栄光に富む福音
NO. 184
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---- 1858年3月21日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」。――Iテモ1:15
私が思うに、神のしもべたちによって人々に伝えられた使信は常に、「主の重荷」[エレ23:36 <英欽定訳>]と呼ばれなくてはならない。古の預言者たちがその《主人》のもとからやって来たとき、彼らは途方もない凶報と、脅かしと、悲嘆を携えていたため、彼らの顔つきは悲しみで青ざめ、彼らの心は彼らの内で重く沈んでいた。彼らは通常その講話を、「主の重荷。主の重荷」、と宣言することによって始めた[イザ19:1; ゼカ9:1; 12:1; マラ1:1 <英欽定訳>]。しかし、ここで、本日の使信は決して重苦しいものではない。いかなる脅かしも、いかなる雷鳴も、福音に仕える者の主題をなしてはいない。すべてがあわれみであり、愛こそ私たちの福音の要諦である。――受けるに値しない愛、罪人のかしらその人に対する愛である。しかし、それは、私たちにとってはなおも重荷である。私たちの宣教の内容に関する限り、それを宣べ伝えるのは私たちの喜びであり、私たちの楽しみである。だが、私がいま感じているように他の人々も感じているとしたら、彼らはみな、福音を宣べ伝えるのは辛いことだと認めるであろう。というのも、今の私は恐れおののき、心騒いでいるからである。それは、何を説教するかということについてではなく、いかに説教するかということについてである。これほどすぐれた使信が、これほど粗末な使節のために功を奏さなかったとしたらどうなるだろうか? 私の話を聞いている人々が、そのまま受け入れるに値するこの言葉を、宣告する私に熱意が欠けていたために拒絶することになるとしたらどうなるだろうか? 確かに――確かに、このように思いみなせば、いかなる人も、目に涙を誘われるであろう! しかし、願わくは神が、そのあわれみにより、そのようにひどく恐ろしい結末を防いでくださるように。そして、私が今いかに説教しようと、願わくはこの神のことばが、あらゆる人の良心を引きつけるように。さらに願わくは、今ここに集っているあなたがたの中の多くの人々、まだ一度も隠れ家としてのイエスを見いだしたことのない人々が、みことばの単純な説教によって、いま心に確信を受けてそこに入り、主の素晴らしさを味わい、これを見つめるようになるように。
本日の聖句は、人の高慢からすれば決して選ばれないような聖句である。この聖句について華麗な言葉を用いることはできない。それほど単純なのである。人間性は、こう叫びがちである。「よろしい。私はこの聖句について説教することはできない。――これは、平易にすぎる。そこには何の奥義もない。私の学識を示すことができない。これは、全く平易で、常識的な宣言である。――私はこれを取り上げたいとはほとんど思わない。というのも、これがいかに《主人》を高めようとも、人を低めてしまうからだ」。それで、今朝は、この聖句と、その可能な限り最も単純な説明のほか何も私から期待してはならない。
私たちは2つの項目を立てたいと思う。まず、そこには、この聖句がある。それから、その聖句に書き添えられた二重の推めの言葉がある。――「このことばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」*。
I. 第一に、ここには《この聖句の宣言》がある。――「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」。そこには、非常に顕著な3つの事がらがある。そこには、《救い主》がおり、罪人がおり、救いがある。
1. まず最初に、そこには《救い主》がおられる。そして、キリスト教信仰を説明する際には、それこそ私たちが始めなくてはならないことである。この《救い主》なるお方こそ、私たちの希望の土台石である。このお方に、私たちの福音が役に立つかどうかはかかっている。もし誰かが立ち上がって、人間であった《救い主》を宣べ伝えるとしたら、そのような者に私たちが希望をかける価値はなく、宣べ伝えられた救いは私たちの必要にとってふさわしくないものであったであろう。たとい別の人が、ある御使いによる救いを宣べ伝えるとしても、私たちのもろもろの罪は重すぎて、御使いによる贖罪でも十分ではなかったであろう。それゆえ、その人の福音はあらゆる点においてぐらついたものである。もう一度云うが、この《救い主》なるお方に、救いのすべてがかかっているのである。もし彼が力不足であったとしたら、また、もし彼がその働きを果たすよう任命されていなかったとしたら、実際、この働きそのものが私たちにとって無価値であり、その目当てを果たせないことになる。しかし、兄弟たち。私たちが福音を宣べ伝えるとき、私たちは決して言葉に詰まったり、口ごもったりする必要はない。私たちがこの日あなたに示さなくてはならない《救い主》は、地にも天にも並ぶものなきお方である。この方は、この上もなく愛に満ち、この上もなく偉大で、この上もなく力強く、この上もなく私たちのあらゆる必要に適しておられるため、遠い昔から私たちの深甚な欲求をかなえるために備えられていたお方であることは全く明らかなのである。私たちの知る通り、罪人を救うためにこの世に来られたイエス・キリストは神であられた。また、この下界に降られるはるか以前に、主は《いと高き方》の御子として御使いたちから崇拝されていた。この《救い主》をあなたに宣べ伝える際に、私たちは、あなたにこう告げているのである。すなわち、確かにイエス・キリストは《人の子》であり、私たちの骨の骨、私たちの肉の肉であったが、それでもキリストは永遠に《神の子》であられた。また、完璧な《神性》をなしているあらゆる属性をご自分のうちに有しておられるのだ、と。人が望みうる《救い主》として、神以上のお方があるだろうか? 諸天を造られたお方は、魂を清めることがおできになるではないだろうか? もしこの方が太古に天空の帷を張り巡らし、人の住むべき大地をお造りになったのだとしたら、罪人を来たるべき滅びから救出することもできるではないだろうか? この方が神であるとあなたに告げるとき、私たちは、それと同時に、この方の全能性と無限性をあなたに宣言しているのである。そして、この2つが相働くとき、何か不可能なことがありえるだろうか? 神がある働きに着手されるとしたら、それが失敗することはありえない。神がある事業を開始されたら、それが達成されることは確実である。ならば、人なるキリスト・イエスが神なるキリスト・イエスであられた以上、この《救い主》を宣言する際に、私たちは満腔の確信をもって、あなたがそのまま受け入れるに値するものを差し出しているのである。
キリストに与えられた名前は、そのご人格について示唆を与えている。主は本日の聖句で、「キリスト・イエス」と呼ばれている。この2つの言葉は、「油注がれた《救い主》」を意味する。――《油注がれた救い主》が、「罪人を救うためにこの世に来られた」のである。
ここで立ち止まるがいい。わが魂よ。そして、これをもう一度読むがいい。――主は油注がれた《救い主》である。父なる神は、すべての世に先立ってキリストを人々の《救い主》という職務に油注がれた。それゆえ私は、私の《贖い主》が天からやって来て人を罪から贖おうとするのを見るとき、この方が遣わされずやって来たのでも、任命されずにやって来たのでもないことに注目するのである。この方は、そのみわざにおいてご自分の御父の権威を後ろ盾にしておられる。こういうわけで、変えることのできない2つの事がらが私たちの魂の拠り所なのである。――まず、キリストというお方そのものが神聖である。さらに、高き所からの油注ぎが、その御父なるエホバから受けた任命の証印をキリストに押しているのである。おゝ、罪人よ。神が油を注がれたお方よりも大いなる、いかなる《救い主》をあなたは望むのだろうか? 永遠の《神の御子》があなたの贖いの代価となり、御父の油注ぎがその約定を批准しているのである。それ以上の何をあなたは求められようか?
だが、この《贖い主》のご人格を完全に描き出したければ、このお方が人であられたことに注意しなくてはならない。ここでは、この方がこの世に来られたと記されている。この場合の、この世に来られたしかたは、この方が通常この世に来られたしかたとは違うものと私たちは理解している。というのも、この方は、それ以前にもしばしば世に来ておられたからである。聖書にはこう書かれている。「わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ」[創18:21]。事実、この方は常にこの世におられる。神の行き来は聖所で見ることができる[詩68:24]。摂理においても、自然界においても、神の行き来はこの上もなくありありと見られる。神は、嵐をご自分の車とし、風の翼に乗って駆け抜けるとき[詩104:3]、地を訪れてはいないだろうか? しかし、この訪れは、こうしたすべてとは異なっている。キリストがこの世に来られたというのは、人間性と最も徹底して、また、最も完全に結び合わされたという意味でそうなのである。おゝ、罪人よ。私たちが《天来の救い主》について宣べ伝えるとき、ことによると、神の御名はあなたにとって恐ろしすぎて、その《救い主》があなたにふさわしいとはほとんど思えないかもしれない。だがキリストは、確かに神の御子ではあったが、その栄光のうちにあるいと高き御座を離れて、飼い葉桶へと身を低められたのである。そこにこの方がおられる。一手幅ほどの幼子である。見るがいい。この方は男児から成年へと育ち、世に出て来られては説教し、苦しみを受けられた! 弾圧のくびきのもとで呻いておられるこの方を見るがいい。この方は嘲られ、蔑まれた。その顔だちは、そこなわれて他の人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた![イザ52:14] あの園の中にいて、血の雫を汗しておられるこの方を見るがいい! ピラトの謁見の間にいるこの方を見るがいい。そこで主は鞭打たれ、両肩が血みどろになった! あの血染めの木の上にこの方を眺めるがいい! この方が、言語を絶するどころか想像すら越えた激越な苦悶によって死につつあるのを見るがいい! あの静まり返った墓の中のこの方を眺めるがいい! この方がとうとう死の縄目をはじき飛ばして、三日目によみがえり、その後、「多くの捕虜を引き連れ」[エペ4:8]て、高き所に上って行かれるのを眺めるがいい! 罪人よ。あなたには今、はっきりと現わされた《救い主》がおられる。ナザレのイエスと呼ばれたこのお方、木の上で死に、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」[ヨハ19:19]という罪状書きをつけられたお方、この人は神の子であった。御父の栄光の輝き、また、御父の本質の完全な現われ[ヘブ1:3]であった。「すべての世に先立って、御父より生まれ、造られずに生まれ、御父と同質で」あられた[ニカイア信条]。主は、「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ……人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」[ピリ2:6-8]。おゝ、もし私が主をあなたの前にお連れすることができたとしたら、もし私がいま主をこの場にお連れして、その御手と御脇をあなたに示すことができたとしたら、もし私が今トマスのようにあなたの指をその釘跡の穴に差し込ませ、あなたの手を主の御脇腹に差し入れさせることができたとしたら、あなたも信じない者にならないで、信じる者になると思う[ヨハ20:27]。だが私には、これだけは分かる。神の最も聖なる御霊の御手の下にあって、人々を信じさせることができるものが何か1つあるとしたら、それはキリストというお方の真の姿である。主の場合は、百聞は一見に如かずである。キリストの真の姿をわきまえ、正しくキリストを見てとるならば、確実きわまりなく魂の内には信仰が生まれるであろう。おゝ、疑いもなく、あなたがたが私の《主人》を知ったとしたら、あなたがたの中のある人々は、今は疑い、恐れ、おののいているとしても、こう云うであろう。「おゝ、私は、この方なら信頼できます。誰にもまして神聖で、誰にもまして人間的で、神によって任命され、油注がれたこのお方なら、私が信ずるに値するお方です。私はこの方を信頼できます。それどころか、もし私が魂を百個持っていたとしても、そのすべてをこの方にゆだねることができたでしょう。あるいは、たとい私が全人類のあらゆる罪について責任を負う者として立っており、私がこの世界の醜行の貯蔵所であり、掃き溜めであったとしても、そのときでさえ、私は主を信頼できたでしょう。――というのも、このような《救い主》であれば、『ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできに』[ヘブ7:25]なるからです」、と。さて、これがこの《救い主》なるお方である。
2. さて、第二の点は、罪人である。もし私たちが以前に一度もこの箇所を――あるいは、何か似たような趣旨の箇所を――聞いたことがなかったとしたら、あなたに聞こえるように、私が初めてここを読み上げ出した場合、この場所は、息づかいすら忘れたような静寂が支配していたことであろう。「次の言葉は、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。すなわち、『キリスト・イエスがこの世に来られて、救おうとされたのは――」<英欽定訳>。私には、いかにあなたが身を乗り出すか分かっている。私には分かる。いかにあなたが自分の手を耳に当てて、耳だけでなく目でも聞きたいというかのようにして、この《救い主》が誰のために死んだか知ろうとしたがるかが。あらゆる心が云うであろう。一体誰を救うためにこの世に来られたのか? そして、もし私たちがこの使信を以前に一度も聞いたことがなかったとしたら、私たちの心臓は早鐘のように動悸するであろう。もしもそこで描写される人格が、私たちに到達できないほど高潔なものであったらどうしようかと恐れて! おゝ、キリストが救うためにやって来られた人々の人格を云い表わすこの一言をもう一度聞くというのは、いかに気持ちの良いことであろう。――「主がこの世に来られて、救おうとされたのは罪人たちなのです」*。王侯よ。そこには何の分け隔てもない。君主たち。主はあなたをご自分の愛の対象として抜き出してはおられない。むしろ、乞食や貧者たちが主の恵みを味わうのである。あなたがた、学識者たち。あなたがた、イスラエルの教師たち。キリストは、特にあなたを救うために来られたと語ってはおられない。無学で文盲の百姓も、等しく主の恵みに迎え入れられる。ユダヤ人よ。あなたの誉れある一切の系図にもかかわらず、あなたは異邦人にまさって義と認められはしない。英国の人たち。あなたの文明やあなたの自由の一切にもかかわらず、キリストはあなたを救うために来られたと語ってはおられない。主は決してあなたを名指して、ご自分の愛の対象である特別な種別としてはおられない。――しかり。そしてあなたがた、良いわざを行なっている人たち。人々の間で自分を聖徒であるとみなしている人たち。主はあなたをも特別扱いしておられない。唯一の称号は、人類全体に渡るほど広大な呼び名であるが、それはこのことである。――「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」。キリストがやって来て救おうとされたのは、生まれながらの罪人であり、掛け値なしの罪人にほかならない。私がしばしば云ってきたことだが、キリストがこの世に来られて救われるのは、覚醒された罪人たちである。それは全く正しい。主はそうするために来られた。しかし、そうした罪人たちは、主が彼らを救うためにやって来られたときには、覚醒された罪人たちではなかった。――彼らは、主が彼らのもとに来られたときには、「自分の罪過と罪との中に死んでいた罪人たち」*[エペ2:1]でしかなかった。よくある考え方に従えば、私たちはこう説教すべきだという。すなわち、キリストが救おうとして死なれたのは、感覚を有する罪人のためである、と。さて、それは正しい。だが、彼らは、キリストが彼らを救おうとして死なれたときには、感覚を有する罪人ではなかった。主が彼らを、ご自分の死の効果として、感覚を有する罪人、すなわち、感じている罪人とされるのである。主が死んで救おうとされた人々は、その範囲を狭めるいかなる形容詞も伴わずに、罪人であると描写されている人たちである。罪人たち、それも、ただの罪人たちであって、彼らを同胞以上の者として分け隔てする、いかなる功績の記章や、いかなるしるしも持たない罪人たちである。罪人よ! さて、この名辞には、ありとあらゆる種類の罪人の誰かれが含まれている。ある人々には、ごく小さな罪しかないように見える。キリスト教信仰の手ほどきを受け、道徳的に教育された彼らは、罪の深みに飛び込んで行きはしない。彼らは悪徳の波打ち際を惰性で進むことで満足している。――深みに乗り出したりしない。さて、キリストはこうした人々のために死んでくださった。こうした人々の多くが主を知り、愛するように導かれてきたからである。いかなる人も、自分がそれほど大罪人ではないからといって、自分には希望が少ししかないと考えてはならない。奇妙なことに、ある人々はしばしばそのように考えてきた。「もし私が神を冒涜してきたとしたら」、とある人は云うであろう。「あるいは、不法な者であったとしたら、私はより大きな希望を持てたでしょうに。私も、自分の目にははなはだ大きな罪を犯してきたと分かっていますが、この世の目からすれば、大した過ちを犯していません。それで私は、自分などほとんど含まれていないとしか思えないのです」。おゝ、そのように云ってはならない。これは、「罪人」と云っている。もしあなたが自分をその目録中に入れることができるとしたら、それが冒頭であろうと末尾であろうと、あなたはなおも、その中にいるのである。そして、イエスがやって来て救おうとされたのが初めから罪人たちであったという真理はなおも有効であり、あなたがそうした者である以上、あなたには、自分が閉め出されていると信ずべきいかなる理由もない。また、キリストが死なれたのは、それとは反対の種類の罪人たちを救うためでもある。罪人の中には、私たちがあえて描写できないような種類の者らがいる。彼らがこっそり行なっている事がらについて語るのは、恥である。ある人々は、悪魔そのひとにさえ思いもよらなかったような悪徳を編み出してきた。ある人々は、犬畜生でさえずっと誉れある生き物となるほど獣じみたことをしてきた。私たちが耳にしたことのある、一部の人々の罪悪は、悪魔そのひとに帰されているいかなる行動よりも、ずっと極悪非道なもの、ずっと忌み嫌うべきものであった。だが、本日の聖句はそうした人々をも除外していない。私たちは、御名を汚す悪態をつかずには一言も語ることができないほど不敬な冒涜者に出会ったことはないだろうか? そうした冒涜も、最初は彼らにとって恐ろしいことだったが、今や当たり前のこととなりすぎて、祈りの前には呪いの言葉を吐き、神への賛美歌を歌うときには悪態をつくほどとなっている。それは彼らの日常茶飯事となっており、その罪深さそのものに何の衝撃も感じないほど自然なこととなっている。それほど彼らは絶え間なくそうしているのである。神の律法についていえば、彼らは単にそれを破るためだけのためにそれを知ることを喜んでいる。彼らに新しい悪徳のことを告げれば嬉しがるであろう。彼らは、佞臣らによって何か新しい犯罪が編み出されるのをこよなく愛したというあのローマ皇帝のようになってしまっている。――地獄的な罪という冥土の深淵にどっぷりつかっている人々――泥沼をついて歩く間に自分の足を汚すだけでは飽きたらず、封印された堕落の落とし戸を持ち上げては汚水溝に飛び込んできた人々――人間の不義という汚物そのものの中で反逆してきた人々である。こうした人々の多くも、《救い主》の血によって洗われ、《救い主》の愛にあずかる者となることであろう。
また、この聖句は罪人たちの年齢について分け隔てをしてはいない。この場にいるあなたがたの中の多くの人々は、もしその頭髪が自分の人格を示す色をしていたとしたら、今の色とは全く正反対になるだろうと思う。あなたは外見は白くなったが、内側は全く罪でどす黒くされている。あなたがたは罪悪に罪悪を積み重ねてきた。そして今や、もしも誰かが多年にわたる種々の堆積を掘削するとしたら、その人は、岩のようなあなたの心の深層の奥底に隠れていた、あなたの若いときのもろもろの罪という、石のようになった遺物を発見するであろう。かつてはすべてが柔らかかった所で、何もかもがひからび、こわばっている。あなたは、罪の深みに陥っている。もしあなたがいま回心させられるとしたら、それは実に驚くべき恵みということにならないだろうか? 古い樫の木を曲げてみると、おゝ、何と固いことか! これほど頑丈に硬化してしまった以上、それが曲げられるだろうか? かの《大農夫》はそれを一定の方向に向けさせることができるだろうか? これほどの古木で、しかもこれほど固い樹幹に、天国の実を結ばせるようなものを接ぎ木できるだろうか? あゝ、この方にはそれがおできになる。というのも、この聖句には何の年齢も言及されておらず、はなはだ高齢の人々の多くも、老齢に達してからイエスの愛を経験してきたからである。「ですが」、とある人は云うであろう。「私の罪には、ことさらにそれを重くするものが結びついているのです。私は光と知識に背いて罪を犯してきました。私は母の祈りを踏みにじってきました。父の涙を蔑んできました。いくら警告されてもないがしろにしてきました。病床に就いたときには神ご自身が私を叱責されました。私は何度となく決心しては、何度となく忘却してきました。私の咎についていえば、それは普通の物差しで測ることはできません。私は光に背き、良心の疼く痛みに背き、私に教訓を与えてしかるべきあらゆることに背いて罪を犯してきたからです」。よろしい。愛する方。私には、あなたがここで閉め出されているとは思われない。本日の聖句には、たった1つの区分しか有していない。――「罪人」である! ということは、本日の聖句に関する限り、そこにはいかなる制限もないのである。私はこの聖句をあるがままに扱わなくてはならない。そして、あなたに対してさえ、私はそれを制限することに同意できない。これは、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」、と云っている。これまでにも、あなたのような種類の人々は救われてきた。ならば、なぜあなたが救われてならないわけがあるだろうか? これまでにも、最悪のごろつきたち、邪悪きわまりない盗人たち、そして、最低に堕落した遊女たちが救われてきたのである。では、なぜあなたが、こうした者らのようであったとしても、救われないわけがあるだろうか? 百歳を数えた罪人たちがこれまでに救われてきた。そうした事例についてはいくつも聞かされている。ならば、なぜあなたがそうならないわけがあるだろうか? もし神の数々の事例の1つから1つの規則を一般的に推測して良ければ、さらにまた、もし私たちに神ご自身のみことばの裏づけがあるとしたら、邪悪すぎるがために、また、傲慢すぎるがために、あわれみの扉から閉め出され、それを面前で閉ざされてしまうような者がどこにいるだろうか? 否。愛する方々。この聖句は「罪人」と云っているのである。では、なぜそれが、あなたや私をその一覧の中に含めないことがあるだろうか? 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」。
しかし、先に云ったように、また、ここでもやはり繰り返さなくてはならないことだが、もし誰かがこの聖句を自分自身の場合に特別に当てはめたいと願うなら、その人はこの聖句を別のしかたで読むべきである。この場にいるあらゆる人は、キリストが自分を救うために来られたのだと推論しなくてはならない。キリストが来て救おうとされたのは罪人たちであった。だがキリストはすべての罪人を救われはしない。ある罪人たちは疑いもなく失われるであろう。なぜなら、彼らはキリストを拒絶するからである。彼らは主を軽蔑する。悔い改めようとしない。自分で自分を義とすることを選ぶ。キリストに立ち返らず、キリストのいかなる道をも採らず、キリストの愛を全く受けようとしない。そのような罪人たちに対しては、何のあわれみも約束されていない。他には何の救いの道も残っていないからである。キリストを蔑むということは、自分のあわれみを蔑むということである。主に背を向けるなら、あなたは主の血にあなたを救う効力が全くないことを証明したのである。主を蔑み、そうしながら死ぬとしたら、また、自分の魂を主の御手にゆだねることなく死ぬとしたら、あなたは、キリストの血がいかに強大なものであっても、それが決してあなたに当てはめられたことはなく、決してあなたの心に降り注がれたことがなく、あなたのもろもろの罪が取り去られることはなかったことを、この上もなく恐ろしいしかたで証明したのである。ならば、もし私が、キリストが私のために死なれたかどうか、主を信じても良いか、また自分が救われた者だと感じて差し支えないかを知りたければ、私たちはこの問いに答えなくてはならない。――私はきょう、自分が罪人だと感じているだろうか? 口先だけでそう云っているかどうかではない。それを感じているだろうか? 私の魂の内奥には、この真理――私は罪人である――が燃える炎の大文字で焼きつけられているだろうか? もしそうだとしたら、キリストは私のために死なれたのである。私は主の特別な目的の中に含まれている。恵みの契約は、永遠の選びというその太古の巻物の中に、私の名前を含んでいる。そこには私という者が記録されている。そして私は、疑いもなく救われるであろう。もし今、自分が罪人であると感じているとしたら、私はこの単純な真理の上に身を投げ出し、それを信じ、いかなる悩みの時にも頼みの綱として、それに信頼を置くであろう。あなたがたの中の多くの人々は、自分は罪人であると感じていると云えるではないだろうか? おゝ、私は切に願う。あなたがいかなる人であれ、この、そのまま受け入れるに値する大いなる真理を信ずるがいい。――キリスト・イエスは、あなたを救うために来られたのである。私にはあなたの疑いが分かる。あなたの恐れが分かる。自分でも同じように苦しんだことがあるからである。そして、私が自分の希望を生かし続けることのできる唯一の道はこのことである。――私は毎日、十字架のもとに至らされる。私の信ずるところ、死の時まで私は決してこのこと以外にいかなる希望も有することはないであろう。――
「わが手にもてる もの何もなし
ただ汝が十字架にわれはすがらん」。そして、この時、イエス・キリストを私の《贖い主》であると信ずることのできる私の唯一の理由、それは――私は、自分が罪人であると知っている――ということである。そう私は感じ、それゆえに嘆いている。そして、確かに私はそのことを大いに嘆くものだが、サタンが私に向かって、お前は主のものではありえないと告げるときには、私は、私の嘆きそのものから、慰めに満ちた推論を引き出す。すなわち、主が私に、私が失われていると感じさせておられるからには、私を救おうと意図していたのでない限り、主はそうはなさらなかったであろう。また、主が救おうとしてやって来られた人格の大集団に私が属していることを、私に主が見てとらせておられるからには、私はそこから何の疑念の余地もない推論を引き出す。主は私たちを救われるであろう、と。おゝ、あなたも同じようにできるだろうか? あなたがた、罪に打たれ、倦み疲れ、悲しみと失意に沈んでいる魂たち。あなたにとって、この世はむなしいものとなってしまっている。あなたがた、快楽の限りを尽くしたあげくに、今や飽き飽きして憔悴している、あるいは、病すら得ている霊たち。あなたはそれを除き去りたいと切望している。――おゝ、あなたがた、この狂った世界が下界であなたに与えることのできるものよりもすぐれたものを切願している霊たち。私はあなたに、ほむべき神のほむべき《福音》を宣べ伝えているのである。――神の御子にして、処女マリヤから生まれたイエス・キリストが、ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、三日目によみがえられたのは、あなたを――そう、あなたを――救うためだったのである。というのも、主は罪人を救うためにこの世に来られたからである。
3. さて今、ごく手短に第三の点について語ろう。罪人を救うとはいかなる意味だろうか? 「キリストは罪人を救うために来られた」。兄弟たち。もしあなたが、救われたとはいかなる意味であるか表わすものを見たければ、ここでそれをあなたに示させてほしい。そこにひとりのあわれで、みじめな男がいる。長年にわたって、この上もなくはなはだしい罪の中に暮らし、罪に慣れきってしまったため、彼が良い行ないをできるようになるくらいなら、クシュ人がその皮膚を変える方がましなほどである。酩酊と、悪徳と、愚行が鉄の網で彼をからめとっており、彼は厭わしいものとなり、自分の厭わしさから逃れることができない。あなたに彼が見えるだろうか? 彼はよろよろ歩きながら、自分の滅びに向かっている。子どもの頃から青年になるまで、また、青年の頃から成人になるまで、彼はひたすら罪を犯してきた。そして今、彼はその死期に近づきつつある。地獄の穴は、彼の通り道を横切って炎を吹き上げており、その恐ろしい光箭を彼の目の前に放っている。だがしかし、彼にはそれが見えない。彼はなおも自分のよこしまさの中を進み続け、神を蔑み、自分自身の救いを憎んでいる。彼のことは放っておくがいい。数年後に、あなたは別の物語を聞くことであろう。あなたには、彼方にいるあの霊が見えるだろうか? ――神への賛美をいとも甘やかに歌う者らの最前列にいるあの霊である。分かるだろうか、それがそのきよさを象徴する純白の衣を着ていることが? 見えるだろうか、その霊が自らの冠をイエスの御足元に投げ出し、主を万物の主と認めている姿が? 聞けよ! あなたには聞こえるだろうか、その霊がこの上もなく甘やかな歌によって、パラダイスそのものを絶え間なく魅了しているのを。耳をすますがいい。その歌はこうである。――
「われ罪人の かしらなるとも
イエスわがために 死にたまいけり」。「私を愛して、その血によって私を罪から洗ってくださった方に栄光と尊厳、威光と権威、また支配が、とこしえにあるように」*[黙1:5-6]。さて、このように、熾天使の詩歌にも似た歌声を響かせているのは誰だろうか? ほんのしばらく前までは、あれほど恐ろしく堕落していたあの男なのである。同一人物なのである! しかし、彼は洗われている。きよめられている。義と認められている。では、もしあなたが私に、救いということで何を意味しているのかと尋ねるならば、私はあなたに告げたい。それは、あのあわれな、絶望的に堕落した人間の屑から、あのはるか彼方で高く舞い上がり、神を賛美している霊へと至ることである、と。それが救われるということである。――私たちの古い考えが新しいものにさせられ、私たちの古い習慣が断ち切られ、新しい習慣が与えられること、私たちの古い罪が赦され、義が転嫁されること、良心における平安と、人に対する和らぎと、神との平和を得ること、転嫁された義というしみ1つない衣をまとい、私たち本体も癒され、きよめられることである。救われるとは、永遠の破滅という淵から救出されること、天の王座へと引き上げられること、怒れる神の憤りと呪い!と雷鳴から救い出され、私たちの《父》にして私たちの《友》なるエホバの愛と、承認と、称賛とを感じさせられることである! そして、これらすべてをキリストは罪人たちにお与えになる。私は、この単純な福音を宣べ伝えるとき、自分のことを罪人と呼びたがらないような者たちとは何の関わりもない。もしあなたが聖人に列されなくてはならないというなら、また、もしあなたが自分自身の聖者としての完璧さを主張するというなら、私はあなたとは何の関係もない。私の福音は罪人たちのためのもの、罪人たちだけのためのものである。そして、これほど広大で、輝かしく、言葉に尽くせないほど尊く、永遠に堅固であるこの救いの全体は、きょう、打ち捨てられた者たち、かすのごとき者たち――つもり、罪人たちに語りかけられているのである。
さて、私はこの聖句の真理を宣言してきたと思う。確かに、いかなる者も、ためにする以外には私の言葉を誤解しようもないはずである。――「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」。
II. さて今、私に残されているのは、ごく僅かなことでしかないが、それでもやはり困難きわまりない務めである。――すなわち、この聖句の《二重の推めの言葉》である。まず、「このことばは、まことです」、であり、これは疑う者たちに対する推めの言葉である。二番目に、「このことばは、そのまま受け入れるに値するものです」。これは無頓着な者たちへの――否、不安な者たちにとっても――推めの言葉である。
1. まず、「このことばは、まことです」。これは、疑う者たちへの推めの言葉である。おゝ、悪魔は、人々が神のことばの響きの下にあるのを見いだすや否や、その群衆の中に忍び込み、ある人の心には、「そんなもの信じるな!」、と囁き、別の人の心には、「笑い飛ばせよ!」、と囁き、さらに他の人の心には、「そんなもの、うっちゃってしまえ!」、と囁く。そして、この使信が意図されている人――自分が罪人でいると感じている人――を見いだすと、通常かれは倍増しで熱心になり、その人がそれを全然信じないようにさせようとする。私は、この件についてサタンがあなたに何と云ったか分かっている。あわれな方々。かれは云った。「こんなもん信じるなよ。――本当だとしたら、話がうますぎるじゃないか」。神ご自身のことばによって、悪魔に返答させてほしい。「このことばは、まことです」。これは、確かにうまい話である。そして、うまい話であると同じくらい、本当の話なのである。確かにこれは、神ご自身がそう云われたのでないとしたら、うますぎる話である。だが、神がそう云っておられる以上、話がうますぎて本当ではありえないことにはならない。私はあなたに、なぜこれがうますぎる話に思えるか教えよう。それは、あなたが神の麦をあなた自身の枡で量っているからである。ぜひ覚えておいてほしいが、神の道はあなたがたの道のようではなく、神の思いはあなたがたの思いのようではない。というのも、天が地よりも高いように、神の道は、あなたがたの道よりも高く、神の思いは、あなたがたの思いよりも高いからである[イザ55:13]。何と、あなたは、もし誰かがあなたを怒らせたとしたら、その人を赦すことができないと思うだろうか? 左様。だが神は人ではない。神は、あなたが赦せないと思う場合にも赦すことがおできになる。あなたがあなたの兄弟の首を絞めるような場合にも、神は七度を七十倍するまで赦そうとされる[マタ18:22]。あなたはイエスのことが分かっていないに違いない。さもなければ、あなたはイエスを信じようとするはずである。私たちは、自分の罪を大きなものと思えば思うほど神に誉れを帰していると考える。だが、確かに私たちは自分の罪を非常に大きなものと考えてしかるべきであるが、その一方で、もし自分の罪を神の恵みよりも大きいと考えているとしたら、神に不名誉を帰しているのである。神の恵みは、私たちの最大の罪悪よりも無限に大きい。神がかつて設けられた例外は1つしかないし[マコ3:29]、悔悟している者がその例外に含まれることはありえない。それゆえ、私は切に願う。神について、もっと大きな考えをいだくがいい。神がいかにいつくしみ深くあられるか、いかに偉大なお方であられるかを考えるがいい。そして、あなたがこの言葉をまことであると知るとき、あなたはきっとサタンを押しのけ、それをうますぎて信じられない話とは思わなくなるであろう。だが私は、かれが次に何とあなたに云うか分かっている。――「よろしい。たといこれが本当だとしても、お前にとっては本当ではないのだ。これは全世界にとっては本当だが、お前にとっては本当ではない。キリストは罪人を救うために死んだ。お前も本当に罪人ではある。だが、お前はそこに含まれていないのだ」。悪魔に面と向かって嘘吐きと云うがいい。率直な言葉遣い以外に、悪魔に答える道はない。私たちは、マルチン・ルターが信じていたように、個人的な悪魔の存在を信じていない。ルターは、悪魔が彼のもとにやって来るときには、他の詐欺師を扱うようなしかたで悪魔を扱った。彼は、厳しい叱責とともに、悪魔を戸口から叩き出したのである。キリストご自身の権威に立って悪魔に、嘘吐きめ、と告げるがいい。キリストは、ご自分が罪人を救うために来られたと云っておられる。悪魔は、そうではない、と云う。実質的に悪魔は、キリストが罪人を救うために来たのではないと云っているに等しい。というのも、かれは、キリストがあなたを救うために来たのではないと宣言しており、あなたは自分が罪人だと感じているからである。お前は嘘吐きだ、とかれに告げ、追い払うがいい。いずれにせよ、決して悪魔の証言をキリストのそれと並び立つものとしてはならない。キリストはきょう、カルバリの十字架から、かつてエルサレムを見下ろされたときと同じ、愛しい涙に満ちた御目であなたをご覧になっておられる。主はあなたをご覧になっておられる。私の兄弟たち。姉妹たち。そして、私の唇を通して、こう仰せになっている。「わたしは、罪人を救うためにこの世に来たのだ」、と。罪人よ! あなたは主を信じて、あなたの魂を主の御手にゆだねたくはないだろうか? こう云いたくないだろうか?――「甘やかな主イエスよ。今より後、私たちの頼りとならせ給え! 『汝が他の望み 主よ、われ捨てり。汝れのみ、汝れぞ、わがものとせん』」。さあ、あわれな、臆病な者よ。私はあなたをもう一度安心させるため、この聖句を繰り返さなくてはならない。――「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」。この言葉は、まことであり、あなたにこれを退けさせるわけにはいかない。あなたは、自分にはそれが信じられないと云う。では聞かせてほしい。「あなたは聖書を信じているだろうか?」 「ええ」、とあなたは云うであろう。「一言残らず信じています」。ならば、これは、その一言である。――「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」。私は、あなたの正直さにかけて命ずる。――「私は聖書を信じています」、とあなたが云っている以上、それを信ずるがいい。それで事は決まる。あなたはイエス・キリストを信じているだろうか? さあ、私に答えてみるがいい。あなたはキリストが嘘を云うと思うだろうか? 《真理の神》が欺きを云うほど下落するだろうか? 「いいえ」、とあなたは云うであろう。「私は神が仰せになることは何であれ信じます」。ならば、これは神がご自分の書の中で仰せになっていることなのである。主は罪人を救うために死なれた。――さあ、もう一度聞く。あなたは事実を信じているだろうか? イエス・キリストは死者の中からよみがえったではないだろうか? それは主の福音が真正なものであることを証明していないだろうか? もし福音が真正なものだとしたら、キリストが福音であると宣言しておられるものはみな真実であるに違いない。あなたが主の復活を信じている以上、私はあなたに命ずる。主が罪人のために死なれたことを信じるがいい。もう一言云おう。あなたは、天にいる聖徒たち全員と、地上にいる聖徒たち全員の証言を否定しようというのだろうか? そのあらゆる者に尋ねてみるがいい。すると彼らはこのことがまことであると告げるであろう。――主は罪人を救うために死なれたのである。私も、主の最も小さなしもべのひとりとして、こう証言せざるをえない。私は主張する。イエスが私を救うために来られたとき、主は私のうちに何1つ善なるものを見いださなかった、と。私は確実に知っている。私をキリストに推奨するようなものは何1つなかった。そして、もし主が私を愛したとしたら、それは主が私を愛したいと思われたからにほかならない。私の中に愛すべきものは全くなく、主が欲しがるようなものは何もなかったからである。私が今の私としてあるのは、恵みによってである。主が私を、今ある私にしてくださったのである。しかし、最初に主は私が罪人であることを見いだされた。そして主ご自身の主権的な愛こそ、主の選びの唯一の理由であった。神の民の全員に訊いてみるがいい。彼らはみな同じように云うであろう。
しかしあなたは云うであろう。自分はあまりにも大罪人である、と。何と、あなたはすでに天国にいる何人かの者らよりも大罪人ではない。あなたは、自分が地上に生を受けた者の中で最大の罪人であると云う。それは間違いだと私は云いたい。最大の罪人は何年か前に死んで、天国に行った。本日の聖句がそう云っている。――「私はその罪人のかしらです」。では、あなたにも分かるであろう。第一等の罪人があなたよりも先に救われているのである。では、第一等の罪人が救われた以上、なぜあなたが救われないわけがあるだろうか? そこには罪人たちが一列に並んでいる。そして私が見ていると、ひとりの者が隊伍を離れて歩み出し、こう云う。「どいてくれ、どいてくれ。私は君たちの先頭に立っているのだ。私は罪人のかしらなのだ。私を最下位に就かせてくれ。私の方が君たちよりも大罪人なのだ」。「いいえ」、と別の者が叫ぶ。「あなたではありません。私こそあなたよりも大罪人です」。そこへ使徒パウロがやって来て、こう云う。「私はあなたがた全員に挑戦する。マナセよ、マグダラのマリヤよ。あなたに私は挑戦する。最下位を占めるのは私だ。私は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者[Iテモ1:13]だったが、あわれみを受けた。それは、神がまず私に対してその寛容を示してくださるためである」。さて、もしキリストが地上に生を受けた最大の罪人を救ってくださったとしたら、おゝ、罪人よ。いかにあなたが大罪人であったとしても、あなたが最大の罪人ほどの大罪人であるはずがない。そして、主はあなたを救うことがおできになる。おゝ、私は切に願う。御座を囲む無数の証人たちにかけて、また、地上にいる山なす証人たちにかけて、イエス・キリストにかけて、カルバリの上の証言にかけて、今でさえ証ししているあの血の滴りにかけて、神ご自身にかけて、そのまことであるみことばにかけて、私は切に願う。このまことである言葉を信じるがいい。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」のである。
2. さて、これで、しめくくることにしよう。この聖句の第二の推めの言葉は、無頓着な者たちに対するものであり、不安な者たちに対するものでもある。無頓着な者たちにとって、この聖句は、そのまま受け入れるに値するものである。おゝ、人よ。あなたはこれを蔑んでいる。私には、あなたがこれをあざけって口を歪めているのが見える。これは下手くそに話された、だからあなたはこれを蔑んだ。あなたは内心でこう云った。「それが私にとって何だというのだ? もしこれがあの男の説教することだというなら、私はそれをわざわざ聞こうとは思わない。もしこれが福音だというなら、何の値打ちもない」。あゝ、方々。あなたがそう思わなくとも、そこには値打ちがあるのである。それは、あなたが受け入れるに値するものである。私が宣べ伝えてきたものは、いかに貧弱なしかたで説教されたものではあっても、あなたが注意を払うに値するものである。いかなる雄弁家があなたに向かって講演しようとかまわない。その人が私のこの主題にまさる主題を語ることは決してできない。デモステネスその人がこの場に立とうと、あるいは、彼の後代の同輩たるキケロがそうしようと、彼らは決してこれより重大な主題を有することはできなかったであろう。それをあなたに告げているのが小わっぱであろうと、その主題を思えば、十分その子を勘弁してやれるであろう。それは、それほど重要だからである。人よ。危険に陥っているのはあなたの家ではない。単にあなたのからだでもない。あなたの魂なのである。私は切に願う。永遠にかけて、その恐るべき恐怖にかけて、地獄のぞっとするような恐ろしさにかけて、このすさまじい言葉、「永遠――永遠」、にかけて、私は人として、あなたの兄弟として、あなたを愛する者として、あなたを燃える火の中からひったくりたいと願う者として、切に願う。あなた自身のあわれみを蔑んではならない。というのも、これはあなたにとって値あることだからである。あなたがそのまま受け入れるに値するし、あなたが心底から受け入れるに値するものだからである。あなたは賢いだろうか? これは、あなたの知恵よりもはるかに高い値を有している。あなたは金持ちだろうか? これは、あなたの全財産よりもはるかに高い値を有している。あなたは有名だろうか? これにはあなたのあらゆる名誉にまさる値があるものである。あなたには王侯の身分があるだろうか? これはあなたの家柄よりも、あなたの見事な相続財産のすべてよりも値あるものである。私が宣べ伝えているのは、天の下のいかに値あるものにもまさっている。なぜなら、それは、他の一切のものが消え失せた後にもあなたの手元に残っているからである。それは、あなたがひとり立つときもあなたとともにあるであろう。死の時が来て、あなたが神の法廷の召喚状に答えなくてはならないときも、それはあなたのために嘆願するであろう。そして、それは、決して終わらない代々を通じて、あなたの永遠の慰藉となるであろう。それは、あなたが受け入れるに値するものなのである。
そして今、あなたは不安を感じているだろうか? あなたの心は悲しんでいるだろうか? あなたは、こう云っているだろうか? 「私は救われたいと願っています。私はこの福音を信頼できるでしょうか? これは私を支えきれるでしょうか? 私は巨象のごとき罪人なのです。この福音の柱は、私の罪の重みの下で木の葉のように崩れるではないでしょうか?」 「私はその罪人のかしらです」。福音の入口は私が入れるほど広いだろうか? 私の霊は罪に病んでいる。この薬は私を治せるだろうか? しかり。それはあなたにとって値あるものである。あなたの病を立派に治すことができる。あなたの必要に立派に答えることができる。これはあなたの求めを十分満たすことができる。もし私に半欠けの福音か、欠陥品の福音しかなかったとしたら、私はそれを熱心に宣べ伝えようとはしないであろう。だが、私の有する福音は、そのまま受け入れるに値するものである。「ですが、先生。私は盗人だったんですよ。さんざん女郎買いをしてきたんですよ。酔いどれだったんですよ」。福音は、あなたにとって値あるものである。というのも、主は罪人を救うために来られたのであり、あなたは罪人のひとりだからである。「ですが、先生。私は神をさんざん冒涜してきたんですよ」。福音は、あなたでさえ除外しはしない。それは、あなたが受け入れるに値するものである。むしろ、よく聞くがいい。福音は、あなたが最大限の確信を込めて受け入れるに値するものである。あなたは、単にそれをあなたの頭で受け入れるだけでなく、あなたの心で受け入れて良い。あなたはそれを自分の魂で抱きしめて、それをすべてのすべてと呼んで良い。それを糧とし、それに養われて生きていって良い。そして、もしあなたがこのために生き、このために苦しみ、このために死ぬなら、これはそのすべてに値している。
私は今あなたを家に帰らせなくてはならない。だが、私の霊はこの場にとどまりたい気がしている。あなたの教役者がこの日あなたのために大いに気遣っているというのに、多くの人々が自分自身の魂のことを気遣わないというのは奇妙に思われる。私にとって、人々が失われようが、救われようが何の関係があるだろうか? 私はあなたが救われたからといって何か得をするだろうか? 確かに、そこにはほとんど何の得もない。だがしかし私は、あなたがたの中の多くの人々が自分自身について思いやっている以上に、あなたのことを思いやっている。おゝ、奇妙な心のかたくなさではないか。人が自分自身の救いについて気遣わず、何の考えもなしに最も尊い真理を拒絶するというのは。止まれ、罪人よ。止まれ。あなた自身のあわれみに背を向ける前に。――止まれ。もう一度云う。――ことによると、これが、あなたの受ける最後の警告かもしれない。否。それより悪いことに、これが、あなたが心で実感する最後の警告かもしれない。あなたは今はそれに感銘を受けている。おゝ、私は切に願う。御霊を消してはならない。この場を出てから、家に帰るまで、下らない世間話にふけってはならない。この場を出るや、自分がどのような者であったかを忘れて[ヤコ1:24]しまってはならない。むしろ、急いであなたの家に帰り、自分の私室に向かい、戸を閉めて、寝床のかたわらでひれ伏して、あなたの罪を告白するがいい。イエスに叫び求めるがいい。自分は、主の主権の恵みがなければ滅びたも同然のみじめな人間です。自分は今朝、主が罪人をお救いになるために来られたと聞きました。このような愛を思うとき、自分は反逆の武器を手から落としてしまいました。また、自分はあなたのものになりたいと切に願っています。そう主にお告げするがいい。地に顔を伏せて、主にそう嘆願するがいい。そして、こう申し上げるがいい。「主よ。助けてください。私は滅びそうです」*[マタ8:25]、と。
主があなたがたすべてを祝福してくださるように。イエスのゆえに。アーメン。
栄光に富む福音[了]
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