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神の忍耐について

NO. 3154

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1909年7月22日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年4月20日、主日夜


「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」。――ロマ2:4


 神の側における愛を大きく示す1つのしるしは、神がへりくだって人間たちと論じ合ってくださることである。彼らがご自分にそむいたとき、神は彼らに向かって、「わたしは、お前たちの罪ゆえに、お前たちを罰することにしよう」、と云い放ち、その脅かしを実行に移す日が来るまで、彼らのもとから立ち去ることもおできになったであろう。しかし、そうする代わりに、神はひとりでも滅びることを望まず[IIペテ3:9]、ご自身の宣言に従い、決して悪者の死を喜ばれない。かえって、悪者がご自分のもとに立ち返って、生きることをお喜びになる[エゼ33:11]。それで神は、立ち止まって諭してくださる。人が誰かから大きな罪を犯され、相手に非常な怒りを覚えているとき、普通はそこにとどまって自分の敵と論じ合いはしない。その怒りが激しすぎて、そのようなことはできない。しかし、もしその人が柔和で優しい精神の持ち主で、その揉め事が終わることを切望するとしたら、その人は相手と論じ合い始め、こう云う。「なぜあなたは、それほど私に対して不親切なことをしたのですか? なぜ私にあのような仕打ちをしたのですか? あなたは、この上もなく不正な行ないをしました。あなたには、善の感覚が全くないのですか? 私はあなたからこのような目に遭わされることは何もしていません。では、なぜ私をこのように扱ったのですか? さあ、来なさい。あなたは完全に私を憎むか、蔑むかしているのですか。さもなければ、なぜこのように私の気に障ること、私を怒らせることを行ない続けるのですか?」 このようなしかたで、だが、無限の優しさをこめて、主は罪人たちと論じ合ってくださる。だから、愛する方々。もしあなたがまだ回心していないとしたら、このことを、あなたに対する神のいつくしみの明らかな証拠とみなすがいい。神は、あなたに再び説諭の言葉を送っておられるの。神があなたの益を欲し、あなたの幸せを願っていないはずがないと考えるがいい。さもなければ、神がそのしもべにお命じになり、こうあなたに云わせたはずがない。あなたは、「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」、と。

 本日の聖句の前後関係から、明らかに分かるだろうように、パウロの時代にも今の時代と同じく、一部の人々は、人類の非常な罪深さを見てとるとともに、神が不敬虔な者をすぐには滅ぼさないことに気づいて、その事実からこう推測していた。自分たちが罪を犯しても、全くおとがめなしですむだろう、と。いかにはなはだしい罪人たちにさえ、神がその雷電を投げつけもせず、疫病か飢饉か剣による即座の完全な破滅で彼らを打つこともなさらないのを見て、こうした人々はよこしまにもこう云ったのである。「われわれがどんな罪や犯罪を犯そうと、何の違いがあるというのか? 明らかに神は眠り込んでいるか、こうした行為に目をつぶっているのだ。あるいは、神など全くいないのかもしれない。いずれにせよ、われわれは罪の中に生き、そこで大いに楽しもうではないか。そうしても何の悪い結果も生じないだろうからだ。上等な肉を食べ、甘い葡萄酒を飲み、心ゆくまで楽しんでも、誰ひとりわれわれの責任を問う者などいないだろう」。それで彼らは、神が慈愛に富んでおられるという事実そのものから、自分たちがいくら罪におぼれようと、いくら反逆に反逆を重ねようとかまわないと推断した。また、神の足が復讐を伴って来るのが遅いからといって、いざ神がやって来られるときにも、その御手は重くないだろうと想像し、こう云ったのである。「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」[イザ22:13]。こうした種類の罪人に対してこそ、パウロはこの問いを発したのである。「神の……豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」、と。私は、この場にいるあなたがたにこの問いを突きつけたいと思う。そして、こう祈るものである。聖霊がそれを、あらゆる未回心の人々の良心に突き入れてくださるように、と。

 I. さて、第一に《神の慈愛と忍耐と寛容とを尊ぼうではないか》

 使徒によって示された描写は三重である。「神の……豊かな慈愛と忍耐と寛容」。こう云ってもおそらく間違いではないはずだが、神の「慈愛」とは、神が私たちの過去の罪すべてを見過ごし、まだ、それらについて正義をもって私たちを取り扱ってはおられないあり方に言及しているのであろう。また、神の忍耐とは、私たちの現在のもろもろの罪――この日この時のそむきの罪――に言及しているのであろう。そして、神の寛容とは、私たちの未来のもろもろの罪に言及しているのであろう。というのも、神は私たちがこれからも罪を犯し続けることを知っていながら、私たちを滅ぼさず、それでも私たちを辛抱してくださるからである。悔悟せざる者に対する神の忍耐を、彼らの過去のもろもろの罪に即して考えるとき、いかにすさまじい重みが私の思いと心にのしかかることか! 何と、あなたがたの中のある人々が犯してきた罪は、口にするも恥ずべきものである。それは、光と知識に反する罪でもあって、あなたも罪と知っていたものである。それは、単に1つや2つではなく、おびただしい数の罪である。この世の何にもまして、考えうる限り最も容易なことは、神があなたを滅ぼしてしまうことであったろう。だが、神は、そうしてはおられない。あなたは、人に怒りを覚えたとき、どれだけ癇癪を抑えておけるだろうか? 五分だろうか? 三十分だろうか? 「それは長い時間だ」、とあなたは云うであろう。かりに、あなたが面と向かって侮辱されたとしたら、どれだけ沈黙を守り、それを我慢するだろうか? 一時間だろうか? 残念ながら、あなたがたの中の多くの人々はそのようなことはしようとせず、たちまち、自分に挑みかかるような不遜なことをした相手に食ってかかるのではないかと思う。ならば、あなたは、神について何と云えば良いだろうか? 神は、この場にいるある者らのことを四十年、五十年、六十年、七十年、ことによると八十年も我慢しておられるのである。彼らが生きているという事実そのものが、神にとって侮辱である。というのも、彼らは神のみこころと神の律法に反した生き方をし、しばしば面と向かって神を否定し、その憤りを招くべき冒涜によって、自分のからだと魂を地獄に落としてみろと神に挑戦することすらあったからである! おゝ、神の驚くばかりのあわれみよ! この神は、ひとりの罪人を十二箇月辛抱することがおできになる。十二箇月の五十倍さえ辛抱することがおできになる。そして、なおも我慢することができ、憐れみ深く懇願する調子で、こう仰せになることがおできになるのである。「『さあ、来たれ。いま来たれ。そして論じ合おう』、と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18参照]、と。

 それから次に、神があなたの現在のもろもろの罪を耐えておられることも、決して小さなあわれみではない。だから、今のあなたに対する神の豊かな忍耐を軽んじてはならない。あなたがたの中のほとんどの人々は、長いこと福音を聞いてきた。あなたは、いま座っているその場所に、これまで何百回となく座っては福音が宣べ伝えられるのを聞いてきた。そして、あなたが腰かけている会衆席そのものが、あなたに不利な証言をするであろう。あなたはこれほど長く福音を聞いてきたにもかかわらず、それに従うことを拒絶してきたのだ、と。あなたは、もっと真人間になると約束してきたが、決してそれを果たしたことがない。あなたは人間相手に嘘をついたのではなく、神に嘘をついてきた。自分の良心を通して神から語りかけられたときには、それをあやして眠らせてきた。神の聖霊があなたと争っておられたときには、聖霊を消すことすら行なった。だが、今この瞬間まで、神は――ことば1つ発さずに、あなたの咎ある魂を地獄送りにできる神は――そうすることを忍んでおられる。「わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか」[ホセ11:8]、と叫んでおられる。反逆者を面前に見ながら、彼に向かってこう仰せになる。「わたしは、いかにしてあなたを罪に定めることができようか? いかにしてあなたを地獄に投げ込めようか? あなたに対する私の同情は動かされている。わたしはあわれみで胸が熱くなっている」。神がこのようになさるのは実に大きな恵みである。未回心の人が地獄の外にいる一瞬一瞬、神はその人に対するご自分の豊かな忍耐を明らかに示しておられるのであって、人々がこの忍耐にもかかわらず、罪を犯し続けることは、天来のあわれみに対する決して小さな圧迫ではない。古代ローマで犯罪者の捕縛に当たった官吏たちは、その肩に何本もの束桿をかついでおり、有罪宣告を受けた囚人たちをそれで打つのだった。そして、そうした束桿の中心には、死刑という最終判決のための斧があった。雁字搦めに縛られた者たちの縄には多くの結び目があり、捕吏たちがそれをゆっくりと解いて行く間、裁判官は囚人が打擲されずにすむようなことを何か云うのを待っていた。だが、最後の結び目が解かれると、彼の背中はむき出しにされ、鞭で打たれるのだった。裁判官は、なおも彼に目を注ぎ、何らかの悔い改めのしるしを目探しした。そして、それが何もないと、斧が取り出された。あなたがたの中のある人々についても、それと同じである。神は1つ1つ、結び目を解いておられる。――左様。さて、神はこれまであなたを、一度ならずその鞭で打ってこられた。あなたは病や貧困、そして他の多くの艱難に苦しんできた。神の鞭は今あなたを打ちすえている。だが、神は、その斧を取り上げることを急がれない。悔悟しない者に対するその審きは厳格だが、神は非常に憐憫と同情に満ちており、できるものなら死の一撃を加えたくないと思っておられる。「悔い改めよ」、と神は云われる。「悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」[エゼ33:11]。そして、懸河の弁によって人々に叫び求めるのである。ご自分のもとに立ち返り、生きよ、と。

 それから、まだ犯されていないもろもろの罪に関する神の寛容がある。おゝ、罪人よ。あなたは、将来罪を犯さないと約束することができない! あなたは愚かにも、「私は犯しません」、と云うかもしれない。だが、クシュ人がそのその皮膚を変え、豹がその斑点を変えるよりもずっと困難なこと、それは、悪に慣れたあなたが自力で善を行ない始めることである[エレ13:23]。あなたの心の泉は汚れているため、汚染された水流がそこから流れ続けざるをえない。あなたは、そのような種族の生まれであり、かつ、自分の絶えざる罪深さによって生来の堕落ぶりをいやが上にも増し加えている。このため、あなたは恵みがあなたを変えて更新するまで、ずっと罪を犯し続けるのである。いかにして神は、このことを知りながら、あなたの存在を叩き消してしまわれないのだろうか? 神は、もう一年あなたを生き続けさせ、あなたのかたくなな心がご自分の愛になおも反抗するのをお許しになろうというのだろうか? 罪人よ。神はあなたのいのちを、もう七年間の不品行と情欲のためにも長らえさせようとしておられるのだろうか? もう十年間ずっと盗人であるままのあなたが生き続けることを許してくださるのだろうか? あなたは、もう二十年間、そのすべての安息日を罪に費やし、そのほとんどすべての夜に、酔いどれとなって町通りを千鳥足でふらつくことになるのだろうか? おゝ、もし神が、そのようにあなたが罪を犯すことをご存知だとしたら、いかなるわけで神はあなたを我慢しておられるのだろうか? もし滅びの御使いが、いかなることをあなたが行なうことになるか告げられたとしたら、彼は立ってその剣を抜くか、その手をその柄にかけて云うであろう。「恐るべき《主権者》よ。私に命じてください。あなたの御名を冒涜し、あなたの律法を破る者たちを地上から一掃することを。そうすれば、その通りになります」。しかし、神は云われる。「剣を鞘に収め、もう少し待っていなさい! 彼らにはもう一度訴えかけ、もう一度招き、もう一度懇願してみよう」。おゝ、これらが彼らにとって有益なものとなり、彼らが神に立ち返って生きるようになるとしたら、どんなに良いことか!

 この聖句の三重の訴えに加えて、神のいつくしみは、膨大なものとして明らかに示されている。「神の……豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」まことに、私たちに対する神のあわれみは豊かさの宝庫に似ている。私たちの中のある者らに対して、神がしてくださらなかったことが何かあるだろうか? もし私が今この瞬間に信仰者でなかったとしたら、私は、この場にいるありとあらゆる人々の中で最も恩知らずな者であったことであろう。私が自分自身のことを述べるのは、それがここにいる他の多くの人々と似通っていると知っているからである。敬虔な家で揺りかごに入れられ、この上もなく優しい世話で養われ、幼少の頃から福音を教えられ、両親というきわめて聖い模範を有し、考えうる限り、罪に走らないようにする最上の妨げに取り囲まれていながら、そうした一切にもかかわらず、罪に罪を、反逆に反逆を重ねる。跳躍しようとする軍馬の手綱を、乗り手が引いて止めようとするように、良心による抑制がかかる。それでも、なおも罪を犯そうと決意し、その深みへ深みへと入り込もうと決心し、罪を抑制しようとする神に怒りを覚えるまでとさえなる。その制御を振り切って先へ進もうとし、神から逃走して、以前にまして重い罪を犯す。その後、神の御手によって病に倒され、恐怖と恐慌に襲われては、生き方を改める決意をするが、再び健康へと引き上げられると、真剣な心の感銘を振り捨て、笑い声をあげては再び罪の愚かさに立ち戻る。それから再び叱責を受け、震え上がり、雷で打たれたようになり、神の御前で畏怖させられる。尊い《救い主》について聞かされる。だが、このお方を押しのけ、また別の日にキリスト者になれば間に合うさ、とうそぶく。これが、主権的な恵みに出会う前の私の悲しい物語であり、この場に出席している他の多くの方々の物語でもある。

 だが、その間ずっと、神は数々の摂理の祝福をあなたに供し続け、あなたが決して欠乏しないようにしてこられた。神は、他の非常に多くの人々が耐え忍ばなくてはならなかった数々の危険や、試練や、苦難からあなたを守ってこられた。神があなたを置いてくださった場所では、熱心な福音が取り次がれており、決してあなたを自分の罪の中に安閑とさせておかなかった。神があなたを置かれた場所には、信仰深い友人たちがいて、あなたの不滅の魂を気遣うように、涙をもってしつこくあなたに求めた。神はあなたを病から引き起こしてくださった。ことによると、戦闘の日にもあなたを保ち、他の多くの者たちが回り中で死んだときもあなたを救い出してくださった。神がこうした一切のことをあなたのために行なわれたというのに、あなたの思いの中には、神に対する優しい考えが何もなく、神の大いなるあわれみについて感謝すべき何の記憶もないのだろうか? おゝ、考えてみるがいい。あなたがとうの昔にどこに陥って行きかねなかったかを! 人々は、あなたの死んだからだを見下ろし、こう云っていたかもしれないではないだろうか? 「土は土へ、灰は灰へ、ちりはちりへと還る」、と。左様。かの恐るべき場所――うじが尽きることなく、火が消えることのない場所――には、とっくにあなたのための割り当て場ができていたかもしれなかった。あなたの聞こえる所で今なお宣告されている、数々の恵み深い約束のことを考えてみるがいい。主に立ち返りさえするなら、主はあなたをあわれみ、あなたのそむきの罪すべてを赦してくださるという、数々の約束を。十字架の上で罪人たちのために死なれた、神のキリストのことを考えてみるがいい。地に下って、罪人たちを相手に争い、訴えておられる、神の御霊のことを考えてみるがいい。自分の信頼を御子イエス・キリストに置くすべての者に授けられる、御父の全能の愛のことを考えてみるがいい。おゝ、確かにそこには豊かなあわれみがある。豊かな慈愛、豊かな忍耐、豊かな寛容がある。そして、人よ。あなたはそのすべてを軽んじているだろうか? 向こうにいる婦人よ。あなたは、このすべてを軽んじているだろうか? こうした一切のあわれみは、長大な年月の間、一本の大絵巻によって、あなたの前を通り過ぎてきた。それについて、あなたは何と云うだろうか? あなたは、こうは云わないだろうか? 「私の神よ。私をお赦しください。これほど長いこと、あなたをなおざりにしてきたこの私を」。それとも、あなたはなおも神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじ続けるだろうか?

 時間さえあれば、私は神の寛容を測りきわめようとすることもできたであろう。そして、その場合には、四本の測線が必要となるはずである。神の慈愛がいかに卓越したものであるかは、4つのことを考察するとき明らかに示される。最初に、それを明らかに示しておられる《真正なご人格》を考察するがいい。神がいかなるお方か思い出すがいい。神がいかに偉大なお方か考えるがいい。いかなる者も、自分に劣る者から侮辱されることを好みはしない。ならば、いかにして神が、ご自分の作られた被造物たちから侮辱されることを辛抱できるだろうか? その被造物たちは、自分の息づかいまで神に負っているのである。いかにして神は、人間のように全く取るに足らない、無価値な者によって反抗され、挑みかかられることを耐え忍べるだろうか? だが、神はご自分の反逆的な被造物を粉砕して当然なのにそうはなさらないのである。

 次に、神の全知について考えてみるがいい。時として私たちが人々を我慢するのは、彼らが云ったりしたりしたことの多くを忘れてしまうからである。だが、二十年前の悪口や、あなたに対する敵の長い生涯にわたる辛辣な言葉や、意地悪な行為のすべてがあなたの心の目の前にあるとしたらどうなるだろうか? だが、神は私たちの一切の罪をご自分の前に置いており、私たちの最も隠された罪もご自分の御顔の光の中に置いておられるが、それでも私たちを打って滅ぼすことを辛抱しておられるのである。

 また、神がいかに強大なお方か考えるがいい。何者も、神が追跡するときに逃げおおせることはできない。モーセはパロのもとから逃亡し、ミデヤンの地に隠れることはできた。だが、神がひとたびご自分に反逆したことのある者全員を罰そうと決意されたとしたら、いかにして私たちは神の復讐から逃れて免れることができるだろうか? いかにして私たちは神に立ち向かえるだろうか? どこに攻囲する神の全能に抵抗できる青銅の柵があるだろうか? その被造物のうち何者も神に対抗することはできない。刈り株が炎に抵抗できず、くず糸が火に絶えられないのと同じである。だがしかし、神には途方もない寛容さがあり、この長年月、私たちを我慢してくださった。おゝ、ほむべき神よ。私は、私に対する、また、私の同胞の罪人たちに対するあなたの驚くべき忍耐ゆえにあなたを愛します。あなたは、私たちがこれほどはなはだしくあなたを怒らせてきたにもかかわらず、なおも私たちのいのちを惜しんでおられるからです!

 それから、もう一本の測地線を取り上げて、神の慈愛がいかなる存在に向かって明らかに示されているか考察してみるがいい。それは人間なのである。人間がいかなるものか考えてみるがいい。それから、自問してみるがいい。果たして、このようにちっぽけで、取るに足らない被造物が、あえて神に宣戦布告し、「俺様はお前が行なうよう命じたことを行ないはしない」、と云えるものかを。何と、夏の宵にあなたの通り道を横切る蟻でさえ、全能の神とくらべられた際のあなたと比較すれば、半分も取るに足らない存在ではない。また、それは、神からこれほど多くのものを受け取っている人間なのである。――神の許しと支えがなければ、一瞬も生きることができない人間、それが立ち上がって、こう云うのである。自分は神のしもべになるつもりはない、神が任命された《救い主》を受け入れるつもりなどない、と! 天よ。なぜお前は落下して、このような悪党を踏み砕かないのか? 偉大なる神よ。それはただ、あなたが、罪深い人間どもをこれほど長く耐え忍ぶ神であられるためにほかなりません!

 別の測地線はこれである。――神の慈愛がいかなるふるまいに対する答えであるか、考察するがいい。言葉を換えると、がいかなるものか考察するがいい。この場にいるいかなる人も、神の御前において罪が真にいかなるものかを一度でも見てとったことはない。極小の罪の中にも、地獄の中にある悪にもまさる悪が詰まっている。というのも、地獄は、少なくとも、天来の正義を証明する場だが、罪はその正義を拒絶するからである。罪は、無制限の、何ら軽減されていない悪である。そして、いくつかの罪は、あまりにも放恣で、あまりにもはなはだしく、あまりにも勝手気ままであり、人々はあまりにもことさらにそれらを犯そうとする。――いくつかの罪は、あまりにもしばしば繰り返され、懲らしめを受けても変わらない。――いくつかの罪は、あまりにも人を汚染し、あまりにも不潔で、その中にある人は自分自身のみならず他の人々をも堕落させ、滅ぼしてしまう。そして、いくつかの罪はあまりにも破廉恥である。このため、まさに驚異となるのは、神がそれらを犯す人をなおも忍んでくださり、その正義の雷電を抑えておく一方で、あわれみという銀の王笏を差し出し、罪人のかしらにさえこう仰せになることである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。

 それから、もし私たちがもう一本、別の測線を欲するとしたら、それは神の慈愛がもたらす数々の恩恵について考察することのはずである。私たちに共通する種々のあわれみ――日ごとの糧、身にまとう着物、労働のために必要な健康、危地からの救出、死からの守り、安息日という制度、聖書という賜物、救いの福音、――これらは測り知れない恩恵である。ならば、誰が計算できるだろうか? 神の豊かな慈愛と忍耐と寛容がいかほどのものかを。

 私は、この題目についてあなたに語っている間、自分を恥ずかしく感じずにはいられない。私には、神のために弁じ立てるべき云い分があるのに、それを本来なすべきよりもずっと不手際にしか弁じることができないからである。そして、いかになすべきか知っていさえしたら、そうするだろうに! 私の恵み深い、ほむべき神よ。悲しいかな! 悲しいかな! あなたがたの中のある人々は、神にひどいあしらいをしているが、それでも神は決してあなたに何の害を及ぼしたこともなく、常にあなたに善を施しておられる。もし神に奉仕することが奴隷のような重労働だったとしたら、あなたが神に仕えないとしても無理はない。もし神の子どもたちになることが、苛まれ、不幸になることだったとしたら、私もそれほどあなたを非難することはできない。だが、神への奉仕が完璧な自由であり、神の愛が言語に絶する至福であり、神の臨在が地上で始まる天国である以上、なぜあなたがたは、自分自身の最高の幸福から逃亡し、神のあわれみがあなたにとって意味する一切のことから逃げ去ろうとするのか? おゝ、罪よ。お前は人々の気を狂わせてきた。お前は人々を狂気に引き渡してきた。その狂気によって彼らは神に何の美も見いだすことができなくなる。《贖い主》のご人格に何の魅力も、彼がご自分の最も尊い血によって買い取られた救いに何の魅惑も感じない! おゝ、《天来の御霊》よ。私は、自分が進んで訴えたいと思うほど訴えることができません。さあ、来てくださる。そして、人々にしかるべきほどに尊ばせてください。神の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを!

 II. さて、次に手短に示したいのは、《人々がどのようにして神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじるか》である。

 最初に、多くの人々は、自分が神から慈愛を受けているなどとは全く考えもしないことによってそうする。彼らは、神が彼らに与えておられる一切のものを当然のことと受け取り、決してそれらについて考えない。かりにあなたが、どこかの貧乏な人に対して非常に気前良くしてやっており、何年間も彼が欠乏しないようにしてやっていたとしよう。その場合、もしも彼がそれを当然視し、決してあなたに何の感謝も示さず、むしろ、あなたがこれほど長い間してきた通りのことをずっとし続けるように期待するとしたら、時としてあなたは悲しみを覚えるに違いないと思う。あなたは自分に向かって云うであろう。「私は、彼を助けてやる義理など全くない。これは、完全に私の親切心から出た行為なのだ」。あなたは、「もはや彼には何もやるまい」、と云いたくはないが、そう云いたい気持ちに強くかられる。さて、もしあなたがあなたの神に対して、自分に対する神の一切の慈愛について全く感謝してこなかったとしたら、私は切に願う。そうしたことを続けないでほしい。豚は樫の木の下に行き、それから落ちた団栗をぺろりと平らげるが、決してそれを感謝してブーブー云いはしない。あなたは、そのような豚になりたいのだろうか? おゝ、そうなってはならない! むしろ、小さなひよこたちを見習うがいい。それは流れから水を飲むと、神に感謝するかのようにその頭を高くそらすのである。この場にいる多くの人々は、恩知らずだと思われたくはないだろうと私は知っているし、また、同胞の人々に対して恩知らずなことはしていない。そのような人格をあなたが軽蔑することを私は知っている。だが、あなたは、あなたの最高の《友》に対して恩知らずなのである。このお方は、それ以外のあなたの友人たち全員を1つに合わせたよりも、はるかに大きなことをあなたのためにしてくださっている。この方の慈愛と忍耐と寛容を軽んじて、それを気にもとめないままであってはならない。

 ある人々が神の寛容を軽んじるのは、そこにこめられた神の意図に逆らうことによってである。神が慈愛を賜る意図は、悪人たちを善人にすることにある。悔悟しない罪人たちに対する神のあわれみの意図は、彼らを悔悟させることにある。あなたは神に向かって云うであろう。「私は、あなたを私の神にしたくありません」。そこで、神はお答えになる。「わたしは、あなたのいのちを長くしよう。あなたを仕事で繁盛させてやろう。あなたに対する私の恩恵の数を増やしてやろう」。それでも、あなたはなおも云う。「しかし、私はそうしたすべてによっても、心を動かされはしませんよ」。神は、非常に重い病気にかかったあなたの寝床のかたらわにやって来られる。死の冷たい汗があなたの額ににじんでいるが、神はあなたの体内から熱病を引き出し、再びあなたのいのちを伸ばしては、地上でのもう十年間をあなたに与えてくださる。だが、それでも、あなたは神に対して云う。「いくらこんなことをされても、私はあなたを少しも愛するようにはなりませんよ」。それが正しいことだろうか? 神はあなたを優しく導いてこられた。あなたを追い立てず、あなたへの愛ゆえに、あなたをご自分のもとに引き寄せてこられた。では、神の寛容を軽んじて、他の方向へ進んではならない。

 ある人々は、それよりさらに悪いことをする。というのも、彼らは神の寛容と忍耐をねじ曲げて、不信仰のままでいる理由にするからである。彼らは自分に向かって云う。「われわれは、この世でしごくよろしくやって来た。キリスト教信仰などに全くかまけなくともな。この世で面白おかしく過ごしてきた。祈りなど全くしなくともな。われわれは病から引き起こされてきた。その後でキリスト教信仰のことなどもはや考えなくなってもな。だから、われわれは自分の好きなようにしていて良いのだ。神はわれわれのことを怒らないのだ。その手を伸ばしてわれわれを打つようなことはしないのだ」。あゝ! この世で私の知る何よりも危険なことは、不敬虔な人が繁栄し続けることである。だが、不敬虔な人が大きな悩みの中にあるとき常に私は、神がそうした人々を永遠のいのちに選んでおられるという希望をいだく。だからこそ、神はその人が地獄に落ちるままにしておかず、その路に柵や杭を置いて破滅への道をさえぎろうとしておられるのだと思う。しかし、不敬虔でありながら繁盛している人、自分の船には順風しか吹いて来ず、あらゆる季節には隣人たちよりも良質の収穫が得られ、子沢山でいられる等々という人については、――なぜ神がその人に対してそのようにふるまわれるか、あなたは知っているだろうか? 私にはあなたに告げることができる。

 ひとりのキリスト者婦人について聞いたことがある。彼女には非常によこしまな夫がいた。彼は、すさまじい悪態をついては、あらゆる善良な事がらについて常に彼女に反対した。だが、彼女は、男が持つことのできる中でも最も親切な妻だった。ある夜、あるいは、むしろ早朝に、彼が飲み仲間と酒を飲んでいるとき、彼は彼らに云った。自分には素晴らしい女房がいて、たとい彼らが全員自分と一緒に家に来ようと、それが夜中の二時であっても、彼女が寝床に入っていた後であったとしても、彼女は起きてきて、嫌な顔1つせずに彼らのために夕食を作ってくれるだろうし、彼のために、まるで彼らが国の貴族たちででもあるかのように彼らに給仕してくれるだろう、と。彼らはその家に行き、夫は彼女を呼んだ。彼女が床に入っていたからである。彼女は服を着て階下に降りてくると、ありあわせのもので食事を支度して、彼らを心から歓待した。彼らは彼女に、なぜこんなにひどい仕打ちをしている者たちにそれほど親切にしてくれるのかと尋ねたが、彼女は答えようとはしなかった。別の日に、夫から似たような問いを受けたとき、彼女は彼に云った。「あたしは、あんたのために一千回もお祈りしてきたし、どうしてもあんたを《救い主》のもとに導こうとして、できることなら何でもしてきたけど、今じゃ、あんたが失われちまうんじゃないかって、心の中で恐ろしくこわくなってるのよ。残念だけど、神様にそむいて罪を犯し続けてる限り、あんたが地獄に送られることになるだろうってね。だから、あたしは決めたのよ。あんたがこの世にいる間は最高に幸せにしてやろうって。可哀想だけど、死んじまったら、あんたは絶対に幸せになれないんじゃないかと思ってね」。そして、私の信ずるところ、それと同じ理由で神は、悪人たちを金持ちになさるのである。「さあ」、と主は云われる。「彼らにはできる限り楽しい思いをさせてやろう。地上にいる間は、彼らにこうしたものを与えることにしよう。やがて来たるべき時には、わたしは彼らに何の憐れみも示さず、わたしの容赦ない正義によって彼らは一切の楽しみから永遠に放逐されざるをえないからだ」。いま私が述べた男に、少しでも真実な男らしさがあったとしたら、彼は妻に向かってこう云ったろうと思う。「お前や。お前は俺のことをそんなふうに感じてたのかい? それほど俺を愛して、そんなに長く俺のために祈り、どんな不都合も我慢してきたのは、俺に親切にしてくれるためだったのかい。なら、とにかく俺は、もう二度とお前には意地悪しないよ。そして、それがどういうもんか聞くようにするよ。お前が云う、俺を安らかにしてくれるってものをな」。正気の人間なら、そのように語るであろう。そして、もしあなたが正気をしているとしたら、私は切に願う。今、あなたの神があなたに仰せになっていることを心に留めてほしい。これこそ、神が遠い昔に事を云い表わされたしかたであり、神はそれをあなたに対しても同じように云い表わされるかもしれない。「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。……子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」[イザ1:2-3]。あなたがたの中の誰が、あなたにとって何の役にも立たないような牛やろばを飼っておくだろうか? あなたがたの中の誰が、あなたが近づくとさっと逃げ出しているばかりのような犬ころ一匹でも家の中にいさせようとするだろうか? だが、神はあなたを辛抱してこられた。ご自分の恩知らずな被造物たちを、この長年月の間である。あなたは自分を養ってくれる手に、決して口づけしようとしないのだろうか? あなたは、ろばよりも愚かなのだろうか? 牛そのものよりも獣じみているのだろうか? おゝ、願わくは神が罪人たちを、ご自分に対するそのような不正を続けることから、また、自分自身に対するそのような残酷さから救い出してくださるように!

 III. さて最後に、《神の慈愛が私たちを導いている力を感じようではないか》。「神の慈愛があなたを悔い改めに導くこと」を。

 これは、私たちが神の慈愛を軽んじないための十分な理由となるべきである。すなわち、それを軽んじることは非常に不正なことである。私は、古典の歴史書の中に、この、人間と神との場合に並行するような事例が何かないか調べてみた。そして、それに似たものを1つ見いだした。アレクサンドロスの時代、ひとりの兵士がいた。彼は難破して、ある人から手厚く迎え入れられた。彼はこの兵士を自分の家に連れて行き、食物と着物を与えた。だが、その兵士は、アレクサンドロスのもとに戻ることができたとき、すぐさまこの一件について、あることないこと捏造した報告を行ない、この偉大な司令官に向かって、自分をもてなしてくれた人物の家を与えてくれるように願い出た。後にアレクサンドロスは、この卑劣漢が、自分を接待してくれた人の家を奪って自分のものにしようとした恩知らずな男であることを見いだして、その額に焼き印を押すよう命令した。そして、その恩知らずな客がどこにいこうとそれと知られるようにした。だが、いかなる焼き金、いかなるえにしだの熱い炭火[詩120:4]が、神に創造され、神に養われ、あわれみの道に置かれ、恵みに招かれながら、だがしかし、それでも忘恩を続けているような恩知らずな者に焼きごてを押すだけの熱さを有しているだろうか?

 人間は、その同胞である人に対していかに恩知らずなふるまいをしようと、それは、人間が自分の神に対してふるまう恩知らずほどのものになることはめったにない。自分の同胞である人々から一銭盗むことにさえ目もくれないだろう当の人々が、一生の間、何の良心の呵責もなしに神から盗み続ける。自分の同輩の商人たちに対しては徹底的に公正な扱いをする人々が、自分を創造してくださった神に対しては不正を犯し続けようとする。なぜこのように卑しいふるまいをするのだろうか? おゝ! 私は切に願う。ぜひそのようなことを続けるのはよしてほしい。――私は目に涙しながらあなたに訴えたい。もはやそうし続けないでほしい。あなたは、神への大きな義理があるではないだろうか? あなたは、神があなたを造られたことを知っている。あなたの魂の奥底では、1つの声があなたに向かって云っている。「神がお前を生かし続けておられるのだ」、と。あなたは、その通りであると知っている。ならば、いかにしてあなたは想像できるのだろうか? 万物の《創造主》にして《保持主》なるお方を忘れ去っても罰を受けずにすむなどと。神の慈愛をないがしろにしながら生きることがいかに危険であるか、あなたに思い起こさせる聖句を1つ示させてほしい。「悪者どもは地獄に投げ込まれる」(特に、次の言葉に注意するがいい)。「神を忘れたあらゆる国々も」[詩9:17 <英欽定訳>]。私がこの聖句の引用を始めたとき、あなたは自分に向かってこう云ったかもしれない。「私は悪者ではない。私は何も極悪なことはしていない」。だが、その節の残りをもう一度聞くがいい。「神を忘れたあらゆる国々も」。――悪態をついたり、冒涜したり、神に反逆する国々ではない。むしろ、「神を忘れたあらゆる国々」なのである。「それは、ほんの1つの聖句でしかない」、とあなたは云うであろう。あゝ! だが、ここにもう1つあり、そのようなものはたくさんある。私たちは「どうしてのがれることができましょう」。――何を? 「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい」[ヘブ2:3]。――それが、すべてである。――それは、単にないがしろにしたかどうかの問題である。――「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい」。神を軽んじて神をないがしろにすること、神を軽んじて神を忘れること、これこそ、人々を永遠の破滅に陥らせるだろう、嘆かわしい種類の軽んじ方なのである。

   「主よ! 罪人を 返らせ給え!
    覚まさせ給え、その無感覚(まどろみ)を。
    汝が忠言(さとし)をば 否ませず、その
    致死(あし)き選択(みち)をば とく悔ゆらせよ!」

あなたがたの中のある人々にとって、この会衆に向かい合うこと、また、私が今しているように話をすることなど、子どもの遊びのように思われるかもしれない。だが、それが私にとって子どもの遊びでないことは主がご存知である。私は、あなたがた全員について自分が神に責任を問われると感じている。あなたがたは、もうほんのしばらくで、私の《主人》の審きの座の前に立たなくてはならないであろう。さて、その最後の恐ろしい日に私が召還されて、いかにあなたがたに語りかけるこの機会を用いたかについて報告することになったとしよう。また、神をないがしろにすればあなたの永遠の破滅であると平易にあなたに告げたかどうかを告白しなくてはならなくなるとしよう。また、私が冷たくて、無関心であったと――今のあなたと同様に冷たくて、無関心であったと――告白せざるをえなかったとしよう。――そのとき、私の魂は、あなたの魂の血で真紅に染まるであろう。しかし、そのようなことはありえない。そのようにさせはしない。というのも、私はあなたに切に訴えているからである。生ける神にかけて、罪人たちを救うために死なれたキリストにかけて、死の確実さにかけて、天国の光輝にかけて、地獄の恐怖にかけて、私は切に願う。神の慈愛と忍耐と寛容を考えてほしい。涙と願いをもって神に立ち返るがいい。そし、何にもまして、ここに宣言されている福音に立ち返るがいい。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。あるいは、それをキリストご自身の完全なしかたで云い表わせば、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。願わくは、主があなたがた全員を、その御子イエス・キリストを信じる単純な信仰へと至らせ、それから、バプテスマという件においてキリストへの従順に至らせてくださるように。そして、主があなたをその恵みによって人生最後の時まで保ってくださり、二度と再び軽んじることなく、むしろ、永遠に称賛させ続けてくださるように。神の慈愛と忍耐と寛容とを。その愛する御名ゆえに!

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神の忍耐について[了]

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