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引っくり返された世界

NO. 193

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1858年5月9日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「世界中を引っくり返して来た者たちが、ここにもはいり込んでいます」。――使17:6 <英欽定訳>


 これは、しばしば繰り返されてきた物語の旧版にすぎない。ある国の中で騒動が起こったり、反逆や謀反によって流血沙汰が引き起こされたりすると、今なお口癖のように、「これはキリスト者たちのせいだ」、と云われるのである。私たちも知る通り、イエスの時代にも、私たちのほむべき天来の《主人》には、暴動をあおり立てる者だとの非難が帰されてきた。主ご自身は、つき従う者たちが主を無理矢理に王にしようとしたときも[ヨハ6:15]、王になることを拒絶していた。「わたしの国はこの世のものではありません」[ヨハ18:36]、と仰せになったからである。それでも、主が十字架につけられたのは、暴動と冒涜という2つの濡れ衣を着せられてのことであった。使徒たちにも同じことが起こった。彼らが福音を宣べ伝えに行く所どこにおいても、彼らに反対するユダヤ人たちは、愚連隊のような連中を煽動しては、彼らの伝道活動に終止符を打たせようとした。この場合にも、ユダヤ人たちは、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲っては、彼を人々の前に引き出そうとして捜し、自分たちで大騒動を起こしておきながら、その騒動や騒ぎの責任を使徒たちになすりつけて、こう云ったのである。「世界中を引っくり返して来た者たちが、ここにもはいり込んでいます」<英欽定訳>。こうしたやり口は、ローマ帝国中で踏襲され、キリスト教が国教になるまで続いた。何か災厄がローマに降りかかるたびに、また、戦争や飢饉や疫病が起こるたびに、粗野な群衆は叫んだ。「キリスト者を獅子に食わせろ! キリスト者のせいでこうなったんだ」。ネロ自身、疑いもなく自分で火災を起こしたローマ焼失の責めをキリスト者たちに負わせた。イエスを信ずる者たちは、罪という罪の汚物を流し込む一般下水道ででもあるかのように中傷された。彼らはソロモンの大いなる青銅の海[I歴18:8]さながらであった。それは、きよらかな清水で満たされていて、その中では祭司たちでさえ自分たちの衣を洗えたのである。そして、あなたも気づくように、今日に至るまで、なおも世間はその災難をキリスト者たちのせいにしている。ほんの数箇月前にあげられた愚かな触れ声、そして、一部の精神薄弱な人々がなおも信じている触れ声によると、印度におけるあの大虐殺と反乱は、宣教師たちによって引き起こされたのだという。無論そうだ。世界中を引っくり返して来た者たちが、ここにもはいり込んでいるのだ。人々が自然と法とのあらゆる歯止めを破ってきたからには、また、悪鬼どもすら赤面するような所行を犯してきたからには、それはキリストの聖なる福音の責任に帰されなくてはならいのだ! 平和の人々の両肩に戦争の責めを負わせなくてはならないのだ! あゝ! こうした叫びに反駁する必要などない。この罪人呼ばわりは反駁の必要がないほど根も葉もないことである。愛の福音をお伝えになったお方が、騒擾の助長者であるなどということが真実でありえようか? 反乱や反逆の責任を福音に負わせることが一瞬でも公正でありえようか? その福音の標語そのものが、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」[ルカ2:14]だというのに。私たちの《主人》はこう云われなかっただろうか? 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」[マコ12:17]。主ご自身、税金を納められたではないだろうか? その金銭を得るために、湖の魚を獲りにやらなくてはならなかったとしても、そうされなかっただろうか? また、主に従う者たちは、いかなる時も平和を好む民だったではないだろうか?――ただし、自分たちの良心の自由に干渉されるときは別である。そうした時の彼らは、暴君や国王らに膝をかがめる者ではなく、勇敢な古のオリヴァー[クロムウェル]とともに自分の国王らを鎖で縛り、自分の貴族らを鉄の枷で縛ってきたし、これからも自らの自由を侵害され、しかるべきしかたで神を礼拝する権利が失われかねなければ同じことをするであろう。

 私たちの信ずるところ、ユダヤ人たちが使徒たちについて云ったことは、ためにする真っ赤な嘘にほかならなかった。彼らは事をずっと良く知っていた。使徒たちは国家の擾乱者でなかった。確かに彼らが宣べ伝えたことは、一国の罪深いあり方を揺さぶり、にせ祭司たちの悪しき慣行を妨げるものではあったが、彼らは決して人々を大騒ぎさせるつもりはなかった。彼らは人々を罪と戦わせるためにやって来はした。不義に向かって剣を抜き放ちはした。だが、人としての人々に対して、また、王としての王たちに対しては、いかなる戦いも展開しなかった。不義と罪、また、至る所における不正に対してこそ、彼らは永遠の戦争を宣戦した。しかし、それでも、兄弟たち。私たちは云うが、物笑いとして語られたことの中には多くの真実な言葉があるものである。そして、悪意ある発言の中には多くの真実な言葉があるに違いない。人々は、使徒たちが世界を引っくり返したと云った。それによって彼らが意図したのは、使徒たちが平和をかき乱す者だということであった。しかし彼らは、大きな真実を語ったのである。キリストの福音は本当に世界を引っくり返すからである。世界は逆さまになっていた。だが、福音が宣べ伝えられている今、また、それが広く行き渡るとき、世界を引っくり返すことによって福音はそれをまともなものにするにすぎない。

 さて今、私が示したいと思うのは、キリストの福音が、広い一般の世界において、いかに世界を引っくり返すかということである。その後、神の御助けによって可能な限り示そうと思うのは、いかにしてあらゆる人の内側にある小世界が、キリストの福音を信ずる者となるとき引っくり返されるかである。

 I. まず第一に、キリストの福音が世界を引っくり返すのは、《様々な種別の人々の立場に関して》である。

 人々の思いみなすところ、天の御国はおおむね次のようなものである。その天辺の高みに立つのは、この上もなく偉大なラビや、まことに高徳の、尊敬に値する、卓越した神学博士や、大哲学者や、非常な学識者や、深く教えを受けた者や、博学多識の人である。そうした人が頂点に座を占め、最高位に就く。なぜなら、最も賢いからである。そして、そうした人のすぐ下には、深い知識に通じた人々――先の者たちほど透徹してはいないが、それでもなお、すぐれて賢い人々――であり、彼らは、この金字塔の最下部にいる者らを見下ろしてはこう云う。「あゝ、無知な大衆よ。あれらは何も分かっていない」、と。それより少し下にいるのが、謹厳で、体裁が良く、思慮深い人々である。教師として立てられてはいないが、教えられることはめったにない。彼ら自身の考えによると、すでに学ぶべきことはみな知っているからである。それから彼らの後に続くのは、さらに大人数の、非常に尊敬されるべき人々、哲学者やラビたちほど賞揚されてはいないものの、世間知においては非常に賢い人々である。それよりももっと下にいるのは、それなりに不体裁ではないくらいの知恵と知識を有する人々であり、最下部に来るのが愚か者であり、小さな子どもであり、赤子である。こうした者らを見るとき私たちは云う。「これこそ、この世の知恵だ。見るがいい。最底辺の赤子と、頂部にいる学識ある博士との間がいかにかけ離れていることか! あのこわばった、ごつごつの、堅い下部をなしている無知な馬鹿者と、この金字塔の頂点でまばゆく輝いている、磨き建てられた大理石のような賢人との間には、いかに大きな差異があることか」。さて、キリストがいかに世界を引っくり返しておられるか見てみるがいい。そこに、それは立っている。キリストは、それをまっ逆さまにされる。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」[マタ18:3]。「選ばれた者に、この世の知者は多くはなく、権力者も多くはありません。しかし神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、御国を相続する者とされたのです」*[Iコリ1:26-27; ヤコ2:5参照]。これは、社会機構の全体を引っくり返すことにほかならない。そして、あの賢人は今や自分が愚直な者となるために上って行かなくてはならないことに気づく。彼はそれまで一生の間、信じやすい子どものような愚直さからは、自分にできる限り遠ざかろうと努めてきた。自分の耳にしたあらゆる真理を思索し、識別し、はかりにかけ、自分の論理によって切り刻んできた。だが今や彼は一から出直さなくてはならない。小さな子どものようになり、自分のかつての愚直さに立ち返らなくてはならない。これは猛烈に引っくり返された世界であり、それゆえ、賢者はめったにそれを愛さないのである。

 もしあなたが徹底的に引っくり返された世界を見たければ、マタイの福音書5章に目を向けさえすれば良い。ここには、逆転した世界の要約が記されている。イエス・キリストは、自ら行なわれた最初の説教で世界を引っくり返された。3節を見るがいい。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。さて、私たちが好むのは大望に燃えた人である。――いわゆる、世の中でのし上がるすべを心得ている人――上を見上げる人――自分の占めている地位に満足せず、常に高みへ高みへと上りつつある人である。また、やはり私たちが非常に高く評価するのは、自負を高く持つ人である。――へいこらしたり、ぺこぺこしたりしない人である。譲りたくないと思う権利は譲らず、誰にも屈そうとしない人である。自分を何者かであると信じて、自らの信念に立ち、それを世界に向かって証明していこうとする人である。彼は、よくいるような、貧乏に満足して座り込んでいる、あわれで、意気地のない連中とは違う。彼は満足しようとはしない。さて、このような人を世は賞賛する。しかしキリストは、それを完全に引っくり返し、こう云われる。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。自分自身では何の力もない人々、むしろ、すべてをキリストに乞い願う人々、――よこしまな世と向こうを張ろうとはせず、加えられた危害を恨まず甘受しようとする人、――貧しく、へりくだったふるまいをし、自分の同輩たちを越えて頭を上げようとはしない人々、人から強いて押し立てられれば上に立ちもするが、決して自分から上に立とうとはしない人々、――人生の、うそ寒く、引っ込んだ谷間沿いにいて、単調な日々の生活を送ることで満足している人々、――「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」[エレ45:5]が常に耳に響いているかに思える人々、――「心の貧しい者」、貧乏でも幸福にしており、主の摂理に満足し、自分は自分に値するよりもはるかに富んでいる考える人々である。さて、こうした人々が幸いであるとキリストは云われる。この世は彼らを、軟弱だ、愚か者だと云うが、キリストは、この世が最低の所に置く人々を最高の所に置かれる。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。

 それから、世にはそれとは別の人々もいる。彼らは常に悲しんでいる。彼らはそれほど頻繁にそうした様子を見せはしない。彼らの《主人》は彼らに、断食するときには自分の顔に油を塗り、断食していることが人には見られないようにせよと告げられたからである[マタ6:17-18]。だが、それでもひそかに彼らは、神の御前で呻かざるをえない。彼らは柳の木々に立琴を掛ける[詩137:2]。自分自身の罪ゆえに嘆き、時代の罪ゆえに嘆く。この世はこうした人々についてこう云う。「あいつらは、顔をしかめた陰気な奴らさ。あいつらの仲間になどなりたくもないね」。そして、陽気な道楽者がやって来ると、ほとんど彼らにその蔑みを吐きつけるかのようである。というのも、彼らは何だろうか? 彼らは暗がりを愛する。彼らは流れの中の柳の木々である。だがこの男は、誇らしげな箱柳のように、自分の頭を高く上げ、自分の喜びという風によってあちこちへ揺れ動き、自分の偉大さを、また、自分の自由を自慢している。この陽気な若者が、悲しみと罪の確信の下にある友人に何と語るか聞いてみるがいい。「あゝ! 君って奴は病的な気質をしてるなあ。可哀想に。医者にかかった方がいいと思うよ。君は世の中を悲しみながら暮らしてるのだ。何てみじめなことだろう、辛気くさい波に漬かっているなんて! 君ときたら何て陰気なんだ! ぼくなら世界中と引き替えにしたって君と入れ替わったり、立場を交換したりしたくはないね」。しかり。だがキリストは世界を引っくり返される。そして、あなたが嘆きと悲しみに満ちていると思うこの人々こそ、まさに喜ぶべき人々にほかならない。というのも、4節を読むがいい。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」。しかり。この世の人たち。あなたの喜びは、なべの下のいばらがはじける音[伝7:6]のようなものである。それは、多少は燃え輝き、大きな音を立てるが、すぐに消え失せる。だが、「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために」[詩97:11]。あなたは今はその光を見ることができない。蒔かれているからである。それは、ことによると、貧困や、恥辱や、迫害という土塊の下に横たわっているかもしれない。しかし、大いなる刈り入れの時がやって来ると、再臨において突如現われる光の穂は、至徳と永遠の栄光という「穂の中の実」*[マコ4:28]を結ばせる。おゝ、あなたがた、悲しんでいる魂たち。喜ぶがいい。というのも、この世があなたを見下そうとも、キリストはあなたをこの世の頭上に置かれるからである。主が世界を引っくり返されるとき、主はあなたが慰められると仰せになっている。

 それから別の種類の人々、「柔和な者」と呼ばれる人々がいる。あなたも時折、彼らと出会ったことがあるかもしれない。私の知っているある人は、訴訟事件をかかえていないと決して幸福にならない。書面がない限り、びた一文勘定を払わない。彼は法律を好んでいる。他の人を法廷に引っぱり出すという考えは、彼にとって蜜の味である。ちょっとした侮辱も彼は簡単には忘れない。彼が有しているらしい尊厳は途方もなく大きく、ほんの少しでも癇に障ることがあると、また、辛辣な言葉を受けたりすると、また、一言でも中傷されると、たちまち自分の敵につかみかかる。というのも、彼はことのほか気難しく、借金のある者は牢屋に叩き込むからである。そして、まことにあなたに云うが、あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られない[マタ5:26]。さて、柔和な者は、これとはきわめて異なる性向をしている。あなたが彼らを罵っても、彼らは罵り返さない。彼らを傷つけても、彼らは自分の《主人》が、「わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません」[マタ5:39]、と云われたことを知っている。彼らは威張りくさったり、ちょっとした侮辱に激昂したりしない。というのも、彼らは誰もが不完全であることを知っており、それゆえ、ことによると、自分の兄弟が間違いを犯したかもしれず、自分の感情を傷つけるつもりがなかったかもしれないと考え、それゆえ、こう云うからである。「よろしい。もし彼がそうするつもりがなかったのだとしたら、私はこのことで傷ついたりすまい。たぶん彼はよかれと思っていたのだろう。だから私はその行ないに対する気持ちを理解しよう。また、彼も激しい言葉を発したが、明日になればそれを悔やむであろう。私はそれを彼に言及すまい。――私は彼が何を云おうと我慢していよう」。彼に対する中傷が口にされる。だが彼は云う。「よろしい。かまわないでおこう。これは自然となくなるであろう。薪がなければ火は消え失せるものだ」。他の人が、彼に聞こえる所で、ことのほか激しい悪口を云っても、彼は単に舌を抑える。じっと黙って、口をつぐんでいる。彼はあのツェルヤの子らのようではない。彼らはダビデにこう云った。「行って、あの死に犬めの首をはねさせてください。王さまをのろったのですから」*。だがダビデは云った。「いいや。もし主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたのだとしたら、のろわせておきなさい」[IIサム16:9-10参照]。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」[ロマ12:19]。彼は我慢し、忍耐し、自分が1つでも危害を加えるくらいなら、一千もの危害に耐え忍ぶことに全く満足している。柔和に、また穏やかに、彼はこの世の中を行き過ぎていく。すると人々は云う。「あゝ! ああした奴は決して成功しないだろうよ。人から騙され続けるのが落ちさ。何と、あいつは金を貸したら二度と取り返せないだろうよ。貧乏人に財産を与えるだけで、自分では全然受け取れないのさ。何という間抜けな馬鹿だろう! 奴は他人が自分の権利を侵害するままになっている。奴には精神力というものがないよ。自立するということができないんだ。馬鹿だよ、あいつは」。左様。だがキリストはそれを引っくり返して、こう仰せになる。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」[マタ5:5]。これはあなたにとって腹立たしいことではないだろうか? 欲張りな人たち。あなたがた、気概のある人たち。あなたがた、法律家たち。あなたがた、自分の権利を侵しているからといって、常に隣人を煩わせている人たち。あなたがそうしたことをするのは、地を相続するためである。キリストがいかにあなたを苛立たせ、あなたの知恵を御足で踏みつけておられるか見るがいい。主は云われるのである。「柔和な者は地を相続する」、と。結局のところ、非常にしばしば、私たちの権利を得る最上の道は、それを放っておくことである。私が全く確信するところ、あなたの人格を弁護する最も安全な道は、それについて一言も云わないことである。もしこの場所にいる誰もが私を中傷し、この上もなく激烈な侮辱を好き放題に口にすることにしたとしても、私があなたを告訴するようなことはないと完全に確信して良い。私はそんなことをするほど馬鹿ではない。私が常に注目してきたところ、ある人が何らかの中傷者に対して法廷で自分を弁護するとき、そうした人々は自分の敵の仕事を自分で引き受けてしまうのである。私たちの敵たちは、私たちが自分を傷つけるのでない限り、私たちを傷つけることはできない。いかなる人の人格も、その人自身によってでなければ、決して本当に傷つくことはない。柔和な者のひとりになるならば、あなたは地を相続するであろう。すべてを我慢し、すべてを期待し、すべてを信ずるがいい[Iコリ13:7]。そうすれば、この地上においてすら、最後には万事が最善におさまるであろう。

 あなたは、向こうにいる非常に体裁の良い紳士が見えるだろうか? 自分の教会に、あるいは会堂に、週に二回出席することを、成人してからこのかた決して欠かしたことがない人である。自分の聖書も読んでおり、家庭礼拝も行なっている。確かに巷に広まる噂によると彼はどちらかというと自分の労働者たちにつらく当たる方で、時にはその支払いにおいて厳格であるが、万人に正当な取り扱いをする。それ以上のことは全くしなくとも関係ない。この人は自分自身と非常に良い関係にある。彼は、朝起床すると、常に自分と握手し、自分は非常に卓越した人間であるといって自分にお世辞を云う。彼は普通、自分は表通りに住んでいると自負しており、その通りの中でも第一の人物でもある。もしあなたが彼に、神の御前における彼の状態について語りかけると、彼は、自分が天国に行かないようなことがあるとしたら誰も行けはしませんよ、と云う。というのも、彼は誰に対しても未払いをしておらず、厳格に廉直であり、彼の人格に後ろ指をさせる者などいないからである。彼は善良な人ではないだろうか? あなたは彼をうらやましく思わないだろうか? 自分で自分を完璧だと思うほど自分を高く評価しているのである。あるいは、それほど完璧ではなくとも、それでも非常に善良なために、ちょっとした助けがあれば、天の御国に入ることができると考えているのである。よろしい。さて、あなたには、教会の後ろの方に立っている、あのあわれな女が見えるだろうか? その目からは涙が流れている。前の方に来るがいい。奥さん。あなたの話を聞かせてほしい。彼女は恐れて前に来ようとしない。体裁の良い人々の前であえて話そうとはしない。だが、私たちはこのくらいのことは彼女から聞き知ることができる。彼女は最近、自分に罪が満ちていることを見いだした。そして、救われるには何をしなくてはならないかを知りたがっている。彼女に尋ねてみるがいい。彼女はあなたに、自分自身の功績など何もありませんと告げる。彼女の歌はこうである。「われ罪人の かしらなり。おゝ! あわれみよ、救わせ給え!」 彼女は決して自分の良い行ないゆえに自賛することはない。というのも、自分には何1つ良い行ないなどないと云うからである。彼女の義はみな、不潔な着物のようである[イザ64:6]。彼女は祈るとき、口をちりそのものにつけ[哀3:29]、目を天に向けようともしない[ルカ18:13]。あなたは、このあわれな女をあわれむ。あなたは、彼女と同じ立場に立ちたいとは思わない。いま私が述べたばかりのもうひとりの男性は、梯子の最上段に立っているではないだろうか。しかし、このあわれなな女は最下段に立っている。さて、福音が人々を扱うしかたを、少し見てみるがいい。――世界は引っくり返されている。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」[マタ5:6]。その一方で自分に満足しきっているあの男には、このことが彼の分け前として与えられる。――「律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにある」[ガラ3:10]。取税人や遊女たちのほうが、あなたより先に天の御国にはいっている[マタ21:31]。なぜなら、あなたは信仰による義を追い求めず、行ないによるかのように追い求めたからである[ロマ9:30-32]。それで、ここでもやはり、キリストがいの一番に宣べ伝えた説教において、世界が引っくり返されていることが分かる。

 さて、次の幸福の使信――7節にある――に目を向けるがいい。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」。このことについては、すでに述べた。あわれみ深い者は、この世では大して尊敬されない。――少なくとも、その人が無分別なほどあわれみ深い場合、あまりにも赦しすぎる人、あるいは、あまりにも寛大な人は、賢いとはされない。しかしキリストは、こう宣言される。あわれみ深かった者――あわれみ深く貧者の必要を満たし、あわれみ深く敵を赦し、無礼を見過ごしてきた者――は、あわれみを受けるのだ、と。ここでもまた、世界は引っくり返されている。

 「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」[マタ5:8]。この世は云う。「幸いなことよ、放蕩な生活にふけっている者は」、と。もしあなたが普通の人に、幸せな人とは誰かと訊いてみるとしたら、彼らはあなたに告げるであろう。「幸せな人とは、うなるほど金があって、それを湯水のように使って、何の制約も受けない人――人生を浮かれ踊りながら過ごし、酒をふんだんに飲み干す人――底抜けに飲み浮かれる人――大草原の野生馬のように、秩序という手綱を引かれることなく、理性によって抑制されることなく、罪の平原を何にも引き具されることなく、指図されることなく、抑えつけられることなしに駆け回っている人のことです」、と。これが、この世の幸せと呼ぶ人なのである。高慢な人、強大な人、ニムロデのごとき人、自分の思い通りのことをすることができ、聖潔の狭い道を守ることなどはねつける人がそれである。さて、聖書はそうではないと云う。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」。

   「幸いなるかな 罪人の
    愛し集える 場に寄りつかず
    その邪(あ)しき道 踏めるを恐れ
    嘲(あざ)む者の座 着くを憎む者(は)」――

みだらなことにつながるからといって、あることに触れることできず、自分の《主人》との交わりを損なうことになるからといって別のものに触れることができない者、そこでは祈れないからといって、こちらの歓楽の場に通うことができず、そこで一時間過ごすことも自分の《主人》が許容なさるとは思えないからといって、別の場に行くこともできない者。そうした者、心のきよい者は、清教徒的な道徳家よ、お堅い安息日厳守主義者よ、自主独立の精神を持っていない者よと云われる。だが、イエス・キリストは、すべてを包み隠さずに伝えている。というのも、主は、そうした者らこそ幸いな人、そうした者らこそ幸福であると云われるからである。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」。

 さて今、9節を見るがいい。それが何と世界を引っくり返していることか! ロンドンを歩き回るとき、私たちが町々の円柱や支柱の上、また私たちの公園門の上、その他の上に乗せているのはいかなる人々だろうか? この9節を読んで、それがいかに世界を引っくり返しているか見るがいい。巷の世界の最上辺の高みにそびえ立っているのは、ネルソンの腕なき片袖である。そこに彼は、同輩たちよりもひときわ高く上げられている。別の場所には、軍馬に乗った勇敢な軍人がいる。こうした人々こそ、世界があがめる英雄たちである。あなたの選ぶどんな帝国の首都にでも行ってみるがいい。そうすれば、あなたは、民にあがめられている人々、台座に乗せられている人々、彫像の記念碑が立てられている人々、わが国の聖ポール大寺院やウェストミンスター寺院に国葬されているような人々が、この9節で言及されているような人々では全くないことに気づくであろう。それを読んでみよう。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」。あゝ! だが、あなたは平和を作る人々をあまり頻繁にあがめることはないではないだろうか。交戦中の人々の間に割って入りその打撃を自分が受ける人――地にひれ伏して、他の人々に戦争をやめるよう嘆願する人――こうした人々こそ幸いなのである。彼らが高く掲げられることの何とまれなことか。彼らは普通は、尊敬できない連中としてわきにやられている。彼ら自身が他の人々にそうさせようとしているように見えるとしても関係ない。ここでは世界が引っくり返されている。血染めの軍服を着た戦士は見下げ果てた地面に押し入れられ、死んで腐らされている。だが、平和を作る者は高く掲げられ、神の祝福の冠がその頭に載せられており、いつの日か人々もそれを見るであろう。賞賛の念に打たれた彼らは、自分自身の愚劣さを嘆くであろう。彼らは戦士の血塗られた剣を賛美したが、人類の間に平和を作り出した人の慎ましい外套を引き裂いてきたのである。

 そして、私たちの《救い主》の説教をしめくくるにあたって、もう一度注意すべきは、この世の中には、常に憎まれてきた種類の人々がいるように思えるということである。――野生の山羊のように狩り立てられ、迫害され、苦しめられ、虐げられてきた種別の人々である。古のある神学者はこう云う。「キリスト者は、狼の頭のようにみなされてきた。狼があらゆる所でその頭を狙って狩られてきたように、キリスト者も地の果て果てまで狩り立てられてきたからだ」。そして、歴史を読んでいると、私たちはややもするとこう云いがちになる。「この迫害された人々は、幸いの中でも最も低い場所を占めている。のこぎりで引かれ、焼き殺され、自分の家が破壊されるのを目にし、家なき流人として地のあらゆる場所へと追い払われた人々――こうした、羊や山羊の皮を着て歩き回った人々――こうした人々は人間の中でも最もちっぽけであるに違いない」。そうではない。福音はこれらすべてを逆転させ、こう云う。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」[マタ5:10]。もう一度云う。こうした幸福の使信のすべては、この世の意見とは全く相容れないものであり、私たちはあのユダヤ人の言葉を引用して、こう云ってよかろう。「イエス・キリストは『世界中を引っくり返して来た者』です」、と。

 さて私は、ごく手短に話をするしかないようである。というのも私は、いかにキリストの福音が、世の様々な人格の立場において世界を引っくり返してきたかを示そうとすることに時間をかけすぎたために、他の何についても余裕がないのである。しかし、私が他の点について手短に列挙するのを忍耐していただけるだろうか。

 次に私が指摘しなくてはならないのは、キリスト教信仰が世界をその格言において引っくり返すということである。私はこのことを非常に明確に示すいくつかの聖句を引用するにとどめよう。「昔の人々には、『目には目で、歯には歯で。』と言われていました。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません」*[マタ5:38-39参照]。私たちひとりひとりによって一般に考えられているところ、私たちは誰にも自分の権利を蹂躙されるのを許すべきではない。だが、《救い主》はこう云われる。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」[マタ5:40]。「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい」[ルカ6:29]。もしもこうした戒めが守られたとしたら、これは世界を引っくり返すではないだろうか? 「昔の人々には、『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われていました」*[マタ5:43]。しかしイエス・キリストは云われた。「すべての人を愛しなさい」。主は私たちに私たちの敵を愛し、私たちに意地悪く当たる人々のために祈るよう命じておられる。主は仰せになっている。「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです」[ロマ12:20]。これは、まさに世界を引っくり返すことである。というのも、これはわが国の軍艦や、わが国の軍人たちをどうしてしまうだろうか? もし私たちが、今は私たちの大砲を突き出している砲門で、どこかの炎上している敵国の町――例えば、燃え上がるセヴァストポリ――に宛てて、自分の家から追い出された、家なしの住民たち用に、麦酒の大樽や、山ほどのパンや、衣類を送って、彼らの必要を満たすことにするとしたら、どうなるだろうか? それは、あらゆる人間的政策の逆転となるであろう。だがしかし、それは、結局はキリストの律法を実践することでしかない。来たるべき時代もそうなるであろう。私たちの敵たちは愛され、私たちの敵兵には食料があてがわれるであろう。また、今時には、こうも云われている。人が山ほどの富を積み上げ、金持ちになるのは良いことだ、と。だが、イエス・キリストは世界を引っくり返された。というのも、主はこう云われたからである。ある金持ちがいた。いつも紫の衣を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らすなどしていた。彼は、畑が豊作となったためにこう云った。「あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建てよう」。だが、主は云われた。「愚か者!」[ルカ16:19; 12:18-20] これはこの世のあらゆるものを引っくり返している。人は参事会員になるかもしれない。あるいは、ロンドン市長になるかもしれない。そして、父親たちは自分の息子たちの頭をぽんと叩いて、こう云ったであろう。「あれは、あの人が一所懸命倹約して、気を遣ったからなんだぞ。それで、どんなに立身したか見るがいい。あの人は、上々の収穫を得たときには、それを貧乏人にやっちまったりしなかった。あそこにいる、大盤振舞の奴とは違ってな。奴は、一生働き詰めで、楽隠居なんか全然できない。あの人はびた一文無駄遣いしなかったんだ。――誰それさんのように、いい子になるんだぞ。そして、お前も偉くなるんだ」。しかし、キリストは云われた。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」[ルカ12:20]。あらゆることが引っくり返されている。また、私たちの中の他の人々はこう云うであろう。私たちは毎日非常に注意して、常に将来を見越しているべきであり、何が起こるか、常にやきもきしていなくてはならない、と。だが世界を引っくり返すことに、イエス・キリストはこう云われる。「烏のことを思い出しなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」*[マタ6:26]。私は心から確信するものだが、今日の商売上の格言は、みなキリストの格言と真っ向から反している。しかし、私はこう反論されるであろう。「商売は商売だ」、と。しかり。私は商売が商売であることは承知している。だが、商売は、そうした務めとは全く関係がない。おゝ! こうしたあり方が変えられ、あらゆる人が自分の務めを信仰的なものとし、信仰を自分の務めとするようになればどんなに良いことか。

 この点については、さほど長々とあなたを引き留めなかった。それゆえ私は、悠々と第三の点に言及できよう。いかにキリストは、あなたの宗教的な概念に関して、世界を引っくり返してこられたことか。何と、人類の多数の信ずるところ、もしある人が救われようと願うならは、そうした願いしか必要ではないという。わが国の多くの説教者は実際、こうした世的な格言を宣べ伝えている。彼らは人々に、あなたがたは自分で自分にそう願わせなくてはならない、と告げる。さて、いかに福音がそれを覆しているか聞くがいい。「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」[ロマ9:16]。この世は、普遍的宗教をいだきたがりもする。だが、いかにキリストがそれを転覆させておられることか。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく」[ヨハ17:9]。主は私たちを人々の間から予定された。「神の予知に従い、御霊による聖めと、信仰によって、選ばれた人々」*[Iペテ1:2; IIテサ2:13]。「主はご自分に属する者を知っておられる」[IIテモ2:19]。いかにそれは、世界の宗教観のすべてと逆行していることか! この世の宗教はこうである。――「行ないなさい。そうすれば、いのちを得ます」*[ルカ10:28]。キリストの宗教はこうである。――「信じれば、いのちを得ます」。私たちは、もしある人が曲がったことをせず、真面目で、廉直であれば、天の御国に入るだろうと云おうとする。だがキリストは云われる。――そうしたことは行なわれるべきではあるが、それでも、それがあなたをきよめることは決してない。「律法の行ないのもとにある人々はすべて、のろいのもとにある」*[ガラ3:10]。「律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいない」[ガラ2:16]。「信じれば、いのちを得ます」は、まさにあらゆる人間的概念を覆すものである。キリストに身をゆだねよ。また、キリストに信頼せよ。良い行ないは、その後でなせ。だが、何にもまして最初には、木の上で死なれたお方に信頼をかけよ。これは人のあらゆる概念を転覆するものである。そして、これによって、定命の者たちは常にこれに逆らうのである。人間の心が今ある通りのものである限りはそうである。おゝ! 私たちが福音を知っていたらどんなに良いことか! おゝ! 私たちが福音を感じていたらどんなに良いことか! というのも、それはあらゆる自分を義とする思いを覆し、あらゆる高ぶった目つき、あらゆる高慢な事がらを投げ倒すことになるからである。

 II. そして今、愛する方々。もうしばし時間を与えてほしい。私が努めて示したいと思うのは、《この世において真実なことは、心においても真実である》ということである。しかしながら、種々の個々の題目について詳細に語る代わりに、いま語ったばかりの点を吟味すべき主題としてみたい。

 人は、1つの小世界であり、神は、外世界においてなさることを、この内世界においても行なわれる。もしあなたがたの中の誰かが救われたければ、あなたの心は引っくり返されなくてはならない。いま私はあなたに訴え、あなたに尋ねよう。果たしてあなたはこのことを感じたことがあるだろうか?――その意味が分かっているだろうか?

 第一のこととして、あなたの判断は引っくり返されなくてはならない。あなたがたの中の多くの人々はこう云えないだろうか? あなたがいま神の真理であると信じていることは、あなたの以前の肉的な概念とは、途方もなく対極にあるものである、と。何と、もし誰かがあなたにこう告げていたとしたらどうだろうか。あなたは、無代価の主権的な恵みという、分け隔てする諸教理を信ずることになるのだ、と。あなたは相手を面と向かって笑い飛ばしていたであろう。「何と! ぼくが選びの教理を信じるだって? 何と! ぼくが限定救済の教理や、最終的堅忍の教理を奉ずるだって? チェッ! 馬鹿馬鹿しい! ありえない!」 しかし、今やあなたはそれを奉じており、以前は筋が通らず不公正だと思っていたことが今やあなたにとっては神の栄光と、人の永遠の益のためになるものとなっているのである。あなたは、かつて軽蔑していた教理に口づけすることができ、それを蜜蜂の巣のしたたりよりも甘いものとして、おとなしく受け入れている。以前は、それを蝮の毒や、苦味や、苦よもぎそのものと考えていたとしても関係ない。しかり。恵みが心に入るとき、そこでは私たちの一切の意見が引っくり返され、イエスの偉大な真理が着座して私たちの魂を統治するようになるのである。

 また、あなたの一切の希望は完全に変化していないだろうか? 何と! あなたの希望は以前はことごとくこの世のことであった。金持ちになれさえしたら、また、出世して栄誉を得られさえしたら、あなたは幸福になれていた! あなたはそれを待望していた。あなたが期待していたすべては、かの大水のこちら側にある楽園であった。だが今、あなたの希望はどこにあるだろうか?――地上にはない。というのも、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからである[マタ6:21]。あなたは、人の手が積み上げたのではない都を待ち望んでいる。あなたの種々の願いは、かつては下卑た肉的なものだったが、今や天的なものである。あなたはそう云えるだろうか? おゝ! あなたがた、この会衆の何にいるあらゆる方々。あなたは、あなたの希望と願望が変わったと云えるだろうか? あなたは下の方ではなく、上の方を見つめているだろうか? あなたは地上で神に仕え、永遠に神を喜ぶことを望んでいるだろうか? それとも、今なお、「何を食べようか、何を飲もうか、何を身にまとおうか」*[マタ6:25]、と考えることで満足しているだろうか?

 さらに、これはあなたの一切の快楽が覆されることである。あなたはかつては居酒屋を愛していたが、今はそれを憎んでいる。かつては神の家を憎んでいたが、今やそれはあなたの愛してやまない住まいである。放歌高吟や、日曜版の新聞や、みだらな小説――これらはみなあなたの嗜好にとって甘やかなものであった。だが、あなたは、かつて自分を魅了した本をみな焼き捨て、今やあの本棚の裏側から引っ張り出した埃っぽい聖書が手に取られ、家族の食卓に大きく開かれて載っているのである。そして、それが朝から晩まで読まれ、大いに愛され、大いに尊ばれ、楽しまれているのである。安息日は、かつては一週間の中で、あなたにとって最も退屈な日であった。あなたは、もしあなたが貧乏だったとしたら、ぞろっとした格好で戸外をぶらつくか、あるいは、金持ちだったとしたら自分の客間で過ごして、晩には来客を迎えていた。今は、そうする代わりに、あなたは、一緒に過ごす人々を、生ける神の教会の中に見いだし、主の家を自分の友人をもてなす客間としている。あなたの饗宴はもはや葡萄酒の宴会ではなく、キリストとの交わりという宴会である。あなたがたの中のある人々は、かつては劇場や、演奏場や、賭博場をこよなく愛していた。今のあなたは、そうした場所の上に大きな暗黒の呪詛のしるしが見える。そして決してそこに行くことはない。今やあなたが足繁く通っているのは、祈祷会であり、教会集会であり、義人の集いであり、万軍の主なる神の御住まいなのである。

 驚嘆させられるのは、いかに大きな変化を福音がある人のにさえもたらすかである。何と、それはその人の家を引っくり返すのである。あの炉棚を見るがいい。――そこには、薄汚れた下手くそな絵か、みすぼらしい版画があり、その題材は、それそのものの表現様式よりも下劣なものである。だが、その人がイエスに従うようになるとき、彼はそれを取り下ろす。そして、獄中にいるジョン・バニヤンか、治安判事の前に立つ彼の妻の版画、あるいはアテネで説教する使徒パウロの版画、さもなければ、何か聖書的なものを表現している古き良き主題の版画を載せることにする。戸棚には、一組の骨牌とその点数表がある。だが彼はそれらを放り出し、その代わりにそこに、もしかすると月刊誌か、あるいは、何冊か古い神学書を入れるかもしれない。そこここには、《信仰小冊子協会》の出版物のいずれか、あるいは、一冊の注解書がある。あらゆるものが、そこでは引っくり返されている。子どもたちは云うであろう。「父さんは、ほんとに変わったよね」、と。彼らは今まで一度もこんな暮らしをしたことがない。父親が時々夜に酔っ払って帰って来ると、子どもたちは二階に駆け上がり、彼がやって来る前に寝床にもぐり込んでしまうものだった。それが今では、小さなジョンや小さなセイラは窓辺に腰かけて、父親が帰宅するのを待っているのである。そして彼らは、とことこと町通りを駆け下っては父親を出迎え、彼はひとりを腕で抱きかかえ、もうひとりと手をつないで家に帰って来るのである。彼は、以前は彼らに、『消え失せろ。鬱陶しい心配なんか』だの、それにも劣るような歌を教え込んでいたが、今では彼らに、「いとも優しく おだやかなイエス」について告げたり、彼らの口に何か甘やかな昔ながらの歌を口ずさませている。かつての日曜日の午後には、一杯気分の賑やかな連中が押し寄せて来ては、乱痴気騒ぎが行なわれたものだが、そうしたことはことごとくなくなった。母親は夫に微笑みかける。今や彼女は幸せな女となっている。もはや彼が社会の最も下劣な部分にどっぷりと漬かったり、最悪の罪に誘惑されて恥ずべきふるまいをしたりしないと分かっているのである。さて、たといある人の心を取り出して、新しい心をその人にはめ込むことができたとしても、それがやはり生まれながらの心でしかなかった場合、神が及ぼされた変化の半分もうまい具合に働かないであろう。神は石の心を取り出して、肉の心を入れてくださるのである。――

   「ゆだねし心 従い服すは
    愛する贖罪主(きみ)の 御座の前のみ
    ただキリストの 声のみ聞こえ
    イェスおひとりぞ 統べ給わん」。

ならば、私はこの問いをもう一度あなたに発したい。あなたは今まで引っくり返されたことがあるだろうか? あなたのつき合う人々についてはどうだろうか? あなたは、誰よりも声高に悪態をつきまくり、べらべら語りまくり、底向けの大ぼらを喋りまくる人々を最も愛していた。今やあなたが愛しているのは、きわめて熱心に祈りをささげ、ほとんどイエスのことしか語らないような人々である。あなたに関わる一切のことが一変してしまっている。もしあなたが、町通りを歩いて来るかつての自分に出会うとしたら、あなたには噂で聞く以外には、彼と知り合おうとはしないであろう。あなたは彼とはもはや無縁である。時にはその老紳士はあなたの家を訪れ、あなたを誘惑して逆戻りさせようとし始める。だが、あなたは自分にできる限り早く彼を戸口の外へ追い出して云う。「失せろ! 私はお前と知り合いだったときには一度も満足な暮らしができなかった。そのときは襤褸の上着を肩にひっかけ、有り金全部を居酒屋の亭主にくれてやっていたものだ。私は神の家に全然行かず、私の《造り主》を呪っては、罪に罪を重ね、自分の首に石臼をゆわえていた。だから、二度と来ないでくれ。お前とは何の関わりも持ちたくない。私はキリストとともに葬られ、キリストとともによみがえったのだ。私はキリスト・イエスにあって新しい人間なのだ。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなっているのだ」。

 しかしながら、この場には、それとは違う社会階級に属している人々もいる。そうした人々は、こうした事がらにふけることはありえなかった。だが、あゝ! 紳士ならびに淑女の方々。もしあなたが回心することがあるとしたら、あなたは、これまで生を受けたことのあるいかなる貧乏人とも同じくらい古い自分が一掃されるのを経験するに違いない。伯爵や、公爵や、貴族の救いにおいても、乞食や百姓の救いにおけるのと同じくらい真に引っくり返されることがあるに違いない。上流階級にも、下層階級と同じくらい多くの罪があり、時には、それ以上に多くの罪がある。彼らにはより多くの光と、知識と、影響力があり、彼らが罪を犯すとき、彼らは自分を罪に定めるだけでなく、他の人々をもそうするからである。おゝ、あなたがた、金持ちたち。あなたも変化をこうむっただろうか? この世の浅薄な物事はあなたにとって胸を悪くするようなものとなっているだろうか? あなたは、よくあるもったいぶった言葉や、上流生活のしきたりから、むかつく思いで顔を背けているだろうか? それを捨てているだろうか? そして、今やこう云えるだろうか? 「私はこの世の中にいるが、この世のものではない。その虚飾と空虚さを私は遠ざける。その高慢とその栄光を足で踏みにじる。これらは私にとって無である。私は、悪評を受けようが好評を博そうが、私の《主人》にその十字架を負ってついて行く」、と。もしそうでないとしたら、また、もしあなたが変えられていないとしたら、覚えておくがいい。何の例外もなく、1つの真理が万人に当てはまるのである。――「あなたがたは、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」*[ヨハ3:3]。そして、それは実質的には、私の述べる試金石となる。あなたがたは徹底的に新しくされ、引っくり返されていなければ、救われることはできない。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。というのも、信ずる者は聖められ、新しくされる――最後には救われる――が、信じない者は大いなる神の精算の日に投げ捨てられるに違いないからである。

 願わくは主があなたを祝福してくださるように。イエスのゆえに!

  
 

引っくり返された世界[了]

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