HOME | TOP | 目次

第五の幸福の使信

NO. 3158

----

----

1909年8月19日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年12月21日、主日夜


「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」。――マタ5:7


1873年、スポルジョン氏は、彼のいわゆる、《幸福の使信》に関する「一連の金言的説教」を行なった。《山上の説教》および《幸福の使信》全体についての序言的な講話の後で、彼は、それぞれの使信を個別に説教していく心算であった。だが、病か、何か他の特別な理由のために、その目的を完全には果たせなかった。しかしながら、《幸福の使信》についての《説教》は八篇あり、そのうち三篇はすでに『メトロポリタン・タバナクル講壇』で刊行されている[No.422 『平和をつくる者』、No.2,103 『幸いな飢え渇き』、No.3,065 『第三の幸福の使信』]。――他の五つはこのたび、これから毎週発行されることになり、《八月の月刊説教》となるであろう(定価、五ペンス)。各《幸福の使信》および《山上の説教》全体についてのスポルジョン氏の《講解》は、『御国の福音』(現在、3シリング6ペンスで販売中)の中にも記されている。同書は、氏が1892年に「故郷へ召される」、ほんの直前まで、マントンにおいて執筆していたものである。


 

 

 私はあなたが、前回までの《幸福の使信》に関する講話を聞いてきたものと前提しなくてはならない。そうでないとしたら、これまで語ってきたことすべてを繰り返すことは今はできないが、このことだけ指摘することはできよう。私は、《幸福の使信》を一本の光の梯子にたとえてきた。そして、その1つ1つが上昇し、かつ、先立つものから発していると述べてきた。それで、あなたが注意するであろうように、ここで言及されている性格は、これまで示されてきたどの性格よりも高いものである。これは、心の貧しい者や、悲しむ者よりも高い。こうした事がらをこの人は気遣う。彼はまだひ弱さを覚え、その弱さから心の柔和さが生じ、それによって他者からの不正を忍ぶことができるようになる。しかし、あわれみ深くあることは、それをも越えている。今やその人は、単に不正を忍ぶだけでなく、恩恵を施すからである。この《幸福の使信》の直前にあるものは、義に飢え渇くことに関わっている。だが、ここでその人は、単なる義をも乗り越えている。彼は、正しいことを求めることをも越えて、良いこと、親切なこと、寛大なことを求めており、自分の同胞である人々に対して思いやりあることを行なおうとしている。この梯子の全体は恵みに依存しており、恵みがあらゆる段をしかるべき場所に置いている。そして、恵みはこの箇所で、この人にあわれみ深くなることを教え、この人を祝福し、この人があわれみを受けるという約束を与えている。こうした祝祷のどれか1つをそれ自体で取り上げ、あわれみ深い人なら誰でもあわれみを受けるのだと云ったり、それと同様のしかたでどれか1つでも誤って引用したりするのは間違いである。というのも、それは《救い主》のことばをねじり取り、主が決して伝えようとは意図しなかった意味を与えることだからである。こうした《幸福の使信》を全体として読むとき分かるのは、これから語ろうとしている、このあわれみ深さが、それ以外のものから生じてきた特徴だということである。それは、それ以前の恵みの働きすべてから沸き上がっており、この人は、単に人間的な意味で――全人類に共通して見られるべき人間性のゆえに――あわれみ深いのではない。むしろ、この人は、ずっと高く、ずっと良い意味であわれみ深いのである。神の御霊だけが人の魂に教えることのできるあわれみのゆえにあわれみ深いのである。

 この《幸福の使信》が他のものから発していることに注意した上で、これからそれをより詳細に眺めて行きたいと思う。そして、このことについて語る際には、非常に用心深くすることが必要である。そうするために、私たちはいくつかのことを問うであろう。第一に、誰が、こうした幸いな人々なのか? 第二に、何が彼らの独特の美徳なのか? そして第三に、何が彼らの特別な祝福なのか?

 I. 《誰が、こうした幸いな人々――あわれみを受けるあわれみ深い者――なのか?》

 覚えていると思うが、この《山上の説教》について冒頭で説明した際に、私たちが注意したのは、私たちの主の主題が、いかにすれば救われることができるか、ではなく、誰が救われているのかにあるということであった。主がここで描写しておられるのは、決して救いの道ではない。それは他の多くの箇所で行なっておられる。だが、主はここでは、魂のうちにおける恵みの働きのしるし、また、証拠を示しておられるのである。それゆえ、私たちは、あわれみ深くない限り、あわれみを得ることはできないのだと云ったり、神のあわれみを得るには、まず第一に私たち自身があわれみ深くなるしか望みはないのだと云ったりすれば、大間違いを犯すことになる。さて、そうした、聖書の流れ全体とは全く正反対なものや、キリストを信ずる信仰による義認という根本的な教理と真っ向から反することになるような律法的な観念を脇へ置くために、あなたには、このことに注意してもらいたいと思う。すなわち、こうした人々はすでに祝福されているのであり、すでにあわれみを受けていたのである。彼らがあわれみ深い者となるはるか以前に、神は彼らに対してあわれみ深くあられた。また、本日の聖句にあるような、この全き約束――すなわち、彼らがさらなるあわれみを受けるという約束――が彼らに与えられる前から、彼らはすでに、更新された心という大きなあわれみを受けていた。そして、その心が彼らをあわれみ深くしていたのである。それは、この聖句の前後関係から明らかである。

 というのも、まず、彼らは心の貧しい者であった。そして、私たちが自分の高慢を空にされ、自分が神の前でいかに価値なき者かを見てとらされ、自らの個人的な弱さを感じさせられ、自分を神の御前にふさわしい者とする一切のものに欠けていることを感じさせられることは、決して小さなあわれみではない。私の知っている一部の人々のために私が願い求めることのできる最大のあわれみは、彼らが霊的な貧困さという祝福を受け、自分がいかに貧しいかを感じさせれることであろう。というのも、彼らがキリストを知り、実質的に自らがあわれみ深い者になるよう進むには、まず最初に彼らが自分自身の真の状態を見てとり、十字架の根元にひれ伏して、打ち砕かれた心によって、自分が空しく貧しい者であると告白するに足るだけのあわれみを受ける以外に決してないからである。

 この前後関係から、やはり示されるのは、この人々が悲しむに足るだけのあわれみを受けていたということである。彼らは、自分の過去のもろもろの罪を、痛切な悔い改めとともに悲しんでいた。実質的に神から離れ去っていた状態、罪が彼らを引き入れていた状態について悲しんでいた。そして、自分たちの《贖い主》に対する感謝のなさと、その聖霊に対する自分たちの反逆心との事実について悲しんでいた。自分が、それよりも悲しめないがゆえに悲しんだ。また、自分の目が罪についてしかるべきほどに涙を流せないがゆえに悲しんだ。彼らは、――

   「学びぬ、罪の ゆえにのみ泣き、
    キリストのみを 求めて泣くを」。

そして、そうした悲しみ、そのように砕かれた悔いた心を有するのは、決して小さな祝福ではない。というのも、それを主は蔑まれないからである[詩51:17]。

 彼らは、また、柔和さという恵みをも受けていた。そして、優しく、謙遜で、満ち足りた者、この世に嫌気の差した者、また、こう祈ることを学んでいる者となっていた。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」[マタ6:12]。――これも決して小さな祝福ではない。彼らは実際あわれみを受けていた。その高ぶった心がへりくだらされ、その傲慢な霊が屈服させられ、ある程度まで、その主のように柔和でへりくだった者とされたときに、あわれみを受けていた。

 彼らは、さらなる恵みを受けていた。というのも、義に飢え渇くことを教えられていたからである。彼らは、信仰により、神から発する義を求める霊的な欲望を得ていた。また、神の御霊の働きである、実際に内側に織り込まれた義を欲する悲しい飢えをも有していた。彼らは、正しいものを愛し、それを行なうことに飢えていた。他の人々が正しいことを行なうのを見ることに飢えていた。義の王国が確立され、神の真理が全地に行き渡るのを見ることに飢えていた。これは、実際にあわれみを受けることではなかっただろうか? そして、もしこのことから、あわれみ深くあるというこの特徴が生じてきたとしたら、それは、彼ら自身のうちにあるいかなものにも帰されるべきではない。あるいは、彼ら自身の性向から自然に出てきたものとみなされるべきではない。むしろ、恵みのもう1つの賜物とみなすべきである。すでに与えられていた、種々の特別な果実から生じてきた、もう1つの果実とみなすべきである。この人々については、すでにこう云われていなかっただろうか? 「天の御国はその人のものだからです」[マタ5:3]、と。彼らは、あわれみを受けていたではないだろうか? 彼らについては、こう云われていなかっただろうか? 「その人は慰められるからです」[マタ5:4]。誰があえて、彼らはあわれみを受けていなかったなどと云えるだろうか? 彼らについては、こう云われていなかっただろうか? 「その人は地を相続するからです」[マタ5:5]。これをあわれみと云わずして何と云うのだろうか? キリストの御声は、こう宣言していなかっただろうか? 「その人は満ち足りるからです」[マタ5:6]。これは、十分なまでのあわれみではなかっただろうか? それゆえ、私は云う。本日の聖句が語っている人々は、すでにあわれみを得ていた人々であり、自分自身が、あわれみの目覚ましい戦利品であった人々である、と。そして、彼らが他の人々にあわれみを示している事実は、永遠にほむべき神の御霊によってすでに彼らのためになされ、彼らの内側で行なわれていたことの必然的な結果であった。彼らがあわれみ深い者であったのは、彼らが生まれつき優しい心をしていたからではなかった。神が彼らを心の貧しい者としたからであった。もともと寛大な気質をしていたからではなく、彼ら自らが悲しんで、慰められたことがあったからであった。彼らがあわれみ深い者であったのは、自分の同胞たる人々の尊敬を求めたからではなく、彼ら自らが柔和でへりくだっていたためであった。また、地を相続していたためであった。また、自分たちのように他の人々にも天国の祝福を享受してほしいと願っていたためであった。彼らがあわれみ深かったのは、それ以外にしようのないことだったからとか、できれば喜んで逃げ出したいような何らかの強制力によってそうせざるをえないと感じていたからではなかった。むしろ、彼らは喜びをもってあわれみ深くしていた。というのも、彼らは義に飢え渇いたことがあり、満ち足りたことがあったからである。

 II. さて、第二に、《ここで、この幸いな者たちに帰されている、独特の美徳とは何だろうか?》

 あわれみ深いことに含まれているのは、まず最初に、欠乏の息子たち、貧窮の娘たちに対する親切心である。いかなるあわれみ深い人も、貧者を忘れることはできない。貧者たちの不幸を同情することもなしに通り過ぎることのできる人、また、彼らの苦しみを見てもそれを軽くしてやらずにいられる人は、内なる恵みについて、へらへら喋ることはできるかもしれないが、彼の心の中に恵みなどあるはずがない。主は、自分の兄弟が困っているのを見ても、「あわれみの心を閉ざす」ことができるような者を、ご自分の家族のひとりとはお認めにならない。使徒ヨハネは正しくも、こう問うている。そのような者に、「どうして神の愛がとどまっているでしょう?」[Iヨハ3:17] しかり。真にあわれみ深い者は、貧しい人々のことを思いやる。彼らのことを考える。自分自身が慰めを受けているがゆえに、彼らのことを考える。自分自身にいやなことがあるゆえに、彼らのことを考えることもある。自分が病んでいて、それを緩和する多くのものに囲まれているときには、やはり病んでいて貧困のうちにある人々がどうしているのかと案じる。猛烈な風が吹いていても、暖かい防寒具をまとっているときには、同じ寒さの中を、ほとんど襤褸布しかまとわないで震えている人々のことを思って憐れむ。そして、この人々は実際的なしかたで彼らのことを考える。単に口先で同情していると云って、他人が助けを与えることを期待するのではなく、自分の力に応じて、自分の財の中から、喜んで朗らかに、その貧者が欠いている物を施す。また、彼らに対するあしらいは無情なものではない。彼らに要求して良いいかなるものも、正当にそうできる限りは免じてやる。そして、極限まで追いつめたり、爪に火をともすほど締めつけて絞りあげたりしない。貧者の中でも極貧の者から、最後の食物の一口や、一銭一厘まで取り上げはしない。しかり。神がある人に新しい心と、ゆるがない霊をお与えになっているとき、そこにはあらゆる貧者に対する大きな優しさがあり、特に貧しい聖徒に対する大きな愛がある。というのも、あらゆる聖徒はキリストのかたちである一方で、貧しい聖徒は、キリストの絵姿が常に入れられなくてはならないのと同じ額縁――みすぼらしい貧困さという額縁――に入れられたキリストのかたちだからである。富んだ聖徒の中にも、その《主人》に似たものが大きく見られるが、いかにしてその人が真実にこう云えるかは私には分からない。「私には枕する所もありません」[マタ8:20参照]。また、そう云ってもらいたいとも思わない。だが、私は、キリストに似た他の一切のものに加えて貧困を見るとき、自分の心が特にそこに向かうのを感じざるをえないと思う。このように、キリストの民の中の極貧の者たちを気遣うことによって、私たちは、今なおキリストの御足を洗うことができる。このようにして、尊敬すべき婦人たちは、今なおその財産をもって主に仕える[ルカ8:3]ことができる。このようにして、私たちは今なお主をお招きする大宴会を催すことができる。貧しい人や、不具の人や、足なえや、盲人といった、お返しができない[ルカ14:14]人々を呼び集め、イエス・キリストゆえにそう行なって満足しているときがそうである。クリュソストモスについて語られているところ、彼はあまりにも絶え間なく、キリスト教会における慈善の教理を説教していたため、人々は彼のことを施し物の説教者と呼んだという。そして、それは人が帯びるべき称号として悪いものではないと思う。近頃は、貧者を救済することはほとんど犯罪となっている。事実、そうしたことを行なうと、ほとんど告訴されるような法令があるかも分からない。私には、ただこうとしか云えない。時代の精神は、いくつかの点では賢明かもしれないが、それほど明確に新約聖書の精神をしているようにも思われない、と。貧者は決して国のうちから絶えることはないであろう[申15:11]し、貧者は決してキリストの《教会》のうちから絶えることはないであろう。彼らは、私たちに対するキリストの形見である。全く確かに、かの良きサマリヤ人が、エルサレムとエリコの間で見いだしたあわれな男から得たものは、その男が彼から得たものにまさっていた。その男は、少量の橄欖油と葡萄酒、デナリ2つ、それに宿賃を得たが、サマリヤ人は自分の名前が聖書に記され、後世に伝えられることになったのである。――驚くほど廉価な投資である。そして、私たちの与えるいかなる物においても、それを与える人々への祝福がやって来る。というのも、あなたがたは、こう云われた主イエスのことばを知っているからである。「受けるよりも与えるほうが幸いである」[使20:35]。幸いなのは、貧者に対してあわれみ深い者である。

 次に、あわれみ深い人は、自分の回りにいる悲しむ人々を真剣に探し、涙する目を有している。この世にある最悪の災いは貧困ではない。最悪の災いは、抑鬱した霊である。少なくとも、私の知る限り、それより悪いものはほとんどないし、地にあって威厳のある人々の間にさえ、一年を通じて明るい日がめったにないという人たちがいるのである。十二箇月全体を12月が支配しているかに思われる。気鬱を理由に、彼らは一生涯、奴隷となっている。もし彼らが天国に行進しているとしたら、それは、あの足なえ者のようにしゅもく杖をついてであり、あの心配子のように涙で道を潤しながらである。彼らは、時として自分が一度も回心したことはないのではないかと心配し、別の折には、恵みから転落したのではないかと心配し、さらに他の時には、赦されない罪を犯してしまったのではないか、また別の時には、キリストが自分から去ってしまい、二度と再びその御顔が見られないのではないかと心配する。彼らは、ありとあらゆる種類の苦難に満ちている。「彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた」[詩107:27]。キリスト者である多くの人々は、常にこうした人々を避ける。あるいは、こうした人々に出会うとこう云う。「みじめな思いをさせられるのは、たくさんだ。誰が、あんな連中と話したがるというのだ? 彼らは、悲しんでいるべきではない。実際、もっと朗らかにしているべきなのに、彼らは神経質に身をまかせているのだ」、云々。それは全く正しいかもしれない。だが、そう口にするのは常に残念なことである。そうするくらいなら、頭痛がしている人に向かって、あなたは頭痛に身をまかせているのだと云った方がましである。あるいは、人がおこりか、熱を発しているときに、あなたはおこり、あるいは、熱に身をまかせているのだと云った方がましである。事実を云えば、こうした、もともとは想像から発した病のいくつか以上に現実的なものはない。というのも、それらは、その苦痛において現実的だからである。ことによると、その原因について、彼らと理非を論ずることはできないかもしれないが、関係ない。あわれみ深い者は、常にこうした人々に対してあわれみ深い。彼らの気まぐれを辛抱する。相手の人々が非常に愚かであることは、ごく頻繁に分かるが、それでも、相手にそう告げるとしたら、自分もまた愚か者となってしまうことを理解している。その場合、相手を今よりも愚かにするだろうからである。彼は、自分の慰めを第一に考えて、「私は、この人から慰めを得たいのだ」、とは云わない。慰めを与えたいと願う。彼は、こう書かれていることを覚えている。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ」[イザ35:3]。また、次の命令を知っている。「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ』」[イザ40:1-2]。彼は理解しているのである。自分の主であり《主人》であるお方が負傷したものを捜し、傷ついたものを包み、病気のものを癒し、迷い出たものを連れ戻された[エゼ34:16]のと全く同じように、そのしもべたちも全員、自分の《主人》をみならって、最も悲惨な苦境の中にいる者たちを一心に探し求めるべきであるということを。おゝ、神の子どもたち。もしあなたが、何らかの悲しみに満ちた人々に対して無慈悲であるとしたら、あなたはしかるべきあり方をしていない。あなたの《主人》のようではない。正しい状態にある場合の、あなた自身のようではないか。というのも、正しい状態にあるとき、あなたは優しく、憐れみに満ち、同情心に満ちているからである。あなたは、主イエスから、あわれみ深い者は幸いであり、その人があわれみを受けると学んでいるからである。おそらく、あなたも抑鬱するようになるとき、――そうならないとは云えない以上、――自分が他の人々について用いた嘲りの言葉や意地悪な云い回しを思い起こすことであろう。私たちが非常に大物になるとき、主は私たちを引き下ろすであろう。そして私たちは、穴があれば入りたい気分になるであろう。私たちの中のある者らは、ほんの小さな約束をも嬉しく思うことがいかなることかを知っている。それをつかむことができさえすればそうである。また、私たちは、自分があわれな罪人たちに指摘するのを常としていた当の聖句に、真剣に走りより、それこそまさに自分が欲していた聖句にほかならないと感じることがあった。ガスリー博士は、重病にかかって死の瀬戸際にあったとき、子ども賛美歌――幼児用の賛美歌――を聞きたがった。そして、キリストの家族の中でいかに強い者といえども、しばしば子ども用の聖句や、子ども用の約束を欲するのである。小さな子どもたち用の約束でさえ、そうした悲しい状態にある大人たちには適しているのである。あなたがたは、天の御父があわれみ深くあられるように、打ちひしがれている人々に対してあわれみ深くあるがいい。

 このあわれみは、次に、自分自身に対する一切の個人的な不法行為を全く赦すことにまで至る。「あわれみ深い者は幸いです」。すなわち、自分に対して加えられた、いかなる損害、いかなる侮辱をも――意図されたとされざるとに関わらず――根に持たない者は幸いである。ウェスレー氏の時代に、あるジョージア州知事がこう云ったという。自分は、自分の船に乗っていた召使いを、主人の葡萄酒を飲んだかどで鞭打ちにしてやりたい、と。このたびばかりはその罪を赦してやってほしいとウェスレー氏が訴えたとき、その知事は云った。「無駄なことですな、ウェスレー先生。知っての通り、わしは決して人を赦さないのです」。「よろしい。ならば、知事殿」、とウェスレー氏は云った。「あなたには、ご自分が決して赦されないだろうことを知ってほしいと思いますな。さもなければ、あなたが一度も罪を犯したことがない人であってほしいと思いますよ」。そのように、私たちは、自分が罪をやめていない限り、決して他の人々を赦さないなどと語ってはならない。というのも、私たちは自分自身のために赦しを必要とすることになるからである。あなたも、多くの家族の中で目にとまるであろうように、兄弟姉妹たちの間にさえ、いさかいは起こる。だが、私たちは常に、仲違いや悪感情を引き起こすような事がらを、喜んで脇へ置こうではないか。というのも、キリスト者は人に敵意をいだくことが最もありうべからざる人間だからである。私は折に触れ、召使いたちに対して非常にむごい仕打ちがされていることに気づく。時に彼らは勤め先から叩き出され、多くの誘惑にさらされることになる。一度赦されさえしたら、また、親切な言葉が用いられさえしたら、二度と繰り返されないだろう過ちのためにである。私たちの中の誰であれ、このように云うことは正しくない。「私は、誰であれ、自分には立派なふるまいをさせるつもりだ。そして、そのことは誰に対しても思い知らせることにする。この私に限っては、決して馬鹿な真似は許さない。さもなければ、お払い箱にするまでだ」。あゝ、愛する方々。神は決してあなたに対してそのようにはお語りにならなかった。また、こうも云わせてほしい。もしそれがあなたの口の利き方だとしても、それは決して神の子どもの言葉遣いではない。神の子どもは、自分自身が不完全であること、また、不完全な人々とともに暮らしていることを感じている。人々が自分に対して不適切に行動するときには、それを感じるが、それと同時に、こうも感じる。「私は、私の神に対して、彼らが私に対してしたよりも、はるかに悪いことをしてきた。だから、このことは水に流すことにしよう」。私はあなたに勧めたい。愛する兄弟姉妹。常に、片方の目はめくらにし、片方の耳はつんぼにしておくがいい。私は常にそうしようと努めてきたし、わたしのめくらの目は、私の有する最高の目であり、私のつんぼの耳は、私の有する最高の耳である。多くの語り言葉は、たといあなたの親友たちから聞くだろうものでさえ、あなたに大きな悲しみを引き起こし、多くの害を生じさせるであろう。だから、それを聞いてはならない。彼らは、おそらく自分がそのように意地悪い口の利き方をしたことを後悔するであろう。もしあなたが決して目くじら立てず、そのまま受け流しているとしたら、そうである。だが、もしあなたがそれについて何か口にしたり、そのことを蒸し返し続け、そのことで苛立ったり悩んだりし、それを針小棒大にして、他の誰かにそのことを告げるとしたら、また、五、六人の人々をそうしたいさかいに巻き込むとしたら、それこそ家庭不和を招き、キリスト教会を分裂させ、悪魔を賛美し、神の名誉を汚す道である。おゝ、私たちはそのようなことをしないようにしよう。むしろ、たとい何らかの不正が自分に対してなされたとしても、「あわれみ深い者は幸いです」、と感じていよう。また、そのような者になろうとしよう。

 しかし、このあわれみ深さは、それよりもずっと先まで進む。キリスト者の心の中には、外面的に罪深い人々に対する大きなあわれみがなくてはならないし、あるものである。あのパリサイ人は、取税人をしていた男に対して何のあわれみもいだいていなかった。「よろしい」、と彼は云った。「もしも奴が自分の同胞臣民たちからローマの税を取り立てるほど見下げ果てた者になっているとしたら、不名誉な野郎だ。この私のように尊厳ある者からは、可能な限り遠ざかっているがよい」。相手が遊女であろうと、違いはなかった。たとい彼女が、自分の《救い主》の御足を洗うに足るほど喜んで涙を流そうとも関係ない。彼女は、汚れた存在であった。そして、キリストご自分も汚れているとみなされた。罪人である女がその悔い改めとその愛を示すのをお許しになったからである。シモンや他のパリサイ人たちは感じた。「こうした連中は、自分から社会のはぐれ者になったのだ。ならば、その報いを受けるがいいさ」。そして、この偽善的な世間には、今なおこうした精神がはびこっている。というのも、世間の大部分は、最もすさまじい偽善の塊だからである。例えば、汚らわしい罪の中に生きている男たちがおり、自分でもそれと分かっているが、彼らが社交界に入れば、あたかも世界一尊敬に値する人間であるかのように受け入れられる。だが、かりにどこかのあわれな女性が道を踏み外すようなことになると、おゝ、何とも、何とも、何ともはや! 彼女は、こうした紳士たちには、あまりにも汚らわしすぎて、彼女の存在など全く何も知らなくて良いとされるのである。この悪党たちは、美徳に満ちたふりをしていながら、自らは吐き気を催すような悪徳にふけっているのである! だが、それが現実であり、社会とは、次のような言葉を即座に口に出すほど取り澄ましたものである。「おゝ、私たちは恐怖のあまり手を上げますよ、社会に反する悪や、国法を破るようなことを行なうどんな人間に対してもね」。さて、キリスト者は、この世の子らよりもはるかに厳しいことを罪について考える。彼は、他の人々以上に厳格な基準で罪を裁く。だが、罪人のことは常に親切に考える。そして、できるものなら、いのちを投げ出しても彼を矯正したいと思う。彼の《主人》が、彼以前にそうしたのと同じようにである。彼は、こうは云わない。「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」[イザ65:5]。むしろ、彼が地上における自分の第一の関心事とみなしているのは、罪人たちに対してこう叫ぶことである。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]。だから、あわれみ深いキリスト者は、誰かを閉め出すような人間ではない。誰かを自分の注目に値しないと考えるような人間ではない。できるものなら、喜んでイエスを、いかに堕落しきった、いかに下劣な者のもとにももたらしたいと思う。また、こうした、この聖なる務めに最も完全に従事している愛する兄弟たちのことを、私たちは尊敬する。彼らが低い所に行けば行くほど、神の前における彼らの栄誉は大きくなるからである。彼らは、このように罪の汚水溝そのものをかき払っては、キリストのためのコイヌール*1を探し回ることが許されているのである。というのも、確かに、キリストの王冠の中で最も燦然と輝く宝石は、それらが失われていた最も暗黒の、最も汚らわしい場所から出たものとなるだろうからである。「あわれみ深い者は幸いです」。堕落した者、道を外れた者たちを気遣う者は幸いである。「その人はあわれみを受けるからです」。

 しかし、純粋なキリスト者は、あらゆる人々の魂にあわれみをかける。彼は、単に極度に堕落した階級――と世の人々から呼ばれるもの――だけを気遣うのではなく、全人類を堕落しているものとみなす。彼は、すべての人が神から離れて邪道に陥っていること、また、全員が罪と不信仰に閉じ込められているため、永遠のあわれみによらなけれが解放されえないことを知っている。それゆえ、彼の憐れみは、体裁の良い人々、富者、有力者にも向けられ、しばしば君主たちや国王たちをも憐れむ。なぜなら、彼らに真実を告げる者たちはほとんどいないからである。彼は、あわれな富者を憐れむ。というのも、労働者階級を矯正しようという種々の努力はなされているが、貴族や公爵夫人たちを矯正し、伯爵・子爵・男爵たちのような大罪人たちをイエス・キリストへの知識へ導こうとするための努力はいかに僅かしかなされていないことであろう。彼は、そうした人々に憐れみを感じ、あらゆる国々に憐れみを感じる。――異教の暗黒の中に座している国々、また、教皇制に拘禁されている国々を憐れむ。彼が切望するのは、恵みが万民のもとを訪れ、福音の真理があらゆる街角で宣言され、イエスがアダムのあらゆる息子たち、娘たちに知らされることである。そして、私は切に願う。兄弟たち。決して、この新しく生まれた性質の真の本能を軽くあしらわないでほしい。選びという偉大な教理は、私たちにとって非常に尊いものであり、私たちはそれをこの上もなく堅く奉じている。だが、ある人々は(否定できないことに)その教理によって自分たちの同胞の人々に対する愛を凍えるにまかせている。彼らは、人々の回心について大した熱意を有していないように見受けられ、ただ座り込んでいるか、何もしないまま立ち尽くしていることで全く満足し、神の聖定と目的は成就するだろうと信じているのである。確かに、それらは成就するであろう。兄弟たち。だが、それは他の人々をイエスのもとに連れて行く、暖かな心をしたキリスト者たちを通してであろう。主イエスは、ご自分のいのちの激しい苦しみのあとを見る[イザ53:11]であろうが、それは、救われている者が、別の者に救いを告げ、その別の者が第三の者に告げ、そのようにして、この神聖な火が燃え広がり、地上がその炎で取り囲まれるようになることによってであろう。キリスト者である人は、すべての人に対してあわれみ深く、彼らが《救い主》を知るように導かれることを切に願い、彼らに手を差し伸ばそうと努力する。自分の能力の限りを尽くして、彼は魂をイエスにかちとろうと努める。彼は、彼らのために祈りもする。もし彼が本当に神の子どもだとしたら、彼は時間をとって罪人たちのために神に訴える。また、自分にできる限りの献金をして、他の人々がその時間を費やして罪人たちに救いの道を告げ、キリストの使節として彼らに訴えるのを助ける。キリスト者である人は、このことを自分の大きな喜びとする。もし何らかの手段によって罪人を、御霊の力によりその誤った生き方から立ち選らせ、そのようにして1つの魂を死から救い、多くの罪を覆う[ヤコ5:20]ことができるとしたら、そうである。

 私は、このあわれみ深さについて、もっと多くのことを語らなくてはならない。これは、あまりにも広大な主題であるため、そのすべての詳細を示すことができない。これは確かに根本的には、神の愛の現われとして、神の被造物が益を受けることをあわれみ深く願うことに違いない。あわれみ深い者は、自分の飼っている動物に対してあわれみ深い。私は、馬に対して残酷な人が敬神の念に富んでいるとは信じない。時には鞭を当てる必要もあるが、それを残酷に用いる人は、確かに回心した人ではない。時として、わが国の町通りにはこうした光景が見られる。それは、天の神を怒らせて、憤りをもって下りて来させ、わきまえのない動物に対する、野蛮な人々の残虐性を罰させてしかるべきものである。しかし、神の恵みが私たちの心の中にある場合、私たちは蝿一匹にも不必要な痛みをもたらさないであろう。そして、たとい人類の必要のために、より劣る動物に苦痛を与えなくてはならないとしても、キリスト者の心は痛みを覚え、可能な限り不必要な苦痛が、神の御手の造ったただ1つの被造物によっても忍ばれることがないような手段を講じようとするであろう。かの老水夫によるこの格言にも、同じ真理がある。「祈り良き者、良く愛すなり、人をも鳥も 獣もすべて」*2。心の親切さの中には、たとい必ずしも恵みによるものではなくとも、恵みに似たものが一抹はあるものである。そうした親切心をあらゆるキリスト者は、神が造られたすべての生き物に対して感じるべきである。

 さらに、あわれみ深い者は、自分の同胞である人々に対するそのあわれみを、こうした種類の多くのしかたで示す。彼は、彼らの人格に対してあわれみ深い。そのあわれみによって彼は、世評の高い善良な人々について自分が耳にする風評の大方を信じない! あるキリスト者である兄弟の人格を傷つけるような、驚愕すべき物語を何か告げられても、彼は云う。「さて、もしその兄弟がそうした物語を私について告げられたとしたら、私はそれを信じてもらいたくありませんよ。それをその人本人が調べて、全く確信するまではね。だから、私も、信じざるをえなくなるまでは、あの人について、そうしたことを信じようとは思いません」。キリスト者たちが互いの人格について信頼し合うのは喜ばしいことである。そうした信頼が支配しているような教会では常に、莫大な数の悲しみが未然に防がれるであろう。兄弟よ。私は、自分に対していだくことのできる、いかなる信頼よりも大きな信頼をあなたに寄せている。そして、そうしたことを真実に云える以上、あなたも同じことをあなたの同胞のキリスト者について云えるべきである。そうした噂をおいそれと受け入れてはならない。嘘を信じることは、嘘を告げるのと同じくらい悪い。もし私たちが常に喜んでそれを信じるとしたらそうである。もし誰ひとり中傷を受け入れも、信じもしないとしたら、世にはひとりも中傷者がいなくなるであろう。というのも、ある品物の需要が全くないとき、それを生産する者はいなくなるからである。そのように、もし私たちが悪い噂を信じようとしなければ、悪い噂をばらまく者たちは落胆し、その悪しき商売から手を引くであろう。しかし、かりに私たちがいやでもそれを信じざるをえないとしたら? そのとき、あわれみ深い者は、それを他言しないことによって、そのあわれみを示す。「悲しいかな!」、と彼は云うであろう。「それが真実だとは、何と残念なことか。だが、なぜそれを私が云い広めるべきだろうか?」 たといある連隊の中に、たまたま裏切り者がひとりいるとしても、他の兵士たちが行って、それをよそで云い広め、こう云うとは私は思わない。「俺たちの連隊は、戦友のひとりのせいで、名誉ががた落ちだよな」。「自分の巣を汚すのは馬鹿な鳥」であり、自分の舌を用いて兄弟たちの過失や失敗を告げるのは馬鹿な信仰告白者である。ならば、かりにそうしたことが耳に入った場合、あわれみ深い者はそれを他言しないことを自分の義務と感じる。多くの人は、若い時に犯した何らかの過失が厳格に取り扱われたことによって、一生を破滅させられてきた。ひとりの青年が一定の金額を着服した。そのため司直の前へと連行され、監獄に入れられ、そのため一生の間、窃盗犯とされてしまった。初犯であれば、祈りと親切な叱責とによって赦してやることで、彼を美徳の人生へとかちとったかもしれなかったであろう。あるいは、(決してありえない話ではなく)敬神の念に富んだ人生へとかちとったかもしれない。キリスト者は、いずれにせよ、時として起こる絶対的な必要がない限り、悪をあばき立てるべきではない。むしろ、常に可能な限り優しいしかたで、過ちを犯した者を扱うべきである。

 そして、兄弟たち。私たちは、ある兄弟の人格の最悪の面を眺めようとは決してしないことによって、互いにあわれみ深くあるべきである。おゝ、いかに素早く一部の人々が他の人々の過ちを嗅ぎ出そうとすることか! 彼らは、誰それ氏が教会の中で非常に用いられていると聞きつけると、こう云う。「しかり。その通りだ。だが、彼は、非常に奇妙なしかたで仕事に取りかかるではないだろうか。だから、彼は変わり者なのだ」。よろしい。あなたは、非常な成功を収めている善良な人々の中で、少しも風変わりな所のない人をひとりでも知っているだろうか? 一部の人は、いささか滑らかすぎるため、大きな事を行なえない。私たちの回りにいる奇妙な節くれたちこそ、私たちの人格の力なのである。だが、なぜ自分たちの欠点のすべてをなぜ急いで指摘すべきなのだろうか? しかり。あなたは太陽が明るく輝いているときに外に出て、こう云うだろうか? 「しかり。この太陽は非常に良い発光体ではあるが、そこにはいくつか黒点があると評したい」。そうするとしたら、あなたは自分の評言を自分ひとりにとどめておいた方が良い。というのも、それはあなたがいかなる黒点を有していようといまいと、あなたよりもずっと多くの光を与えるからである。そして、この世にいる多くの傑出した人々にもいくつか黒点はある。だが、彼らは神と自分の時代とに対して良い奉仕をしているのである。だから、私たちは、年がら年中、黒点の探し屋にならないようにし、むしろ、その兄弟の性格の暗い面よりは明るい面を眺めよう。そして、他のキリスト者たちの評判が高まれば、私たちの評判も高まり、彼らがその聖さによって誉れを得れば、私たちの主がその栄光となられると感じようではないか。そして、私たちはその栄光の慰めの一部にあずかるのである。そして、決して時として上がる騒々しい叫びに声を合わせないようにしよう。犯したとしても、ごく小さな違反しか犯したことがないだろう人々を非難するその叫びに。しばしば頻繁に私たちは人々が叫ぶのを聞いてきた。彼らの声は、誰かひとりの人に向かって吠えつける猟犬の群れのように鳴り響く。それも、誤った判断だの、それに毛が生えたようなものだののためなのである。「そいつを倒せ、そいつを倒せ!」 そして、もしその人が、たまたまそれと同時に何か金銭的な苦難に陥ると、確かにその人は虫けら同然の人間に違いなくなる。というのも、黄金の欠乏は、ある人々にとっては、明らかに美徳の欠如の証拠であり、商売における成功の欠如は、一部の人々によって、あらゆる悪徳の中でも最も破滅的なものとみなされる。しかし、善良な人々が過ちを犯した際のそうした怒号から、願わくは私たちが解放されるように。また、願わくは私たちのあわれみが常に、間違ったかもしれないが、それにもかかわらず、心からの真実な悔い改めを示し、それからは自分たちの《救い主》なる神の教えをあらゆることにおいて飾ろうという願望を示すいかなる人をも、私たちの愛情へと、また私たちの交友関係へと進んで回復させるという形を取るように! あなたがた、あわれみ深い人たちは、あなたの放蕩した兄弟が、その御父の家に戻って来るときには、彼をいつでも迎え入れようとするであろう。あの兄息子のようであってはならない。そして、音楽や踊りの音が聞こえて来るときには、「これはいったい何事か」[ルカ15:26]、と尋ねるがいい。だが、いなくなっていた者が見つかり、死んでいた者が生き返って来たときには、みなが喜ぶのがふさわしいとみなすがいい。

 私にできるのは、ただ、あなたがたの中のひとり二人に当てはまるだろう、いくつかの心得を持ち出すことだけである。私の兄弟姉妹たち。私たちがあわれみ深くあるべきであるということは、他の人々を、彼らに耐えられる限度を越えた誘惑に遭わせない、という意味においてである。知っての通り、世には、自分のもとにいる若い人々を誘惑にさらすということがある。親たちは、時として自分の男子たちが、立身出世の機会はあるが、大きな罪に陥る、より大きな機会がある会社で、人生の出発をするのを許すことがある。彼らは、自分の息子たちを大会社に入れることで、時として冒すことになる道徳的危険を重んじない。そうした大会社では、倫理などおかまいなしで、サタンの一千ものあわれみが不用心な鳥たちを捕えようと張られているのである。あなたの子どもたちに対してあわれみ深くあるがいい。彼らが、種々の悪にさらされないようにするがいい。そうした悪は、ことによると、若い頃のあなたにとってあまりにも強力であったものかもしれない。ならば、それは子どもたちにとっても、あまりに強力なものであろう。あなたのあわれみによって、彼らのことを思いやり、そうした立場に彼らを着かせないようにするがいい。

 また、あなたの事務員や、召使いたちについて云えば、私たちは時として、自分の回りに不正直な者らがいるとき、彼らと同じくらい咎ある者となることがある。私たちは、鍵をかけて自分の金銭をしまっておかず、適切な用心をしていなかった。そうしていたなら、彼らがそれを盗むことはできなかったであろう。私たちは、時に種々の品物を置きっぱなしにし、私たちの無頓着さによって、こうしたほのめかしがしばしば起こるであろう。「これを取っても良いのではないか、あれを取っても良いのではないか?」 そして、そのようにして私たちは、自分の配慮のなさによって、彼らの罪に関わりを持つことがありえる。覚えておくがいい。彼らは、ただの男や女にすぎず、時にはただの男の子や女の子にすぎないのである。では、彼らの前に餌を置いてはならない。サタンの走狗となってはならない。むしろ、できる限り、彼らから誘惑を遠ざけてやるがいい。

 やはりまた、私たちは人々に対してあまり多くを期待しすぎないということによってあわれみ深くあろう。私の信ずるところ、ある人々は、自分のために働いている者たちが、一日二十四時間かそこらも骨折り仕事をするよう期待している。その務めがいかに辛いものであろうと、彼らは、自分のしもべたちの頭が痛むことも、彼らの足が倦み疲れて来ることも決して思い至らない。「彼らが造られたのは、私たちのために奴隷のように働くためでなくて何であろう?」 それが、ある人々のいだいている考え方だが、それは真のキリスト者の考え方ではない。真のキリスト者は、自分のしもべたちや召使いたちに自分の義務を果たしてほしいと願うのを感じる。そして、彼らの多くがそうするようにならないことを見いだして悲しむ。だが、彼らが勤勉にそうしているのを見てとるとき、彼はしばしば、彼らが自分たちに対して感じるよりも大きな同情を彼らに対して感じる。彼は思いやりがあり、優しいからである。誰が、もう一哩余分に馬を駆り立てて、今にもばったと倒れんばかりに感じさせたいと思うだろうか? 誰が、自分の同胞である人間にもう一時間余計に仕事をさせて、相手を全くみじめにさせたいと願うだろうか? これまで語ったことを一言に縮めれば、愛する方々。私たちはすべての者に対して心配りをし、思いやりのある、親切で、優しい者となろうではないか。

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「もし私たちがそのような行ないながら世間を渡って行けば、いいようにつけ込まれて、痛い目に遭いますよ」、云々。よろしい。試してみるがいい。兄弟よ。試してみるがいい。姉妹よ。そうすれば、あなたは、情け深すぎ、優しすぎ、あわれみ深すぎることによって自分にやって来るいかなる惨めさも、それがもたらす心の平安とくらべるほどでもない、あまりにも軽い患難であることが分かるであろう。また、それは、あなた自身の胸にも、他の人々の胸にも同じように沸き上がらせる喜びの絶えざる泉とは比較にならないであろう。

 III. しめくくりとして手短に注意したいのは、《あわれみ深い者に約束されている祝福》である。

 彼らについては、「その人はあわれみを受ける」と云われている。私はこう信じずにはいられない。このことは、来世におけることと同じく現世におけることをも意味している、と。確かに、これが詩篇41篇でダビデが意味していることである。「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。主は彼を……地上でしあわせな者とされる」[詩41:1-2]。この聖句は、新しい経綸の下ではことごとく消え失せているのだろうか? そうした数々の約束は、古い律法時代だけのためのものだろうか? あゝ、兄弟たち。私たちには太陽がある。だが、思い出すがいい。太陽が輝いている間も、星々が輝いていることを。私たちは、より大きな輝きゆえに星々を見ることはできない。だが、一個一個の星は、夜と同じく昼間も輝いているのであり、光を強めているのである。そのように、福音のより大きな約束の数々によって、私たちが時として古い経綸の約束の数々を忘れてしまうことはあるが、それらが無効にされているわけではない。それらは、なおもそこにあり、確証されているのである。また、キリスト・イエスにおいて、「しかり」となり、「アーメン」となり、私たちが神に栄光を帰すことになるのである[IIコリ1:20]。私が堅く信じるところ、ある人が悩みの中にあるとき、もし天来の恵みによって、他の人々に対して親切で寛大になることができたとしたら、その人は祈りによって神に向かい、こう云って良い。「主よ。そこにあなたの約束があります。私は、そのことゆえの何の功徳も申し立てません。ですが、あなたの恵みによって与えられた力によって、私は、他の人々が私と同じ状況にあるのを見たとき、彼らを助けることができました。主よ。私のために助け手を起こしてください」。ヨブは、その事実から何がしかの慰めを得たと思われる。それは、私たちの最も壮大な慰めでも、最大の慰めでもない。いま述べたように、それは太陽ではない。単に星々の1つにすぎない。それと同時に、私たちはこの星明かりを蔑みもしない。私の信ずるところ、神は非常にしばしば、他の人々に対するあわれみ深い精神をお恵みになった人々を、現世的な問題において助け、祝福してくださるであろう。

 そして、往々にして、このことは別の意味でも真実である。すなわち、あわれみ深かった者たちは、あわれみを受けるのである。というのも、彼らは、他の人々からあわれみを受けるからである。私たちの《救い主》は云われた。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです」[ルカ6:38]。こうした種類の、一般的な感情が起こることであろう。もしある人が厳格に正義を貫き、それだけでしかなかったとしたら、彼が世間で落ち目になるとき、彼を憐れむ人はほとんどいない。だが、そちらの、もうひとりの人は、これまで他の人々を助けることに熱心に努力してきた人であり、彼が悩みの中にあることが分かれば、あらゆる人が云うであろう。「あゝ、何てお気の毒でしょう」、と。

 しかし、この聖句の完全な意味は、疑いもなく、パウロがその友オネシポロについてこう書いた日に関係している。「かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように」[IIテモ1:18]。私が、あわれみを何か功徳のわざとして褒めそやしていると思ってはならない。私は、初めの方で、そうした考えをことごとく脇へ置こうと力の限りを尽くした。しかし、恵みの証拠の1つとして、あわれみ深さは非常に顕著に目立ったしるしである。そして、もしあなたがその証明を欲するとしたら、あなたにこう思い起こさせてほしい。私たちの《救い主》ご自身は、審きの日を次のように描写しておられるのである。「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです」[マタ25:34-36]。それゆえ、これは彼らが御父に祝福されていたという証拠なのである。

 


(訳注)

*1 コイヌール。1849 年以来英国王室が所蔵する印度産出の金剛石。[本文に戻る]

*2 サミュエル・コールリッジ著、『老水夫行』(1798)、第七巻。[本文に戻る]

----

----

第五の幸福の使信[了]

--------


HOME | TOP | 目次