HOME | TOP | 目次

第一の幸福の使信

NO. 3156

----

----

1909年8月5日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年


「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。――マタ5:3


1873年、スポルジョン氏は、彼のいわゆる、《幸福の使信》に関する「一連の金言的説教」を行なった。《山上の説教》および《幸福の使信》全体についての序言的な講話の後で、彼は、それぞれの使信を個別に説教していく心算であった。だが、病か、何か他の特別な理由のために、その目的を完全には果たせなかった。しかしながら、《幸福の使信》についての《説教》は八篇あり、そのうち三篇はすでに『メトロポリタン・タバナクル講壇』で刊行されている[No.422 『平和をつくる者』、No.2,103 『幸いな飢え渇き』、No.3,065 『第三の幸福の使信』]。――他の五つはこのたび、これから毎週発行されることになり、《八月の月刊説教》となるであろう(定価、五ペンス)。各《幸福の使信》および《山上の説教》全体についてのスポルジョン氏の《講解》は、『御国の福音』(現在、3シリング6ペンスで販売中)の中にも記されている。同書は、氏が1892年に「故郷へ召される」、ほんの直前まで、マントンにおいて執筆していたものである。


 

 

 私たちの《救い主》の講話の目的――すなわち、救いの計画を宣言するのではなく、救われた者たちの描写を行なうこと――を念頭に置きつつ、これから、一番目の《幸福の使信》を考察していこうと思う。――

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。

 一脚の梯子が、少しでも役に立つものであるためには、その最初の踏み段が地面の近くになくてはならない。さもなければ、力の弱い登り手は、決して上に登れないであろう。もしも最初の祝福が、心のきよい者に与えられることになっていたら、それは苦闘しつつある信仰を嘆かせ、落胆させていたであろう。そのような美徳を有しているなどと、若い初心者は決して主張できないが、心の貧しさなら無理なく手が届く。もしも《救い主》が、「恵みに富んでいる者は幸いです」、と語っておられたとしたら、それは大いなる真理ではあったにせよ、私たちの中のごく僅かな者たちしかそこから慰藉を引き出せなかったであろう。私たちの《天来の指導教官》は、冒頭にあたり、まさに経験のイロハから始めており、そのようにして恵みにおける赤子たちも、教えを受けられるようにしておられる。主が、これよりも高い境地から始めておられたとしたら、小さい者たちが置き去りになったに違いない。この神聖な階段の底辺部が巨大なひとまたぎであったとしたら、実際上、多くの者たちは登ろうという気持ちにもならなかったであろう。だが、「心の貧しい者は幸いです」、という銘が記された粗末な一段に心そそられ、何千もの人々が、この天的な道を進もうと心励まされているのである。

 感謝をもって注意するに値することだが、この福音の祝福が手を差し伸ばしているのは、律法がその力と意図によって精一杯のことを私たちのために施した後で、私たちを残していった、まさにその所である。私たちの堕落した人間性のために律法がせいぜい成し遂げられるのは、私たちの霊的貧困をむき出しにし、それを私たちに確信させることにほかならない。律法が人間を富ませることは到底できない。律法の行なう最上の貢献は、人間から、自分は義であるという空想上の富をはぎ取り、彼がいかに圧倒的な負債を神に対して負っているかを示し、自分に絶望させ、地べたにはいつくばらせることである。モーセのように、律法は人をゴシェンの地から引き出し、荒野へ導き、横断不可能な流れの縁まで至らせるが、それ以上のことは全くできない。律法は、私たちの想像上の功徳というシヌアルの美しい外套[ヨシ7:21]をびりびりに千切り、私たちの金の延べ棒が金滓にすぎないことを証明し、そのようにして私たちを「裸で、貧しくて、哀れな者」*[黙3:17]にしてしまう。この点へとイエスは降りて来られる。主の祝福の実線は、破滅の瀬戸際までやって来ては、失われた者を救助し、貧しい者を富ませる。福音は、無代価であるのと同じくらい万全なものである。

 この第一の《幸福の使信》は、このように、ふさわしいほど低い点に置かれおり、恵みの最初期の段階にある者たちにさえ手が届くところにあるが、しかしながら、それにもかかわらず、豊かな祝福に富んでいる。この一連の幸福の最後にも、最初と同じ言葉が同じ意味で用いられているからである。心の貧しい者は、柔和な者や、平和をつくる者と同じくらい真実かつ確実に幸いである。より低い度合や、より程度は、全くほのめかされていない。むしろ逆に、7つの《幸福の使信》の総まとめとして10節で用いられている最高の祝福が、第一の、そして、最も低い順番の幸いな者にも帰されている。「天の御国はその人のものだからです」。預言者や殉教者たちとの共同相続人たちについてさえ、これ以上に何が云われているだろうか? 実際、これ以上の何を云えるだろうか? 心の貧しい者は、ごみの山から引き上げられて、畑の雇い人たちの間にではなく、御国の君主たちの間に置かれるのである。幸いなのは、主ご自身からこれほどの幸福を口にしていただける魂の貧しさである。主は、この世がはなはだ軽んじるものを非常に尊重される。というのも、主のさばきは、高ぶった者らの愚かな判断とは正反対だからである。ワトソンがいみじくも語っているように、「自分を富んでいると考えている者たちのいかに貧しいことか! 自分を貧しいとみなす者たちのいかに富んでいることか! 私はこれを貧困の宝石と呼びたい。キリスト教信仰には、この世が理解できない数々の逆説がある。愚か者になる者は賢くなり、自分のいのちを救うにはそれを失い、富む者になるには貧しくなるべきである。だが、この貧困は、種々の富よりも懸命に得ようと努められるべきである。この襤褸の下には、黄金の布地が隠されており、この死骸の中から蜜が出て来るのである」。

 この《幸福の使信》が第一に置かれた理由は、それが経験の問題としては第一のものであるからである。これは、後に続く数々の品性にとって欠かせず、その1つ1つの根底にあり、それらを生み出すことのできる唯一の土壌なのである。人が神の御前で悲しみたければ、心が貧しくなくてはならない。また、他の人々対して柔和になりたければ、自らを卑しい者とみなさなくてはならない。義に飢え渇くのは、自らの美徳を高く評価している人々には不可能である。そして、腹立たしい者たちに対するあわれみは、これも恵みである! 自分自身の霊的必要を自覚していない者たちには困難である。心の貧しさは、幸いさという宮の玄関広間である。賢い人なら、自分の家の壁を建てる前に必ず土台のために深く土地を掘る。そのように、天来の事がらに熟達したいかなる者も、心の貧しさの欠けたところに、それよりも高い美徳を見ることは全く期待はしないであろう。自我が空しくされるまで、私たちは神に満たされることができない。脱がされることがなされて始めて、天から出た義をまとわされることができる。キリストが尊いお方となるのは、私たちが心貧しくなった場合だけである。私たちは、自らの欠乏を見てとらない限り、キリストの富を感じとれない。高慢は目を盲目にし、真摯な謙遜さがその目を開かなくては、イエスの美しさは永遠に私たちから隠されたままであろう。かの狭い門は、自分自身を偉大だと評価するような者が入るのを許すほど広くはない。駱駝が針の穴を通る方が、自分の霊的な富に思い上がっている者が天の御国に入るよりもたやすい。こういうわけで、明らかにこの第一の《幸福の使信》との関連で描写されている人格は、その後に続く人格を生み出すために不可欠なのである。そして、人は、この人格を持っていない限り、主の御手からの恩顧を期待しても待ちぼうけとなるであろう。高ぶる者は呪われている。彼らの高ぶりそのものが、その呪いを確実なものとし、彼らを天来の好意から閉め出してしまう。「主は……高ぶる者を遠くから見抜かれます」[詩138:6]。心へりくだっている者たちは幸いである。彼らにも、彼らの祈りにも、エホバは常に優しく気遣ってくださるからである。

 二重に言及される値打ちのあることだが、この第一の祝福が与えられているのは、称賛に値する資質がある所というよりも、それを欠いた所である。それは、かくかくの美徳ゆえに傑出している人や、しかじかの美質ゆえに注目されるべき人に対する祝福ではなく、その主たる特徴が、自らの悲しい欠乏を告白している点にある人に対する祝福である。これは意図的なことであり、恵みがいやがうえにも本当に恵みであることを明らかに見てとらせるためである。それで、その目がまず向けられるのは、きよさではなく、貧しさなのである。あわれみを示す者たちではなく、あわれみを必要とする者たちなのである。神の子どもと呼ばれる者たちではなく、こう叫ぶ者たちなのである。「私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」[ルカ15:19]。神が私たちにお求めになることは、ただ1つ、私たちの困窮である。そして、そうした困窮があればこそ、神がそれを無代価で満たすとき、ご自分の恵み深さを示す余地があることになるのである。堕落した人間のより良い面からではなく、より悪い面からこそ、主はご自分のための栄光をかちとられる。私が持っているものではなく、持っていないものこそ、私の魂と神とが最初に接触する点にほかならない。善人は自分の善良さを持って行くかもしれない。だが、神はこう宣言される。「義人はいない。ひとりもいない」[ロマ3:10]。信心家は、自分たちの種々の儀式をささげるかもしれない。だが、神は彼らの一切のささげ物に喜びを見いだされない。賢者は自分たちの発明を贈るかもしれない。だが、神は彼らの愚かさとみなされる。だが、心の貧しい者が、その全くの貧困と貧苦を伴ってやって来るとき、神はただちに彼らを受け入れてくださる。しかり、諸天を曲げて彼らを祝福し、契約の宝庫を開いて彼らを満たされる。外科医が病人を求めるように、また、施しをする者が貧者を探すように、救い主はご自分を必要とするものを探し出し、彼らに向かってご自分の天来の職務を行使される。いかなる貧窮した罪人も、この泉から慰めを飲むがいい。

 また、やはり忘れるべきでないのは、この、《幸福の使信》という音階の中でも最低の音符――この音楽全体の主音――が、キリスト教の経綸の霊性について、ある特定の音色をもたらしているということである。キリスト教の経綸の最初の祝福が割り当てられているのは、外側の人ではなく、内なる人の特徴なのである。からだの姿勢ではなく、魂の状態なのである。儀式を几帳面に守ることではなく、魂の貧しさなのである。福音の経綸において、霊という言葉は、その合言葉の1つである。種々の衣装や、拝跪や、ささげ物や、そうした類のものは無視され、主のいつくしみの目は打ち砕かれた心と、御前でへりくだっている霊に注がれる。種々の精神的な資性でさえのけ者にされ、霊が先陣を務めさせられる。魂が、真の人が顧みられ、それ以外のすべては、比較的に小さな値打ちしかないものとして放っておかれる。このことから私たちが教えられるのは、何にもまして、私たちの霊に関わるこうした事がらを顧みることである。外面的な宗教で満足してはならない。もし、何らかの儀式の中で、私たちの霊がかの大いなる、すべての霊の父[ヘブ12:9]との接触に至らないとしたら、安閑としていてはならない。私たちのキリスト教信仰に関わる、心の働きならざる一切の物事は、私たちにとって不満足なものでなくてはならない。人々が、もみがらや糠を食べては生きられず、小麦粉を必要とするように、私たちには、敬虔さの形式だの真理の文字だのを越えたものが必要である。私たちに欠かせないのは、隠された意味であり、みことばが私たちの霊に植えつけられることである。神の真理が私たちの魂の内奥に入れられることである。このことを欠いた一切のことは、祝福を欠いている。最高級の外的な信心深さも、祝福されはしない。だが、最低の形をした霊的な恵みも、天の御国を与えられるのである。たとい私たちの達する最高の境地が心の貧しさでしかなくとも、霊的である方が、肉的なままとどまっているよりも良い。私たちがその肉性においては、肉における完璧さに不足しているとしても関係ない。恵みにおけるいかに小さなものも、天性におけるいかに大きなものよりも高い。あの取税人の中にあった心の貧しさは、パリサイ人の中にあった外的な美徳の総ざらいにもまさっていた[ルカ18:14]。いかに弱く貧しい人間も、野の獣の最も強いものにまさって光輝いているように、いかに卑しい霊的な人も、主の御前では、最も卓越した、自分に満足した人々の子らにまさって尊い。いかに小さな金剛石も、最大の玉砂利にまさる価値を有しており、最低の程度の恵みも、天性の最も気高い境地をしのいでいる。あなたは、このことに対して何と云うだろうか? 愛する方々。あなたは霊的だろうか? 少なくとも、心貧しくあるほどには霊的だろうか? あなたのために、1つの霊的な領域が存在しているだろうか? それとも、あなたは、見えるもの聞こえるものといった狭い範囲に閉じ込められているだろうか? もし聖霊が、霊的なもの、見えないものに至る扉をこじ開けてくださっているとしたら、あなたは祝福されている。あなた自身の察知しているところが、まだ、自分は心の貧しい者であるという痛ましい悟りでしかなくとも関係ない。イエスが山上であなたを祝福しておられ、あなたは幸いなのである。

 さらに本日の聖句に近づいて、私たちが第一に注目したいのは、《ここで述べられている人物は1つの事実を悟っている》ということである。そうした人々は自分自身の霊的貧困さを突きとめている。第二に、《1つの事実によって、その人は慰められる》。というのも、その人は、「天の御国」を所有しているからである。

 I. その人が突きとめた事実は、古い真理である。というのも、人間は常に霊的に貧しかったからである。その誕生の時から、人間は一個の乞食であり、いかに裕福な境遇にあろうと、ただの物もらいにすぎない。「裸で、貧しくて、哀れな者」*[黙3:17]こそ、生まれながらの人間の状態を見事な要約である。彼は、あわれみの門前にいる、全身できものだらけ[ルカ16:20]の存在であり、自らのものとしては罪しかなく、土を掘るには力なく、乞食をする気持ちもない[ルカ16:3]。それゆえ、悲惨きわまりない種類の窮乏の中で滅びつつある。

 この真理は、普遍的なものでもある。というのも、あらゆる人間は生まれながらに、このように貧しいからである。ある氏族、あるいは、ある家族の中には、通常、少なくとも、ひとりは資産家がいるものであり、いかに貧しい国の中にも、ごく少数は富の持ち主たちがいるものである。だが、私たちの人間性の悲しさよ! その美徳の一切の持ち合わせは使い果たされており、その富は全く失われている。私たちの中のいかなる者にも、善の残余はとどまっていない。つぼの中の油は使い果たされ、かめの中の粉[I列17:12]は食べ尽くされ、飢饉が私たちにのしかかっている。古のサマリヤを荒廃させたもの[II列6:25]よりも悲惨な飢饉である。私たちには一万タラントの借金があり[マタ18:24]、返済に当てられるものは全くない。ほんの一銭の善良さすら、いかなる国々の宝物庫にも見つけることができない。

 この事実は、はなはだへりくだらされるものである! 人は金銭は持っていなくとも、それでも何の悪にも連座しておらず、それゆえ、恥じる所が何もないということはありえる。だが、私たちの貧困状態には、このようなとげが含まれている。すなわち、それは、道徳的、霊的な貧困であって、私たちを責めと罪の中に沈めているのである。聖さと、真実さと、信仰と、神への愛において貧しくあるということは、私たちにとって恥ずべきことである。しばしば貧しい者は、非常に恥じてででもいるかのように自分の顔を隠す。私たちは、はるかにいやまさってそうすべき理由がある。放蕩三昧の暮らしをし、自分の御父の財産を食いつぶし、自らを欠乏と不名誉に陥れてしまったからである。私たちの状態は、哀れなものと述べられているが、その描写を完全なものとしたければ、咎ある者とも宣言されなくてはならない。確かに私たちは憐れまれるべき対象であるが、それにもまさって非を鳴らされるべき対象である。貧しい人は、それにもかかわらず、その衣服の粗悪さ、また、その貯えの乏しさゆえに、尊敬に値することがある。だが、霊的に貧困であるとは、過ちと、非難に値すべき責任と、恥辱と、罪とを意味する。心の貧しい者とは、それゆえ、屈辱を受けた者であり、悲しむ者のうちに数えられることになる者である。そうした者について、第二の祝福はこう云っている。「その人は慰められる」[マタ5:4]。

 この聖句で幸いとされている者によって悟られているこの事実は、ほとんど知られていない。人類の大多数は、この件について全く無知である。人間の失われた状況についてのこの真理は、日ごとにわが国の町通りで教えられているが、それを理解する者はほとんどいない。人は、これほど不愉快で、これほどぎくりとさせられる言明の意味を、熱心に知ろうとはしていない。そして、この教理に気づいており、それが聖書的であると認めている大方の人々でさえ、それを信じようとせず、むしろ、自分たちの思いの中から抜き取り、実質的に無視している。「私たちは目が見える」[ヨハ9:41]、というのが、世の盲人たちのあまねく自慢するところである。だから、自分に欠けがあると実感するどころか、人々の子らは、非常に豊かなものを与えられていると自ら評価するあまり、自分が他の人々のようではないことを神に感謝するほどである[ルカ18:11]。いかなる奴隷制にもまして下劣な奴隷制は、人を自分の隷従状態に満足させておくものにほかならない。全く切望することがなく、自らの襤褸と不潔の中で得々としているような貧困は、極悪の貧困であり、それこそが人類の霊的状況である。

 私たちの状況についてのこの真理が真に知られる場合は常に、それは霊的に啓示されてきた。私たちは、自分の魂の貧しさを知っているあらゆる人についてこう云って良いであろう。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではありません」*[マタ16:17]、と。霊的に貧しくあることは、あらゆる人間の状況である。だが、心が貧しくあること、あるいは、自分の霊的な貧しさを知っていることは、召されて選ばれている者に特別に与えられる境地である。全能の御手は、私たちを無から創造した。そして、同じような全能性によらなくては、自分は無であると私たちが感じさせられることはない。私たちが救われるには、まず、無限の力によって生きた者とされるしかない。また、私たちが少しでも生きた者とされるには、その同一の力がまず私たちを殺すのでなくてはならない。驚くべきは、いかに多くのことがなされなくては、人間を裸にし、その真実の立場に置くことができないかということである。これほど無一文の乞食であれば、自分の窮乏を自覚しているに違いないと思われるであろう。だが、人はそれを自覚しておらず、自覚するには、永遠の神からそれを確信させられるしかないのである。私たちの想像上の善良さは、私たちの現実の罪以上に打ち負かしがたいものである。人間の病を治すことは、その健康自慢を捨てさせることよりもずっとたやすい。人間の弱さにもまさって、救いにとって大きな障害となるのは、人間の強さである。そこにこそ、労苦と困難が存している。こういうわけで、自分に恵みの必要があると知ることは、恵みのしるしである。自分の魂に何がしかの光のある人だけが、自分が暗闇の中にいると分かり、それを感じるのである。主ご自身が恵みのわざを行なわれたがために、ある霊は貧しくなり、困窮し、主のことばにおののくのである。そして、そのようなみわざこそ、その内側に救いの約束を――しかり、救いの確証を――かかえているのである。というのも、心の貧しい者は、すでに天の御国を所有しており、それを有する者はみな、永遠のいのちを有しているからである。

 心で自らの貧困を知っている人については、1つのことだけは確かに真実である。その人は、少なくとも1つの真理だけは所有しているが、以前は偽りの大気を呼吸し、自分の知るべきことを何1つ知っていなかったということである。心の貧しさから来る結果がいかに痛ましいものであろうと、それは真理ゆえの結果である。そして、真理の土台が据えられていれば、他の真理がつけ足されるであろう。また、その人はその真理にとどまるであろう。他の人々が自らの霊的美徳について知っていると思っている一切のことは、嘘でしかなく、ありったけの嘘に富んだ者であるということは、すさまじく貧しいということである。肉的な安逸や、天性の功績や、自分に対する信頼は、いかに多くの偽りの平安を生み出そうとも、虚偽の様々な形でしかなく、魂を欺くものである。だが、ある人が自分は生まれながらにも実際にも「失われている」ことを見いだすとき、その人は、もはや真理については貧乏人ではない。その人は、いずれにせよ1つは尊いものを所有している。真理によって鋳造された一枚の硬貨を手にしている。私個人としては、自分の最悪の症状を知ることができるようにと絶えず祈るものである。その知識が、いかなる代償を伴おうとも関係ない。私自身の心が正確に評価されれば、私の自尊心が引き下げられざるをえないことは分かっている。だが、真理から沸き上がる屈辱を免れようとすることなど決してあってはならない! 自尊心による甘美な林檎の実は、致命的な猛毒である。誰がそれによって滅ぼされたがるだろうか? 自己認識という苦い木の実は常に健康に良い。特に悔い改めという水できれいに洗われ、救いの泉から一口飲むことで甘味をつけられるときにそうである。自分の魂を愛している人は、そうした実を蔑みはすまい。本日の聖句によれば、幸いなのは、自分の失われた状況を知り、それによってふさわしい感銘を受けている、貧しく打ちひしがれた者である。その人は《知恵》の学び舎では初学者でしかないが、それでもひとりの弟子ではあり、その人の《主人》は1つの祝福によってその人を励ましておられる。しかり。その人のことを、天の御国が与えられている者たちのひとりであると断言しておられる。

 この1つの真理がもたらされている立場は、福音のあらゆる祝福を獲得するために、ことのほか有利なものである。心の貧しさは人を空しくし、そのために、いつでも満たされることができるようにする。それは、その人の傷口を露出し、良い《医者》の橄欖油と葡萄酒[ルカ10:34]を注がれやすくする。それは、咎ある罪人をあわれみの門前に横たえるか、イエスが常々おいでになるベテスダの池の回りの死に行く者たちの間に置く。そのような人は自らの口を開け、主がそれを満たしてくださる[詩81:10]。その人は飢えており、主が良いもので満ち足らせてくださる[ルカ1:53]。他の一切の悪にもまして、私たちは私たち自身が満たされていることを最も恐れるべき理由がある。キリストにとって最もふさわしくないのは、私たち自身の想像上のふさわしさである。私たちは、全く駄目な者となるとき、恵みの富で豊かにしてもらえる間近にある。自分自身から脱することは、ほとんどキリストのうちにあることである。私たちが終わる所で、あわれみが始まる。あるいは、むしろ、私たちが自分の功績や、自分の力や、自分の知恵や、自分の希望を何もかもなくしてしまっているとき、あわれみはすでに始まっているのであり、すでに私たちのために大きなことを行なっているのである。その貧困は、深ければ深いほど良い。――

   「ただ貧困(とぼし)さの 極限(きわ)のみぞ、
    魂(たま)を自由と なすものは。
    一銭(わずか)も己(おの)が ものを称(せ)ば、
    全(また)き免除(ゆるし)は、 受けざらん」。

心が、自らの必要を十分に感じられないことにすら苦悩するようであれば、それだけ良い。心の貧しさが大きければ大きいほど、無代価の恵みへの訴えはそれだけ力強いものとな。もし打ち砕かれた心に欠けていると感じられるなら、私たちは、打ち砕かれた心を伴ってイエスのもとに行くことはできなくとも、打ち砕かれた心を求めてイエスのもとに行って良い。いかなる種類、あるいは、いかなる程度の善も感知できないとしたら、このことも全くの貧しさの明確な証拠であり、その状況の中で私たちはあえて主イエスを信じてかまわない。私たちは無だが、キリストはすべてである。私たちが最初の一歩を踏み出すために必要なすべてを、私たちはキリストのうちに見いださなくてはならない。自分の究極的な完全さのためのものも、やはり確実にそれと同一の源で探さなくてはならないのと全く同じようにそうである。

 人は、はなはだしく考え違いをして、自分の罪感覚を1つの功績としてしまうことがありえる。また、絶望と不信仰というふさわしさをまとってイエスのもとに行こうと夢見ることがありえる。しかしながら、これは、心の貧しい者のふるまいとは全く正反対である。というのも、その人は、その感情においても、他の一切のことと同じように貧しく、自分のへりくだりや絶望感ゆえに自分を推賞することなど、自分のもろもろの罪そのものゆえに自分を推賞することと同じくらいあえて行なおうとはしないからである。その人は、自分のことをかたくなな心の罪人であると考える一方で、自らの数々の違反ゆえに深い悔い改めが必要であると認めている。その人は、自分が救われて生きた者とされ、良心を鋭敏にさせられることとは無縁でないかと恐れている。また、自分の魂の中に察知する数々の願いによって、偽善者となることが金輪際あってはならないと恐れおののいている。事実、その人は自分のことを貧しい者以外の何者としてもあえて考えることができない。神とその義なる律法との関係において、いかなる光に照らしても、嘆かわしいほどに貧しい者であるとしか考えられない。その人は、真に悔悟した人々の謙遜さについて話を聞き、自分もそれを有したいと願う。神のことばによって与えられる悔い改めの描写を読んで、自分にもそれを実感させ給えと祈る。だが、その人は自分自身の中に、明確に指し示して、こう云えるものを何1つ見てとらない。「これは、少なくとも良いものです。私のうちには、少なくとも、1つは良いものが宿っています」、と。否。その人は心貧しく、その人からは一切の自慢がきれいさっぱり切り落とされている。このような状況にある方が、自分自身を聖徒であると誤りみなしたり、会堂の上席に着いたりするよりもましである。しかり。このような立場を占める方が甘やかに安全である。神を信じる信仰と、聖霊にある喜びとに満ち満ちている人は、このことが自分の平安を増し加えるものであることに気づくものである。自分の生まれながらの状態の貧しさをあますところなく自覚し続けること、また、キリスト・イエスにある安泰さと幸いさとの確信と平行してそれを脈々と流れさせ続けることである。主よ。私を低いままにしておいてください。いやまして私を空しくしてください。私をちりの中にはいつくばらせてください。自我から出ている一切のものについて、私を死んで葬られた者としてください。そうするとき、イエスは私のうちに生き、私のうちで統べ治め、まことに私の《すべてのすべて》となられるでしょう!

 ある人々にとって、心が貧しくあることは大した問題ではないと思われるかもしれない。そうした人は思い出すがいい。私たちの主は、この恵みに満ちた心の状態を、《幸福の使信》という天界の階段の礎石としておられるのである。そして、そこから上って行く一段一段が、測り知れないほど崇高なものであることを誰が否定できるだろうか? 心貧しくあることは、云い知れようもないほど望ましいことである。それが心のきよさや、平和をつくる者という神に似た性格に至る路である以上そうである。ヤコブの夢を最後まで見るためとあらば、誰が自分の頭をヤコブの石枕[創28:11]に載せようとしないだろうか? この族長が天の御国の開かれるのを見たように、自分もそれを見ることができさえするなら、誰が貧しさのうちにヨルダンを渡った際に彼が携えていた一本の杖[創32:10]を蔑もうとするだろうか? もしもイスラエルの貧しさが、イスラエルの神の数々の祝福を受ける条件の一部であるとしたら、それを歓迎するがいい。私たちは、心の貧しい者を蔑む代わりに、霊的いのちの曙光を、また、あらゆる恵みの萌芽を、また、完璧さの端緒を、また、祝福されている証拠を有している人々とみなした方が良い。

 II. このように、心の貧しい人々の性格は、1つの事実を知ることによって形作られたものであるとして多くを語ってきたが、ここからは、このことに注意しなくてはならない。《1つの事実によってこそ、彼らは勇気づけられ、幸いな者とされる》。というのも、天の御国は彼らのものだからである。

 これは、未来に関する約束ではない。現在に関する宣言である。その人のものとなるのではなく、「天の御国はその人のものだからです」。この真理は、必然的な推論により、多くの聖書箇所で明らかに啓示されている。というのも、最初に、天の御国の《王》は、貧しい者を支配するお方として、絶えず表現されている。ダビデは、詩篇72篇でこう云う。彼は「民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、……弱っている者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います」[詩72:4、13]。主の処女母が歌ったように、「権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました」[ルカ1:52-53]。ダビデの《子》の軍旗の下で軍隊に入る者たちは、古にあのアドラムの洞穴にいたエッサイの子のもとにやって来た者たちに似ている。「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった」[I列22:2]。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」[ルカ15:2]。主の称号は、「取税人や罪人の仲間」[マタ11:19]であった。「主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました」*[IIコリ8:9]。それゆえ、貧しい者が主のもとに集められるのは適当なことなのである。イエスが、心の貧しい者を選んで、ご自分の家臣とし、「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」[ルカ12:32]、と仰せになった以上、彼らがいかに真実に幸いであるか私たちには見てとれる。

 《御国》の規則は、心の貧しい者にしか耐えられない。この人々にとって、それは負いやすいくびきであり、彼らはそこから解き放たれたいとは思わない。神に一切の栄光を帰すことは、彼らにとって何の重荷でもなく、自我にこだわるのをやめることは、全く厳しい命令ではない。卑しい場所が彼らには似合う。不面目な奉仕することを彼らは誉れとみなす。彼らは詩篇作者とともにこう云うことができる(詩131:2)。「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります」。自己否定と謙遜さという、キリストの御国の主要な義務は、心の貧しい者たちにとってのみたやすい。つつましい思いは、つつましい義務を愛し、《屈辱の谷》に生えるいかに小さな花にも口づけする。だが、他の人々にとって、肉を華々しく見せびらかすことは大きな魅惑があり、自分を高めることこそ人生の主たる目的である。私たちの《救い主》のこの宣言、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」[マタ18:3]は、心の貧しい者以外のあらゆる者を閉め出す鉄則である。だが、それと同時に、これはそうした性格をしたあらゆる者を入らせる真珠の門なのである。

 《御国》の数々の特権は、霊的に貧しい者だけが尊ぶだろうものである。他の者たちにとって、それらは豚の前に投げられた真珠のようである。自分を義とする者は、罪赦されることなどかまいつけない。そのために《贖い主》がご自分の心血という代価を払っていても関係ない。彼らは新生などに関心がない。それが聖霊の最大のみわざであっても関係ない。そして、彼らは聖潔を少しも大切にしない。御父ご自身が、光の中にある聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった[コロ1:12]お方であっても関係ない。明らかに、契約の様々な祝福は、心の貧しい者たちが受けるためのものである。その中の1つたりとも、パリサイ人から尊ばれるようなものはない。義の衣は、私たちが裸であることを暗示している。天からのマナは、地上で糧が欠けていることを暗示している。人々が何の危険にも陥っていないとしたら、救いなど空しく、人々が罪深い者でないとしたら、あわれみなど侮辱である。《教会》の大憲章は、それが貧しく困窮した者によって形成されているという前提の上で書かれており、さもなければ、何の意味もない。心の貧しさによって、契約の祝福の尊さを見る目は開かれる。ひとりの老清教徒が云っているように、「心の貧しい者は、キリストを賞賛する者である。キリストを重んずる者は、キリストを高く評価し、深く感謝する。その人は自分をキリストの御傷の中に隠す。その血潮で自分を洗いきよめる。その衣で自分を包む。自らの身裡には霊的な死と飢饉とを見るが、そこから目をそらしてキリストを眺めて、こう叫ぶ。『主よ。私にあなたご自身を見せてください。そうすれば満足します』、と」。さて、主が無駄に作ったものは何1つないからには、福音の御国の数々の特権が心の貧しい者だけにふさわしいものである以上、私たちはこう確信して良い。そのような者たちのために、それらは備えられたのであり、そのような者たちにそれらは属しているのだ、と。

 さらに、明らかに、心の貧しい者たちだけが、現実に王たちとして神に対して統治する。この御国の王冠は、万人の頭に調和するわけではない。事実、それが調和する唯一の額は、心の貧しい者の額である。いかなる高慢な人間も統治しない。彼は、自分の自慢の奴隷であり、自分自身の尊大さの奴僕である。野心満々のこの世の子は、何らかの王国を求めて飛びつくが、それを所有することはない。心へりくだった者たちは満ち足りており、そのように満ち足りた中にあって、統治する者とされる。高慢な霊には安息がない。へりくだった心だけが平安を有する。自らを知ることが、自らに打ち勝つ道であり、自らに打ち勝つことはあらゆる勝利の中で最も壮大な勝利である。この世は、尊大な者、野心のある者、厳格に自分に満足する者に味方し、彼のふるまいは王のようだと云う。だが、実際にその同胞の間にいる王たちは柔和で、万物の主のようにへりくだっており、その自意識のなさのうちにこそ、その力の秘訣が宿っている。人類の間の王たち、最も幸福な者たち、最も強力な者たち、最も栄誉ある者たちとは、いつの日か、世のアレクサンドロスたちでも、カエサルたちでも、ナポレオンたちでもないことが見てとられるであろう。むしろ、弟子たちの足を洗ってくださったお方に似た人々、静かさの中で神と自らの同胞のために生きた人々、自らの失敗を自覚しているがゆえに気取ることをしない人々、自らを軽蔑するがゆえに利己的にならない人々、自分自身の霊的貧しさのため自分を脱しており、かつ、主にだけより頼まされているがゆえに謙遜で敬神の念に富んでいる人々である。来たるべき時に、ピカピカ光る安物は、その本当の値打ちで売られるようになるであろう。そして、そのとき、心の貧しい者は御国を有していたことが見てとられるであろう。

 この《幸福の使信》によって心の貧しい者に授与される領地は、ざらにあるようなものではない。それは天の御国、天的な領地であって、星々のこちら側で獲得できるいかなるものをも凌駕している。不敬虔な世は、心の貧しい者を卑しむべき者とみなすかもしれない。だが神は彼らを、ご自分の貴族たち、君主たちの間に書きとめてくださる。そして、神の判断は真実であり、人間たちの意見、あるいは、御使いたちの意見さえもはるかに越えて尊重されるべきである。私たちは、心の貧しい者であること以外に、天国が自分のものであるという証拠を持たない。だが、その幸いさのしるしを有しているからには、現在のものであれ、未来のものであれ[Iコリ3:22]、すべては私たちのものである。心の貧しい者には、福音の御国が地上に与えることになっている一切の安泰さ、誉れ、幸福が属している。この下界においてさえ、彼らは何の疑いもなく天国の珍味佳肴を食することができ、何の恐れもなく天国の種々の楽しみにふけることができる。まだ見えていないもの、未来の啓示のために取っておかれているものも彼らのものである。再臨は彼らのもの、栄光は彼らのもの、かの第五の大王国[ダニ2:44]は彼らのもの、復活は彼らのもの、至福の光景は彼らのもの、永遠の恍惚は彼らのものである。「心の貧しい者」、この言葉は、まるで彼らが何も所有していないと述べているかのように響く。だがしかし、それは万物の相続人たちのことを述べているのである。幸福な貧しさよ! 百万長者も零落し、印度諸国の宝物も雲散霧消する一方で、心の貧しい者には無窮で、無限で、非の打ち所のない王国が残っているのである。このことによって彼らは、万物の上にあり、とこしえにほめたたえる神[ロマ9:5]であられるお方から幸いであると評価されているのである。そして、これらすべてが云われている今のこの世では、彼らは悲しんでおり、慰められる必要があるのである。飢え渇きがあり、満たされる必要があるのである。これらすべてが云われている彼らは、なおも義のために迫害されているのである。ならば、彼らがその御父の御国で太陽のように輝く[マタ13:43]とき、彼らの幸いさはいかなるものとなるに違いないだろうか? そのとき、彼らの《主人》かつ主のこの約束は、彼らのうちに成就するのである。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」[黙3:21]。

----

第一の幸福の使信[了]

-----------


HOME | TOP | 目次