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平和をつくる者

NO. 422

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1861年12月8日、日曜朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」。――マタ5:9


 これは、七番目の幸福の使信である。七という数字には常に、何らかの神秘が結びついている。それはヘブル人の間では完全な数であった。そして、《救い主》が平和をつくる者をここに置かれたのは、主がほとんどキリスト・イエスにある成人に近づいておられたかのようである。地上で享受できる限りの完璧な幸いさを得たい者は、この七番目の祝祷に達し、平和をつくる者となるよう苦心しなくてはならない。また、前後関係に目をやるとき、この聖句の位置にも意義深いものがある。これに先立つ節は、このような幸いさを語っている。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」。このことは理解しておいた方が良い。私たちは、「第一にきよく、次に平和」[ヤコ3:17 <英欽定訳>]な者となるべきである。私たちの好む平和は、決して罪との盟約や、悪いものとの協調であるべきではない。私たちは、神とその聖さとに反するいかなるものに対しても、火打石のような顔を向けなくてはならない。それを魂の中で定まったこととした上で、私たちは人々に対して平和を好む者となっていくことができるのである。本日の聖句の後に続く節がそこにあるのも、いささかの劣りもなく意図的なものと思われる。いかに私たちがこの世で平和を好んでいようと、悪し様に云われ、誤解されることになるはずだが、そこには何の不思議もない。というのも、《平和の君》[イザ9:6]でさえ、その平和を好むご性質によって、地に火をもたらされた[ルカ12:49]からである。この方ご自身、人類を愛し、何の悪も行なわなかったにもかかわらず、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]。それゆえ、心で平和を好む者が敵たちに出会っても驚かないようにと、次の節ではこう云い足されているのである。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。こういうわけで、平和をつくる者たちは、単に幸いだと宣言されているばかりでなく、幾多の幸いさに取り囲まれている。主よ。この七番目の祝祷へと上ることのできる恵みを私たちに与えてください! 私たちの思いをきよめ、私たちを「第一にきよく、次に平和」な者とならせ、私たちの魂を鍛えてください。そして、あなたのための迫害を人々の中で受けるときにも、自分たちの平和を好む思いによって驚いたり、絶望したりしないようにさせてください。

 さて、本日の聖句の意味を理解するよう努めてみよう。今朝はそれを、神の御助けにより、このように扱いたいと思う。第一に、平和をつくる者とはいかなる者かを描写しよう。第二に、その幸いさを宣言しよう。第三に、平和をつくる者を働かせ始めよう。そして第四に、説教者自らが平和をつくる者となろう

 I. 第一に、《平和をつくる者とはいかなる者かを描写しよう》。平和をつくる者は、その性格によって区別される一方で、他の人々と同じ外的な立場、状況にある。その人は、他の人々と全く同じような、人生におけるありとあらゆる人間関係の中にある。

 こういうわけで、平和をつくる者は、一個の市民である。そして、確かに彼はキリスト者ではあるが、このことをも覚えている。すなわち、キリスト教を信じているからといって、その人は一国の市民でなくなることを求められるわけではなく、むしろ、市民であることを用いて、キリストの栄光のためにそれを役立てるよう要求されているのである。ならば、平和をつくる者は、一個の市民として平和を愛する。もし彼がこの国に住んでいるとしたら、彼は知っているであろう。自分の回りに暮らしている人々が、名誉に関わることには非常に敏感で、すぐに挑発されて怒りを発しやすいことを。――非常に喧嘩っ早い性格をしていて、戦争という言葉1つで血沸き肉踊り、たちまち全力を傾けて戦闘に赴こうという気分になることを。平和をつくる者は、露西亜との戦争*1のことを覚えており、そこに干渉した自分たちが何と愚かであったかを思い起こす。それで私たちは、通商的にも金銭的にも多大な損害を被り、感知できるような利得を全く手にしなかったのである。彼は、この国が政治的目的のために、いつしか戦争に追い込まれることが多々あったことを知っている。また、通常、その重圧と負担が、貧しい労働者や、額に汗して生計を立てなくてはならない人々の上にのしかかることを知っている。それゆえ、彼は、確かに他の人々のように頭に血が上るのを感じ、英国人として生まれた以上、古の海賊王たちの血がしばしば騒ぐのを感じはするが、それでもそれを抑えて、自分にこう云い聞かせる。「私が争ってはならない。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍ばなくてはならない」[IIテモ2:24参照]。それで彼は流れに背を向け、たとい至る所で戦争の騒ぎを聞き、それに熱心な多くの人々を見るときも、自分の全力を尽くして一杯の冷水を供しては、こう云う。「忍耐していなさい。放っておきなさい。何が悪くとも、戦争は他のいかなる悪よりも悪いものです。これまで悪い平和があった試しがなく、良い戦争はあった試しがないのです」、と。また彼は云う。「それに、おとなしくしていすぎることによっていかなる損失を被ろうと、確かにそれよりも百倍もの損失を、勇猛すぎることによって被るはずです」。それから、現在の状況*2について云うと、彼は、2つのキリスト教国が戦争するとは何と不運なことかと思う。――それは、同じ血から出た2つの国、――地上のいかなる二国にもまして真に親密な関係を有する二国、――その自由主義的な制度において競い合う者同士、――キリストの福音を伝播する上で助け合う者同士、――自らの真中に、天下の他のいかなる国々にもまして多くの神の選民たち、キリストの真の弟子たちをかかえている二国なのである。しかり。彼は自分の内側でこう思う。私たちの息子たちや娘たちが、かつてしたように私たちの畑の肥やしになりに行くとは不運なことだ、と。彼が思い出すのは、ヨークシアの農民たちが、ワーテルローから肥沃土を母国に持ち帰り、自分たちの畑の肥やしにしたことである。――それは、彼ら自身の息子や娘たちの血と骨であった。そして彼は、米国の大草原が彼の子どもたちの血と骨で肥やされるのはふさわしくないと思う。その一方で、自分が他人を打つくらいなら、他人に打たれた方がましだと思う。彼にとって血はすさまじい光景となるであろう。それで彼は云う。「私は、自分では行ないたくないことを、他の人々が私に代わって行なってほしくない。そして、私が殺人者になりたくないとしても、他の人々が私の代わって殺されることも望まない」、と。彼は、幻の中で1つの戦場を歩く。死に行く者たちの悲鳴を聞き、負傷者のうめき声を聞く。勝利のいかなる熱狂も、戦いの後の凄惨な光景の恐怖を取り除くことはできなかった、と勝者たち自身が云っていることを彼は知っている。それで彼は云う。「否、平和を、平和を!」 もし彼に共和国内で何らかの影響力があるとしたら、また、もし彼が国会の一員だったとしたら、また、もし彼が新聞記者だったとしたら、あるいは、もし演壇の上から話をするとしたら、彼は云う。「この争いに身を投じる前に、よくよく目を配ろうではないか。私たちは、わが国の名誉を守らなくてはならない。自らをしいたげる者たちから逃亡してきた人々を歓待する私たちの権利を保たなくてはならない。英国を常に、自らの王のもとを逃れてきたあらゆる反逆者にとって安全な隠れ家として――しいたげられた者が決して武力で引きずり出されることのない場所として――保たなくてはならない。だがそれでも」、と彼は云う。「そのことは、血を流さずには不可能なのだろうか?」 そして、彼は法務官たちに命じて、よくよく調べさせる。何らかの過失が犯されたにしても、もしかするとそれは、血を流すことなく、剣を鞘から抜き放つことなしに、恩赦に浴させ、容赦できるようなものでありはしないか、と。よろしい。彼は戦争のことを一個の怪物であると云う。良くてせいぜい悪鬼であり、ありとあらゆる災難の中でも最悪のものである。また、彼は兵士たちを、血まみれの鞭についた赤い小枝とみなし、神に乞い求める。咎ある国をこのように打つのではなく、しばらく剣を抑えてくださるように。また、何千もの人々を墓場送りにし、おびただしい数の人々を貧困に陥れるような苦難に私たちが投げ込まれたり、悲しみに圧倒されたり、冷酷さにさらされたりしないように、と。このように平和をつくる者は行動する。また、自分がそうしている間、自分の良心が自分を正しいと認めていることを感じる。そして、彼は幸いである。人々はいつの日か、彼が神の子どもたちのひとりであったことを認めることになる。

 しかし、平和をつくる者は、市民であるだけでなく、人間でもある。そして、たとい時として彼が一般政治を放っておくことがあるとしても、人間として彼は、常に平和を自分の方針としていなくてはならないと思う。それで、たとい彼の名誉が汚されても、それを守るために立ち上がりはしない。侮辱を忍ぶことよりも、自分の同胞に怒りを覚えることの方が自分の名誉にとって大きな汚れになるとみなす。彼は他の人々がこう云うのを聞く。「一寸の虫にも五分の魂だ」。だが、彼は云う。「私は虫ではなくキリスト者です。ですから、私を打つ手に向き直るのは、それを祝福するためだけですし、私を意地悪くあしらう人々のために私は祈ります」。彼もカッとすることはある。平和をつくる者も怒りを覚えることはありえる。そして、怒りを覚えられない人の何と災いであることか。その人は、びっこを引いているヤコブ[創32:31]のようである。というのも、怒りは、正しい方向に向かうときには、魂の聖なる足の一本だからである。だが、彼は怒ることがありえる一方で、「怒っても、罪を犯」さないこと、「日が暮れるまで憤ったままで」いないこと[エペ4:26]を学んでいる。自宅にいるとき、平和をつくる者は、自分のしもべたちや家族の者たちに対して穏やかであろうとする。不適切な言葉を語るくらいなら、多くの事を我慢する。そして、人を叱るとしても、そこには常に優しさがこもっている。「なぜこのようなことをしたのだね?――なぜこのようなことをしたのかね!」――裁判官の厳格さをもっではなく、父親の優しさをもってそうする。平和をつくる者は、ことによると、先週私がジョン・ウェスレー氏の伝記を読んでいるときに出会った1つの物語から教訓を学べるかもしれない。船に乗って渡米している間、ウェスレー氏は、サヴァナの知事になることになっていたオグルソープ氏と一緒にいた。ある日、彼は知事の船室で大きな物音を聞いた。そこでウェスレー氏が中に入ると、知事は云った。「なぜあんな物音を立てたか、ぜひ知ってもらいたいですな、先生。それには歴としたわけがあるのです。先生もご存知の通り」、と彼は云った。「わしが飲む唯一の葡萄酒は、キプロス葡萄酒なのです。それがわしには必要なのです。そこでそれを船に積み込んでおいたところ、このごろつきの、わしの召使いの、このグリマルディが一本残らず飲んでしまったのですよ。わしは、こいつを甲板で鞭打たせることにします。それから、最初にすれ違った軍艦に強制徴募で連れて行かせます。海軍に入って、さんざん辛い目に遭わせてやりますよ。そして、わしが絶対に赦さないことを思い知らせてやりたいですからな」。「閣下」、とウェスレー氏は云った。「ならば、私はあなたが決して罪を犯さないことを望みますよ」。この叱責は、あまりにも見事に云い表わされた、あまりにも的を射た、あまりにも必要なものであったため、知事は鸚鵡返しにこう答えた。「おゝ、先生。わしは罪を犯す者です。そして、いま口にしていたことでも罪を犯してしまいました。あなたに免じて、こやつは赦してやることにします。こいつも二度とこんなことはせんでしょう」。そのように、平和をつくる者は、常に自分にとって最上のことはこうすることだと考える。すなわち、自分自身が罪人であり、自分の《主人》に責任を負わなくてはならない以上、自分のしもべたちに対して厳しすぎる主人にはならないことである。彼らを怒らせるとき、自分の神をも怒らせることになるといけないからである。

 平和をつくる者は、戸外に出ることもある。そして、人々と一緒にいるとき、時として中傷に、また、侮辱にさえ出会う。だが、彼はそれらを忍ぶことを学んでいる。というのも、キリストが罪人たちの多くの反抗を忍ばれた[ヘブ12:3]ことを覚えているからである。清教徒の大神学者である、聖なるコットン・マザーは、彼を口汚く罵る何通もの匿名の手紙を受け取ったことがある。それを読み、心にとめた後で、彼はそれに紙の帯を巻き、こう書いてから棚にしまった。「誹謗者たち。――父よ。彼らをお赦しください!」 そのように平和をつくる者は行なう。彼は、こうした一切の事がらについて云う。「誹謗者たち。――父よ。彼らをお赦しください!」 そして、彼は息せききって自己弁護したりしない。人々の間で注意深く身を処していさえすれば、自分が仕えているお方が、自分の評判が守られるように面倒を見てくださると知っているからである。彼は仕事に出かける。すると、時として平和をつくる者にも、誰かを裁判で訴えたい気分を強くそそられるような状況が起こることがある。だが、彼は厳格にそうすることを強いられない限り決してそうしない。というのも、法律を用いるのは刃物をもて遊ぶようなものであること、そして、そうした道具の使い方を知っている者たちも自分の指を切るものであることを知っているからである。平和をつくる者は、法律がそれを執行する者たちに最も利益をもたらすものであることを覚えている。そして、こうも知っている。人々は、自分の魂のために六ペンスを伝道牧会活動に寄付する所で、また、自分のからだの健康のために一ギニーを医者に支払う所で、《大法官裁判所》における自分たちの法律顧問には追加謝礼として百ポンドか五百ポンドを費やそうとするものだ、と。それで彼は云う。「いや。私が敵によって不正に扱われ、多少は不利な目に遭うとしても、私たち双方が持てるものすべてを失うよりはましだ」、と。それで彼は、こうした事がらのいくつかを見過ごしにする。また、全体として見たとき、自分の権利を時として手放すことによって全く敗北者にはならないことを見いだす。時として、余儀なく自分の弁護をせざるをえなくなる場合もあるが、そうした時でさえ、いかなる歩み寄りをも受け入れる用意があり、いつでも、また、いかなる折にも、喜んで譲歩しようとする。彼は、かの古い格言を学びとっているのである。「一オンスの予防は、一ポンドの治療にまさる」。そして、そのようにそれを心にとどめ、自分を告訴する者とは一緒に途中にある間に早く仲良くなるようにし[マタ5:25]、争いが起こらないうちに争いをやめるか[箴17:14]、起こったならば、できる限り早く、神の前であるかのようにそれを終わらせようとするのである。

 それから、平和をつくる者は、ひとりの隣人でもあり、決して自分の隣人の争い事に首を突っ込もうとはしないし、特にそれが自分の隣人と細君との間の争い事である場合にはそうだが、――というのも、たとい彼ら二人が不一致であっても、自分が差し出口をすれば、たちまち一致して自分に立ち向かうだろうことをよく知っているからである。――彼が二人の隣人の争い事の助けを求められた場合には、決して彼らをかき立てて憎悪し合わせはしない。むしろ、彼らにこう云う。「それは良くないよ。兄弟たち。なぜ互いに争い合っているのだね?」 そして、確かに間違っている方の肩を持つことはせず、公平に行なおうと努めはするものの、その公平さをあわれみで和らげ、不正を働かれた方にこう云う。「気高い心になって、赦してやることはできないかね?」 そして、時として二人が非常に憤っているときには、両者の間に入り、両方からの打撃を受けることもある。というのも、イエスがそうされたことを知っているからである。イエスはご自分の御父からも、私たちからも打撃をお受けになり、私たちに成り代わって苦しむことにより、神と人との間に和解が成り立つようにしてくださった。こういうわけで、平和をつくる者は、その立派な職務を果たすように求められる時にはいつでも、また、とりわけ権威をもってそうできる立場にある場合には常に、そのように行動する。彼は、裁判官席に着く場合、調整してそうできるものなら、何とか事件を公判に付さないように努力する。もし彼が教役者であって、信徒たちの間にいさかいがあるとしたら、その詳細に立ち入ることはせず、――というのも、そこには箸にも棒にもかからない無駄口がごまんとあることを重々承知しているからである。――波浪に向かって、「静まれ」、と云い、風に向かって、「黙れ」、と云い、人々には生きよと命じる。彼らが共に住んでいるのは、ごく僅かな間しかないのだから、調和して生きるのがふさわしいと考える。それで彼は云う。「兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」[詩133:1]、と。

 しかし、やはりまた、平和をつくる者が自分の最も高貴な肩書として有しているのは、彼が一個のキリスト者だということである。キリスト者として、彼は自分をどこかのキリスト教会に結びつける。そして、そこで、平和をつくる者として、神の使いとなる。《教会》の中にすら、弱さに屈している者たちがおり、そうした弱さによってキリスト者である人々は、時として意見が相違することがある。それで、平和をつくる者は云う。「それは、みっともないことですよ。兄弟。和合して暮らしましょう」。そして、彼はパウロが何と云ったかを覚えている。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください」[ピリ4:2]。そして、もしこの二人がこのように一致するようパウロから懇願されたとしたら、一致は幸いなものであるに違いなく、自分はそのために身を粉にしようと考える。そして、時として平和をつくる者は、自分の教派と他の諸教派との間に不和が生じようとしているのを見てとるときには、あのアブラムの故事に目を向け、いかにアブラムの牧者がロトの牧者と争ったかを読む。そして、同じ節にこう書いていることに気づく。「またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた」[創13:7]。それで彼は、ペリジ人の見ている前で真の神に従う者たちが争い合うのは恥だったのだと考える。彼はキリスト者たちに云う。「そうしたことをしないでください。それは悪魔を楽しませ、神の栄誉を汚し、私たち自身の働きに損害を与え、人々の魂を滅ぼすことになるからです」。そして、こう云う。「剣を鞘に収めなさい。平和になり、互いに戦わないようにしなさい」。平和をつくる者でない人々は、《教会》に受け入れられたとき、ごくごく些細なことについて戦い、まるで細かな点についても意見を異にするものである。そして、私たちの知っているいくつかの《教会》がばらばらに引き裂かれ、キリスト者の団体の中で分派の罪が犯されてきた原因は、賢明な者には感知できないほど愚かな物事にあった。分別のある人間なら見過ごしにしたに違いないほど愚劣な物事にあった。平和をつくる者は云う。「すべての人との平和を追い求め……なさい」[ヘブ12:14]。特に彼はこう祈る。平和の《霊》である、神の御霊がいついかなる時も《教会》の上に宿っておられ、信仰者たちを1つに結び合わせてくださり、そのようにして彼らがキリストにあって1つとなり、この世は御父がその御子を世に遣わされたことを知る[ヨハ17:23]ようになることを。御子の使命の先触れとして聞かれた天使の歌声のようにである。――「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]。

 さて、この平和をつくる者について示した描写によって、私はあなたがたの中のある人々のことを描写したものと信ずる。だが、残念ながら、私たちの中のほとんどの者はこう云わなくてはならないのではないかと思う。「あゝ、ほとんどの点で、私は不十分です」。しかしながら、この1つのことだけはつけ足すことができよう。もしこの場に二人のキリスト者が出席しており、彼らが互いに反目しているとしたら、私は平和をつくる者となりたいと思うし、彼らにも平和をつくる者となるよう命じたい。二人のスパルタ人が互いに争っていたところ、スパルタ王アリスは二人がある神殿の中で会うように命じたという。そして彼ら二人がそこにいるとき、王は彼らの争いを聞いて、神官に命じた。「神殿の扉という扉を閉じて、この二人が同意見になるまで決して出してはならない」。そして、その神殿の内側で彼は云った。「意見の行き違いは、ふさわしくないぞ」。そこで両者はたちまち自分たちの不一致の折り合いをつけて、外へ出て行った。もしこのことが偶像の神殿でなされたとしたら、はるかにまさって神の家の中ではそう行なおうではないか。また、もしスパルタの異教徒がこのことを行なったのだとしたら、はるかにまさってキリスト者は――キリストを信じる信仰者は――そう行なおうではないか。きょうのこの日、自分の中にあるあらゆる恨み、あらゆる悪意を捨てて、互いにこう云おう。「もしも何かであなたが私を怒らせたことがあるとしたら、それは赦します。また、もし何かで私があなたを怒らせたことがあるとしたら、私の過ちを告白します。仲直りしましょう。そして、神の子どもたちとして、互いに一致するようにしましょう」。このようなことができる人々は幸いである。というのも、「平和をつくる者は幸い」だからである!

 II. このように平和をつくる者を描写した上で、次に行ないたいのは、《その人の幸いさを宣言する》ことである。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」。ここには、三重の称賛が含まれている。

 最初に、彼は「幸い」である。すなわち、神が彼を祝福しておられる。そして、私の知るところ、神が祝福なさる者は、ほむべきであり、神が呪われる者は、呪わるべきである。神はこの人をいと高き諸天から祝福しておられる。神にふさわしいしかたで祝福しておられる。キリストのうちに蓄えられている、あふれるほどの祝福で祝福しておられる。

 また、彼が神から祝福されている一方で、この幸いさは彼自身の魂を通して放散されている。彼の良心は、彼が人々の間でキリストに栄誉を帰そうとしてきたことを、神の前であるかのように聖霊を通して証言している。とりわけ、彼が最も幸いなのは、彼が最も多くの呪詛で攻撃されてきた場合である。というのも、そのときには、この確証が彼を迎えるからである。「あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました」[マタ5:12]。そして、確かに彼はいついかなる折にも喜ぶよう命令されてはいるが、彼が、ことさらに喜ぶようにとの特別の命令を見いだすのは、虐待を受けている時にほかならない。それゆえ、彼は、善を行なって苦しみを受ける[Iペテ3:17]としたら、それを納得し、このように《救い主》の十字架の一端を担えることを喜ぶ。彼は寝床に着くが、いかなる敵意の夢もその眠りを乱さない。彼は起き上がって自分の仕事に赴き、いかなる人の顔をも恐れない。というのも、彼はこう云えるからである。「私は、誰に対しても友愛の思いしか心にいだいていない」。あるいは、たとい中傷で攻撃を受け、彼の敵たちが彼に対して虚偽をでっちあげてきたとしても、それにもかかわらず彼はこう云うことができる。――

   「嘘をこしらえ、矢を放つ者
    兄弟(はらから)のごと わが胸にあり」。

すべての人を愛しつつ、彼はこのように自分自身の魂の中に平和を満たしている。そして、《いと高き方》の祝福を受け継ぐ者として幸いなのである。

 また、往々にして起こることだが、彼は悪人によってさえ祝福を受ける。というのも、彼らは彼のことを口でほめることを抑えようとするが、それができないからである。善をもって悪に打ち勝つ彼は、彼らの頭に燃える炭火を積み[ロマ12:20]、彼らの敵意の冷たさを溶かしては、ついに彼らがこう云うまでとなる。「この人は良い人だ」、と。そして、彼が死んだときには、彼によって互いに仲直りさせられた人々は、彼の墓の上でこう云う。「彼のような人が世にもっと多くいれば良かったものを。もし彼のような人がもっといれば、世の争いは半分もなくなり、罪は半分もなくなることであろう」。

 二番目に、あなたも注目するだろうように、この聖句は単に彼が幸いだと云っているだけでなく、こう云い足している。彼は神の子どものひとりである、と。彼がそうなっているのは、子とされたことと恵みとによってである。だが、平和をつくるということは、平和を愛する御霊が内側で働いておられることを示す甘やかな証拠である。さらに神の子どもとして彼は、天におられる自分の御父に似たものがある。神は平和を愛し、寛容で、優しく、いつくしみと憐れみと同情に満ちておられる。それと、この平和をつくる者は同じである。神に似ている彼は、自分の御父のかたちを帯びている。こういうわけで、彼は自分が神の子どもたちのひとりであることを人々に向かって証言しているのである。神の子どもたちのひとりとして、平和をつくる者は自分の御父に近づくことができる。彼は大胆にみもとに行き、こう云うことができる。「天にいます私たちの父よ」[マタ6:9]。彼があえてこう云えるのは、澄み切った良心をもって、こう申し立てられるときだけである。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」[マタ5:12]。彼は、人間との兄弟関係の絆を感じ、それゆえ、神の《父たること》を喜ぶことができる。彼は確信と強固な喜びをもって天におられる自分の御父のもとに行く。というのも、彼は《いと高き方》の子どもたちのひとりであって、この方は、恩知らずの悪人にも[ルカ6:35]親切であられるからである。

 そしてなおも、この聖句には三番目の称賛の言葉がある。「その人は神の子どもと呼ばれる」。彼らは、単にそうであるばかりでなく、そう呼ばれるのである。すなわち、彼らの敵たちさえ彼らをそう呼ぶことになるのである。たといこの世が、「あゝ! あいつは神の子どもだぜ」、と云うとしても、それは変わらない。ことによると、愛する方々。不敬虔な者がこの世の何にもまして心打たれるのは、侮辱を受けた際のキリスト者の平和に満ちたふるまいかもしれない。ひとりの兵士が印度にいた。図体の大きな彼は、入隊前は懸賞試合の拳闘選手をしており、後には多くの武勲を挙げた。その彼がひとりの宣教師の説教を通して回心したとき、彼の食事仲間たちはみな彼を笑い者にした。彼らは、この男のような者が平和に満ちたキリスト者になるなど不可能だと考えたのである。それで、ある日、彼らが食堂にいたとき、彼らのひとりが気まぐれに、彼の顔と胸に、火傷するような一杯の出汁をぶちまけた。このあわれな男は、服を引き破いて、その沸騰した液体を拭い取ったが、それでも、その取り込みの中でも冷静にしており、「わしはキリスト者だ。こんなことも覚悟しておる」、と云って彼らに微笑みかけた。事を行なった男は云った。「おめえがそんな受けとり方をすると分かってたら、絶対にするんじゃなかったよ。許しとくれよう、こんなことをしちまってよお」。その男の忍耐が彼らの悪意を叱責したのであり、彼らはみな男がキリスト者であると云った。このようにして、彼は神の子どもと呼ばれたのである。彼らは彼のうちに、自分たちにとって最も驚くべき証拠のすべてを見た。なぜなら、彼らは、自分たちには同じことができなかっただろうと分かっていたからである。エクセターのキルピン氏がある日、町通りを歩いていると、ひとりの悪者が彼を歩道から押しのけて、犬小屋の中に突き飛ばした。そして、犬小屋の中に倒れた彼に男は云った。「そこにおねんねしてな、ジョン・バニヤン。そこがお前には似合いだぜ」。キルピン氏は起き上がると、元のように歩き続けた。そして、後にこの男がなぜこのような侮辱に耐えられたのか教えてほしいと云ったとき、男を全く驚かせたことに、キルピン氏はこう云っただけだったのである。男は氏の名誉を汚すどころか名誉を増してくれたにすぎない、というのも、ジョン・バニヤンと呼ばれるとしたら、一千回犬小屋の中に突き落とされるだけの値打ちがあるからだ、と。そのとき、このことを行なった男は、あんたは良い人だと云った。そのように、平和をつくる者である人々は、「神の子どもと呼ばれる」のである。彼らはそのようなしかたでこの世に対して立証するのであり、それは本物の盲人も目にし、本物のつんぼも聞こえるに違いない。彼らの中にはまことに神がおられるのだ、と。おゝ、私たちにこうしたほむべき称賛をかちとれるだけの恵みがあったならどんなに良いことか! 話をお聞きの方々。もし神があなたを、義に飢え渇くまで導いてくださっているとしたら、私は切に願う。神があなたを平和をつくる者としてくださるまで、飢えることをやめないでほしい。それは、あなたが神の子どもと呼ばれるようになるためである。

 III. しかし今、第三のこととして、私は努めて、《その平和をつくる者を働きにつかせよう》と思う。

 あなたがたになすべき働きがたくさんあることを私は疑わない。あなた自身の家内においても、あなたの知人たちの輪の中においてもそうである。行って、それを行なうがいい。あなたもヨブ記のあの聖句を良く覚えているであろう。――「味のない物は塩がなくて食べられようか。卵のしろみに味があろうか」[ヨブ6:6]。――これによってヨブは私たちにこう知らせたいと思っていたのである。味のない物は、何か他のものがない限り、食物として喜ばしいものになれない。さて、私たちのキリスト教信仰は、人々にとって味のない物である。私たちはそれに塩を加えなくてはならない。そして、この塩とは、私たちの穏やかさや平和をつくる性向でなくてはならない。そのとき、私たちのキリスト教信仰だけなら避けていたはずの人々は、それとともに塩を見るとき、それについて、「それは良いものだ」、と云うであろうし、この「卵のしろみ」の中に、何らかの風味を見いだすであろう。もしあなたが人々の子らに対して自分の敬虔さを推奨したければ、あなた自身の家の中において、それをくっきり明確に働かせ、古いパン種を取り除くがいい。それは、あなたがたが、敬虔で天的な種類のいけにえを神にささげられるようになるためである。もしあなたがたの間に何らかの争いが、あるいは、何らかの分裂があるとしたら、私は切に願う。神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように[エペ4:32]、同じようにあなたがたも行なってほしい。あなたのために祈られたお方の血の汗にかけて、また、あなたに代わって死なれたお方の苦悶にかけて、また、死に行く中で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」[ルカ23:34]、と云われたお方にかけて、あなたの敵を赦すがいい。「あなたを侮辱する者のために祈り、あなたをのろう者を祝福しなさい」*[ルカ6:28]。キリスト者としてのあなたについては、常にこう云われるようにするがいい。「あの人は柔和で、心へりくだっているなあ。他人を傷つけるくらいなら不正を忍ぼうとするのだもの」。

 しかし、私があなたに取り組ませたい主な働きはこのことである。イエス・キリストは、ありとあらゆる平和をつくる者の中でも最大のお方であられた。「キリストこそ私たちの平和」[エペ2:14]であられる。主が来られたのは、ユダヤ人と異邦人との平和を実現するためであった。というのも、私たちは、「ギリシヤ人でも、ユダヤ人でも、未開人でも、スクテヤ人でも、奴隷でも自由人でもなく、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」*[コロ3:11]からである。主が来られたのは、ご自分の御父の正義と、私たちの罪を犯している魂との間に平和を実現するためであった。そして、その十字架の血潮によって私たちのために平和を作り出してくださった。さて、あなたがた、平安の子[ルカ10:6]である人たち。主の御手の器として、神と人々の間に平和を実現するよう努力するがいい。あなたの子どもたちの魂のために、あなたの熱心な祈りを天にささげるがいい。あなたの知人親戚すべての魂のために、あなたの願いが決してやまないようにするがいい。あなたの滅び行く同胞たちのために祈るがいい。そのようにして、あなたは平和をつくる者となるであろう。そして、祈った後では、あなたの力が及ぶ限りのあらゆる手段を用いるがいい。もし神があなたにその能力を与えておられるとしたら、説教するがいい。天から送られた聖霊――和解をもたらす、いのちの言葉――によって説教するがいい。説教できなければ、教えるがいい。みことばを教えるがいい。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」[IIテモ4:2]。「すべての水のほとりに種を蒔」くがいい[イザ32:20]。というのも、福音は「アベルの血よりもすぐれたことを語」り[ヘブ12:24]、人々の子らに平和を叫んでいるからである。あなたの友人たちに、キリストについて手紙を書くがいい。そして、もしあなたがキリストについて大いに弁じられないとしたら、多少とも弁じるがいい。しかし、おゝ! 他の人々をキリストのものにかちとることをあなたの人生の目的とするがいい。決してひとりで天国に行くだけで満足してはならない。主に願うがいい。あなたが多くの子どもたちを有する霊の父親となること、また、神があなたを祝福し、《贖い主》の収穫の多くを集めさせてくださることを。私が神に感謝するのは、あなたがたの中の非常に多くの人々が魂への愛に生きていることである。数々の回心について耳にし、回心者たちを受け入れることによって私の心は喜ばされる。だが、私が最も喜びを感じるのは、神の下で私自身が媒介的手段となって回心したあなたがたの中の多くの人々が、他の人々の回心の手段とされるときである。ここには、私のもとに絶えず他の人々を連れて来る兄弟たち、姉妹たちがいる。その人々は、その兄弟姉妹たちによって最初にこの建物に連れて来られ、彼らから見守られ、祈られ、とうとう彼らによって教役者のもとに連れて来られて、その信仰の告白を聞いてもらえるようなった人々なのである。このような平和をつくる者たちはほむべきかな! あなたがたは、「たましいを死から救い出し、また、多くの罪をおお」ってきた[ヤコ5:20]。「多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」[ダニ12:3]。彼らは、実際、天国そのものにおいて、「神の子どもと呼ばれる」。主の民全員の名前が書きしるされているその本の系図には、聖霊なる神を通して、彼らが数々の魂をイエス・キリストによる平和の絆へと導いてきたことが記されているはずである。

 IV. ここで最後のこととして、この教役者は、《本日の聖句を実行し、聖霊なる神によって、今朝、平和をつくる者となるよう努力しなくてはならない》

 今朝、私が語りかけている方々の中の大勢の人々は、平和について何も知っていない。というのも、「『悪者どもには平安がない。』と私の神は仰せられる」[イザ57:21]からである。「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである」[イザ57:20]。私があなたに語りかけるのは、あなたの魂に偽りの平安をもたらすためではない。「平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」[エレ6:14]ような預言者たちには災いあれ! むしろ、まず最初に、この件についてしっかりとした働きを行なわせてほしい。すなわち、あなたの魂がいかに平和のない、戦争状態にあるかをあからさまにさせてほしい。

 おゝ、魂よ! あなたは今朝、自分の良心と敵対している。あなたはそれを静めようとしてきたが、それはあなたを刺し続けるであろう。あなたは、《人霊》の町のこの記録係を暗い所に閉じ込め、その扉の前に壁を建てておいた。だが、その発作を起こすと、あなたの良心はあなたに向かって獅子吼して云うのだった。「これは正しくない。この通り道は地獄へ至ることになる。これは破滅への路だ」、と。おゝ! あなたがたの中のある人々にとって、良心は幽霊のように昼も夜もとりついている。あなたがたは善を知っているが、悪を選んでいる。あなたがたは、罪という薔薇を摘み取ろうとするとき、良心というとげで自分の指を刺している。あなたにとって、下りの通り道は容易なものではない。そこは垣根が建てられ、溝が設けられ、多くの柵と門と鎖がその路をふさいでいる。だが、あなたは自分の魂を滅ぼそうと決意して、それらを乗り越える。おゝ! あなたと良心の間には戦争がある。良心は、「立ち返りなさい」、と云うが、あなたは、「いやだ」、と云う。良心は云う。「日曜にはあなたの店を閉めなさい」。良心は云う。「この商売のしかたを変えなさい。それは人を騙すことです」。良心は云う。「互いに偽りを言ってはいけません。さばきの主が戸口のところにおられるのですから」[コロ3:9; ヤコ5:9参照]。良心は云う。「その杯を捨てなさい。それは人を獣よりも悪いものにしてしまいます」。良心は云う。「その不貞の関係を自分から引き離しなさい。その悪との関係を断ちなさい。情欲に対してあなたの扉に閂をかけなさい」。だが、あなたは云う。「私は、地獄に落ちることになっても、その快楽を飲むことにする。私は、自分の罪の中で滅びるとしても、なおも自分の杯に向かうし、行きつけの場所に行くことにする」、と。あなたとあなたの良心との間には戦争がある。それでも、あなたの良心は、あなたの魂における神の代理人である。今朝ほんのしばし良心に語らせるがいい。彼を恐れてはならない。彼はあなたにとって良い友であるし、彼が荒々しく語っても、来たるべき日には、良心の怒号そのものの中にある調べは、情欲があなたを欺いて滅びへ至らせるために採用する一切の甘やかで魅惑的な音色にもまさるものであることが分かるであろう。あなたの良心に語らせてみるがいい。

 しかし、それだけでなく、あなたと神の律法との間には戦争がある。十戒は今朝、あなたに逆らい立っている。最初のものが前に進み出て云う。「彼は呪われるべきである。わたしを否定しているのだから。彼には、わたしのほかに、別の神がある。彼の神は彼の欲望であり、彼は彼の情欲に忠誠をささげている」。十戒のすべては、巨大な十門の大砲のように、今朝あなたに向けられている。というのも、あなたは神の法令のすべてを破って、日々そのすべての命令を無視しながら生きてきたからである。魂よ! あなたはやがて、律法と戦争し続けることがつらいことに気づくであろう。律法が平和のうちにやって来たとき、シナイは全山が煙り[出19:18]、モーセでさえ、「私は恐れて、震える」[ヘブ12:21]、と云った。では、律法が恐怖とともにやって来るとき、あなたは何をしようと云うのか? そのとき御使いのかしらの喇叭は、あなたを墓場から引き剥がし、神の目はあなたの咎ある魂の中に焼き入り、数々の大いなる書物が開かれ[黙20:12]、あなたの一切の罪と恥辱が公開されるのである。その日あなたは怒れる律法に立ち向かえるだろうか? 律法の下役たちが進み出て、あなたを拷問者らに引き渡し、永遠にあなたを平和と幸福から放逐しようとするとき、罪人よ。あなたは何をしようというのか? あなたは永遠の火とともに住めるのだろうか? 永劫の炎とともに宿っていられるのだろうか? おゝ、人よ! 「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません」[マタ5:25-26]。

 しかし、罪人よ。あなたは知っているだろうか? あなたが今朝、神と戦争中であることを。あなたを造った、また、あなたの最良の友であられたお方を、あなたは忘れ果て、ないがしろにしてきた。この方は、あなたを養ってこられたが、あなたは自分の力を用いてこの方に逆らってきた。この方はあなたに着物を着せてこられた。――今朝あなたがまとっている服は、この方のいつくしみによる仕着せなのである。――だが、自分がその仕着せを着ているお方のしもべとなる代わりに、あなたはこの方の最大の敵の奴隷である。あなたの鼻腔の息そのものが、この方の愛によって貸し出されたものである。だがしかし、あなたはその息を用いて、ことによると、この方を呪っているかもしれない。あるいは、良くてせいぜい、好色な、あるいは、ふしだらな生き方によって、この方の律法の名誉を汚すだけであった。あなたを造ったお方は、あなたの罪によってあなたの敵となっておられ、あなたは今日なおもこの方を憎み、そのみことばを蔑んでいる。あなたは、「私は神を憎んではいません」、と云う。魂よ。ならば、私はあなたに命ずる。「主イエス・キリストを信じなさい」。「いやです」、とあなたは云うであろう。「それはできません。そうしたくはありません!」 ならば、あなたは神を憎んでいるのである。もしあなたが神を愛しているとしたら、あなたは神の大いなる命令を守ることであろう。「その命令は重荷とはなりません」[Iヨハ5:3]。これは甘やかで、穏やかである。あなたが御父を愛しているとしたら、その御子を信じることであろう。というのも、「父を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します」*[Iヨハ5:1]。あなたは、このように神と戦争中ではないだろうか? 確かに、これはあなたが陥っている痛ましい苦境に違いない。あなたは、あなたに立ち向かって、千万の民を引き連れて来られる[ユダ14]お方に当たれるだろうか? しかり。《全能者》であられるお方に対抗して立てるだろうか? この方が叱ると天も震えて恐れ[ヨブ26:11]、ことば1つで、かの曲がりくねる蛇[イザ27:1]を2つに折られるのである。あなたはこの方から隠れることができると思っているのだろうか? 「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ。――」[エレ23:24]。たといあなたがカルメルに穴を掘ろうと、神はあなたをそこから抜き取るであろう。海の洞窟に潜り込んでも、そこで神は曲がりくねる蛇に命じて、それがあなたを噛むであろう。たといあなたがよみに床を設けても、神はあなたを見つけ出すであろう。たとい天に上っても、神はそこにおられる。被造世界はあなたの牢獄であり、望めばいつでも神はあなたを見つけだせる。あるいは、あなたは自分が神の憤りを耐え忍べると思っているのだろうか? あなたのあばら骨は鉄だろうか? あなたの骨は青銅だろうか? そうだったとしても、それでもそれらは万軍の主なる神がやって来られる前では、蝋のように溶けることになる。というのも、神は力強く、獅子のようにそのえじきを引き裂き、火のようにその敵を食らいつくすからである。「私たちの神は焼き尽くす火」[ヘブ12:29]である。

 では、これが、今朝この場にいる、未回心の人々全員の状態である。あなたは良心と戦争中であり、神の律法と戦争中であり、神ご自身と戦争中である。さて今、神の使節として、私たちは平和のことを取り扱うためにやって来ている。それに注意を払うよう私は切に願う。「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」[IIコリ5:20]。「主に代わって」。しばしの間、この説教者は消えることとしよう。仰ぎ見て、耳を傾けよ。今はキリストがあなたに語りかけている。私は主があなたがたの中のある人々に語っておられるのが聞こえるような気がする。これが、主の語りかけるしかたである。「魂よ。わたしはあなたを愛している。心からあなたを愛している。わたしは、あなたが父と敵対していてほしくないと思っている」。涙が、主の語っておられることを真実であると証しし、主はこう声を上げられる。「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたがたを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」。「だが」、と主は云われる。「わたしは来て、平和のことをあなたと取り扱おう。さあ、来たれ。論じ合おう。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ」、と主は云われる。「あなたは今、あなたの魂に対する神の和平提案を聞くように命じられているのだ。それにはこう書かれている。――『あなたは咎があり、罪に定められている。そのことを告白するつもりがあるだろうか? あなたは今あなたの武器を投げ捨てて、こう云うつもりがあるだろうか? 「大いなる神よ。降伏します。降伏します。私はもうあなたの敵にはなりません」、と』」。そうするなら、平和があなたには宣せられよう。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」[イザ55:7]。赦しは、自分の罪を真心から悔い改める、あらゆる魂に素晴らしいしかたで提示されている。だが、その赦しは信仰によってあなたのもとにやって来なくてはならない。それで、イエスは今朝ここに立って、ご自分の胸と御傷を指し示し、その血を流す御手を開いて、こう云われるのである。「罪を犯すか、わたしを信頼して生きよ!」 神はあなたに対して、もはやその燃える律法を宣告してはおられない。むしろ、その甘やかな、その単純な福音を宣告しておられる。信じて生きるがいい。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」[ヨハ3:14]。おゝ、魂よ! 神の霊は、今朝あなたの中で動いていないだろうか? あなたはこう云わないだろうか? 「主よ。私はあなたとの平和を得たいと思います」、と。あなたはキリストを、その仰せの通りの条件で受け入れたいと思うだろうか? そして、それらは条件などでは全くない。――それは単に、あなたがこの件において何の条件もつけず、自分を全く――からだも魂も霊も――ゆだねて、主に救っていただくということなのである。さて、もし私の《主人》が、目に見えるかたちでこの場におられるとしたら、主はあなたがたを相手に切々と懇願し、その結果あなたがたの中の多くの人々がこう云うだろうと思う。「主よ。信じます。あなたとの平和を得させてください」。しかし、キリストご自身でさえ、聖霊から離れては、ただ1つの魂をも回心させたことがなく、説教者としての主でさえ多くの人々をご自分の心をかちとることはなかった。というのも、彼らは心のかたくなな者たちだったからである。もし聖霊がこの場にいるとしたら、キリストに代わって私が懇願するとき、キリストご自身が懇願されたかのようにあなたを祝福することがおできになるであろう。魂よ! あなたはキリストを得たいのか、得たくないのか? 若い青年よ、若い婦人よ。あなたがたは、二度とこの言葉が耳に説教されるのを聞くことがないかもしれない。あなたがたは神と敵対したまま死にたいのだろうか? あなたがた、この場に座っていながら、まだ回心していない人たち。あなたの最期の時は、次の安息日の夜明けが来る前にやって来るかもしれない。明日をあなたがたは決して見ないかもしれない。あなたは、「悪い行ないによって神の敵である」まま永遠に入りたいのだろうか? 魂よ! あなたはキリストを得たいのか、得たくないのか? 本気で得たくなければ、「得たくない」、と云うがいい。「いやです」、と云うがいい。「いやです。キリストよ。私は決してあなたによって救われたくありません」、と。そう云うがいい。正面からこの件を見つめるがいい。しかし、ぜひともこうは云わないでほしい。「何も答えたくありません」、と。さあ、何らかの答えを今朝、返すがいい。――左様。今朝である。神に感謝すべきことに、あなたは答えを返すことができる。神に感謝すべきことに、あなたはまだ地獄にはいない。神に感謝すべきことに、あなたの判決はまだ下っていない。――あなたの当然の報いを、あなたはまだ受け取っていない。願わくは神の助けにより、あなたが正しい答えを返せるように! あなたはキリストを得たいのか、得たくないのか? 「私はふさわしくありません」。ふさわしさの問題など全くない。あなたはキリストを得たいのか?、である。「私はどす黒い者です」。主はあなたのどす黒い心の中に入り、それをきよめてくださる。「おゝ、ですが私はかたくなな心をしています」。主はあなたのかたくなな心の中に入り、それを柔らかくしてくださる。あなたはキリストを得たいのか?――あなたが望めば、主を得ることができる。神がある魂を望ませてくださるとき、それは、神がその魂にキリストを与えようとしている明白な証拠である。そして、もしあなたが望んでいるなら、神が望んでおられないことはない。もし神があなたを望ませておられるなら、あなたはキリストを得てかまわない。「おゝ」、とある人は云うであろう。「私は自分がキリストを得られるなど考えられません」。魂よ。あなたは今キリストを得られる。メアリー、主はあなたを招いておられる。ジョン、主はあなたをお呼びになっている! 罪人よ。あなたがこの大群衆の中でいかなる者であろうと、あなたの魂の中に今朝、キリストを欲する聖なる願いがあるとしたら、左様。あるいは、もしキリストを欲する微かな思いがかけらでもあるとしたら、主はあなたを召しておられる。あなたをお呼びになっている! おゝ、遅れてはならい。むしろ、行って、主に信頼するがいい。おゝ、もし私がこのような福音をもって地獄にいる失われた魂たちに宣教するとしたら、それが彼らにいかなる効果を及ぼすことであろう! 確かに、確かに、もし彼らがもう一度その耳に福音が宣べ伝えられるのを聞くことができたとしたら、彼らのあわれな頬は涙で濡れ、彼らはこう云うだろうと思う。「大いなる神よ。もし私たちがあなたの御怒りから免れることができさえするなら、私たちはキリストをつかみたいと思います」、と。しかし、ここで、あなたがたの間で、それは宣べ伝えるられている。毎日宣べ伝えられている。残念ながら、それが古い、古い物語になるまで耳を傾けられているのではないかと思う。ことによると、それを告げる私の貧弱さのせいかもしれない。だが、神もご存知の通り、もしそれをより良く告げるしかたを知っていたとしたら、私はそうするであろう。おゝ、私の《主人》よ! もしそれがこの人々を手に入れることになるとしたら、より良い使節をお遣わしください。もっと熱心な懇願者を、もっと優しい心をお遣わしください。もしそれで、彼らをあなたのもとに至らせることになるとしたら! しかし、おゝ! 彼らを至らせてください! 至らせてください! 私たちの心は、彼らが至らされることを切望しています。罪人よ。あなたはキリストを得たいのか、得たくないのか? 今朝は、あなたがたの中のある人々の魂にとって、神の戦いの日[詩110:3]であることを私は知っている。聖霊はあなたがたの中のある人々と争っている。主よ。彼らをかちとり、征服し、圧倒してください! あなたは云うだろうか? 「そうです。幸いな日よ! わたしはとりこになりたい。私の主の大いなる愛のとりこに」、と。魂よ。もしあなたが信じるならば、それはなされている。キリストを信頼すれば、あなたの多くの罪はみな赦される。その愛しい十字架の前に身を投げ出し、云うがいい。――

   「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら、
    汝れが御腕(かいな)に われは身を投ぐ。
    われの力と 義となり給え、
    わが主イエスよ、わがすべてよ」。

そして、もし主があなたをはねつけるとしたら、それを私たちに告げてほしい。もし主があなたをはねつけるとしたら、私たちにそれを聞かせてほしい。これまで、そのような場合は一度としてなかったのである。主は常にみもとに来る者を受け入れてこられた。主は常に受け入れてくださる。主は、両手を開き、心を開いておられる《救い主》である。おゝ、罪人よ! 神があなたを導き、あなたの信頼をきっぱりと主に置かせてくださるように! 天上の霊たちよ! あなたの立琴の調子を再び合わせるがいい。今朝、そこにいるひとりの罪人が神から生まれたのである。その歌を先導するがいい。おゝ、タルソのサウロよ! そして、甘やかさのきわみたる調べで後に続くがいい。おゝ、罪人のマリヤよ! きょう、御座の前に音楽を巻き上がらせるがいい。というのも、栄光の相続人たちが生まれ、放蕩息子たちが帰ってきたのだから! 神に栄光が永久永遠にあらんことを! アーメン。

 


(訳注)

*1 クリミア戦争(1853-56)。露西亜 対 英国・仏蘭西・墺太利・土耳古・普魯西・サルディニアで行なわれた。[本文に戻る]

*2 これは前年に勃発した米国の南北戦争[1860-1865]に対する言及である。この戦争で動員された兵力は、最終的には北部で156万人、南部で90万人。92万人の死者を出し、国土を荒廃させた大戦争となった。[本文に戻る]

 

平和をつくる者[了]

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