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幸福の使信

NO. 3155

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1909年7月29日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年


「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました』」。――マタ5:1-12


1873年、スポルジョン氏は、彼のいわゆる、《幸福の使信》に関する「一連の金言的説教」を行なった。《山上の説教》および《幸福の使信》全体についての序言的な講話の後で、彼は、それぞれの使信を個別に説教していく心算であった。だが、病か、何か他の特別な理由のために、その目的を完全には果たせなかった。しかしながら、《幸福の使信》についての《説教》は八篇あり、そのうち三篇はすでに『メトロポリタン・タバナクル講壇』で刊行されている[No.422 『平和をつくる者』、No.2,103 『幸いな飢え渇き』、No.3,065 『第三の幸福の使信』]。――他の五つはこのたび、これから毎週発行されることになり、《八月の月刊説教》となるであろう(定価、五ペンス)。各《幸福の使信》および《山上の説教》全体についてのスポルジョン氏の《講解》は、『御国の福音』(現在、3シリング6ペンスで販売中)の中にも記されている。同書は、氏が1892年に「故郷へ召される」、ほんの直前まで、マントンにおいて執筆していたものである。


 

 

 ある説教をいやまさって玩味するには、その説教者について多少とも知ることである。私たちは自然と、パトモス島にいたヨハネのように[黙1:12]、自分に語りかける声を見ようとして振り向くべきである。ならば、こちらを向いて知るがいい。神のキリストこそ、《山上の説教》の《説教者》であられることを。《幸福の使信》を伝えたお方は、単に説教者たちの《王》であるばかりでなく、他のあらゆる者を越えて、ご自分の選ばれた主題について講話する資格を有しておられた。《救い主》イエスは、「救われた者とは誰か?」という問いに、最も良く答えることがおできになった。自ら神の御子であり、祝福の通路であられた主は、誰が実際に御父から祝福されているかを私たちに通知することが最も良くおできになった。《審き主》として、祝福された者と呪われた者とを、最後に分割することは主の職務となるであろう。それゆえ、福音の荘厳さの中で、主がその審きの原則を宣言し、あらゆる人々が前もって警告されるようにすることは、最もふさわしいことである。

 陥ってはならない間違いは、この《山上の説教》の冒頭の数節が、私たちの救われるべき道を述べていると考えることである。その場合、魂をつまずかせることになるであろう。この件については、何にもまして充実した光が、私たちの《救い主》の教えの別の部分に見いだされるであろう。だが、ここで主が説教しておられるのは、「誰が救われた者か?」、あるいは、「魂における恵みみわざの目印、また証拠はいかなるものか?」、という問題なのである。救われた者を、《救い主》ほど良く知っている者がいるだろうか? 羊飼いは自分の羊を最も良く見分けるものであり、ただ主ご自身が、過つことなくご自分に属する者らをお知りになるのである。私たちはここに示されている、祝福された者たちの数々の目印を、真実の確かな証言とみなして良い。というのも、それらを与えたお方は誤ることも、欺かれることもありえず、彼らの《贖い主》としてご自分に属する者らを知っておられるからである。《幸福の使信》がその重みの大方を引き出している源泉は、それを宣告されたお方の知恵と栄光である。それゆえ、冒頭において、あなたの注意はそこに向けられるのである。ランゲは云う。「人は被造世界の口であり、イエスは人間性の口である」、と。だが、私たちは、むしろこの箇所で、イエスを《神性》の口として、その一言一句を無限の力に包まれたものとして受け入れたいと思う。

 この説教が行なわれた機会にも注目すべきである。それが語られたのは、私たちの主が「この群衆を見て」と述べられているときであった。主は、ご自分の回りの会衆がその最大数に達し、ご自分の数々の奇蹟に最も感銘を受けるようになるまで待ち、あらゆる賢い人がそうするように、その好機を用いられた。人々が大勢集まっているのを見るとき、私たちは常に憐憫をかき立てられるべきである。というのも、それは、私たちが見積もることのできる量をはるかに越えた、大きな無知と悲しみと罪と必要との塊を表わしているからである。《救い主》は、この人々を全知の目で眺めては、彼らの悲しい状態のすべてを見てとられた。主は、力のこもった意味で、この群衆を見られ、主の魂は主の内側でその光景を見てかき立てられた。主の涙は、自分の無数の兵士たちの死を考えて泣いたクセルクセスのような一時的な涙ではなく、無数の人類に対する実際的な同情であった。誰も彼らのことを思いやってはいなかった。彼らは羊飼いのいない羊か、かかえ入れる取り入れ人がいないため、今にも腐らんばかりの麦束のようであった。それゆえ、イエスは急いで救出に来られた。疑いもなく、主はこの群衆が熱心に話を聞こうとしていることに気づいて喜ばれたであろう。これに促されて、主は語り始めた。『黄金連鎖』[トマス・アクィナスによる福音書注解]で引用されているひとりの著者は、いみじくもこう云っている。「商売、あるいは、職業に就いている人はみな、それを行なえる機会を見るときには喜ぶものである。大工は、形の良い木を見れば、それを伐り倒して、その上で自分の腕を振るいたいと願う。説教者もそれと全く同じである。大会衆を見るとき彼の心は浮き立ち、教える機会があることを彼は喜ぶ」。もし人々が説教を聞くのを怠るようになり、私たちの聴衆がほんの一握りの数にまで減退するとしたら、それは私たちにとって非常な苦悩となるであろう。多くの人々が話を聞こうと熱心であった時期に、自分が彼らに説教することに勤勉でなかったことを思い出さなくてはならないとしたらそうである。畑が色づいて刈り入れるばかりになっているときに、刈り取ろうとしない者は、別の折に自分の腕で麦束をかかえることができなくとも、自業自得でしかないであろう。種々の機会は、主がそれを私たちの前途に置かれるときには、迅速に用いられるべきである。魚がたくさんいる所は良い釣り場である。そして、鳥が狩人たちの回りに群がっているとき、それは彼が網を広げるべきときである。

 こうした祝福が伝えられた場所が、次に注目すべき価値のある点である。「この群衆を見て、イエスは山に登り」。この選ばれた山が、現在《ハッティムの角》として知られているものであったかどうかは、いま議論すべき点とは思われない。主が小高い所に登られたということだけで、とりあえずは十分である。もちろん、その主たる理由は、開けた丘の中腹が、この人々を集めるのに便利だったからであり、説教者が腰を下ろすためにも、その話を聞き、その姿を見るためにも、ゴツゴツと突き出た岩が役に立つからであった。だが、私たちの信ずるところ、この選ばれた集会所は、それ自体が教えをなしてもいた。高貴な教理は、山に登ることによって象徴されて当然であった。いずれにせよ、あらゆる教役者はこう感じなくてはならない。福音の高尚な主題の数々を詳しく述べようとするときには、霊において高く登るべきである、と。隠すことのできない教理、また、山の上にある町[マタ5:14]にたとえられる1つの《教会》を生み出すことになる教理は、最初から人目につく場所で宣言されるのがふさわしかった。穴蔵だの洞窟だのは、屋上で云い広められるべき[マタ10:27]、また、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられるべき[コロ1:23]使信にとって、まるで不似合いなものであったろう。

 それに加えて、山々は常に、神の民の歴史における際立った時代と結びついていた。シナイ山は律法にとって神聖なものであり、シオンの山は《教会》の象徴であった。カルバリもまた、しかるべきときに贖いと結びつけられるはずであった。オリーブ山は、私たちの復活された主の昇天と結びつけられるはずであった。それゆえ、《贖い主》の伝道活動の開始が、「《幸福の使信》の丘」のような1つの山と結びつけられることはふさわしかった。1つの山から、神は律法を布告された。1つの山の上で、イエスはそれを解き明かされた。神に感謝すべきかな。それは回りに境を設けなくてはならないような山[出19:12]ではなかった。イスラエルが恐れて退いた、火で燃える山[ヘブ12:18]ではなかった。それは、疑いもなく、草で覆われていた山、麗しい花々で飾られた山、山腹には、芝土を破って岩々が突き出している所のほかは、橄欖や無花果が咲き誇っていた山であり、それは彼らの主を熱心に招いては、わが身を主の講壇とも王座ともすることによって栄誉を受けようとしていた。私は、こう云い足しても良いではないだろうか? イエスは自然界と深く共鳴しておられた、それゆえ、床が草であり、天上が碧空である謁見室を喜ばれたのだ、と。その空地は、主の大きな御心と調和しており、そのそよ風は、主の自由な霊に似ており、回りの世界は、主の教えられた真理と一致する象徴や比喩に満ちていた。長く伸びた通路にまさり、人々のひしめく桟敷席の段々にまさっていたのは、草に覆われた山腹の集会所であった。願わくは、私たちがもっとしばしば、魂を奮い立たせる風景の真中で説教を聞くことができるように! 確かに説教者も聴衆も、そうした変化――手で作られた建物から神に造られた自然という宮への――によって等しく益を受けるであろう。

 この説教者の姿勢にも教えられるものがあった。「おすわりになると」、主は語り始められた。私たちは、疲労や、講話の長さによって、主が座ることを思いついたとは考えない。主は、しばしば立ったままで相当の長さの話をされた。私たちはこう信じたい気がする。主は、人々の子らを相手に懇願者となったときには、すっくと立ち、両手を上げ、頭の天辺から爪先まで雄弁になり、その精神のあらゆる機能のみならず、みからだのあらゆる器官をもって懇請し、嘆願し、勧告していた。だが、主が、いわば御国の祝福を授与する《審き主》、あるいは、ご自分の真の臣民を異国人や外国人から分け離している、王座に着いた《王》である今、主は腰を下ろされた。権威ある《教師》として、主は公式に教えの座を占め、人々のいわゆる聖座から語られた。諸集会をつかさどる一個のソロモンとしての働きをされた。あるいは、裁判官の座に着く一個のダニエルとして来られた。主は精錬する者として座に着き[マラ3:3]、そのことばは火のようであった[エレ23:29]。主の姿勢は、東洋の習慣によると教師が座り、生徒が立っていたという事実によって説明されるものではない。私たちの主は、単なる道学者を越えたお方であり、一個の《説教者》、《預言者》、《嘆願者》であられたからである。その結果、主がそうした種々の職務を果たす際には、別のいくつかの姿勢を取られた。だが、この折には、主は《教会》の《ラビ》として、また、天の御国の権威ある《法律制定者》として、また、ご自分の民の真中にいる《君主》として、その席に着かれた。ならば、ここに来て、エルサレムにいる《王》に、また、《天来の律法賦与者》に、耳を傾けるがいい。このお方がお与えになるのは、十の戒めではなく、ご自分のほむべき御国の、七つの――あるいは、そう云いたければ――九つの《幸福の使信》である。

 さらに、主の話の様式を指し示すものとして、こうつけ加えられている。「イエスは口を開き」。「口を開くことなしに、どのようにして教えられたというのですか?」 これに対する答えはこうである。主は、ごく頻繁に、また、多くのことを、一言も発することなしにお教えになった。主の全生涯が教えであり、主の数々の奇蹟や愛の行ないは、最上の指導教官による教訓だったからである。「イエスは口を開き、彼らに教えて」、と云うのは、蛇足ではない。主はその口を閉ざしていたときにも、しばしば彼らに教えておられたからである。それに加えて、人がしばしば出会う教師たちは、その口をめったに開くことがなく、永遠の福音を歯擦音でシューシュー吹き出すか、口の中でもごもご云う。まるで、こう命じられたことが一度もないかのようである。「せいいっぱい大声で叫べ」[イザ58:1]。イエス・キリストの語り方は、真剣な人のそれであった。明瞭に発音し、大きな声で語った。主は角笛のようにその声を上げ、遠く、また、広く、救いをお告げになった。自分の聴衆に聞いてほしい、感じてほしい、と願っている何かを語るべき人のようにそうされた。おゝ、福音を宣べ伝える人々の態度と声そのものが、神に対する彼らの熱心を、また、魂に対する彼らの愛を反映するものであったなら、どんなに良いことか! このことは、そうあるべきだが、必ずしもそうではない。ある人が話をしている間に深甚に真剣になるとき、その口は自分の聴衆に対する同情のため大きくなるかのように見える。この特質は、熱烈な政治的雄弁家たちに見受けられることであり、神の使者たちが、そのような告発に値することがありえるとしたら赤面すべきである。

 「イエスは口を開き、彼らに教えて」――ここには、さらにこのことが暗示されていないだろうか? 主は、最古の時代からご自分の聖なる預言者たちの口を開いた[使3:21]ように、今やご自分の口を開いて、さらに完全な啓示を開始しておられるのである、と。もしモーセが語ったとしたら、どなたがモーセの口を作ったのだろうか? もしダビデが歌ったとしたら、どなたがダビデの唇を開いて、神の奇しいみわざを宣べ伝えさせたのだろうか? どなたが預言者たちの口を開いたのだろうか? その御霊によって主がなさったのではないだろうか? それゆえ、こう云うことはもっともではないだろうか? 今や主は、ご自分の口を開いて、受肉した神として人々の子らに直接お語りになったのだ、と。さて、主ご自身に内在する力と霊感とによって、主は、イザヤやエレミヤの口を通してではなく、ご自分の口によって語り始められた。今こそ、1つの知恵の泉がその封印を解かれ、あらゆる世代がそこから喜びながら飲むことになったのである。今や、ありとあらゆる講話の中で最も荘厳な、だが最も単純なものが人類によって耳にされようとしていた。砂漠の岩から水が噴き出したことも、人々にとっては、この半分も喜びに満ちてはいなかった。私たちはこう祈ろうではないか。「主よ。あなたが御口をお開きになったように、私たちの心をお開きください」、と。というのも、《贖い主》の口が数々の祝福によって開かれ、私たちの心が数々の願望によって開かれるとき、神の満ち満ちた豊かさによる、栄光に富んだ満たしがその結果となるからである。そしてまた、私たちの口は、私たちの《贖い主》の奇しいみわざを宣べ伝えるためにも開かれるのである。

 さて今、この《幸福の使信》そのものを考察しよう。神の御霊の助けによって、その聖なる意味の豊かさを察知できるものと信頼しつつそうしよう。聖なるみことば全体の中でも、こうしたことば以上に尊いもの、あるいは、これ以上に厳粛な意味を込められたものは他にない。

 私たちの主の偉大な規範的説教の最初の言葉は、「幸い」である。あなたもきっと注目したことがあるだろうように、旧約聖書の最後の言葉は、「のろい」である[マラ4:6]。それで、私たちの主の伝道活動の冒頭の説教が、「幸い」という言葉で開始されていることは、示唆に富んでいることである。また、主は決して、そのようなしかたで始めながら、すぐさま話の筋を変えたりなさらなかった。というのも、この美しい言葉は九度も主の唇から、立て続けにこぼれ落ちているからである。いみじくも云われてきたことだが、キリストの教えは二語に要約できるという。「信じなさい」、と、「幸いです」、である。マルコが私たちに告げるところ、主は宣教して、こう云われた。「悔い改めて福音を信じなさい」[マコ1:15]。そして、マタイはこの箇所で、主がこう語りながらやって来られたと教えてくれる。「心の貧しい者は幸いです」。主のすべての教えは、人々の子らを幸いにするためのものであった。というのも、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため」[ヨハ3:17]だからである。

   「雷鳴(いかずち)御手に 握られず、
    眉宇(まゆ)も威嚇(いかり)に 包まれず、
    雷電(いなずま)、罪魂(たま)を 追いやらじ、
    冥界(した)にて燃える かの烈火(ひ)へと」。

主の唇は、蜜蜂の巣のように甘露をしたたらせ、数々の約束と祝福が主の御口からあふれ出ている。「あなたのくちびるからは優しさが流れ出る」[詩45:2]、と詩篇作者は云い、その結果、恵みが主の唇から流れ出した。主は永遠にほむべき方であり、ご自分の生涯を通じて幾多の祝福を分け与え続け、ついに、「彼らを祝福しながら、天へ上げられる」*[ルカ24:51]こととなった。律法には2つの山、エバル山とゲリジム山があった。1つは祝福のため、もう1つは呪いのためである[申11:29]。だが、主イエスは常に祝福を与え、呪うことをなさらない。

 私たちの前にある《幸福の使信》は、性格に関するものが七つである。八番目は、この七つの《幸福の使信》によって述べられた人々が、その卓越した性格によって悪人の敵意を買うときに、彼らを祝福するものである。それゆえ、それは、それに先立つ七つの祝福を確認し、要約するものとみなせよう。ということは、それを除外すると、私たちは《幸福の使信》を七つとみなし、七つあるものとして語ることにしたい。この七つ全体は、1つの完璧な人格を叙述しており、1つの完璧な祝福をなしている。それぞれの祝福は、個別でも尊いものである。左様。多くの純金よりも尊いものである。だが、私たちはそれらを全体としてみなすのが良い。というのも、それらは1つの全体として語られたからであり、そうした見方で眺められるとき、七つの非常に貴重な環からなる素晴らしく完璧な鎖となるのである。それを1つにつなぎ合わせている、比類なき名工のわざは、ただ私たちの天のベツァルエル、主イエスおひとりが所有しているものでしかない。祝福というわざにおける、このような教えは、他のどこにも見いだすことができない。学者は、古代人の間に見られた、幸福に関する二百八十八の異見を収集したが、的をついているものは1つもない。だが、私たちの主は、ほんの数節の効果的なことばによって、それに関する一切のことを私たちに告げられた。そこには、一言として余計な言葉はなく、ほんの僅かも省かれたものはない。この七つの黄金の文章は、全体として完璧であり、それぞれがその適正な場所を占めている。一緒にされたそれらは、一本の光の梯子であり、それぞれは純粋きわまりない太陽の輝きからなる階段である。

 注意深く観察すると分かることだが、それぞれの使信は、先行する使信を上回るものとなっている。第一の《幸福の使信》は、決して第三のものほど高くはないし、第三の使信は決して第七のものほど高くはない。心の貧しさから、心のきよさ、そして、平和を作り出すことに至るのは非常な進歩である。私は、それらが上回ると云ったが、それらは下降する、と云っても全く同じくらい正しいであろう。というのも、人間的な物の見方からすると、それらは実際そうしているからである。悲しむことは、一歩下に降りることだが、それでも心貧しいことにまさる。また、平和を作ることは、キリスト者の最高の形だが、しばしば平和のためには最も卑しい立場に立つことが求められるであろう。「七つの《幸福の使信》は、深まり行く謙卑と、増し加わる高挙とを特徴づけている」。人々は、天来の祝福を受ける度合において上っていくにつれて、自分自身の評価においては沈んで行き、最も卑しい務めを果たすことを自分の栄誉とみなすのである。

 《幸福の使信》は、1つ1つ上回って行くだけでなく、それぞれの中から飛び出してくる。あたかも、1つ1つがそれに先立つすべてに依存しているかのようである。それぞれの生長は、さらに高い生長の糧となり、七番目のものは、他の六つすべての産物である。私たちが最初に考察しなくてはならない2つの祝福には、次のような関係がある。「悲しむ者は幸いです」、は、「心の貧しい者は幸いです」、から生じている。なぜ彼らは悲しむのだろうか? 彼らが悲しむのは、「心が貧しい」からである。「柔和な者は幸いです」、という祝福に到達する人は、自分の霊的貧しさを感じ、それを悲しむ者以外にありえない。「あわれみ深い者は幸いです」、に柔和さという祝福が先立っているのは、人々が赦しや、同情深さや、あわれみ深い精神を身につけるには、最初の2つの祝福を経験して柔和な者とされていなくてはならないからである。このように上回り、さらに大きく生長していくことは、七つ全部に見られる。この宝石類は、美しい色合いで一個一個積み重ねられ、一個の宮殿にも似たしかたで磨き上げられている。これらは、自然な順序にあり、それぞれを完成させている。世界の最初の一週間の七日がそうであったのと全く同じである。

 また、この光の梯子において、やはり注目すべきは、それぞれの階段が互いに上回り、それぞれの階段が別のものから生じているにもかかわらず、それぞれは、それ自体で完璧であるということ、そして、自らの内側に、値もつけられないほど貴重で、完全な祝福を含んでいるということである。幸いな者の中でも、最も低い所にいる人、すなわち、心の貧しい人は、自分に独特の祝福を有しており、実際、それは他のあらゆる祝福の要約として用いられるような種類の祝福の1つなのである。「天の御国はその人のものだからです」、は第一と第八の双方の祝福である。

 最高の性格、すなわち、平和を作る者となり、神の子どもと呼ばれることは、幸い以上であるとは云われていない。そうした人々は、疑いもなく大きな幸いを享受しているが、契約によって与えられるもの以上を有しているわけではない。

 また、喜びをもって注意したいこととして、こうした祝福は、どの場合においても現在時制である。幸福は、いま享受し、楽しめるものなのである。それは、「幸いになります」ではない。「幸いです」である。信仰者が通る、この天来の経験全体の中のただ一歩でさえ、また、この素晴らしい恵みの鎖におけるただ一個の環でさえ、天来の微笑みが差しとめられているものや、真の幸福に欠けたものはない。地上におけるキリスト者生活の最初の瞬間は幸いであり、最後の瞬間も幸いである。燈心の中で震えている火花は幸いであり、聖なる陶酔の中で天に上っている炎は幸いである。いたんだ葦[マタ12:20]は幸いであり、樹液に満ち足りた主の木、主の植えたレバノンの杉の木[詩104:16]は幸いである。恵みにおける赤子は幸いであり、キリスト・イエスにある成人は幸いである。主のあわれみがとこしえまで続くのと全く同じように、私たちの幸いさもとこしえに続く。

 私たちが見落としてならないことは、この七つの《幸福の使信》において、それぞれの幸いさが、その性格にふさわしいものであるということである。「心の貧しい者は幸いです」は、適切にも、地上のあらゆる王座にまさる栄光に富んだ、1つの王国を所有する富裕さと結びついている。また、悲しむ者が慰められることは何にもまして適切である。あらゆる自己権力の強化を放棄した柔和な者は、人生を最も享受し、そのようにして地を相続するべきである。義に飢え渇いている者が満ち足りること、また、他者にあわれみを示す者が自らもあわれみを受けることは、天来のふさわしさである。心のきよい者以外の誰が無限にきよく聖なる神を見るべきだろうか? そして、平和を作る者以外の誰が平和の神[ロマ15:33]の子どもと呼ばれるべきだろうか?

 それでも、細心の目には察せられることだが、それぞれの祝福は、ふさわしくはあっても、逆説的な云い回しにされている。ジェレミー・テイラーは云う。「これらは、いずれも理性で納得できるようにされた逆説、また、不可能事である」。これは第一の《幸福の使信》にはっきり見てとれる。というのも、心の貧しい者は、1つの王国を所有すると云われているからである。また、このことは、すべてをまとめた場合にも、それと同じくらい強烈である。というのも、これは幸福を扱っているのに、貧しさがその先陣を切り、迫害がしんがりを務めているからである。貧しさは富と正反対であるが、王国を所有する者たちはいかに富んでいることであろう。また、迫害は楽しみを滅ぼすと考えられるが、ここでは、それが喜びの種とされているのである。いかなる人も話さなかったようなしかたで話された[ヨハ7:46]このお方の聖なるわざを見るがいい。主はご自分のことばを単純であると同時に逆説的なものとすることができ、そうすることによって、私たちの注意を引き、私たちの知性を教えることがおできになるのである。このような説教者は、何にもまして思慮深くその話を聞く価値がある。

 この七つの《幸福の使信》全体は、主の家へと上る天界の上り道をなしており、信仰者たちを、1つの高められた台地へと導いている。そこで彼らはひとり離れて住み、おのれを諸民の1つと認めない[民23:9]。この世と彼らが、このように聖く分離しているがために、彼らは義のために迫害されることになる。だが、こうしたことによっても、彼らはその幸福を失わず、むしろ、それは増し加えられ、この祝福の二重の繰り返しによって確かなものとされている。人間の憎しみは聖徒から神の愛を奪い去ることができず、悪口雑言を云う者たちでさえ聖徒の幸いさのため役に立つのである。私たちの中の誰が、これほどのいつくしみ深さ、また、優しいあわれみの冠に伴わざるをえない十字架を恥じるだろうか? 人間の呪いに何が伴おうとも、それは、このような主から七重の幸いさを得ていると自覚する者にとって、あまりにも小さな不利益でしかない。それは、私たちにすでに啓示されている恵みとくらべる価値もないものである。

 ここで、ひとまず私たちは口をつぐむことにする。そして、次の説教において、神の助けによりつつ、この《幸福の使信》の1つを考察したいと思う。

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幸福の使信[了]

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