HOME | TOP | 目次

タルソのサウロの回心

NO. 202

----

----

1858年6月27日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ』」。――使26:14


 何と驚異的なへりくだりによって《救い主》は、サウロのような見下げ果てた男に目を留められたことか! いと高き天の御座に着き、贖われた者らが美しく歌う永遠の調べと、智天使や御使いたちの万軍から発される熾天使的な十四行詩との真中にいた《救い主》は、異様なことに、その威光から身を落とし、一個の迫害者に語りかけられたのである。御父の御座の前で、昼となく夜となく、ご自分の教会の進展のため嘆願することに携わっていた主が、いわばそのとりなしを中断して、ご自分を不倶戴天の敵としていた者に個人的に語りかけることがおできになったのは、まことにへりくだりのゆえであった。また、この《救い主》の心をして、サウロのような男に向かって語りかけさせたのは、何という恵みだっただろうか? この男は主の教会に対する脅かしの意に燃えて[使9:1]いたのである。彼は男も女も引っ立てて投獄していなかっただろうか? すべての会堂で、無理矢理彼らにイエス・キリストの御名をけがさせようとしていなかっただろうか? だのに今、イエスご自身が間に入って、彼を正気に返らせなくてはならないというのである! あゝ、もしも雷電が大気を震わせつつ、瞬時にこの男の心臓に達したのだとしたら、私たちも驚嘆しなかったであろう。あるいは、《救い主》の口が呪いを吐き出していたとしたら、驚愕しなかったであろう。主ご自身、その生前には迫害する者を呪わなかっただろうか? こう仰せにならなかっただろうか? わたしのこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましである、と[マコ9:42]。しかし今、そうした言葉によって呪われている男が、自分の迫害してきたお方によって祝福されようとしているのである。この男が、これまで自分の手を血で汚してこようが、今はその手に他の者らを拘引する委任状を握っていようが、先にはステパノを石で打ち殺した者らの着物の番をしたことがあろうが、それでもこの《主人》は――天の《王》は――、自ら天空の高みから語りかけ、この男に《救い主》の必要を感じさせ、この男を尊い信仰にあずからせずにはおかなかった。私は云うが、これは驚嘆すべきへりくだりであり、比類なき恵みである。しかし、愛する方々。この《救い主》がいかなる方であったかを思い起こせば、主がこのようになさったことも、さほど不思議ではなくなってくる。主は、これよりもはるかに大きなことをしてこられたからである。主は、星々のちりばめられた天の御座を離れて地上に降り、苦しみを受け、血を流し、死なれなかっただろうか? むしろ私は、ベツレヘムの飼い葉桶を、また、ゲツセマネの冷酷な園を、また、それよりもさらに恥辱に満ちたカルバリを思うとき、この《救い主》がいかなる恵みの、あるいは、いかなるへりくだりの行為をなさろうとも驚きはしない。あれほどのことがされた以上、それを越えたものがありえるだろうか? もし主が天からよみへ身を落とされたとしたら、それ以上に大きく身を落とすことなど成し遂げられようか? もし主ご自身の御座が空席にされなくてはならないとしたら、また、もし主ご自身の冠が手放されなくてはならないとしたら、また、もし主の《神格》が肉で覆われ、主の神性の輝きが人性という襤褸をまとわなくてはならないとしたら、私は云うが、主が身を落としてタルソのサウロにすら語りかけ、彼の心をご自身に引き寄せられたとしたも、何の驚きがあるだろうか? 愛する方々。私たちの中のある者らも、また驚きはしない。というのも、私たちはこの使徒以上に大きな恵みを受けていないとはいえ、それに劣らぬ恵みを有しているからである。《救い主》は、他の人々にも聞こえるような声で天から私たちに語りはしなかったが、私たちの良心に聞こえる声で語られた。私たちは、主の子どもたちの血に飢えてはいなかったであろうが、どす黒く、憎むべき罪を有していた。だが、主は私たちを止めてくださった。私たちに優しく云い寄ったり、私たちを脅かしたりするだけでよしとせず、また、ご自分に仕える教役者たちを私たちのもとに遣わして、私たちのなすべき義務を警告するみことばを与えるだけでよしとせず、主は自らやって来ようとされた。そして、愛する方々。あなたや私、この恵みを味わい知った者はこう云うことができよう。パウロを救ったのは比類なき愛ではあるが、類例のないものではない、と。主は私たちをも救われ、同じ恵みにあずかる者としてくださったからである。

 私が今朝、特に語りかけたいと思っているのは、主イエス・キリストを恐れておらず、むしろ逆に、主に反抗している人々である。とはいえ、まず間違いなくこの場には、古のような教会への迫害が復興するのを見たいと願っている人は誰ひとりいないであろう。いかにキリスト教信仰を憎んでいようと、スミスフィールドに再び火刑柱が立ち並ぶ姿や、聖徒たちを焼いて燃える堆積を見たいとは思っていないであろう。聖徒らを憎む人々でさえ、そのようなしかたで憎んではいないであろう。時代の常識は、絞首台や、剣や、地下牢のことを非難している。神の子どもたちは、少なくともこの国においては、そうした種類のいかなる政治的迫害からも全く安全である。だが、これはきわめてありがちなことだが、今朝この場にいるある人々は、万策を講じても、また、自分の持てるあらゆる力を尽くしても、主の御国の進展に反抗し、そうすることで主の憤りをかき立てているであろう。ことによると、あなたは、私が次のような描写をすれば、そこに自分自身を認めるかもしれない。あなたは、神の家の中に入ることがめったにない。事実あなたは、いかなる義人の集いも軽蔑している。あなたは、あらゆる聖徒が偽善者であり、信仰告白者などみな勿体ぶった偽善家であると考えており、時には、臆面もなくそう公言する。しかしながら、あなたには細君があり、彼女は牧師の語る言葉に感銘を受けている。彼女は神の家に行くことを熱望し、天と彼女の心だけが、いかにあなたが彼女を嘆かせ、その思いを苛んでいるかを知っている。いかにしばしばあなたは、彼女の信仰告白ゆえに彼女を嘲り、あざ笑ってきたことか! あなたは、彼女が信仰ゆえにずっと善良な婦人になったことを否定できない。あなたは告白せざるをえない。確かに彼女は、あなたの気晴らしや歓楽のすべてにつき合うことはできないが、それでも、彼女にできる限りにおいて、あなたへの愛に満ちた、情愛深い妻である、と。もし誰かが彼女をけなすようなことがあれば、たちまちあなたは男らしく彼女の人格を弁護しようとするであろう。だが、彼女の信奉する宗教こそ目の上のたんこぶである。ごく最近も、あなたは彼女を、日曜日にはどこにも行かせないぞと脅かしたばかりである。神の家に行こうとするなら、もうお前と同じ家に住むことはできない、と宣言したのである。さらに、あなたには小さい子どもがいる。その子が《日曜学校》に行くことに、あなたは反対してはいなかった。そうすれば、あなたが日曜日にぞろっとした格好で煙管をふかす邪魔がいなくなるからである。あなたは、子どもに煩わされたくはないと云う。それゆえ、彼らをまとめて《日曜学校》に送り出せるのを嬉しく思っていた。だが、その子は心に感銘を受けるようになってきた。そして、あなたは、その子の心の中にキリスト教信仰が根づいているのを見ずにはいられなくなった。それゆえ、それが気に入らないのである。あなたは、その子を愛してはいるが、今のようなその子でなくすためなら何も惜しまないであろう。その子の中からキリスト教信仰の火花をことごとく踏み潰せるなら、何も惜しまないであろう。しかし、ことによると、あなたの事情はさらに次のようなものかもしれない。あなたは主人であり、体裁の良い地位を占めている。あなたの下には多くの召使いがいる。だが、あなたは他人がキリスト教信仰を告白することに我慢がならない。あなたも知っている他の主人たちは、自分の召使いにこう云っている。「好きにするがいい。お前が立派なしもべである限り、お前の宗教上の意見についてはあれこれ云わないよ」。しかしあなたは、少しそれとは逆かもしれない。あなたは、誰かをその宗教ゆえに追い出しはしないだろうが、時折その男をあざ笑い、ちょっとした過ちでその男の揚げ足を取ってはこう云う。「あゝ! それがお前のキリスト教信仰かい。たぶん、こうしたことは会堂で学んだのだろうね」。そして、あなたへの義務をできる限り果たそうとしている、そのあわれな男の魂を嘆かせるのである。あるいは、あなたは若者であって、卸売店か商店に雇われている。ところが、あなたの店員仲間のひとりは最近キリスト教信仰に心を寄せており、膝まずいて祈っている姿が見受けられる。――最近のあなたは、何とひどく彼をからかってきたことか。あなたと他の者たちは、あわれな野兎を追う猟犬の群れよろしく徒党を組み、彼はどちらかというと小心な気立てをしているため、あなたの前では口をつぐんでいるかもしれない。あるいは、口をきくとしても、その目は涙ぐんでいる。あなたによって心傷つけられたからである。さて、これは昔に薪を燃やしていたのと同一の精神である。聖徒を拷問台の上で引き延ばすか、そのからだをばらばらに切り刻むか、羊や山羊の皮を着せて歩き回らせるかした精神である。たとい私がまだあなたの人格そのものを云い当てていないとしても、この話を終える前にはそうするであろう。私が語りかけたいと願うのは、特にあなたがたの中でも、言葉か行ないか他のしかたによって神の子どもたちを迫害している人々である。あるいは、もしあなたが「迫害」というような激しい言葉を好まなければ、彼らを笑い物にし、彼らに反対し、彼らの心の中における良い働きに終止符を打とうとして努めている人々である。

 私はキリストの御名によって、まず、この問いをあなたに投げかけたい。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか?」 第二のこととして、、キリストの御名によって、あなたを説諭したい。「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」。それから、もし語られたことを神が祝福し、あなたの心に触れてくださるとしたら、《主人》は、使徒パウロにしたように、あなたにもいくつかの慰めの言葉を与えてくださるであろう。主は云われた。「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである」[使26:16]。

 I. では第一のこととして、私たちが考察したいのは、《イエス・キリストが天からパウロに発された問い》が、今朝のあなたにも問いかけられている、ということである。

 最初に、これがいかに個人的な問いかけであったかに注意するがいい。「サウロ、サウロ。なぜあなたはわたしを迫害するのか?」<英欽定訳> 私があなたに説教するとき、私は集会としてのあなたがた全員に語りかけざるをえない。ごくまれな場合を除いて、私がひとりの個人を抜き出して、その性格を描写することは不可能である。御霊の御手の下にあって、そうしたことも時々なされはするが、大概の場合、私は全体としての性格を描写し、それをまとめて扱わざるをえない。しかし私たちの《主人》はそうではない。主は天からこう仰せにはならなかった。「サウロ。なぜ会堂はわたしを迫害するのか? なぜユダヤ人はわたしを信ずる信仰を憎むのか?」 否。それよりずっと直接に関わりのあるものとして問われた。――「サウロ、サウロ。なぜあなたはわたしを迫害するのか?」 もしそれが一般的な云い方で問われたとしたら、使徒の心をそれていったであろう。的を外した矢のように、心臓に突き立てようとして射られたのに、肌を擦りむくだけで終わったであろう。だが、それが個人的なものとしてやって来たとき――「なぜあなたはわたしを迫害するのか?」――、それを避けることはできなかった。主に願わくは、この問いがあなたがたの中のある人々にとって個人的なものとなるように。この場にいる私たちの中の多くは、自分の魂に対する個人的な説教を聞いたことがある。あなたは覚えていないだろうか? キリストにある愛する兄弟たち。あなたが最初に心を刺されたとき、いかにその説教者が個人的であったことか。私はよく覚えている。私には、自分がその場にいる唯一の人間であるかのように思われた。まるで黒い壁が私の回りに巡らされ、説教者とともに閉じ込められたようであった。刑務所の中の囚人が、ひとりひとり悔罪所に座り、教戒師とだけ顔を合わせているかのようであった。彼の語ったことはみな私を目がけて語られたと思った。私は、誰かが私の人格を知って、彼に手紙を書き、何もかも告げたのだ、それで彼は個人的に私をつつき出したのだと確信したい気分だった。何と、私は、彼がその目を私に据えていると思った。そして私には彼がそうしていたと信ずる理由がある。だが、それでも彼は、私の事情を何も知らないと云った。おゝ、願わくは人々が、いま説教される言葉に耳を傾けるように。そして、耳の傾けられた言葉を神が祝福してくださり、彼らがそれを自分自身の心に個人的に当てはまるものと感じることができるように。

 しかし、やはり注意するがいい。――使徒は、誰が迫害されているかについて、それなりに知らされた。もしあなたがサウロに、誰を迫害しているのかと尋ねたなら、彼は答えたであろう。「さるペテン師を持ち上げている、何人かのあわれな漁師たちだ。私は奴らを鎮圧しようと決心しているのだ。何と、奴らが何者だというのだ? 奴らは、ど貧民もいいとこの、社会の屑で、かすなのだ。もし奴らが君主や王たちだったとしたら、私たちも奴らの意見を放っておいたかもしれない。だが、このあわれで、みじめで、無知な連中がのぼせあがっているのを、なぜそのままにしておかなくてはならないのか、私には分からない。だから私は奴らを迫害するのだ。それだけでなく、私が迫害している連中の大半は女たちなのだ。――あわれで無知な生き物だ。女どもが、祭司たちを差しおいて自分で判断する権利などどこにあるのだ? 奴らに自分の意見を持つ権利などない。それゆえ、私が奴らをその馬鹿げた間違いから引き離すことは完全に正しいのだ」。しかし、イエス・キリストがそれをいかに異なる光で照らされたか見てとるがいい。主は、「サウロ、サウロ。なぜステパノを迫害するのか?」、とも、「なぜダマスコの人々を獄に引きずっていこうとしているのか?」、とも仰せになっていない。否。――「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか?」 あなたは、このことをこうした光に照らして考えたことがあるだろうか? あなたは自分のあわれな召使い、綿麻物の上着を着た男をつかんでいる。彼は何者でもない。あなたは彼を笑い物にできる。彼は誰にもそれを告げないだろうし、たとい彼がそうしたところで、あなたがそのために召還されて調書を取られるようなことはないであろう。彼は何者でもないからである。あなたは、公爵や伯爵をそのように笑い物にしようなどとはすまい。あなたは、そのような人々の前にいるときには行儀に気をつけるであろう。だが、この男は貧しいため、あなたは彼の信仰を存分に笑い物にする自由が与えられていると思っている。しかし、覚えておくがいい。その綿麻物の上着の下には、イエス・キリストご自身がおられるのである。あなたが、キリストの兄弟たちの最も小さい者のひとりにそうしたことを行なってきた限りにおいて、あなたはそれをキリストに対して行なってきたのである。あなたには、こうした考えが浮かんだことがないだろうか? あなたが彼を笑い物にしたとき、あなたは彼ではなく彼の《主人》を笑い物にしていたのである。そう思ったことがあろうとなかろうと、これは大いなる真理である。イエス・キリストは、ご自分の民に加えられたあらゆる危害を、ご自分に対してなされたものであるかのように受け取っておられる。あなたは、細君がたびたび神の家に通いたがるからというので、先日の夜、彼女を家から閉め出したではないだろうか。彼女が真夜中の寒気の中で震えながら立っていたとき、あるいは、中に入れてちょうだいとあなたに頼み込んでいたとき、あなたの目が大きく開いていさえしたら、あなたには見えたであろう。いのちと栄光の主がそこで震えている姿が。そして、主はあなたにこう云っていたかもしれない。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか?」 そのときには、あなたもそれが、今のあなたが思っているよりも非常に大きな罪であることが見てとれたであろう。あなたは先だって小さな子を笑い物にした。その子が、その単純な賛美歌を歌っており、見るからに心から歌っていたからである。あなたには分かっていただろうか?――あるいは、そのとき分かっていなかったとしても、今なら分かるだろうか?――あなたはキリストを笑い物にしていたのである。その子を嘲ったとき、あなたはその子の《主人》を嘲っていたのであり、イエス・キリストはそのあざ笑いを、ご自身に対して発された憤りとして、ご自分の大いなる書物に書き留められたのである。「なぜわたしを迫害するのか?」 もしあなたがたが天で御座に着いているキリストを目にし、ご威光の光輝の中で統治しておられるキリストを目の当たりにすることができたとしたら、あなたがたはその主を笑い飛ばしたいと思うだろうか? もしあなたがたが、世を審くために来られるその大いなる御座に座している主を見ることができたとしたら、あなたがたは主を笑い飛ばしたいと思うだろうか? おゝ! すべての川が海に流れ込むように、教会の苦しみというすべての小川はキリストに流れ込んできた。雲は、雨をたっぷり含んでいるとしたら、それを地上に絞り尽くす。そしてキリスト者の心が悲哀に満ちているとしたら、それは自らをイエスの御胸に注ぎ出すのである。イエスは、ご自身の民の悲哀すべての偉大な貯水池である。そして、主の民を笑い物にすることによって、あなたは、その貯水池をなみなみと満たす助けをしているのであり、いつの日かそれは、その憤怒がみりみりと張り裂け、その大水があなたをさらい、あなたの家が築かれている砂の土台は崩れ去る。そのとき、あなたがたは何をしようというのだろうか? あなたがたは、自分が嘲ってきたお方、またその御名を軽蔑してきたお方と顔を合わせて立つことになるのである。

 この問いを別のしかたで云い表わしてみよう。これは非常に筋の通った問いであり、答えを要求しているように思われる。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか?」 「サウロ」、と《主人》は仰せになったのであろう。「わたしがお前を傷つけるような何を行なったというのか? わたしが地上にいたとき、わたしはお前の人格を傷つけるようなことを一言でも云っただろうか?――お前の評判を台無しにするようなことをしただろうか?――お前の人となりを損なっただろうか?――お前を悲しませるようなことを一度でもしただろうか?――お前の悪口を告げただろうか? わたしがお前に何の危害を加えたといのか? なぜお前はそれほど私に向かって怒りを燃やしているのか? たといわたしがお前の不倶戴天の敵だったとしても、また、お前の顔につばを吐きかけたとしても、いま以上に激しい怒りをお前がわたしにいだくことはなかっただろう。しかし、人よ。なぜお前は一度もお前を傷つけたことがない者に怒っているのか?――お前に何の害も加えたことのない者に向かって。おゝ! なぜわたしを迫害するのか? わたしの人格に、それに値するような何があるというのか? わたしはきよく、聖なる者、罪人たちと一線を画した者ではなかっただろうか? わたしは巡り歩いて良いわざをしていなかっただろうか? わたしは死人をよみがえらせ、らい病人を癒した。飢えた者を養った。裸の者に着る物を与えた。そのうちのどのわざのために、わたしを憎むのか? なぜわたしを迫害するのか?」 この問いは今朝、同じようなしかたで、あなたに突き入るものである。あゝ! 人よ。なぜあなたはキリストを迫害するのか? 主はこの問いをあなたに突きつけておられる。一体いかなる害を主はあなたに加えたことがあっただろうか? キリストが何らかのしかたであなたから略奪したり、盗んだり、あなたを傷つけたりしたことがあっただろうか? 主の福音が多少なりともあなたから人生の慰めを取り去ったり、あなたに損害を与えたことがあっただろうか? まさかそうだなどと云えはしないであろう。もしそれがジョー・スミスのモルモン教だったとしたら、あなたがそれを迫害するとしても不思議ではない(とはいえ、そのときでさえ、あなたにそうする権利はないが)。というのも、それはあなたの最愛の妻をあなたから奪い去りかねないからである。もしそれが社会の根幹をむしばむような不潔で好色な組織だったとしたら、あなたも、それを迫害することにおいて自分は正しいと思って良いであろう。しかし、キリストは、ご自分の弟子たちに教えたことがあるだろうか? あなたから奪えとか、あなたを騙せとか、あなたを呪えと。主の教理は、まさに逆を教えていないだろうか? また、主に従う者たちは、自分の《主人》と自分自身に対して忠実であるときには、まさにその逆ではないだろうか? あなたを全く傷つけることのない人をなぜ憎むのか? あなたの邪魔だてをしない宗教をなぜ憎むのか? あなたが自分ではキリストに従おうとしないとしても、他の人々にそうさせておくことがなぜあなたを傷つけるだろうか? あなたは、それは自分の家族を傷つけるのだ、と云う。方々。それを証明していただきたい。それはあなたの細君を傷つけただろうか? 彼女のあなたに対する愛は前よりも減っただろうか? 彼女は前よりも従順でなくなっただろうか? まさかそうだなどとは云えまい。それはあなたの子どもを傷つけただろうか? あなたの子どもは、神を恐れるようになったからといって、父親に対する敬意を減じただろうか? 自分の《贖い主》を何にもまして愛するようになっているからといって、前よりもあなたを好きでなくなっただろうか? いかなる点でキリストはあなたがたの中の誰かを傷つけたことがあるだろうか? 主はあなたを、そのあふれるような摂理で養ってこられた。あなたがきょう身につけている着物は主の気前の良い賜物である。あなたの鼻腔にある息は、主があなたのために取っておかれたものである。では、あなたは、そのことのゆえに主を呪うのだろうか? ほんの先日も、復讐の御使いはその斧を掴み、《主人》は、「これを切り倒してしまうがいい。何のために土地をふさいでいるのか」、と云っていた。だがイエスが来られて、その御使いの腕に御手を置いてこう云われた。「待て、待て。もう一年は。わたしが木の回りを掘って、肥やしをやってみるから」、と[ルカ13:7-8]。あなたのいのちは主によって救われたのであり、あなたはこのことゆえに主を呪うのである。主があなたのいのちを救い、主ご自身の恵みによって与えられた息を費やして、あなたに呼吸することを許しておられる神を呪うのである。あなたは、いかに多くの危険からキリストがその摂理においてあなたを守っておられるかほとんど分かっていない。時々刻々いかに多くのあわれみが、あなたの目には見えずに、あなたの膝の上に注がれているか、あなたはほとんど思いつきもしない。だがしかし、無数のあわれみのゆえに、あなたの不義によっても止めることのできない恵みのゆえに、あなたはこうしたすべてのゆえに《救い主》を呪うのだろうか? 浅ましい忘恩ではないか! まことに、あなたは理由なしに主を憎んでいる[ヨハ15:25]。あなたがたは主を迫害してきた。主はあなたを愛し、何もあなたを傷つけることをしてこなかったというのに。

 しかし、あなたに対してこの《主人》をもう一度描き出させてほしい。そうすれば、私が思うに、主を見さえするなら、あなたは決して決して、二度と主を迫害しないであろう。おゝ、もしあなたが主イエスを見てとることができさえしたら、あなたは主を愛さざるをえないであろう。主の値打ちが分かりさえしたら、あなたは主を憎むことなどできない! 主は、いかなる人の子らにもまさって美しい。説得は主の唇の上に座っている。さながら、雄弁という蜜蜂がみなその蜜をそこにもたらしてきたかのようであり、主の御口を巣箱としているかのようである。主はお語りになったし、実に、そのお語りになることばを聞けば、獅子もうずくまって御足を舐めていたであろう。おゝ、主がその優しさにおいていかに情愛こもっておられたことか! 鉄釘が御手を刺し貫いていたときの、主のあの祈りを思い出すがいい。――「父よ。彼らをお赦しください」[ルカ23:34]。主の全生涯を通じて、主がご自分を迫害する者たちに対して怒りのことばを口にされたことは一度も聞かれない。主は罵られたが、罵り返さなかった。小羊のようにほふり場に引かれて行ったときでさえ、主は毛を刈る者の前で黙っており、口をお開きにならなかった[イザ53:7]。その人格においてもご性格においても、人の子らにまさって麗しい[詩45:2]お方であったが、それでも主は《悲しみの人》[イザ53:3]であられた。悲嘆は主の額にこの上もなく深い皺を刻んできた。主の頬は苦悶のために落ちくぼみ、こけていた。主は何日も断食し、しばしば喉の渇きを覚えられた。朝から晩まで骨を折って労苦された。それから一晩中を祈りに費やされた。それから起き上がって働きに就かれた。――そして、これらすべてを何の報奨もなしに行なわれた。――誰からも何も得られる見込みもなしに行なわれた。主には何の家も、何の家庭も、何の金も、何の銀もなかった。狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、《人の子》には枕する所もなかった[マタ8:20]。主は迫害されていた人で、その敵たちから至る所で狩り立てられ、友から助けられることはめったになかった。おゝ、あなたがたが主を見ていたとしたら、あなたがたが主の愛らしさと主の悲惨さが結び合わされているのを見たとしたら、主のいつくしみ深さ、それにもかかわらず、主の敵たちが浴びせた残酷さを見ていたとしたら、あなたの心は溶かされていたに違いない。――あなたはこう云っていたであろう。「いいえ、イエスよ。私にはあなたを迫害できません! しかり。私はあなたと燃える日差しの間に立ちましょう。たといあなたの弟子になれないとしても、いずれにせよ私はあなたの反対者にはなりません。もしこの上着が、深夜の格闘をなさるあなたの覆いとなるとしたら、さあお取りください。また、もしこの水のつぼがあなたに井戸からの水を汲めるとしたら、私がそれを下ろして、あなたにたんと飲ませましょう。たとい私が、あなたがあまりにも貧しく、悲しく、善良であったからといって、あなたを愛さないとしても、私はあなたを憎むことはできません。しかり。私はあなたを迫害しはしません!」 しかし、もしあなたがキリストを見ることができたとしたらあなたはこう云うに違いないと私は確信してはいるが、それでもあなたは実はキリストを、その弟子たちにおいて、その神秘的なからだの各器官において迫害してきたのであり、それゆえ、私はあなたにこう問いを発するものである。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか?」 願わくは神が、あなたを助けてこの問いに答えさせてくださるように。そして、その答えは恥と不面目に違いない。

 II. ここから私は第二の点に移る。――《説諭》である。「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」。ここには1つのたとえがある。牛の突き棒のことがほのめかされている。牛が耕作のためにくびきをかけられたとき、それが望まれるほどきびきびと進まない場合、農夫は先端に鉄のとげがついた長い棒でその牛を刺したものである。十中八九、牛はその突き棒を感じるや否や、進み出す代わりに、できる限りの激しさで自分の背後に打ってかかるであろう。牛はその突き棒を蹴り、鉄のとげをますます深々と自分の肉に食い込ませる。もちろん、この牛を御している農夫は突き棒をそのままにしておき、この牛は、しきりに蹴れば蹴るほど傷つくことになる。しかし、牛は進まざるをえない。牛は人の手の中にあり、人はこの獣を支配しなくてはならないし、支配するであろう。牛は、そう望めば好きなだけ長く蹴っていてかまわない。そうすることによって自分の御者に何の害も与えず、ただ自分に害をもたらすだけだからである。もし私が、このことをいくつかに分解して、あなたに1つか2つ問いかけるならば、あなたは、このたとえに美しいものがあるのを見てとるであろう。

 突き棒を蹴るのがあなたにとって痛いのは、第一のこととして、あなたが実は自分の目当てを果たせないからである。牛が突き棒を蹴るとき、それは自分を前に追い立てようとした農夫に仕返しをするためである。だが農夫を傷つけるどころか、自分を傷つけてしまう。そして、あなたに訊かせてほしいが、あなたは、福音の進展を止めようとしてキリストを迫害したとき、少しでもそれを止めることができただろうか? 否。そして、あなたのような者が一万人がかりでも神の選民の軍勢の猛進撃を止めることはできないであろう。もしあなたが、おゝ、人よ。キリストの教会の進展を食い止めることができると思うとしたら、行って、まず、すばる座の鎖を結びつけ[ヨブ38:31]、宇宙に向かって、こうした麗しい星々の周囲を回転する代わりに静止せよと命じるがいい! 行って、風のそばに立ち、そのむせび声を止めるよう命ずるがいい。あるいは、白亜の崖の上に立ち、怒濤を轟かせている海が、その潮を浜辺に打ち寄せつつあるとき、後ろに退けと命ずるがいい。また、あなたが宇宙を止め、太陽と月と星々があなたの命令に服したとき、海があなたの云うことを聞き、あなたに従ったとき、そのときには、出て来て、キリストの《教会》の全能の前進を止めるがいい。しかし、あなたにそうすることはできない。「地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう』」[詩2:2-3]。しかし、《全能者》は何と仰せになるだろうか? この方は立ち上がって彼らと戦うことすらなさらない。「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。『しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに』」[詩2:4-6]。教会は、この世の喧噪をこれっぽっちも気にかけない。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」[詩46:1-3]。あゝ、あなたがたは、その軍勢をもってしても打ち勝たなかった。そして、あなたがたは、おゝ、ちっぽけな人よ。ひとりひとりになら打ち勝てると思うのだろうか? あなたの願いは十分に強いかもしれないが、あなたの願いは決して果たされることができない。あなたはそれを渇望するかもしれないが、決してそこに到達することはない。

 しかし、これを個人的な問題として云い表わしてみると、あなたは今まで、誰かの心の中における恵みの働きを止めることに成功したことがあるだろうか? あなたは、それを笑い飛ばしてあなたの細君の中から追い出そうとしたが、もし彼女が本当に回心していたとしたら、あなたは決してそれを笑い飛ばして追い出すことはできないであろう。私はあなたと、あなたの主人である悪魔に挑戦する。それを追い出してみよと。左様。若者よ。あなたは、あなたの店員仲間を笑い物にするであろう。だが長い目で見ると、彼はあなたを打ち負かすであろう。彼は時には当惑させられるかもしれない。だがあなたは決して彼に宗旨替えさせることはできない。もし彼が偽善者だとしたら、そうもできようし、ことによると、そこに大した損失はないかもしれない。だが、もし彼がキリストの真の兵士であるとしたら、彼はあなたのような脳足りんの笑い声をはるかに越えたものにも耐え抜けるであろう。あなたは一瞬たりとも、彼があなたを恐れるだろうなどとうぬぼれる必要はない。彼はそれよりもずっと大きな苦しみのバプテスマを忍ばなくてはならないであろうし、あなたのあわれな、浅ましい、意地悪な愚劣さという最初の雨によって脅されはしないであろう。そして、商人殿。あなたについて云えば、あなたは、あなたの奉公人を迫害してもよいが、彼を屈伏させられるかどうか見てみるがいい。何と、私の知っているある人の主人は、彼の良心に逆らったことをやらせようとして非常に手を尽くしたが、彼は、「いいえ、できません」、と云った。それで主人はこう思った。「よろしい。あいつは非常に大切な召使いだが、できる限り打ちのめしてやろう」。それでこの主人は、もし彼が自分の望み通りことをしないと、彼を首にするぞと脅かした。その人は自分の主人に頼りきっていたし、自分の日々の糧をどうすれば良いか見当もつかなかった。それで彼は自分の主人に正直にもう一度云った。「旦那様。私は他にどこに行くあてもありません。お暇を出されるのはたいそうつらいことです。とても伸び伸びと暮らしてきましたから。ですが、たといそうなるとしても、旦那様。飢え死にした方が、自分の良心を他の人の思い通りにされるよりはましです」。その人は立ち去り、この主人は彼の後を追いかけていって、連れ戻さなくてはならなかった。いずれの場合も同じであろう。もしキリスト者たちが忠実な者でありさえしたら、彼らは勝利を得るに違いない。あなたが彼らを蹴っても無駄である。彼らを傷つけることはできない。彼らは、彼らを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者となるに違いないし、実際そうなるのである[ロマ8:37]。

 しかし、これを別のしかたで云い表わすこともできる。牛は、突き棒を蹴ったとき、そのことによって何の得もしなかった。どれほど蹴っても、それによって牛はいかなる恩恵もこうむらなかった。もしこの牛が立ち止まって草の葉や、一本の干し草を噛んだりしていたとしたら、何と、そのときには、じっと立ち止まっているのは、ことによると、賢明なことだったかもしれない。だが、単に追い立てられ、蹴るだけのために立ち止まり、単に鉄のとげを肉に食い込ませるだけのためにそうするというのは、かなり愚かなことである。さて、私はあなたに尋ねる。キリストに反抗することによって、一体あなたは何を得ただろうか? かりにあなたがキリスト教嫌いだと云っているとしよう。キリスト教を憎むことによってあなたは何を得ただろうか? あなたが得たもの、それは、時として日曜の晩に痛飲した後の月曜の朝、あなたに見受けられる血走った目である。若者よ。あなたが何を得たか私が云おう。あなたが得たもの、それは、ぼろぼろになった肉体である。それは、たとい今あなたが美徳の通り道に足を向けたとしても、あなたの墓にそれを残して行くまで、あなたにまつわりつくであろう。あなたは何を得ただろうか? 何と、あなたがたの中のある人々は、本当なら社会の体裁の良い一員となれていたはずなのに、いま身につけているのは、そうした型くずれの古帽子と、破れ果てた上着と、酔いの回った、ぐったりとした物腰、また、自分でも放り出して、逃げ出していきたいような性格である。というのも、それは、あなたにとって全くためにならないものだからである。それこそ、キリストに反抗することによって、あなたが得たものである。主に反抗することによって、何をあなたは得ただろうか? 何と、家具のない家である。――というのも、酔いにまかせたあなたは、手持ちの値打ち物を何もかも売り払ってしまったからである。あなたはわが子に襤褸をまとわせ、細君をみじめにしてきた。ことによると、あなたの長女は恥さらしな真似をすることになり、あなたの息子は大きくなると、あなた自身がしてきたように、《救い主》を呪うようになるかもしれない。キリストに反抗することによって、あなたは何を得たのか! それによって、世界中のいかなる人であれ、何か得たことがあるだろうか? あなたは深刻な損失をこうむり続けるにせよ、利得についていえば、そうした類のものは何1つない。

 しかし、あなたは云うであろう。自分はキリストに反抗してきたが、それでも道徳的である、と。やはり私はあなたに訊きたい。――ならば、あなたはキリストに反抗することによって何か得たものがあるだろうか? あなたは、自分の家族がその分幸福になったと思うだろうか? あなた自身、それだけ幸福になっただろうか? あなたは、自分の細君を、子どもを、召使いを笑い物にした後で、その分安らかな眠りにつけると感ずるだろうか? あなたは、それが、やがてあなたが死を迎えるとき、あなたの良心を穏やかにするものだと感じるだろうか? 覚えておくがいい。あなたは死ななくてはならない。では、あなたが死にかけているとき、自分が力を尽くして他の人々の魂を滅ぼそうとしてきたと考えることが、何らかの慰藉を供するだろうと思うだろうか? 否。あなたは、そうなる見込みはまずないと告白せざるをえない。あなたはそれによって何の得も得ておらず、如実な害を自分に加えている。あゝ、酔いどれよ。酔っ払うのを続けるがいい。だが、覚えておくがいい。あらゆる酔いどれは、へべれけに酔っ払うたびにその後に天罰を残しているのである。――それをあなたは、いつの日か感じなくてはならないであろう。きょう罪を犯すのは快いが、明日その刈り取りをするのは快くないであろう。罪の種は、蒔くときには甘やかだが、その実は、私たちがとうとう収容することになるときには、恐ろしいほどに苦い。罪の葡萄酒は、飲み下している間は甘美な味わいだが、腹に入ると苦く酸っぱい。用心するがいい。あなたがた、キリストを憎み、その福音に反抗する人たち。というのも、主イエス・キリストが神の子であるのと同じくらい確実に、また、そのキリスト教信仰が真実であるのと同じくらい確実に、あなたは、得になるものを引き出すどころか、自分の頭上に危害の重荷を積み上げつつあるからである。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」。

 しかし、いかに牛が蹴ろうとも、最後には前へ進まざるをえなかった。時々、馬が通りで棒立ちになっているのを見かける。短気な御者があまりにも強く打ち叩くので、私たちは、あのあわれな馬が、いかにしてこれほどの打擲の連続の下で立っていられるのかといぶかるほどであった。だが、私たちが見ていると、とうとうその馬はやむなく歩を進まされるしかなく、私たちは、この馬が棒立ちになることで何の得をしたのかと不思議がったものである。あなたも全くそれと同じである。もし主があなたをキリスト者にしようとしておられるとしたら、あなたはキリスト教を蹴りつけるかもしれないが、主は最後にはあなたを手に入れられるであろう。もしイエス・キリストがあなたを救うつもりだとしたら、あなは主を呪うかもしれないが、主は、お望みになれば、いつの日かあなたが主の福音を宣べ伝えるようにされるであろう。あゝ、もしキリストのみこころでありさえしたら、主を呪ったヴォルテールも第二のパウロとなっていたかもしれない。キリストが心を決めておられたとしたら、彼には主権の恵みに抵抗できなかったであろう。もし誰かが、ダマスコに向かう途中の使徒パウロに、あなたはいつの日かキリスト教の説教者になりますよと告げたとしたら、彼は疑いもなくそれを馬鹿馬鹿しいたわごとだとして笑い飛ばしていたであろう。だが主は、パウロの意志の鍵を有しておられ、みこころのときにそれを回されたのである。そして、あなたもそれと同じであろう。――もし主があなたをご自分に従う者のひとりにしようと決めておられるとしたら、――

   「もし永遠(とこしえ)の 指令(さだめ)走らば
    全能(つよ)き恵みは 彼(か)の者とらえ」――

《全能の》恵みは、あなたをとらえるであろう。そして、この上もなく血まみれの迫害者たちは、この上もなく大胆な聖徒らとなるであろう。ならば、なぜあなたはわたしを迫害するのか? ことによると、あなたは、いま蔑んでいる当の《救い主》をいつの日か愛することになるかもしれない。いま打ち倒そうと試みている当のものを、いつの日か建て上げようとするかもしれない。ことによると、いま迫害している当の人々を自分の兄弟姉妹と呼ぶことになるかもしれない。人は、いかなる物事についても、品位を失うことなく退却できるように、極端すぎることを控えるべきである。さて、キリストに反抗することにおいても、極端すぎてはならない。というのも、いずれあなたは、キリストの御足にうずくまることを非常に喜ぶようにならないとも限らないからである。しかし、次のような悲しい考えもある。もしキリストがあなたをお救いにならないとしたら、あなたはそのまま進み続けるに違いない。あなたは、とげのついた棒を蹴り続けるであろうが、主の支配権からは逃れられらない。あなたはキリストを蹴るかもしれないが、キリストをその御座から追い払うことはできず、キリストを天から引きずり出すこともできない。あなたはキリストを蹴るかもしれないが、最後にキリストがあなたを断罪するのを妨げることはできない。あなたは主を笑い飛ばすかもしれないが、最後の審判の日を笑ってなくすことはできない。あなたはキリスト教信仰をあざ笑うかもしれない。だが、あなたがいかにあざ笑っても、それを消し去ることはできない。あなたは天国を嘲るかもしれない。だが、あなたがいかに嘲っても、贖われた者たちが奏でる立琴の調べを一音たりとも取り去ることはできない。しかり。事はあなたが蹴らなかった場合と全く同じである。あなた自身に関する部分を除き、それは何の違いも生じさせない。おゝ、いかにあなたが愚かに違いないことか。あなたは、反逆心を保ち続けることによって、自分自身の魂以外の何にも害を加えることがないのである。それは、あなたが憎んでいるお方を傷つけることがない。また、このお方は、みこころならば、あなたの反逆を止めることができるし、たといそれを止めなかったとしても、それに対して復讐できるし、実際に復讐されるであろう。

 III. さて今、私はしめくくりとして、この場にいる、すでに心に感銘を受けている人々に語りかけたいと思う。あなたは今朝、自分が《救い主》を必要としていると感じているだろうか? あなたは、主に反抗してきた自分の咎を自覚しているだろうか? また、聖霊は今あなたに、自分のもろもろの罪を告白したいと思わせておられるだろうか? あなたは、「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」*[ルカ18:13]、と云っているだろうか? ならば私には、あなたに対する《良い知らせ》がある。キリストを迫害したパウロは赦された。彼は自分が罪人のかしらだったが、あわれみを受けた、と云っている[Iテモ1:15-16]。あなたも、そうなる。否、それ以上である。パウロはあわれみを受けただけでなく、誉れを受けた。彼は、誉れある教役者とされてキリストの福音を宣べ伝えたが、あなたもそうなるかもしれない。しかり。もしあなたか悔い改めるなら、キリストはあなたを用いて他の人々をご自分のもとに導かれるかもしれない。私が驚きに打たれるのは、最大最悪の罪人たちのうち、いかに多くの者らが最も用いられる人々とされたかということである。あなたは、向こうにいるジョン・バニヤンが見えるだろうか? 彼は神を呪っている。日曜日には鐘楼の中に入って、鐘を鳴らしている。鐘を鳴らすのが好きだからである。だが、教会の扉が開かれると、彼は村の共有芝地で柱球戯に興じている。そこに村の飲み屋がある。そこで誰よりもけたたましく笑い声をあげているのはジョン・バニヤンである。ある人々が集会所に向かって行くと、誰よりも彼らに悪態をつくのはジョンである。彼はあらゆる悪徳の元締めである。もし鶏小屋に泥棒が入ったとしたら、ジョンが張本人である。もし何か悪事がなされるとしたら、また、その教区に何か悪があるしたら、何も迷うことはない。ジョン・バニヤンこそその黒幕である。しかし、この治安判事の前で裁判にかけられているのは誰だろうか? いま私がこの言葉を発するのを聞いたのは誰だろうか?――「もし私がきょう牢から出されたなら、明日、私は、神の御助けによって、福音を説教するでしょう」。この、十二年間も獄中に伏していた人物、また、二度と説教しないと約束するなら釈放してやろうと云われたときに、「いいえ。私はまぶたに苔がむすまでここにいましょう。ですが、自由になるや否や、私は神の福音を説教しなくてはなりませんし、説教するでしょう」、と答えたこの人物は誰だろうか? 何と、ジョン・バニヤンなのである。先だってキリストを呪っていた、まさにその男なのである。悪徳の元締めが、栄光に富む夢見る者となり、神の軍勢の指導者その人となったのである。見るがいい。神が彼に何をなさったかを。そして神は、彼になさったことを、あなたにも行なうことがおできになる。もし今あなたが悔い改めて、神のあわれみをキリスト・イエスによって求めるとしたらそうである。「主に能力(ちから)あり、望み給う。 さらば疑い、去れよかし」。

 おゝ! この場には、今までは神を憎んできたが、それにもかかわらず、神の選民である人々が何人かきっといると思う。神を蔑んできたが、血で買い取られている人々、とげのついた棒を蹴ってきたが、それでも全能の恵みがやがて進ませることになる人々である。この場には、疑いもなく面と向かって神を呪ったことがありながら、いつの日か、神の御座の前でハレルヤを歌うことになる人々がいるに違いない。ほとんど獣も同然の情欲にふけってきたが、やがて白い衣を着て、黄金の立琴の上でその指を動かす、天国の栄化された霊となる人々である。このような福音を、このような罪人たちに宣べ伝えることができるとは何と幸いなことか! 迫害者に向かって、キリストは宣べ伝えられているのである。来るがいい。あなたが迫害してきたイエスのもとに。

   「来て、迎(い)れられよ。罪人よ。来よ」。

 さて、もうほんの少しだけ、あなたに語りかけることを許してほわしい。1つの可能性が真っ向から私を睨めつけている。あなたの魂に関わる主題を私が語りかける機会は、もうほとんどないのではないかという可能性である。話を聞いている方々。私があえて自分のものと主張したいことは、ただ1つ、このことである。――「私は、神のご計画の全体を、余すところなく知らせておいた」*[使20:27]。そして、いかに多くの吐息と、涙と、祈りとによって私があなたのために労してきたかは、神が私の証人であられる。私の信ずるところ、この場所からは何千もの人々が召されてきた。私がいま目にしているあなたがたの間には、おびただしい数の回心した人々がいる。あなた自身の証言によると、あなたは徹底的な変化をこうむっており、今のあなたはかつてのあなたではないという。しかし私はこの事実を自覚している。あなたがたの中の多くの人々は、今ここに、ほとんど二年間も集っていながら、最初に来たときのままである。あなたがたの中のある人々の心は、何の感銘も受けていない。あなたは時には涙するが、それでもあなたの生き方は全然変えられていない。あなたはまだ、「苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」[使8:23]。よろしい。方々。もし私が二度とあなたに語りかけることがないとしたら、是非とも聞いてほしい頼みが1つある。もしあなたが神に立ち返らないとしたら、もしあなたが失われる決意をしているとしたら、もしあなたが私の叱責を聞こうとも、私の勧告によって向きを変えようともしないとしたら、この1つの頼みを聞いてほしい。少なくとも私にこう知らせてほしい、そして、私にこう確信させてほしいのである。私にはあなたの血の責任がない、と。私は地獄とそのあらゆる恐ろしさとを余すところなく宣べ伝えてきた。それは、まるで私がそのことしか説教していないかのように、笑い草にされるほどであった。私は、この上もなく甘やかなで、心楽しい、数々の福音の主題について余すところなく宣べ伝えてきた。それは私が、ボアネルゲの男性的な力強さを保つ代わりに、自分の説教を女々しいものにしているのではないかと恐れるほどであった。私は律法を余すところなく宣べ伝えてきた。あの大いなる命令はあなたの耳の中に鳴り響いている。「あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」*[マコ12:30-31]。私は一度も有力者を恐れて、ご機嫌とりをしたことはない。私は百姓を叱責するのと同じしかたで貴族を叱責してきた。そして、あなたがたひとりひとりに対して、折にかなった食べ物を与えてきた[ルカ12:42]。私は、自分についてここまでは云えると知っている。――「ここに立っているのは、いまだかつて人の顔を恐れたことのない人だ」、と。そして、私は今後も決してそうしたくないと希望している。侮辱や、叱責や、非難の最中にあって、私はあなたに対し、また、私の神に対して忠実であろうとしてきた。ならば、もしあなたが罪に定められるという、そのように恐ろしい考えを私がいだくときには、あなたの悲惨についてこの1つのことを慰藉として有させてほしい。――あなたは、呼びかけられることもなしに罪に定められたのではないのだ、と。あなたが失われたのは、あなたを求めて泣く者がいなかったからではないのだ。また、云い足させてもらえば、あなたを求めて祈る者がいなかったためではないのだ、と。私の《福音》によれば生きている人と死んだ人とを審かれる[IIテモ4:1]お方、また、天の雲に乗って来られる[マタ24:30]お方の御名によって、また、この地上の支柱が揺れ動き、諸天があなたの耳元に落ちてくる、かの恐るべき日にかけて、――「のろわれた者ども。離れ去れ」*か「さあ、祝福された人たち」*[マタ25:41、34]がすさまじい岐路とならざるをえないかの日にかけて、私はあなたに命ずる。こうした事がらを心に銘記するがいい。そして、私が、私の神と顔を合わせて、自分があなたに対して正直であったこと、神に対して忠実であったことを申し上げるのと同じように、覚えておくがいい。あなたも神の法廷に立って、いかに自分が聞いたか、また、いかに聞いた後で行動したかの申し開きをしなくてはならないのである。そして、わざわいなるかな。あなたがた、カペナウムのように種々の特権で高く掲げあげられながら、悔い改めなかったがゆえに、ソドムとゴモラのように、あるいは、彼らよりも深みへ叩き落とされることになる人たちは。

 おゝ! 《主人》よ! 罪人たちをあなたのもとへ立ち返らせ給え。イエスのゆえに! アーメン

  
 

タルソのサウロの回心[了]

HOME | TOP | 目次