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第三の幸福の使信

NO. 3065

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1907年11月7日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年12月11日、木曜日夜


「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」。――マタ5:5


 これまで何度も指摘したように、この章にある幸福の使信は、次々に上昇して行き、それぞれが次の使信を生むもととなっている。前に来るものは、後に続くものにとって常に欠かせない。この第三の幸福の使信、「柔和な者は幸いです」、が最初のものとなることはありえなかった。――それが冒頭にあったとしたら、全く場違いとなっていたことであろう。ある人が回心したとき、その人の魂の内側で第一になされる神の御霊の働きは、真の心貧しさを与えることである。だから、第一の幸福の使信は、「心の貧しい者は幸いです」、だったのである。主はまず私たちに、自分たちの空しさを知らせ、そのようにして私たちをへりくだらせてくださる。それから次に、自分たちの内側のこれほどあからさまな欠乏について私たちを悲しませてくださる。そこでやって来るのが、第二の幸福の使信である。「悲しむ者は幸いです」。まず、私たち自身についての真の知識があり、次にその知識から生ずる神聖な悲嘆がある。さて、いかなる者も、キリスト教的な意味において真に柔和な者となりたければ、まず自分自身を知り、それから自分がこれほどしかるべきあり方に欠けた者であることを悲しみ、嘆かなくてはならない。自分を義とする思いは、決して柔和にならない。自分を誇りとしている人間は、他の人々に対する扱いにおいて無慈悲になるに決まっている。この梯子のこの横木に達したければ、まず他の2つに自分の足をかけなくてはならない。心の貧しさと、心の悲しみがない限り、本日の聖句の語るような、恵み深い柔和さがやって来ることはありえない。

 また、やはり注意したいのは、この第三の幸福の使信が、他の2つよりも高い程度にあるということである。美徳ということに関して云えば、そこには積極的なものがある。初めの2つは、どちらかというと、欠乏を表わしていた。だが、ここには補充されているものがある。ある人が心の貧しい者だとする。すなわち、自分が持っていてしかるべき、おびただしい数の事がらに欠けていると感じている。その人は悲しむ。すなわち、自分が霊的に貧しい状態にあることを嘆く。しかし、今やそこには、神の御霊によって本当にその人に与えられているものがある。――否定的な資質ではなく、その人の魂のうちで聖霊が働いておられる積極的な証拠である。それで、その人は柔和になっているのである。最初に祝祷を受け取った2つの性格は、自らに埋没しているように見受けられる。その人は心の貧しい者である。それはその人自身に関係している。その人の悲しみは、その人自身の個人的な悲しみであって、その人が慰められればやんでしまう。だが、柔和さは他の人々と関わっている。確かに、そこには神と関係しているものがあるが、ある人の柔和さは特にその同胞たる人間たちに対するものである。その人は、単に自分自身の内側で柔和なばかりではない。その人の柔和さは、他の人々への扱いにおいて明らかに示される。あなたは、決して同胞たちと会うことをしない世捨て人のことを柔和であるとは云わないであろう。その人が柔和かどうかを証明できるだろう唯一の道は、その人を、癇に触るような人々と一緒にしてみることであろう。それで、この柔和さは、キリストが幸いであると宣言された、最初の2つの特徴よりも広い領域で、ずっと広汎に働く、より大きな美徳なのである。これは、その2つよりもすぐれている。それらから生じている以上、当然のことである。だが、それと同時に、この幸福の使信全体を通じて、上るものと平行して下るものがあり、ここでも、それは同じである。第一の場合に、その人は貧しかった。それは低いということであった。第二の場合に、その人は悲しんでいた。それも低かった。だが、もしその人が自分の悲しみを自分のうちに隠しておいたとしたら、その人はなおも自分の同胞たちの間では大人物と目されていたかもしれない。しかし、今やその人は人々の間で柔和になるようになっている。――社会のただ中でへりくだり、謙遜になっている。それで、その人は、いやまして低く低くなっているのである。だが、その人は霊的な高みへと上りつつある。個人的な謙遜についていえば沈みつつあり、そのため、ずっと真実に恵みに満ちた者になりつつはあるが、そうである。

 さて、この幸福の使信の前後関係について語るのはそのくらいにして、それを展開するするものとして2つの問いかけを発してみたい。すなわち、―― 第一に、柔和な者とは誰だろうか? そして、第二に、いかにして、また、いかなる意味で、その人々は地を相続すると云えるのか?

 I. まず第一に、《柔和な者とは誰だろうか?》

 すでに告げたように、これは、神によって心貧しくされた人々、また、神の前で悲しまされ、それから慰められている人々である。だが、ここで学ばされるところ、こうした人々は柔和でもある。すなわち、神と人々との前で、へりくだった、優しい精神をしているのである。

 この人々は、神の前で柔和であり、善良な老ワトソンは、この資質を2つの項目に区分している。すなわち、彼らは神のみこころに対して従順であり、かつ、神のみことばに対して柔軟である。願わくはこの2つの非常に表現豊かな資質が、私たちひとりひとりの中に見いだされるように!

 それで、真に柔和な者は、まず最初に、神のみこころに対して従順である。神がお望みになることなら何であれ、彼らもそれを望む。彼らは、かのソールズベリー平原にいた羊飼いと同じ思いをしている。この羊飼いに向かって、善良なステンハウス博士がこう尋ねたという。「明日はどんな種類の天気になるだろうね?」 「まあ」、と羊飼いは答えた。「あっしの気に入る天気になるでしょうね」。そこで、この博士は尋ねた。「それは、どういう意味だね?」 そこで、羊飼いは答えた。「神様がお喜びになる天気なら、何でもあっしの気に入るんですよ」。「羊飼いさんや」、と博士は云った。「お前さんの暮らしは、少々難儀のようだね」。「とんでもありません、先生!」、と彼は答えた。「あっしは、そうは思いません。あわれみというあわれみで一杯ですから」。「しかし、お前さんはえらい苦労をして働かねばならないのだろう?」 「ええ」、と彼は答えた。「働くことはいくらでもあります。ですが、それはぶらぶらしてるより、ずっとましなことですよ」。「しかし、何度も辛い目に遭わなくてはならなかったろうに」。「それはそうですとも、先生!」、と彼は云った。「それは何度も。ですが、町の真中に住んどる人たちほど多くの誘惑には遭わなくてすみますよ。あっしの神様のことを思い巡らすための時間がずっとたくさんありますしね。だから、あっしは神があっしを置いてくださった場所は、あっしのいられる限り最高の場所だと全く満足してるんですよ」。このように幸福で、満ち足りた精神をいだいているため、柔和な人々は神と云い争うことがない。彼らは、一部の愚かな人々がするように、自分が間違った星の下に生まれただの、自分の成長のためにならないような環境に置かれただのと語りはしない。そして、たとい神の鞭に打たれるときにも、神に反発したり、ひどい《主人》だと呼んだりしない。むしろ、神がそうされたがゆえに沈黙を守って、口をつぐんでいるか、たとい口を利くとしても、それは恵みを乞い求めるためである。いま耐え忍んでいる試練が、自分たちにとって聖別されるか、あるいは、自分たちが恵みにおいてずっと高く上り、キリストの力におおわれるためにむしろ大いに喜んで自分の弱さを誇る[IIコリ12:9]ことができるかするように、と。高慢な心をした者たちは、そうしたくなると、自分の《造り主》を召還し、形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか?」[ロマ9:20]、などと云う。しかし、こうした恵みの人々は、そのようにしようとはしない。彼にとって、神が何かを望まれたなら、それで十分なのである。それがみこころであれば、そうなさってください、と。――ソロモンの玉座であれ、ヨブのごみの山であれ関係ない。彼らは、神が自分たちをどこに置こうと、あるいは、いかに神から取り扱われようと、同じように幸福にしていることを願う。

 彼らは、また、神のみことばに対して柔軟である。もし彼らが本当に柔和であれば、常に喜んで屈服しようとする。真理がいかにあるべきかを想像してから、聖書のもとにやって来て、自分たちがそこにあるはずだと考えているものを証明する聖句を探すようなことはしない。むしろ、彼らは、まっさらな精神をもって、霊感された《書》のもとにやって来ては、詩篇作者とともにこう祈る。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」[詩119:18]。そして、聖書を調べているうちに、自分では完全に理解できないような深い神秘を見いだしたときには、自分が理解できないところでも信じる。また、時として聖書の相異なる部分が互いに矛盾しているように思われる場合でも、彼らはその説明を、かの大いなる《解釈者》にゆだねる。このお方だけが、すべてを平明にすることがおできになるのである。自分自身の観念に反するような教理、また、血肉には受け入れがたいような教理と出会うとき、彼らは自分自身を《天来の御霊》に服させ、こう云う。「私たちの知らないことをあなたが教えてください」、と。心の柔和な者が神のことばの中に、何らかの戒めを見いだすときには、彼らはただちにそれに従おうとする。それに難癖をつけたり、何とかそれを避けられないか尋ねたり、しばしば繰り返される、次のような質問を提起したりはしない。「これが、救いに必要不可欠なことだろうか?」 彼らは、救いがかかっていない限り何も行なおうとしないほど利己的な者ではない。自分の神をあまりにも愛しているため、神がお与えになるいかに小さな命令にすら従いたいと願う。ひとえに神に対する愛からである。心の柔和な者は、写真家の敏感な撮影板のようである。神のことばが彼らの前を通り過ぎるときには、その像が自分たちの心に焼きつけられることを願う。彼らの心は、神の御思いが書き記される、肉の書字板である。神が《書き手》であられ、彼らは生きた手紙となる。墨によってではなく[IIコリ3:3]、生ける神の指によって書かれた手紙である。このように、彼らは神に対して柔和である。

 しかし、柔和さは、人間たちに対しても大きく関わる資質である。そして、それは、まず最初に、その人が謙遜であるという意味だと思う。その人は、自分の同胞である人々の間で、カエサルのようにふるまいはしない。シェイクスピア云うところの、「あのローズ島の港に両脚かけて聳え立つ巨人像のように」、「世界せましと立ちはだかって」*1、普通の人間たちは、その巨大な足の下を往き来しながら、おのれのために恥ずべき墓穴を見つけたいものとあくせくする、そのような者ではない。むしろ、その人は、自分が人間でしかないこと、また、最上の人間でさえ所詮は人間でしかないことを知っている。そして、自分が最上の人間のひとりであるとさえ主張しない。彼は、自分がすべての聖徒たちのうちで一番小さな[エペ3:8]者であることを知っている。また、いくつかの点で、罪人のかしら[Iテモ1:15]その人であると知っている。それゆえ、彼は会堂の上席や、宴会の上座に着くことを期待しない。むしろ、自分の同胞たちの間を、神の御霊の力の著しい実例として過ぎ行くことができれば、また、主の慈愛に大きな負債を負った者として彼らに知られることができれば、全く満足する。際立って優秀な存在ぶることをしない。たとい由緒のある家柄だとしても、それを自慢しない。生まれの卑しい者だとしたら、自分よりも高い階級の人々と互角になろうとしたりしない。自分の富や、自分の才質を誇るような者ではない。彼は知っているのである。人を神がおさばきになる基準はそうした事がらではないことを。そして、もし主が彼に多くの恵みを与え、彼をご自分への奉仕において非常に用いられる者としてくださるとしたら、彼はただ、自分がその分だけ多くを自分の《主人》に負っており、その分だけ責任があるとしか感じない。だから彼は、神の前により身を低め、人々の間でより謙遜な歩みをする。柔和な心をした人は、常に謙遜な気質と態度をしている。彼と全く対極にあるのが、あなたが、これは大物に違いない――少なくとも、自分では大物のつもりに違いない――と感じるような高ぶった人間、あるいは、こちらが譲らない限り、やかましく文句をつけて来るだろうと感じられるような人間である。そうした人は、いかなる天候時にも自分の最上檣帆が常に翻っていることを期待している紳士である。その人は自分の軍旗が自分の前面に掲げられ、誰もが自分に敬意を表すのでなければ気が済まない。この偉大な「私」が、いついかなる時もその人にあっては目立っている。彼は、町通りで一番の家の、最上の部屋の前室に住んでいる。そして、朝目覚めるときには、自分自身と握手を交わし、自分がこれほど素晴らしい奴であることを思って、我れながら幸せだわいと思う! それこそ、柔和であることとは正反対である。それゆえ、謙遜さは、柔和さの中に存在するすべてではないが、その主立った特徴の1つなのである。

 そこから育つのが、心根の優しさである。その人は優しい。その人は語気を荒げることがない。その口調は横柄でなく、その心根は権柄ずくではない。彼は、正当と思うこともしばしばあきらめるであろう。それが他の人々にとって不都合だと思うからである。彼は、自分の兄弟たちの間にあって真の兄弟になうとし、主の家の玄関番になるか、信仰の家族のために何か召使いのような奉仕ができるかすれば、非常な名誉と考える。私の知っている何人かの、信仰を告白するキリスト者たちは、非常に無情で、人好きのしない人々である。あなたは、自分の心を彼らに打ち明けることができない。彼らは、あなたの水準まで降りてくることができないように見受けられる。彼らは山の上にあり、あなたのことを自分たちよりもはるかに下にいるあわれな生き物であるかのように偉ぶって話をする。それは真のキリスト者精神ではない。それは柔和ではない。自分がその中に出入りしている他の人々よりも本当にすぐれているキリスト者は、全員の益のために、まさに最も低い人の水準まで自分を低める人である。彼は自分の《主人》を見習う。主は神のあり方をしておられたにもかかわらず、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」[ピリ2:7]。そして、その結果、この人は、彼の《主人》と同じように愛され、信頼される。小さな子どもたちさえ彼のもとにやって来るし、彼もその子たちを追い払ったりしない。彼は子どもたちに優しくする。愛情にあふれる母親が、自分の子どもたちを無情に扱うことを全く避けるのと同じである。

 謙遜さと優しさに加えて、柔和な者は辛抱強い。彼らは、「つまずきが起こることは避けられない」[マタ18:7]と分かってはいるが、その柔和さのあまり、人をつまずかせることも、人につまずくこともできない。他の人々が彼らを悲しませても、彼らはそれを辛抱する。単に七度赦すのではなく、七度の七十倍赦す[マタ18:22]。事実、彼らは、赦しを必要とするようなことがなされたかのように感じることがめったにない。それを侮辱とは受けならないからである。彼らは間違いがなされたのだと考える。それで、それを怒りはしないのである。瞬間的には怒るかもしれない。さもなければ、人間ではないであろう。しかし、怒っていても罪を犯していないということはありえる。そして、柔和な人は、自分の怒りを全面的にその悪に向け、そうした過ちを行なった人から引き離す。そして、まるでその人が全く何の違反も犯さなかったのと同じように、喜んで親切を尽くそうとする。もしもこの場に誰か、怒った思いをした人がいるとしたら、どうかこうした言葉をとくと考え、その件を改めようと努めてほしい。キリスト者は怒気に打ち勝たなくてはならないからである。小さな薬缶は、すぐに沸騰する。そして、私の知っている、信仰を告白する一部のキリスト者たちは、あまりにも小さな薬缶すぎて、いかに小さな火によっても、かんかんに沸騰させられてしまう。気を悪くさせるつもりなど全くないことにも、すさまじく機嫌を損ねる。ほんの無邪気な一言も侮辱と受け取られ、まるで意図されていなかったようなことが邪推される。それで、自分の兄弟のたった一語、あるいは、ほんの半語、左様、何も云わなかったことによってさえ、つまずくのである。時として、誰かが近眼のために町通りで挨拶することをしないと、それだけで、わざと自分を無視したのだ、自分の方が良い暮らし向きをしているので口を利こうとしないのだ、と確信する。あることが行なわれようが行なわれまいが、同じくらい気に入らない。何か不快の種はないかと虎視眈々としており、ほとんど、あの、ドニブルックの市のアイルランド人を思い出させるほどである。そのアイルランド人は、泥の中に自分の外套を引きずって歩き、それを踏みつけてくれと人に云っては、そうした人をぶちのめすことを楽しみにしていたという。それに似た誰かが癇癪玉を破裂させたという話を聞くと、私はいつも、その癇癪玉が二度と丸まらないように祈るものである。そんなものは、破裂してなくなってしまうに越したことはないからである。柔和な心をした人も、生まれながらには、非常に血の気が多くて激しやすいという場合もありえる。だが、自分の短気を従わせることのできる恵みが与えられているのである。その人は、多くの人々とは違い、「これが私の性分なのです。どうしようもありません」、とは云わない。神は決して私たちを、私たちの性分ゆえに勘弁することはなさらないであろう。神の恵みが私たちに与えられているのは、私たちの悪い性分を直すため、また、私たちの腐敗を殺すためである。私たちは、いかなるアマレク人をも、それが性分上の罪と呼ばれているからといって命拾いさせるべきではない。むしろ、それらをことごとく引き出して、――いかにいやいや出てくるアガグ[Iサム15:32]さえも含めて、――主の前で打ち殺すべきである。主は、あらゆる罪に対して、私たちを圧倒的な勝利者[ロマ8:37]とすることがおできになる。それが性分上の罪であろうとなかろうと関係ない。

 しかし、この世は悪い世であり、中には私たちを迫害しようとする者たち、また、私たちの権利を奪い取ろうとする者たち、そして、深刻な損害を私たちに加えようとする者たちがいる以上、柔和な人は、単に辛抱せざるをえないことを辛抱する以上のことを行なう。というのも、その人は、自分に加えられた損害をさっぱりと赦すからである。誰かが他の人を赦すことを拒むとき、それは悪いしるしである。

 ひとりの父親について聞いた話だが、彼は自分の子どもに向かって、二度とこの家の敷居をまたぐなと云ったという。その父親は、自分がそのような精神をいだいている限り、決して天国に入れないことを知っているのだろうか? 私はある人が、「自分は誰それを絶対に赦さない」、と云っているというのを聞いたことがある。あなたは、知っているのだろうか? あなたが他の人々を赦さないうちは、神は、赦しを求めるあなたの祈りを決してお聞きにならないだろうことを。それこそ、まさにキリストがその弟子たちにささげるようにお教えになった条件である。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」[マタ6:12]。もしあなたから三百デナリの借りがあるからといって、あなたが相手をつかまえ、首を絞める[マタ18:28]としたら、あなたは、神があなたの一千タラントの借りを赦してくださるなどと考えられるだろうか? そのように、心の柔和な者は、自分に不正を働く者たちを赦す。その損害が加えられることが許されたのは、自分の恵みを試すため、果たしてそれを自分が赦すかどうか確かめるためだとみなす。それで、彼はそうする。それも全く心からそうする。クランマー大主教については、常々こう云われていた。「カンタベリー大主教閣下は、意地悪をされると、相手の生きている限り、その友人となる」。それは、自分の敵であった者を受け入れ、それからは自分の友とするという高貴な精神であった。これは、ご自分を殺そうとする者のためにこう祈られたお方にならうことである。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」[ルカ23:34]。また、これは復讐心に満ちた精神と正反対である。ある人々は、自分には不正がなされた、だから仕返してやるのだ、と云う。だが、「仕返し」は、キリスト者的な言葉ではない。「復讐」は、キリスト者の辞書に見いだされるべきではない。キリスト者は、それをバビロンの方言、また、サタン語に属するものとみなす。彼の唯一の復讐は、自分の敵の頭上に燃える炭火を積むために、自分の受けたあらゆる悪のお返しに、自分にできる限りの善を施すことである[ロマ12:20]。

 柔和さには、満ち足りた心も含まれると思う。柔和な心をした者には野心がない。彼は、神が自分に供してくださるものに満足している。自分ののどは日ごとのマナを厭うなどと云わず、かの岩からの水は、彼の味覚に対して決してその甘やかさを失わない。彼の座右の銘は、「神の摂理こそ、わがゆずりの地」である。浮き沈みはあるが、彼は自分の神が山の神であり、かつ低地の神でもあられる[I列20:28]ことで主をほめたたえる。そして、神の御顔が自分を照らしていさえすれば、自分の歩いている場所が山であろうと低地であろうとほとんど頓着しない。自分の持っているもので満足し、こう云う。「ものが足りているのは、宴会と同じくらい良い」、と。自分に何が起ころうと、自分の様々な時が神の御手の中にあることを見てとりつつ、それで良いとする。最上の、そして、最も断固たる意味でそうである。柔和な者は、人間の血をくぐって王位に就こうとし、人類に対するあわれみの門を閉ざそうとするナポレオンでは決してない。柔和な者は決してけちんぼではなく、何もかも貪り尽くそうとする貪欲によって、手に入るものを片端から貯め込みはしない。一生の間、家に家を加え、畑に畑を加える[イザ5:8]ようなことはしない。柔和な者は、神に与えられた自分の様々な才質を用いたいという天晴れな願望を有しており、同胞の人々に対してさらなる善を施せる立場に就きたいと思う。だが、平静を欠いたり、気を揉んだり、苛立ったり、悲嘆に暮れたり、がつがつしたりしない。その人は満ち足りていて、感謝にあふれている。

 こうした5つの資質が集まっているところに、真に柔和な者はいる。――謙遜で、優しく、辛抱強く、赦しに富み、満ち足りている。それは、高慢で、荒々しく、怒りっぽく、復讐心に満ちた野心家とは正反対である。だだ、聖霊によって私たちの中に働く神の御霊だけが、私たちをこのように柔和にすることができる。ある人々は、自分を柔和であると思っていたが、実はそうではなかった。クロムウェル時代の第五王国派たちは自分を柔和であると云い、それゆえ、地を相続するのだと云っていた。それで、自分たちの地所や家々から他の人々を追い払い、それをわがものにしようとした。そして、そのようにすることで彼らが柔和でないことを証明した。というのも、もし柔和であったとしたら、自分の持っているもので満ち足りていて、他の人々には彼らに属するものを享受させておいたであろうからである。ある人々は、非常に優しく柔和だが、それは誰も癪に障ることをしない場合に限る。私たちがみな、尋常ならざるほど気立ての良い者であるのは、自分の思い通りにしていられる間だけである。だが、恵みの働きである真の柔和さは、迫害の火にも耐え、敵意や無慈悲や不正という試練をも忍ぶ。キリストの柔和さが、カルバリの十字架上でそうしたのと全く同じようにである。

 II. さて、第二のこととして、《いかにして柔和な者は地を相続するのだろうか》

 イエスは云われた。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」。この約束は、パウロのこの霊感された宣言と類似している。「敬虔は、すべてに有益です。今のいのちと未来のいのちが約束されているからです」[Iテモ4:8 <英欽定訳>]。それで、最初に、柔和な者が地を相続するのは、その人が地の征服者であるからである。その人は、向かう所どこでも世を征服する。征服王ウィリアムは、剣と火をもって英国にやって来たが、征服者キリスト者が勝利をかちとるのは、親切と柔和という武器を用いる、ずっと傑出したしかたによる。清教徒時代に、ディーリング氏という卓越した敬虔な教役者がいた。彼の残した何冊かの書物は、今なお価値がある。ある日、食卓に着いていた彼を、ひとりの不作法な男が侮辱し、一杯の麦酒を彼に浴びせかけた。だが、この善良な人は、単に自分の手巾を取り出し、顔を拭くと、夕食を続けた。その男は再び挑発して同じことをし、三度もそうしては、悪罵と冒涜の言葉を浴びせかけた。ディーリング氏は何も答えず、自分の顔を拭いただけであった。すると、三回目の時に、その男がやってきて、彼の足元に膝まずいて云った。旦那が私に示した、そのキリスト者らしい柔和さの壮観と、優しい憐れみに満ちた愛のまなざしは、全く自分を打ち負かしてしまいました、と。それで、この善良な人は、悪人の征服者となったのである。いかなるアレクサンドロスにもまさって偉大なのは、このような度重なる侮辱に耐えることのできる人である。また、聖なるドッド氏は、町通りで悪態をついていた人に話しかけたときに口元を殴られ、歯を二本折ったという。だが、この聖なる人は顔から血を拭い、自分に襲いかかった者に向かって云った。「この歯を全部折っても良いですから、一言だけお話しさせていただけませんか。あなたの魂が救われるようにしたいのです」。そのとき、その男は、このキリスト者らしい忍耐によってかちとられた。驚くべきことに、激烈な性質は、優しい性質に降伏する。結局において、征服するのは強い者ではなく、弱い者なのである。知っての通り、狼と羊の間には長い確執があった。そして、羊は決して戦いに赴くことがなかったが、彼らは勝利を収めた。今日の世界には、狼よりもずっと多くの数の羊がいる。わが国においては、狼は全滅してしまったが、羊は幾万倍にも増えた。鉄床は、金槌がそれを打ち叩く間ずっと立っている。だが、鉄床一個によって、何本もの金槌が使いものにならなくなってきた。

 そして、優しさと辛抱強さは、究極的には勝利を得るであろう。今この時、誰の方がより強大だろうか? カエサルとその諸軍団だろうか、キリストとその十字架だろうか? 私たちは、誰がじきに瀟足するか知っている。――マホメットとその鋭利な偃月刀だろうか、キリストとその愛の教理だろうか。あらゆる地上の勢力が転覆されるとき、キリストの御国はなおも立っているであろう。柔和さより強大なものは1つもなく、柔和な者こそ、その意味で地を相続するのである。

 彼らは別の意味でも地を相続する。すなわち、彼らは、いま自分の有しているものを楽しんでいる。もしも誰か人生を余すところなく楽しんでいる人がいるとしたら、その人が柔和で、穏やかな霊をした人であることはたちまち分かる。人生を楽しむことは、富を所有することに存してはいない。多くの富者たちは全くみじめであり、多くの貧者たちは同じくらいみじめである。あなたは、人生のいかなる境遇にあろうと、自分の心の状態に従ってみじめにもなれば、幸福にもなる。柔和な人は感謝にあふれ、満ち足りている。そして、満ち足りていることこそ人生を楽しみあるものとするのである。何の変哲もない食事についてもそうである。ここに、ひとりの人が家に帰ってきて夕食をとろうとしている。彼は頭を垂れてこう云う。「今から受けようとしているものについて、主よ、まことに私たちを感謝させ給え」。それから目を開けると、ぶつくさ云う。「何とまあ! また羊の冷肉かよ?」 彼の精神は、次のような善良な老キリスト者の精神とはかけ離れている。彼は家に帰り着いて、二匹の鰊と二、三個のじゃが芋を食卓に見いだして、それらについてこう食前の祈りをささげたという。「天のお父様。感謝いたします。あなたは地と海をくまなく捜し、私たちにこのような楽しみを与えてくださいました」。彼の夕食は、もうひとりの者のそれと大差なかったが、彼はそれに満ち足りていて、そのことによってそれを格段に良いものとしていたのである。おゝ、金を腐るほど持っていながら口にされる不平と、ごく僅かしか持たない他の人々が示す楽しみよ。というのも、そこに満ち足りた心がありさえすれば野菜だけの食卓は、肥えた牛の乗った食卓[箴15:17]よりも甘やかだからである。「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない」[ルカ12:15]。むしろ、神が与えてくださるいかなるものについても感謝する、柔和で穏やかな霊にある。

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、それは地を相続することではありません。地の一部だけを相続することです」、と。よろしい。それは、私たちが必要するだけのものは相続するということである。ある意味で柔和な者は、本当に全地を相続しているのである。しばしば私は、柔和で穏やかな精神をしているときには、回りの何もかもが自分に属しているかのように感じてきた。ある紳士の庭園の中を散歩したことがあるが、私がそこを散歩できるようにと彼がそれを見事と整えてくれていることを、私は非常にありがたく思った。私は彼の邸宅の中に入り、彼の絵画陳列室を見ては、このように素晴らしい絵画を何枚も購入してくれたことに非常に感謝した。そして、彼がもう何枚か余計に買ってくれるようにと希望した。そうすれば、この次に来たときにはそれを見られるからである。私は自分がそれを買う必要がなかったこと、召使いたちに給料を払ってそれを見張らせておかなくともよいこと、すべてが私のためになされたことを嬉しく思った。また、私は時々、丘の上から、どこかの広大な平野か、どこかの閑静な村か、家々や商店の連なる工業都市を見下ろしては、そのすべてが自分のものだと感じることがあった。私は、その家賃を取り立てる苦労をしなくともよかったが関係ない。ことによると、その人々はそれを払いたがらないかもしれない。私は、ただ太陽が照らしていたその場所を眺めるだけで良かった。それから、天を見上げてこう云った。「私の父よ。これはみなあなたのものです。ですから、みな私のものでもあります。私は神の相続人であり、イエス・キリストとの共同相続人[ロマ8:17]なのですから」。だから、この意味で、柔和な心をした者は全地を相続するのである。

 彼は別の意味でもそれを相続する。――すなわち、他の人々が何を有していようと、彼は、彼らがそれを有していることを嬉しく思う。ことによると、彼は歩いていて、疲れるかもしれない。そこへ誰かが馬に乗って通りかかると、彼は自分に向かって云う。「神には感謝すべきかな。あの人は歩く必要がなく、私のように疲れずにすむのだから。誰かがこのように辛い目に遭わずにすむというのは嬉しいことだ」。彼は非常な重労働をしても、ことによると、ごく僅かな稼ぎしか得られないかもしれない。だが、彼の隣に住んでいる労働者は彼の二倍もの賃金をもらっている。それで彼は云う。「神には感謝すべきかな。私の隣人は、私のように苦しい状況にはないのだから。彼が私のような苦境にあるのは見たくないものだ」。時として、私が病気にかかっているとき、誰かがやって来てこう云うことがある。「今お見舞いしてきた人は、先生よりも重い病状でしたよ」。だが、私は決してそのような言葉から何の慰めも得ることなく、普通はこのように答える。「あなたの言葉を聞いて、前よりも気分が悪くなりましたよ。私よりも重病の人がいるなどといって」。柔和な者にとって、それよりも大きな慰めはこのことである。「私は病んでいるが、たくさんの人たちが元気にしているのだ」。あるいは、このことである。「私は盲目だが、神はほむべきかな。私の愛する兄弟たちは花々や太陽を見ることができるのだ」。あるいは、こうである。「私はびっこだが、他の人たちが走れることには感謝だ」。あるいは、こうである。「私は霊が抑鬱しているが、甘やかな声で歌っている人々がいることを嬉しく思う」。あるいは、こうである。「私は梟だが、雲雀たちが空を舞い、歌っていること、鷲たちが太陽めがけて舞い上がることを喜ばしく思う」。柔和な心をした者は、他の人々が幸せであることを知って嬉しく思い、彼らの幸福が彼の幸福となる。彼にはおびただしい数の天国がある。他のあらゆる人の天国が彼にとって天国となるからである。他のたくさんの人々が天国にいると知ることは、彼にとって天国となるであろう。また、彼がそこで目にするひとりひとりの人について、彼は主をほめたたえる。柔和さによって私たちは、他の人々のものを楽しむことができるようになるが、私たちがそれを楽しむからといって、彼らの楽しみが減るわけではない。

 また、柔和な心をした者が地を相続するのは、この意味においてである。――もし彼の身近な所に善良な人がいると、彼は確実にその人と会うことができる。私の知っているある人たちは、教会に加わり、しばらく教会の中にとどまった後で、こう云ってきた。「ここには全く愛がない」。さて、ある兄弟が、「ここには全く愛がない」、と云うとき、私には分かる。その人は鏡を見ているのであり、そこに映った自分自身の姿によって、そう云ったのだ、と。そうした人々は、信仰を告白する教会内における欺瞞や偽善について声高に騒ぎ立て、そうすべきそれなりの理由もある。ただ残念なことに、彼らはそこにいる善良な人々、真の聖徒たちをも見ることはできない。主は、ご自分を愛し、恐れる人々を――主が事を行ない、その宝を手にする[マラ3:17]日にご自分のものとなる真の聖徒たちを――なおも有しておられる。そして、もし神がこれほど賞賛しているものが私たちに見えないとしたら残念なことである。私たちは、柔和な者であれば、他の人々の美点をずっとたやすく見てとることができよう。『天路歴程』の続編には、非常に美しい箇所がある。それによると、基督女と慈悲子が二人とも浴室で洗い、白くて滑らかな立派な亜麻布の衣装を着たところ、「二人は互いに他を自分よりもまさっているとほめ始めた」*2。もし私たちもこのことをするなら、私たちは、私たちの中のある者らほどは、このあわれな現世のことを悪く考えず、むしろ、神に感謝し、その御名をほめたたえながらその中をくぐり抜けていくことであろう。そして、そのようにして地を相続するであろう。

 優しい気立てと、穏やかな霊と、そのような心持ちを保つ恵みを有しているとき、あなたはいかなる環境の下にあろうと地を相続するであろう。苦難がやって来るようなことがあれば、柳に風と受け流し、もっと頑丈な木々がこうむるような損害を免れるであろう。ちょっと苛立たされるようなことがやって来るようなことがあっても、あなたはそれに苛立たないようにし、こう云うであろう。「少し辛抱すれば、これはみな過ぎ去るのだ」、と。私が、レイトン大主教を常ならぬほど賞賛したのは、彼の伝記の中に記されていた、ある事件について読んだ時だったと思う。彼はスコットランドの小さな家に暮らしており、その家の中にはひとりしか下男をかかえていなかった。その下男のジョンは、非常に物忘れがはなはだしく、ある朝、自分の主人よりも早く起き出したとき、日帰りの釣りに行きたいと思った。それで出かけて行き、自分の主人を閉じ込めてしまった。彼は夜遅くまで釣りをして、主人のことは全く忘れていた。では彼が戻って来たとき、この主教は彼に何と云ったと思うだろうか? 単にこう云っただけだった。「ジョンや。今度日帰りの釣りに出かけるときには、私に鍵を残して行ってくれないかね」。彼は、祈りと学びとの幸いな一日をひとりで過ごしていたのである。もしそれが私たちの中のある者らだったとしたら、かんかんにいきり立ち、苛立ち、ジョンが戻って来たときには、しこたま叱りつけていたことであろう。そして、彼も叱責されて当然であったろう。だが、善良な人間が、この男について怒るのはふさわしいことだとは思わない。この事件は、本日の聖句の良い例証だと思う。

 しかし、この聖句は、ここまで述べたことよりもずっと多くのことを意味している。というのも、「その人は地を相続する」、という約束は、こうも読めるからである。「その人はを相続する」、と。すなわち、約束の国、天的なカナンをである。こうした人々は、天国を相続する人たちである。というのも、天上にいる者たちはみな、柔和な心をしているからである。そこには、いかなる争いもない。高慢は、そこに入り込めない。怒り、憤り、悪意は、決して天の都の大気を汚染しない。そこでは、すべての者が《王の王》の前に額ずき、すべての者がこの方との、また、互いとの交わりを喜ぶ。あゝ、愛する方々。もし私たちが天国に入るようなことがあるとしたら、私たちは野心も、不満も、憤りも、身勝手さも、利己心も振り捨てなくてはならない。願わくは神の恵みによって、私たちからこうしたものが一掃されるように。というのも、こうした悪のパン種が少しでも魂にある限り、神がおられる所に私たちは行くことができないからである。

 それから、愛する方々。この聖句はさらに別のことをも意味している。――私たちはこの地を間もなく相続するはずである。ダビデはこう書いている。「柔和な人は地を受け継ごう。また、豊かな平和をおのれの喜びとしよう」[詩37:11 <英欽定訳>]。この地上が火によって浄化され、神が人間たちのわざを焼いて灰とし、腐敗した人類のあらゆる痕跡が灼熱によって滅ぼされた後で、この地上は再び備えつけられ、御使いたちが新しい歌を歌いながら降下し、新しいエルサレムが神のもとを出て天から下って来る。それからは、この、かつては戦争があったこの地上には、二度と進軍喇叭は鳴り響かない。剣も槍もなくなり、もはや人々が戦の方法を学ぶことはなくなる。柔和な者はそのとき、国を所有し、あらゆる丘と低地は喜ぶ。また、長い千年期の時代を通じて、あらゆる豊穣な平野は喜びと、平和と、楽しみとの叫びでどよめく。願わくは主がそれをお送りになり、私たちがみな、この新しいエデンを所有する柔和な者の間にあるように! その花々は決してしおれることなく、そこにはいかなる蛇の跡も見られることはないのである。

 しかし、これは恵みのわざでなくてはならない。私たちが新しく生まれない限り、私たちの高慢な霊は決して柔和にはならないであろう。そして、もし私たちが新しく生まれているとしたら、私たちは生ける限り、自分が、あの柔和で、へりくだっていたイエスに従う者であると示すことを自分の喜びとしようではないか。私は、そのイエスの恵み深いおことばで、この講話をしめくくることにしたい。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」[マタ11:28-30]。願わくは、そうならんことを。キリストのゆえに! アーメン。

 


(訳注)

*1 シェイクスピア、『ジュリアス・シーザー』、第一幕第二場、(新潮文庫版、福田恆存訳、1968、p.18-19)。[本文に戻る]

*2 ジョン・バニヤン、『天路歴程 続編』、p.28、(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985。[本文に戻る]

第三の幸福の使信[了]



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