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第四の幸福の使信

NO. 3157

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1909年8月12日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年12月14日、主日夜


「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」。――マタ5:6


1873年、スポルジョン氏は、彼のいわゆる、《幸福の使信》に関する「一連の金言的説教」を行なった。《山上の説教》および《幸福の使信》全体についての序言的な講話の後で、彼は、それぞれの使信を個別に説教していく心算であった。だが、病か、何か他の特別な理由のために、その目的を完全には果たせなかった。しかしながら、《幸福の使信》についての《説教》は八篇あり、そのうち三篇はすでに『メトロポリタン・タバナクル講壇』で刊行されている[No.422 『平和をつくる者』、No.2,103 『幸いな飢え渇き』、No.3,065 『第三の幸福の使信』]。――他の五つはこのたび、これから毎週発行されることになり、《八月の月刊説教》となるであろう(定価、五ペンス)。各《幸福の使信》および《山上の説教》全体についてのスポルジョン氏の《講解》は、『御国の福音』(現在、3シリング6ペンスで販売中)の中にも記されている。同書は、氏が1892年に「故郷へ召される」、ほんの直前まで、マントンにおいて執筆していたものである。


 

 

 前回指摘したように、この7つの《幸福の使信》は、前に来るものを越えて、かつ、そこから生じて上昇して行く。義に飢え渇いていることは、柔和なこと、あるいは、悲しんでいること、あるいは、心貧しくあることよりも高いことである。しかし、義に飢え渇いている者となりたければ、まず、そうした予備的な段階を経るしかない。自分の魂の貧困さを確信し、罪ゆえに悲しまされ、神の前で謙遜な者とされるしかない。すでに示したように、柔和な者とは、神がこの世で自分に与えておられるものに満ち足りている人々である。その野心はなくなっており、その憧れ求めるものは、月の照らす下にはない。非常に結構。さて、この世に飢え渇かなくなった上で、その人は別の、そして、より良いものに飢え渇くようになっている。こうした卑俗な、朽ちていく物事に別れを告げた彼は、自分の全性質をひたむきに傾けて、天的な永遠のものを追求している。それが、ここで「義」と述べられているものである。人は、まず最初に地上的な種々の追求への情熱を癒されて始めて、天的な物事への熱情を感じることができるのである。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」[マタ6:24]。そして、古い利己的な原理が放逐され、謙遜で柔和な者とならない限り、義に飢え渇き始めることはないであろう。

 I. ただちに本日の聖句の考察へと進むことにして、ここでまず第一に注意したいのは、《この幸福な人が願望している対象》である。彼は、義に飢え渇いている。

 神の御霊がその人を生きた者とし、本当に幸いな人とするや否や、彼は、神の前における義を切望し始める。彼は自分が罪人であること、また、罪人として自分が不正な者であり、それゆえ、《いと高き方》の法廷で罪に定められていることを知っている。だが、彼は義なる者になりたいと欲する。自分の不義が取り除かれ、過去の汚れが拭い去られることを願望する。いかにして、このことが可能となるだろうか? 彼が何度も何度も発する問いはこうである。「いかにすれば、私は神の前で義人とされることができるだろうか?」 そして、彼を満足させることはただ1つ、こう告げられることである。すなわち、イエス・キリストが、私たちにとって、神の「知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられ」[Iコリ1:30]た、ということである。そして、キリストが罪人に成り代わって死なれたことを見てとるとき、彼は、いかにすれば罪人のもろもろの罪が取り去られるかを理解する。また、キリストがご自分のためではなく、不正な者たちのために完璧な義を作り出してくださったことを了解するとき、いかにして自分が、転嫁により、神の前でイエス・キリストの義を通して義人とされるかを了解する。しかし、そのことを知るまでは、義に飢え渇いており、このように飢え渇くことにおいて幸いである。

 義認に関する限りキリストが自分の義であることを見いだすと、次にこの人は、義なる性質を得たいと切望する。「悲しいかな!」、と彼は云う。「私の罪が赦されていると知るだけでは十分ではない。私の心の内側には、罪の泉があり、そこから絶えず苦い水が沸き上がっているのだ。おゝ、私の性質が変えられ、罪を愛するこの自分が、善を愛する者となれればどんなに良いことか! 今は悪に満ちている私が、聖さに満ちた者となれればどんなに良いことか!」 彼は、このことを求めて叫び始め、その叫ぶことにおいて幸いである。だが、彼が安らぎを得るのは、ただ神の御霊が彼をキリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]としてくださる時にほかない。そのとき、彼は心の霊において新しくされる[エペ4:23]。また、神は彼に、彼が飢え渇いているもの、すなわち、義の性質を、少なくともある程度までは与えてくださったのである。彼は死からいのちへ[Iヨハ3:14]、また、暗闇から光へ[使26:18]と移っている。彼は、以前愛していた事がらを今は憎んでおり、そのとき憎んでいた事がらを今は愛している。

 新生し、義と認められた後でも、彼はなおも別の意味で義を慕いあえぐ。彼は、聖められたいと願う。新しく生まれることは、聖化の開始であり、聖化は新生において開始したみわざが継続していくことである。それで、この幸いな人は叫ぶのである。「主よ。私が自分の性格において義となることを助けてください。あなたは、内なる部分の真実さを願っておられます。私の性質全体をきよく保ってください。いかなる誘惑にも私を支配させないでください。私の高慢を制圧してください。私の識別力を矯正してください。私の意志を抑えてください。私を、私の存在の内奥の宮において聖い人間にしてください。それから、私の同胞の人々に対する私のふるまいを、あらゆる点でしかるべきものとしてください。語るときには、彼らが私の言葉を常に信じられるようにしてください。行動するときには、誰も真実には私を不正ゆえに非難できないようにしてください。私の生涯を何の曇りもないものとしてください。それが、可能な限り、キリストの生涯が再び書き記されたものとなるようにしてください」。このようにして、見ての通り、心に幸いな人は義認と、新生と、聖化とに飢え渇いているのである。

 これらすべてを有したとき、彼は、恵みにおける堅忍を切望する。彼は、廉直に保たれることを渇望する。1つの悪習慣に打ち勝ったなら、他のすべてを引き倒すことを渇望する。1つの美徳を獲得すれば、より多くを獲得したいと渇望する。神が彼に多くの恵みを与えてくださると、より多くを渇望する。そして、いくつかの点で自分の《主人》に似た者となっても、自分の数々の欠陥を察知し、それらについて悲しみ、一層イエスに似た者になりたいと渇望する。彼は常に、正しくされること、また、正しく保たれることに飢え渇いている。だから、最終的堅忍を、また、完璧さを祈り求める。彼は、義に飢え渇くあまり、自分の主のかたちのうちに目覚めるときまで決して満足しないだろうと感じる。自分の最後の罪が制圧され、もはや悪への性向がなくなり、誘惑の銃声が聞こえなくなるまで、彼は決して望みがかなわないであろう。

 そして、このような人は、愛する方々。自分の同胞たる人々の間で、義が押し進められるのを見たいと誠実に願望する。彼が望むのは、あらゆる人々が、自分にしてもらいたいと思うことを行なうようになることである。そして、彼は、自分自身の模範によって、そうすることを人々に教えようと努める。彼は、何の欺瞞も、何の偽りの証言も、何の二枚舌も、何の窃盗も、何の好色さもないことを願う。正しさが全世界で支配することを願う。あらゆる人が祝福されえるとしたら、また、いかなる違反もなくなって刑罰の必要がなくなったとしたら、それを幸いな日とみなすであろう。彼は、圧政が幕を閉じたのを聞きたいと切望する。いずれの国にも正しい政府を見たいと思う。戦争がやむこと、また、武力や剣の鋭利な刃先ではなく、正しさの支配と原理が全人類を支配するのを見たいと思う。彼の日ごとの祈りはこうである。「主よ。あなたの御国が来させてください。あなたの御国は義と平和なのですから」。何らかの不正がなされるのを見るとき、彼はそれを嘆く。それを変えられないとき、ますます嘆く。そして、自分にできる限りの手を尽くして、あらゆる種類の不正に対して抗議する。彼は義に飢え渇いている。自分自身の政党が権力を握ることに飢え渇くのではなく、義が国で行なわれるようになることに飢え渇いている。自分自身の意見が注目を浴びることや、自分自身の学派や教派が人数や影響力を増すことに飢え渇くのではなく、義が前面に押し出されることに飢え渇いている。自分自身の想像上の物に従って、同胞の人々を左右できるようになることを渇仰するのではなく、正しく真実であることのために同胞の人々に影響を及ぼせるようになりたいと願う。というのも、彼の魂のすべてを燃え上がらせているのは1つの願望――義――だからである。自分自身に対する義、神の御前での義、人と人との間の義だからである。これを見たいと彼は切望し、このことを求めて彼は飢え渇いている。そして、その点でイエスは、彼が幸いだと云われるのである。

 II. さて、《この願望そのものに注意するがいい》

 彼は、義に飢え渇いていると云われる。――それを求める彼の熱烈な願望が二重に描写されている。確かに、それに飢えているというだけでも十分だったであろう。だが、彼は渇いてもいる。彼の霊的性質のありとあらゆる欲望、願望、渇仰が、他の何にもまして彼が欲しているもの、すなわち、義に向けられている。彼は、自分がそこまで達していないことを感じ、それゆえ、それに飢え渇いている。また、彼は他の人々がそれに達していないことを嘆き悲しみ、それゆえ、彼らもそれを得ることを彼らのために飢え渇いている。

 この情動については、まず最初に、それは現実のものである、と云えよう。飢え渇きは、空想ではなく、事実問題である。例えば、腹を空かしていて、ほとんど飢え死にしそうな人にあなたが出会ったとする。そして、彼にこう云ったとする。「たわけたことですよ。さっさと、そんなことはみな忘れてしまいなさい。それは単に、あなたの気まぐれなのですよ。だって、そうしたければ食物などなくとも、しごく結構に生きていられるのですからね」。何と、その人は、あなたからからかわれているのが分かるであろう。また、救命艇で海に投げ出され、漂流し続けていた、何人かのあわれな人々、また、のどの渇きを増すだけの塩水以外、何も唇を湿らすものがないまま何日間も過ごしていた人々を、もしあなたが驚かし、こう云えたとしたらどうだろうか? 「渇きですと! それはあなたの空想でしかありませんよ。あなたは神経が高ぶっているのです。それだけです。あなたに飲み物などいりませんよ」。その人はすぐにあなたに云うであろう。そんな馬鹿なことは信じるものか、自分は水を飲まなければ死んでしまうのだぞ、と。この世の何にもまして現実的なものは、飢えと渇きである。そして、真に幸いな人がいだいている、義に対する情動、願望、渇仰は、それを飢えと渇きにたとえるしかないほど現実的なものなのである。彼は、是が非でも罪赦されなくてはならない。是が非でもキリストの義を着せられなくてはならない。是が非でも聖化されなくてはならない。そして、彼は、もし罪が取り除かれなければ、自分の心が張り裂けてしまうだろうと感じる。彼は聖くされることを懇願し、切望し、祈り求める。この義がなければ満足できない。それで、これを求める彼の飢え渇きは非常に現実的なものなのである。

 また、それは現実のものであるだけでなく、自然なものでもある。糧を必要としている人々が飢えるのは自然なことである。人々に対して、いつ飢えるべきか、いつ渇くべきか指示する必要などない。人は糧や水が得られなければ飢えるし、渇くのが自然である。そのように、神の御霊が私たちの性質を変えてくださるとき、その新しい性質は義に飢え渇く。古い性質は決してそうしなかったし、決してそうできなかったし、決してそうしようとはしなかった。それは、豚の食べるいなご豆[ルカ15:16]に飢えていた。だが、新しい性質は義に飢える。そうせざるをえない。そうならざるをえない。生きた者とされた人に向かって、「聖さを願望しなさい」、と云う必要はない。何と、その人はそれを所有するためなら両目でもくれてやろうとするであろう。罪の確信の下にある人に向かって、「キリストの義を願望しなさい」、と云う必要はない。その人は自分のいのちを投げ出しても、喜んでそれを獲得しようとするであろう。その人は、自分の性質の必要そのものによって、義に飢え渇いているのである。

 そして、この願望が描写されている用語から察知されるところ、これは、きわめて激しい願望である。飢えよりも激しいものがあるだろうか? 人が何の食べ物も見いだせないとき、その飢えは、その人を呑み込んでしまうように思われる。糧を求めるその人の熱望はすさまじいものである。聞いた話だが、《パン暴動》の際、ある大都市が炎上したとき、パンを求める男女の声は、「火事だ!」、という叫びよりもすさまじく響いたという。「パンを! パンを!」 パンを有していない人は、是が非でもそれを手に入れなくてはならないと感じる。そして、渇きという渇仰は、それよりはるかに激越である。飢えの苦しみは一時的に和らげることができても、渇きはいのちそのものを重荷としてしまうと云われる。人は水を飲むか死ぬしかない。よろしい。さて、そのようなものが、神に祝福されている人の経験する、義への激しい切望である。彼は、切迫してそれを欲するあまり、その心の苦悶の中で、それなしには生きられないと云うのである。詩篇作者は云う。「私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます」[詩130:6]。

 生きた者とされた人が義を欲するほどの願望は他のどこにもない。こういうわけで、この願望はしばしば、非常な苦痛を伴うものとなる。飢え渇きは、ある特定の点まで耐え忍ばれると、非常に激しい苦痛を伴う。そして、キリストの義を求めている人は、それを見いだすまで名状しがたい苦悩に満たされる。そして、自分の数々の腐敗と戦っているキリスト者は、こう叫ばされる。「私は、ほんとうにみじめな人間です!」[ロマ7:24] キリストが彼に代わって勝利を得ておられることを学ぶまではそうである。そして、国々を矯正し、自分の同胞たちを正しく善であることに従わせたいと願っているキリストのしもべは、しばしば名状しがたい激痛にとらわれる。彼は主の重荷を担い、かかえて歩くには重すぎる重荷を持った人のように自分の仕事に取り組む。魂にとって実に痛ましいのは、義に飢え渇かされることである。

 本日の聖句の表現がやはり暗示しているのは、これが最も精力的な願望であるということである。飢えている人が、駆り立てられて行なわないことが何かあるだろうか? 古いことわざに、「空腹は石の壁をもうがつ」、という。そして、確かに、義に飢え渇いている人は、それを得るためには何であれ打ち破るであろう。私たちは知っているではないだろうか? 真摯に悔悟した者は、福音を聞ける所へ行くためとあらば何哩の旅も厭わないということを。その人は、しばしば夜の休息を失い、その罪赦されることを執拗に求める神への嘆願によって、ほとんど死の門口まで至るではないだろうか? そして、自分は救われているが、他の人々が救われることを見たいと願っている人について云えば、いかにしばしば彼は、彼らを正しい道に導きたいというその願望によって、故国の種々の慰安を投げ出して遠国に赴くことであろう。いかにしばしば彼は義のための熱心がその霊の中で力強く働くために、わが身に蔑みと軽蔑を招くことであろう! 私は、そうした飢え渇いている人々をわが国の諸教会の中に数多く見たいと思う。そのために、わが国の諸処の講壇で説教する人々、《日曜学校》で骨折る人々、宣教所で働き、是が非でもキリストの御国を来たらせない限り、ほとんど生きていられないかのように感じる男女をである。聖霊がキリスト者の魂に植えつけてくださる、義への聖なる渇仰は専制的なものとなる。それは単に精力的であるだけでなく、彼の全存在を支配してしまう。このために、彼は他のあらゆる願いや願望を脇に置く。彼は敗北者となるかもしれなくとも、義でなくてはならない。あざ笑われるかもしれないが、自分の誠実を堅く保たなくてはならない。蔑みに耐えることになるかもしれないが、真理を宣言しなくてはならない。「義」を彼は有さなくてはならない。彼の霊がそう要求する。他のあらゆる情動や性向を圧する1つの欲望によってそうする。そして、真に「幸い」なのは、そうしたことが云える人である。

 というのも、よく聞くがいい。義に飢えるのは、霊的いのちの1つのしるしだからである。霊的に死んでいる者は誰もこのようにふるまったことがない。いかなる地下墓地においても、決して死人が飢え渇いているのが見いだされたことはないし、今後も決してないであろう。もしあなたが義に飢え渇いているとしたら、あなたは霊的に生きているのである。そして、これは霊的な健康を示す1つの証拠でもある。医者たちはあなたに告げるであろう。良い食欲は人のからだが健康な状態にあるしるしの1つとみなされる、と。そして、魂もそれと同じである。おゝ、キリストをがつがつ貪る欲望があればどんなに良いことか! おゝ、最高の物事に対して貪欲であればどんなに良いことか! おゝ、聖潔をむさぼるようであれば、――事実、正しく、善で、愛すべき、また、評判の良いことすべてに飢え渇いているとしたら、――どんなに良いことか。願わくは主が私たちに、こうした激しい飢え渇きを送ってくださるように! これは、自分に満足し、自分を義とする思いとは正反対の状態である。パリサイ人たちは決して義に飢え渇くことがない。彼らは、自分の欲するあらゆる義を有しているし、向こう側で、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、と叫んでいるあわれな取税人に分けてやれるものさえ多少は持っていると考えている。もしある人々が自分は完璧だと思っているとしたら、その人が飢え渇きについて知ることなどありえるだろうか? そうした人々は、すでに自分の欲しているすべてに満たされており、自分の余分な富を、自らの不完全さにため息をついているあわれな兄弟に与えることができるとも考えている。私について云えば、私は飢え渇きというこの祝福をなおも有していることに全く満ち足りている。というのも、その祝福と並び立っているもう1つの経験があるからである。すなわち、満たされるという経験である。そして、ある人がある意味で満たされるとき、別の意味では、さらにいやまさって飢えるし、このことによって、完全な《幸福の使信》が成るのである。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」。

 III. このように、真に幸いな人が目指す願望を描写したので、これから第三のことに進まなくてはならない。すなわち、《この祝福そのもの》について語ることである。それは、義に飢え渇いている者に対してキリストが宣言しておられる祝祷である。「その人は満ち足りるからです」。

 これは、他とくらべようもない祝福である。他の誰も「満ち足り」はしない。人は食事を願望し、それを食べ、しばらくの間は満たされる。だが、すぐに再び空腹になる。人は飲み物を願望し、それを得るが、すぐに再びのどが渇く。しかし、義に飢え渇いている者は、「満ち足りる」あまり、決して以前に渇いていたようなしかたでは渇くことがない。多くの人々は黄金に飢え渇くが、誰も自分の魂を黄金で満ち足らせたことはない。できない注文である。これまで世に生きていたいかなる富者も、決して自分の好むだけ全く富んだことはなかった。人は自分の魂を世俗的な所有物で満たそうと努めてきた。畑に畑を加え、農場に農場を、町通りに町通りを、町に町を連ねて、ついには自分たちが国の中にひとり残されるほどとなった。だが、いかなる人も自分の魂を地所で満たすことができたことはない。それがいかに広大なものであっても関係ない。もう何町歩か足りないために、その角を丸まったものにできない。あるいは、その農場を自分の領地の本体に加えることができない。あるいは、もうほんの少しの高台があれば満足できるのに、それが得られないため、なおも不満足のままとどまる。アレクサンドロスは世界を征服したが、それは彼の魂を満ち足らそうとはしなかった。彼は、征服するためのもっと多くの世界を欲した。そして、たといあなたや私が十数個の世界の持ち主になれたとしても、また、全宇宙をわがものと呼べたとしても、私たちの不滅の霊を満たすに足るだけのものを見いだすことはないはずである。私たちは、単に壮大に貧しくなり、帝国を有する乞食たちに仲間入りするにすぎない。神がお造りになった人間の魂は、神ご自身のほか何をもっても満ち足りることができないようになっている。生きた者とされた人は、自分に植えつけられた飢え渇きによって、自分の必要を識別し、ただキリストだけがその必要を満たせることが分かる。キリストに達するとき、彼は満足する。私が思い出す、ひとりの愚かな婦人は、何年か前に私に向かって、どうか先生の運勢を告げさせてくださいと頼んだ。私は彼女に云った。「私はあなたの運勢を告げることができますが、自分の運勢を知りたいとは思いません。それならすでに分かっています。私は自分の欲する一切のものを持っているからです」。「しかし」、と彼女は云った。「今後何年かにわたって、先生に何かを約束することもできないでしょうか?」 「できませんね」、と私は答えた。「私は何も欲しくありません。私には自分の欲するすべての物があります。私は完璧に満足しており、完璧に満ち足りています」。そして、私は同じことを今晩も云うことができる。私は、誰かが私に差し出せるだろうもののうち、私の満足を増し加えるだろう、いかなるものも知らない。もし神が人々の魂を祝福して、彼らを救い、ご自分に栄光を帰されさえするなら、私は満足で満たされ、それ以上に何も欲さない。私も、キリストを見いだしてもいない人が、そのようなことを正直に云えるとは思わない。だが、もしその人が信仰によって《救い主》をつかんでいるとしたら、その人は、それとともに、常に祝福をもたらすものをつかんでいるのである。「その人は満ち足りるからです」。これは、他とくらべようもない祝福である。

 また、この祝福は、他とくらべようもないものであるのと同じく、最も適切なものである。食物で満ち足らせる以外に、いかにしてその人の飢えを取り去ることができるだろうか? また、飲み物で満ち足らせるか、少なくとも十分な量で満足させる以外に、いかにしてその人の渇きを取り除けるだろうか? だから、義に飢え渇いている者についてのキリストの約束は、「その人は満ち足りる」、なのである。彼は義を欲している。それで義を得ることになる。「その人は満ち足りる」。彼は神を欲しており、神を得ることになる。彼は新しい心を欲している。それで新しい心を得ることになる。彼は罪から守られたいと欲している。それで罪から守られることになる。彼は完璧にされたいと欲しており、完璧にされることになる。彼は罪を犯す者がひとりもいない所で暮らしたいと欲している。それで、取り去られて、いかなる罪人も永久永遠にいない所に住まうことになる。

 他にくらべようがなく、適切であることに加えて、この祝福は、非常に広大で、満ちあふれるものである。キリストは云われた。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は」――ついでのこととして、ほんの一口の飲み物を得るのだろうか? おゝ、否! ――「その人は」――時たま、ちょっとした慰めを得るのだろうか? おゝ、否! ――「その人は満ち足りるからです」。満ち足りる。そして、このギリシヤ語は、次のようにさえ訳した方が良い。「その人は飽かせられる」。その人は、自分の必要とする一切のものを十二分に得て、あり余るほどとなる。義に飢え渇いている者は、満ち足りることになる。――あふれんばかりに満ち足りることになる。これが何と真実なことか! ここにひとりの人がいて、こう云っている。「私は神の前で罪に定められています。私は自分を義とする一切の望みを捨てています」。聞くがいい。おゝ、人よ。あなたは神の御子イエス・キリストを信ずるだろうか。また、このお方をあなたの《身代わり》として、また、《代理人》として神の御前に立たせようとするだろうか? 「そうします」、と彼は云う。「私は心からこのお方を信頼します。このお方だけを信頼します」。よろしい。ならば、おゝ、人よ。知るがいい。あなたはキリストから、あなたを十分に満足させる義を受け取っているのである。神があなたに正当に要求できるだろう一切のものは、ひとりの人の完璧な義であった。というのも、一個の人である以上、それだけが、神に提出するようあなたに期待される義のすべてだからである。だが、キリストの義において、あなたはひとりの人の完璧の義を得ており、それ以上に、神の義をも得ている。それを考えてみるがいい! 父祖アダムは、その完璧さにおいて、人の義をまとっていたし、それは、持続している限りにおいて、見るからに麗しいものであった。だが、もしあなたがキリストを信頼するなら、あなたは神の義をまとっているのである。キリストは、人であるのと同じくらい神であられたからである。さて、人がその経験に達し、次のことを知るとき、すなわち、イエスを信じた以上、神は、あたかもイエスの義がその人自身のものであるかのようにその人をみなしてくださり、事実、キリストのものである天来の義をその人に転嫁してくださると知るとき、その人は満ち足りる。しかり、満ち足りる以上である。飽かせられる。彼の魂が願望しうるだろう一切のものを、彼はすでにキリスト・イエスのうちに所有している。

 先に告げたように、その人は新しい性質をも欲していた。彼は云った。「おゝ、神よ。私は、こうした悪しき性向の数々を取り除きたいと切望します。私のこの汚れたからだが、あなたにふさわしい宮となることを欲しています。私は、私の主なる《救い主》のようにされたいのです。私が天国にあって永久永遠にこの方とともに歩くことができるように」。耳を傾けるがいい。おゝ、人よ! もしあなたがイエス・キリストを信じるなら、それこそあなたになされていることである。あなたは、あなたの性質の中に、神のことばによって、1つの朽ちない種を入れられている。「生ける、いつまでも変わることのない」[Iペテ1:23]ものである。それは、もしあなたがイエスを信じているとしたら、すでにあなたのうちにあり、神ご自身が死滅することがありえないのと同じくらい、死滅することがありえない。というのも、それは天来の性質だからである。「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは」、――あなたがイエスを信じたとしたら、あなたが受け入れている、そのみことばは、――「とこしえに変わることがない」[Iペテ1:24-25]。キリストがあなたに与えておられる水は、あなたのうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る[ヨハ4:14]。新生した瞬間に、1つの新しい性質が私たちに植えつけられる。その性質について使徒ペテロは云う。「私たちの主イエス・キリストの父なる神……は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました」[Iペテ1:3-4]。そして、同じ使徒はこうも云っている。信仰者たちは、「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者と」[IIペテ1:4]されているのだ、と。それは、義に飢え渇いている者にとって、幸いな始まりではないだろうか?

 しかし、さらに聞くがいい。聖霊なる神、ほむべき《三位一体》の第三《位格》は、身をへりくだらせて、やって来ては、あらゆる信仰者のうちに住んでくださる。パウロはコリントにある神の教会に宛ててこう書いている。「あなたがたのからだは、……聖霊の宮であ(る)……ことを、知らないのですか」[Iコリ6:19]。神はあなたのうちに住んでおられる。キリストにある私の兄弟姉妹。この真理に驚愕しないだろうか? 罪はあなたのうちに住んでいるが、聖霊もまたやって来ては、あなたのうちに住み、あなたから罪を追い出してくださるのである。悪魔はあなたを襲い、あなたの霊を捕えようと努め、それを自分の地獄めいた巣窟の中の者たちのようにしようとしている。だが、見よ! 《永遠者》が自ら下って来ては、あなたをご自分のやしろとしてくださる。聖霊は、あなたがイエスを信じているとしたら、あなたの心の内側に住んでおられる。キリストご自身が、「あなたがたの中におられる……栄光の望み」[コロ1:27]であられる。もしあなたが本当に義を欲しているとしたら、愛する魂よ。確かにあなたは、この地上でそれを有する。性質は変えられ、神のご性質に似たものとされる。その支配原理は変更され、罪は王位を奪われ、御父、御子、聖霊が、あなたの主また《主人》としてあなたの内側に住んでおられる。何と、いかにあなたが義に飢え渇いていようと、あなたは自分が十分に満ち足りているとみなすに違いないと思う。こうした、測り知れない数々の祝福を有している以上、そうである。

 そして、まだなおも聞くがいい。キリストにある私の兄弟姉妹。あなたは終わりまで、罪から守られ、保たれることになる。あなたをきよめ始めたお方は、決してその働きを放り出さず、あなたを、しみや、しわや、そのようなものの何1つない[エペ5:27]ものとするまでお続けになる。この方は、ご自分ができもしない、あるいは、仕上げようとも思わない働きを決してお始めにならない。ご自分が引き受けたことで失敗したことは決してなく、これからも決して失敗することはないであろう。あなたの数々の腐敗は、すでのその頭を砕かれている。また、あなたのもろもろの罪はなおも反抗しはするものの、それは断末魔のあがきでしかない。勝利を得た恵みの武器が、それら一切を打ち殺し、その争闘を永遠に終結させることになる。あなたをきょう悩ましているもろもろの罪は、イスラエル人を葦の海へと追ってきたエジプト人のようなものである。あなたは、それらを永久に見なくなる[出14:13]。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」[ロマ16:20]。そして、あなたがイエスを信じているのと同じくらい確実に、――確かにあなたは、あわれで不完全な、ちりの中の虫けらではあっても、――あなたは彼方の黄金の街路を、主とともに白い衣をまとって歩むことになる。その都の門には、いかなる汚れた者も入れず、「小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる」[黙21:27]。しかり。信仰者よ。あなたは、あなたの神に近づき、あなたの神に似たものとなる。それが聞こえるだろうか? あなたは義に飢え渇いている。あなたは、それをふんだんに得ることになる。「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる」[コロ1:12]者となるからである。あなたは神を、その言語に絶する栄光において見つめ、その純潔のきよさという、焼き尽くす火と永遠に燃える炉[イザ33:14]とともに住むことになる。あなたは、焼き尽くす火[ヘブ12:29]であられる神を見ても、恐れずにいることができる。あなたのうちには、焼き尽くされるべきものが何もないからである。あなたは、あなたの神ご自身のようにしみなく、無垢で、きよく、不滅の者となる。これは、あなたを満足させるではないだろうか?

 「あゝ!」、とあなたは云うであろう。「それは、私自身については満足です。ですが、私は、私の子どもたちが義人となるのも見たいのです」。ならば、彼らを、彼らの父と彼らの母を愛しておられる神にゆだねるがいい。そして、この神に願うがいい。神がアブラハムのゆえにイサクを祝福し、イサクのゆえにヤコブを祝福されたように、あなたの子どもたちを祝福してくださるようにと。「おゝ」、とあなたは云うであろう。「ですが、私は、私の隣人たちが救われるのも見たいのです」。ならば、あなたが自分自身の魂のために飢え渇いてきたのと同じように、彼らの魂のために飢え、彼らの魂のために渇くがいい。そうすれば、神は、彼らに対してどう話せば良いか、あなたに教えてくださるであろう。そして、おそらく、あなたが彼らの魂のために飢え渇いている以上、神はあなたを彼らの回心の手段としてくださるであろう。

 また、この真理もあなたを慰めるはずである。いつの日か、この働きすべてにわたって義が実現するであろう。何百万もの人々が今なおキリストを拒否しているが、キリストには、ご自分を拒否しないだろう1つの民がある。人類の大部分は、現在、キリストのもとから逃げ去っているが、「主はご自分に属する者を知っておられる」[IIテモ2:19]。御父がキリストに与えてくださった者たちはみな確実にキリストのもとにやって来る[ヨハ6:37]。キリストは失望することにはならず、その十字架が無駄に立てられることにはならない。「彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」[イザ53:10-11]。あなたは、偶像たちが倒れず、抑圧が終わらず、やもめたちの嘆きや、みなしごたちの涙や、暗闇の中に座し、何の光も見ない者たちのため息がやまないとき、そのために呻いても無理はない。だが、こうしたすべてには終わりが訪れる。今よりも明るい時代がやって来つつある。福音が地を覆うことになるか、キリストご自身がその現身をもっておいでになるかするであろう。そのいずれになるかは、私が決めるべきことではない。だが、いかなる形であれ、来たるべき時代に、神は何の競敵もなしに全地を統治なさることになる。このことは確信するがいい。来たるべき時には、大群衆が、大水の音、激しい雷鳴のように、こう云うことになる。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」[黙19:6]。もし私たちが義に飢え渇いているとしたら、私たちは勝者の側にいる。戦闘は、現時点では形勢不利かもしれない。聖職者たちの政略が私たちを激しく押しまくり、私たちの先祖たちが敗走させた種々の悪がいやまさる力と狡猾さとともに舞い戻ってきているかもしれない。そして、しばしの間、聖徒たちの勇気はそがれ、その軍隊は浮き足立っているかもしれない。だが、主は今も生きており、主が生きておられる以上、いずれは義だけが勝利を収めることになり、あらゆる不義、あらゆる邪道は足で踏みつけられるに違いない。戦い続けるがいい。あなたがたは究極的には勝者となるに決まっているからである。あなたがたが打ち負かされることがありえるとしたら、それは、《永遠者》ご自身が打倒されるときであり、そのようなことは決してありえない。幸いなのは、自分の信奉している運動が義なるものだと知っている者である。というのも、世界史の最終章では、その勝利が記されるに違いないと知っているからである。自分は死んでいなくなるかもしれない。種を蒔くだけかもしれない。だが、自分の息子たちが収穫を刈り取ることになり、人々は彼について深い尊敬をこめて語ることになるはずである。時代に先駆けた人、また、その後に続いた人々から誉れを受けるに値する人としてである。正しいことのために立ち上がるがいい。人よ! あなたの原理原則を固く守るがいい。キリストにある私の兄弟姉妹! きよさと義とを、あらゆるかたち、あらゆる形式において追求するがいい。何者によっても買収されたり、このほむべき《書》とその不滅の教えからそらされたりしてはならない。真実なものを追求するがいい。権力者から引き立てられているものではなく、人間的な権威の座に着いているものではなく、正義であることを追求するがいい。そして、このことを、飽くなき飢え渇きをもって追求するがいい。そうすれば、あなたは「満ち足りる」ことになる。あなたは、《真理と正義の君》がご自分の軍隊を閲兵されるとき、そこにいたいと思うだろうか? この歓呼の叫びが諸天を引き裂くとき、そこにいたいと思うだろうか? 「《王の王》、《主の主》は、そのすべての敵を征服し、悪魔とその全軍は敗亡した」、と。私は云うが、あなたはそこにいたいと思うだろうか? 主の勝利の戦利品すべてが陳列され、ほふられた《小羊》があらゆる民を統治する《王者》となり、王笏という王笏をご自分の腕の下にかかえ、君主たちの王冠という王冠が擦り切れた、無価値なものとして踏みつけられるとき、そのとき、そこにいたいだろうか? ならば、今、ここにあるがいい。――戦闘が猛り狂うここに、《王》の軍旗が広げられているここにいて、あなたの神に申し上げるがいい。「おゝ、主よ。私がキリストのうちに義を見いだし、私自身が救われている以上、私は、生きてある限りは正しく、真実なことに味方することを誓います。ですから、私を死に至るまで忠実であるようお守りください」。この講話をしめくくるに当たり私は、あなたがたの中の、イエスを信頼しているすべての人々の上に、この四番目の祝祷を宣言したい。キリストによって、山上で語られた、《幸福の使信》のこの祝祷を。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」。アーメン。

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第四の幸福の使信[了]

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