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「私は何をしてきたのか?」

NO. 169

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1857年12月27日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「私は何をしてきたのか」。――エレ8:6 <英欽定訳> 


 ことによると、他のいかなるたとえにもまして神を恵み深いお方として表わしているのは、その御座から降りて、人類の必要に答え、その災いを見てとろうとするお方としての神を示す数々の比喩かもしれない。私たちは、その神を愛さずにはいられないに違いない。この神は、ソドムとゴモラが不義にまみれていたとき、その咎と邪悪を知っていたにもかかわらず、これらの町を実際に訪れ、その町通りにしばし滞在するまでは、これを滅ぼそうとはなさらなかった。私たちは、この神に対して心からの愛情を注ぎ出さざるをえないと思う。この神は、至高の栄光の中からその耳を傾け、真心からの願いをそっと口にしている弱り果てた者の唇にその耳を当ててくださるというのである。いかにして私たちは、この方こそ私たちが愛さなくてはならない神であると感じずにいられるだろうか? 神は私たちに関わるあらゆることに気を配り、私たちの髪の毛さえも数えており[マタ10:30]、その御使いたちに命じて、私たちの足どりを守らせ、私たちの足が石に打ち当たることのないようにし[詩91:11-12]、私たちの歩みを見張り[ヨブ33:11]、私たちの道を整えてくださる。しかし、この大いなる真理が特に人の心に迫ってくるのは、いかに神がご自分の被造物たちの物質的な利益のみならず、その霊的な関心事に細やかな心遣いをしてくださるかを思い起こすときである。神は聖書の中では、いつでも恵みを与えようと待っているお方として表現されている。あるいは、たとえ話の言葉遣いによれば、自分の放蕩息子がまだ遠くに離れていたにもかかわらず彼を見つけ、走り寄って彼を抱き、口づけしてくださるのである[ルカ15:20]。神は、あわれな罪人の心の中においてすら、何か1つでも良いものはないかと注意を傾けているため、神にとっては、吐息1つの中にも音楽があり、涙一滴の中にも麗しさがある。そして、私が今しがた読み上げた節の中で神はご自分を、人の心に目をとめ耳を傾けるお方として表わしておられる。――何か良いことが聞こえないかと神は耳を傾けておられる。「わたしは注意して聞いた。耳を傾けた。じっと立っていた。彼らの声を心に留めた」*。また、ここでいかに神は優渥なお方に見えることであろう。神は顔をそむけるかのように、また、いわば心の嘆きとともにこう叫んでいるかのように表わされているのである。「わたしは一心に注意して一心に聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『私は何をしてきたのか。』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない」*。あゝ! 話をお聞きの方々。あなたがほんの少しでも神を求めたい気持ちになるとき、それは神の希望をかき立てずにはおかない。あなたが天に向かってそっと祈りをささげるなら、必ずや神はそれに気づいてくださる。あなたのささげる祈りがしばしば朝もやのようで、朝早く消え去る露のよう[ホセ13:3]であったとしても、それでもこうしたすべては、エホバのあわれみの心を動かしてきた。神はあなたの叫びを聞いており、あなたの魂の息づかいに心を留めておられる。たといそれがことごとく消え去ったとしても、誰にも知られずに消え去ったのではない。神がそれを今も覚えておられる。そして、おゝ! あなたがた、きょう《救い主》を求めている人たち。覚えておくがいい。《救い主》の目は、きょう、あなたの求める魂に注がれている。あなたが求めているのは、あなたを見ることのできないお方ではない。あなたは、あなたの御父に近づきつつある。だが、あなたの御父は遠くからでもあなたを見ておられる。一滴でもあなたの頬に涙が流れれば、あなたの御父はそれを有望なしるしとして目にとめてくださる。それは、いま賛美歌を歌っている間にあなたの心臓が打った鼓動1つにすぎないかもしれない。だが神は、この愛に満ちたお方は、それすらも目にとめ、少なくともあなたが、まだ罪によって完全にかたくなにされておらず、まだ愛とあわれみによって放棄されてもいない兆しとみなしてくださるのである。

 この聖句は、「私は何をしてきたのか」、である。その手始めに私は、愛情のこもった多少の説得の言葉によって、今この場にいるすべての人々にこの問いかけを発するよう促したい。第二に、それに答えようとする際に助けとなる多少の助言を告げたいと思う。そうした上でしめくくりに、その問いに対して、自分に不利な答えをせざるをえなかった人々への多少の厳粛な勧告を告げることにする。

 I. では第一に、多少の《真剣な説得》の言葉である。今この場にいるすべての人々、特に、まだ回心していないすべての人に願いたい。自分で自分にこう問いかけてみて、それに厳粛な答えを返してみてほしい。「私は何をしてきたのか?」

 ほとんどの人は、わざわざ自分自身の生き方を顧みることを好まない。大方の人は破産寸前であるため、自分自身の帳簿を見るのを恥じているのである。人類の大多数は、馬鹿な駝鳥に似ている。狩人たちによって追い迫られると、砂の中に頭を埋め、目を閉じ、自分に追手の姿が見えない以上、もう安全だと考えるのである。もう一度云うが、人類の大多数は自分自身の伝記を吟味するのを恥じており、もし良心と記憶が一緒になって、彼らの全生涯の歴史の共著者になるとしたら、彼らは巨大な鉄の締め金と南京錠を買っては、その書物に鍵を掛けてしまうであろう。それを読む勇気がないからである。彼らは、それが悲嘆と災厄に満ちた本であると知っており、それを読んだ上で、なおも自分たちの不義の道を歩み続ける勇気がないのである。それゆえ私は、そうしたあなたがた全員にその本を取り上げるよう説得するのに非常な難儀を覚える。また、その頁が少なかろうと多かろうと、白かろうと黒かろうと、あなたにそれを読み通させるには、相当の苦労をするであろう。しかし、願わくは聖霊が今あなたを説得し、あなたがこの問いに答えられるようにしてくださるように。「私は何をしてきたのか?」 というのも、覚えておくがいい。私の愛する方々。自分自身を探ることはあなたに何の害も及ぼすことがありえないのである。いかなる商人も、自分の帳簿を調べることで貧乏になることなど決してない。思っていたよりも自分が貧乏だったことには気づくかもしれないが、彼に害を及ぼしたのは、彼の帳簿調べではない。彼が、それ以前の不良な取引によって自分で自分に害を及ぼしていたのである。愛する方。まだ取り返しのつくうちに過去を知る方が、パラダイスの門に入れるだろうと希望しながら、目隠しをしたまま進んでいったあげくに間違いに気づき、悲しいかな! そのときには扉が閉まっていたため手遅れになっているなどというよりもましである。在庫調べをすることによって失う物など何もない。ちょっとした自己吟味によって物事が悪化するはずはない。このこと自体、あなたをしてそう仕向けるべき1つの強力な議論である。だが、あなたに大きな益がもたらされうることも思い出すがいい。というのも、かりにあなたと神との間に何の問題もないというのなら、なぜあなたは、そのことを心から味わい楽しみ、自分を慰めないでいて良いだろうか? 神と正しい関係にある者には何も悲しむべき理由がないからである。しかし、あゝ! あなたが間違っているという可能性が少なくないことを思い出すがいい。この世のおびただしい数の人々は欺かれており、あなたもまた欺かれている見込みは多々ある。あなたは生きているとされているが、実は死んでいる[黙3:1]かもしれない。あなたはジョン・バニヤンが次のように語った木のようである。「それは美しく、外側は青々としていた。だが、その内側は腐りきっていて、悪魔の火口箱の火口にもなれるほどであった」。そのように、きょうのあなたは自分と同胞たちの前に見事に白く塗られて立っていて、ことのほか美しく見えるかもしれない。だが、あなたが、キリストからこのように云われたパリサイ人に似た者であることもありえる。「あなたは白く塗った墓のようなものです。内側は、腐れや死人の骨でいっぱいです」*[マタ23:27]。さて、方々。いかにあなたが自分をごまかしていたいと願っているとしても、私自身としては、自分の本当の状態を知る方が、自分の状態についてこれ以上ないほど心地よい空想をいながら、後になって間違いだったことに気づくよりもも一千倍もましだと感じている。幾度となく私はこの祈りを厳粛にささげてきた。「主よ。私を助けて、私の最悪の状況を知ることができるようにさせてください。もし私が今なおあなたから離れ、神もなく、キリストからも離れた状態にいるとしたら、少なくとも私を自分に対して正直にならせ、自分がいかなる者かをわきまえさせてください」。思い出すがいい。愛する方。あなたが自己吟味をするために有している時間は、結局において非常に短いのである。じきにあなたは、その大いなる秘密を知るであろう。ことによると、私がいかに言葉を荒げても、今あなたがかぶっている仮面をはぎ取ることはできないかもしれない。だが、《死》という者には何のおべんちゃらも通用しない。あなたはきょうは聖徒の装いをして、そのふりをしていられるかもしれないが、死はすぐにあなたの衣をむしり取り、あなたは死によってむき出しにされた後で審きの座に立たなくてはならない。それがむき出しの無罪であろうと、むき出しの咎であろうと関係ない。また、やはり覚えておくがいい。あなたは自分を欺くことができても、あなたの神を欺くことはできない。あなたの目方は不足しているのに、あなたが自分を量っている秤の天秤棒には仕掛けがしてあって、真実を告げていないかもしれない。だが神があなたを試すときには、いかなる手心も加えることをなさらない。永遠のエホバが正義の天秤をつかみ、一方の皿にご自分の律法を載せるとき、あゝ、罪人よ。神があなたをもう一方の皿にお載せになるとき、いかにあなたは震えるであろう。キリストがあなたのキリストとならない限り、あなたは目方が足りないと分かるからである。――あなたは秤で量られて、目方の足りないことが分かり[ダニ5:27]、永遠に投げ捨てられるであろう。

 おゝ! 私はいかなる言葉を用いれば、あなたがた全員に自分を探らせることができるだろうか! あなたがたの中のある人々が云い立てるであろう種々の云い訳を私は重々承知している。あなたがたの中のある人々は、自分は教会員なのだ、だから自分には何も問題がないのだ、と申し立てるであろう。ことによると、あなたは桟敷席を見渡し、私に向かってこう云うであろう。「おいスポルジョン。あんたの手が私にバプテスマを授けてから、まだ一年も経っていないではないか。そして、あんたは何度も私を聖餐式の葡萄酒とパンへと迎え入れたではないか」。あゝ、話をお聞きの方々。私もそれは承知している。そして、残念ながら私がバプテスマを授けたあなたがたの中の多くの人々は、決して主がバプテスマをお授けになっていなかった人々ではないか、教会の交わりに迎え入れられたあなたがたの中のある人々は、決して神から受け入れられてはいなかったのではないかと思う。イエス・キリストがその十二弟子の中に偽善者をひとり有しておられたならば、この場にいる千二百人ほどの教会員の中には、いかに多くの偽善者たちがいることであろう? あゝ! 話をお聞きの方々。今の時代、キリスト教信仰の告白をするのは非常にたやすいことである。多くの教会は全く何の吟味もなしに志願者たちを受け入れている。私のもとにもそうした人々がやって来ることがある。それで私は彼らにこう告げる。「私はあなたを、この世からやって来た人と同じように扱わなくてはなりません」。なぜなら、彼らはこう云ったからである。「私は教役者と面接したことなど一度もありません。私は教会に願書を出しただけで受け入れてもらえたのです」。まことに、この信仰告白の時代において、人は世の中でいかに高尚な信仰告白をしていようと、最後には罪に定められた背教者となっていることがありえる。だからといって、この問いかけを先送りにして、このように云ってはならない。「私は忙しすぎて自分の霊的な問題などにかかずらっていられない。そのうちにいくらでも時間は取れるさ」。多くの人がそう云っては、彼らの「いくらでもある時間」がやって来る前に、自分がもはや何の時間もない所にいることに気づいてきたのである。おゝ! あなたがた、自分にはいくらでも時間があると云っている人たち。あなたは、いかに死があなたの間近に迫っているか、いかにかすかにしか気づいてないことか。この場にいるある人々は元旦を迎えることがないであろう。この年を越せない多くの人々がいる見込みは非常に高い。おゝ、願わくは私たちの神、主が、私たちひとりひとりをして死と審きに備えさせ、今朝の勧告を祝福して私たちの備えとさせるため、私たちにこう問いかけさせてくださるように。――「私は何をしてきたのか?」

 II. さて、そこで私はあなたがたがこの問いかけに答える助けを与えたいと思う。――「私は何をしてきたのか?」

 キリスト者たち。真のキリスト者たちよ。私は今朝あなたがたにはほとんど語ることがない。私は言葉数を多くはせず、むしろ、この質問をあなた自身の良心にゆだねたいと思う。あなたは何をしてきたのか? 私にはあなたがこう答えるのが聞こえる。「私は自分を救うためには何もしてきませんでした。それは、あの永遠の契約において、世界の基の置かれる前から、私のために成し遂げられていたからです。私は自分のための義を作るためには何もしてきませんでした。キリストは、『完了した』、と云われたからです[ヨハ19:28]。私は自分の功績によって天国を獲得するためには何もしてきませんでした。それはみなイエスが私が生まれる前から私のために行なわれたからです」。しかし、云うがいい。兄弟よ。あなた自身のみじめな魂を救うために死んでくださったお方のために、あなたは何をしてきただろうか? そのお方の教会のために何をしてきただろうか? この世の救いのために何をしてきただろうか? あなた自身が恵みにおいて霊的に成長するために何をしてきただろうか? あゝ! 私は、あなたがたの中の真にキリスト者である人々を、この点で非常に厳しく打ちすえることができる。しかし、あなたのことはあなたの神におまかせしよう。神はご自分の子どもたちをお懲らしめになる[ヘブ12:6]。しかしながら、1つだけは突っ込んだ質問をしておこう。今この場には、この一年の間に、ひとりの魂の救いの手段にもならなかったキリスト者がたくさんいるではないだろうか? さあここで、振り返ってみるがいい。あなたは、今年、魂の救いの直接的あるいは間接的な手段となってきたと信ずべき理由が何かあるだろうか? もう一歩進もう。あなたがたの中には年老いたキリスト者たちがいる。そして、私はあなたにこう尋ねるであろう。あなたは、自分が回心してからこのかた、たったひとりの魂の救いの手段にでもなったことがあると信ずべき理由が何かあるだろうか? 過去、族長たちの時代には、子どもがいないことは女にとって不名誉なことであった。だが、キリスト者にとって霊の子どもたちがいないということは何たる不名誉であろう。――自分を媒介にしては、ひとりも神の子として生まれた者がいないのである! だがしかし、この場にいるあなたがたの中のある人々は霊的に石女であり、たったひとりの回心者をもキリストへと導いたことがない。あなたは、自分の栄冠にたった1つの宝石もはめ込まれておらず、星なしの冠を天国で戴かなくてはならない。おゝ! おゝ! 私は先週、神の忠実な子どもの喜びと楽しさを見ることができたと思う。私は、ひとりの婦人と顔を合わせ、ある人が彼女を媒介とした働きによって神に回心することができたと聞かされたのである。私は彼女の手を取って云った。「よろしい。では、あなたは神に感謝すべき理由がありますね」。「はい。先生」、と彼女は云った。「私は今では幸いで誉れある女という気がします。私は今まで一度も、自分に分かる限りは、魂をキリストに導く手段となったことがなかっのですから」。そして、この善良な婦人は非常に幸せそうに見え、嬉し涙を目に浮かべているほどであった。この一年間で、あなたは何人を導いただろうか? さあ、キリスト者よ。あなたは何をしてきたのか? 悲しいかな! 悲しいかな! あなたは実を結ばないいちじくの木ではなかったが、それでもあなたの実は目につかないほど小さい。あなたは神の前に生きた者ではあるかもしれないが、あなたがたの中のいかに多くの人々が非常に役に立たず、ことのほか実を結ばない者であったことか。また、このように私があなたを厳しく扱っている間、私が自分のことは棚上げにしていると思ってはならない。しかり。私は自分に向かって問いかける。「私は何をしてきたのか?」 そして私は、ホイットフィールドの熱心を思うとき、また、過去の時代の大伝道者たちの多くの真剣さを思うとき、ここで自分の有様に呆然と立ちつくし、自らにこう問いかけるものである。「私は何をしてきたのか?」 そして、それに対して私はいささか狼狽した顔で答えるしかない。話をお聞きの方々。いかにしばしば私はあなたに神のことばを宣べ伝えていながら、いかに僅かしか牧師がなすべきほどにはあなたのために涙を流してこなかったことか! いかにしばしば私は必ず来る御怒りについてあなたに警戒すべきであったのに、自分になりえたほど真剣になることを忘れてきたことか。私は、最後になって私の神の審きのもとに出るとき、魂の血の責任が自分に帰されるのではないかと思う。私は切に願う。このことにおいて、あなたの教役者のために祈ってほしい。もしも彼に真剣さと精力と祈り深さの欠けがあったとしたら、彼が赦されるようにと。また、来年の私は、常に、もはや二度と説教することがありえないかのように、

   「死に行く者が死に行く者らに向かって」

行なうかのように説教できるようにと。

 さて私は、キリスト者に問いかけている間に、道徳家がこう云っているのが聞こえてきた。「私は何をしてきたかですと? 先生。私は自分のなすべきことはみなしてきましたよ。あなたは、《福音者》として、そこに立って私に向かってもろもろの罪について語るかもしれません。でも、申し上げますが、先生。私は自分の義務はみな果たしてきました。私は自分の教会あるいは会堂に、人として可能な限り常に出席してきました。家の中では常に祈祷文を読み上げ、寝床につく前にも朝起きるときにも祈っています。私は誰に対しても負い目を負っていないと思いますし、誰に対しても不親切であったことはないと思います。貧者には公正な取り分を与えていますし、もし良いわざに少しでも功徳があるとしたら、私は確かに非常に多くをなしてきたと思います」。その通り。愛する方。まさにその通りである。もしも良いわざに少しでも功徳があるとしたら。だが、非常に不幸なことに、良いわざには全く功徳はないのである。というのも、私たちの良いわざは、もし私たちがそれによって自分を救おうとするならば、私たちの罪に何らまさるところがないからである。あなたは、自分自身の良いわざの功徳によって天国に行こうとするくらいなら、呪いや悪態をつくことによって天国に行けると思った方がましである。良いわざは、道徳的な見地からすると呪いや悪態よりも無限にまさってはいるが、その一方に他方にまさる功徳があるわけではないからである。一方の罪が他方よりも少ないとしても関係ない。ならば、覚えておいてもらえるだろうか? あなたが長年の間行なってきたことはみな役立たずなのだ、と。「よろしい。ですが、先生。私はキリストに信頼してきました」。しばし待て! 1つあなたに質問させてほしい。あなたが云っているのは、あなたは部分的にはキリストに信頼し、部分的にはあなた自身の良いわざに信頼してきたということだろうか? 「そうです。先生」。よろしい。ならば、あなたに云わせてほしい。主イエス・キリストは決して添え物になろうとはされない。あなたはキリストを全く受けとるか、全然受けとらないかのいずれかである。というのも、キリストは決して救いのわざにおいてあなたと共同で事を行なおうとはなさらないからである。それで、もう一度云うが、あなたがこれまで行なってきたことはみな何の役にも立たない。あなたは骨牌の家を建ててきたのであって、嵐がそれを吹き倒すであろう。あなたは砂の上に家を建ててきたのであって、雨が降って洪水が押し寄せると、それは跡形もなく永遠に押し流されてしまうであろう[マタ7:27]。主のことばを聞くがいい! 「律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいない」[ガラ2:16]。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」[ガラ3:10]。そして、律法に書いてあるすべてのことを堅く守っていない限り、あなたは律法にそむく者であり、あなたは呪いの下にあるのである。律法はあなたに向かってこう云うだけである。「呪われた者、呪われた者、呪われた者よ! お前の道徳は永遠の事がらについては、全く何の役にも立たない」。

 私は別の人格に目を向けよう。その人は云う。「よろしい。私は自分の道徳にも他の何にも信頼などしていません。私はこう云います。

   『消え失せろ。鬱陶しい心配なんか消え失せろ』。

私は、あなたのお望み通り、永遠について語ることなどとは何の関係もありません。ですが、先生。私は結局悪い人間ではありません。ほんの少ししか間違ったことはしていません。時たま、ちょっとした過ちを犯したり、ほんのちょっぴりは馬鹿な真似をしたりしましたが、お国の法も、私の友人たちも、私自身の良心も、私を非難することはできません。確かに私はあなたの所の聖人君子たちのひとりではありません。私は四角四面な人間だと公言しはしません。少し行き過ぎをすることもあるでしょう。ですが、それは少しだけです。そしておそらく私たちは終わりが来るまでに事を正すことができるでしょう」。よろしい。愛する方よ。だが、私はあなたが自分に向かってこう問いかけていたらと願う。「私は何をしてきたのか?」――私が思うに、もしあなたがたひとりひとりがその被膜を、あなたの心とあなたの生き方を覆っている薄皮をはがし取ろうとしさえするなら、あなたはあなたが行なってきたことの背後に重度のらい病がひそんでいたことに気づくであろう。「よろしい。そういうことなら」、とある人は云うであろう。「もしかすると、私も時には一杯か二杯は飲み過ぎをしたかもしれません」。しばし待て! それが何という名か、はっきり云うがいい。へどもどしながらでも云ってみるがいい! 白状するがいい! それは何というのか? 「なあに、それは、ちょっと浮かれ騒ぎがすぎただけですよ」。待て。それをはっきり正しい名前で云ってみようではないか。それを別の呼び方で何というだろうか? 「酔っ払うこと、ですかね」。別の人は云うであろう。「ちょっと調子に乗って羽目を外しただけのことですよ」。しかり。だが、それは、本来そう呼ばれてしかるべき名前で呼んでほしい。――好色な生活である。「おゝ! とんでもない。先生。それじゃ深刻すぎますよ」。しかり。実に深刻なことである。だが、それは、事が実際そうある以上に深刻であるようには少しも見えない。時としてあなたは安息日の夜に外出したことがあるではないだろうか。「おゝ! ありますよ。ですが、それは時々だけです。――ほんとの時たまですよ」。しかり。だが、それがいかなることであるか書きとめて、それが名簿の何にあたるかを見てとることにしよう。安息日破りである! 「待ってください」、とあなたは云うであろう。「私はそんなに遠くに行っちゃいません。先生。確かにそんなに遠くには」。私が思うに、あなたが送っている生き方の中で、あなたは時々、冗談を云うために聖書の言葉を引用したことがあったではないだろうか。そして、時として、ちょっと吃驚したときなど、あなたはこう叫んだことがあった。「主よ、何てこった!」、といった類のことを。私は、あえてあなたが悪態をついていると云いはしない。ただし、ある人々はキリスト教的なしかたで悪態をつくという癖にはまりこんでおり、自分ではそれは全然悪態ではないと考えているのである。それが、悪態でなければ何なのか誰にも分からない。そして、そのように私たちも、このことを悪態であると書きとめるものである。――呪いと悪態である、と。「おゝ! 先生。それは誰かから足を踏まれたときとか、カッとしたときだけですよ」。そんなことはどうでも良い。それを正式な名前で書きとめるがいい。私たちは、あなたを責めるものとなる立派な一覧表を逐一あげていくことができるであろう。思うに、商売であなたは一度も自分の商品に混ぜ物をして、品質を落としたことがないのであろう。「よろしい。それは商売上のことであなたが首を突っ込むことではありませんよ」。よろしい。ところが、それに私は首を突っ込むことになるのである。――そして、もし良ければ、それを正しい名前で呼ぶことにしよう。――盗みである。私たちはそう書きとめておく。思うに、あなたは一度も借金人につらくあたったことはないだろうか。あなたは今まで金輪際、もっと金持ちになりたいと思ったり、時には、あなたの向かい側の隣人がお得意を半分も失えばいいのに、そしてそれを自分の店のお得意にできればいいのに、と半ば本気で願ったりしたことがないだろうか? よろしい。私たちはそれを正しい名前で呼ぶことにしよう。それは、「むさぼり」である。「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」[コロ3:5]。さて、この一覧表はいくらでもどす黒くなっていくように思える。それだけでなく、あなたはこの一年の間、どのように過ごしてきただろうか。また、あなたは時には祈りをささげているようなふりをしながら、一度でも本気で祈ったことがあっただろうか? 否。なかった。よろしい。ならば、それは、祈っていないことと書きとめるべきである。あなたは時には聖書を読んだことも、聖書の話に耳を傾けることもあった。だが、結局あなたは、こうした事がらをみな読み流し、聞き流してきたではないだろうか? ならば、私はそれが神を蔑むことにならないかどうか知りたいと思う。また、それをその名前の下に書きとめなくてはならないかどうか知りたいと思う。まことに、ほんの少し探っただけで十分である。というのも、すでにその一覧表は、まとめてみればこの上もなく恐ろしいものであり、私たちの中のほとんどの者は、自分の良心がほんの少し目覚めただけでも、これほど大きな罪からは逃れられないからである。

 しかし、この場にいるある人は、道徳上のあらゆる点について、無頓着でしごく無関心になってしまっていて、こう云うであろう。「あゝ! お若いの。わしなら、わしがこの一年間にしてきたことを云って聞かせてやれますぞ」。待たれよ。私は特に今それを知りたいとは思っていない。あなたは家に帰ってから自分に向かってそれを告げた方が良い。この場には若い人々もいる。あなたがしてきたことを知ることは、もしかすると彼らにはあまり良くない影響を与えるかもしれない。ある人々は、あなたはしかるべきほどには良い人間ではありませんね、と云う。それは、あなたは悪い人すぎて、あなたがいかなる人であるかは云いたくありませんよ、ということなのである。あなたは、この会衆全体の中に、全く放蕩無頼の人々がいないと思っているのだろうか?――罪と情欲のきわみにふけってきた人が全然いないとでも? 何と、神の御使いは今しも私たちのただ中を飛びかっており、ある人々の良心に触れては、自分たちがいかなる不義にこの一年ふけってきたかを知らせていると思われる。私は神に祈る。単にそれらをほのめかすだけでしかない私の言葉が、あなたの良心を飛び上がらせる手段となるように、と。あゝ! あなたがたは自分のもろもろの罪を隠すであろう。闇の覆いがあなたの隠れ場であろう。あなたは、それが絶対に見つかるまいと思っているであろう。だが、覚えておくがいい。あなたが行なったあらゆる罪は、やがて白日の下で読み上げられ、人々も御使いたちも最後の精算の日にそれを聞くことになるのである。あゝ! 話をお聞きの方々。あなたが道徳的であろうと身を持ち崩していようと、私は切に願う。きょう、この問いに厳粛に答えてほしい。「私は何をしてきたのか?」 こうすれば良いと思う。これから家に帰ってから、一枚の紙を取り出して、今年の一月から十二月までにあなたが行なってきたことを書き出すのである。そして、もしあなたがたの中に、それに震え上がらない人がいるとしたら、あなたは非常に強靭な神経の持ち主であると云わなくてはならない。あなたは、ほとんど何に対しても震えおののくことなどないであろう。

 さて私は特に、まだ回心していない人に対して語りかけよう。そして、この問いに対して別の見地から答える助けをしたいと思う。「私は何をしてきたのか?」 あゝ! 方々。罪の中に生きてきた人たち。あなたがた、神よりも快楽を愛する人たち[IIテモ3:4]。あなたは何をしてきただろうか? あなたは1つでも罪を犯せば魂を永遠に地獄に落とすに足るものであることを知らないのだろうか? あなたは聖書の中で、罪を一度でも犯した者は呪われる、と読んだことが全然ないのだろうか? ならば、この一年に犯された無数の罪によってあなたは、いかに深い地獄に落とされるべきだろうか? 思い出してほしい。私は切に願う。あなたの若い時の罪や、いま現在に至るまでのあなたの数々のそむきを。そして、もし1つの罪でもあなたを永遠に滅ぼすとしたら、今のあなたはいかに滅びた状態にあることか! 何と、方々。罪の一波でもあなたを沈み込ませてしまうのである。こうしたあなたの咎の大海が何をするだろうか? あなたに不利な1つの証言だけであなたを断罪するに足るのである。あなたが審きに向かう前の今から、その審きの座りの回りに群がり集まっている愚行や罪悪の大群を見てみるがいい。神がその法廷にあなたを召還するとき、いかにしてあなたは彼らの証言から逃れようというのだろうか? あなたは何をしてきたのか? さあ、人よ。この問いに答えるがいい。あなたの罪には数多くの結果が伴っている。そして、この問いに正しく答えるためには、あらゆる結果に答えなくてはならない。あなたは、あなた自身の魂に対して何をしてきただろうか? 何と、あなたはそれを滅ぼしてきた。それを永遠に滅ぼすべく極力努めてきた。あなた自身のあわれな魂のために、あなたは地下牢を掘り続けてきた。そだを積み上げてきた。鉄鎖を鍛えてきた。――魂を焼くためのそだと、それを永遠に束縛するための枷である。

 覚えておくがいい。あなたのもろもろの罪は収穫のために種を蒔くようなものである。あなたのあわれな魂のために、あなたが蒔いてきたのはいかなる収穫であることか! あなたは風を蒔いて、つむじ風を刈り取るのである[ホセ8:7]。不義を蒔いて、永遠の罰を刈り取るのである。しかし、あなたは福音に反して何をしてきただろうか? 思い出すがいい。今年、あなたは、いかに何度となくそれが宣べ伝えられるのを聞いてきたことか。何と、あなたの誕生以来、荷馬車一杯ほどの説教があなたのために空しく費やされてきた。あなたの両親は幼い頃のあなたのために祈っていた。あなたの友人たちは、あなたが成人に達するまであなたを教えてきた。それ以来、あなたのためにいかに多くの涙が教役者によって流されてきたことか! いかに多くの熱心な訴えがあなたの心に撃ち込まれてきたことか! しかし、あなたはその矢を引きちぎってきた。教役者たちはあなたを救いたいと願っていたが、あなたは自分自身について一度も心配しなかった。あなたはキリストに反して何をしてきただろうか? 思い出すがいい。キリストはこの場所で罪人たちに対していつくしみ深いキリストであられた。だが、さらりとした油ほどよく燃えるものがないのと同じく、優しい心をした《救い主》があなたの《審き主》となるためにやって来るときほど猛烈に怒るものはない。おのれの獲物に足をかけた獅子よりも獰猛なのは、拒絶された愛である。十字架の上のキリストを蔑むならば、その御座の上のキリストによって審かれるのはすさまじいこととなるであろう。

 しかし、さらに、今年あなたは、あなたの子どもたちのために何をしてきただろうか? おゝ! この場にいる一部の人々は、手当たり次第の手段を尽くして自分の子どもたちの魂を滅ぼそうとしてきた。ひとりの父親の上にいかなる責任が置かれているかは厳粛なことである。では、酔いどれの父親について何と云われるだろうか?――自分の子どもたちの前に酔っ払う模範を示す父親である。悪態をつく者よ。あなたは自分の家族のために何をしてきただろうか? あなたもまた、彼らの永遠の破滅のための縄をなってはこなかっただろうか? 彼らは必ずやあなたが行なっているのと同じように行なうことにはならないだろうか? 母親よ。あなたには何人か子どもたちがいるが、今年あなたは、そのひとりのためにすら一度も祈ったことがなかった。彼らが夜、その小さな椅子のかたわらに膝をつき、「天にまします我らの父よ」、を唱えるとき、一度もあなたの腕で彼らの頭を抱きかかえてやることをしなかった。子どもたちを愛し、一度は彼らのようにひとりの子どもとなられたイエスのことを、あなたは一度も彼らに教えなかった。あゝ、ならばあなたもまた、自分の子どもたちをないがしろにしてきたのである。私はひとりの母親のことを覚えている。彼女は老年になってから神に回心した人だが、私にこう告げた。――そして私はその婦人の嘆きを決して忘れないであろう。――「神はあたしを赦してくださいました。でも、あたしは自分を絶対に赦せません。だって、先生」、と彼女は云った。「私は子どもたちにおまんまをあげて、育て上げてきましたが、信仰のことなんか全く考えないでそうしてきたんですよ」。そして、わっと涙にかきくれると、こう云った。「あたしは、むごい母親でした。先生。畜生でした!」 「何と」、と私は云った。「ご婦人。あなたは、立派にお子さん方を育てあげたではありませんか」。「それはそうです」、と彼女は云った。「亭主は、子どもたちが小さいときに亡くなり、六人の子どもを残しました。それであたしはこの細腕で、あの子たちの食いぶちを稼ぎ、着物を着せてやりました。誰だって、あたしを不人情な女だと後ろ指さすことはできませんよ。ただこのことを除いてはね。でも、このことが一番ひどいことなんです。あたしは、あの子たちにむごい母親でした。だって、子どもたちのからだは養ってやりながら、魂のことは放ったらかしにしといたんですから」。しかし、ある人々はこれ以上のことをしてきた。あゝ、青年たち。あなたは今年、全力を尽くして自分自身を罪に定めようとしてきただけでなく、全力を尽くして他の人々をも罪に定めようとしてきた! 思い出すがいい。今年の一月、あなたは、向こうにいる若者を生まれて初めて居酒屋に誘った。そして、あなたの云うところの、彼のうぶな尻込みを笑い飛ばし、自分と同じように飲み明かせよと云った。思い出すがいい。夜の闇にまぎれてあなたがひとりの若者に初めて道を踏み外させたときのことを。彼の生き方は廉潔で、あなたから教えられるまで情欲のことなど知りもしなかった。だが、そのときあなたは云った。「俺と一緒に来いよ。ロンドンの暮らしを見せてやろうじゃないか。人生の楽しみを教えてやるよ!」 その若者は、店にやって来たばかりの頃は、安息日には神の家に通うのを常としており、天国に行ける見込み十分に見えた。――「あゝ」、とあなたは云うであろう。「俺あジャクソンの奴をあざ笑って、キリスト教を信ずるのをやめさせちまったなあ。奴は今じゃ日曜日には飲み屋にしか行かねえし、俺たちの誰にも負けないくらい浮かれ騒いでいるもの」。あゝ! 方々。では、あなたは罪に定められたとき、2つの地獄を有するであろう。あなた自身の地獄と、彼の地獄である。というのも彼は、その毒々しく赤みを帯びて光る炎を通してあなたを見つめて、云うであろうからである。「俺もこんなとこに来る羽目にはならなかったかもしれねえ。お前さえ俺をここに引き込まなけりゃな!」 それから、あゝ! 婦女子を堕落させる者たち。地獄の恐怖越しに、いかなる目があなたを睨みつけるだろうか?――あなたが不義に引き入れた者の目である! その目が2つの星のように激怒に輝いてあなたを睨みつけるとき、それはあなたにとって何という二重の地獄となり、永遠にあなたの血を萎えさせることであろう! 立ち止まるがいい。あなたがた、他人を邪道に導いてきた人たち。そして、いま震えおののくがいい。私自身、最初に《救い主》を知ったときには、立ち止まり、神に向かって祈ったものである。神が私を助けてくださり、私がそれまで何らかのしかたで邪道に導いた人々をキリストへと導かせてくださるように、と。また私は、ジョージ・ホイットフィールドがこう語っていることを思い出す。彼が祈りを始めたとき、彼の最初の祈りは、どうか神が、自分と骨牌遊びをしたり、安息日を無駄に費やすのを常としていた仲間たちを回心させてくださるように、ということだったのである。「そして、神はほむべきかな」、と彼は云った。「私は、彼らの全員をかちえたのである」。

 おゝ、わが神。私には、この場にいるいくつかの顔が驚愕と恐怖を浮かべているのを認められないだろうか? 自分の膝をがくがく打ち鳴らしている人はひとりもいないだろうか? 自分の不義ゆえに自らの内側で心くじけている人は誰もいないだろうか? 確かに、そのようなことはありえないに違いない。さもなければ、あなたがたの心は鋼鉄になり、あなたがたの情けはあなたがたの内側で鉄のようになり果てているのである。そうだとしたら、神がこの章の7節で仰せになっていることばは、何にもまして真実であるに違いない。――「空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない」。また、確かに、このように云った預言者は正しかったに違いない。「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」[イザ1:3]。おゝ、あなたがたは、こうした咎を非難されても、全く驚愕することも恐怖することもなしに平然としていられるほど獣じみているのだろうか? ならば、確かに私たち、自分の咎を感じている者は、あなたのために膝をかがめ、神が今からあなたに、あなた自身のことを知らせてくださるようにと祈る必要があるに違いない。というのも、あなたのようにかたくなで、望みのない状態のままで生き、また、死んでいくとしたら、あなたの運命はぞっとするほど恐ろしさの極みに違いないからである。

 だが、もしあなたがたの大部分の人々が、私たちの信仰のこの慎ましい告白を私とともに唱和できると望めるとしたら、いかに私は幸いであろう。私は、あたかも私があなたがたひとりひとりを代表して語るかのように語って良いだろうか? 私の云うことを受け入れるも、退けるも、あなたの自由である。だが、私は信じたい。あなたがたの中の大多数の人々は、私について来てくれると。「おゝ、主よ。私はけさ、私のもろもろの罪が自分に耐えきれないほど大きなものであることを告白します。私はあなたの最も激しい御怒りと、あなたの無限のご不興とに値します。また、私は、あなたが私をあわれむことがありえるなどとあえて望むことはほとんどできません。ですが、あなたが、あなたの御子を遣わして、罪人たちに代わって十字架の上で死なせてくださり、また、あなたも、『地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ』[イザ45:22]、と仰せになっておられる以上、主よ。私は今朝、あなたを仰ぎ見ます。これまでは決して仰ぎ見ることなどしてきませんでしたが、今は仰ぎ見ます。この瞬間まで私は罪の奴隷でしたが、それでも主よ。私を、罪人の私ではあっても、私を受け入れてください。あなたの御子イエス・キリストの血と義のゆえに。おゝ、父よ。私に難色を示さないでください。あなたにはそうなさる権利がありますが、私はこの約束を申し立てます。『わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません』[ヨハ6:37]。主よ。私は参ります。――

   『ありのままの我にて 誇れるもの何もなきまま
    ただわがため 汝が血の流されしゆえ
    また汝の われに来よと命じ給うがゆえ
    おゝ、神の子羊よ われは行かん』。

   『わが信仰は 手を置きぬ
    汝れが尊き みかしらに。
    悔いる思いを もちて立ち
    われはわが罪 告白(あらわ)さん』。

主よ。私をお受け入れください。主よ。私をお赦しください。そして、ありのままの私を取り上げ、今このときから永遠に、私のいのちある限り、あなたのしもべとし、私が死ぬときには、あなたに贖われた者としてください」。あなたはそう云えるだろうか? 多くの心がそう云いはしなかっただろうか? 多くの唇が沈黙のうちにそう語ったのを私は聞かなかっただろうか? しっかりするがいい。私の兄弟たち。私の姉妹たち。もしそれがあなたの心から出たものだとしたら、あなたは天の御使いたちも同然に安全なのである。というのも、あなたは神の子どもであり、あなたは決して滅びないからである。

 III. さて私は、多少の《愛情のこもった勧告》の言葉を語らなくてはならない。それでしめくくることとする。歳月がいかに尽きていくかを考えるのは、非常に粛然とさせられるものである。私は、今年ほどまたたくまに過ぎ去った年を過ごしたことがないし、年をとればとるほど一年が短くなっていく。そして、あなたがた、年老いた人たちは、おそらく自分の六十年から七十年を振り返ってこう云うであろう。「あゝ、お若い方。すぐに一年はもっともっと短くなりますよ」、と。疑いもなく彼らはそう云うであろう。「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」[詩90:12]。しかし、また一年が過ぎ去ろうとしているというのに、あなたがたの中の多くの人々が回心しないでいるというのは、粛然とさせられることではないだろうか? あなたは去年と同じままである。否。そうではない。あなたは死に近づいている。地獄に近づいている。悔い改めない限りそうである。また、ことによると、今朝私が語ってきたことは、あなたに何の影響も及ぼさないかもしれない。あなたは完全にかたくなにされてはいない。というのも、あなたは多くの真剣な感銘を受けてきたからである。何十回もあなたは、講話を聞きながら泣いたことがある。だがしかし、すべては無駄であった。あなたは元のままである。私はあなたがこの問いに答えてほしいと切に願う。「私は何をしてきたのか?」 というのも、覚えておくがいい。やがて来たるべき時に、あなたはこの問いを発しても手遅れになっているからである。それはいつのことなのか?――そうあなたは云うであろう。――臨終の床の上だろうか? 否。その時でも、まだ手遅れではない。

   「ともしび燃える ことやめぬ間(ま)は、
    いかに悪しかる 罪人(もの)も帰りえん」。

しかし、「私は何をしてきたのか?」、と問うても手遅れになるのは、あなたのからだから息が絶えたときである。昔よくあったような、柵で囲まれる前の記念塔を考えてみるがいい。かりに誰かがその螺旋階段を昇って天辺まで行こうとしているとする。彼はそこから自殺しようと固く決意している。彼は手すりから外に出る。あなたは彼がそこから跳躍した直後に、一瞬の間、「私は何をしでかしたのか?」、と云ったと想像できるだろうか? 。何と、私は、空中にいる何かの霊がこう囁いたかもしれない気がする。「何をしたかだと? お前は絶対に取り返しのつかないことをしでかしたのさ。お前はもう失われた――失われた――失われたのだ!」 さて、覚えておくがいい。あなたがた、キリストを有していない人たちは、きょうその螺旋階段を昇りつつあるのである。ことによると、明日あなたは、断崖の上で死の瀬戸際に立っているかもしれない。そして、死があなたをつかんだとき、また、あなたが人生という記念塔から絶望の深淵へと落ちる跳躍をまさに行ないつつあるとき、この問いは、あなたにとって、ぞっとするような恐怖に満ちたものとなるであろう。「私は何をしてきたのか?」 しかし、それに対する答えは有益なものとはならず、恐怖に満ちたものとなる。私には、1つの霊が永遠の海に乗り出すのが見え、それがこう云うのが聞こえるような気がする。「私は何をしてきたのか?」 それは燃え立つ波涛の中に没して叫ぶ。「私は何をしてきたのか?」 その霊の前には長大な永遠が広がっているのが見える。だが、それはこの問いをもう一度発する。「私は何をしてきたのか?」 すさまじい答えが返ってくる。「これはみな、お前自身がもたらしたことなのだ。お前は自分の義務を知っていた。だが、それを行なわなかったのだ。お前は警告されていた。だが、その警告を蔑んだのだ」。あゝ! こうした霊の陰鬱な独白を聞くがいい。最後の大いなる審判の日がやって来る。燃え立つ御座が据えられ、大いなる書物が開かれる。私は、その一頁一頁がそら恐ろしい擦過音を立てながらめくられていくのが聞こえる。私は人々が、その大いなる書物の結果に従って、右か左へと寄せられていくのが見える。では、私は何をしてきたのか? 私は、自分にとって罪が破滅となるであろうことを知っている。私は《救い主》を一度も求めなかったからである。あれは何だろうか? 《審き主》がその目を私に据えている。今それは私に向けられている。彼は私に向かって云うだろうか? 「のろわれた者。わたしから離れて行け」、と。おゝ! その光景を目にするくらいなら永遠に押し潰されてしまいたい。何の音もしない。だが、その指が持ち上げられ、私は群衆の中から引きずり出されると、ただひとり《審き主》の前に立たされる。彼は私の頁に目をやる。そして、彼がそれを読む前に、私の心は私の内側でわなわなと震えている。「ならばよし」、と彼が云う。「それは一度もわたしの血で拭い去られたことがない。お前はわたしの召しを蔑んだ。わたしの民を笑い者にしてきた。わたしのあわれみを受けようとしなかった。お前は不義の報酬を受け取りたいと云った」。あゝ! 私が。では彼は、「離れて行け。のろわれた者」、と云おうとしているのだろうか? しかり。一千の雷鳴よりも大きな声で彼は云う。「のろわれた者。離れて行け。悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」*[マタ25:41]。あゝ! では、今やすべては真実なのか。私は地獄について説教するといっては教役者を笑い者にしていた。だが、今はここで私自身が地獄の中にいるのだ。あゝ! 私は常々、なぜ彼が私たちをあれほど恐がらせようとするのかと思っていた。あゝ! それで私がこの場所に至らずにすんでいたとしたら、私をもっと恐がらせてくれれば良かったものを。しかし今や、ここに私は失われてしまっている。脱出の望みは何もない。私の陥っている暗闇は一筋の光も届かないほど暗い。私の閉じ込められている場所は一本の締め釘や閂すら抜き取れないほど密閉されている。私は永遠に断罪されているのだ。あゝ! これは陰鬱な独白である。私はあなたにそれを告げることができない。おゝ! もしあなたがそこにあなた自身いたとしたら、もしあなたが、彼らの感じていることを知ることができさえしたら、また、彼らの耐え忍んでいることを見てとることができさえしたら、そうしたら、あなたは私が福音を宣べ伝えることにもっと熱心でないことを訝るであろう。また、私があなたを涙させたいと願っていることにではなく、私が自分自身もっと涙しないこと、もっと厳粛に宣べ伝えていないことを不思議がるであろう。あゝ! 話をお聞きの方々。私の仕えている私の神、主は生きておられる。私はいつの日か、あなたの良心によって、今朝あなたに対して真実な証人であったと認められて立つことになるであろう。というのも、きょう、この場にいるあなたがたのうち、もし滅びることになるとしたら、誰ひとりとして何の弁解の余地もないことになるであろうからである。あなたは警告を受けてきた。私は、自分にできる限りの警告をあなたに与えてきた。私はありったけの力を尽くし、試せる限りの技巧を尽くし、用いることのできる限りの説得力を尽くしてきた。私はただこう云ってしめくくることしかできない。私は切に願う。イエスのもとに逃れるがいい。私はあなたに懇願する。果てしなき幸福か災厄かへと赴かざるをえない不滅の霊としてのあなたがたに願う。イエスのもとに逃れるがいい。キリストにあわれみを求めるがいい。キリストに頼って救われるがいい。そして、私の厳粛な警告を拒絶するというなら、危険を承知でそうするがいい。覚えておくがいい。あなたがたはそれを拒絶することもできるが、あなたがたは私を拒絶するのではなく、私を遣わしたお方を拒絶するのである。あなたがたはそれを蔑むこともできるが、あなたがたは私を蔑むのではなく、モーセよりも偉大なお方、すなわち、主イエス・キリストを蔑むのである。そして、あなたがたがその法廷の前に出て来るときには、キリストは、刺し貫くような口調と、すさまじいことばとによって、あなたを永遠に断罪するであろう。未来永劫に、永遠に、何の望みもなく、永久とこしえに、限りなく断罪するであろう。願わくは神がそれから私たちを救い出してくださるように。イエスのゆえに。アーメン。

  

 

「私は何をしてきたのか?」[了]

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