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「園であの人といっしょに」

NO. 2106

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1889年8月8日、木曜日夜
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。『私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました』」。――ヨハ18:26


 ペテロは危険な場にあった。自分の《主人》が殴りつけられているとき、彼はわが身を居心地良くしようと努めていた。聖書を読むと、大祭司のしもべたちが火に暖まっており、ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていたとある[ヨハ18:18]。彼は彼らと一緒におり、彼らは、悪い主人たちに仕える荒っぽいしもべたちであった。彼は悪い連中の間にいた。そして彼は、悪い連中の間にいても差し支えないような男ではなかった。あまりにも一時の感情に駆られやすく、あまりにもたやすく性急な行動に走りがちだったからである。

 聖霊は、ペテロが安全でない場にあったことをひとたび私たちに知らせて、「ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた」、と告げてから、特にあることに注目しておられる。すなわち彼が、さらに悪いことに、そこにとどまっていたということである。誰でも、ふとしたはずみに、ぬかるんだ場所にはまりこむことはありえる。だが、賢い人であれば大急ぎでそこを通り抜け、再び堅い地面の上に立とうとするであろう。泥沼でぐずぐずしている人は不善を行なっているのである。そうすることで危険をもてあそび、破滅を招いているからである。聖霊は、さらにもう一度このことを25節で記しておられる。「シモン・ペテロは立って、暖まっていた」。危険な場所にとどまっていないよう用心するがいい。あなたは、瘴気の立ち上る《平原》を通り抜けるように、摂理によって召されることはあるかもしれない。だが、そこに住むよう召されてはいない。ある海を渡らなくてはならないとあらば渡るがいい。だが、大洋の真中に錨を下ろし、自分の船をいつまでも波浪のただ中にとどめておこうとしてはならない。危険のある所には、知恵による迅速さがあるべきである。急げ! 巡礼よ、急げ、危険な場所で暇どっていてはならない! 《天の都》への路上には魅惑郷が横たわっていることがある。それゆえ、あなたの義務は、のほほんとしておらずに、さっさとそれを横切ることである。だが、もしあなたがそこに腰を下ろすとしたら、――もしあなたが、悪の君主によってそこに供されている、いずれかのあずまやの中で休息するとしたら、あなたは眠り込んだあげくに、果てしない悲惨へと落ち込みかねない。荒野には必要最小限しか長居してはならない。敵国は急いで通り抜けるようにし、インマヌエルの国に入るまで休息してはならない。

 悪の場に自発的にとどまり続ける者は、繰り返し誘惑を受けることとなる。最初は女中が、次には何人かの男たちが、そして、最後の最後に、彼から傷つけられた者の親類に当たるこの男が、大祭司邸の中庭でペテロを尋問し始めた。彼らの繰り出す質問によって、彼は自分があのガリラヤの預言者の弟子であったことなど一度もないと断言させられる羽目になった。悪の場所に足をとめている時間が長くなればなるほど、受ける誘惑は多くなるであろう。誘惑は蝿に似ている。最初は一匹か二匹しかやって来ないが、そのうちに群れをなしてブンブン飛び回り始める。サタンの弓から放たれた致命的な矢がこのように降り注ぐときに安閑としているとしたら、どうかしている。

 危険な場にぐずぐずしている間に、あなたの弱さは増して行く。ペテロは、最初なら自分の《主人》を認めたかもしれなかったが、そうせずに師との関係を否定した。いったん否定してしまうと、再びそうすることは、ほとんど避けがたかった。それで何度も何度も、「そんな人は知らない」[マタ26:74]、と云った。そして、弱さが増して行き、罪が勢いづくにつれて、その過ちはどす黒さを深めていった。三度、彼は《主人》と自分の関係を否定し、ついには誓いや呪いも加えた。まるで冒涜的な悪態をつけば、自分が決してキリストと一緒にいたことがない確実な証拠になるとでもいうかのようにである。その当時、キリスト者のまぎれもないしるしは、いかなる誓いも行なわないことにあった。いかなる種類の誓いをも、――善であれ悪であれ、どうでもよいことであれ、――何についても行なわないことにあった。こういうわけで、ペテロは、自分が冒涜的な誓いを云えた以上、それを聞いていた者が考えたように、ナザレのイエスと一緒にいたはずがない歴とした証拠を彼は示していたのである。

 だから、愛する方々。あなたにも分かるであろう。なぜ誘惑の場所に近づくとき、できるかぎり急いでそこを通り過ぎるべきであるかが。疫病が猛威を振るっている所でぐずぐずしていてはならない。誘惑があふれている所にとどまっていてはならない。ペテロは、加速度的に罪に陥って行くうちに、罪から抜け出る力をみるみる失っていった。何と、そもそもの最初に、あの女中に向かって自分の主との関係を否定したとき、彼はこっそり物陰へと立ち去って泣くべきであった。あるいは、もっと勇敢に、居並ぶ連中をかき分けて、向こうにいる自分の愛する《主人》のもとへ真っ直ぐに駆けつけて、こう云うべきであった。「お赦しください、しもべの裏切りと臆病を」、と。しかし、否。彼はひとたび口にした偽りを貫き続けた。嘘に嘘を重ね、この泥濘の中にますます深く沈んで行った。自分ひとりにされるとき、その行く道は下るほかなく、逃げ出す者には何の希望もない。

 このことの教訓は、――もう一度云うが、――誘惑の場所から急いで出ることである。そこから可能な限り迅速に逃げ出すがいい。人によっては、人生において占めている地位を手放すべきである。罪深い地位――正直で、誠実で、純潔な人であれば就いていられないような地位――を。ある人々が身を置いているような場所では、十字架の戦いを行なおうとしても無駄である。そうした人々は悪魔の戦車にくくりつけられており、そこから出て来ない限り、破滅へと駆り立てられるしかない。もしもそうした人々の営んでいる商売が、それ自体で悪いものだとしたら、そこから抜け出すがいい。もしもはっきり罪深いものと関係しているとしたら、そうした関係から脱さなくてはならない。キリスト者であるようなふりをしていてはならない。先日の晩、私はひとりの若い娘と話をしていた。すんでのところで、はなはだ邪悪な罪に陥るのを免れたばかりの娘であったと思う。彼女に私は云った。あなたにできることがが3つあります。その3つを1つの例証で示してあげましょう。このタバナクルを出たとき、そこに一台の鉄道馬車が停まっているでしょう。さて、もしあなたがその馬車に乗り、片足は馬車に置き、もう片足は地面に置いておくとしたら、私がよほどひどい思い違いをしていない限り、あなたはドシンと振り落とされることでしょう。それでも、多くの人たちはこの世と仲良くしつつ、キリストとも仲良くしようとしているのです。そして、決してそうはできずに、むしろ、じきにすさまじく転落することになるでしょう。さて、あなたにできる二番目のことは、泥道に立ち続け、その馬車には全く乗らないことです。そこに立ったまま、鉄道馬車が通り過ぎるにまかせるのです。それは実に正々堂々としたことです。もしあなたがこの世の中で生きたい、この世のものでありたいというのであれば、よろしい。この世の中で生き、この世のものとなり、それが差し出す快楽を何であれ受け取り、最後にはその実を刈り取りなさい。しかし、あなたにできる三番目のことがあります。すなわち、地面から全く離れて馬車に乗り込み、馬車がその行き先に連れて行くのにまかせるのです。さて、この三番目のことこそ、私が今あなたに勧めたいことである。キリストの中に全く乗り込むがいい。そうすれば主イエスは、聖霊の力によって、今のあなたが立っている汚れた場所からあなたを真っ直ぐ連れ去り、聖潔という線路に沿って安全に運び、ついにはご自分の御座の右という栄光の終着駅に至らせてくださる。願わくは、主があなたを、どっちつかずによろめいている[I列18:21]ことから、あるいは、悪い意見を選び取ることから救い出してくださるように。そして、あなたに今こう決心させてくださるように。福音の戦車に飛び乗り、一切の罪深い仲間や疑わしいあり方を後に残して、主イエスと自分との関係を認め、その真の弟子になろうと、と!

 ペテロ、そして彼の陥った災いについてはここまでとしよう。

 これから私が考察したいと考えているのは、ペテロにその《主人》を否定させるに至らせた問いかけの1つである。その問いかけとは、こうである。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」。このことをもう少し論じてみよう。そして、願わくは、この問いかけが、かつてペテロに害を加えたのと同じくらい、私たちに善を施すものとなるように!

 I. さて、このことで第一に云いたいことはこうである。私たちの中の《多くの者らは、私たちの主と特別に親しく交わってきた》。かりに誰かが私たちにこう云ったとしよう。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」。私たちは、直ちに喜んでこう答えるべきである。「ええ。おそらくご覧になったでしょう。私はよくそこに行っていましたから」、と。この蔑まれている《贖い主》としばしば一緒にいたと認めることを、私たちは決して恥じはしない。考えてみるがいい。いかに私たちが――私たちの中の多くの者らが――私たちの主イエス・キリストと親しく交わってきたかを。自分の《愛する主》との親密な結びつきについて考察するのは、私たちのためになることであろう。今晩この場にいる方々の大部分は、教会の交わりの中で主と親しく交わってきた。私たちの名前は、主に属する者として教会員名簿に載っている。私たちは、自分から、また喜んで、自分自身をまず主にささげ、その後で、主のみことばに従い、主の民にゆだねた[IIコリ8:5参照]。私たちの中のある者らの名前は、何年も受浸者名簿に載っており、私たちはまことにそれを嬉しく思う。願わくは、その名が決して何か自分たちの恥ずべき行為によって抹消されることがないように。むしろ、そこにいつまでも残り続けるように。地上のあらゆる教会員名簿が天上の贖われた者たちの名簿に呑み込まれてしまうそのときまで! 私の思いにとって、自分の名前が神の戸籍謄本に載っていることは決して小さなことではない。――

   「わが主《小羊》(ひつじ)の 下にあり
    その片隅に 記されぬ」。

しかり。教会に関する限り、私たちは「園であの人といっしょに」いた。というのも、教会は、その中を主が歩き、喜びを見いだされる園だからである。

 その結果として、私たちは礼拝の交わりの中で私たちの主と親しく交わってきた。主の御名がたたえられるとき、私たちもそれをたたえてきた。主の御名によって厳粛な祈りがささげられるとき、私たちは、「アーメン」、と云ってきた。私たちの中の、人生も半ばに差しかかった年頃の者らは、いかにしばしば主の御名によってこの大集会に集まってきたことか! 私たちは、何千回も、口の言葉によって、また、私の信ずるところ、自分の心の内奥において、私たちの天来の主と自分との厳粛な結び合いを云い表わしてきた。このことを私たちは、恵みの足台の上で証ししてきた。密室の中で、家庭礼拝において、より公の信仰者たちの集会の中で、《いと高き方》をあがめる中でそうしてきた。何千回となく私たちは、「園であの人といっしょに」いた。朝まだきに、また、そよ風の吹く夕まぐれに、また、幸いな安息日に、数限りなくそうしてきた。

 私たちの中の多くの者らは、それよりも踏み込んできた。私たちは、主の死にあずかるバプテスマ[ロマ6:3]を受け、厳粛にこう宣言してきた。自分は主とともに死んでおり、また、主とともによみがえらされて[コロ2:12]いるのだ、と。それよりさらに厳粛なこととして、――もし何かもっと厳粛なことがありえるとしたらだが、――私たちは主の食卓で飲み食いしてきた。そして、そのご馳走は、主の肉と血以下の何物でもなかった。それが、裂かれたパンと葡萄の実とによって象徴的に示されていることであった。いかに私たちは、私たちのほむべき主との甘やかな親交を主の食卓において有してきたことか! 確かに私はあなたがたに告げることはできないし、あなたがたも私に告げることはできないと思う。いかに私たちの《愛するお方》が、これまで私たちの間近におられたかを。私は先日、回心したばかりの人が素朴な口調でこう云うのを聞いた。「そこには、神秘的なものが混じっていました。主は私を建て上げるために私の中にやって来られました。そして私は、まるで主の肉を食べ、主の血を飲んだかのように、主に結びつけられていました」。これは、非常に、非常に、厳粛なことである。もしそれが真実だったとしたら、厳粛に喜ばしいことである。もしそれが偽りだったとしたら、厳粛に破滅的なことである。私の知る限り、他の何にもまして私たちを重い罪に定めることになるのは、聖餐において述べられているようなキリストとの結び合いを偽って公言することにほかならない。それが結局ただの詐称にすぎなかったということにならないように願いたい。教会生活の幾多の行為において、私たちは園で主と一緒にいた。事実、私たちは、自分が主の神秘的なからだに不可欠な部分であると告白してきた。他の人々を自分たちの交わりの中に受け入れては、イエスの御名によって他の諸教会に送り出してきた。同じそのあがむべき御名を宣べ伝えるために、彼らが宣教師となって地の果てへと行こうとするときには、彼らとともに祈ってきた。私たちは、礼拝と、交わりと、奉仕といった行為において、私たちの主と1つであった。そうであったことを、私たちは自らの特権、誉れ、喜びとみなすものである。

 しかし、さらに、愛する方々。私たちは――私たちの中のある者らは――それよりずっと高い意味で主と親しく交わってきた。すなわち、明確に公然たる証言を行なうことにおいてである。私たちは主の御名を宣べ伝えてきた。主のみことばの真理を証ししてきた。他の人々に嘆願してきた。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるように、キリストに代わって彼らに願ってきた。どうか神の和解を受け入れてほしい、と[IIコリ5:20]。キリストの御名によって、罪人のかしら[Iテモ1:15]にもあわれみを宣言してきた。そして、主の力が自分たちとともに力強く働いており、自分たちが地上でつなぐものは天においてもつながれ、自分たちが地上で解くものは天においても解かれるのを感じてきた[マタ16:19]。それほど私たちは主イエスと一体となっていたのである。みことばを宣教する中で私たちが、《救い主》を求める者たちに向かって罪の赦しを宣告したときには、彼らは本当に主を求め、彼らのもろもろの罪は赦された。主は、ご自分の厳粛な力を私たちにまとわせ、復活したご自分の立場に私たちを立たせてくださった。これは、いかに親しいキリストとの交わりであったことか! あなたがたの中の他の人々は、愛する方々。子どもたちを教えることにおいて主と親しく交わってきた。そして、主のごく間近にあった。主はこう云われたからである。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません」[マコ10:14]。あなたがたは、幼い者たちを主のもとに連れて来た。そして、主は、彼らを連れて来るあなたがたに向かって微笑みかけてくださった。おゝ、しかり。あなたがたは、病者を訪問し、無知な者を指導し、さまよう者を連れ戻し、弱っている者を励ますことにおいて、キリストと親しく交わってきた。あなたがたは、主の恵みによって、ひとりひとりが自分の能力に応じて、この聖なる奉仕を引き受けてきた。そして、このようにして、最も実際的なしかたで、「園であの人といっしょに」いた。左様。そして、さらになお踏み込んで、あなたは単に奉仕において主と親しく交わってきただけでなく、主の御名ゆえに苦しむことにおいてもそうしてきた。あなたは若い頃、不敬虔な家族や友人たちと戦わなくてはならなかった。また、キリストゆえに勇敢に戦ってきた。あなたがた、敬虔な婦人たちの中のある人々は、結婚してからというもの、夫の不敬虔さと意地悪さのため、生きながらの殉教に耐えなくてはならなかった。あなたがたの中のある人々は、キリストゆえに、キリストとともに蔑まれ、嘲られ、拒絶されてきた。おゝ、それは栄光に富むことである! 私たちの中のある者らは知っている。自分たちの名前が悪として投げ捨てられ、一部の人々の評価において、最も輝かしい高みから最暗黒の深みへと転落することがいかなることかを。それもこれも私たちが、《小羊》が行く所にはどこにでもついて行き[黙14:4]、現在の時代の不信をすっぱり振り捨てようとしたというだけの理由からである。そうした不信は、目に見える教会を、その不潔ならい病で汚しているのである。イエスゆえに愚か者とみなされるのは非常に甘やかなことである! ある人が自分の私室に入り、こう歌えるとき、それはこの上もなく喜ばしいことである。――

   「よしわが顔に 汝が御名ゆえの
    恥と責めとが 浴びせらるとも
    ことほぎ迎えん 咎めも恥も。
    そは汝れ我れを 覚えたまわば」。

これは決して小さな交わりではない。そして、この点で私たちは――私たちの中の多くの者らは――余す所なく自分の受ける分を得てきた。しかり。私たちは、園で主と一緒にいたと云える。

 もう一言だけ云おう。私たちは、単に教会の交わりや、奉仕や、何か小さな程度の苦しみにおいて主と一緒にいたばかりでなく、人目につかない所でも主と一緒にいた。おゝ、愛する方々。私たちはあえて告げようとは思わない。垂れ幕のかげで私たちが、いかに喜ばしい時を私たちの全く栄光に富む主とともに過ごしてきたかを。だが、私たちは時として主とともにいる間に、主の喜びに満たされ、それが肉体のままであるか、肉体を離れてあるかが分からなくなるほどとなることがあった。神だけはご存知である![IIコリ12:3] 私たちがそのまま天国に滑り込むことも大して困難ではなかったであろう。それほど私たちはその扉の近くにあり、しかも、その扉は開いていたのである。死の必要などほとんどなかったであろう。すでに私たちは、天的な生の始まりの中にいたからである。園で主と一緒にいたとき、私たちの喜びは満ち満ちた。また、やはり私たちは、主の苦悶においても、主とのある程度の交わりを得てきた。私たちが、主の教会の背教を見て魂の奥底から呻き苦しんできたとき、また、主の福音を宣べ伝えるべき人々がそうすることなく、まさに逆のことを宣べ伝えている有様を見るときがそうである。私たちは、このはなはだしく大きな悪を見るくらいなら死んだ方がましであるかのように感じてきた。キリスト者たちのもろもろの罪や不義が目に入るとき、また、信仰告白者たちの裏表ある生き方や、教会員たちの愚かな娯楽によって、キリストの御名が冒涜され、この尊い福音が蔑まれているとき、私たちは、私たちの主とともにひどく苦しんできた。主がその弟子たちから浅ましく裏切られることによって、ほとんど血の汗を流すまで主と一緒にいた。あなたがたは――あなたがたの中のある人々は――私が何について話しているか分かるであろう。主はご自分の民のある者たちを非常にご自分に近寄せ、罪深い人間たちゆえに魂の苦悶を感じるほど園でご自分と一緒にいさせてくださる。そこであなたがたは、口では語れないことを知らされ、いかなる目にも触れないものを魂に見せられ、決して定命の人間の耳には入らないものを心に聞かされた。愛する方々。こうした意味において、あなたは自分が主イエスと親しく交わってきたことを告白し、こう云うしかないであろう。「はい。私は園で主と一緒にいました」、と。

 II. さて、この聖句において、さらにもう一歩踏み込もう。その問いはこうであった。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」。ここから云いたいのは、《私たちの中の多くの者らは、私たちの主イエス・キリストと親しく交わっているところを人々から見られている》ということである。別に見られたいと欲したわけではない。決して注目を集めようとしたわけではない。主の民の中のある人々は、白昼の町通りで主イエスと一緒にいるところを見られずに天国に行きたいと思っている。救われたくはあるが、だが決して自分の救い主と一緒にいるところを見られたくないのである。私は、この時代の罪は、ほとんどのキリスト者の場合、目立ちたがりではないと思う。それよりはるかにまさって、聖ならざる恐れである見込みが高い。それを慎み深さと考える人もいよう。だが、果たしてそれが本当にその名かどうか疑問に思う。私もそれを臆病さと呼ぼうとは思わないが、その人たち自身の云い回しにならって、内気さと呼びたい。彼らは自分たちが「引っ込み思案な」性向なのだという。私が判断するに、それは彼らにとって非常に不名誉なことである。話に聞いたことのあるひとりの兵士は、ひどく「引っ込み思案な」性向をしていたために、戦闘がまさに起ころうとしているとき、最初の砲弾が発射されるや否や、必死で後方に引っ込んで行ったという。確かこの兵士は逃亡と怯懦のかどで絞首刑になったはずだと思う。そうした種類の引っ込み思案な性向からは、いかなる善も生じない。最近は、そうした類の「引っ込み思案な人々」がよくいるが、そうした人々は、いずれその責任を問われるであろう。主を知らないと云う者らは、主から知らないと云われることになるからである[ルカ12:9参照]。

 しかし、知られたいと願いはしなくとも、愛する方々。あなたがた、キリストと一緒にいた人たちは、人々からそのことに気づかれてきた。そして、あなたが園であなたの主と一緒にいるところを最初に見てきたのは、同じ家であなたと身近に接している家族の者たちである。彼らは、さほど長く経たないうちに、あなたがキリスト者になったことを悟る。手に山ほどの薔薇を握っている人はすぐに、そこからただよい出る芳香によってそれをかかえていることが知られるであろう。自分の心に恵みを有している人は、それを宣伝する必要はない。それ自らが宣伝するであろう。母親は、太郎が以前とは全く様変わりしたことに気づく。花子は、妹の雪子が以前とはまるで別人のように思われることに気づく。父親は、母親が少し前までとは全く変わっていることを悟る。割れ鍋に入った水のように、キリスト教信仰はじくじくとしみ出てくる。イエスへの愛は人に知られざるをえない。嘘ではない。キリスト者の兄弟よ。あなたの友人たちは、あなたがイエスに従っていることを知っている。とうの昔に気づいていて、いずれあなたに云うであろう。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。あなたは、密室の祈りをしているところを見られていた。聖書を読んでいるところを見られていた。最初はあなたもそれが褒められたり非難されたりするたびに赤面していたが、今は違う。誰もがそれを知っていると分かっているからである。もしあなたについてそのことが気づかれないとしたら、あなたにはきっと全く何の恵みもないのだと思う。近頃は、少しでも真のキリスト教信仰があれば、すぐに嗅ぎつけられるからである。

 そして、愛する兄弟たち。あなたがたは、一部の絶えず詮索して回る人々からも気づかれてきた。いけ好かない人々ではあるが、そうした人々からは逃れられない。――ある人々からは、いかなる秘密も隠しておけない。彼らは本能で物事を突きとめるように思われ、それを吹聴せずにはいられない。他の誰にも内緒ですよと前置きしながら、自分はその秘密を、出会う人という人に触れ回るのである。こうした金棒引きたちは、たちまちある人がキリスト者であることに気づき、直ちにその情報を広める。必ずしも好意的にではない。――時には悪意のこもった皮肉とともにそうする。彼らはあなたが変わったという事実を嗅ぎ出しては、次にあなたに会うときには、さも馬鹿にした調子で問いかける。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。

 私たちを特に良く見つけるのは、私たちの聖なる信仰に反対する人々である。ここにいたひとりの人物は、《救い主》を捕まえるために出かけたことがあった。そして、これこそペテロを見抜いた男だったのである。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」。その通りである。そしてあなたも、外に出て行って何らかの過誤に反する証しをするとき、あるいは、あなたの生き方によってよこしまなふるまいがたじろがされるとき、あなたは確実にそれと気づかれるに違いない。反対側にいる者たちは、あなたを見分けるであろう。彼らがあなたを見分ける理由が良いものであってほしいと私は思う。彼らがあなたに激しく反対して、このようにして、あなたを彼らの交わりの中から完全に追い出してしまえば良いと思う。この世には2つの子孫がいる。――女の子孫と蛇の子孫である[創3:15]。そして、蛇の子孫から決してシューシュー云われないという人は、自分が女の子孫に属していないのではないかと心配して良いであろう。神は、蛇と女との間に、また、蛇の子孫と女の子孫との間に敵意を置かれた。これは時の終わりまでそうあり続けるに違いない。この世の子らからいかなる反対を受けても、それを有望なしるしとみなすがいい。それはあなたが、あなたを蔑んでいる人々とは異なる種族であるというあかしなのである。善に対する敬意を迫害という形でしか表わせない人々によって、あなたの人格は証明されたのである。おゝ、しかり、しかり。こうした人々は云うであろう。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは集会所にいましたよ。私が聞かなかったとでもいうのですか。あなたは聖歌隊の中にいましたよ。あなたは、あの卑しい偽善者連中のひとりでありませんか」、云々と。それこそ、彼らが私たちを褒めるしかたなのである。あなたは、あなたの指導者たちについて彼らがいかに素敵なことを云っているか知っているだろうか? 私たちは罵詈雑言を免れてはいない。おゝ、あなたがた、列伍の中の平兵士である人たち。自分の受け取る悪口の割り当てを忍ぶがいい。というのも、もしあなたが気を腐らせているのを私が耳にするとしたら、私はあなたに思い出させてやりたいからである。あなたの指導者たちがずっと厳しいことに耐えなくてはならないことを。あなたは私が安楽な身分でぬくぬくとしていると思うだろうか? 私が何の反対も中傷も受けてはいないと? 私は、この世の悪口の割り前を余すところなく、まともに受けている。だが、必要とあらば、その二倍のものすら喜んで受けよう。私たちは、おおっぴらに園で私たちの《主人》と一緒にいたいと思う。そうしたければ、敵がそれを引き合いに出し、嘲るようにこう問うとしてもかまわない。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。

 特にこのことが身にしみて分かるのは、私たちの行ないによって影響を及ぼされる人々であろう。ペテロによって耳を切り落とされた紳士がそうである。その親類の者もそうである。彼は、危うく剣が自分の親類の脳天を唐竹割りにするところだったのを目にした。ならば、たちまちペテロを見分けたのも無理はない。彼は、松明の明かりの一閃によってしか、剣を手にしたこの弟子の姿を見たことはなかったが、自分の従兄弟の耳をペテロが切り落としたとき、その印象はことのほか鮮明に焼きついた。だから、もしあなたがキリストについて人々に話を始めるとしたら、――もしあなたが彼らに向かって救われているかどうか尋ねるとしたら、――彼らの中のある者たちはあなたの聖なる懸念に礼を云うであろうが、他の者たちは向かっ腹を立て、自分たちの麦畑をあなたが勝手気ままに踏みにじっているものと判断し、自分たちがあなたから攻撃されているものと感じるであろう。彼らの魂を忠実に扱えば、彼らはあなたの肖像を、非常に怒り狂った性質の感光板の上に焼きつけるであろう。あなたの顔も見たくないと思うであろう。あなたを「煙たがる」かどうかするであろう。あなたをひどく無作法で、当てつけがましいと判断するからである。私は常にあなたが、一部の友人たちの耳を痛くする存在であってほしいと思う。彼らの耳を切り落とせと勧めているのではない。全く正反対である。むしろ、彼らの耳をキリストの黄金の軟膏で触れてやるがいい。しかし、それと同時に、彼らの耳をあなたの警告と懇願でヒリヒリさせることである。十字架につけられたキリストについて彼らに告げるがいい。そうすれば、次に彼らがあなたに会うときには、彼らは云うであろう。「これは、私の罪と私の救い主について私に語った人です」、と。他の人々の救いを気遣うあなたの熱心さによって認められるがいい。

 私たちの中のある者らは、――そして、今晩この場にいる非常に相当な数の友人たちは、――おびただしい数の人々によって、園でキリストと一緒にいるのを見られてきた。もしあなたがたの中のある人々が深刻な罪に陥り、自分の身を隠したいと願ったとしたら、どこに行くだろうか? 特に私自身は――どこに行けるだろうか? 私が、どこか疑わしい、あるいは、いかがわしい場所に立ち入るとしたら、それが知られずにすむ望みはない。たちまち誰かが私を指さすだろうからである。果たして、私がそれと知られずに行ける場所などどこにあるだろうかと思う。とはいえ、そう思いはするが、そこを見つけたいとも思わない。世間に良く知られた説教者が認められずに行ける場所などどこにあろうか? ある日、私はひとりの善良な同労教役者と一緒に、とある松の植林地内の丘の天辺に腰を下ろしていた。それは普通の人里からは全く離れた場所で、私たちは神のみこころのことを語り合っていたが、会話の中で私はこう口にした。もし私たちが私たちの《主人》を見捨てるとしたら、人知らず逃げられるようなところがありえるだろうか? 私は云った。「人気のないこんな場所でさえ、それなりに長くとどまってれば、きっと誰か私たちを知っている人がやって来るでしょうな」、と。すると、ほとんどすぐに、ひとりの人が松林の中を動くのが目に入り、その人が丘を上って来るのが見えた。私は云った。「私たちの知り合いの誰かがやって来たとしても驚きませんよ」。それは、いま右手の桟敷席に座っているひとりの兄弟であった。閑静な所を求めて遠足に来たのだという。しかり。彼は私たちを見つけだした。私たちがどこへ行こうと知られずにいることはできないであろう。あなたや私は、自分の連隊服を着続け、この戦争を最後までやり遂げ、決して恥じないようする方が身のためである。匿名で逃げおおせることはできないからである。私たちが身を隠せる時代は過去のこととなった。もしあなたがキリスト者で、キリストに味方することを公然と宣言しているとしたら、決して後退することなど考えてはならない。そのようなことをしたら、後ろ指をさされて恥をかかずにはすまないからである。あなたが暮らしている街区で、これまであなたは魂の回心のために熱心に働いてきた。真理の旗を高く掲げてきた。キリスト、すなわち十字架につけられた方[Iコリ2:2]のために自分は生き、そして死にたいと宣言してきた。よろしい。ならば、私の愛する兄弟。最後に至るまで前進すべきである。さもないと、多くの人々はあなたを指さして云うであろう。「私たちが見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。――そして、その後であなたが、自我と今の悪の世界[ガラ1:2]とに仕えている姿が見られるとしたら、あなたは何と答えるだろうか?

 III. ここから第三の点に至るが、それは、実はすでにそれとなく触れ始めていたことでもある。すなわち、《私たちは、今や期待の的となっている》。私たちは、園でイエスと一緒にいた以上、また、その姿を見られた以上、今や非常に高い期待の的とされている。つまり、人々は、イエスと親しく交わっていることが知られている者たちには、非常に多くを期待するのである。彼らは時として非常に理不尽になることがあり、しかるべき程度をはるかに越えたものを求め、その結果、それよりはるかに低いものしか得られない。私の知っているある人々は、キリストのもとにやって来たばかりの初信のキリスト者たちが完璧であることを期待する。――そうした者たちがあらゆることを知っており、説教を語ることができ、公の祈りをささげ、五ポンド紙幣を献金し、誰彼の口にする好き勝手なたわごとに忍耐強く耳を傾けることを期待する。よろしい。どんな期待をするのも自由である。だが、理に適わないことは得られないであろう。自分でもできないことを他人に期待すべきだろうか? 近頃、人々はある人があらゆることを行ない、それ以上のことを試みるように期待する。あなたが朝から晩まで労苦してきた後で、あなたの《主人》の奉仕に自分を――時間と、才質と、財産と、あらゆるものを――ささげるとき、ある人は、自分の要求以上のことを行なえないからといってがみがみ云うであろう。ありがたいことに私たちは人間のしもべではない。神のしもべである。そして、自分の《主人》を喜ばせるとしたら、それで全く十分である。私たちの《主人》は、いかに優秀なしもべにとっても十分であられる。もしも天国の受けを良くしたければ、人々の判断には無関心になるのが賢明であろう。

 種々の理不尽な期待を私たちは寄せられざるをえないが、正当で正しい期待もある。人々は、次のような期待をする点で全く正しい。もしあなたがイエスと一緒にいたとしたら、あなたの人格はイエスとの親しい交わりによって感化されているべきである。

 というのも、まずあなたは非常に高貴な告白をしているからである。あなたは、「私はキリストのものです」、と云う。よろしい。ならば、彼らはあなたを眺めにやって来ては、キリストの者たちが何をするか見るであろう。もしあなたが意地悪な気性をしているとしたら、彼らは云うであろう。「確かに、これは神の作品ではない」、と。もしあなたが途方もないけちん坊で、分け与えるということを全くしないとしたら、彼らはそれがキリスト者に望ましいことではないと結論するであろう。もしあなたが嫌みを云いがちで、どんな人々や物事にもけちをつけるとしたら、彼らは云うであろう。「これは、いささか見苦しい精神だね」。彼らは正しいではないだろうか。このように判断したことで、彼らを非難できるだろうか? あなたは、自分の商売で汚く儲けることができるだろうか? それはキリスト者という名前にとって決して名誉ではない。もしもあなたが土曜の夜までには仕事を家まで届けると約束しておきなが、あなたの顧客が二週間後にもそれを受け取っていないとしたら、彼らはあなたのキリスト教を軽んじるであろう。あなたが真実を語らなければ、誰もあなたのキリスト教信仰を良く思わないであろう。ひとたび言葉を口にしたら、確実にそれを守るようにするがいい。さもないと、あなたの主また《主人》の信用を傷つけるであろう。あえて詳述はしないが、人は数多くのしかたによって、日常生活で接する人々にこう叫ばせることができる。「まさかイエスに従っていると云う人がそんなことをするとは思わなかった」、と。彼らには、私たちの聖なる信仰告白から非常に多くを期待すべき権利がある。私たちの信仰とは何だろうか? それは、回教のように半分道徳の宗教だろうか? 否。これは聖なる信仰であり、人が神の恵みによってそれに従い、その究極的な結末に至るなら、その人を完璧にするものである。というのも、それがあなたの前に、大望の的として置くのはこのことだからである。――「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」[マタ5:48]。私たちがいだいているような信仰は、この上もなく高貴な形の性格を実らせるべきであり、そうしないときにこの世が失望し、憤りにまかせて私たちと私たちの信仰について厳しく語るとしても無理はない。彼らは、このような主の弟子たちからは、非常に多くを期待する権利がある。このような《指導者》なのである! 従う者らにできないことなどあるべきだろうか? このような《救い主》なのである! 救われた者たちに行なえないことなどあるべきだろうか? この聖なる、罪なく、汚れなきお方に仕える者である私たちは、いかなる種類の者であるべきだろうか?

 愛する方々。彼らが私たちに大きなことを期待して良いのは、私たちの同志たちのためである。そうした人々とともに数えられることは私たちの誇りである。私たちの前を行く彼らがいかなる人々であったか考えてみるがいい。この聖なる人々は、自分のいのちを少しも惜しまなかった。いかに忠実に彼らは生き、主イエスに仕えたことか! 彼らの多くは火の戦車で天国に行った。キリストゆえに、即座に焼き殺された。私たちは、自分の親しくしている人々ゆえに、自分の《主人》ゆえに、自分の信じている真理のゆえに、自分の行なっている信仰告白ゆえに、他の人々のようにではなく、高貴な血統をした人々のように生きる義理がある。第二の誕生によって引き上げられ、神に選ばれ、人々の間から贖われた者たちのようにである。それは、私たちが神の被造物たちの、一種の初穂となるためである。

 IV. それで、そこからが至らされるのは、見ての通り、この世が私たちに大きなことを期待して、それが裏切られるとき何が起こるかである(それが、第四の点である)。――《もし私たちがそうした期待を失望させるとしたら、――この問いが私たちに突きつけられても至極当然である》。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。自分の裏表ある言動が注目されていると知るのは、人にとって有益なことである。そのとき、その人は他人が見るように自分を見始める。それは非常に悲痛で、非常に不愉快なことである。だが、それと同時に、その人が祝福される見込みも非常に高い。人は、そのことに多少は怒りを発しがちになる。だが、自分のふるまいが他の人々にどのような印象を与えるか知るのは良いことである。以前、ある老貴婦人について読んだことがあるが、彼女はある姿見をじっとのぞき込んでから、こう云ったという。最近の鏡は作りが良くないわね、と。というのも、彼女が五十年前に使っていた鏡は、今とは全く異なる容姿の彼女を映し出していたからである。それで近頃の姿見は非常に質が劣っているというのである。この世は、あなたの人格に裏表があることを見てとるとき、真実な姿見でありうる。それがあなたの種々の美しさを現わさず、むしろ、あなたの皺や染みを際立たせるとしても関係ない。姿見に文句をつけるのではなく、自分の自我に文句を云うがいい。嘘ではない。あなたは数々のしみによって見た目が損なわれており、それを取り除く必要がある。自分の良心によって裏表のある言動を確信させられるときには、たといその罪の確信が不親切で、情け容赦ない悪人を通してやって来たとしても、それでも、その教訓を肝に銘じ、恵みと赦しを求めて神のもとに行くがいい。そして、もう一度やり直すがいい。非常に歯に衣着せない敵は、甘ったるい友人の十倍もありがたい存在となりえる。

 このような問いかけは、私たちを効果的に聖潔へと呼び戻してくれる。――過去に対する深い悔い改め、また、将来のための堅い決意へとである。想像してもらいたい。あるキリスト者の人が、休暇の際に上京して来たとしよう。そして、ロンドンにおけるその休暇の間に、ある友人から疑わしい娯楽場に行くよう誘われたとする。そして、その誘いに屈して出かけたものと想像しよう。そうしたことは、想像するだけでも悲しいことだが。よろしい。彼は、行くべきではない所に出かけた。そのとき私が望むのは、どこかの尊ぶべき教役者か、神の聖徒が、出て来た彼と町通りでぱったり出会い、こう云うことである。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。何という叱責であろう! いかにそれが彼の心を切り裂くことであろう! 聞くところ、信仰を告白するキリスト者たちでさえ、海を渡って巴里に赴くと、行くべきでない所に行くという。そして、云い訳として、大陸の風俗習慣を見たかったのだと弁解するという。それを分かりやすい国語で云い表わせば、悪魔の風俗習慣に加わりたいということである。あなたは、ロンドンの悪所に行く以上に巴里の悪所に行って良い権利を全く持っていない。私は、巴里の劇場や演芸場で姿を見られるのも、ロンドンのそれらで見られるのと同じくらい御免こうむりたい。実際、人の話によると、双方をくらべると、この国でかかっている興行の方がまだ安全な方だという。あなたは、キリスト者である人々から、あるいは世界中の誰からでも、見かけられれば恥ずかしく思うようないかなる場所に行く権利もない。私たちは、天国と地獄にいる多くの証人たちによって雲のように取り巻かれている[ヘブ12:1]。自分の身の処し方には気を配るべきである。このことを肝に銘ずるがいい。もしもあなたが悪魔の領土にこっそり忍び入ったことがあるとしたら、誰かがあなたを捕まえて、云うであろう。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。

 そして、もしあなたが自分のキリスト教信仰を隠すよう少しでも誘惑されているとしたら、この問いかけがあなたの耳の中で甲高い音を立ててほしいと思う。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。時として私は、邪悪な世間をありがたく思うことがある。それが裏表のある信仰告白者たちにあることをしてきたからである。私は、牧会者となって間もない頃に関わっていたひとりの青年のことを覚えている。彼が疑わしい風評のある場所に出かけて行き、そこで踊っている最中に、誰かがこう叫んだのである。「そいつはスポルジョンの信者のひとりだぜ。窓から放り出しちまえ」、と。それで、彼は外へ出て来た。私は、このように敵が懲戒してくれたことに感謝を感じた。私は彼らに願うものである。この世とその悪の楽しみとに心を寄せたまま、あえて神の民の間にやって来るような者らを全員、窓から叩き出してもらいたい、と。その集会に集まった者たちは、自分たちの間にあからさまな偽善者などいてほしくないと感じた。だから彼らの会堂から彼をつまみ出したのである。もしあなたが、「陽気な仲間たち」の中に見いだされるようなことがあるとしたら、あるいは、福音主義的な教理が軽んじられているような、お体裁の良い人々の間にいるときでさえ、あなたにとって事が不愉快この上もないものとなることを望みたい。もしあなたが、イエスの誉れが汚されているような場所で舌を抑えて黙っており、一味のひとりであるような顔をしようとするとしたら、この問いかけが、灼熱した溶岩のように、あなたの耳に注ぎ入れられることを願いたい。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。いかなる場所においても、あなたの《主人》のために立ち上がるがいい。さもなければ、主に仕えることなどやめてしまうがいい。

 さて、これから非常に手短に、この問いかけをいくつかのしかたで適用しよう。

 この問いかけは、自分の友人が時代の悪しき傾向に向かって断固と反対してほしいと切望する人によって発されて良い。悪を処置する唯一の道は、聖書によれば、こうである。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」[IIコリ6:17]。ご都合主義はこう懇願するかもしれない。「出て行かないでください。誤りにも目くじら立てない、幅の広い考え方をしてください」。そのとき、願わくは叱責する人がこう問いかけてくれるように。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と。あなたの希望は、門の外で[ヘブ13:12]死なれたお方に据えられている。あなたも、自分の十字架を取り、主のはずかしめを身に負って宿営の外に出て行こうとする[ヘブ13:13]だろうか? 「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」。

 この問いかけがやはり適用できる場合は、ある友人がキリストのために懸命に働いており、困難の下にあって、あなたの助けを必要としているときであろう。自分の全人生を祭壇の上に置いたその人は、貧窮のためか、教えたり説教したりする個人的な支えがないために難渋しており、あなたに助けを訴えている。その人は云う。「あなたには余裕があるはずです。私を助けてください。主のためにそうしてください。この方のために、私は自分の心と魂をささげて仕えているのです! 私は困窮しています。来て私を助けてください」。そのとき、あなたが背を向けて、冷たくこう云ったとしよう。「いいや、私には余分な金も時間もありませんよ」。その人はこう云って良いであろう。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。あなたは、主との交わりを有していたではありませんか。だのに、主の働きに就いている主のしもべとの交わりは持とうとしないのですか?」

 これは、健全で有益な問いかけである。私は、今この時、この場にいるある人々に向かって語りかけたいと思う。それは、これまでの一生の間、私が一度も語りかけたことのない人々であり、その方々に私は自己紹介して、その方々の同情と援助を乞い求めたい。私はこう云おう。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。私が注目しなかったとでも云うのですか? あなたがあの祈祷会に出ていたことを。私は説教の中のある部分で、あなたの顔がぱっと輝くのを見た気がします。あなたは、それを喜びとしているかのようでした。私が見なかったとでも云うのですか? あなたは園で主と一緒にいましたね」。キリスト者たちの間には、一種の暗黙的な友愛感情が存在している。キリストと一緒にいた誰かと出会うと、それはこうなる。「やあ、お仲間の方! お会いできて嬉しいですよ! あなたは私の兄弟です。些細な点であなたがどのような意見をお持ちだろうと関係ありません」。おゝ、あなたがた、園で私たちの主と一緒にいた人たち。また、辱めを受けておられる間の主にも従ってきた人たち。あなたは私の兄弟である。というのも、私はあなたが園で主と一緒にいるのを見たからである。そして、私はこの永遠の血縁関係を喜んで認める! わずかなりとも私に同情を寄せていただきたい。私をあなたの祈りの中で覚えてほしい。

 また、この問いかけを、もう1つのしかたで云い表わすことにしよう。それは、抑鬱の下にある忠実な心を豊かに励ます問い合わせとして用いたい。向こうにいる、試みを受けつつある信仰者はこう叫んでいる。「私はなかば恐れています。本当のところ自分など神の生きた子どもではありえないのではないか、と。私は非常に心が重く、うなだれ、苦悩しているのです」。私の愛する兄弟。何年か前には、私たちはあなたと交わりを有し、喜びと平安、希望と歌とをともにするのが常だった。さほど長くない前には、あなたは祈りの家から出て来ては、こう云っていた。「こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」[創28:17]、と。あなたは今、谷底にいる。だが、かつてはエシュルンのように地の高い所に[創32:13]上るのが常だった。勇気を奮い起こすがいい。今のあなたは、あなたの主とともに砂漠にいるかもしれない。だが、かつては園で主と一緒にいたし、再びそうなるであろう。あの輝かしい日々が戻って来るであろう。闇夜は永久には続かないからである。あなたは、眠気に襲われ、鈍重になっている。もしかするとラオデキヤ的になり、なまぬるくなっているかもしれない[黙3:15-16参照]。だが、主はあなたを生き返らせてくださる。古の時代を思い出すがいい。天国が地上にあった日々[申11:21 <英欽定訳>]、また、ヘルモンの地、またミツァルの山[詩42:6]の日々を。希望し続け、常に希望を持つがいい。かつてあなたとともにおられたお方は、再びともにおられるであろう。

 「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」。私は、最後に天空に入るとき、この問いかけで迎えられたいと思う。私は、真珠の門を通り抜けるとき、いずれかの輝く霊によってこう語りかけることに反対すまい。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」。「はい、輝く熾天使よ。あなたは私を見たのでしょう。そして、今は主が、栄光に包まれている日にもその貧しい友を投げ捨てなさらないことを目にするでしょう」。主の御使いは、あなたが悔い改めたとき、あなたを見ていた。罪のため、あなたがあの小部屋の中でひとり泣いていたのを窺っていた。階上の寂しい私室で、あなたは主に告げていたであろう。いかに父母があなたに反対しているか、だが、それにもかかわらず、あなたがいかなる奉仕と従順の道においても《小羊》に従って行くつもりであるかを。そのとき、あなたは「御使いたちに見られ」[Iテモ3:16]ていた。愛する方々。私たちの主の弟子たちの中の、いかに小さな者でさえ、勇敢に忠誠を尽くし続けるならば、天の所で見られ、知られ、覚えられているのである。最後の大いなる日に、あなたがた、地上でキリストと一緒にいた人たちは、キリストを目の当たりにし、キリストとともに王となり、キリストはあなたをご自分のものと認めてくださるであろう。それは、主の謙卑の日に、あなたが園で主と一緒にいたからである。神があなたを祝福し給わんことを! アーメン。

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「園であの人といっしょに」[了]


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