----
序 文
---- ことによると、本巻の後半の説教に付された、いくつかの注記や牧会の手紙こそ、私が自分の説教集の読者の方々に対していだいている気持ちを最も良く説明するものかもしれない。私は、彼らを自分の友人であると感じている。疑いもなく、多くの人々は、あらを探したり、批判したり、非難するために読むに違いない。だが、おびただしい数の人々は、数々の至らない点を大目に見るだけの愛と、数々の真理によって益を受けるだけの恵みと、私をその心の中に入れてくれるだけの親切さを有しているに違いない。私は、これらの説教によって祝福されてきた人々から、愛に満ちた数え切れないほどの書簡を受け取ってきた。同情と愛情のこもった激励の言葉を、あらゆる教派のキリスト者の方々から受け取ってきた。とりわけしばしば《国教会》の会員の方々から受け取ってきた。私は、こうした気高いキリスト者精神をありがたく思うものである。それによってこの兄弟たちは、私たちが互いに一致できないあらゆる事がらを忍びつつ、私たちが同じように喜んでいる栄光に富む諸真理のゆえに私を愛する兄弟として真心から受け入れてくれているのである。それゆえ私は、この序文において、あらゆる兄弟たちに挨拶したいと思う。私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと、あわれみと、平安が、彼らの上に増し加わるように。私たちは、《慈愛の父》[IIコリ1:3]に熱心に祈りをささげるものである。私たちがみな、御子の御霊で満たされ、あらゆる点で御子のかたちにならい、ついには御子とともに栄光のうちに現われることができるように。願わくは、私たちのその祈りが互いに聞き届けられるように。
さて今、この第四巻の序文のために、何か新しく云えることがあるだろうか? 確かに私は、ただ1つの主題に閉じ込められており、それは過去数年の唄の繰り返しを含むものである。私は、審きとあわれみについて歌わざるをえない。また、自己中心のそしりを招くことは承知の上で、ここに私の賛美を記録するであろう。
個人的には、私は二度、忘れられない救出を経験した。一度はハリファックスで、恐ろしい事故を免れることができた。その事故については、本巻の中で記録されている。だが、また私は、非常な痛みと苦しみを伴う病気から幸いにも快復することができた。願わくは、今後の私の人生が、主への奉仕における献身の度合を倍増しにするように!
牧会伝道の働きにおいても、主は非常に恵み深くあられた。人々は、いついかなる時も膨大な群衆となって集まらずにはおかなかったし、兄弟たちは、みことばが生き生きと力強く進展するようにとの祈りにおいて格闘するのをやめたことがなかった。しかし、私の特別の喜びの冠は、へりくだり給う《主人》が、ひとりの者にこれまで与えてこられた成功に存している。その者は、自分がそのような恩顧に全く徹底して値しないことをますます深く感じている。というのも、これらの説教が、その上に主の右の御手の刻印を押されてきたからである。主がそれらを罪の確信と、回心と、建徳のために用いてこられたことに鑑みればそうである。
ことによると、こうお知らせすれば読者の方々にとって興味深いことかもしれないが、「イエスを仰ぎ見て」と題された説教は、多くの常ならぬ証印を主から受け取ってきた。それは、卓越したしかたで祝福されてきた。私たちの《教会集会》においては、この説教を聞いたことをきっかけにもたらされた多くの回心が報告され、この国の津々浦々にいる聖徒たちの目に留まった幾多の出来事から私は、それが読まれた際にも、いと高き所からの同じような油注ぎが伴ってきたことに気づくのである。この事実に私は驚きはしない。というのも、それは、神の主権が再び証明されたにすぎないからである。この説教は一連の説教の中でも最も単純なものの1つであり、独創的で人目を引くものを欲する人々からはおそらく見向きもされないであろう。だが《主人》はこの説教のうちにおられ、それゆえ、聖霊によって当てはめられたとき、これは御民の心を喜ばせてきたのである。
「未回心者への呼びかけ」と題されたもう1つの説教も、非常に多くの人々を目覚めさせ、自分たちの失われた状態を感じさせる手段となってきた。これは、実際に語られた際に、途方もないしかたで神からご自分のものであると認められたために、小冊子として再販され、単一の説教として通常価格で流布できるようにされたほどであった。
この2つに並ぶものとして、以下の主題の講話もまた非常に著しいしかたで罪人たちの回心のために用いられてきた。――「タルソのサウロの回心」、「ペリクスの前におけるパウロの説教」、「私は何をしてきたのか?」、「引っくり返された世界」、そして「栄光に富む福音」である。
私がある説教を尊ぶ基準は、人々の賛同でも、そこに現わされた才能でもなく、聖徒を慰め、罪人を覚醒させる際にもたらされた効果である。結局はこれこそ、いかなる語られたこと、あるいは、いかなる書かれたことをも評価する実際的な方法ではないだろうか?
私にとって1つの清新な慰藉のもととなってきたのは、このように印刷された説教を公に読み上げることに伴う益について、私が受け取っている情報である。諸処の人里離れた場所にあるキリストの《教会》では、その唯一の牧会活動は、去来する伝道者が彼らの間でその口を開くように導かれた時以外には、こうした頁の中にしか見いだされないのである。貧者たちが寄り集まるすし詰めの部屋の中で、こうした説教は、これ以上に洗練された言葉遣いをほとんど理解できないであろう何百人もの人々に向かって読み上げられている。その一方、競馬場でも、定期市でも、また、ローマ教会の巡礼路においてさえ、これらは熱心な兄弟たちによって用いられ、野外で聴衆を引き寄せる手段とされてきた。米国では、すでに十五万冊以上が売られており、オーストラリアでは、ロンドンの出版者たちから輸出されたもの以外に、二冊の現地版が刊行されている。ウェールズ版は毎月発行されつつあり、何編かの説教はオランダ語、ドイツ語、フランス語に訳されており、英語版の頒布も減少してはいない。
1つの喜びの主題に、私はどうしても触れないわけにはいかない。講壇の重要性は、明らかに認められつつある。私は、聖ポール大寺院や、他の数々の大建造物がみことばの奉仕のために開かれたことを非常に欣快とするものである。願わくは、諸処の《教会》の熱心が増し加わり、その説教がイエスにある真理[エペ4:21]の宣言となるように。健全な教理は、今も宗教改革の時代と同じくらい欠かせないことである。私たちは、単に群衆が集まっているというだけで喜んではならない。むしろ、ただの道徳的格言だの、種々の儀式的遵守だのではなく、福音が宣べ伝えられているように気をつけなくてはならない。
私は本巻に数多くの誤植があることに気がついた。そして、こう述べておきたいと思う。これらの説教は、熱心な求めに応ずるため性急に印刷されたものであり、植字工たちは、余裕をもって準備と印刷の行なわれる書物であれば施されたはずの綿密な吟味を、しばしば到底施すことができなかったのである。
神の民すべてに対する愛をこめて。
キリストおよび教会のしもべ、C・H・スポルジョン
ロンドン、1859年1月
HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT