イエスを仰ぎ見て
NO. 195
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---- 1858年5月23日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。『彼らの顔をはずかしめないでください。』」。――詩34:5
前後関係からして、この節の代名詞「彼」<英欽定訳> は、前節の「主」という言葉を指すものと理解すべきである。「彼らが主なるエホバを仰ぎ見ると、彼らは輝いた」。しかし、いかなる者もエホバなる神のありのままの姿を仰ぎ見て、神のうちに何らかの慰めを見いだしたことはない。というのも、「私たちの神は焼き尽くす火」[ヘブ12:29]だからである。主イエス・キリストを抜きにした純然たる神は、悩める心に何の慰めを供することもありえない。私たちは神を仰ぎ見ることはできるであろうが、盲目になってしまう。《神格》の光に耐えられる者はなく、定命の目が太陽を直視できないように、いかなる人間の知性も神を仰ぎ見て、光を見いだすことはできない。神の輝きは精神の目を打って、永遠に盲目にしてしまうからである。私たちが神を見ることのできる唯一の道は、《仲保者》なるイエス・キリストを通してでしかない。
「神を人身(にく)にて 見ゆまでは
われに慰め つゆもなし。――」人性に包まれ、覆われた神、――そこにおいてこそ私たちは神を堅く見据えることができる。主はそのように私たちのもとに降って来られ、私たちのあわれで有限な知力も主を理解し、つかむことはできるからである。それゆえ、私は今朝、本日の聖句を、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストに関するものとして用いたいと思う。――しかも、至当にそうすることができると思う。――「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」。というのも、私たちが、私たちの主イエス・キリストにおいて啓示されたお方としての神を仰ぎ見、この《受肉した人》――処女マリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトによって十字架につけられたお方――において現わされている《神格》を眺めるとき、私たちは実際、精神を照らし、慰めの日差しを私たちの覚醒した心に投げかけるものを見ているからである。
さて今朝、私が最初にあなたに求めたいのは、本日の聖句の例証として、イエス・キリストをその地上の生涯において仰ぎ見ることである。そして望むらくは、あなたがたの中のある人々が、それによって輝かされてほしいと思う。それから私たちは、その十字架上における主を仰ぎ見ることにしたい。その後で、その復活における主を仰ぎ見る。また、そのとりなしにおける主を仰ぎ見ることにし、最後に、その再臨における主を仰ぎ見ることにしよう。そして、私たちが信仰深い目で主を仰ぎ見るとき、この節は、私たちの経験の中で成就するであろう。それは、ある真理にとって最上の証明である。そのとき私たちは、それを自分の心の中で真実であると証明するのである。私たちは、「主を仰ぎ見る」とき、「輝いた」者となる。
I. では第一に、私たちは、《主イエス・キリストをその生涯において仰ぎ見る》ことにしよう。そして、ここに、悩める聖徒は自分を最も照らしてくれるものを見いだすであろう。例えば、イエス・キリストの忍耐や、その苦しみの中には、深夜の暗闇にも似たあなたの患難の夜空で励ましとなる栄光の星々がある。ここに来るがいい。あなたがた、神の子どもたち。そして、今のあなたが何に苦悩していようと――それが物質的な悩みであれ、霊的な悩みであれ――、あなたはイエス・キリストの生涯とその苦しみのうちに、あなたを元気づかせ慰めてくれるに十分なものを見いだすはずである。聖霊が今あなたの目を開いて、主を仰ぎ見させてくれさえすれば、そうである。ことによると、この会衆の中には、貧困の深みにどっぷりとつかっている人がいるかもしれない。否。必ずやいるに違いないと思う。あなたがたは辛苦の子らである。額に多くの汗して、あなたは自分の糧を稼いでいる。抑圧のくびきがあなたの首筋をひりつかせている。ことによると、今のあなたは極度の飢えに苦しんでいるかもしれない。飢餓にやつれ果て、神の家の中にあってさえ、あなたのからだは不平の声をあげている。自分が衰え果てていることを感じるからである。主を仰ぎ見るがいい。あなたがた、貧しく、苦悩する、イエスにある兄弟たち。主を仰ぎ見て、輝かされるがいい。
「なぜに嘆くや、汝が欠け、憂い、
試し、痛みを?――主はかく予言(つ)げぬ。
御言(みこと)も云えり、救いの世継ぎ
数多(さわ)の苦しみ 経て、主に従(つ)かんと」。そこに主を見るがいい! 四十日間、主は断食し、空腹を覚えられた[ルカ4:2]。また、主を見るがいい。うんざりするような道を踏みしめ、とうとう喉がからからになってスカルの井戸の井桁に腰を下ろされた。そして、主は――栄光の主は――その手のひらで雲を支えておられるお方は――、ひとりの女に、「わたしに水を飲ませてください」[ヨハ4:7]、と云われた。では、しもべがその主人にまさり、弟子がその師にまさるべきだろうか? もし主が飢えと、渇きと、裸に苦しまれたとしたら、おゝ、貧しさの世継ぎよ。しっかりするがいい。これらすべてのことにおいて、あなたはイエスと交わりを有しているのである。それゆえ、慰められるがいい。主を仰ぎ見て、輝かされるがいい。
ことによると、あなたの苦難は、種類を異にしているかもしれない。あなたはきょう、この場に来たとき、あの毒蛇の二股の舌――中傷――によって心傷ついていたかもしれない。あなたの人格は、神の御前ではきよく、しみないものであるのに、人の前では地に落ちているように思われる。というのも、口汚く中傷する者らが、あなたにとって、いのちよりも大切なもの、あなたの人格、あなたの良い評判を取り上げようとしてきたからである。そして、あなたはこの日、苦味に飽き足り、苦よもぎで酔わされている[哀3:15]。それはあなたが、自分の心から忌み嫌うような罪悪について非難されているからである。さあ、あなたがた、嘆きの子どもたち。これは実に痛い打撃である。貧困はソロモンの鞭のようなものだが、中傷はレハブアムの蠍[I列12:14]のようである。貧困のどん底に陥ることは、あなたの小指を打たれることだが、中傷されることは、あなたの腰を痛打されることである。しかし、これらすべてにおいて、あなたはキリストから慰めを受けることができる。さあ、主を仰ぎ見て、輝かされるがいい。《王の王》はサマリヤ人と呼ばれていた[ヨハ8:48]。人々は主のことを、悪霊につかれて気が狂っていると云っていた[ヨハ10:20]。だがしかし、狂人だと非難されていた主には無限の知恵が宿っていた。また、主は常にきよく、聖なるお方ではなかっただろうか? だが、彼らは主のことを酔いどれの大酒飲みと呼ばなかっただろうか?[マタ11:19] 主は御父の栄光に富む御子であったが、彼らは主が悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているのだと云った[マタ12:24]。さあ! あわれな、中傷されている人たち。その涙を拭うがいい! 「彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう」[マタ10:25]。もし彼らが主を尊んでいたというなら、そのときは、あなたも彼らから尊ばれると期待して良いかもしれない。だが、彼らが主を嘲り、主の栄光と人格を奪い去ったからには、非難と恥辱に耐えることを恥じてはならない。というのも、主はあなたとともにおられ、あなたの前にあってご自分の十字架を負っておられるからである。そして、その十字架はあなたの十字架よりも重いのである。ならば、主を仰ぎ見て、輝かされるがいい。
しかし、別の人がこう云っているのが聞こえる。「あゝ! ですが、私の苦難は、そのどちらよりも重いのです。私はきょう、中傷に心痛んでいるわけでも、赤貧にあえいでいるわけでもありません。ですが、先生。神の御手が私の上に重くのしかかり、私のもろもろの罪を思い起こさせているのです。神は、御顔の明るい輝きを取り去ってしまいました。かつては私も神を信じ、私の『称号(な)をさやかに 天空(そら)の邸宅(やかた)に』読みとることができました。ですが、きょうの私は非常に沈み込まされています。神は私を掲げ上げ、それから投げ落とされたのです。格闘家のように、神が私を高く上げたのは、それだけ激しく私を地面に打ちつけるためだったのです。私の骨はひどく恐れおののき、私の霊は私の内で苦悶のために溶けてしまいました」。さあ、試練に遭っている私の兄弟。「主を仰ぎ見て、輝かされるがいい」。もはや、あなた自身の悲惨さについて呻いてはならない。むしろ、私とともに来て、できるものなら主を仰ぎ見るがいい。あなたは、あの橄欖の園が見えるだろうか? 冷え冷えとした夜で、あなたの踏みしめる地面は霜が降りてパリパリ音がする。そして、その橄欖の園の薄暗闇の中に、あなたの主は膝まずいている。その御声を聞くがいい。あなたには、主の呻きの調べが、その吐息の意味が理解できるだろうか? 確かに、あなたの悲嘆は、主の悲嘆ほど重くはないに違いない。主の肌には血の雫が吹き出さざるをえず、血の汗が地面にしみをつけたのである! 云うがいい。あなたの苦闘は、主の苦闘よりも大きなものだろうか? ならば、もし主が暗闇の諸力と組み打ちせざるをえなかったとしたら、あなたもそうすることを予期するがいい。そして、あの最後の厳粛な時、その死に際における主を仰ぎ見て、主がこう云われるの聞くがいい。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]。そして、それを聞き終えたなら、何か思いがけないことが起こったかのように、つぶやいてはならない。主の「レマ、サバクタニ」にあなたも唱和しなくてはならないかのように、また、主の血の汗の雫をあなたも何滴か流さなくてはならないかのように、つぶやいてはならない。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」。
しかし、もしかすると、この場にいるある人は、人からの大きな迫害を受けているかもしれない。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「私は自分の信仰生活を安楽に送ることができないのです。私の友人たちは私を嫌っています。私はキリストのために嘲られ、馬鹿にされ、罵られています」。さあ、キリスト者よ。こうしたすべてを恐れてはならない。むしろ、「主を仰ぎ見て、輝かされるがいい」。いかに人々が主を迫害したか思い出すがいい。おゝ! あの恥辱と、吐きかけられたつばきと、引き抜かれた髪の毛と、兵隊たちの罵りとを思うがいい。あの恐ろしい町通りの引き回しを思うがいい。そのときには、誰もが主を嘲り、主とともに十字架につけられた者らでさえ主を罵ったのである。あなたは、主よりもひどい扱いを受けてきたのだろうか? それだけでも、再びあなたの武具をまとわせるに十分だと思う。なぜあなたは、あなたの《主人》と同じくらい不名誉をこうむることを恥じる必要があるだろうか? このように考えることこそ、古の殉教者たちを鼓舞してきたものであった。血みどろの戦いを戦った人々は知っていたのである。自分たちが、あの血のように赤い冠――殉教という紅玉の冠をかちとることになる、と。それゆえ彼らは、目に見えない方を見るようにして、忍び通した[ヘブ11:27]のである。このことが常に彼らを元気づかせ、慰めたからである。彼らは、「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを」覚えていた。それで彼らの「心が元気を失い、疲れ果てて」しまうことはなかったのである[ヘブ12:3]。彼らは「罪と戦って、血を流すまで抵抗した」[ヘブ12:4]。自分たちの《主人》が同じことを行なったと知っており、その模範が彼らを励ましていたからである。私はこう確信している。愛する兄弟姉妹。もし私たちがよりキリストを仰ぎ見るとしたら、私たちの数々の苦難はそれほどどす黒いものにはならないであろう。最も暗い夜にも、キリストを仰ぎ見ることによって、漆黒の空は晴れ上がるであろう。暗闇が濃密に思われ、エジプトのそれのように、さわれるほどとなり[出10:21]、漆黒の固い柱のようになるとき、そうしたときでさえ、イエスをひとたび仰ぎ見るなら、それは、明るい稲妻の閃きのように明るく、だが、稲妻のようにたちまち消え去るものではないことが分かるであろう。イエスを一瞥することは、私たちの途上のあらゆる辛苦にとって十分であろう。主の御声に元気づけられ、主の強さに勇気づけられて私たちは、主がなさったように死に至るまで事を行ない、耐え忍ぶ覚悟ができるのである。さて、こうしたことが、私たちの第一の点である。私たちは確信する。あなたがたの中の、キリスト者として倦み疲れている方々は、「主を仰ぎ見て、輝かされる」ことを忘れないであろう、と。
II. さて今、私があなたに求めなくてはならないのは、ずっと陰鬱な光景である。だが奇妙なことに、その光景が陰々滅々たるものになればなるほど、私たちにとって、それはより明るいものとなっていくのである。《救い主》が悲惨の淵に深く沈めば沈むほど、主が掲げ上げる真珠の輝きはいや増す。――主の悲嘆が大きくなればなるほど、私たちの喜びは大きくなり、主の不名誉が深まれ深まるほど、私たちの栄光は輝かしくなるのである。では、来るがいい。――そして、このたび私は、あわれな、疑いつつあり、おののいている罪人たち、また聖徒たちに、私とともに来るよう願いたい。――今、カルバリの十字架のもとに来るがいい。その、エルサレムの城門の外にある、小さな丘の頂きでは、一般の犯罪人たちが普通は死罪に処せられていた。――犯罪人たちが処刑される、エルサレムにおけるタイバーン[ロンドンの死刑執行場]であり、その町のオールドベイリー[ロンドンの中央刑事裁判所]であった。――そこに、三本の十字架が立っている。中央のものは、犯罪者の中でも最大の者と評される者のために取っておかれている。そこに見るがいい! 人々は彼を十字架に釘づけた。それは、いのちと栄光の《主》であった。御使いたちが喜んで、その御足元に栄光の満ちた鉢を注ぎ出そうとするお方であった。人々はこのお方を十字架に釘づけた。この方がそこで中空に吊り下げられ、死にかけ、血を流しているのである。この方は喉の渇きを覚えて、叫んでいる。彼らは主に酢を差し出し、それを御口の中に突き入れる。主は苦しんでおり、同情されてしかるべきであるにもかかわらず、彼らは主をあざ笑って、こう云う。「彼は他人を救ったが、自分は救えない」[マタ27:42]。彼らは、主のことばを誤って引用しては、神殿を打ち壊し、それを三日で建ててみよと挑んでいる。まさに、そのことが成就しつつあったそのときに、彼らは主にそれを成し遂げる力がないといって主をなじっている。さて、主を見るがいい。目で眺めるには暗黒にすぎる数々の苦悶の上に幕が引き下ろされる前に、いま主を見るがいい! その御顔ほど損なわれた顔があっただろうか? これほどの苦悶をかかえた心があっただろうか? そして、この燃えるような苦悶を満面にたたえた御目ほど、苦しみの炎をはらんでいるように見える目があっただろうか? さあ、主を眺めるがいい。さあ、いま主を仰ぎ見るがいい。太陽は覆い隠され、主を眺めることを拒んでいる! 地は震え揺れる。死者はよみがえる。主の苦しみの恐怖は大地そのものをも飛び上がらせている。
「主は死せり! 罪人の友は死せり」。
そして、私たちがあなたに求めたいのは、この光景を仰ぎ見て、あなたが輝かされることである。今朝あなたは何を疑っているだろうか? それが何であれ、それは、十字架上のキリストを仰ぎ見ることによって、思いやり深く、情け深い解決を見いだすことができよう。ことによると、あなたはこの場に、神のあわれみを疑いながらやって来たかもしれない。十字架上のキリストを仰ぎ見るがいい。そのとき、あなたはまだ疑えるだろうか? もし神があわれみに満ちていなかったとしたら、また、潤沢な同情をお持ちでなかったとしたら、神はご自分の御子を与えて、血を流させ、死なせたりしようとされただろうか? 考えてもみるがいい。御父は自分の愛し子を自分の胸から引き裂き、それを木に釘づけ、私たちのため屈辱的な死をこうむらせたというのに、それでもむごく、無慈悲で、あわれみのないお方なのだろうか? 決してそのような不敬虔な考えを起こしてはならない! 神の心にはあわれみがあるに違いない。さもなければ、カルバリの上の十字架は決してなかったはずである。
しかし、あなたは神の救う力を疑っているだろうか? あなたは今朝、内心こう云っているだろうか? 「いかにして神は、私のような大罪人を赦すことができるだろうか?」 おゝ! そこを見るがいい。罪人よ。そこで大いなる贖罪がなされ、究極の贖いの代価が払われているのを見るがいい。あなたは、その血には罪を赦し、義と認める効き目がないと思うのだろうか? まことに、その十字架がなかったとしたら、これは答えようのない問いであった。――「いかにして神は、ご自身が義であり、かつ、不敬虔な者を義とお認めになることができようか?」 しかし、そこで血を流している身代わりを見るがいい! そして、知るがいい。神は主の苦しみを、信仰者すべての災厄と同等のものとして受け入れられた、と。ならば、あなたの霊において、考えられるものなら考えてみるがいい。キリストの血でも、神がご自分の義を正当なものとし、罪人たちにあわれみを及ぼさせるには十分ではないのだ、などと。
しかし、私はあなたがこう云うだろうと知っている。「私の疑いは、神の一般的なあわれみについてでも、神の救う力についてでもありません。神が、私を救うおつもりがあるかどうかについてなのです」。さて、生きているが、かつて死なれたお方[黙1:18]にかけて私は切に願う。今朝、あなた自身の心の中をのぞき込んで、この困難に対する答えを見いだそうとしてはならない。今じっくり腰を落ち着けて、あなたのもろもろの罪を眺めてはならない。それらがあなたを危険に引き込んだのである。――それらがあなたをそこから引き出すことはできない。あなたに得られる最上の答えは、十字架の根元にある。今朝帰宅したら、半時間ほど、じっくりと腰を据えて静かに黙想するがいい。十字架の根元に腰を下ろし、死につつある《救い主》に思いをひそめるがいい。そのとき、云えるものなら云ってみるがいい。「私は、私に対する主の愛を疑います」、と。キリストを仰ぎ見ることは信仰を生み出す。あなたは、キリストを見ている際でない限り、キリストを信じられない。そして、もしあなたが主を仰ぎ見るとしたら、あなたは、主には救うことがおできになると悟るであろう。あなたは主のいつくしみ深さを悟るであろう。そして、ひとたび主を眺めた後では、主を疑うことなどできないであろう。ウォッツ博士は云う。
「もし主の価値(あたい)、国々知らば
全地もなべて 主をば愛さん」。そして、私の確信するところ、これを別の読み方にしても、それは全く真実である。――
「もし主の価値(あたい)、国々知らば
全地もなべて 主を信頼せん」。おゝ、願わくはあなたが、いま主を仰ぎ見るように。そうすれば、あなたのもろもろの疑いはたちまち取り除かれるであろう。というのも、何にもまして、あらゆる疑い恐れをすみやかに打ち殺すのは、血を流しつつある、死に給う主の愛に満ちた眼差しをのぞき込むことにほかならないからである。「あゝ」、とある人は云うであろう。「ですが、私の疑いは、この点における私自身の救いに関してなのです。私は、私が欲するほど聖くなれないのです」。「私は非常に多くを試してきました」、とある人は云うであろう。「私のもろもろの罪を除き去ろうとしてきました。ですが私にはできません。私はよこしまな思いを持たず、聖くない行ないをせずに生きようと労苦してきましたが、それでもなおも私の心が『何よりも陰険』[エレ17:9]なことに気づくのです。そして、私は神からさまよい出るのです。確かに私がこのような者である限り、私が救われることなどありえません」。待てよ! 主を仰ぎ見て、輝かされるがいい。あなたに、自分を仰ぎ見る筋合いなどない。罪人の第一の務めは、自分自身ではなく、キリストに関わっている。あなたの務めはキリストのみもとに来ることである。不健康な、疲れた、魂の病んだ者として、キリストのもとに来て、自分を治してくださいと願うことである。あなたが自分の医者になるべきではなく、むしろ、今のあなたのまま、キリストのもとに行くべきである。私が時々云い表わすように、――キリストをあなたの希望の唯一の柱とし、決して主を控え壁で支えたり、つっかい棒をしたりしようとしてはならない。「主に能力(ちから)あり、望み給う」。主があなたにお求めになるのは、ただ主を信頼することでしかない。あなたの良い行ないについては、後でやって来る。それらは御霊の後の実である。だが、あなたの第一の務めは、行なうことではなく、信ずることである。イエスを仰ぎ見て、あなたの唯一の信頼をイエスに置くがいい。「おゝ」、と別の人は叫ぶであろう。「先生。私は自分が、しかるべきほどには《救い主》の必要を感じていないのではないかと心配なのです」。またしても、あなたは自分を仰ぎ見ている! 分かるであろう。これはみな、自分を仰ぎ見ることでしかない! これはみな間違いである。私たちの疑いや恐れはみな、これを原因として生ずるのである。――私たちは自分の目を間違った方角に向けようとする。ただ十字架だけを再び仰ぎみるがいい。あの死にかけていた、あわれな強盗がそうしたように。彼は云った。「主よ。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」[ルカ23:42 <英欽定訳>]。同じようにするがいい。あなたは、そうしたければ、自分はしかるべきほどに主を必要だと感じていないのです、と主に告げても良い。自分の大きな、また巨大な咎を正しく感じとっていないこと、それを、あなたの他のもろもろの罪に上乗せしても良い。「主よ。私を助けて、私が自分の罪をより良く告白できるようにしてください。私を助けて、それらをもっと悔悟した者のように感じさせてください」、という叫びを、あなたのあらゆる告白につけ加えても良い。しかし、覚えておくがいい。あなたの告白があなたを救うのではない。キリストの血潮だけである。その御手、御足、御脇から流れ出る主の血だけがあなたを救うのである。おゝ! 私は、私の仕えているお方にかけて切に願う。今朝、あなたの目をキリストの十字架に向けてほしい。そこに主はきょうかかっておられる。主はあなたの思いの中で掲げ上げられている。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もきょう、あなたの目の中で上げられている。それは、主を信ずる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである[ヨハ3:14-16]。
そして、あなたがた、神の子どもたち。私はあなたに目を向ける。というのも、あなたもまた疑いを有しているからである。あなたはそれを取り除きたいだろうか? 揺らぐことのない信仰と、不動の確信をもって主を喜びたいだろうか? ならば、イエスを仰ぎ見るがいい。もう一度主を仰ぎ見るがいい。そうすれば、あなたは輝かされるであろう。私は、今のあなたがいかなる状態にあるか分からないが、私はごく頻繁に自分が疑い深い心持ちになることに気づく。そして、それは、果たして自分がキリストに対する愛を少しでも有しているかいないかという疑問であるように思われる。そして、一部の人々がこの賛美歌を笑い飛ばしているという事実にもかかわらず、この賛美歌こそ私が歌わざるをえないものとなる。――
「こは わが切に知らんと欲し、
しばしば不安をかき立てしこと。
われ主を愛すか さにあらざるか、
われ主のものなるか、さにあらざるか」。そして本当に私は確信している。あらゆるキリスト者は、時として疑いをいだくものであり、疑いを持たないという人々こそ、まさに疑ってしかるべき人々なのである。というのも、決して自分の状態について疑わない人は、ことによると、疑いを持った時には手遅れになっているかもしれないからである。私の知っているある人は、自分は三十年間、一度も疑ったことがないと云っていた。私は、私の知っているある人は、あなたのことを三十年間、一度も疑ったことがないのですよ、と彼に告げた。「どうしてそんなことが?」、と彼は云った。「それは奇妙ですね」。彼はそれをほめ言葉だと受け取ったのである。そこで私は云った。「私の知っているある人は、三十年間あなたについて一度も疑ったことがありませんでした。その人は自分が今まで出会った人の中で、あなたほど桁外れの偽善者はいないと知っていました。その人は、あなたについて何の疑いもいだいていませんでした」。しかし、この人物は自分自身について何の疑いもいだいていなかったのである。自分は神の選ばれた子どもであり、《いと高き方》のお気に入りなのだ、と。彼は《選び》の教理を愛していた。それが彼の顔に書いてあった。だがしかし、その人は、私が出会った中で最も無情な奴隷監督であり、最も冷酷に貧者を抑圧する者であった。そして、彼自身が貧困に陥ったときには、しばしば町通りをへべれけになって歩く姿が見受けられた。そしてこの人は、三十年間、何の疑いもいだいていなかったのである。だがしかし、最上の人々は常に疑り深いものである。こうした人々の中のある人々は、天国の城門のすぐ外側で暮らしていながら、結局は地獄に投げ落とされるのではないかと恐れている。その間、あの底知れぬ所への大道を進んでいる人々が全く恐れなど感じていないのである。しかしながら、もしあなたが自分の疑いをもう一度取り除きたければ、キリストに目を向けるがいい。あなたは、ケアリ博士が自分の墓石に何と刻ませたか知っているであろう。――まさにこの言葉である。というのも、それが彼の慰めだったからである。――
「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら。
キリストの御手(て)に われは身を投ぐ。
主こそわが身の 力にして義、
わがイエスにて わがすべて」。思い起こすがいい。あの卓越したスコットランド人神学者が、その死に際に何と云ったかを。ある人が彼に云った。「何と、あなたはいま死のうとしているのですか?」 彼は云った。「私は、私のすべての善行をかき集めているところです。それから、それらをみな水中に投げ捨てているのです。そして、無代価の恵みという厚板に自分をくくりつけているのですよ。そうすれば、それに乗って栄光へと泳いで行けるでしょう」。あなたも、そのようにするがいい。日々あなたの目をキリストにだけ注いでいるがいい。あなたの目が健全である限り、あなたの全身も明るいであろう[ルカ11:34]。しかし、もしあなたが、ひとたび薮睨みになり、まず自分自身に目を向け、それからキリストに目を向けるなら、あなたのからだ全体も暗くなってしまう。ならば、キリスト者よ。十字架のもとに駆け寄ることを忘れてはならない。あの大きな地獄の黒犬があなたを追いかけているときには、十字架に逃げて行くがいい! 犬に悩まされたとき羊が向かうところへ行くがいい。羊飼いのもとに行くがいい。この犬は羊飼いの牧杖を恐れている。あなたがそれを恐れる必要はない。それは、あなたを慰めてくれるものの1つである。「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」[詩23:4]。十字架へ逃げて行くがいい。私の兄弟たち! あなたのもろもろの疑いを取り除きたければ、十字架へ逃げて行くがいい。私は確信している。もし私たちが、よりイエスとともに生きていたとしたら、また、よりイエスに似ていたとしたら、また、よりイエスに信頼していたとしたら、疑いや恐れはごくまれな、めったにないこととなっていたであろうし、私たちがそれらについて不平を云うのは、オーストラリアに最初に移民した人々が薊について不平を云うのと同じくらいまれなことであったであろう。というのも、彼らはそこでそれを全く見いださず、誰かがそこに持ち込まない限り、全くそこにはなかったはずだからである。もし私たちが単純にキリストの十字架を信ずる信仰によって生きるとしたら、私たちは、何の薊もない土地で生きることになる。だが、もし私たちが自我に頼って生きようとするなら、幾多の薊や、茨や、おどろや、いらくさが生えてくるであろう。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」。
III. さて今、私はあなたを1つの栄光に富む光景に招きたい。――《キリストの復活》である。ここに来て、主を仰ぎ見るがいい。かの古き蛇は主のかかとにかみついている!
「主は死せり! 罪人の友は死せり、
サレムの娘 嘆きたり」。主はその屍衣に包まれ、その墓に入れられ、三日三晩、そこで眠られた。そして週の初めの日に、主は――死の綱につながれていることがありえないお方、また、その肉体が朽ち果てず、その魂がハデスに住むことのないお方[使2:24、31]は――死者の中からよみがえられた。主に巻きついていた布は無駄だった。主は自らそれを解き放ち、ご自分の生ける力によって、それを完璧に整ったしかたで巻き取り、その場所に置いて行かれた。あの石も封印もむなしく、《救い主》は出て来られた。あの番兵や見張りたちは役に立たなかった。恐怖に打たれて彼らは逃げだし、主は死に対する勝利者として――眠った者の初穂として[Iコリ15:20]――よみがえられた。ご自分の力と大能によって、主はいのちに戻って来られた。この会衆の中には、少なからぬ数の人々が黒い喪章をつけているのが見える。あなたがたの中のある人々は、あなたの地上の親族の中でも最も親しい者を喪った。また、この場には、疑いもなく死への絶えざる恐れの下にある人々もいるに違いない。あなたは一生の間、束縛されて生きている。なぜなら、あなたは、人々がヨルダン川に近づく際に臨むあの呻きや、断末魔について考えているからである。私は切に願う。あなたがた、泣いている人たち、臆病な人たち。よみがえられたイエス・キリストを眺めるがいい! というのも、思い出すがいい。このことは偉大な真理なのである。「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」[Iコリ15:20]。そして私たちの賛美歌のこの詩句は、それを具体的に云い表わしているものでしかないのである。――
「生来(うまれつき)しの 罪により
肉はちりをば 見ざるをえじ。
されど救いの きみと同じく
御民はすべて よみがえりうべし」。そこの寡婦よ。あなたの夫がイエスにあって死んだとしたら、もはや涙することはない。《主人》を見るがいい。主は死者の中からよみがえられた。主は決して幽霊ではない。その弟子たちの前で主は焼いた魚と一切れの蜂蜜を召し上がっておられる[ルカ24:42 <英欽定訳>]。主は決して霊ではない。というのも、こう云っておられるからである。「わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」[ルカ24:39]。それは真の復活であった。ならば、愛する方々。あなたが涙するときも、自分の悲しみを抑えるすべを学ぶがいい。というのも、あなたの愛する者は、再び生きることになるからである。彼らの霊が生きることになるだけでなく、彼らのからだもまたそうなるのである。
「腐敗(くされ)も、地面(つち)も、虫けらも
ただ精錬(みが)くのみ、このからだをば。
御使いの長(おさ) 喇叭を吹かば
われらはそれを 新たに着るらん」。おゝ! うじ虫があなたの子どもたちを、あなたがたの友人たちを、あなたの夫を、あなたの父を、あなたの老いた両親を食べ尽くすのだと考えてはならない。――確かに、うじ虫は彼らをむさぼり食らうように見える。おゝ! そのうじ虫とは、結局、私たちのあわれで不潔な肉体がくぐらなくてはならない濾し器でなくて何だろうか? というのも、終わりのラッパとともに、一瞬のうちに、私たちは朽ちないものによみがえり、生きている者らは変えられ[Iコリ15:52]、あなたは、たったいま閉ざされたばかりの目を見、それを再び眺めるからである。あなたは、たった今、床のかたわらにぽとりと落ちた手を再び握ることになるのである。たった今、粘土のように冷たく、白くなった唇に、もう一度口づけし、墓の中で沈黙している声を、もう一度聞くのである。そして、あなたがた、死を恐れている人たち。――なぜ死ぬのを恐れるのか? イエスはあなたに先立って死なれた。あの鉄の門扉をくぐり抜けられた。そして、あなたに先立ってそこを通り抜けたように、主はやって来てあなたを出迎えてくださるであろう。生きておられるイエスは、
「死の床をも
むく毛の枕と かえさせ」ることがおできになる。なぜあなたは泣かなくてはならないのか? イエスは死者の中からよみがえられた。あなたもそうなるのである。しっかり元気を出して、確信を持っているがいい。あなたは墓の中に入れられるとき、失われるのではない。あなたは永遠の刈り入れを目指して熟するべく蒔かれた種でしかない。あなたの霊は神へと上る。あなたのからだは、しばしの間、眠った後で、永遠のいのちへと生き返らされる。死ななくては、生き返ることができない。だが死ねば、それは新しいいのちを受けることになる。それが滅ぼされることはない。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」。おゝ! よみがえられた《救い主》――これこそ、仰ぎ見るべき尊いことである。私の知る限り、イエス・キリストが死者の中から復活されたことについて正しい見方をすることほど、私たちの霊を高く引き上げるものはない。ならば、私たちはいかなる友人をも失ってはいないのである。彼らは先に出かけたのである。私たち自身も、死ぬことにはならない。死んだように見えるだろうが、生き始めるのである。というのも、こう書かれているからである。
「ひと死すために生き 生くために死す。
生きて再び 死ぬることなし」。願わくは、それが、この場のすべての人々の定めとなるように!
IV. そして、可能な限り手短に私があなたに求めたいのは、《天に上っていくイエス・キリストを仰ぎ見る》ことである。四十日後に、主はその弟子たちを連れて山に向かい、彼らと話をしておられる間に、突然、上って行かれた。そして、彼らから引き離され、雲が主を栄光へと迎え入れた。ことによると、私は、主が雲の中に上って行かれた後に何が起こったかを描き出そうとするとき、多少の詩的自由を許されて良いかもしれない。御使いたちは天からやって来た。――
「天使ら高みより あるじの戦車を
持ち来てその主を 御座へと運びぬ。
輝く翼 打ち鳴らしつ云えり。
栄え満ちたる みわざはなれり」。疑いもなく、並ぶものなき大勝利とともに主は、かの光の丘を登り、天の都に赴かれた。そして、主が、宇宙の首都たるこの大都市の正門に近づかれたとき、御使いたちは大声を発した。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ」[詩24:7]。そこで、燃える胸壁の上から、光輝く霊たちが叫び返した。「栄光の王とは、だれか。――それは誰か?」 そして答えが返された。「戦いに力ある主。万軍の主。万軍の主。これぞ、栄光の王」。そして、そのとき、城壁の上にいる者らと、戦車とともに歩んでいる者らとの双方が再びその歌を唱和した。そして、1つの広大な音楽のうねりが、天国の城門へとその調べ豊かな波涛を打ち寄せ、それを押し開ける中で、この詩歌が聞かれるのである。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる」。――そして、主はお入りになられた。そこで主の御足元に、御使いたちの軍勢のすべてが自分たちの冠を投げ出した。また、血で洗われた者たちが進み出ては、私たちの町通りで凱旋将軍の足元に投げるように薔薇の花を主の御足の下に投げるのではなく、不死の花々と、決してしぼむことのない不滅の花輪を投げた。その間、何度も、何度も、何度も、諸天はこの歌曲で鳴り響いた。「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方に栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン」+[黙1:5-6]。そして、聖徒たちの全員と御使いたちの全員とが、「アーメン」、と云った。さて、あなたがた、キリスト者たち。ここで眺めるがいい。ここにあなたの慰めがある。イエス・キリストは、血肉に対する格闘ではなく、主権や力といった数々の霊的な敵たちとの格闘に打ち勝たれた。あなたはきょうは戦争中であり、ことによると、敵はあなたに猛攻撃をかけているかもしれない。そしてあなたは、今にも倒れそうかもしれない。あなたが戦いの日に敵に後ろを見せずに来られたのは、あなたにとっても驚きである。あなたはしばしば、自分が臆病者のように戦場から逃げ出すのではないかと恐れていたからである。しかし、震えてはならない。あなたの《主人》は圧倒的な勝利者となられたし、あなたもそうなるからである。やがて来たるべき日に、あなたは、輝きでは主に劣るが、程度では劣らない光輝とともに至福の門を通り抜けることになる。あなたが死につつあるとき、御使いたちは、流れの半ばであなたを出迎え、あなたの血がその冷たい川の中で冷えていくとき、あなたの心臓は別の流れで暖まっていく。それは、かの大いなる、あらゆる喜びの泉から出た、いのちと熱との流れである。そしてあなたはヨルダンの向こう岸に立ち、御使いたちはその無垢の衣を着てあなたを迎え、かの光の丘まであなたに付き添って行き、イエスへのほめ歌を歌い、主の御力がさらに1つの戦利品を得たとして、あなたを歓呼して迎える。そして、あなたが天の城門に入るとき、あなたはあなたの《主人》キリストに出会うであろう。主はあなたにこう仰せになるであろう。――「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」*[マタ25:23]。そのときあなたは、自分が主の勝利にあずかっていることに気づくであろう。かつて、主の格闘と主の戦いとにあずかっていたのと同じである。戦い続けるがいい。キリスト者よ。あなたの栄光に富む《指揮官》は大勝利を勝ち取られたし、それと同一の勝利をあなたのために確保してくださった。その軍旗は、たといしばしば打ち殺された者の血に浸されたことがあるとしても、いまだかつて一度も敗北に汚されたことはないのである。
V. さて今、もう一度、「主を仰ぎ見て、輝かされるがいい」。天よ。そこに主が座しておられるのを見るがいい。主は多くの捕虜を引き連れ[エペ4:8]、今や神の右の座に着いておられる。それは、私たちのため永遠にとりなしていてくださるためである[ロマ8:34]。あなたの信仰は、きょう主を描き出せるだろうか? 古の大祭司のように、主は両腕を差し伸ばして立っておられる。その物腰には威光が伴っている。主は決して卑屈な嘆願者ではないからである。主は自分の胸を打つこともなく、眼を伏せることもない。むしろ、権威をもって、いま栄光の御座に着いたまま願いを発しておられる。主の頭には、その祭司職を示す、光輝くかぶり物が乗っており、見よ、その胸には、ご自分の選民の名前が永遠に彫り刻まれた宝玉がきらめいている。主がお語りになる声を聞くがいい。それが何と云っているか聞こえるだろうか? 今朝あなたが、神の家に来る前にささげた祈りである。キリストは今、それを御父の御座の前でささげておられるのである。たった今あなたが、「どうかお赦しください、あわれんでください」、と口にしたばかりの祈願を、――主は今そこで口にしておられるのである。主は《祭壇》であり、《祭司》であり、ご自分のいけにえにより、私たちの祈りに香りをつけてくださる。だがしかし、ことによると、あなたは何日も祈りを積んできたのに、何の答えも得ていないかもしれない。あわれな涙する嘆願者よ。あなたは主を求めてきたが、主はあなたの祈りを聞いておられない。あるいは、少なくともあなたの魂を喜ばせるような答えをしておられない。あなたは主に叫んできたが、諸天は青銅のようであり、主はあなたの祈りを閉め出してきた。あなたは、そのために暗闇と心の重さに満ちている。「主を仰ぎ見て、輝かされるがいい」。たといあなたが成功しなくとも、キリストは成功なさるであろう。もしあなたのとりなしに何の注意も払われなくとも、キリストのとりなしが見過ごしにされることはありえない。たといあなたの祈りが岩の上にこぼれた水のようなものとなり、元に戻すことができないとしても、だがキリストの祈りはそのようなものではない。キリストは神の御子であり、キリストが嘆願すれば、聞き届けられずにはおかない。神はご自分の御子がいま願っておられることを拒むことがおできにならない。御子は、ひとたびその血によってあわれみを買い取られたお方なのである。おゝ! しっかりするがいい。あなたの嘆願をなおも続けるがいい。「主を仰ぎ見て、輝かされるがいい」。
VI. 最後のこととして、この場にあるあなたがたの中のある人々は、この世の騒音や喧噪、この世の不義や悪徳に倦み疲れている。あなたは、一生の間、罪の支配に終止符を打とうとして戦ってきたが、いかに努力しようと無駄であるかのように思われる。地獄の支柱は、かつてと同じくらい堅固に立っており、悪の黒い王宮は荒れ果てた廃墟となってはいない。あなたは、それに対して祈りの破城槌と、神の大能とを打ちつけ続けてきたと思ってきた。――だがしかし、この世はなおも罪を犯しているし、その川々はなおも血に染まって流れ、その平原はなおも好色な踊りで汚され、その耳はなおも不潔な歌や冒涜の誓いで汚染されている。神は尊ばれていない。人はなおも下劣なままである。そして、ことによると、あなたはこう云っているかもしれない。「私たちが戦い続けても無駄なことだ。私たちは成し遂げることのできない務めを請け負ったのだ。この世の国は決して私たちの主およびそのキリストのものとなることはありえない」。しかし、キリスト者よ。「主を仰ぎ見て、輝かされるがいい」。見よ! 主は来られる。主は来られる。主はすみやかに来られる。そして、私たちが六千年かけても行なうことのできなかったことを、一瞬にして行なうことがおできになる。見よ! 主は来られる。来て、統治される。私たちは主の御座を建てようとするかもしれないが、それを成し遂げることはない。しかし、主が来られるとき、主はご自分の御座をご自分でお建てになる。堅固な光の柱列の上に御座を据え、エルサレムに着座し、ご自分の聖徒たちのただ中で、栄光に富むさばきを行なわれる。ことによると、きょう、この集会中にキリストはやって来られるかもしれない。――「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません」[マタ24:36]。キリスト・イエスは、私がいま語っている最中に、栄光の雲に包まれて現われるかもしれない。私たちは、主の現われる時について推測を逞しくする何の理由もない。主は夜中の盗人のように来られる[Iテサ5:2]。それが夜明けになるか、真っ昼間になるか、真夜中になるか、私たちは推測することを許されていない。それは全く秘密とされており、人々の予言は無駄であり、あなたがたの『黙示の随想』[1853、ジョン・カミング著]は無駄であり、そうした類の何もかも無駄である。いかなる人もそれについては何も知らない。ただ1つ、主が来られるということを除いては。だが、いつ主が来られるかは、いかなる天の霊、あるいは、いかなる地上の霊も、知ったかぶりをしてはいない。おゝ! 私が生きている間に主が来られることは、私の喜ばしい希望である。ことによると、この場にいる私たちの中のある者らは、人の子の来臨のとき生き残っているかもしれない。おゝ、栄光に富む望みよ! 私たちは眠らなくてはならないが、私たちはみな変えられるのである[Iコリ15:51]。主は今やって来られるかもしれず、生き残っている私たちは、一挙に引き上げられ、空中で主と会い、いつまでも主とともにいることになる[Iテサ4:17]。しかし、たといあなたが死ぬとしても、キリスト者よ。これはあなたの希望である。「わたしはあなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」*[ヨハ14:3]。ならば、このことをあなたは義務とすべきである。「だから、目をさましていなさい。……なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから」[マタ24:42、44]。おゝ、私は働き続けたいではないだろうか。キリストは戸の外に立っておられるからである! おゝ! 私はいかに困難な辛苦といえどもあきらめたいとは思わない。私の《主人》がやって来られ、主はそれぞれのしわざに応じて報いるために、主の報いを携えて来られる[黙22:12]からである。おゝ、私は絶望して身を伏せたりすまい。喇叭が今にも鳴ろうとしているからである。私は、征服軍の踏みしめる足音が聞こえるような気がする。神の強大な英雄たちの最後のひとりが、今しもこの世に生まれ出たかもしれない。今時の信仰復興の時は、戦闘の変わり目の時である。戦いは激しく、その相剋は熱く、激越だったが、《征服者》の喇叭は鳴り響き出している。御使いはそれをその唇にいま持ち上げつつある。その最初の一吹きは海を越えて聞こえて来ている。さらに再び私たちはそれを聞くことになるであろう。あるいは、もし私たちがそれを、この今の時代に聞くことがないとしても、それでも、これは私たちの希望である。主は来られる。主は来られる。そして、すべての目が主を見る[黙1:7]。主を十字架につけた者たちは御前で泣き、嘆くが、義人は喜び、大いに主をほめたたえる。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」。
私は、エクセター公会堂での説教を、「イエス、イエス、イエス!」、という3つの言葉でしめくくったことを思い出す。そして、私は、今朝のこの説教を同じ言葉でしめくくろうと思う。だが、そうする前に、そこに立っている、ひとりのあわれで孤独な魂に向かって語りかけなくてはならない。その人は、自分にとってあわれみなど果たしてあるだろうかと思い惑っている。その人は云っている。「先生。『イエスを仰ぎ見よ』、というのはもう十分に聞きました。ですが、もし仰ぎ見ることができなかったとしたら? もし目が盲目だったとしたら――そうしたら、どうなりますか?」 おゝ! 私のあわれな兄弟。あなたの落ちつきのない眼球をあの十字架に向けるがいい。そうすれば、目の見える者たちに光を与えているあの光が、盲目の者たちにも視力を与えるであろう。おゝ! もしあなたが今朝信ずることができないとしても、仰ぎ見て考え、事をよくよくはかりにかけるがいい。そうすれば、そのようにはかりにかけ、思い巡らしている中で、あなたは信ずるための助けを得るであろう。主はあなたから何も求めておられない。主は、主があなたのために死んだことを信ずるよう、今あなたに命じておられる。もしきょう、あなたが自分は失われた、咎ある罪人だと感じるなら、主が求められるのは、ただあなたが主を信ずることである。すなわち、主を信頼し、主に頼り切ることである。主が求めておられるのは、小さなことではないだろうか? だがしかし、それは、御霊が私たちに同意させてくださらない限り、私たちの中の誰ひとり進んで行なえないことである。さあ、自分を主の御前に投げ出すがいい。主の約束の上にべたっと寝そべるがいい。乗るにせよそるにせよ、主に頼り切るがいい。あなたが主を信じた瞬間に、あなたがいかなる喜びを感じることになるか、あなたには思いもつかないであろう。あなたがたの中のある人々は、先の安息日に心に感ずるものがあり、先週の間中、不安にかられて過ごしてはこなかっただろうか? おゝ! 今朝の私が、あなたの慰めになる何らかの良い使信をあなたにもたらしたのであれば良いと思う。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]、とキリストは仰せになる。それは、「わたしが神である。ほかにはいない」からである。あなたがたも今、主を仰ぎ見るがいい。仰ぎ見れば、生きるのである。願わくはあらゆる祝福があなたの上にとどまり、それぞれの人がこの場を出てから、このお方について考えるように。私たちの愛するお方――イエス――イエス――イエス!について。
イエスを仰ぎ見て[了]
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