた。その人は、平日夜の礼拝にやって来ることをしなかった。自分の実業に精を出しすぎて、ある木曜の夜にやって来なかったが、そうした折に放蕩息子が家に戻って来たため、この兄息子は父親がいかに弟を迎え入れたか目にしなかった。もしその人がいま生きているとしたら、おそらく教会集会にはやって来ないであろう。忙しすぎるであろう。だから、悔悟した罪人たちが迎え入れられた姿について知ることがないであろう。しかし、この父親は、わが子を迎え入れたときには、すべての者に、一度限りきっぱりと知らせようとしたのである。この子がまことに自分の子どもであることを。おゝ、あなたも今このように多くの口づけを受けることができるとしたらどんなに良いことか! もしもそうした口づけを受けるとしたら、あなたは今後の一生の間、確信を持つことになるであろう。あなたが最初期の日々に味わった幸福から引き出された強い確信を。

VII. このことを述べて話を終わりたいが、思うにここには、主が最初にみもとにやって来た際の罪人たちにしばしばお与えになる、《親密な交わり》を典型的に示すものがある。「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」。

 見ての通り、これが起こったのは、家族としての交わりの前であった。しもべたちが食事を整える前、家族の中で何も音楽や躍りが行なわれないうちに、父は息子に口づけをした。放蕩息子は、どれほどしもべたちが歌を歌おうと、どれほどのもてなしをしもべたちから受けようと、まず最初に実父の胸の中で歓迎されていなかったとしたら、何の興趣もありがたみも感じなかったであろう。私たちもそれと同じである。私たちは神との交わりを得て初めて神の民との結びつきをありがたく思うのである。教会に加入する前に、私は自分の御父から口づけを受けたいと思う。牧師から、交わりのしるしとして右手[ガラ2:9参照]を差し伸べてもらう前に、天におられる私の御父から右の御手を伸ばしてもらって迎え入れていただきたいと思う。この下界にいる神の民から認めてもらうより前に、天上におられる偉大な御父から個人的に認めていただきたいと思う。そして、放蕩息子として父のみもとにやって来るあらゆる人に神はそうしてくださる。願わくは神が、あなたがたの中のある人々に今そうしてくださるように!

 この口づけが行なわれたのは、食卓に置ける交わりの前であった。知っての通り、放蕩息子はやがて父の食卓の席につき、肥えた子牛を食べることになった。だが、その前に父親はこの子に口づけした。この息子が心安らかにこの饗宴の席に着いているためには、それ以前に愛の口づけを何度も受けていなくてはならなかった。私たちが招かれている食卓の交わりは、きわめて甘やかなものである。主の晩餐という儀式において、象徴的にキリストの肉を食べ、その血を飲むのは、実際、ほむべきことである。だが、私は愛の口づけというかたちで神との交わりを得てから、その食卓に向かいたいと思う。「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」[雅1:2]。それはひそやかな、めくるめく、甘やかな体験である。願わくは神がそれをあなたがたの中の多くの人々に与えてくださるように! 願わくは、あなたが御父からの多くの口づけを受け、その上で教会に、あるいは、聖餐卓のもとにやって来るように!

 こうした多くの口づけがなされたのは、やはり同じように公に喜ぶことの前であった。友人たちや隣人たちもこの饗宴にあずかるように招かれた。しかし、考えてもみるがいい。もしもこの息子がまず最初に自分の父親の愛に浴していなかったか、その愛について全く確信していなかったとしたら、そうした人々の面前でいかに恥じ入ることになったかを。ほとんどもう一度逃げ出したいような気持ちにかられたであろう。しかし、この父親がすでに何度も何度も口づけしてくれたし、そのため旧知の人々からの好奇の目を向けられても微笑んで応対することができたため、人々が口にしようと考えていたかもしれない意地悪な言葉も、父親への喜びを満面に表わしている息子の姿を見れば、全く薄らぎ、しなびてしまうほどだった。人がキリストを告白することは、キリストとの交わりを圧倒的なしかたで感じていなければ、困難なものである。しかし、神から与えられる陶酔感によって天にまで引き上げられるときには、この世に真っ向から立ち向かうことばかりか、キリストに反対していただろう人々の共感さえ受けることが容易になる。だからこそ、初心の回心者たちは往々にして他の人々を光に導くために用いられるのである。主の赦しという多くの口づけをごく最近に受けたばかりであるため、そうした人々が、主によって触れられたばかりの唇から語る言葉は、神の愛の香りを放っているのである。悲しいかな! 一部の人々がその初めの愛[黙2:4]を失い、自分たちの天の御父から受けた多くの口づけを忘れてしまうとは!

 最後に、こうしたすべてが与えられたのは、兄息子と出会う前であった。もしも兄息子が何と考え、何と言うかをあらかじめ知っていたとしたら、この放蕩息子が逃げ出して、二度と決して 戻って来なかったとしても全く無理はないと思う。家に近寄りはしたかもしれないが、兄の言葉を聞きつけて、再びこっそりと立ち去っていたことであろう。しかり。だが、そうしたことが起こる前に、父親は弟息子に多くの口づけを与えていた。あわれな罪人よ! あなたはここにやって来たし、ことによると、《救い主》を見いだしたかもしれない。たぶんこの場を出て行った後には、何人かのキリスト者たちと話をするであろう。すると、相手は、あなたとは多くのことを語り合うのを恐れるであろう。その人があなたに疑いをいだくとしても無理はないと思う。というのも、あなたは、あなた自身としては、まだ話をしてもあまり愉快な種類の人間ではないからである。しかし、もしもあなたがあなたの御父から多くの口づけを受けているとしたら、兄息子から多少つらく当たられても気に病まないであろう。時折、私はこうした人のことを耳にする。教会に加入したいと思いながらも、こう言っているというのである。「私は長老たちとの面接に来ましたが、そのうちのひとりが私にちょっと荒々しい態度を取ったのです。もう二度とここには来ません」。何と馬鹿な人間に違いないことか! あなたがたの中のある人々に向かって荒々しく接することは、長老たちの義務ではないだろうか。人が自分を欺き、自分の真の状態について思い違いをするといけないからである。私たちは愛によってあなたをキリストへと導きたいと願っており、もしもあなたが本当には悔悟と信仰によって神のもとに立ち返っていないのではないかと心配するときには、正直な人間としてそう告げるべきではないだろうか。しかし、かりにあなたが本当にみもとにやって来ていたとして、兄息子が間違いを犯していたとしよう。そのときは、行って御父からの口づけを受けることにし、兄息子のことは気にしないがいい。その人はあなたに、いかにあなたが人生を浪費してきたかを思い起こさせ、当然そうあってしかるべき以上にどす黒く描き出すかもしれない。だが、御父の多くの口づけによって、あなたは兄のしかめ面など忘れてしまうであろう。もしもあなたが、信仰の家族の中では、誰しも愛想が良く、誰しも喜んで自分を助けてくれるだろうなどと考えているとしたら、大間違いであろう。初信のキリスト者たちは、しばしば恐れをいだかされるような人々に出会うことがある。自らの希望を何度となく裏切られるか、自然な警戒心をいだくかするため、あるいは、ことによると、霊的ないのちに欠けているかもしれないために、御父がふんだんに愛を注いでくださった者たちを冷たくしか受け入れない人々である。もしもあなたがそうした目に遭っているとしたら、そのような扱いにくい兄息子たちのことは決して気に病んではならない。あなたの御父からもう一度口づけしていただくがいい。ことによると、「父親は……何度も何度も口づけした」と書かれている理由は、兄息子が弟に近づいたとき、これほど冷たくあしらい、怒って饗宴に加わろうとしないことになるからであったかもしれない。

 主よ。多くのあわれな震えている魂たちに、みもとに行く意志をお与えください! 多くの罪人たちを、あなたのほむべき胸の中に導き、まだ遠く離れているうちに走り寄って出迎え、その首を抱きかかえ、多くの愛の口づけを与えてください。そして、天的な楽しみにあふれるほど満たしてください。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

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放蕩息子への蕩々たる愛[了]


説教前に読まれた聖書箇所――ルカ15章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 568番、521番、548番


第37巻 ―了―

 読者諸兄には、『メトロポリタン・タバナクル講壇』の最新巻冒頭の説教に特に注意を払ってほしいと願う。その表題は、「墓からの解放への感謝」であり、スポルジョン氏がその長患いの後でようやく改訂できたものである。主題聖句は詩篇118:17、18、「私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。主は私をきびしく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった」。これらの説教を読んで益を受けた方々が、それを、まだこうした説教に接したことのない他の人々に紹介してくだされば、説教者と出版者の双方が喜ばしく思うであろう。

 近時、絵付きスポルジョン氏全集目録が、きわめて美麗な装丁を施した上で、パスモアとアラバスターの両氏によって刊行された。申し込みのあり次第、同目録は、二千二百以上の説教の聖句と主題の一覧表付きで送付される。

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