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第6章

 学校時代と回心

スポルジョンの教育の質――干し草架の上からの説教――彼の母の教え――彼の最初の教師たち――学校での一事件――弟とともにメードストンに送られる――彼の回心に関連した諸事件――コルチェスター原始メソジスト会堂における情景――その説教――ジョン・スポルジョン氏の証言――キリスト教の働きへの熱心――少年の剽軽さ

 スポルジョン氏が1854年にロンドンに腰を落ちつけたとき、この青年説教者はまるで無学であるという噂を執拗に流した人々があった。しかしながら、それは、この件に関する事実関係によく通じた人々の意見ではない。真実を云えば、彼は、やがて自分が世界で占めることになる卓越した立場にとって、状況の許す限り最善の準備を受けていたばかりか、明らかに、将来行なうことになるその傑出した奉仕にとって、可能な限り最高のしかたで準備されていたのである。それが、この亡牧師[スポルジョン]がこの件について自らいだいたであろう見方であり、彼が最も恩義をこうむった教師――故チャールズ・リーディング氏――も同様の証言をしたはずである。彼らは両名とも、こう主張したであろう。《摂理》の御手は、最初から最後まで、すべてのことを支配しておられた、と。未来のこの説教者の両親は、教育の価値を見くびる人々ではなかった。むしろ、自分たちの子どもたちに教育上の利便を与えるために、あっぱれな自己犠牲精神を発揮した。それゆえ、もし私たちが若きスポルジョンの足どりを、その教育的な見地から辿ってみるとしたら、また、それと同時に、彼がその祖父の牧師館で受けた訓練を十分に考慮に入れるならば、私たちもまた、彼が著しく恵まれた幼少期と少年期を過ごしたことを見てとるであろう。事実に照らしても、すべてのことがともに働き、この驚嘆すべき男児を、彼が占めるべく定められていた、大いなる活動の場へとふさわしくしつらえていたと思われることを見てとるであろう。

 彼が世で現実にいかなる働きをすることになるかは、幼年時代においてすら、見てとれたように思われる。決して節穴ではない目を持っていたジョン・スポルジョン氏は、息子が説教者になるよう定められていることを見てとった。「ええ、ええ。あの子は説教者になるために生まれたような子でしたよ」、と彼は、この件について尋ねた新聞記者に告げている。そしてこの古強者は、コルチェスターの自分の厩舎で一度目撃した典型的な情景についてさらに語っている。ある日の午後、その建物の中をのぞき込んだ父親は、息子のチャールズが、馬のかいば桶の上の干し草架の上にのぼって、それを講壇に見立てては、下の聴衆たちに向かって、あらん限りの力をこめて熱弁を振るっているのを目にした。この子ども説教者の弟ジェームズは、その主賓格の聴衆たる威儀にふさわしく、かいば桶の座席に腰かけており、一方で妹たちの方は、それよりも慎ましい、しかしおそらくはずっと座り心地の良い干し草の束の上に座を占めていた。このような少年が、生まれつきいかなる方面に向かう気質をしているかについては、何の疑いもありえなかった。ただし、彼が独特の天才であるかどうかは、その時点ではまだ知りえなかったが。

 彼に先立つ他の多くの偉人たちと同じく、若きチャールズ・スポルジョンは、何の学校にも行く前には、その教育の大きな部分を自らの母親に負っていたに違いない。彼が最初に家を離れて教授されたとき、彼の最初の担任となったのは、キャプテン・クックという人物の細君であった。――夫君は、かの有名な十八世紀の探検家と同名の人物だが、私の知る限り親類関係はない。とはいえ、この恐れを知らぬ探検家の隠しに入って世界中を経巡ってきたと思われる、古びた煙草の箱が、今も同家の家宝となっていて、古き時代のコルチェスターのよすがとなっているという。次にこの有為の少年は、同じ町の、ルイス氏という人物の経営する学校に行き、同氏のもとで幾分かの進歩を遂げた。ことによると、この小学生は、このように小さな頃から、この古代ローマの町の地誌に興味を持ったかもしれない。この町[コルチェスター]は、古くはブリトン人の中のトリノウァンテス族[前54年カエサルがブリタニアに侵入した際、ローマ軍と協同し西方部族を討ったが、前43年ローマに征服された英国の古代民族]から、後代のクラウディウス・カエサル[ローマ皇帝。位41-54]やボアディケア[イケニ族の女王で、ローマに反旗を翻し惨敗。紀元62年没]、さらには後のサクソン族[ドイツ北部のゲルマン民族で、 5-6世紀にアングル族、ジュート族とともに英国を侵略し、融合してアングロサクソン族となった]まで結びついているのである。コルチェスターにおいてチャールズは、その最初の同好の教師、リーディング氏に出会った。――ふたりは友人となり、その懇切丁寧な指導に彼は多くを負うことになる。

 若きチャールズ・スポルジョンがコルチェスターで通ったのは、良い学校だった。そして、この件に関しては多くの誤伝が流布しているため、私は喜んで、スポルジョン氏の死後、ハロゲットのR・D・シェヴリー氏によって発表された証言を引用したい。この筆者は、スポルジョンと同じ学び舎で教育を受け、そこで授かった恩恵を感謝とともに記憶しているため、誤った風説や虚説の類を訂正することに熱心なのである。彼はこう云っている。「チャールズ・ハッドン・スポルジョンが十一歳から十五歳になるまで教育を受けていた、コルチェスターのストックウェル・ハウスは、全く健全な中流階級の古典教養-商業学校でした。校長のヘンリー・ルイス氏は最高度の文学的素養の持ち主で、何年間も、リーディング氏という、ごく最近に亡くなりましたが非常に博学な人物を助教師としていました。リーディング氏は、古典学と数学の教師で、非常に徹底的な教え方をしていました。生徒の中でも、チャールズ・スポルジョンは、一を聞いて十を知る抜群の知性を有しており、特にすぐれていたのはラテン語とユークリッド幾何学です。彼が、この二教科のどちらについても、長足の進歩を遂げたことを、今でもよく覚えています。ですから彼は、徹底的に良く教育された少年として、ストックウェル・ハウスを卒業したのです。実際、大学以外の所で受けられる最高の教育を受けたのです。ですから、スポルジョン氏の教育が、コルチェスター『ごとき』の学校で得られたものにすぎないといった、公の出版物上で述べられている発言は、それがきわめて程度の低いものだったという論調ですが、これは相当に不正確です」。

 コルチェスターの聖ボトルフ教会の「J.B.」も、同じ雑誌――『キリスト教世界』――に、一昔前のコルチェスターで、自分がスポルジョンと机を並べて勉強していた頃の回想を寄稿している。当時ですらスポルジョンの特徴であった陽気な剽軽さと、非常な勤勉さについて語りながら、この寄稿者はこう云っている。――

 「スポルジョンは常に組の首席だった。――事実、学校一の首席だった。一度だけ、私は彼が組の首位からすべり落ち、次々に席次を下げ、ついに末席にまで落ちたのを覚えている。いくら担任教師から叱咤激励されても無駄だった。彼は末席に着いたまま、そこから這い上がれなかった。とうとう教師が思い当たったのは、ひょっとすると、末席近くにあった暖房がそれと関係しているのではないか、ということだった。それは非常に寒い日だった。そして、組の首席は隙間風の入る戸口の近くに座らなくてはならなかったのである。教師は組の席を変え、首席の席を焜炉の近くに移した。するとスポルジョンは、たちまち冴えたところを示し始めた。席次を上げる機会は一度たりとも逃さず、あれよあれよというまに首席に返り咲くことになった。

 「学校から多少離れたところに住んでいた五、六人の少年たちは、昼食に弁当を持ってきて、それを教室で食べることにしていた。スポルジョンはそのひとりで、昼食を食べている間は常々、冗談や謎々や面白い逸話の本の頁をめくっては、何か級友を面白がらせるものがないか探すのが習慣だった。ことのほか愉快なものがあると、彼は口の中が空っぽになる前に話し出すことがあった。何度も何度も私たちは腹を抱えて大笑いし、何度も何度もほとんどむせかえりそうになり、食べたり読んだり笑ったりを同時にしたものである。遊戯場はスポルジョンの特技ではなかった。知性の遊戯が彼の喜びであった」。

 上の焜炉の逸話は、私自身、スポルジョン氏が牧師学校で語るのを聞いたことがある。

 次の転機は、1848年に、チャールズとジェームズの兄弟が、ふたりともメードストンの学校へと行ったことである。そこでは、科学としての農業の学びに特別の注意が払われていた。その校長はウォーカー氏といい、親類のひとりであった。東部諸州から同地までの旅はロンドン経由だった。それはおそらく兄弟にとって、初めて目にする巨大首都の姿だったであろう。それは、将来彼らが共同で生涯の事業を行なうことになる場所であった。鉄道は、現在ほど広範囲に普及していなかったため、この旅については、駅伝乗合馬車その他の乗り物のことが長く記憶に残ったようである。

 メードストンを去った後に、もう1つの、さらに大きな結果を伴う転機となったのは、若きスポルジョンが、ニューマーケットのスウィンデル氏の学校で助教師となったことであった。この町でなされた彼の進歩については、それなりに詳しい説明をしなくてはならないと思う。だが、それまでの間に、いわゆる回心という生涯の一大事について言及がなされなくてはならない。それが起こったのは、その教師職を受ける前のことであった*1

 この件に関連して、私たちがよくよく念頭に置いておかなくてはならないのは、この時点までの、この天才児の訓練が、明確に宗教的な性格のものであった、ということである。彼が、そのピューリタン的な祖父の考え方や感じ方をあれほど容易に吸収した理由の1つは、家庭での訓練によって、彼の精神に、そうした印象を受け入れる素地ができていたからである。物心のつく前から、この未来の説教者は宗教的な雰囲気の中で暮らしており、宗教的な人々の語り口が、いわば彼の生まれつきの方言にもなっていた。十四歳の時に、叔父のひとりに宛てて書かれた手紙が現存しているが、この早熟児の用いている言葉遣いや聖句表現は、まるで十七世紀に多大な辛苦を嘗めた、年季の入ったピューリタンの筆になるようなものに思える。しかしながら、そうした事がらの知識が頭に入っているからといって、確固たる心の平安をもたらすほどの感化が、心と生き方に及ぼされているとは限らない。

 回心という大きな変化が起こったのは、1848年の暮れも押し迫った頃か、1849年の年頭であったように思われる。この少年は数えで十五歳になっていた。その頃一家はコルチェスターに住んでいた。ジョン・スポルジョンは、勤め人ではあったが、日曜日の朝になると欠かさず九マイル離れたトールズベリーまで馬に乗って行き、同地の独立派会堂の一集会で牧師の任を果たしていた。スポルジョン家はそれなりに大家族だったため、子どもたちは順番にひとりずつ父親に同伴する習慣になっていた。1848-49年の冬の、ある日曜の朝は、チャールズが父親について礼拝に行くことになっていた。それまで何度もしていたことであった。だが、たまたま天候が凍てつくような荒れ模様になったため、子どもは行かない方がよいことになった。「お前はトールズベリーには行けないんだから、コルチェスターの原始メソジスト会堂に行ったがいいよ」、と母が彼に云い、チャールズはすぐ素直に従う気持ちになった。その朝の彼は、浮かない気分であった。おそらく父親と一緒に軽装馬車で吹雪をついて出かけるよりは、ひとりきりで公の礼拝に行く方が気詰まりにならなかったのであろう。実は、このトールズベリー独立派教会の教役者の息子は、かの疑いと恐れをくぐりつつある状態にあったのである。――すなわち、魂の赦しと平安を熱心に求めながら、それを見い出すことができないという、――バニヤンが、かの不朽の寓話の冒頭部で言及している状態である。「夢を見ると、見よ、ぼろを着た一人の男が、自分の家から顔をそむけ、手には一冊の書物を持ち、背には大きな荷を負って、とある場所に立っていた。よく見ると、彼はその書物を開いて読むのが見えた。読むうちに彼は涙を流して身を震わせた。もう堪えられなくなり、悲しげな声で叫び出して言った、どうしたらよかろう」*2。バニヤン自身が耐え忍び、他の数冊の著作でも暗黙に語っているような精神の苦悩が、この時点における若きスポルジョンの心と魂を苛んでいたのである。

 その記憶すべき冬の朝、この悩める少年が吹雪のふきすさぶ中を自宅からコルチェスターの通りに足を踏み出したとき、彼は、母に勧められたように原始メソジスト会堂に入るか、それともそれより先の野原に向かうか、全く心を決めかねていたように思われる。彼は物思いにふけりながら歩き続けた。押しつぶされそうな心の重荷のために、大吹雪のことなどほとんど気にとめなかった。しかしながら、まもなくしてメソジストの集会所に着いたとき彼は中に入った。先に進むよりも、あるいは何か他のことをするよりも、そうした方がまだましだと思ったからである。

 ジョン・スポルジョン氏の説明によると、「その原始メソジスト会堂の説教者は、土地の人間であった。地元で穴を掘ったり、玉菜を植えたり、といった仕事をしながら、説教もするという人であった」。講壇に立ったとき、この貧しい田舎伝道者は、会衆席の人数の少なさに、礼拝を行なうのは無意味ではなかろうかとふと疑問を感じた。人々は吹雪のために家から出てこられないのであろうから、だれが悪いわけでもない。だが、この状況において、自分が実質的にがらんどうの会堂で声を枯らして説教したとして何になるだろうか? この善良な人は、なおも礼拝をやめるかどうかためらった。しかしながら、もう一度、自分の聴衆を眺めわたしたとき、彼の目は、青白い顔をした、丸顔の、悩みをかかえたようすの少年がひとりで座っている姿に引きつけられた。それは、ためになる言葉を必要としている対象のように見受けられた。何はともあれ、彼は礼拝を続けるべきだと決心した。そして、説教の時間が来たとき、彼は聖書のイザヤ45:22を開いた。――「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。彼はがぜん活気づき、あたかもすべての会衆席が、いのちみなぎる福音の使信を受け取ろうという期待に満ちた聴衆で埋まってでもいるかのように、ほぼ空っぽの会堂内をもう一度見渡し、あらん限りの力をこめて大音声で叫んだ。「見よ! 見よ! 《見よ!》」 このようにでたらめに射られた矢は、少なくとも1つの心だけは深々と刺し貫いた。

 実際それは、若きスポルジョンの生涯における最高の瞬間であった。彼が最も聞くことを必要としていた言葉が語られただけでなく、彼はそれを喜んで受け入れたのである。その瞬間に、彼は自分が自由であることを感じたばかりか、キリスト・イエスにあって自分が新しく造られた者であると感じた。現実に起こったことは、わが国の偉大な寓話作家[バニヤン]によって叙述されているように、巡礼中の基督者が、ある過程で経験したことと正確に符合している。ここで、その箇所をあげてみるのも益なしとはなるまい。バニヤンはこう云っている。「私が夢で見ていると、基督者がちょうど十字架の所へやって来たときに、彼の重荷は肩からほどけ、背から落ち、転がりだしてとまらず、ついに墓の口まで来ると、その中に落ち込んでもはや見えなくなった。その時基督者は喜んで心も軽く楽しげに言った、主はその悲しみによって私に休息を与え、その死によって生命を与えられた。それから彼は暫く立ち止まり、眺めて驚いた。十字架を見たために、このように重荷から楽になろうとは実に驚くべきことであったからである。それで彼は何度も見ているうちに、ついに頭の中の泉から涙が湧き出て頬を伝わった。さて、彼が眺めて泣きながら立っていると、見よ、三人の輝ける者が彼の所へやって来て、『やすかれ』とあいさつした。第一の者は彼に言った。『あなたの罪はゆるされた』。第二の者は彼のぼろ着物を脱がせて、着換えの衣を着せた。また第三の者は彼の額にしるしをつけ、封印のある巻物を与えて、走りながらそれを読み、天の門でそれを渡すように命じた」*3

 これが『天路歴程』におけるバニヤンの言葉遣いであり、スポルジョン氏も、この箇所はまさに、1849年の吹雪の日、自分が最初にキリストのおかげで神に受け入れられていると悟ったときの状態を述べたものだと認めたであろう。吹雪は、彼が再び通りに足を踏み出したときも全くおさまってはいなかった。だが、雪だの、凍えるような突風だのが何であろう? 今や重荷は彼の肩から転がり落ち、平安が彼の心にわきあふれているのである。彼は足どりも軽く家路についた。彼に逆らうように見えるすべてのことにもかかわらず、すべてのことが彼に味方しているように思われたからである。暴威をふるう自然の元素ですら、彼には友人のように見受けられた。人生は、今や別の意味を持っていた。世界には新しい展望が開かれた。驚きなのは、これほど輝かしいほど単純なことが、それ以前には明確に理解できていなかったことであった。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ!」 この福音的預言者[イザヤ]の短い文章は、時満つるに至って、律法の経綸に取って変わるべき福音を要約していた。

 この重大な日の後半に言及して、ジョン・スポルジョン氏は新聞記者にこう語っている。――

 「私たちはその夕べを、いつもと同じように、聖書を読んだり、その他のことをして過ごしました。それから間もなく私は、『さあ、坊主たち、もう寝る時間だよ』、と云いました。すると、チャールズが口を開きました。『父さん。ぼくはまだ寝たくないよ』。『どうしたね』、と私が云うと、私に話があると云うのです。私たちは夜遅くまで話し込み、あの子は私に自分が救われたこと、その日起こったことを話してくれ、私はあの子の話を聞いて非常に喜びました。チャールズは私に、両手をあげながら云いました。『「見よ、見よ、見よ」、という聖句で、ぼくは今朝救いがわかったんだ。それから夕方には、バプテスト教会で説教された、「愛する方によって受け入れられ」という聖句で、平安と赦しのことがわかったんだ』。そんなふうに、あの子は云っていたと思います。それが、あの子が神に回心した次第でした」。

 あの原始メソジスト会堂の説教者について、スポルジョン氏[父]は、こう述べている。――「その後何年か後に、私がケンブリッジシアのとある教会の開設式を行なっていたとき、ひとりの人がやって来て、私に向かって、自分はあの原始メソジスト教会にいた地元の説教者であると告げました。私たちがほんの二言三言しか話さないうちに、別の友人たちが私に、もっと多くの人々に語りかけるようにせきたて、私たちを引き離してしまい、私はそれ以来その人を二度と見ることがありませんでした。バプテスト教会に入ったことについては、チャールズはいつも、私が子どもたちには自分で聖書を読むようにさせていた賢明な父親だった、と云っていたものです」。

 この出来事に伴った状況を思うとき、この回心は、ひとりの偉人の生涯における驚嘆すべき一挿話であった。そのため、この少年が回心した吹雪の日曜日に講壇に立ったのはだれかをつきとめたくなるのは人情であった。後年、その回心者[スポルジョン]自身が、その説教者は「やせぎすの」人だったと述べたが、それが何という人物であったかは、判明しなかったらしい。一時的にある人々が考えたところ、イーグレン氏という人物こそ、今や「見よ」の説教として知られる話を語った友であった。だが、あるときイーグレン氏と対面したスポルジョン氏は、原始メソジストにいた自分の恩人を見分けることができなかった。おそらくその人は、自分の義務を果たすことによって大きな成果をあげても、世間に自分の名声を鼓吹することのない、あの栄誉ある、おびただしい数の無名の働き人の間にまぎれているのであろう。そしてそれは、むしろよいことなのであろう。

 このような若者が回心者となるということは、自分の手の届く限りの、ありとあらゆる種類のキリスト教的な働きに熱心になるということであった。ジョン・スポルジョン氏自身がこう云っている。「ニューマーケットに行く前に、チャールズは回心しており、ニューマーケットにいる間に、あの子はキリスト教信仰のためのいかなる働きにも熱心になりました。あの子は人々に小冊子を配りました。その人々の中には、そうしたものを別段ほしくもなかったはずの人々もいたと思いますが。ともかく、チャールズは、休む間もなく家々を一軒ずつ訊ねては、小冊子を配布する方法をとりました。つまり、何冊もの習字帖を抱えて歩いては、ある家の少年たちに文字の書き方を教えてやりながら、それと同時に小冊子を配っていたのです。実際、最初からチャールズは善を施すことに活発でした」。

 年月が経つにつれ、より一層発達していった別の特徴もまた、この偉大な説教者の父によって言及されている。彼は云う。「チャールズには常に、強い剽軽味、あるいは、こう云ってよければ、面白おかしさが体中をかけめぐっているところがありました。それを示す1つの例がありますが、これは、ずっと何年も前の出来事だというのに、今も私に強い印象を残しているものです。チャールズは、説教を始めるようになった後も、集会後によくコルチェスターまで馬車でやって来ることがありました。これは、あの子が自分で馬車を御してきたということではありません。あの子は、自分では絶対に馬車を御したりしませんでしたから。今から私が云いたい出来事のときには、ジェームズが御していました。それは四輪の馬車で、私の娘のひとりが後ろに座っていて、チャールズとジェームズは前に座っていました。『眠ってたね、ポリー』、とチャールズは後ろを向いて、あの剽軽な調子で云いました。『いいえ、そんなことないわ』、と娘は答えました。それから少ししてから、チャールズはまた後ろを向いて云いました。『今お前はすっかり眠っていたね、ポリー。もし今度眠ったら、ぼくはお前を鉤からはずして、置いてきぼりにしちゃうぞ!』 私には、その寒空の中で娘がうたた寝をしていたかどうかわかりません。ですが、鉤から外されて置き去りにされてしまいかねない、と考えると――ありえないことですが――、それから娘は一瞬も眠り込みませんでした」。

 しかしながら、この回想はやや先走りすぎてしまった。というのも、私たちがいま到達した時点で、チャールズ・スポルジョンはまだ中学生にすぎず、その教育はまだまだ完了していなかったからである。

1950年1月6日の吹雪の朝、スポルジョンが足を踏み入れた教会。左手にある記念銘板が、彼の座った付近の座席を示している。


*1  (訳者注)――とパイクは書いているが、スポルジョンの回心は、彼がニューマーケットの助教師となった後の、1850年1月6日、コルチェスターに帰省していた間の出来事である。このことに間違いはない。というのも、1856年1月6日、ニューパーク街会堂でイザヤ書45:22から主日説教をしていたスポルジョンは、自分はちょうど六年前のこの日、この時間に、この聖句からなされた説教によって、キリストを仰ぎ見るように導かれた、と語っているからである。
 パイクがスポルジョンの回心を1848-49年の冬としているのは、おそらく、後述される実父ジョン・スポルジョン氏の証言を元にしたための間違いであろう。
 パイクのこのスポルジョン伝は、スポルジョンの死後わずか二年後に出版されたものであり、間近に接した同時代人によるスポルジョンの姿を克明に伝えている半面、スポルジョンの自伝が、その未亡人と個人秘書の編集を経て刊行される何年も前の著作であるため、このような不正確さがまま見受けられる。
 スポルジョンの回心の詳細については、その自叙伝からの抜粋「若き日のスポルジョン」を参照されたい。[本文に戻る]

*2(訳者注) ジョン・バニヤン、『天路歴程』、池谷敏雄訳(新教出版社、1976)、p.40。[本文に戻る]

*3(訳者注) 前掲書、p.86。[本文に戻る]

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