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永遠の名

NO. 27

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1855年5月27日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「彼の名はとこしえに続き」。――詩72:17


 この場のいかなる人に告げるまでもなく、この「とこしえに続く」名とは、イエス・キリストの御名である。人間は、自分たちの作り上げたものの多くについて、「これはとこしえに続くだろう」、と云ってきた。だが、そのいかに多くが消滅してきたことか! 洪水後の時代に、人々は煉瓦を作り、瀝青を集めた[創11:3]。そして、かの古のバベルの塔を積み重ね出したときには、「これはとこしえに残るだろう」、と云った。しかし、神は彼らの言葉を混乱させ、彼らは完成しなかった。神は、ご自分の稲妻によってそれを破壊し、彼らの愚行の記念として残された。古のパロとエジプトの王たちは、その金字塔を積み上げて、「これはとこしえに立っているだろう」、と云ったし、実際、それらは今も立っている。だが、時代がこうしたものすらも呑み込んでしまう時は近づきつつある。それと同じように、人間は、自ら作り出した最も威風堂々たるものの上に――それが、その数々の神殿であるか、幾多の君主国であるかに関わりなく――、「永遠の」と書き記してきた。だが神がそれらの終焉をお定めになると、それらは失せ去ってしまった。堅牢きわまりない事物ですら、神がお命じになると、時の間をうつろう影やあぶく同然にはかなく、たちまち壊れてしまった。ニネベはどこにあるだろうか? また、バビロンはどこにあるだろうか? ペルシヤの町々はどこにあるだろうか? エドムの高き所はどこにあるだろうか? モアブは、またアモン人のつかさたちはどこにいるだろうか? ギリシヤの幾多の神殿や英雄たちはどこにいるだろうか? テーバイの門を通った幾百万もの人々はどこにいるだろうか? クセルクセスの軍勢はどこにいるだろうか? あるいは、ローマ諸皇帝の膨大な軍隊はどこにいるだろうか? それらは、無に帰してしまったではないだろうか? そして、いくら彼らが誇り高ぶって、「この君主国は永遠だ。この七つの丘の女王は永遠の都と呼ばれるだろう」、と云ったにせよ、その誇りは曇らされる。そして、孤高の座を守って、「私はやもめにはならない。とこしえに女王である」[黙18:7参照]、と云っていた彼女は、下落して、下落して、やがて大水に投げ込まれたひき臼のように沈んで行き[黙18:21]、彼女の名前は呪いとなり、嘲笑の的となり、彼女の跡地はジャッカルの住みか、だちょうの住む所となるのである[イザ34:13]。人間は自分の手のわざを永遠と呼ぶ。――神はそれらをつかの間のものと呼ぶ。人間は、それらが岩からできていると思いみなす。――神は云われる。「否。砂だ。さもなくば、砂ですらない。――空気だ」、と。人間は、それを永遠に続くものとして立てたと云う。――神は一瞬で吹き飛ばされる。すると、それらはどこにあるだろうか? 土台のない幻の建物のように、とこしえに消え去ってしまう。

 こうした際に、1つだけは、とこしえに残るものがあるとわかるのは嬉しいことである。この1つのことについてこそ、今晩、私たちは語りたいと思う。第一に、彼の名によって聖別された信仰は、とこしえに続く。第二に、彼の名の誉れはとこしえに続く。そして第三に、彼の名の救いに至る、慰めに満ちた力はとこしえに続く。

 I. 第一に、イエスの御名を冠した信仰は、とこしえに続く。詐欺師たちがその迷妄をでっちあげたとき、彼らは、あわよくば、いつかは自分が遠い未来の時代に世界を従えるかもしれない、と願っていた。ほんの数人でも自分の旗印の回りに信奉者が集まり、自分の社で香をささげるのを見ると、彼らはほくそ笑んで云った。「わが宗教は、星々よりも明々と輝き、永遠に続くであろう」、と。しかし彼らがいかに間違っていたことか! 左様、私たちの中のある人々は、この短い人生の中においてすら、種々の宗派がヨナのとうごまのように一夜にして生え出ては、同じくらいたちまち消え失せていくのを見てきた。私たちもまた、幾多の預言者が立ち起こっては、つかの間の名声を得るのを見てきた。――しかり。誰にでも得意絶頂の時期はあるというが、そうした者らも得意満面をしていた。だが、そうした者らの通例として、凋落の時がやって来る。そして、その詐欺師は、今どこにいるだろうか? その真っ赤な嘘つきは、今どこにいるだろうか? 消え失せ、死に絶えてしまった。特に私がこのことを云いたいのは、種々の不信心の体系である。百五十年もの間、あれほど喧伝された理性の力はいかに変転してきたことか! それがあるものを積み上げても、別の日になると、自らの創造物を笑いものにし、自らの城を取り壊しては、別の城を築く。そして、翌日には、第三の城を建てる。理性には一千着もの服がある。かつてそれは、鈴をつけた道化のようにヴォルテールに率いられてやって来た。その後それは、トム・ペインのような大ぼら吹きの暴れ者として登場した。それからそれは、方針を変えて、別の姿かたちをとった。そして、ついには、実に私たちが、現代の卑しく獣的な世俗主義という形でそれを有するまでになっている。それは、地上のほか何も見つめず、その鼻面を地面にだけ這わせ、獣のように現世で満足だと考えるか、現世を追求することで来世も求めている。左様、この頭の髪が一本でも灰色になる前に、世俗主義者はひとり残らず死に絶えているはずである。私たちの中の多くの人々が五十歳にもならないうちに、新たな不信心がやって来るはずである。そして私たちは、「聖徒たちなど、どこにいることになるのか?」、と云う人々に向き直ってこう云えるであろう。「あなたがたは、どこにいるのですか?」 すると、そうした人々は答えるであろう。「われわれは、自分の名を変えたのだ」。そうした人々は自分たちの名を変え、目新しい姿をとり、新たな悪のかたちを身にまとっているであろう。だが、それでも彼らの性質は同じであって、キリストに反抗し、その数々の真理を冒涜しようと努めているであろう。彼らのあらゆる宗教信条、あるいは非宗教的な信条――というのも、これも1つの信条ではあるからである――については、こう書くことができよう。「つかの間のもの:花のごとくしぼみ、流星のごとく瞬く間に過ぎ去り、蒸気のごとくはかなく、空しい」。しかし、キリストの信仰については、こう云ってよい。「彼の名はとこしえに続く」、と。さて私に、いくつかのことを云わせてほしい。――このことを証明するためにではない。私はそうしたいとは思っていない。――むしろ、いつの日か私がこのことを他の人々に証明できる手がかりになるかもしれない、いくつかの心得を、あなたに示したいと思う。イエス・キリストの信仰は、必然的に、とこしえに続かざるをえないのだ、と。

 まず最初に、キリスト教信仰が消え去るだろうと考えている人々に私たちは問いたい。この信仰が存在していなかった時があるだろうか? 私たちは問いたい。果たしてあなたは、イエスの信仰が聞かれてもいなかった時期を指摘できるだろうか、と。「できるとも」、と彼らは云うであろう。「キリストとその使徒たち以前の時代だ」。しかし私たちは答える。「いや、ベツレヘムは福音の誕生地ではなかった。イエスはそこで生まれたが、イエスが誕生するはるか前から1つの福音があって、宣べ伝えられていたのだ。確かに私たちがいま聞いているほどの単純さ、平易さで宣べ伝えられてはいなかったにしてもだ。シナイの荒野には1つの福音があったのだ。それは確かに、香の煙と入り混じり、屠殺されたいけにえを通してしか見ることはできなかったが、それでも、そこには福音があったのだ」。しかり。さらに私たちは、彼らをエデンの美しい木々のもとに連れて行く。それは果実が絶えず実っている、常夏の園である。そうした木立の間で私たちは彼らに、そこには福音があったのだと告げるものである。違背した人間に向かって語りかける神の御声を聞かせるものである。「女の子孫は、蛇の頭を踏み砕く」*[創3:15]。そして、彼らをこれほどはるか昔に連れてきた後で私たちは問う。「にせ宗教はどこで生まれたのか? それらの揺りかごはどこにあったのか?」 彼らはメッカを指摘するか、ローマを指さすか、孔子について語るか、仏陀の教義について語る。しかし私たちは云う。あなたが立ち戻っているのは、茫漠たる遠い時代でしかない。私たちがあなたを連れて行くのは、原始の時代である。私たちがあなたに指し示しているのは、清浄の時代である。私たちがあなたを連れ戻っているのは、アダムが最初に地を踏みしめたそのときである。その上で私たちはあなたに問いたい。最初に生まれたものとして、これが最後まで死なないということも、考えられはしないだろうか、と。また、それが、これほど太古に生まれて、今なお存在しており、その一方で、一千もの蜻蛉がとうに絶滅し果てている以上、他のすべてが波間に浮かぶあぶくのように滅びてしまったときも、これだけは、大洋の上の堅固な船のように浮かんでいるということ、また、その無数の乗員を、影の国へではなく、死の川を越えた天国の沃野へと運びつつあるということは、この上もなくありそうなことではないだろうか、と。

 次に私たちは問いたい。かりにキリストの福音が消滅することになるとしたら、いかなる宗教がその後釜におさまるだろうか? キリスト教などすぐになくなるさ、と云う賢人に、私たちは尋ねてみよう。「ぜひ教えてくれないか。その代わりに私たちは、いかなる宗教をいだくべきだろうか? 私たちは異教徒たちの迷妄をいだくべきだろうか? 彼らの神々の前に拝跪し、木石の像を礼拝するべきだろうか? あなたは、バッカス神の乱痴気騒ぎを行なうのだろうか? ウェヌス神の卑猥な祭を行なうのだろうか? 自分の娘たちが、再びタンムズ神の前に額づいたり、古代の猥褻な儀式を行なうことを望むのだろうか?」 否。あなたがたはそうした事がらに耐えられないであろう。あなたがたは、「そんなことは、文明人にはがまんできない」、と云うであろう。「では、あなたがたは何を持ちたいのか? あなたがたは、ローマカトリック教とその迷信を信じたいのか?」 あなたがたは、「否。断じて否」、と云うであろう。彼らは英国に対して好き勝手なことを行なうであろう。だが、ローマ教会は奸智に長けているので、スミスフィールドが残っている限りは、また、1つでもそこに殉教者たちのしるしがある限りは、かつての教皇制のような姿をとりはすまい。左様、そこに自らを自由人と任ずる者、古の英国法にかけて誓う者が息をしている限りは、英国人がローマカトリック教を再び信奉し直すようなことはありえない。ローマ教会には幾多の迷信がはびこり、聖職者の手練手管が横行しているであろう。だが、私の聴衆は異口同音に答えるであろう。「私たちは、ローマカトリック教など信じません」、と。では、あなたは何を選ぶのだろうか? イスラム教だろうか? あなたは、あのような与太話と、邪悪さと、好色さにまみれたものを選ぶのだろうか? 私はそれについてはあなたに話すまい。また、最近西洋に起こった呪わしいペテンについても言及すまい。私たちは一夫多妻制を許しはしない。社会の輪を愛し、それが侵されるのを黙って見ていられない人々がいる限り、許しはすまい。神が人にひとりの妻をお与えになった以上、人が、そのひとりの妻に二十人もの仲間を引き込んでほしいとは思わない。私たちは、モルモン教の方がましだとも思えない。今後もそうは思わないだろうし、思うようなことがあってはならない。ならば、私たちはキリスト教の代わりに何を信じればよいだろうか? 「何も信じないことだ!」、とあなたは叫ぶ。方々。あなたはそうしたいというのだろうか? では、それが何をもたらすだろうか? どのような結果が生ずるだろうか? そうした不信心者の多くが何を鼓舞するだろうか? 共産主義的見解や、現在確立されているあらゆる社会秩序を崩壊させることである。あなたは、わが国にも、フランスにあったような恐怖時代が来ることを願っているのだろうか? あなたは、社会全体が粉砕され、人々が洋上の怪物氷山のように漂い、互いに激突し合ったあげくに完全に破滅していくのを見たいというのだろうか? 願わくは神が、私たちを不信心から救ってくださるように! ならば、あなたは何を信ずればよいのだろうか? キリスト教信仰とくらべものになるようなものは何1つない。もし私たちが地球上をもれなく踏破し、英国から日本まで探し回ったとしても、これほど神にとって正しく、人にとって安全な宗教は全く見つからないであろう。

 私たちは今一度、敵に問いたい。かりに私たちの愛する信仰よりも好ましい宗教が何か見つかったとして、いかなる方法で、あなたは私たちの信仰を砕こうというのだろうか? いかにしてあなたはイエスの信仰をお払い箱にしようというのだろうか? また、いかにしてその御名を消し去ろうというのだろうか? 方々。確かにあなたがたは決して古のごとき迫害を行なおうとは考えないであろう。あなたがたは、もう一度、イエスの御名を焼き尽くすために、火刑柱や火の効き目を試してみようというのだろうか? あなたは、拷問台や親指締めを試そうというのだろうか? 試してみるがいい。方々。それでもあなたがたがキリスト教を消し去ることはないであろう。あらゆる殉教者は、自分の指をその血に浸しては、死につつも、その誉れを天に書きつけるであろう。そして、天に立ち上るその炎そのものが、目もあやにイエスの御名を空に描き出すであろう。迫害はすでに試されたのである。アルプスに目を向けるがいい。ピエモンテの峡谷に語らせてみるがいい。スイスに証言させてみるがいい。フランスに、そのサンバルテルミの大虐殺について語らせてみるがいい。英国に、そのあらゆる虐殺のことを語らせてみるがいい。それでもキリスト教信仰を踏み砕くことはできなかったというのに、今のあなたがたにそのようなことができると期待できるだろうか? あなたがたにそれができるだろうか? 否。一千もの人々、それで足りなければ一万もの人々が、明日にでも喜んで火刑柱へと行進していくはずである。また、そうした人々が焼かれているとき、もしあなたがたがその人々の心を取り出せたとしたら、その1つ1つにイエスの御名が彫り刻まれているのを見てとるであろう。「彼の名はとこしえに続く」。というのも、いかにしてあなたは、その御名に対する私たちの愛を滅ぼせるだろうか? 「あゝ! だが」、とあなたがたは云う。「われわれは、それよりも物柔らかな手段を試すであろう」。よろしい。何をしようというのか。あなたがたは、よりすぐれた宗教を発明しようというのだろうか? やってみるがいい。粉骨砕身するがいい。私たちはまだ、あなたがたにそのような発見ができたと信ずるには至っていない。ならば何か? あなたがたは、だれかを鼓舞して、私たちを惑わさせ、脇道にそらさせようというのだろうか? やってみるがいい。というのも、選民を惑わすことは不可能だからである。あなたは大群衆を欺くことはできる。だが神の選民が道をそらされることはない。彼らは私たちを試みてきた。彼らは私たちにローマカトリック教を与えたではないだろうか? 私たちにピュージー主義を襲いかからせたではないだろうか? 八方手を尽くしては、私たちをアルミニウス主義で誘惑してはいないだろうか? では、それがために私たちは神の真理を放棄するだろうか? 否。私たちは、これを私たちの標語としており、それを守るであろう。「聖書、聖書の全体、他の何物でもない聖書」。これこそ、今なおプロテスタント教徒の信仰である。そして、クリュソストモスの口を動かしたのと同じ真理、アウグスティヌスの心を魅了した古の教理、アタナシオスが宣言した古の信仰、カルヴァンが説教した古き良き教理こそ、今の私たちの福音であり、神の御助けにより、私たちが死ぬまで守り抜くであろう福音である。それをあなたがたは、いかにして消そうというのか? たといそうしたいと願ったとしても、どこでそのための手段を見つけられるだろうか? それはあなたの力にはない。あはは! あはは! あはは! 私たちはあなたをあざけろう。

 しかし、それでもあなたは、それを消したいというだろうか? そう試したいというだろうか? また、その目的を達成できると期待するだろうか? しかり。それは可能であろう。もしあなたに、太陽を消滅させることができたならば。自分の涙の雫で月を消せたならば。自分が飲み干して海を干上がらせることができたならば。そのときには、キリスト教信仰を消し去ることもできるであろう。だのにあなたがたは、今に見ていろ、と云うのである。

 そして次に、私はあなたに問いたい。かりにあなたがそうしたとして、そのとき世界には何が起こるだろうか? あゝ! もし今晩の私に雄弁さがあれば、ことによるとそれをあなたに告げられるかもしれない。ロバート・ホールの言葉を借りれば、私は世界をその喪主とすることができよう。その吹きすさぶ風、荒れ狂う波浪を、葬送行進の激しい悲歌とすることができよう。私は、自然界全体に衣をまとわせることができよう。――緑の衣ではなく、陰鬱な黒い衣を。私は暴風に命じて、声の限りに世界のための厳粛な哀歌を――死の金切り声を――あげさせよう。というのも、福音を失うとしたら、私たちはどうなるだろうか? はっきり云うが、私なら、「死んだ方がましだ!」、と叫ぶであろう。私は、私の主もいない現世にいることなど望まないであろう。そして、もし福音が真実でないとしたら、たといこの瞬間に消滅させられても、神をほめたたえるであろう。というのも私は、もしあなたがたがイエス・キリストの御名を滅ぼせたとしたら、生きていることなどどうでもよくなるだろうからである。しかし、それは、ひとりの人が惨めになるだけのことではない。私と同じように語れる何万人も何万人もの人々がいるからである。さらに、もしあなたがたがキリスト教を消し去れたとしたら、文明には何が起こるだろうか? 永続する平和の希望はどうなるだろうか? 政府はどこにあるだろうか? 各地の日曜学校はどこにあるだろうか? あなたがたの種々の協会は、みなどこにあるだろうか? 人間の状態を改善し、そのふるまいを改良し、その人格を陶冶しているすべてのものはどこにあるだろうか? どこに? 木霊に答えさせるがいい。「どこに?」、と。それらは消え去ってしまい、その切れ端すら残るまい。そして、おゝ、人よ。あなたの天国の希望はどこにあるだろうか? また、永遠の知識はどこにあるだろうか? 死の川を越えた助けはどこにあるだろうか? 天国はどこにあるだろうか? また、永遠の至福はどこにあるだろうか? すべては、主の御名がとこしえに続かない限り消え去ってしまう。しかし、私たちは確信し、知っており、確言し、宣言し、信じており、これからも信ずるであろう。「彼の名はとこしえに続く」、と。――左様、とこしえに! それを止めたい者は止めてみるがいい。

 これが私の第一の点である。第二の点については、もう少し息づかいを弱めて語らざるをえない。とはいえ私は、このからだの外と同じくらい熱いものを内側でも感じており、あたう限りの力をもって語れるようにと神に願うものである。

 II. しかし、第二に、主の信仰と同じように、主の御名の誉れもまた、とこしえに残ることになる。ヴォルテールは、自分が生きている時代をキリスト教の薄明の時代だと云った。彼の意図したところは偽りだったが、その言葉は真実であった。彼は、実際にキリスト教の薄明の時代に生きていた。だが、それは、早朝の薄明であった。――彼が意図したような、夜の薄明ではなかった。というのも、太陽の光が、その最も真実な栄光において私たちの上に射し込むときに朝はやって来るからである。あざける者らは、こう云い云いしていた。われわれはすぐにキリストを尊ぶことなど忘れ果てるだろうし、いつの日か、だれひとりキリストのことなど認めなくなるであろう、と。さて、私たちはもう一度、本日の聖句の言葉で主張したい。「彼の名は」、その誉れということにおいても、「とこしえに続く」、と。しかり。私はあなたに、それがどのくらい長く続くか告げよう。この地上に、《全能の》恵みによって改心させられた罪人がいる限り、キリストの御名は続くであろう。主の御足を涙で洗い、自分の髪の毛でぬぐおうとする、一個のマリヤ[ルカ7:38]がいる限り、また、罪と汚れをきよめるために開かれた泉[ゼカ13:1]で身を洗った罪人のかしらが息づいている限り、また、自分の信仰をイエスに置き、彼を自分の楽しみ、自分の隠れ場、自分の支え、自分の盾、自分の歌、自分の喜びとしているキリスト者がひとりでも存在している限り、イエスの御名が聞かれなくなる恐れは全くない。私たちは、決してこの御名を捨てることができない。ユニテリアン派は、何の《神格》も含まない、自分好みの福音を取り上げるがいい。イエス・キリストを否定するがいい。だがキリスト者――真のキリスト者――が生きている限り、また、主がいつくしみ深い方であることを私たちが味わっており[Iペテ2:3]、その愛の現われと、その御顔の眺めと、そのあわれみの囁きと、その情愛の確信と、その恵みの約束と、その祝福の希望とを有している限り、私たちが主の御名を尊ぶのをやめることはできない。しかし、たといこうしたすべてが消え去り、――たとい私たちが主への賛美を歌うのをやめるようなことがあるとしても、そのときイエス・キリストの御名は忘れられるだろうか? 否。石という石が歌うであろう[ルカ19:40]。丘々が楽団となるであろう。山々は雄羊のように、丘は子羊のように、はねるであろう[詩114:4]。というのも、主はそれらの創造者ではないだろうか? そして、たといこれらの口、あらゆる定命の者らの口が一斉につぐまれたとしたも、それ以外にもこの広大な世界には十分に被造物たちがいる。左様。太陽がその合唱を指揮するであろう。月はその銀の立琴を弾き、甘やかにその音楽を奏でるであろう。星々は、その正確な針路の上で踊り、天界の無辺の深みは、幾多の歌の家となるであろう。また広漠たる虚空は、1つの大音声を一斉にあげるであろう。「あなたは栄光輝く神の御子です。あなたの威光は力強く、その力は測りがたい」。キリストの御名が忘れられることなどありえようか? 否。それは空に描かれている。大水の上に書かれている。風が囁いている。大嵐が吠えている。波という波が繰り返し唱えている。星々が輝かせている。獣たちが唸っている。雷鳴が宣告している。地が叫んでいる。天がこだまさせている。しかし、たといそれが消え去ったとしても、――たといこの大宇宙がことごとく、つかの間の泡ぶくが自らを生んだ波の中に呑み込まれて永遠に失われるのと同じように、神のうちに呑み込まれるとしても、――主の御名はそのとき忘れ去られるだろうか? 否。あなたの目をはるか上方へと向けて、天の terra firma[堅い大地]を見るがいい。「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか?」 「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです」[黙7:13-15]。そして、たといこの人々が消え失せても、たとい栄化された人々の最後の立琴が最後の指によって触れられても、たとい聖徒たちの最後の賛美がやんでも、たとい最後のハレルヤが、そのときには、さびれ果てた天の部屋――というのも、そうなれば、それらは陰鬱だろうからである――に響きわたっても、たとい最後の不死の者がその墓に葬られても――不死の者たちにも墓があるとすればだが――、そのとき主への賛美はやむだろうか? 否。天にかけて否。というのも、その彼方には御使いたちが立っているからである。彼らも主の栄光を歌うのである。主に向かって、智天使らや熾天使らは、絶え間なく叫んでおり、彼らは、かの三重の聖なる合唱において主の御名を唱えているのである。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」[イザ6:3]。――しかし、たといこうした者らが滅び失せたとしても、――たとい御使いたちが一掃されたとしても、たとい熾天使の翼が二度と天界に羽ばたくことがないとしても、たとい智天使の声が二度とその燃えるような短詩を歌うことがないとしても、たとい生ける被造物たちがその永遠の合唱をやめたとしたも、たとい一拍の狂いもない栄光の交響曲が沈黙のうちに終息したとしても、そのとき主の御名は失われるだろうか? あゝ! 否。というのも、御座の上におられる神として主は、永遠の《唯一者》、父、御子、聖霊として着座しておられるからである。そして、たとい宇宙がすべて消滅したとしても、それでも主の御名は聞こえるであろう。というのも、御父がそれをお聞きになり、御霊がそれをお聞きになり、千歳の岩の中にある、不滅の大理石の上に、それは深々と刻まれてあるからである。――神の御子イエス、御父と等しくあられるお方、と。「彼の名はとこしえに続く」。

 III. そして、それと同じことが、主の御名の力についても云える。あなたは、これがいかほどのものか尋ねたことがあるだろうか? 私に告げさせてほしい。あなたは、彼方の十字架の上にかけられている盗人が見えるだろうか? その根元にいる悪鬼どもを見るがいい。口を半開きにして、魂がまた1つ、地獄での食物として自分たちに与えられるのだと考えて舌なめずりしているその姿を。見るがいい。この惨めであわれな男の頭上で、翼はためかせている死の鳥を。復讐はその人のわきを通り過ぎ、彼に自分のものたる印を押す。彼の胸には深々と「罪に定められた罪人」と記され、彼の額には苦悶と死によってしぼり出された汗がべっとりと浮かんでいる。彼の心の中を見るがいい。それは罪の歳月による垢で汚れている。情欲の煙が、闇の黒い花綱となって内側にたちこめている。彼の全心は濃縮された地獄である。さて、この男を見るがいい。彼は死にかけている。地獄に片足を突っ込んでいるように思える。もう片足は、今にも倒れそうに生のうちをよろめいている。――爪一枚で支えられているだけでしかない。だがイエスの御目には力がある。この盗人はまざまざと見つめる。彼は囁く。「イエスさま。私を思い出してください」*[ルカ23:42]。もう一度そこに目を向けてみるがいい。あの盗人が見えるだろうか? あのべっとりとした汗はどこにあるだろうか? そこにある。あのぞっとするような苦悶はどこにあるだろうか? そこにはない。むしろはっきりと、彼の口元には微笑みが浮かんでいる。地獄の悪鬼どもはどこにいるだろうか? 一匹もいない。むしろ輝かしい熾天使がひとりいて、その翼を大きく張り伸ばし、両手を差し出して、今や尊い宝石となったその魂をいつでもさっとつかみとろう、大いなる《王》の宮殿へと高く運び上げようと待っている。彼の心の内側を見るがいい。それはきよめられて白くなっている。彼の胸を見るがいい。そこには「罪に定められた」ではなく、「義と認められた」と書かれている。いのちの書の中をのぞき込んでみるがいい。彼の名前がそこに刻まれている。イエスの胸を見るがいい。その胸当てにつけられた宝玉の1つには、このあわれな盗人の名が記されている。しかり。もう一度云う。見るがいい! あなたに見えるだろうか? 月よりも美しく、太陽よりも明るく栄化された者たちの中で輝いている、あの者が。それが、かの盗人である! それがイエスの御力である。そして、この力はとこしえに続くのである。この盗人をお救いになったお方は、今後いのちを受ける最後の人も救うことがおできになる。というのも、このことは今も変わらないからである。

   「ひとつの泉 そこにあり
    インマヌエルの 血に満てり。
    あまたの罪人 飛び込みて
    咎よりことごと 放たれん。

    死に行く盗人 喜びぬ
    かの泉をば その時代(おり)に。
    我れも同じく 汚れども、
    わが罪そこで 洗い得ん。

    死にし小羊! その御血
    たえて力を 失わじ。
    神あがないし その教会(たみ)の
    すべて罪をば 捨つるまで」。

主の力強い御名は、とこしえに続くのである。

 また、それだけが主の御名の力のすべてではない。あなたを別の場面に連れて行かせてほしい。そこであなたがたは、さらに別のことを目にするであろう。そこでは、ひとりの聖徒が死の床についている。その額に陰鬱なものは何もなく、その顔に恐怖は何もなく、弱々しく、だが穏やかにその人は微笑んでいる。ことによると、その人は呻くかもしれない。だがそれでも歌っている。時おり吐息をもらすが、高らかに声を上げる方が多い。その人のそばに立つがいい。「兄弟よ。なぜあなたは、死の顔をのぞき込んでいながら、それほどの喜びがあるのですか?」 「イエス様です」、とその人は囁く。何があなたをそれほど穏やかにし、それほど落ちつかせているのですか? 「イエス様の名です」。その人が何もかも忘れ果てているのを見るがいい。その人に質問してみるがいい。その人に答えることはできない。――あなたの云うことがわからない。それでも、その人は微笑んでいる。その人の夫人がやって来て、こう尋ねる。「あなた、私の名前がわかる?」 その人は、「いいや」、と答える。その人の一番の友人たちが、かつての親密さを思い出してくれるように頼む。「あんたたちがだれか、わからない」、とその人は云う。だが、その人の耳にこう囁いてみるがいい。「あなたは、イエスという名を知っていますか?」 すると、その人の目は栄光に輝き、その人の顔は天国の光を放ち、その人の口は短詩を語り、その人の心は永遠ではちきれそうになる。というのも、その人はイエスの御名を耳にしており、その御名はとこしえに続くからである。ある人を天国に至らせてくださったお方は、私をもそこに至らせてくださるであろう。死よ、来るがいい! 私はそこでキリストの御名を口にしよう。おゝ、墓よ! イエスの御名、これこそ私の栄光となる! 地獄の犬よ! これこそお前の死となる。――死のとげは引き抜かれるからである。――私たちの主キリスト、「彼の名はとこしえに続く」。

 私は、あと百でも詳しく語れることがあるが、これ以上は声が続かない。ここで切り上げねばならない。あなたも今晩は、これ以上語るように私に求めはしないであろう。聞いての通り、私は一言云うたびに困難を感じている。願わくは神が、その一言一言をあなたの魂に深く沈潜させてくださるように! 私は、自分の名のことなど別に気にしてはいない。それがとこしえに続こうと続くまいと、私の《主人》の書にそれが記されている限りは、どうでもよい。ジョージ・ホイットフィールドは、自分の教派を創設するかどうか尋ねられたとき、こう云ったという。「否。ジョン・ウェスレー兄弟は自分の好きなようにすればよい。しかし、わが名は滅び失せよ。キリストの御名を永遠に残らしめよ」。まさにアーメンである! 私の名は滅び失せるがいい。私は、あなたが外に出て行ってから私のことを忘れてしまっても何の不満もない。あえて云えば、私は、あなたがたの中の半数の人々の顔を二度と見ることがないであろう。あなたは、もう二度と非国教徒の集会になど足を踏み入れる気にならないかもしれない。ことによると、バプテスト派の集会に来るのは、あまり上品なことではないと考えているかもしれない。よろしい。私も、私たちがさほど上品な者たちであるとは云わないし、そうした者であると公言しもしない。だが、この1つのことだけははっきり云いたい。私たちは、私たちの聖書を愛している。そして、もしそれが上品なことでないとしたら、人々から尊重されたいなどとは毛ほども思わない。しかし、結局のところ、私たちがそれほどいかがわしい人種かどうかはわからないと思う。というのも、個人的な意見を言明してよければ、私の信ずるところ、もしもその扉の外のプロテスタントのキリスト教界を数え上げるとしたら――単に真のキリスト者ひとりひとりのみならず、信仰を告白するあらゆる人が数えられるとしたら――、幼児洗礼論者は、自慢できるほど圧倒的な多数にはならないと思うからである。結局私たちは、さほど少数の、いかがわしい教派というわけではないのである。英国で考えられれば、そうかもしれない。だが、米国や、ジャマイカや、西インド諸島を取り上げ、公然とバプテスト派であるとは云ってはいなくとも、原則としてバプテスト派である人々を含めてみれば、私たちは人数の上ではだれにも負けない。この国の国立教会にさえ負けない。しかしながら、そうしたことは私たちにとって、全くどうでもよいことである。というのも、私はバプテスト派という名前についてこう云いたいからである。そのようなものは滅び失せよ。むしろ、キリストの御名を永遠に残らしめよ、と。私は、バプテスト派がひとり残らず絶滅する日のことを喜びをもって待ち望んでいる。私は、バプテスト派の信者がすぐにもいなくなればいいと希望する。あなたは、「なぜ?」、と云うであろう。なぜなら、他のあらゆる人々が浸礼によるバプテスマの正しさを見てとるとき、私たちはあらゆる教派の中に浸透し、私たちの教派はなくなるだろうからである。ひとたび私たちが支配的な地位を占めるならば、私たちはもはや教派ではなくなる。人は、国教徒か、ウェスレー派か、独立派でありながら、バプテスト派でもありえるであろう。それで私は、バプテスト派の名がすぐに滅び失せることを希望するのである。だが、キリストの御名は永遠に残らせるがいい。しかり。また、やはり私は、古き英国をこよなく愛している。英国が滅び失せることがあるなどと信じてはいない。否、英国よ! お前は決して滅び失せないであろう! というのも、古き英国の旗は、キリスト者たちの祈りにより、諸処の日曜学校の努力により、また国内の敬虔な人々により、帆柱に釘づけられているからである。しかし、私は云う。その英国の名前すら滅び失せよ、と。英国を1つの大いなる兄弟団の中に合流させよ。私たちは、何の英国も、何のフランスも、何のロシアも、何のトルコも持たないようにし、キリスト教国を持つようにしよう。そして私は心から、魂の底から云いたい。国々も、国民間の区別も滅び失せよ。だがキリストの御名は永遠に残らしめよ、と。ことによると、この地上には、私が先に言及したものよりもいやまさって愛しているものが1つあるかもしれない。それは、混ぜものをされていないカルヴァン主義の純粋な教理である。しかし、もしそれが間違っているとしたら、もしそこに偽りであるものが何かあるとしたら、――私個人としては、それも滅び失せよと云うものである。そして、キリストの名を永遠に残らしめよ。イエス! イエス! イエス。「御座にむかえよ、万物(すべて)の主(あるじ)と!」 あなたは、それ以外に何も私から聞くことがないであろう。これが、エクセター公会堂における私の、とりあえずは最後の言葉である。イエス! イエス! イエス! 「御座にむかえよ、万物の主と」。

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永遠の名[了]

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