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非難の余地なき正義

NO. 86

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1856年6月15日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」。――詩51:4


 昨日は、私にとって非常に粛然とさせられる日であった。一日中、私の思いに重くのしかかるものがあり、どうしても振り払うことができなかった。というのも、どうかすると私は、絶えず思い起こしたからである。その日のうちに、私の同胞の中でも最も堕落しきった者のひとりが、未知の世界へと送り出され、自分の《造り主》の前に立たされたのだ、と*1。人によっては、涙もなく彼の処刑に立ち会えたかもしれないが、私は、この先長く、そのことを考えただけでも涙せずにはいられないだろうと思う。これほどの罪を犯した人間が、悲惨さに苛まれるしかない永劫の時期に乗り出そうとしていたのである。それは、悔悟せざる者が受けるぞっとするような破滅であり、神が罪人たちのためにお備えになった世界である。昨日の朝、太陽は吐き気を催すような光景を見た。――ひとりの人間が、おのれの犯した咎ゆえに、1つの司法手続きによって永遠へと送り込まれる光景である。その咎によって彼は忌むべきものとされ、このことが記憶される限り、彼の名には恥辱が刻印されるであろう。

 現在、世論を激しく揺り動かしていることを、私は本日、ことのほかすぐれた目的のために用いてみたい。世間が多少とも疑念をいだいているのは、2つのことに限られる。陪審の評決は、全英国の評決であったし、彼の犯した咎について私たちは全く異議はなく、ほぼ絶対に確実であると云える。だが、私たちの思いには2つの疑いがある。――その1つは小さなものであると認めてもよい。だが、もしその2つとも解決できたとしたら、私たちは今よりも格段に心を安んじるであろう。その1つは、この犯罪者の咎に関してであり、もう1つは、彼の罰に関してである。少なくとも、少数の私たちの同国人は、私たちが彼に宣告したときに正しくはなかったのかもしれない、また、彼が裁かれたときに完全にきよくはなかったかもしれない、と恐れている。2つのことが必要であった。私たちは、彼の自白があればどんなによかったかと思う。確かに、情況証拠以上のものを提起するに越したことはないであろう。殺人行為がなされたのだと誓うことのできる目撃者の証言があったとしたら、どんなによかったことか。しかし、さらに、多くの人々の精神の中には、ここまで厳しい処罰が必要なのか疑わしいという強い感情がある。一部の人々は権柄ずくに、殺人には殺人者の血が流されなくてはならないのだと断言する。だが、ある人々の考えによると、キリスト教によって律法は改善されたのであって、今ではもはや「目には目を、歯には歯を」の時代ではないのだという。英国の多くの人々は、いかに大きな罪を犯した者に対してであれ、これほど恐ろしい刑罰を執行するという考えに身震いしてきた。というのも、それは彼を、全く希望の届かない所に押しやってしまうことにほかならないからである。私は死刑という問題に立ち入るつもりはない。その件については私にも意見はあるが、この場はそれを述べるのにふさわしい場所ではない。私が望むのは、ただこうした事実を用いて、この聖句を例証することである。ダビデは云う。「おゝ、主よ。私の告白を聞いてください。『私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し』ました。そして、私自身の良心によっても、あなたは『正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます』。そして、主よ。私たち自身の良心のほかにも、また別のものがあります。あなたが、あなた自身が、私の行為の目撃者だったのです。『私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました』。そして今、あなたは実際、『宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます』。そして、私の処罰の厳しさについて云えば、そこには何の疑いもありえません」。人間が、人間に対する犯罪のために処罰を執行するとき、その厳しさには疑いがありえるかもしれない。だが、神ご自身が、ご自分に対して犯された犯罪に復讐なさるとき、そこにはいかなる疑いもありえない。「あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」。

 そういうわけで、今朝の私たちの主題は、あらゆる罪人が罪と定められ、罰されることにおいて、神は正しいとされる、ということである。そして、神は2つの事実から、全く公然ときよいとされるであろう。その2つとは、罪人自身の告白と、神ご自身がその行為の目撃者であられるということである。そして、罰の厳しさについて云えば、それを受けるいかなる人の思いにも、何の疑いもないであろう。というのも、神は、その断罪が、罪の正当な報いであり、それ以上でもそれ以下でもないということを、その人に対して、その人自身の魂の中で証明なさるからである。

 罪と定めることには2つの種類がある。1つは、選民が罪と定められることである。これは、彼らの心と良心の中で行なわれる。すなわち、自分に頼ることができないとして、彼らが自らのうちで死の宣告を受けるときのことである。――このように罪と定められた後には、例外なく神との平和が続く。なぜなら、そのとき彼らはキリスト・イエスのうちにあり、彼らは肉に従って歩まず、御霊に従って歩んでいるので、この後、さらに罪に定められることは決してないからである[ロマ8:1-4]。第二の意味においては、悔悟しない者たちが最終的に罪に定められる。彼らは、死ぬとき、自分の犯してきたもろもろの罪のゆえに、神からこの上もない義をもって、正しく罪に定められる。――このように罪に定められた後では、先の場合のように赦されることはなく、神の御前から地獄に落ちることが続かざるをえない。私たちは今朝、この2つの種類の罪に定めることの双方について話をしたいと思う。神は宣告なさるときにきよく、罪にお定めになるときに正しくあられる。それは、キリスト者の心の中で罪にお定めになるときも、御座から罪に定めると宣告なされ、悪人が御前から引きずり出されて、その最終的破滅を受けるときも、変わらない。

 I. まず最初に、《キリスト者に関して》である。キリスト者は良心によって、また神の聖霊によって、自分が罪に定められるのを感じる。またその人は、神の律法の雷鳴が自分を非とする判決を宣告するのを聞く。それは、自分の《救い主》の上ですでに執行されていなかったとしたら、自分の上で履行されたであろう判決である。そのように感じるとき、その人は、いかなる云い訳を申し立てるべき根拠も全く有していない。むしろ、詩篇作者の言葉によってこう云う。「あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」。その様子をあなたに示させてほしい。

 1. 第一のこととして、そこには告白がある。昨日処刑された男の場合は、何の告白もなかった。それを期待する方が間違いだったであろう。このような犯罪を犯した人間が、それを告白できるような者であるはずがなかった。彼がその咎について無情なまま死んだという事実が、彼が有罪であることをほぼ決定的に証明している。というのも、もし彼が何らかの感情を露わにするか、膝を折ってあわれみを嘆願するかしていたとしたら、私たちも彼がこれほど卑劣な血にまみれた行為を犯してはいないのではないかと疑ったかもしれない。だが、彼が冷ややかな態度を取り続けたという事実そのものから、私たちは彼が犯罪を犯せたのだと推測する。そうした犯罪は、その醜悪さそのものによって、それが麻痺し鈍磨した良心の所産であると指摘している。だがキリスト者は、《聖なる律法》によって罪に定められるとき、罪を告白する。何もかも自分から告白する。自分に対する宣告を神がお告げになるとき、それが執行されることは正しいと感ずる。というのも、今や正直になったその人の心は、自分の咎を洗いざらい告白するようその人をつき動かすからである。ここで私に、赦しに続くような告白について、いくつかのことを言及させてほしい。

 第一に、そうした告白は、真摯なものである。それは、単なる形式尊重主義者が膝をかがめて、自分は罪人ですと叫ぶときに、ぺらぺら口にするような告白ではない。それは疑いもなく真摯な告白である。なぜなら、それは、すさまじい精神の苦悶と、通常は涙と吐息と呻きを伴うからである。悔悟した者の様子には、その人が自分の罪を告白するとき、ただの擬態ではないかという不安を全く消し去ってしまうようなものがある。そうした感情の発露には、内なる霊の苦悩がありありと示されている。その人は、自分の神の前に立ち、自分を責める《王》の証拠を、単に自分を救うための手段に利用しようとするのではなく、目に涙を浮かべながら、「おゝ、神よ。私は有罪です」、と叫び、自分が犯罪を犯した事情を、あたかも神が全く自分のことを見ていなかったかのように物語り始める。その人は、神がすでにご存じのことを神に告げる。そして、そのとき、《恵み深いお方》は、この約束の真実さを証明してくださるのである。「自分の罪を告白する者はあわれみを受ける」*[箴28:13]。

 次に、その告白は、私たち自身を罪に定めるものとして、常に余りあるほど十分である。キリスト者は、たとい告白すべき自分の罪が、神に対して告げざるをえない罪の半分しかなかったとしても、それだけで自分の魂を永遠に地獄に落とすのに十分であると感じる。――認めざるをえない犯罪が1つしかなかったとしても、それは首につけた石臼のように、自分を永遠に底知れぬ所に沈み込ませるだろうと感じる。自分の告白が、自分を罪に定めるのに十分すぎるほど十分であると感じる。――すべてを告白するなど蛇足のように感じる。というのも、その一割程度であっても、自分の魂を地獄に送り込み、そこに永遠に住まわせるには十分だからである。あなたは今まで、このように告白したことがあるだろうか? もしないとしたら、神にかけて云うが、あなたは自分の罪を真に告白するとはどういうことか、まだ全然わかっていないのである。あわれみに続くようなしかたで、罪に定める宣告を云い渡されたことが一度もないのである。むしろあなたは、いかなる愛のことばにも続くことのない、あの恐ろしい宣告が下されるのを待っているのである。そうした宣告の後では、無限の憤りと立腹による刑が執行されるしかない。

 またこの告白は、罪についてのいかなる弁解も伴わない。聞くところ、ある人々は自分の咎を告白した後で、その情状を酌量してもらおうとして、自分が見た目よりは悪くないとする理由を云い立て出すという。だがキリスト者が自分の咎を告白するときには、一言も減刑を訴えたり、弁解する言葉は聞かれない。その人は云う。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました」。そして、このように云うことによって、その人は、神が自分を罪に定めるとき神を正しいとし、神が自分に永遠の刑を宣告するとき神をきよいとするのである。あなたは今までそのような告白をしたことがあるだろうか? 今までこのように神の前で自分を屈伏させたことがあるだろうか? それとも、自分の咎を云いつくろおう、自分の罪を些細なことだと呼び、自分の犯罪を、軽い違反ででもあるかのように語ろうとしてきただろうか? このようにしてこなかった場合、あなたは自分の内側に死の宣告を感じたことがないのである。今なお、かの厳粛な死の鐘が、あなたの破滅の時を鳴らすのを待っているのである。そしてあなたは、世界中があげる罵声の中を引きずり出され、永遠に罪に定められて、決して衰えることのない火焔に至らされるのである。

 さらにキリスト者は、自らの罪を告白した後で、自分はもっと良い者になりますなどという約束を決して申し出ない。ある者らは、神に対して告白をするとき、「主よ。もし赦していただけるとしたら、二度と罪は犯しません」、と云う。だが、神につく悔悟者たちは決してそうは云わない。彼らは御前に出るときこう云う。「主よ。私は以前なら約束しました。以前なら決心をしました。ですが今は、そのようなことをしようとは思いません。そんな決心はたちまち崩れてしまい、私の咎を増すことにしかならないでしょう。私の約束などたちまち破られて、私の魂をより深く地獄に沈めることにしかならないでしょう。私に云えることはただ1つ、もしあなたが私にきよい心を造ってくださるとしたら[詩51:10]、私はそのことゆえに感謝し、永遠にあなたを歌うでしょう。ですが、私は罪なく生きていくとも、自分で自分を義をするとも約束できません。父よ。二度と道を踏みはずなさないどととは、私には約束できません。

   『よし汝れ堅く われを保(も)たずば、
    われは必ず 墜ちてゆくべし、
    終(つい)には他の 者等(もの)と同じく』。

主よ。もしあなたが私を断罪しても、私に文句を云えません。私を破滅に陥らせても、不平は云えません。ですが、イエス・キリストのゆえに、こんな罪人の私をあわれんでください」。その場合、見ての通り、罪にお定めになるときに神は正しく、お審きになるときに神はきよい。地上のいかなる裁判官も絶対に及ばないほどにきよい。なぜなら、このような告白が法廷でなされることはきわめてまれだからである。

 2. また、キリスト者がその良心の中で律法によって罪に定められるとき、そこには、その人の告白以外にも、その人を罪に定める神を正しいとする別のものがある。それは、神ご自身が、その《審き主》が、その犯罪の証人として前に進み出るという事実である。罪を確信させられた罪人が、自分自身の魂の中で感じるのは、自分のもろもろの罪が神の眼前で、神のあわれみを前にして犯されたのだ、ということである。また、自分がいま罪に定められている犯罪と、自分をこの法廷に引き出した罪とのあらゆる部分、あらゆる小片を、神は厳密かつ、つぶさに観察しておられた、ということである。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」。

 キリスト者になったばかりの、罪を確信させられた罪人がそのとき感じるのは、神が証人であり、最も真実を語る証人だということである。――神はごらんになっており、何者よりも明瞭にごらんになっていたのだということである。そして、神がその律法によってその人に、「罪人よ。お前はこれこれのことをした。これこれのことをした」、と云うとき、覚醒している良心はこう云う。「主よ。その通りです。それは、あらゆる状況から見て真実です」。そして、神がさらに、「お前の動機は邪悪だった。お前の目的は罪深かった」、と云うとき、良心は云う。「そうです、主よ。その通りです。私はあなたがそれをごらんになっていたこと、あなたが確かな観察者であられることを知っています。あなたは決して偽りの証言をなさいません。あなたが律法の中で私について仰ることはみな真実です」。神が、「お前のくちびるの下には、まむしの毒があり、お前ののどは、開いた墓であり、お前はその舌でへつらいを言う」*[ロマ3:13; 詩5:9]、と云うとき、良心は、「それはみな本当です」、と云う。神が、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」[エレ17:9]、と云われるとき、良心は、「それはみな本当です」、と云う。また、罪人が、自分の犯したあらゆる罪は天に書き記されており、神がそれを記録なさったのだというこの恐ろしい思想をいだくときに、その人は、それゆえにこそ神は、罪にお定めになるとき正しく、お審きになるとききよい、と感じる。

 そしてさらに、神が真実を語る証人であるばかりか、神の語る証言はあり余るほどのものである。知っての通り、わが国の法廷に持ち出される事件の中には、証人が、「自分はその男がこれこれのことをするのを見ました」、と誓って述べても、その人物がだれであったかを間違えているという場合がままある。ことによるとその人は、事の一部始終を見ていなかったかもしれない。また、そのときその人は、相手の人の心の中までのぞきこみ、その人がそのように行なった理由を見てとったわけではない。だが事件は、その理由いかんで軽くも重くなりえるのである。しかし、ここに私たちは、こう云うことのできる証人を有している。「わたしは、その犯罪のすべてを見た。それが構想されたときの情欲を見た。それが表に出されたときの罪を見た。それが完了し、死をもたらしたときの罪を見た。私はその動機を見た。その最初の想像を眺めていた。黒いせせらぎのように、罪がちょろちょろ流れ出す姿を、また、それが突如として悪をつぎこまれて膨れ上がり出した姿を見た。また、それがついには、底なしの深さの広大な海原になるのを見た。――その海原は、人間の足で渡ることができず、あわれみの船でさえ、とある偉大な水先人が自らの血を流すことによって舵を取らない限り、航海することもできないほどである」。そのときキリスト者が感ずるのは、神がそれらすべてを見ておられた以上、宣告なさるとき神は正しく、罪に定めなさるとき神はきよい、ということである。私は、もし自分が裁判官だとしたら、黒天鵞絨の帽子をかぶって、ある人に死刑を宣告するときには、厳粛な責任を感ずるはずである。なぜなら、いかに注意深く証拠を考量しようと、いかに囚人の咎が明白であるように見えても、そこには間違いを犯す可能性があるからである。同胞の魂を未来の世界に引き渡すのは、厳粛なことである。その判断に誤りの可能性があればなおさらである。だが、もし私が自分でそのむごたらしい所業を見ていたとしたら、その黒帽子をかぶり、相手を有罪であると宣告するのは、いかに気楽になることか。というのも、私は知るからである。世間は知るからである。自ら目撃者である私は、宣告するときに正しく、罪に定めるときにきよいということを。さて、それこそまさに、自分の良心において神から罪に定められるときキリスト者が感じることである。その人は手を自分の口に当て、一言も発さずにその宣告の正しさに服する。良心がその人に自分は有罪であると告げる。なぜなら、神ご自身が証人であられるからである。

 3. 世論の考えるところとして先に私が示唆したもう1つの問題は、処罰の厳しさである。だが信仰者の場合、罪に定められるとき、その罰の正しさにはいかなる疑いもない。魂のうちにおられる聖霊なる神が古い人に死刑宣告を下すとき、また、そのもろもろの罪のゆえにその古い人を罪に定めるとき、心の中にはこの真理が何にもまして厳粛に感じられる。すなわち、地獄そのものでさえ、罪にとっては正当な処罰である、と。私はある人々が、こう議論しているのを聞いたことがある。果たして地獄の苦しみは、人間が犯しうる罪にとって、大きすぎはしないか、というのである。ある人々は、地獄は自分たちのような罪人たちを送り込むべき正しい場所ではない、という。だがむしろ私たちが常に見いだすところ、こうした人々は、自分たちがそこに行くのを重々承知しているからこそ、地獄に文句をつけるのである。縛り首になることになっている者がだれでも絞首台にけちをつけるように、多くの人々が地獄にけちをつけるのは、自分たちがそこに落ちる危険の中にあると恐れているからである。処刑されようとしている人間の意見を、死刑の妥当性に関する議論の中で取り上げてはならないし、自ら地獄に行進しつつある人の意見を、地獄の正しさに関して取り上げてはならない。というのも、そうした人には公正無私な判断ができないからである。しかし、罪を確信した罪人は、公平な証人である。神がその人をそうされたのである。というのも、その人は自分の魂の中で、自分には赦しが与えられるであろうこと、神は恵みによって決して自分を罪に定めて地獄に落とすことはないことを感じているからである。だがそれと同時にその人は、自分が地獄に値することも感じ、地獄があまりにも大きな罰ではない、地獄の永遠は自分が犯してきた罪の罰の期間として長くはない、と感じている。私の愛する兄弟姉妹の方々。私はあなたがたに訴えたい。あなたは、自分の罪を知る前は、自分が地獄に送られることが妥当かどうか疑っていたかもしれない。だが私はあなたに問いたい。あなたが神によって罪を確信させられたとき、果たしてあなたは、もし神が自分を地獄に永遠に落とさないとしたら神は間違っている、という厳粛な思いを感じなかっただろうか? あなたは自分の祈りの中でこう云わなかっただろうか? 「主よ。もしあなたがいま地面に割れよとお命じになり、あっという間に私を呑み込ませなさっても、私はあなたに不平を云うため指一本あげることはできません。そして、もしあなたがいま私の頭上に永劫の火焔を押し寄せさせても、私は、いかにその災厄によってわめき声をあげる中にあっても、一言もあなたの正義について文句は云えません」。そして、あなたはこう感じなかっただろうか? もしあなたが滅びの中に一千万年いることになったとしても、その中に長くいすぎることにはならないだろう、と。あなたは、自分がそうしたすべてに値すると感じた。そして、もしあなたが罪に対する正しい罰は何かと尋ねられたなら、あなたは、たとい自分の魂が火刑に処せられていたとしても、「永遠の火」という宣告以外の何かを書けただろうか? あなたは、そう書かざるをえなかったであろう。というのも、それが正当な判決であると感じていたからである。さて、ならば神は、罪にお定めになるとき、正しくあられ、審きを行なわれるとき、きよくあられないだろうか? また神は、その判事席から潔白なお方として立ち上がったではないだろうか? なぜなら、あなた自ら、たといその宣告が実行に移されたとしても全く厳しすぎはしないだろうと云ったからである。実際には、それは記録されただけで執行されることなく、あなたが自由の身にされたとしても関係ない。あゝ、私の愛する方々。ここには神の正義を痛烈にののしっている人々がいるかもしれない。だが、罪を確信したいかなる罪人も、決してそのようなことはしないものである。その人は、神の律法を、そのあらゆる栄光に富む聖さにおいて見てとっている。そして、自分の手で胸を叩きながら、こう云うのである。「おゝ、私は罪人です! これほど道理にかなった律法、これほど完璧な戒めに対して罪を犯してきたなんて!」 その人は自分に対する神の愛を見てとり、それがその人の心を骨の髄まで切り裂く。その人は云う。「おゝ! 私のために死んでくださったあのキリストの御顔に、私がつばきを吐きかけてきたなんて! 何と私はみじめなことか。私の救いのためささげられ、墓で眠りについた、あの血を流すみかしらに、自分の罪の茨をかぶせることができたなんて!」 何にもまして罪人を骨の髄まで切り裂くこと、それは自分が大きなあわれみに反して罪を犯してきたという事実である。これが実際その人を泣かせることである。そして、その人は云う。「おゝ、主よ。私がこれほど忘恩であったことに照らせば、あなたが私に下すことのおできになる最も陰惨な宣告も、あなたが私の頭上に実行できる最も苛烈な罰も、私があなたに背いて犯してきたもろもろの罪にとって重すぎはしないでしょう」。

 そしてそれから、キリスト者がやはり感じるのは、この世で自分が罪によって行なってきた害悪の量である。あゝ! もしその人が中年になるまで回心しないまま生き長らえてきたとしたら、その人は振り返って云う。「あゝ! 私のもろもろの罪によって、いかに多くの人々が地獄に落とされてきたことかわからない。いかに多くの人々が、私の用いたことばによって、あるいは私が行なった行為によって滅びに送り込まれたか想像もつかない」。私は、あなたがた全員の前で告白するが、最初に主を知ったとき私がいだいた最も大きな悲しみの1つは、私が不敬虔な会話を交わしたことがあると確実にわかっている特定の人々について考えること、また、私が罪に誘惑してきた他の種々雑多な人々について考えることであった。そして、私が自分ひとりでいるとき常にささげている祈りの1つは、そうした人が、その人を誘惑した私の罪を通して地獄に落ちることにならないように、ということであった。そして、おそらくこのことは、あなたがたの中のある人々が人生を振り返るときにもあてはまるであろう。かりにあなたの愛する子が、悲しいほど堕落した者であり続けているとすると、あなたは考える。「私が、あれにあらかたの悪事を教えたのではないだろうか?」 またあなたは、自分の隣人たちが悪態をつくのを聞くとこう考える。「私が何度、神を冒涜するのを教えてきたか知れないものだ」。さらにあなたは、骨牌や踊りをともにするのが常であった遊び仲間のことを思い起こしては、こう考えるであろう。「あゝ! 可哀想な人たち。私が彼らを地獄に落としたのだ」。そして、そのときあなたは、「主よ。あなたが私を地獄に落とすとしても、あなたは正しくあられます」、と云うであろう。自分の罪によって、自分がどれだけ多くの害悪を行なってきたかを顧みるとき、あなたは云うであろう。「主よ。あなたは、お審きになるとき、きよくあられます。罪にお定めになるとき、正しくあられます」。私は、自分の罪の中を歩み続けようとしているあなたに警告したい。あなたが予期しなくてはならない最も恐ろしいことの1つは、あなたから道を踏み外させられて破滅した人々と来世で出会うことである。おゝ、方々。それを考えてみるがいい! あなたがた、だれかれかまわず人を誘惑して回った人たち! いま破滅している人々の中には、あなたによってその最初の酒杯を飲むことを教えられた人がいるのである。ある人は、その死の床についていて、こう云うのである。「あゝ! ジョン。もしおめえが俺を悪い道に誘い込まなかったとしたら、俺もこんなざまで横になっちゃいなかったのによ。おかげで俺のからだはがたがたになっちまい、片足が棺桶に入っちまった」。おゝ! あなたの運命は何と恐ろしいものとなることか! 地獄の口に足を踏み入れたあなたは、あなたを睨みつける目を見、こう告げる声を聞くのである。「さあ、奴がやって来やがった。俺の魂を地獄に落とす手助けをした奴がやって来やがった!」 そして、あなたの運命はいかなるものとならざるをえないことか。あなたは、あなたを通して地獄に落とされた人と一緒に、永遠に苦痛の寝床を転げ回っていなくてはならないのである。義人にとっては、救われた者たちが栄光の冠を飾る宝石となるように、確かにあなたが地獄に落とす手助けをした人々は、あなたのために新たな足枷を鍛造し、あなたの霊の回りで燃えさかる苦悶の火焔を勢いづける恐ろしい薪束を供給するであろう。よく聞いて、用心するがいい。キリスト者は、罪を確信させられるとき、この恐るべき事実を感じる。そして、そのことによってその人は感じさせられるのである。神は自分をお審きになるとききよくあられ、自分を罪にお定めになるとき、正しくあられるであろう、と。第一の意味において罪に定めることについては、ここまでにしよう。

 II. しかし、ここでもう少々、《第二の意味において、罪に定めること》について語りたい。これは、二者のうち、格段に恐るべきものである。あなたがたの中のある人々は、これまで一度も自分の良心の中で、神の律法によって罪に定められたことがない。さて、最初に私が述べたように、いかなる人も一度は罪に定められなくてはならない。それで、再度繰り返させてほしい。あなたは、自分の良心の中で、律法によってあなたを罪に定める宣告を申し渡され、そのときキリスト・イエスにあるあわれみを見いだすか、来世で神の御座の前で全人類とともに立ち、罪に定められるか、2つに1つである。キリスト者にとって最初の意味で罪に定められることは、この上もなくあわれみ深いこととはいえ、それを忍ぶのは恐ろしいことである。ひしがれた心には、だれも耐えられない[箴18:14参照]。しかし、第二の意味で罪に定められることは、たとい私が吐息と涙によって説教することができたとしても、決してそれがいかに恐ろししいものとならざるをえないかを告げることできない。あゝ、愛する方々。もしどこかの死装束をした幽霊が、その墓からむっくり起きあがり、何年もの間、破滅のうちにあった霊と再び1つに結び合わされることができたとしたら、そのような人は、最後になって罪に定められることがいかに恐るべきことかを、あなたに向かって説教し、あなたにわからせることができるかもしれない。しかし、私の貧しい言葉について云えば、それらはただの空気にすぎない。というのも、私は罪に定められた者たちのmiserere[哀願]を聞いたことも、失われた霊たちの吐息も呻きも悲鳴も耳にしたことがないからである。もし私が一度でも、《絶望の淵》を隔てる火焔の垂れ幕の内側を凝視することを許されたことがあるとしたら、――もし私がかつて一瞬でも、かの焼けた泥土の上、かの永遠の復讐というすさまじい地下牢が建てられている地面を歩いたことがあったとしたら、そのときには、あなたにその悲惨さの何がしかを告げることもできよう。だが今の私にはそれができない。その陰鬱な光景を見たことがないからである。それは、私たちの目を飛び出させ、髪の毛を逆立たせるような恐怖の光景であろう。私はそのようなものを見たことがない。だが、私もあなたもそれを見たことはないにせよ、私たちは、罪にお定めになるとき神が正しくあられ、お審きになるとき神がきよくあられると理解できる程度には十分それについて知っている。いま私は、やはり3つの点を繰り返さなくてはならない。だが、それらについては、ごく手短に語ることにしよう。

 1. 罪人を罪に定めるとき神は、この事実により、きよくあられるであろう。すなわち、罪人は神の法廷の前に立つとき、告白をすることになるか、さもなければ、その恐怖の激しさのあまり、《全能者》の前で平然と押し通すことなどまずできないのである。ユダを見るがいい。彼が神の法廷の前に出るとき、神が彼を罪に定めるとしても、神はきよくあられるではないだろうか? というのも、ユダ自身が、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」、と告白し、その金子を神殿に投げ込んだからである[マタ27:4]。そして、ほとんどの人は自分の咎を認めようとしないほどかたくなになってはいない。あなたがたの中の、いかに多くの人々が、自分が死にかけていると考えたときには、自分の死の床で、あなたの神に向かって告白したことか! そして、よく聞くがいい。あなたがたの中の多くの方々は、死ぬ間際になるときには、それまで一度も罪を告白したことがなくとも、そこに横たわって、夜の間に目覚める瞬間に、神の前にあなたの若い時の罪や、以前のそむきを告白するであろう。そして、おそらくあなたがそこに横たわっているときには、神の復讐があなたの良心に重くのしかかり、あなたは自分の寝床を囲んで立っている人々に向かって、いかに自分が恥ずべき罪を犯してきたかを告げずにはいられなくなるであろう。あゝ! あなたがあなたの死の床から神の法廷に直行したとき、神は正しくあられないだろうか? 神は云われる。「罪人よ。お前はお前自身の告白に基づいて罪に定められる。わが記憶の書を開く必要も、宣告を下す必要もない。お前は自分で自分の咎を云い表わしたのだ。お前は死ぬ前に、お前自身を罪に定める証印を押したのだ。『のろわれた者。わたしから離れよ!』」 また、多くの人々は、この世では何の告白もせずに死ぬであろうし、ことによると、一部の信仰告白者たちは、神の御座の前に立ってさえ、「いつ、私たちは、あなたが空腹であるのを見て食べさせなかったでしょうか? いつ私たちは、あなたが裸であるのを見て、着る物を与えなかったのでしょうか」[マタ25:44参照]、と云うほど鉄面皮になるかもしれないが、それでも私は、そのほとんどの者は、何の弁解も申し立てることができないはずだと思う。私の見いだすところ、キリストがお話しになったある者は、なぜ婚礼の礼服も着ないで入ってきたのかと問われたとき、黙ったままだったとある[マタ22:12]。そして、あなたがたもそれと同じになるであろう。方々。あなたは、この場では厚かましく押し通し、律法を嘲り、シナイの雷鳴を軽蔑するかもしれない。だが、そのときのあなたは違うであろう。あなたは、死がまっこうからあなたをねめつけているときでさえ、自分の寝床の中で起き直って、キリストを痛烈にののしるかもしれない。だが、そのときのあなたはそうしないであろう。鉄のようだとあなたが思っていたあなたの骨々は、突如としてしまりをなくし、鋼鉄か下臼のようだったあなたの心は、蝋のようになって、あなたの内で崩れるであろう。あなたは、神の前で叫び出し、泣き出し、わめき出すであろう。あなたが、「岩よ! 私をかくまってくれ。山よ! 私の上に倒れかかってくれ」[黙6:16参照]、と云うとき、あなた自身があなた自身の咎を証言するであろう。というのも、あなたに何の咎もなければ、あなたに山や岩が倒れかかることなど全く必要ないだろうからである。あなたは正当に罪に定められるであろう。というのも、あなたは神の法廷の前に立つとき、自白するからである。あゝ! もしあなたが、そのときのその犯罪者を見ることができたなら、そこには何という違いがあることか! あれほど不敬な眼差しで聖書を見ていた目は、今どこにあるだろうか? 「神を呪って死ぬさ!」、とうそぶいていた口は、今どこにあるだろうか? かつては地獄を笑い飛ばし、たわむれに死を口にしていたたくましい心、勇敢な精神は、今どこにあるだろうか? あゝ! どこにあるだろうか? これが同じ生き物だろうか?――膝をがくがく鳴らし、髪の毛を逆立たせ、蒼白になった顔面によりその魂の恐怖を証ししているこの人が? これが、今の今まで自分の《造り主》に向かって不遜な怒りを燃やしていたのと同じ人だろうか? しかり。同じ人である。その人の言葉を聞くがいい。「おゝ、神よ。私はあなたを憎んでいます。私はそれを告白します。私は過ぎにし世で不正な者でしたし、今も不正な者です。あなたの復讐を私の上にぶちまけてください。私はあえて何のあわれみも、何の赦しも求めません。私はなおも、あなたに対する反抗心に凝り固まっており、咎が解き放ちがたく私に縛りつけられています。私は永遠に断罪されます。断罪されます。そうされて当然です」。このような言葉を、あらゆる人が告白するであろう。最後に神の前に立ったとき、キリストから離れ、《救い主》の血によって洗われていない、あらゆる人がそうするであろう。罪人たち! あなたがたはこれを聞いて震えないだろうか? 震えないとすると、私はきょう、1つの驚異を前にしているのである。――良心の驚異、かたくなな心の驚異、悔い改めを拒む驚異である。

 2. しかし、第二のこととして、神が正しくあられるのは、それを証明する証人たちがそこにいるからである。私の愛する方々。あなたがたが罪に定められることになるとしたら、状況証拠で罪に定められる者はひとりもいないであろう。陪審が熟慮を重ねる必要は何1つないであろう。あなたの犯罪に関して、相矛盾するような証拠は何1つなく、あなたに有利な証言をする疑いは何1つないであろう。事実、もし神ご自身が、あなたの事情について証人を請求するとしたら、あらゆる証人があなたを非とするであろう。しかし、証人はひとりも必要ないであろう。神ご自身がその《書》を開くであろう。そして、あなたのあらゆる犯罪が公表されるとき、いかにあなたは驚愕することであろう。あなたのすべての罪が、関連したあらゆる個々の状況と合わせて告げ知らされるのである。――あなたのあらゆる動機の詳細と、あなたの下心の正体が克明に語られるのである! かりに、神の書物の一冊を開くことが私に許され、その記述を読み上げるとしたら、あなたはいかに驚愕させられることか! しかし、神がその大いなる書を開いて、「罪人よ。これがお前の真実だ」、と云って、読み上げ出すとき、あなたの驚愕はいかばかりであろう! あゝ! 注目するがいい。いかに涙がその罪人の頬を流れ落ちることか。血の汗があらゆる毛穴から噴き出す。そして、雷のように轟く声がなおも読み上げ続ける間、義人たちは、その書物に記されたような行為を犯せたその人を痛烈にののしる。その頁は何の殺人によっても汚されていないかもしれないが、そこには不潔な想像があるであろう。そして神は、人が想像することを読み上げなさる。というのも、罪を想像することは、罪を実行することほどよこしまではなくとも、よこしまなことに変わりはないからである。私は、一日たりとも、私の想念が読み上げられたいようなものではないことを知っている。おゝ! あなたが神の法廷の前に立ち、こうしたすべてを耳にするとき、あなたはこう云うではないだろうか? 「主よ。あなたは私を罪に定めるでしょう。ですが、私は云わざるをえません。あなたは、罪に定めるときに正しく、お審きになるときに、きよくあられます、と」。そこには目撃証人がいるのである。

 3. しかし最後に、罪人の心の中には、自分の罰が義であることについて、最終的には何の疑いもないであろう。罪人は、この世にいる間は、自分が、自分の罪によっては決して、絶対に地獄に値することがありえるなどとは思わないかもしれない。だが、いざ地獄に達するときには、そのような思いにふけることはないであろう。地獄における悲惨さの1つは、罪人が、自分はそうした悲惨さすべてに値すると感じるようになることであろう。火焔の波浪によって放り上げられた彼は、そこから発されるあらゆる火花にこう記されているのを見てとるであろう。「お前は自分の義務を知っていたが、行なわなかったのだ」。再び別の炎の波に投げ落とされた彼は、こう云う声を聞く。「思い出すがいい。お前は警告されていたのだ!」 彼が岩礁に打ちつけられ、そこに打ち上げられていると、1つの声がこう云う。「わたしはお前に告げていた。審きの日には、ツロやシドンの方が、お前よりはましであると」。再び彼が硫黄の波に没入すると、1つの声が聞こえる。「信じない者は罪に定められます[マコ16:16]。だがお前は信じなかった。だから、ここにいるのだ」。また、彼が苦悶の波の何かに投げ上げられたり、投げ下ろされたりするとき、それぞれの波は彼に恐るべき宣告を伝える。それらはみな、彼が神のことばの中で、小冊子の中で、説教の中で読んだものである。しかり。愛する方々。もしあなたが断罪されるとしたら、私が地獄であなたを苦しめる者のひとりとなるかもしれないのである。神にあって私は、自分が天国にいることになると信頼している。そして、あなたが失われる場合、ことによると、あなたの悲惨をいや増し加えるであろう最も力強い事がらの1つは、私が常にあなたに警告しようとし、可能な限り真剣にあなたに警告しようとしていたという事実であろう。そして、あなたがあなたの目を天国に上げるとき、あなたは金切り声を上げて云うであろう。「おゝ、神よ! そこに私の教役者が私をとがめるように見下ろし、云っています。『罪人よ、私はあなたに警告したのだ』」。もしあなたが失われるとしたら、それは説教に不足があったためではない。もしあなたが断罪されるとしたら、それは私があなたに、いかにすれば救われることができるかを告げなかったためではない。もしあなたが地獄に行くとしたら、それは私があなたのために泣くことをしなかったからでも、必ず来る御怒りから逃れるようにあなたを促さなかったからでもない。というのも、私はあなたに警告していたからである。そして、それがあなたの破滅の恐怖となるであろう。――あなたは警告も招きも軽蔑し、自分自身を滅ぼしてしまったのである。神は、あなたの断罪について責任はない。人にもその責任はない。あなた自身がそれを行なったのである。そして、あなたは云うであろう。「おゝ、主よ。確かに私は今、火の中でもまれていますが、私自身がその炎をともしたのです。確かに私は苦しみに苛まれていますが、私がいま自分の手足を締め上げている枷を鍛えたのです。私が、自分の地下牢を築いている煉瓦を焼いたのです。私自身が、自分をここに連れてきたのです。私は、馬鹿がさらし台に寄って来るように、あるいは雄牛が屠殺人の所にやって来るように、地獄まで歩いて来たのです。私がいま自分の五臓六腑を切り裂いている短刀を研ぎすませたのです。私がいま自分の心をむさぼり食っている毒蛇を育てたのです。私は罪を犯しました。それは、私が自分自身を断罪したと云うのと同じことです。というのも、罪を犯すとは自分を断罪することだからです。――2つの言葉は同義です」。罪は断罪の祖先である。それが根っこであり、断罪はそこから必然的に生ぜざるをえない恐るべき花である。左様。私の愛する方々。私はもう一度あなたに告げる。神の御座の前で何にもまして歴然たること、それは神があなたを地獄に送り込むとき、神は正しくあられるということである。あなたは、そのときそう感ずるであろう。今はそう感じないとしても関係ない。

 たった今、私の内側で思ったことがある。私には、だれかがこう囁いているのが聞こえたような気がする。「よろしい。先生。私もパーマーのような人殺しの連中なら、地獄に落とされても神が正しいと感ずるだろうという気はしますが、私はああした奴らのような罪は犯しておらんのですわ」。確かにその通りである。だが、たといあなたの罪が少なくとも、覚えておくがいい。あなたの良心はもっと鋭敏なのである。というのも、咎が多ければ多いほど、人の良心は普通は堅くなっていくものだからである。そして、あなたの良心が一段と鋭敏であるがために、あなたの小さな罪は大きな罪なのである。なぜなら、それは、より大きな光と、より鋭敏な心に反して犯されているからである。そして私はあなたに告げる。――大きな光に反して犯された小さな罪は、小さな光に反して犯された大きな罪よりも大きなものでありうる、と。あなたは、あなたの罪を、見かけ上の凶悪さによってではなく、あなたが罪を犯した際に有していた光によって測らなくてはならない。いかなる犯罪も、ソドムで犯された犯罪にまさるものではありえないであろう。だが、そのソドムよりも、あの不潔なソドムよりも、格段に焼きただれた場所を与えられるのは、貧者を養い、裸の者に着物を与え、自分にできるあらゆることを行なっていながら、キリストを愛することだけはしてこなかった道徳的な若い淑女であろう。これについて、あなたは何と云うだろうか? それは不正だろうか? 否。たとい私が別の人より罪人でないとしても、あわれみを求めてキリストのもとに行かないとしたら、その分だけ一層私は断罪されるに値するのである。おゝ! 話をお聞きの親愛なる方々。話をお聞きの愛する方々。私はあなたをキリストのもとに連れて行くことはできない。キリストは、あなたがたの中のある人々をご自分のもとに引き寄せられたが、私はあなたをキリストのもとに連れて行くことはできない。いかにしばしば私はそうしようとしてきたことか! 私は私の《救い主》の愛を宣べ伝えようとしてきた。そして、きょう私は、私の御父の御怒りを宣べ伝えてきた。だが私は、自分があなたをキリストのもとに連れて行くことはできないと感じる。私は神の律法を説教できるであろう。だが、それであなたを恐れさせることができるのは、神がそれをあなたの心に痛感させてくださる場合だけである。私は、私の《救い主》の愛を説教できるであろうが、それであなたの心を和らげられるのは、私の御父があなたを引き寄せなさる場合だけである。私は時として、私があなたを自分で引き寄せることができたらと願いたくなるときがある。――私があなたを救うことができたら、どんなによいことか。確かに、もし私にそうできたとしたら、あなたがたは、たちまち救われるであろう! しかし、あゝ! 覚えておくがいい。あなたの教役者にできることは、ほんの少ししかない。彼はあなたに説教すること以外に何もできない。神がその少しを祝福してくださるよう祈るがいい。あなたがた、祈ることのできる方々。私はあなたに切に願う。もし私にもう少し何かができたとしたら、私はそれをしようとするであろう。だが私には、罪人の救いのためにごく僅かなことしかできない。私は切に願う、私の愛する方々。私が用いる弱々しい手段を用いてくださるよう神に祈りをささげてほしい。これは神のみわざであり、神の救いである。だが、神にはそれを行なう力がおありになる。おゝ、あわれな、おののきつつある罪人よ。あなたはいま泣いているだろうか? ならば、キリストのもとに来るがいい! おゝ、あわれな、やつれた罪人よ。自分の魂の中でやつれている者よ! キリストのもとに来るがいい! 罪に噛まれた罪人よ! キリストに目を向けよ! おゝ、あわれで無価値な罪人よ! キリストのもとに来るがいい! 「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」[イザ55:1]。来よ! 来よ! 来よ! 神があなたを助けて来させてくださるように! イエス・キリストのゆえに。アーメン。

 

非難の余地なき正義[了]

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*1 ウィリアム・パーマーは、妻を始めとする十四人の者を毒殺した罪に問われて、1856年6月14日刑死した。[本文に戻る]


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