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第六の幸福の使信

NO. 3159

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1909年8月26日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年4月27日、主日夜


「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」。――マタ5:8


1873年、スポルジョン氏は、彼のいわゆる、《幸福の使信》に関する「一連の金言的説教」を行なった。《山上の説教》および《幸福の使信》全体についての序言的な講話の後で、彼は、それぞれの使信を個別に説教していく心算であった。だが、病か、何か他の特別な理由のために、その目的を完全には果たせなかった。しかしながら、《幸福の使信》についての《説教》は八篇あり、そのうち三篇はすでに『メトロポリタン・タバナクル講壇』で刊行されている[No.422 『平和をつくる者』、No.2,103 『幸いな飢え渇き』、No.3,065 『第三の幸福の使信』]。――他の五つ[No.3,155『幸福の使信』、No.3,156 『第一の幸福の使信』、No.3,157 『第四の幸福の使信』、No.3,158 『第五の幸福の使信』、No. 5159 『第六の幸福の使信』]は、現在発行されており、《八月の月刊説教》となっている(定価、五ペンス)。各《幸福の使信》および《山上の説教》全体についてのスポルジョン氏の《講解》は、『御国の福音』(現在、3シリング6ペンスで販売中)の中にも記されている。同書は、氏が1892年に「故郷へ召される」、ほんの直前まで、マントンにおいて執筆していたものである。


 

 

 私たちの告白する信仰の大いなる使徒であり、大祭司である、私たちの主なる《救い主》イエス・キリスト[ヘブ3:1]に特有のご性質、それは、この方の教えが絶えず人々の心に向けられていたということであった。他の教師たちは外的な道徳的改善で満足していたが、主はあらゆる悪の源泉を追求された。その、すべての罪深い思念、言葉、行為が生じて来る源泉をきよめるためである。主が何度も何度も強調されたのは、心がきよくなるまで、生き方は決してきよいものとならない、ということであった。かの記憶に残る山上の説教は、本日の聖句を含んでいるものだが、この祝祷で始まっている。「心の貧しい者は幸いです」。というのも、キリストは人々の心を――彼らの内的かつ霊的な性質を――扱おうとしておられたからである。主はこのことを多かれ少なかれすべての《幸福の使信》で行なわれた。そして、この聖句はその標的の中心そのものに突き刺さっている。主は、「言葉遣いのきよい者、あるいは、行ないのきよい者は幸いです」、とは云わず、いわんや、「種々の儀式や、衣裳や、食物のきよい者は幸いです」、とは云わず、むしろ、「心のきよい者は幸いです」、と仰せになっているからである。おゝ、愛する方々。いわゆる「宗教」のうち、いずれが心の汚れた者をその信奉者と認めようと、イエス・キリストを信じる信仰はそうしようとはしない。あらゆる人々に対するキリストの使信は、今なお、「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:7]、である。すなわち、内的な性質が天来の力で更新されなければ、あなたは、キリストが地上に打ち建てようとして来られた天の御国に入ることはおろか、それを見ることさえできない。たといあなたの種々の行為がきよいものに見えたとしても、それでも、そうした行為の背後にある動機が汚れたものだったとしたら、それはすべてを無効にしてしまうであろう。たといあなたの言葉遣いが上品なものだったとしても、それでも、もしあなたの心が不潔な想像にふけっているとしたら、あなたの神の前における立場は、あなたの言葉に従ってではなく、あなたの種々の欲望によって決まる。あなたの心の思いの流れ全体、あなたが本当に内側で好んだり嫌ったりしていることに従って、あなたは神の審きを受けることになる。外的なきよさだけしか、人は私たちに求めることをしない。だが、「人はうわべを見るが、主は心を見る」[Iサム16:7]。そして、恵みの契約の約束および契約はみな、心のきよい人々のものであって、他のいかなる者のものでもない。

 本日の聖句について語るに当たり、私があなたに示したいのは、第一に、心の汚れこそ霊的盲目さの原因である、ということであり、第二に、心のきよめによって私たちは最も栄光に富む光景を見ることが許される、ということである。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」。それから、第三のこととして示さなくてはならないのは、心のきよめは、天来の働きであるということである。それは、私たち自身によっても、いかなる人間的な媒体によっても成し遂げることができず、むしろ、三重に聖なる万軍の主[イザ6:3]なる神であられるお方によってなされなくてはならない。

 I. まず第一に指摘しなくてはならないのは、《心の汚れこそ霊的盲目さの原因である》――そのすべてとまでは云わずとも、非常に大きな部分の原因である――ということである。

 酩酊している人は、はっきりものを見ることができない。その人に見えるものはしばしば歪んでいたり、二重になっていたりする。そして、人を酩酊させる杯とは別のいくつかの杯も、精神の目がはっきりとものを見られないようにする。ひとたびそうした杯から深々と飲んだ者は霊的に盲目となってしまう。また、他の者たちは、その有毒物を吸入した度合に応じて、遠くのものが見られなくなってしまう。

 種々の道徳的な美しさと不道徳的な恐ろしさを、ある種の人々が見てとれないのは、彼らの心が汚れているからである。例えば、貪欲な人を取り上げてみるがいい。すると、たちまち分かるのは、他のいかなる塵にもましてその人を目つぶしするのは、黄金の塵だということである。多くの人々の目からすると、完全に悪とみなされるような商売がある。だが、もしそれに携わる人に儲けがあり、その人が強欲な性質をしているとすると、それが悪い商売であることをその人に納得させることはほとんど不可能であろう。あなたは通常、強欲な人々が物惜しみのなさを全く魅力に欠けたものとみなすことに気づくであろう。その人の考えによると、金離れの良い人は、現実に馬鹿ではなくとも、限りなく馬鹿に近いため、あっさり馬鹿だと間違えられてもしかたがないのである。その人自身が賞賛するのは、最も容易につかむことのできるものであり、それを確保できればできるほど喜ぶ。爪に火をともすほどけちくさくなり、貧者をしいたげることこそ、その人が喜びを覚える職業である。名誉ある原則がことごとく犠牲になるような汚い手口を使おうとも、それで自分が得をするとなれば、その人は自分に向かって云う。「こりゃあ、あざやかな一撃だわい」。そして、同じ穴のむじなである別の人と出会うようなことがあると、その人とその同輩はその取引についてほくそ笑み、自分たちがいかに抜け目なくしてやったか語り合うのである。いくら欲の皮の突っ張った人と論じ合ったり、その人に惜しみなく施すことの美しさを示そうとしたりしても、無駄であろう。また、その一方で、これは実入りのあることだとその人が知っている何かの正当性について、その人から立派な意見を引き出そうとして時間を無駄にするべきでもない。知っての通り、何年か前に、合衆国では奴隷制の問題を巡って大きな戦いがあった。英国で奴隷所有主たちの肩を持った紳士たちは、いかなる人々だっただろうか? 何と、ほとんどはリヴァプールの人々であり、それは、奴隷制によって自分たちの利益が得られるからであった。さもなければ、彼らはそれを非難していたことであろう。また、たぶん、私たちの中でそれを非難した者らが、比較的容易にそうできたのは、それで自分が利益を得られるわけではなかったからだったであろう。人々は、どちらに転んでも失うものが何もないときには、非常にはっきりとものを見ることができる。だが、それが利益の問題となると、心が汚れているため、目はまっすぐにものを見られなくなる。数限りない事がらにおいて、人は、両目に金貨をかぶせられていると、ものが見えなくなる。そうなると太陽すら見えない。そして、その金子を目に当て続けていると、その人は盲目になるであろう。心のきよい者は目が見える。だが、貪欲さが心に入り込むとき、それは目を霞ませるか、盲目にしてしまう。

 別の罪を取り上げてみるがいい。――人をしいたげる罪である。ある人々は私たちにこう告げる。その人々の意見によると、生における最高の立場にある人々は、一国の美と栄光のきわみであり、貧しい人々はしかるべき場所にとどめられているべきである。なぜなら、彼らが造られた目的は、「やんごとなき方々」がその高い立場を占め続け、他の非常に体裁の良い人々が、やはりいかなる量の富をも自分のもとに集められるようにすることだからである。人々がその勤労の対価としてもっと多くの金銭を欲しているという考えについては、こうした紳士たちはこう云う。それは一瞬たりとも助長されるべきではない、と。そして、たとい貧しいお針子が骨折り仕事をして稼いだ数ペンスでは飢えているとしても、そのことについて一言も口にしてならない。そこでは、「政治経済学の諸法則」がこうした一切の事例を支配している。彼女は、この機械時代にあふれかえる数々の歯車の間で粉々にすり潰されなくてはならず、誰もこの件に介入すべきではない。もちろん、しいたげる者は、しいたげの悪を見ることができず、見ようとも思わない。たといその人の前に、彼の顔についている鼻ほどあからさまな不正義の事例をつきつけても、それを見てとることはできない。なぜなら、その人は常に、自分がこの世に遣わされているのは、手に持った鞭で他の人々を追い立てるためだという迷妄の下にあるからである。その人はお偉い大人物であり、他の人々はあわれな取るに足らない者たちで、自分の巨大な足の下で這いずり回り、自分の許しによってつつましく生きることしかふさわしくないのだ、と。このようにして、しいたげは、それが心の中に入り込んでしまうと、完全に目を盲目にしてしまい、しいたげる者の判断力を歪めてしまう。

 同じことは、好色さについても真実に云える。私がしばしば注意してきたところ、人々がキリスト教信仰を痛罵し、聖なる神のことばの悪口を云うときには、彼らの生活が汚れているのである。聖なる事がらの悪口を云う人々の生活に関して私が判断を誤った場合は、あったとしても、ごくまれにしかない。そういえばかつて、とある田舎町で刈り入れ時の頃に説教していたとき、このような事実に言及したことがある。一部の農場主たちは、自分たちの畑で貧者に落ち穂拾いをさせることを全くしない。そして、ある人々は、けちくさすぎるあまり、目の詰んだ櫛でしらみつぶしにかき集めることができたら、本当にそうするだろうと思う。そう私が云うと、たちまちひとりの農場主がひどく立腹して、その場から足音も高く出て行った。そして、なぜそれほどかんかんに腹を立てたのかと聞かれたとき、彼はぶっきらぼうにこう答えた。「わしは、いつだって自分の畑に二回は熊手をかけるのだ」。もちろん、この人は貧者を気遣うことにことさらな喜びなど感じることができなかったし、自分に突き入れられた、これほど的を射た叱責におとなしく素直に従うこともできなかった。そして、人々が福音を非難するとき、それはほとんど常に、福音が彼らを非難しているからである。福音が彼らのしっぽをつかみ、彼らのもろもろの罪の咎ゆえに彼らを告発し、彼らを逮捕しているのである。それは、龕灯提灯を掲げた警官のように彼らのもとにやって来ては、その丸窓を彼らの不義に向けているのである。それゆえにこそ、彼らはこれほど激怒するのである。彼らも、神が彼らをご覧になるようなしかたで自分のことを見ているとしたら、今のような生き方を続けはしないであろう。本当にものが見えているとしたら、その不潔さの中に居座り、自らを滅ぼすのみならず他の人々をも腐敗させ続けることはできないであろう。しかし、こうした悪しき事がらが心に入り込んでいるとき、それらは確実に目を盲目にする。

 同じことは、道徳的真理と同じように霊的な真理に関しても当てはまる。キリストの福音が理解できないと云う人々に、私たちはしばしば出会う。そのもともとの原因は、私の信ずるところ、十中八九、そうした人々の罪が福音の理解を妨げていることにある。例えば、先週の主日の晩、私はあなたに向かって、神の正当な主張について説教しようと努め、神が私たちに対していかなる権利を有しておられるかを示そうとした。その話を聞いていた人々の中には、こう云った人がいたかもしれない。「われわれは、自分たちに対する神の主張など認めないぞ」、と。もしあなたがたの中の誰かがそのように語るとしたら、それは、あなたの心が神の御前で正しくないからである。というのも、もしあなたが正しく判断することができるとしたら、あなたは、世界中で最も高貴な主張とは、《創造主》がその被造物たちに対して行なう主張であることを見てとるだろうし、たちまちこう云うだろうからである。「私は認めます。創造されたお方には、支配する権利があることを。――最も偉大で、最も善良なお方が《主人》となり主となるべきであることを。――また、無謬に賢くて正しく、常にいつくしみ深く親切なお方が《律法賦与者》となるべきことを」。だが、人々が実質的にこのように云うとしよう。「われわれは、自分の同胞の人々を騙したり、盗んだりしようとは思わない。だが、神について云えば、われわれがどうあしらおうと大した意味などあろうか?」 その理由は、彼らの心が正しくなく、彼らのいわゆる同胞である人々に対する正義は、単に彼らが、「正直は最善の策」という座右の銘を有しているからでしかない。そして、彼らは、本当に心が正しくはないのである。さもなければ、彼らはたちまち《いと高き方》の正当な主張を認めるだろうからである。

 贖罪という偉大な中心的教理を完全に把握するには、人の心が矯正されるしかない。おそらくあなたは、このような評言をしばしば聞いたことがあるであろう。「私には、なぜ罪ゆえに神に対する償いがなされなくてはならないのか分かりません。なぜ神は、すぐさまそむきの罪を赦して、それで済ませることができないのですか? どこに代償的犠牲の必要などあるのですか?」 あゝ、方々! もしあなたが一度でも自分の良心にのしかかる罪の重みを感じたことがあったとしたら、また、もしあなたが一度でも悪の考えそのものをも忌み嫌うようになったことがあるとしたら、また、もしあなたが罪によってこれほどすさまじく汚されているがゆえに心打ち砕かれていたとしたら、あなたは贖罪が神によって要求されるばかりでなく、自分自身の正義の感覚によっても要求されているのを感じたことであろう。そして、代理犠牲という教理にかみつく代わりに、心を開いてそれを受け入れ、こう叫ぶであろう。「これこそ、まさしく私の必要としているものです」、と。これまで世に生を受けた中で最も心のきよい人々とは、神の義なる律法がその正当性を立証され、その偉大さが現わされるために、キリストが十字架上で死に、ご自分を信ずるあらゆる人の《身代わり》となられたのを見て喜んだ人々である。そこには、神のあわれみが比類なき威光とともに明らかに示されているばかりでなく、完全無比の満足が感じられている。なぜなら、そこで可能とされた和解の道においては、神の一切の属性が誉れと栄光を受けているとともに、あわれな失われた罪人たちが神の子どもたちの高く栄誉ある立場へと引き上げられているからである。心のきよい者は、贖罪に何の困難も見てとらない。それに関するあらゆる困難は、心におけるきよさの欠けによって生ずるのである。

 同じことは、それと等しく重要な真理、新生についても云えよう。心の汚れた者は、新しく生まれるべき必要を見てとれない。彼らは云う。「私たちも、自分が完全にしかるべきあり方をしていないことは認めます。ですが、何の問題もないようにするのはたやすいことです。新しい創造についての話について云うと、私たちにはそんな必要があるとは全く思いません。私たちは二、三の間違いは犯してきましたが、それは経験によって矯正されるでしょう。そして、これまでの人生のいくつかの過ちは、今後用心深く注意することによって大目に見られるだろうと思います」。しかし、もしこの更新されていない人の心がきよかったとしたら、そうした人々は自分の性質が初めから悪いものであることを見てとるであろう。火花が火から生ずるように自然と悪の思念が私たちの中から立ち上ることを悟るであろう。そして、そのような性質が変わらないままあるのはすさまじいことだと感じるであろう。そうした人々は自分の心の内側に、ねたみ、殺人、反逆、そしてありとあらゆる種類の悪を見てとり、その心は自らから救い出されることを叫び求めるであろう。だが、まさにその人の心が汚れているがゆえに、その人は自分自身の汚れを見てとることなく、自分にキリスト・イエスにあって新しく造られたものとなる必要があるなどとは告白しないし、告白しようともしない。しかし、あなたがた、心のきよい人たちについて云えば、あなたは今、自分の古い性質についてどう考えているだろうか? それは、あなたが絶えずかかえて歩く、重い負担ではないだろうか? あなた自身の心の疫病は、天の下における最悪の疫病ではないだろうか? 罪への傾向そのものが、あなたにとって絶えざる悲嘆であると感じないだろうか? また、それを全く取り除くことができさえすれば、自分の天国は下界で始まるだろうと感じないだろうか? それで、心のきよい者こそ、新生の教理を見てとる人であり、それを見てとらない人々は、心が汚れているがゆえにそれを見てとらないのである。

 同じような指摘は、私たちのほむべき主であり《主人》であるイエス・キリストの栄光に富むご人格についても当てはまる。それにあらを探せる者は、蝙蝠のように盲目同然の者たち以外にいるだろうか? 未回心の人々も、キリストの生涯の美しさときよさに打たれることはある。だが、心のきよい者は、それに魅惑させられるのである。彼らは、それが単なる人間の生涯を越えたもの、天来の生涯だと感じる。また、神ご自身が、その御子イエス・キリストというお方のうちに啓示されていると感じる。もし誰か、主イエス・キリストがそのように最高に麗しいことを見てとらない人がいるとしたら、それは、その人自身が心をきよめられていないからである。というのも、きよめられていたとしたら、主のうちに一切の完璧さの鑑を見てとり、主を畏敬することを喜ぶだろうからである。しかし、悲しいかな! このことは、道徳的な問題と同じく、霊的な問題においてもなおも真実である。それゆえ、福音の偉大な真理の数々は、心の汚れた人々には感知できないのである。

 ある形の汚れは、他のすべてにまさって、霊的な真理に対して人を盲目にするように思われる。それは、二心である。純粋で、正直で、真摯で、子どものような人こそ、天の御国の扉が目の前で開くとき、そこに入る人にほかならない。御国の事がらは、二心のある人や、陰険な人は隠されているが、恵みにある幼子たち――純真な心をした、偽りも隠し事もない人たち――には平明に啓示されている。全く確かに偽善者は、その偽善を続けている限りは決して神を見ることがないであろう。事実、その人は盲目すぎて何も見てとることができず、神の前で自分がいかなる者であるかを見てとることは確実にできない。キリスト者としてのいのちがなくとも、名ばかりのキリスト者であることに満足している人は、その目が神によって開かれるまでは、決して神を見ることも、何を見ることもないであろう。その人が何らかの主題についてどんな意見を持っていようと、他の誰にとってそれが重要だろうか? 私たちは、二心のある人からの賞賛など得たいと思うべきではない。そうした人は実質的に嘘つきなのである。自分の心の中ではある者でありながら、その生き方の中では別の者として通用させようと努力しているからである。

 形式主義も決して神を見ることはない。形式主義は常に殻を見ていて、決して内側の核に達することがないからである。形式主義は骨を舐めるが、決して髄に達することがない。自分のために種々の儀式を積み上げるが、そのほとんどは自分で発明したものであり、それに参列した後で、万事問題ないと自分にへつらう。だが、その心そのものは、なおも罪を慕い求めているのである。会堂や通りの四つ角で[マタ6:5]、パリサイ人が長い祈りをささげている、まさにその時にも、やもめの家は食いつぶされている[マタ23:14]。そのような人が神を見ることはできない。聖書のある種の読み方は、決して人が神を見るように導かないであろう。その人が聖書を開くのは、そこにあるものを見てとるためではなく、自分自身の見解や意見の裏づけとなるものを見いだせるかどうか調べるためなのである。もし自分の欲する聖句がそこにないと、その人は他の聖句をあれこれ歪曲しては、自分の立場を支持するような形にもって行くのである。だが、その人が信じることはただ、自分自身が前もって考えていた観念に合致するものでしかない。その人は、練り菓子か蝋のように、聖書を自分好みの形にすることを好む。それで、もちろん、真理を見ることはできず、見たいとも思わないのである。

 狡賢い人も決して神を見ることはない。私がいかなる人にもまして心配するのは、狡賢い人――「機転」をその導きの星としている人である。私は、荒くれた水夫たちが神に回心するのを見てきた。冒涜する者たち、遊女たち、また、ほとんどありとあらゆる種類の罪人たちが《救い主》のもとに導かれては、その恵みによって救われるのを見てきた。また、ごく頻繁に、彼らは自分のもろもろの罪について正直な真実を告げてきたし、あらゆる率直なしかたでその悲しい真実を口に上せてきた。彼らが回心するとき、私はしばしばこう思ってきた。彼らは私たちの《救い主》が語られた、あの良い地のようだ、と。その一切の悪行にもかかわらず、彼らには正しい、良い心[ルカ8:15]があった。しかし、蛇のような性質をした人々――キリスト教信仰について語りかけられると、「そうですね、そうですね」、と答えるが、全く本気で云ってはいない人々、――決して信頼できない人々、――円滑氏、二心氏、私心氏、巧言氏、そして、そうした一切の種別の人々については、神ご自身、ただ放置しておく以外に決して何もなさらないかのように思われる。それで、私の観察してきた限り、神の恵みがこうした、すべてに安定を欠いた二心の人々[ヤコ1:8]のもとにやって来ることはめったにないと思われる。これらは、決して神を見ることがない人々である。

 ひとりの非常に卓越した著者がこう指摘している。私たちの主はおそらく、本日の聖句をなしている節において、この事実をほのめかしているのであろう。すなわち、東方の国々では、国王の姿が見られることはめったにない。王は引きこもって暮らしており、王に謁見することは非常に困難なことである。そして、ありとあらゆる種類の術策や、企てや、たくらみや、ことによると、あれこれの裏工作その他を用いた上でようやく王に会うことができるのである。しかし、イエス・キリストは実質的にこう云われる。「それが神を見るしかたではない」。しかり、誰も狡賢さや、たくらみや、企てや、かけひきによって神のもとに行くことはない。むしろ、純真な人、へりくだって、ありのままでみもとに行く人、そして、こう云う人こそが神を見るのである。「私の神よ。私は、あなたにお目にかかりたいと願います。私には咎があり、私は自分の罪を告白します。また、あなたの愛する御子ゆえに、それを赦してくださるようあなたに申し立てます」。

 あるキリスト者たちは、他のキリスト者ほどはっきり神を見ることが決してないと思う。――私が意味しているのは、特有の気質により、生まれながらに疑り深い精神をしているように思われる一部の兄弟たちのことである。彼らは普通、何らかの教理上の点について困惑しており、その時間はほとんど種々の反論に答えたり、種々の疑いを取り除いたりすることに取られている。ことによると、どこかの貧しく謙遜な田舎の婦人――通路に座り、クーパーが云うように、自分の聖書が真実であること、神が常にその約束をお守りになることのほか何も知らない婦人――の方が、学識があり、つまらないことに難癖をつけ、何の役にも立たない愚かな問題で苛立っている兄弟よりも、ずっと鮮明に神を見ているかもしれない。

 そういえば、ある教役者のことを以前あなたに告げたことがある。その人は、ある病気の婦人を訪問したとき、何かその人が個人的に瞑想できるように、1つ聖句を残して行きたいと思った。それで彼女の古びた聖書を開いたところ、ある箇所に目がとまった。この婦人はそこに「タ」という文字で印をつけていたのである。「姉妹。この『タ』は何を意味しているのです?」、と彼は尋ねた。「それは大切ってことです、先生。私は、その聖句が、特別の時に何度も自分の魂にとって、とても大切なものであることが分かったのです」。彼が別の約束を探してみると、その余白には「タホ」と記されていた。「では、この文字は何を意味しているのですか? 愛する姉妹」。「それは、試してみて本当だったという意味です、先生。というのも、これまでで一番大きな悩みに遭った時、その約束を試してみたら、それが本当だと分かったのです。それで私は、その印をその脇につけておいて、次に悩んだときには、その約束がまだ本当のことだと確かめられるようにしたのです」。聖書には、何世代も何世代もの信仰者によって、そうした「タ」や「ホ」がびっしり記入されている。彼らは、神の数々の約束を試してみて、それが本当だと証明してきたのである。願わくは、愛する方々。あなたや私が、このようにこの尊い《書》を試して本当であると知る人々のひとりであるように!

 II. 私たちが第二に指摘したのは、《心のきよめによって、私たちは、この上もなく栄光に富む光景を見ることが許される》、ということであった。心のきよい者は、「神を見る」のである。

 それは何を意味しているだろうか? 多くのことである。そのいくつかを手短に言及したいと思う。最初に、心のきよい者は、自然界に神を見ることができるであろう。人は心がきよいとき、そよ風の吹く頃に[創3:8]地上の園の至る所で神の足音を聞くであろう。嵐の中に神の御声を聞くであろう。それが山々の頂から轟々と鳴り響くのを聞くであろう。広漠たる大海洋の上を主が歩んでいるのを見るであろう。あるいは、風にそよぐ一枚一枚の木の葉に主を見てとるであろう。ひとたび心が正しくされれば、神は至る所に見える。汚れた心には、神はどこにも見えないが、きよい心には、至る所に見える。海の最も深い洞窟の中にも、寂しい砂漠にも、真夜中の額を美しく飾る星々1つ1つにもそうである。

 さらに、心のきよい者は、聖書の中に神を見る。汚れた精神は、聖書の中に神の痕跡を全く見てとることができない。彼らが目にするのは、果たしてパウロがヘブル人への手紙を書いたかどうかを疑うべき理由である。彼らはヨハネの福音書の正典性を疑う。そして、それが聖書の中で彼らに見えるほとんどすべてなのである。だが、心のきよい者は、このほむべき《書》のあらゆる頁に神を見る。彼らがそれを敬神の念とともに祈り深く読むとき、彼らは主をほめたたえる。主がこれほど恵み深くもその御霊によってご自分を彼らに啓示してくださり、その聖なるみこころの啓示を享受する機会と願望を与えてくださったからである。

 それに加えて、心のきよい者は、神の《教会》の中に神を見る。心の汚れた者はそこに神を全く見ることができない。彼らにとって、神の《教会》は、ばらばらな分派の集塊にすぎない。そして、そうした分派を眺めるとき彼らに見えるのは、数々の欠陥や、失敗や、不完全さでしかない。常に覚えておくべきは、いかなる人も自分自身の性質に従ってしかものを見ることができないということである。禿鷲が空を舞っているときには、どこにあろうと腐肉を見てとる。そして、銀の翼をした鳩が碧空に舞い上がるときには、どこにあろうと、あおぎ分けられた清潔な穀物を見てとる。獅子は森の中に自分の餌食を見てとり、子羊は草の多い牧草地に自分の食物を見てとる。不潔な心は神の民の中にほとんど、あるいは何も良いものを見ないが、心のきよい者は、神の《教会》の中に神を見て、そこで神にお会いすることを喜ぶ。

 しかし、神を見るということは、自然界や聖書やその《教会》の中に神の痕跡を感知することよりもずっと大きなことを意味する。それは、心のきよい者が、神の真のご性格の何がしかを識別し始めることを意味する。雷雨に巻き込まれ、雷鳴の轟音を聞き、稲妻の一閃がいかに破壊的なものかを見てとる人なら誰でも、神の強大さを感知する。もしその人が無神論者になるほど愚かでなかったとしたら、こう云うであろう。「稲妻と雷鳴のこの神は何と恐ろしいのだろう!」 しかし、神が永遠に正義でありながら、無限に優しくあられること、また、神がきびしく厳格でありながら、測り知れないほど恵み深くあられることを感知し、《神性》の様々な属性がすべて互いに溶け合い、虹の各色が1つの調和した美しい全体をなしているかに似ていることを見てとること、――これは、まずイエスの血でその目を洗われ、それから聖霊による天的な目薬をつけられた人のものである。そのような人だけが、神は常に、また、全くいつくしみ深くあられることを見てとり、いかなる面でも神を賞賛し、そのあらゆる属性が麗しく溶け合い、均衡を保ち、それぞれが残りのすべてにさらなる光輝を投げかけ合っていることを見てとるのである。心のきよい者は、そうした意味で神を見る。というのも、彼らは、不敬虔な者には決してできないようなしかたで神の種々の属性を正しく評価し、そのご性格を理解するからである。

 しかし、それをも越えて、彼らは神との交わりに入ることを許される。一部の人々が、神などいないとか、霊的な物事など何もないとか、そういった類の話をしているのを聞くとき、彼らの云っていることを気に病む必要は全くない。というのも、彼らは本来その問題について話ができるような立場にはないからである。例えば、ある不敬虔な人がこう云う。「私は神がいるなど信じない。一度も神を見たことがないのだから」。私も、あなたの云っていることの正しさを疑いはしない。だが、私は神を見たことがあると私があなたにと云うとき、あなたは、私にあなたの言葉を疑う権利がないのと同じくらい、私の言葉を疑う権利を有していない。ある日、旅館の夕食時に、私はひとりの兄弟教役者とある霊的な事がらについて話をしていた。そのとき、私たちの向かいに座っていたひとりの紳士は、首の下に食事用白巾をはさみ、葡萄酒には目がないといった顔色をしていたが、このように口をはさんだ。「わしはこの世で六十年過ごしてきたが、霊的なものなど一度も知覚したことがありませんぞ」。私たちは自分の考えたことを何も云わなかったが、彼が語ったことはおそらく完璧に真実だろうと思った。そして、この世には、彼と同じことを云うだろうずっと多くの人々がいる。しかし、それは、彼が霊的なもののことを知覚しなかったことを証明したにすぎない。他の人々がそれを知覚しなかったことを証明したわけではない。他の数多くの人々はこう云えるのである。「私たちは霊的なもののことを知覚しています。私たちは、私たちの中におられる神の臨在によって動かされ、ひれ伏させられ、進まされ、打ち倒され、それから喜びと幸福と平安へと上げられてきました。そして、私たちの経験したことが真実の現象であることは、少なくとも私たちにとっては、天の下のいかなる現象にも劣りません。そして、いくら叩かれても、自分の信ずることを捨てることはできません。それらは、数えきれないほどの疑う余地ない経験によって裏打ちされているのですから」、と。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」[詩91:1]。「しかし、そんな隠れ場はありませんよ」、とある人は云うであろう。「そんな陰もね」。それがあなたにどうして分かるというのか? かりに他の誰かがやって来て、こう云ったとしよう。「あゝ! ですが、私はその隠れ場に住んでいますし、その陰に宿っていますよ」。その人にあなたは何と云うだろうか? そうしたければその人を馬鹿呼ばわりしても良いが、それで、その人が馬鹿だと証明したことにはならない。むしろ、それは、あなたが馬鹿であることを証明するかもしれない。というのも、その人はあなたと同じくらい正直な人間であり、あなたと同じくらい信じられるに値するからである。

 何年か前に、米国のひとりの法律家が、とあるキリスト教の集会に出席した。そこで彼は、十人かそこらの人々が、自分のキリスト者体験を物語るのを聞いた。彼は座ったまま、自分の手にした鉛筆で、彼らが語るその証拠を書きとめた。最後に、彼は自分に向かって云った。「もし私が訴訟事件を受け持っていたなら、この人たちを証言台に立たせたいものだ。もしこんな人々の証拠がこちら側にあるなら勝訴は間違いなしという気がする」。それから彼は考えた。「よろしい。私はこれまでこうした人々を狂信者だと嘲ってきたが、他の事がらについては、彼らに法廷で証言してもらいたいわけだ。彼らは、自分が語っていることで何の得をするわけでもない。だから、私は、彼らが語っていることを真実だと信じるべきなのだ」。そして、その法律家は、ことのほか純真であった、あるいは、むしろ、このほか賢明で、このほか心がきよかったために、この問題を正しく眺めることができ、真理をも見てとり、神を見ることになったのだった。私たちの中の多くの者らも、もし今がそうして良い時間だったとしたら、この地上においてすら神との交わりというものがあることを証言できるであろう。だが、人々がそれを享受できるのは、彼らがその罪に対する愛を捨て去っている度合に応じてのみである。彼らは、不潔なことを語ってきた後で、神と語り合うことはできない。居酒屋で飲み友だちと会うこと、また、そこに集う不敬虔な人々と入り混じることを喜んでいるとしたら、人が自分の友と語るように[出33:11]神と語ることはできない。心のきよい者は神を見ることができ、真実に神を見る。――肉眼によってではない。そのような肉的な考えなど決してあってはならない。むしろ、その内的で霊的な目によって彼らは、《霊》であられる大いなる神を見るのであり、《いと高き方》との霊的だが、非常に現実の交わりを有するのである。

 「彼らは神を見る」というこの表現は、別のことを意味していることがありえる。すでに語ったように、《東方》の君主たちを見た人々は、普通、きわめて高い特権を得た人々と考えられた。何人かの大臣たちは、自分がそうしようと思うときには自由に参内して王に謁見する権利があった。そして、心のきよい者には、まさしくそのような権利が与えられており、行って自分たちの《王》を見ることがいつでもできるのである。キリスト・イエスにあって、彼らは大胆に確信をもって[エペ3:12]天的な恵みの御座へと行くことができる。イエスの尊い血によってきよめられた彼らは、大臣になっている。すなわち、神のしもべとなっている。そして、神は彼らをご自分の使節として用い、彼らをご自分のために光輝で栄誉ある用向きに遣わしてくださる。そして、彼らは、神のための彼らの務めによって神との引見を賜る資格があるときにはいつでも神を見ることができるのである。

 そして、最後に、来たるべき時には、このように地上で神を見てきた人々が、天国において顔と顔を合わせて神を見ることになる。おゝ、その光景の素晴らしさよ! それについて語ろうと試みても無駄である。もしかすると、一週間のうちに、私たちの中のある者らはそれを知ることになるであろう。地上のあらゆる神学者たちが私たちに告げることができるだろうところを越えて明確にである。きわめて薄い垂れ幕でしか、私たちはかの栄光の世界と隔てられていない。それは、いつなりとも真二つに裂かれることがありえる。そのときは、たちまち、――

   「嘆きと罪の 世より離れて
    永久(とわ)に神とぞ ともに閉ざさる」。

そして、心のきよい者は、神を見るとは、いかなることかを完全に理解することになる。願わくはそれが、愛する方々。あなたの割り当ての地となり、私の割り当ての地となるように。永久永遠に!

 III. さて最後に、そしてごく手短に、私はあなたに思い起こさせなくてはならない。《この心のきよめが天来の働きである》ことを。

 そして、嘘ではなく私はあなたに告げるが、それは決して不必要な働きではない。いかなる人も(人なるキリスト・イエスを除き)きよい心をして生まれてはこなかった。すべての人は罪を犯した。すべての人がきよめられる必要がある。善良な者はいない。しかり。ひとりもいない。

 やはりあなたに請け合いたいのは、この働きが成し遂げられたのは、決していかなる儀式によってでもなかったということである。人々は好きなことを云うであろう。だが、水をつけることでは、人の心は決して少しも良くはならない。ある人々は私たちにこう告げる。洗礼において――これは、大抵の場合、赤子に水を振りかけることを指しているが――人は新生し、キリストの肢体、神の子どもたち、天の御国の相続人になるのである、と。だが、そうした水を振りかけられた者たちは、他の人々よりも全くまともになってはいない。彼らは他の者らと全く同じように育つ。この儀式全体は無益である。それよりも悪い。それは、主イエス・キリストの模範と教えとは全くの正反対だからである。いかなる水溶液の塗布や、いかなる外的な儀式も、心に効果を及ぼすことは決してできない。

 また、心はいかなる外的な改善の過程によってもきよめられることができない。これまでしばしばなされてきた試みは、外側から内側に及ぼそうとするものであったが、それはなされることができない。そんなことをするくらいなら、小槌や鑿で外側から働きかけることによって、大理石の彫像に生きた心臓を与えようとした方がましである。そして、罪人を心のきよい者とするのは、神がその大理石の彫像を生かし、呼吸させ、歩かせるのと同じくらい大きな奇蹟である。

 心がきよめられるのは、ただ神の聖霊によってのみである。御霊が私たちに臨み、私たちを覆われるとき、私たちの心は変えられることができるが、それまでは決して変わらない。そして御霊は、そのように私たちのもとにやって来るとき、魂をきよめるため、――いま前にしている私たちの《救い主》の教えの線に従えば、――私たちの霊的貧困さを示してくださる。「心の貧しい者は幸いです」。それが、神の恵みの最初のみわざである。――私たちに自分が貧しいこと、無であること、値なく、何も受けるに値せず、地獄に落ちて当然であることを感じさせてくださる。神の御霊がその働きを進めるにつれて、次に行なうことは、私たちを悲しませることである。「悲しむ者は幸いです」。私たちは、自分がしてきたように罪を犯してきたことを思って悲しむ。私たちの神を求めて悲しむ。罪赦されることを求めて悲しむ。そして、心を有効にきよめる大いなる過程は、十字架上のキリストの裂かれた御脇から流れた水と血を塗ることである。おゝ、罪人たち。ここにおいてこそ、あなたがたは、罪の咎と、罪の力とからの二重の治癒を見いだすであろう! 血を流し給う《救い主》を信仰が仰ぎ見るとき、それは主のうちに、単に過去の罪の赦しのみならず、現在の罪深さが取り除かれることを見てとる。キリストが生まれる前に、あの御使いはヨセフに云った。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」[マタ1:21]。救いの全過程は、短くすると、このように説明できよう。神の御霊は、私たちが不潔な心をしているのを見いだされる。そして、やって来ては、天来の光を私たちのうちに射し込ませ、私たちに自分の不潔さを見てとらせてくださる。それから御霊は私たちに、罪人である自分が神の御怒りを受けるに値すると示され、私たちも自分がそれに値していることを悟る。それから御霊は私たちにこう云われる。「しかし、その御怒りはあなたに代わってイエス・キリストが負ってくださったのです」。御霊は私たちの目を開いてくださり、私たちは、「キリストが私たちのために死なれた」――私たちの代わりに、私たちの代理として、私たちに成り代わって死なれた――ことを見てとる。私たちは主を仰ぎ見て、主が私たちの《身代わり》として死なれたことを信じる。そして、自分を主にゆだねる。そのとき、私たちは自分のもろもろの罪が、主の御名ゆえに赦されたことを知り、罪赦された叫びが私たちの身の内から突き上がり、これまで感じたことが決してなかったほどの高揚を感じる。そして、次の瞬間、赦された罪人はこう叫ぶ。「今や私は救われており、今や私は罪赦されているのですから、私の主イエス・キリストよ、私は永遠にあなたのしもべとなります。私は、あなたを死に至らせたもろもろの罪を死に至らせます。そして、もしあなたがそうする力を与えてくださるなら、私の生きてある限り、あなたにお仕えします!」 その人の魂の流れは以前は罪へと向かっていた。だが、イエス・キリストが自分のために死なれたこと、自分のもろもろの罪がキリストゆえに赦されていることを見いだす瞬間に、彼の魂の流れ全体は他の方向に押し寄せ、正しいものへと向かう。そして、確かになおも自分の古い性質との葛藤がありはするが、その日からその人は心のきよい者となる。すなわち、彼の心は聖さを愛し、彼の心は聖潔を求め、彼の心は完成を思い焦がれる。

 さて、彼こそ神を見、神を愛し、神を喜びとし、神のようになりたいと切望する人であり、自分が神とともにいるようになる時、また、顔と顔を合わせて神を見る時をひたすら待ち望む人である。願わくはあなたがたがみな、聖霊の有効的な働きによってそれを享受できるように! もしあなたがそれを有したければ、それは無代価であなたに対して宣言されている。もしあなたが真に新しい心とゆるがない霊[詩51:10]に値しているとしたら、それらは恵み深くあなたに与えられるであろう。それらを受けられるように自分をふさわしくしようとする必要はない。神は、まさに今この時、それらをあなたのうちに作り出すことがおできになる。復活の喇叭の一吹きで死者を目覚めさせることになるお方は、その恵み深い御思いでそうお決めになるだけで、あなたの性質を変えることがおできになる。神は、あなたがこの建物の中に座っている間に、あなたの中に新しい心を創造し、あなたの内側にゆるがない霊を更新し、ここに入って来たときのあなたとは全く異なる人にしてあなたを帰らせる。あなたは、あたかも生まれたばかりの子どものようになる。人間の心を更新する聖霊の力に限りはない。「おゝ」、とある人は云うであろう。「御霊が私の心を更新し、私の性質を変えてくださればどんなに良いことか!」 もしそれがあなたの心から願望いだとしたら、その祈りをいま天へささげるがいい。その願いをあなたの魂の中で死に絶えさせず、それを祈りに変えて、小さな声でそっと神にささげるがいい。そして、神があなたに云われることを聞くがいい。それはこうである。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18]。あるいは、こうである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。――罪へのあなたの愛から救われ、あなたのもろもろの古い習慣から救われる。そして、その救いの完璧さのあまり、あなたは心のきよい者となって神を見ることになる。

 しかし、ことによると、あなたは問うであろう。「主イエス・キリストを信じるとはどういうことですか?」 それは、主を信頼し、主により頼むことである。おゝ、私たちがみな、イエス・キリストに今より頼むことがでるとしたらどんなに良いことか! おゝ、向こう側にいる悩める青年が、行ってイエスに信頼できればどんなに良いことか! そうするまで、あなたは決して自分の悩みを取り除くことはできないであろう。だが、愛する方よ。あなたは、イエスを信じさえするなら、それを今この瞬間に除くことができるのである。しかり。確かにあなたは自分の悪しき習慣と空しく葛藤してきたが、また、それらと必死で格闘してきたが、また、幾度となく決心を繰り返しても、ただ自分の巨大な罪と恐ろしい情動のため敗北を重ねるだけだったが、ひとりの《お方》があなたに代わってあなたの一切の罪に打ち勝つことがおできになるのである。ひとりの《お方》は、ヘラクレスよりも強く、あなたの情欲という九頭の大蛇を殺し、あなたの情動という獅子を殺し、あなたの悪の性質というアウゲイアース王の牛舎*1をきよめることがおできになる。ご自分の贖罪の犠牲という血と水の大河をあなたの魂を通り抜けさせることによって、そうおできになる。この方はあなたの内側をきよくし、きよいままにしておくことがおできになる。おゝ、この方を仰ぎ見るがいい! この方は十字架に吊り下げられ、人々から呪われた。神は、罪を知らないこの方を、私たちの代わりに罪とされた。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためである[IIコリ5:21]。この方は、私たちの《罪のためのいけにえ》として死刑判決を受けた。それは私たちが神の愛のうちで永遠に生きるようになるためであった。この方を信頼するがいい! 信頼するがいい! この方は死者の中からよみがえり、その栄光へと上り、神の右の座に着いては、そむいた者たちのためにとりなしておられる。この方を信頼するがいい! この方を信頼するなら、決してあなたが滅びことはありえず、むしろ、恵みによって救われた万の幾万倍もの者たち全員とともに生きることになる。そして、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]力ある《救い主》のことを歌うことになる。願わくは、あなたがたがみなそのように救われることができるように。そして、そのようにしてあなたが、心のきよい者のひとりとなって、神を見るようになり、決して神を見るのをやめることがなくなるように。また、神がすべての栄光をお受けになるように。アーメン、アーメン。

 


(訳注)

*1 ギリシヤ神話のアウゲイアース王の牛舎。三千頭の牛を飼いながら、三十年間一度も掃除をしなかったが、ヘラクレスがアルペイオス川の水を引いて一日で清掃したという。[本文に戻る]----

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第六の幸福の使信[了]

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