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幸いな飢え渇き

NO. 2103

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1889年9月8日、日曜朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」。――マタ5:6


 人間は、堕落前には完璧な義を有していたため、完璧な幸いさを享受していた。もしあなたや私が、天来の恵みによって、死後、幸いさに達するとしたら、それは神が私たちを義へと回復してくださったからであろう。義は、最初の楽園にあったのと同じように、第二の楽園にもなくてはならない。――義は人間の幸いさに不可欠である。私たちは、罪の中に生きながら、真に幸福であることはできない。聖潔は、幸いさの本来的な棲息地である。そして、その場所から出された幸いさは、魚が火の中で生きられないのと同じくらい、生きることができない。人間の幸福は、その義を通してやって来るしかない。人が神と、人と、そして自分自身と――実際、周囲のすべてと――正しい関係にあることによるしかない。ならば、私たちが堕落する前の最初の状態の幸いさが失われており、かつ、死後の完璧さにおける幸いさがまだ来ていない以上、いかにしてその中間にある私たちが幸いにされることなどありえるだろうか? 答えはこうである。「義に飢え渇いている者は幸いです」。そうした者は、確かに自分の願い求める義に達してはいないが、それでも、その切望そのものによって、幸いな人々となるのである。過去の壮大な幸いさ、また、永遠の未来の得がたい幸いさが、現在の幸いさという帯で1つに合わされている。その帯は、それが結び合わせている2つほど壮大ではないが、同じ材料でできており、同じ手によって形作られており、それが1つに合わせている双方の宝物と同じくらい不滅のものである。

 私は今朝、この飢え渇きについて語っていきたいと思う。もとい、そのように努力するには、今はあまりにも具合が悪い気がしているために云い直そう。私はそれをあなたに説教したいと飢え渇いている。だが、それが私の持てる力で精一杯できる所である。おゝ、私も、あなたのために満たされることができればどんなに良いことか! 願わくは主の御霊が、私たちの主イエスのこの幸福の使信によってみことばをあなたに取り次ぎたいという私の強い願いを満たしてくださるように。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」。

 まず第一に、本日の聖句には異様な欲求が言及されている。――パンや水にではなく、「義に飢え渇いている」ことがそれである。第二に、このように飢えている人々について、尋常ならざる宣言がなされている。――イエスは彼らが「幸い」である、つまり、幸福であると云われる。そして、疑いの余地なく、主の判断は正しい。第三に、本日の聖句には、1つの特別な満足が言及されている。彼らの必要を満たし、その見通しのゆえに彼らを幸いにするものである。「その人は満ち足りる」。

 I. まず最初に語りたいのは、《異様な欲求》についてである。

 この場合、1つの飽くことを知らない願望が異なる形を取っている。彼らは飢えており、彼らは渇いている。2つの最も緊要な肉体的必要が、義に対する魂の渇望を述べるために用いられている。飢えと渇きは異なるものだが、どちらも激しい欲望を示す言葉遣いにほかならない。その2つのどちらかを一度でも感じたことのある人は、それによっていかに痛烈な苦痛がもたらされるかを知っている。そして、もしこの2つが1つの渇望に合わされるとしたら、それらは、やむことのない、すさまじい、抑えがたい情動となる。飢え渇いている人に誰が抵抗できるだろうか? その人の全存在は、自らの恐ろしい必要を満たそうとして戦う。幸いなのは、義を切望している人々である。その切望は、一語では決して完全に描写することができず、一種類の渇望では述べ尽くすことができない。飢えが渇きと結び合わされない限り、義を求める欲求の強烈さ、熱心さを述べることができないのである。

 この願望は、その絶え間なさにおいて飢え渇きに似ている。それが常に一様に荒れ狂っているというのではない。飢えている人は、必ずしも常に一様に苦痛を覚えているわけではないからである。だが、それでもその人は、決して内側で責め苛むもの、心中に燃えているものを完全に忘れることはできない。幸いなのは、何物もそらすことのできない、飽くなき切望によって、常に義を欲求している人である。飢え渇きは抑えることができない。飲み食いするものを与えるまで、その欲望はその人をむさぼり食らい続けるであろう。飢えている人に、弦楽器から引き出されうる、あるいは、吹奏楽器から吹かれうる最高の音楽を聴かせようと、その人の渇望を鎮めることはできない。それは、その人を嘲ることにしかならない。その人の前に、いかに壮麗な景色を繰り広げようと、その景色の目立った所に、一個のパンと一杯の水がない限り、その人は大河にも原野にも、山岳にも深林にも心を動かされはしない。幸いなのは、とキリストは云われる。義に関して、常にそれを求めており、それを見いだすまで満足できない者である、と。幸いになるには欠かせないという、義に対するその欲求は、微弱なものではない。その人が弱々しげにこう云えるようなものではない。「ぼくも義人になれたらいいと思うんだけどね」。また、それは善良な欲求が束の間にほとばしり出ることでもない。むしろ、それは、飢え渇きのように、いつまでも人から離れず、人を征服してしまう切望である。その人はそれをかかえて仕事に行き、それをかかえて家に帰り、それをかかえて寝床に就き、それをかかえてどこへでも行く。というのも、それは、その有無を云わさぬ要求によってその人を支配しているからである。蛭が、「くれろ。くれろ」[箴30:15]、と云うように、心は、ひとたび義に飢え渇くことを知ると、きよさと、高潔さと、聖潔とを叫び求めるのである。

 こうした欲求は1つの目的に集中している。その人が飢え渇いているのは義であって、他の何物でもない。ほとんどの神学書は、これを転嫁された義であると云うか、植えつけられた義であると云うか、そのどちらかである。疑いもなく、そうした事がらは意味されている。だが、私はそこにありもしない形容詞を差し込みたいとは思わない。この聖句は、「転嫁された」とも「植えつけられた」とも云っていない。――なぜそれを補完する必要などあるだろうか? 義をこそ、その人は慕いあえいでいるのである。その一切の意味における義を。最初に、その人は自分が神と正しい関係にないことを感じ、その発見によって非常に苦悩させられる。神の御霊は、その人が神にとって全く良くない者であることをお示しになる。というのも、その人は自分が守ってしかるべきだった律法を破ってきたし、しかるべき誉れと愛をささげてこなかったからである。同じ御霊は、神との正しい関係に立ちたいとその人に切望させてくださる。そして、その良心を覚醒させられたその人は、そのことがなされるまで心安まることがない。もちろん、ここには、彼の数々の違反の赦罪が含まれるし、神に受け入れられるだろう義をその人に与えることが含まれている。その人は、この賜物を求めて熱心に神に叫ぶ。その人の魂の飢えの中でも、最も痛烈な苦痛の1つは、この必要が決して満たされないかもしれないという恐怖である。いかにして人は自分の正しさを神に訴えることができようか?[ヨブ9:2] 福音の格別な栄光は、それが神の義を啓示していることである。――罪人たちが神との正しい関係に立つことのできる方法を明らかに示していることである。そして、葛藤し、祈りを積み、義に飢え渇いている人のもとには、それとともに格別な甘やかさがやって来る。主イエス・キリストを信じる信仰による義について聞くとき、その人はそれに飛びつき、つかみとる。それが、彼の場合にぴったり当てはまるからである。

 その飢えは、今度は別の形を取る。罪赦され、義と認められた人は、今や自分のふるまい、言葉遣い、思念において正しくなりたいと願望する。その人は、自分の生き方全体において義となることを慕い求める。自分が高潔さと、親切と、あわれみ深さと、愛と、自分の同胞である人々に対する正しい状態を成り立たせる他の一切のこととに特徴づけられる者になりたいと願う。神に対する自分の種々の感情やふるまいにおいて正しくある者になりたいと熱烈に願望する。自分の神を正しく知り、従い、祈り、賛美し、愛したいと渇望する。神と人とに対してしかるべきあり方になるまで心安まることができない。その人が切望するのは、単に神によって義と扱われることではない。それは、主イエス・キリストの贖罪の血と義とによってやって来る。それに加えて、心を探りきわめられる神の前で現実に義となりたいのである。また、それでもこの人にとっては十分ではない。その人のふるまいが正しいものとならなくてはならないばかりでなく、その人自身が正しいものとなることを慕いあえぐ。その人は、自分の内側に不良な欲望があることを見いだし、それが滅ぼし尽くされることを願う。不義への傾向を見いだし、それらに抵抗し、打ち勝ちはするものの、そうした傾向そのものがその人にとっては厭わしいものである。禁じられている快楽への切望を見いだし、嫌悪とともにそうした快楽をはねつけはするものの、それらを好む性癖が少しでもあることに悩む。その人は、罪が自分に全く何の力も及ぼさないほど更新されたいと欲する。その人は、情欲をもって眺めることが姦淫であること、貪欲な願望が盗みであること、不当な怒りが殺人であることを学びとっている。それゆえ、その人は単にそうした眺めや願望や情動から自由になるだけでなく、そうした方向への傾向からさえ自由にされたいと渇望する。その人が切に願うのは、自分の存在の源泉がきよめられることである。その人は、「義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」[エペ4:24]ことに飢える。「造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る」[コロ3:10]ことを渇する。自分自身がイエスに似た者となるまで満足できない。イエスは、見えない神のかたちであり[コロ1:15]、義と平和の鑑であられるからである。しかし、よく聞くがいい。たといそこまで達したとしても、その人の飢え渇きは単に別の方向を取るにすぎない。この敬虔な人は、他の人々のうちに義を見ることに飢え渇く。時として、自分の回りにいる人々のふるまいを見て、その人は叫ぶ。「私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています」[詩57:4]、と。その人が聖くなればなるほど、罪はその義なる魂を悩ますようになり、その人は叫ぶ。「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは」[詩120:5]。その人はしばしば、自分に「鳩のように翼があったなら」、と願う。そうすれば、「飛び去って、休む」[詩55:6]ことができるからである。クーパーのように、その人は叫ぶ。――

   「広き荒野に結びし庵、
    人里離れし 果てなき封土、
    虐げ、策謀(わな)の 噂(こえ)も聞こえず、
    戦争(いくさ)の 勝敗(かちまけ)
    絶えてわれには とどかじな!」

その人は敬虔な仲間に飢える。聖くない者が聖くされるのを見たいと渇する。それゆえ、その日ごとの祈りにおいて叫ぶのである。「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」[マタ6:10]、と。飢え渇きをもって、その人は叫ぶ。「主よ。罪の統治をやめさせてください! 主よ。種々の偶像を打ち倒してください! 主よ。地から過誤を追い払ってください! 主よ。人々を情欲から、強欲から、冷酷から、酩酊から立ち返らせてください」、と。その人は義のために生き、義のために死にたいと思う。その熱心がその人を食い尽くしている[ヨハ2:17]。

 兄弟たち。私があなたに望むのは、私がここまでかろうじて概略を描いてきたような、義への、この心奪うような情動の様々な動きに、あなた自身の知識によって従えるようになることである。

 よく気をつけてほしいが、こうした集中的な欲求は非常に選り好みが激しい。その人は二十もの事がらを切望したりしない。ただ1つのことを、それだけ抜き出して切望する。その飢え渇きは、「義に」対するものである。その人は富には飢えていない。富んでいて悪人であるよりは、むしろ貧しくとも義であることを望む。その人は健康に飢えてはいない。その大いなる祝福を得ることを願いはするが、病んでいて義である方が、五体満足でいて不義であるよりも良いとする。その人は、義に対する種々の報いすら自分の大目的とはしない。それらは非常に願わしいものである。同胞たちからの尊敬、心の平安、神との交わりは、決して小さなことではない。だが、その人はそれらを自分の願望の主たる目的とはしない。というのも、それらは、義そのものを第一に求めるなら自分に加えられるだろうと知っているからである。たとい何の天国もなかったとしても、敬虔な人は義となろうと願うであろう。たとい何の地獄もなかったとしても、不義を恐怖するであろう。その人の飢え渇きは、正直さ、きよさ、廉直さ、聖潔に対するものである。その人は、神がお望みになる通りの者になりたいと飢え渇いている。天国を求めることと神を求めること、地獄を避けることと罪を避けることは常に区別するがいい。どんな偽善者も天国を願望し、地獄を恐怖するからである。だが、真摯な者だけしか義には飢えない。盗人は監獄を避けたがるが、もう一度盗みをしたいと思う。殺人者は絞首台を免れたがるが、自分の短剣を喜んで再び握りたがる。幸せになりたいという願望、良心に安らぎを得たいという願い、これらは貧弱なものである。魂の真の高貴な飢えは、義のゆえに義となりたいという願望である。おゝ、喜びを得ようが悲しみを得ようが、聖くなりたい! おゝ、誉れをもたらそうが軽蔑を招こうが、心きよくなりたい! これが、――このことこそが、幸いな渇きである。

 さて、この飢え渇きのあるところには、それなりの働きがあるであろう。飢え渇きは、人間性という家の寝具係ではない。しかり。それらは警鐘を鳴らし、その家の土台を揺さぶることさえする。飢えている人はおとなしくしていることができない。究極的に、その人は、自分のすさまじい必要によって失神あるいは無感覚という受動的な状態になるかもしれない。だが、その人の内側に感覚が残っている間は、飢え渇きは猛烈な力を振るい、その人にこの上もなく強烈な努力を行なわせる。古い時代に、ひとりの囚人が監獄の門の所に座らされ、あわれな債務者たちのために物乞いをさせられたとき、すさまじい訴えをしたという。彼自身、骨と皮ばかりになっていながら、彼は通り過ぎる人々の耳に向かって喜捨箱を鳴らし、中で飢えている債務者たちのために何かを与えてくれるよう、この上もなく哀れに叫び求めた。飢えた人間がいかなる目つきであなたを見ることか! その眼差しそのものが刺すような祈りである。義に飢え渇いている者は、その魂を傾けて神に訴える。そこには見せかけの祈りなど全くない。義に飢え渇いている者は、格闘する人である。これによって、その人は活発な人にもなる。というのも、空腹は石の壁をもうがつからである。その人は、食物のためなら何でもする。最悪の所まで行くと、その人はしばしば様々に愚かなことを試みる。パンでもないもので自分の飢えを抑えようとし、満足させもしないもののために無駄な努力をする。それでもこれは、ただこう示しているにすぎない。こうした欲求が義に向けられるときに、それらがいかに精力的なものか、また、それによっていかに人間性の力という力がかり立てられることかを。

 愛する方々。こうしたことは、決して普通に見受けられるものではない。世界中のおびただしい数の人々は、決して義に飢え渇いてはいない。あなたがたの中のある人々は救われたいと思っている。だが、救われないとしても、しごくよろしくやって行くことができる。だが、飢え渇いている者は決してこうは云わないであろう。「食物はほしいけど、なければないでいいや」。では、もしあなたが、自分の尊んでいると告白する祝福なしでも落ち着いていられるとしたら、あなたは飢え渇いてはいないのである。もしあなたが義に飢え渇いているとしたら、あなたはそれを即座に欲する。こうした渇望は遅れを我慢できない。即座に食物が供されることをやかましく叫ぶ。飢えた人の動詞は現在形である。おゝ、いかに多くの人々が、その遅れにより、また、その無頓着さにより、自分が決して義に飢え渇いていないことを明らかにしていることか! また、私にはすでに義である他の人々が見える。彼らは、自分の欲する限り善人である。その人が語るのを聞くがいい。「私は、キリスト教の信仰告白など全くしませんがね、そうしとる多くの連中よりもずっと善人ですよ」。おゝ、しかり。私はあなたを存じ上げている。そして、《処女マリヤ》もあなたを知っている。というのも、彼女はその歌の中でこう云ったからである。「主は……飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました」[ルカ1:53]。あなたはいつの日か何も持たなくなり、決して満ち足らされないであろう。それはなぜか? あなたが空気で膨れ上がっているあまり、あなたの心の中に天的な実質を入れる余地がないためである。

 多くの人々は、天のパンである主イエス・キリストを拒否する。健全な食物を拒否する人を飢えているということは決してできない。あなたの子どもが食卓に着いても、夕食をほしくないと云うとき、その子は明らかに空腹ではないのである。キリストを捨て去り、その贖罪をも、その聖化をも受け取ろうとしない者たちは、義に飢えてはいない。多くの人々は、福音の小さな事がらを批判する。教役者の声だの、口調だの、風采だのついてのどうでも良いことのあら探しをする。人が食卓に着き、皿の一枚が欠けているとか、真中に置かれた薔薇の一本に虫がついているとか、食塩入れの位置が半吋ほどずれているとか、パセリが冷肉の回りにきちんと散らされていないとかいうことに注意を払い始めるとき、その者は空腹ではないのである。貧しい造船所の労働者か、もっと良いのは、その細君か子どもたちを試してみるがいい。彼らは、辛子もつけずに肉を食べ、牛酪もつけずにパンを食べるであろう。飢えている人が脂身も赤身もともに食べることは請け合っても良い。人々が本当に真理に飢えているとしたら、説教がこれほど愚にもつかない論評にさらされることはないであろう。「食卓刀をください、そして、食べさせてみてください」、と飢えている人は云う。「福音をください」、と悩める求道者は云う。「そうすれば、雄弁かどうかなど気にしませんから」。愛する方々。私が望むのは、あなたが義に飢え渇くようになるあまり、つまらないものは、あなたにとってつまらないものとなり、本質的な真理があなたの唯一の関心事となることである。

 悲しいかな! ある人々が義に飢え渇いていないことを私たちは確信している。というのも、彼らはそれを聞きたいとさえ思わないからである。あなたの男の子が夕食時にも外の路にずっといるとしたら、確かにその子はあまり空腹ではないに違いない。食事を知らせる鐘は、それを聞く者のうちにその議論を見いだすときには、非常に有力な論客である。食物が得られるという告知がなされるや否や、空腹な人は急いで食卓のもとにやって来る。願わくは、私たちがもっと霊的に飢えた人々を相手に説教することができるように。そうした者たちに向かって説教する人は幸いな説教者となるであろう。彼は幸いな人々を相手に説教することになるからである。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」。

 II. 私は、かろうじて微かにその性格の描写を示してきた。そこで今から注意していきたいのは、私たちの主の《尋常ならざる宣言》である。主は云われる。「義に飢え渇いている者は幸いです」。

 ここには1つの逆説がある。人々が飢え渇いていながら、それでも幸いであるとは可能とは思われない。飢え渇きは苦痛をもたらす。私にはあなたのことが分かっている。愛する方よ。あなたは今朝、この場にやって来て、自分の内側でこう云っている。「おゝ、私が良くなることができたなら! 私は大罪人です。おゝ、私が赦されるなら、どんなに良いことでしょう! おゝ、私が神の前で義となることができたなら、どんなに良いことでしょう!」 別の人はこう云っているであろう。「私は、自分が赦されて救われていると信じます。ですが、自分が罪に転落するのではないかというすさまじい恐れを感じるのです。おゝ、私は何とみじめな人間なのでしょう。もろもろの罪深い傾向を有しているとは! おゝ、私が完璧になり、罪深い性質という形で私を取り巻く死の権化から全く救い出され、幸いになれるとしたらどんなに良いことでしょう!」 あるいは、ことによると、別の愛する方がこの場に座って、こう叫んでいるであろう。「神は私に非常に恵み深くしてこられました。ですが、私の子どもたち、私の夫、私の兄弟は罪の中に生きており、それが私の日ごとの重荷となっています。私はこの場に、非常に重い心をいだいてやって来ました。彼らが主を知っていないからです」。聞けよ、愛する方。そして、励まされるがいい。義に対するあなたの飢えがいかなる形を取ろうと、あなたは幸いな人なのである。自分や他の人々について、そうした苦痛をあなたは忍んではいるが、あなたは幸いである。飢え渇きはしばしば虚脱感をもたらし、その虚脱感によって人は、時として失神して息が絶えそうになることがある。私が語りかけている人々の中には、その段階に達した人がいるかもしれない。そうした人に私は云おう。「あなたは幸いである」、と。あなたがため息をついているのが聞こえる気がする。「おゝ、私が望む通りの者になることができればどんなに良いことでしょう! 『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか?』[ロマ7:24] こうした内なる腐敗の数々、こうした悪しき想像の数々には死ぬほど苦痛を感じます。もう耐えられません。神は私に善なるものを愛することを教えてくださいました。そして今、『私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない』[ロマ7:18]のです。私の祈りさえ、散漫な思いによって中断されます。私の悔い改めの涙には罪が混じり合っています」。愛する方よ。私には、その息も絶え絶えな思いも、虚脱感も、その呻きも焦燥もよく分かる。だが、それにもかかわらず、あなたは幸いである。というのも、この聖句がこう云っており、それは非常に尋常ならざる言葉だからである。「義に飢え渇いている者は幸いです」。

 なぜ彼らは幸いなのだろうか? よろしい。最初に、イエスがそう云っておられるからである。そして、主がそう云っておられる以上、私たちはそれ以上の証明を必要とはしない。もし、群衆を見回して、私たちの主が、自己満足した者たちを見過ごしにしたとしたら、また、もし主の目がふと止まったのが、ため息をつき、叫んでおり、義に飢え渇いている人々だったとしたら、また、もし御顔に微笑みを浮かべて主が、「この人たちこそ幸いです」、と仰せになるとしたら、まことに彼らが幸いであることは請け合っても良い。というのも、主が幸いであると宣言される者たちが真実に幸いであるに違いないことを私は知っているからである。私は、全世界から幸いだと評価される者になるよりも、むしろ、キリストから幸いであるとみなされる者になりたいと思う。というのも、主イエスは人間たちよりもずっと良くものを知っておられるからである。

 義に飢えている人が自分のことを幸福だと考えるべき理由は、その人が物事の正しい価値を知らされているからである。以前のその人は、無価値な快楽を高く評価し、人々の称賛という金滓を純金とみなしていた。だが、今やその人は義を尊んでいる。もはや、硝子玉を真珠よりも大切にする子どものようではない。その人はすでにある程度の義を獲得している。というのも、その識別力が正しい考え方をしているからである。その人は、そこまで光を与えられていることに感謝すべきである。かつてのその人は、苦みを甘み、甘みを苦み、闇を光、光を闇としていた[イザ5:20]。だが、今や主はその人に、何が善であるかを、また主が何をその人に求めておられるかを知るようにしておられる。この正しい識別力を得ていることにおいて、その人は幸いな人であり、さらに大きな幸いさへの途上にあるのである。

 さらに注目すべきは、単にその人は物事を正しく評価しているばかりでなく、善であり、望ましいものを欲する心を得ている。かつてのその人は、単に地上的な慰安となるものしかかまいつけなかった。だが、今は、義に飢え渇いている。「鍋の中の肉を一切れくれよ」、とこの世の子は叫ぶ。「そうすりゃ、お前の大切な義は、ほしがる奴に残しといてやるぜ」。だが、この人は天性のものにまさって霊的なものを重んじる。義こそその人にとって幸福なのである。その人の唯一の叫びは、「私に義を下さい」、である。その人の心全体がそれにかけられており、これは決して小さな特権ではない。神が承認なさるものへの願望で満たされている人は、その人自身、承認されている。そのような人には、王家の気質にもまさる気宇の大きさが与えられており、そのことゆえに、神に感謝すべきである。

 その人が幸いなのは、こうした飢えが存在することによって、多くのより卑しい飢えが死滅するからである。1つの支配的な情動は、アロンの杖[出7:12]のように、他のすべてを呑み込んでしまう。その人は義に飢え渇いている。それゆえ、情欲の渇望も、強欲な貪欲さも、憎悪という情動も、野心の焦燥も、すでに用済みである。私たちも知る通り、重病にかかった病人たちからは、以前のあれこれの愚痴が追い出されてしまう。新鮮な火が、もろもろの古い火を消し去るのである。そのように人々は、義に対する渇望に影響されて、土地所有欲だの、金銭欲だの、高慢への渇仰だの、情欲への渇仰だのがやんでしまうことに気づく。新しい情愛が古い情愛を放逐してしまったのである。イスラエル人がカナン人を山地に追い払うか、殺すかしたのと全く同じである。神だけがこの、義への飢え渇きを与えることがおできになる。そして、その壮大な資質の1つこそ、卑俗で罪深い種々の情欲を追い出すことなのである。さもなければ、こうした情欲によって私たちの心は焼き尽くされるであろう。

 こうした人々が幸いなのは、多くの愚かしい迷妄から解放されていることによってである。最も良く見受けられる迷妄は、人がその必要とする一切のものを自分自身の内側から出た信心によって手に入れられるというものである。ほとんどの人々は、このようなしかたで欺かれている。――彼らは、力の湧き出る泉が内側にあると考えており、それによって自分自身をきよめ、蘇生させ、満足させることができると思っている。飢えている人か、渇いている人を、そのような教理で試してみるがいい。「親愛な方。あなたは飢える必要などないのですよ。――あなたは自分で自分を満足させることができるのです」。答えは何だろうか? 「私は自分を空腹帯で締めつけて飢えを抑えようとしました。ですが、それすら自分の内側には見いだしませんでした。私は飢えており、外側で食物を見つけなければなりません。さもなければ、死んでしまいます」。その人は自分の心臓を食べることも、自分の肝臓を食物にすることもできない。その人が自分の飢えを自分で満足させることは可能ではないのである。人々の間でよく見受けられる霊的な迷妄は、それに似た種類のものである。彼らは、自分自身の努力で良心を満足させ、自分をきよくし、義の人格を作り出すことができると想像する。今なお彼らは不潔なものの中からきよいものをもたらせると夢見ている。霊的に飢え渇いている者が彼らと出くわしたなら、この罠から逃げるであろう。その人は叫ぶ。「自己信頼は、嘘っぱちの方便です。私は上から助けられなくてはなりません。私は、恵みによって救われなくてはなりません。さもなければ、最後まで義ではないままでしょう」。霊的な飢え渇きは、恵みの諸教理の素晴らしい教師であり、高慢という幻影をきわめて迅速に追い散らしてしまう。

 さらにまた、こうした人々が幸いなのは、彼らがすでに聖霊の働きかけを受けているからである。義への飢え渇きは、常に聖霊によって作り出される。人は天性、善や聖を愛するものではない。人は間違ったことや悪を愛する。罪過や不作為は愛するが、神の前における厳密な廉直さを追い求めはしない。しかし、人が真実になることに飢え、慎み深くなることに飢え、きよくなることに飢え、聖であることに飢えるとき、――その人の飢えは天からの賜物であり、それがやって来た天の保証である。

 もう一言云えば、この人が幸いなのは、その飢え渇きにおいて、主イエス・キリストと調和しているからである。私たちの主が地上にいたとき、主は義に飢え、御父のみこころのままに行ない、苦しむことを切望された。主の弟子たちは、ある折に、食物を買いに町へ出かけた。そして、ひとり残された主は、水を汲みに井戸にやって来た、サマリヤのあわれな罪深い女を祝福することを渇された。彼女に向かって主は云われた。「わたしに水を飲ませてください」[ヨハ4:7]。それは、単に会話を始めるためばかりでなく、主がその女を義とすることに渇しておられたからである。主は彼女に自分の罪を確信させること、救いに至る信仰に導くことを渇しておられた。そして、そのことを成し遂げたとき、主の願望は満ち足らされた。弟子たちが戻ってきたとき主は、一切れの食物にも、一滴の水にも触れていなかったが、こう云われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」[ヨハ4:32、34]。私たちの主は、十字架上で、「わたしは渇く」[ヨハ19:28]、と云われた。そして、主の唇と主の口の渇きは、ご自分の心と魂とのより深い渇きを指し示すものにほかならなかった。義がご自分の死によって支配することを求めての渇きである。主は、神の義がその正しさを立証されるために死なれた。主は、神の義が宣告されるために生きておられる。主は、神の義が罪人たちの心に突き入れられるように嘆願しておられる。主は、この世を損なっている不義をこの義が世から追い払うようになるために統治しておられる。先に説明したいずれかの形の1つによってあなたが義に飢え渇いているとき、あなたはある程度までキリストにあずかっており、主の心の願望において主との交わりを有しているのである。主が幸いであられるように、あなたも幸いである。というのも、「義に飢え渇いている者は幸い」だからである。

 私は、これまでに嘆いて泣いていた一部の人々を驚愕させたに違いないと思う。「おゝ、主が私に、その義に立った生き方をさせてくださるならどんなに良いことでしょう! そうすれば私は永久永遠に主に感謝するでしょうに!」 何と、あなたは幸いな者たちのひとりなのである。「悲しいかな!」、とある人は叫ぶであろう。「私は、罪から解放されることを焦がれ求めています。――それは罪の罰からということではありません。先生。むしろ、罪の汚染からの解放なのです。私は完璧にきよく聖となりたいのです」。それは本当だろうか。ならば、愛する方よ。あなたは今この瞬間に幸いな者たちのひとりとして数えられている。あなたの脇の会衆席に座っている、ご立派な信仰告白者はこう云っている。「神はほむべきかな。私はすでに完璧だ」。よろしい。私は、こうした手合いの幸いさについては確信が持てない。そうした綺麗な羽根をした鳥のことはこの聖句で言及されていない。だが、義に飢え渇いている向こう側の魂については私は確信している。というのも、みことばは明白で平明だからである。――「義に飢え渇いている者は幸いです」。

 III. さて今、すべての中でも最高のものによって、しめくくろう。《特別な満足》である。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」。これは異様な言明である。彼らは、飢え渇いている間から幸いになるのである。もし彼らが満ち足りたら、いやまして幸いとなるだろうか? しかり。そして、それ以上に、彼らはなおも飢え渇くことになるのである。あなたは、それは奇妙だと云うであろう。しかり。その通りである。だが、神の御国ではあらゆることが不思議なものである。霊的な事がらにおける数々の逆説は、黒苺のように沢山ある。事実、もしあなたが逆説を信じられないとしたら、キリストご自身を信じることができない。というのも、キリストは1つの人格でありながら、神でありかつ人であるからである。それは、逆説的な神秘である。いかにして1つの人格が無限であり、有限でありえるだろうか? いかにしてその人は不死でありながら、死ぬことができるだろうか? 私たちの福音には、多くの正統的な逆説が横たわっている。キリストによって満ち足らされる人は、以前にもまして飢える。ただ、それが別の種類の飢えとなり、何の苦味も含まれなくなるだけである。誰よりも飢えている人とは、最も高い意味で満ち足りている人である。

   「われは渇くも、以前(さき)とは違い
    空(あだ)し歓喜(よろこび) 地にて望まじ。
    汝が御傷(きず)すべて われに禁ぜり、
    地上(ここ)にてわれの 快楽(たのし)み求むを」。

主よ。あなたがその恵みから私に与えてくださるものを得るとき、私は新しい渇望を感じます。それがより高いものを求めるのです! 私の魂は、それが食物としたものによって広げられ、「私にもっと多くを下さい」、と叫ぶ。もしも、より多くを求めて叫ぶのをやめる人がいるとしたら、その人は、果たして自分が一度でも何かを本当に得たのかどうか疑った方が良い。恵みは満ち足らし、それから広げる。恵みが増し加わるとは、恵みを受ける容量が増すことである。なおも叫ぶがいい。「主よ。私の信仰、私の愛、私の希望、私のすべての恵みを増してください! 私の魂を広げてください。あなたからいやまして多くを受け取れるようになるために!」

 さて、これからあなたに示そうと思うのは、いかにして私たちが、なおも飢え渇いていながらも、満ち足りることになるか、ということである。というのも、最初に、確かに私たちは義に飢え渇いているが、私たちは神の義によって十二分以上に満ち足りるからである。私は、私の神が完璧に義であられると真実に信じている。単にそのご性質と本質、その律法と審きにおいてのみならず、その一切の聖定と、行為と、ことばと、教えとにおいて義であられると信じている。私は腰を据え、悪人の永遠の破滅という恐ろしい真理を怖々とのぞき込む。だが、神が義であられることを思い出すとき、私の心には安息が満ちる。全世界をさばくお方[創19:20]は公義を行なわれるに違いない。私は、一部の人々が困惑して立ちつくしている、幾多の困難な結び目を解くことはできないが、神が義であられることは知っており、そこに自分の当惑を置いておく。神は、あらゆる場合に、常に変わらず正しいことがされるようにしてくださるであろう。さらに私は、いかに世界に不義があふれ返っているかを見るとき、私の神、主には何の不義もないことを本当に嬉しく思う。教会の中に過誤を見るとき、いかなる過誤も神の支持を受けられない事実に安心する。悪事は至る所にあるように見受けられる。特定の人々が、あらゆる人の財産をもぎ取ろうとしている。敵対する階級が貧者をその賃金においてしいたげようとしている。だが、このことが私たちの頼みの綱である。――1つの権力は義を助長しており、その権力とは神なのである。義が神において最高の価値を付与されているのを見るとき、私は喜びで満たされる。あなたはこの喜びを知らないだろうか? 次に、私たちはキリストの義によっても満たされている。私が罪深く、神の前にあえて持ち出せるような何の義も有していないとしたら、どうなるのか? だが、――

   「イェスよ。汝が血と 汝が義とは
    わが麗しき 栄えのころも」。

確かに、私はらい病人とともに、「汚れている、汚れている」[レビ13:45]、と叫ばなくてはならない。だがしかし、主イエスを信じる信仰者として、主にあって義と認められており、主にあって受け入れられており、主にあって完全なのである。神は私を、いま私がある通りにではなく、キリストがあるようにみなしてくださる。《愛する方》の完璧な従順を通して私をご覧になり、私は罪に定められることなく御前に立っている。否、完全に受け入れられ、恩顧を受けている。キリストの義について考えれば考えるほど、それはあなたを感謝にあふれる満足で満たすであろう。主の義は、あなたの義よりもはるかに大きなものだからである。だが、それでもやはり、あなたはこう叫んでいるであろう。「おゝ、主よ。私をあなたのかたちにおいて完璧なものとし、私に義をお与えください!」 天来の満足が満たされ、あふれ流れるまでになり、あなたはこう歌うであろう。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」[ロマ5:1]。

 あなたが満足させられるのは、まず、神の義なるご性格によってであり、次に、キリスト・イエスにおいて啓示された天来の義の計画によってであろう。この世の罪を眺めて、それゆえに呻くがいい。これは何と邪悪な世であろう! 幾多の戦争としいたげ、虚偽と迷信について読むがいい。あるいは、そうしたければ、あなた自身の目で東ロンドンの貧民窟を、あるいは、西ロンドンにいるわが国の貴顕紳士たちの不義を見るがいい。そのとき、あなたは飢え渇くであろう。しかし、こうしたすべてに関してさえ、あなたは満ち足りるであろう。キリストの贖罪について考え、それが神にとって、人間のあらゆる罪が吐き気を催させるようなものである以上に甘やかなものであることを思い出すときにそうである。主のいけにえの甘やかな香りは、三重に聖なる神から、この糞土の世の悪臭を取り除いてしまっており、神はもはや地上に人を造ったことを残念に思う[創6:7]とは仰せにならない。キリストの義のゆえに、主なる神は咎ある人を忍んでくださり、地をあわれみ、キリスト・イエスにあって新しくしようとなおも待ってくださる。

 また、義に飢え渇いている者が満ち足りるのは、聖霊が彼らの中に作り出してくださる義によってである。彼らが、今の自分のままで満足すると云っているのではないが、彼らは自分が今のような者であることを非常に感謝している。私は罪人だが、しかし罪を愛してはいない。これは喜ばしいことではないだろうか? 私は日々腐敗と戦わなくてはならないが、それでも、それと戦うことを望み、それと戦わずにはいられない、そして、打ち負かされることのない、内なるいのちを受けている。たとい私がまだ罪を打ち破ってはいないとしても、それと格闘しているのはそれなりのことである。今でさえ、信仰によって私たちは勝利を主張する。「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」[Iコリ15:57]。あなたは、自分が、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって……新しく生まれ……、生ける望みを持つように」[Iペテ1:3]なったのだと知って、あふれんばかりに満たされているのを感じたことが一度もないだろうか? 自分がもはやかつての自分ではなく、今や神のご性質にあずかる者[IIペテ1:4]、霊的な領域に高められている者となっていると知って喜びに満たされたことはないだろうか? その領域で、あなたは全うされた義人たち[ヘブ12:23]との交わりを持っているのである。聖霊があなたのために行なっておられることを決して見下してはならない。すでに受けた恵みを決して軽視してはならない。むしろ、それとは逆に、主がすでに行なってくださったことに天来の喜びを感じ、心満たされるがいい。あなたの魂の内側には、まだ発達していない状態の完全さがあるのである。やがてあなたがそうなるべき一切のものは、種子の形でそこにあるのである。樫の木が団栗の内側に眠っているように、天国は悔い改めの中に眠っている。新しい心ゆえに神に栄光あれ。死者の中から生き返ること[ロマ11:15]ゆえに神に栄光あれ! ここで私たちは感謝に満たされている。だがしかし、私たちは飢え渇き続ける。神が与えてくださった祝福が、私たちの経験の中でより十分に享受され、私たちの生き方において明らかに示されるようになるためである。

 兄弟たち。私はあなたがたに、いつ私たちが再び義に満たされることになるか告げることができる。そして、それは私たちが自分の同胞である人々の間に義が増し加わっていくのを見るときである。ある貧しい子どもが回心する様子を見て、私の心はこの一週間、言葉に尽くすことのできない喜びに満たされていた。私はしばしば――先週がそうだったが――それまで大罪人であったあわれな人々と話し合ってきた。主は彼らを大聖徒としてくださっており、私は人としてありうべき限りの幸福で満たされてきた。十数人もの人々が回心したことによって、私の心のあらゆる鐘は、結婚式の鐘のように鳴り響いてきた。また、しめて一箇月も鳴り続けてきた。確かに私は、今なお滅びつつあるおびただしい数の罪人たちのことを悲しみとともに思い出すかもしれない。また、これによって私は、今そうしているように飢え渇き続けることであろう。だが、それでも二、三十人もの回心者を得ることは豊かな祝福と思われ、私はあふれるばかりの喜びに満たされるものである。そのとき、私は善良な古のシメオンがこう云ったときのように感じてきた。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを……安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」[ルカ2:29-30]。あなたは、これがいかなる意味か知っているだろうか? ことによると、知らないかもしれない。もしあなたが大きな人であって、大きな規模で事を行なわなくてはすまないという人であればそうである。だが、私のようにあわれな魂にとっては、一個の魂が死から救われたというだけで、優に天国となってきたのである。ひとりの幼子を救うことを、私は大きな報いとみなしている。ひとりの卑しい労働者を主の御足へと導くこと、また彼が義の路を学びつつあるのを目にすることは、私にとって至福である。おゝ、試してみるがいい。愛する方よ! 試して、見てみるがいい。人々の魂に対する飢えの後に満ちあふれる喜びが続かないかを。そして、それは、失われた羊をキリストの囲いに連れ戻したいという、さらなる飢えへと再び至るであろう。あなたは決してこうは云わないであろう。「私は数多くの人を回心させた。だから、これ以上は誰も回心しなくとも満足だ」。否。成功を収めれば収めるほど、あなたは飢え渇くようになる。キリストの御国がアダムの子らの心の中にやって来るようになることを。

 まもなく私たちは、この定命のからだを離れることになる。そして、自分が肉体のない状態にあり、「いつまでも主とともにいる」[Iテサ4:17]ことになるを見いだすはずである。私たちには何の目も耳もないが、私たちの霊はそうした鈍重な器官なしにも識別し、理解するであろう。この物質的な実体から自由にされて、私たちは何の罪も知らなくなる。すぐに復活の喇叭が鳴り、霊は純化され霊化されたからだにはいり、完璧なものとされた人間性が私たちのものとなるであろう。そのとき、人はその目を得るが、それは決して情欲に満ちた眼差しを注ぐことがないであろう。耳を得るが、それは決して不潔な話を切望しないであろう。唇を得るが、それは決して嘘をつかないであろう。人が得る心臓は常に真実に、また従順に鼓動を打つであろう。その人の完璧な人間性の内側には誤ったものが何もないであろう。おゝ、それが私たちにとって何という天国となることか! 私は強く主張する。私は、キリストとともにあり、キリストのようになる天国以外にいかなる天国も欲さない、と。音楽のための立琴や、栄誉のための冠は、「神の国とその義」[マタ6:33]と比べればけちなものでしかない。

 そのとき、私たちは義なる社会によって満ち足りるであろう。あなたが自分の口に気をつける必要はないであろう。誰かがあなたの言葉尻をとらえて非難する恐れはない。天国に行けば、愚にもつかないお喋りや、下らない噂話で悩まされることはないであろう。そこには何の嘘も聞かれず、《いと高き方》の無限の威光を毀傷するようなものは何も聞こえないであろう。誰もが完璧になるであろう。おゝ、あなたは、あふれるほどの義によって喜ばないだろうか? そしてそれから、あなたの主は号令のうちに天から下って来られ、キリストにある死者がよみがえることになり[Iテサ4:16]、主は彼らとともに、《王の王》、《主の主》として地上を統治される。そこに、完璧な平和と、安息と、喜び、栄光との千年間が到来するであろう。そして、あなたはそこにいるであろう。いかなる義の大海に浴することがあなたのものとなることか! そのとき、あなたはあらゆることにおいてキリストのようになり、あなたを取り巻くすべてのものがそれと調和したものとなる。天と地は義のうちに手を取り合う。永遠が、その破れざる祝福とともに後に続く。ほむべき神の御国には汚れたものが何1つない。いかに誘惑する悪魔も、いかに腐敗する肉も、いかに心配すべき欠乏も、いかに心乱すものもない。むしろ、あなたはこうなる。――

   「嘆きと罪の 世より離れて
    永久(とわ)に神とぞ ともに閉ざさる」。

おゝ、これが義に満ち足りるということになるであろう!

 話をお聞きの方々。あなたが満ち足りるためには、まず飢えるしかない。地上で飢え渇かない限り、死後満ち足りることはできない。もしあなたが飢え渇いているとしたら、何をすべきだろうか? イエスを仰ぎ見るがいい。というのも、イエスだけがあなたを満足させることがおできになるからである。私たちの主イエス・キリストを信じるがいい。いま主を信じるがいい。というのも、主は、神によって私たちにとって義となられた[Iコリ1:30]からである。そして、もしあなたが義を欲しているとしたら、あなたはそれを神の《ひとり子》、主イエス・キリストのうちに見いだすであろう。私は確信している。たった今、そのように大声で叫んだ愛する方々は、私と声を合わせて心の底からこう叫んでくれるだろうと。「《アーメン! アーメン!》」 願わくは、この場にいるすべての人が、ただちに義に飢え渇き始めるように。みなで云おうではないか。「《アーメン》」。

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幸いな飢え渇き[了]

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