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第5章

 リチャード・ニルのスタンボーン訪問

遊び仲間としてのチャールズとジェームズのスポルジョン兄弟――長男の特徴――玩具の舟――『雷神号』――スタンボーンでのリチャード・ニル――異国での彼の働き――溺死を免れる――スポルジョン家最上の客間での土曜の夕べ――マドラスにおけるニルの経験――サンクトペテルブルグにおける大洪水の物語――その幼い友人に関する彼の予言――末長い友情

 チャールズ・スポルジョンと[弟の]ジェームズ・スポルジョンがふたりとも少年だったとき、彼らは同年代の他の子どもたちと、ほとんど何の変わりもなかった。ただし、いくつかの点で長男の方には、ごく幼少の頃から現われ始めた二三の特徴があり、そのため、時として並みの基準をはずれた子どもになるのだった。チャールズは、自分ひとりで聖書を読み、それを、その年齢に似合わないほど深く理解していたらしい。また、聖書に記された自然界や日常生活に関わる事実のあれこれを、細大もらさず覚え込んでいたと思われる。彼が少年時代に身につけていたこうした知識は実に驚くべきものであり、その知ったかぶった言葉の端々を聞いた大人たちを仰天させ、彼ら自身の無知が訂正させられることもあったかもしれない。

 チャールズとジェームズは一緒に遊んだ。彼らは互いに大の仲良しだったが、年の開きが三年あったために、弟の目にとって兄は、自分とくらべ、ほとんど大人のように見えたに違いない。その結果、弟は、おそらく一生影響を及ぼされるような多くの印象を兄から受け取ることになったであろう。

 このようなある日、ふたりの兄弟は、近くの池にそれぞれ自分の玩具の舟を浮かべて遊んでいた。途中、その船にどんな名前をつけたらよいかという話になった。ふたりは、その小舟をほれぼれと眺めた。彼らの目には、それが、行く手にある素晴らしい任務を目指して雄壮に進み行く船団に見えた。突然チャールズは、きっぱりと決断した顔つきになり、勢い込んで云った。「ぼくの舟は『雷神号』にするよ」。それから彼は、得々とそのわけを説明した。もしも自分の船で戦いにのぞみ、勝利を得ようというなら、その大目的にふさわしい名前をつけていなくてはならないのである。「そうさ、ぼくの舟は『雷神号』だ!」 もちろん弟は、賛嘆のこもった眼差しを向け、この生まれついての指導者に喜んで服従することに慣れてもいたので、自分の小さな軍艦には、もっと慎ましい名前をつけることにした。

 この子ども時代の単調さを破る、1つの記憶すべき出来事は――実際、毎日の繰り返しに単調さなどというものがあるとしてだが――、故リチャード・ニルのスタンボーン訪問であった[1844年]。彼は、ロンドン宣教協会の名代として年次説教を行なう任命説教者としてやって来たものと思われる。種々の経験や冒険を経てきた旅行者であり、元宣教師であり、今は牧師でもあるニル氏は、この訪問者よりほぼ十二年ほど年長であるスタンボーンの教役者によって、心からの歓迎を受けた。ニル氏は、インドおよびサンクトペテルブルグで、キリスト教宣教の働きに相次いで携わってきた。そして、その後半生では、一時的にウォットンアンダーエッジにある、ロウランド・ヒルの講壇があった所で奉仕し、その後、チェスターに転任した。このように彼は、この田舎屋敷への訪問者としては、多くの点で非常に興味深い人物であった。その頃は、現代のように物語や冒険の書物が数多く出回っていなかったからである。何にもまして、この訪問者が支持を訴えにやって来たロンドン宣教協会の偉大な目的を思えば、彼はこの牧師館で供しうる限りの歓待によってもてなされるに十分値していた。

 老ジェームズ・スポルジョンは、自分より年下とはいえ、世界のかくも多くの地域を見てきた人物とともにいることに、自然と魅了されたであろう。極東でも遠い北方地帯でも暮らしたことのあるニル氏は、ほとんど知られていないような習俗や、異国の人々について、また、彼らの間における福音の進展について、多くの新しい情報を持っていた。

 しかしながら、いかにニル氏が自分をもてなす主人に好感をいだいたとしても、彼は、この老牧師の孫には、さらに強く引きつけられたように見受けられる。そのとき少年は、休暇中の何日かをスタンボーンで過ごしていたに違いない。ニル氏は、その丸顔の子どもの明るい生き生きとした目に、ただの子どもではない何かを見てとった。それで、その少年に声をかけたところ、年に似合わぬしっかりした反応が返って来たらしく、たちまちふたりの間には共感の絆が結ばれた。と同時に、ニル氏がこの魅力的な子どもに引きつけられたのは、部分的には、幼い子どもたちに対する、彼の熱い愛のためでもあった。というのも、彼自身の子どもたちは、ひとりまたひとりと墓に運ばれていったからである。1848年、この訪問の日付からさほど遠くない頃に、ニル氏に残された最後の息子が、牧師になる訓練を受けている間に世を去った。そして、愛する父の心に決して埋められることのない空白を残したのである。

 宣教師説教者の滞在は、おそらく土曜日の午後から月曜までしか続かなかったであろう。だが、天候が十分に穏やかであったため、彼とこの小さな少年は戸外で何時間かを一緒に過ごした。ふたりは、牧師館の庭の端にある、大きないちいのあずまやの中で、ともに跪き、年長者はその幼い友人のために、天の祝福を引き下ろしたと後年信じられることになるようなしかたで祈った。そこでは、キリストとその御国の進展についての会話も交わされ、それはこの少年の感じやすい性質に深い印象を残さざるをえなかった。

 しかし、この古強者の宣教師と、その年若い友人が一緒に牧師館の庭にいる間、あるいは彼らが、初夏の服装をして、スタンボーンの気持ちのよい小道に沿ってそぞろ歩きをする間、この知りたがりの子どもが、その円熟した友人の経てきた世界での経験や冒険の何かしらを聞くことによって、その健全な好奇心を満足させられたと想像するのは、当たらずとも遠からずであろう。チャールズは毎朝毎朝、学校に行かなくてはならなかっただろうか? リチャード・ニルにもそういう時期はあった。だが、そうしたジョージ三世[位1760-1820]治下の古い時代に、英国はほぼ間断なく戦争をしており、時世は全く厳しいものであった。幼いチャールズは、自分の友が少年の頃に、溺死の運命から摂理的に免れた話を聞いて、いかに興味をそそられたことであろう。また、その逸話が語られたのは、その状況が1つの教訓をあからさまに示していたからであると想像してもかまわないであろう。前世紀[十八世紀]の終わり頃、デヴォンシアの田舎では、小川の上に橋を架けることは、必ずしも絶対に必要不可欠であるとは考えられていなかった。そして、朝夕の学校の行き帰りに渡らなくてはならない川の1つには、徒歩の渡河者の利便のために、いくつかの大きな切石が川の中に置いてあるだけで、それを踏み外せば溺死する危険があった。そうした大きな切石の上で遊んでいたあるとき、リチャード・ニルは川に転落した。だが、それが起こったとき、さほど離れていないところで羊毛を梳いていたひとりの貧しいやもめが、はね返った水音を聞きつけ、急いでやって来ると、そのときは亜麻色の髪の毛をしていた小さな少年を救い出したのである。ニル氏は、いかにしてその老女が――もちろん、彼にとってはまぎれもなく偉大な女主人公であった――彼の巻き毛をつかんで彼を救ったかを、また、時には長髪にも真の利点があることを、告げることができたはずである。「彼女は字は読めなかったが、私のいのちを救ってくれたのだよ」、と老宣教師は云い足したであろう。

 牧師一家とその滞在客が土曜日の夕べに、スタンボーン牧師館の最上の客間に集まったとき、老ジェームズ・スポルジョンは、熱烈なピューリタン的心情により、当然ながら、外国の地で何がなされているかについて興味深く聞きたがったはずである。私たちには、そこでいかなるやりとりが交わされたか確かな記録は何もない。だが私たちは、牧師と、その孫が、その場にいた多くの人々ともに、ニルのような人物の語りうる奉仕と冒険の物語に、魅せられたように耳を傾けたであろうことは完全にわかる。さらに、これらすべてによって、翌日、隣接する集会所で語られることになっていた宣教説教に対する彼らの興味は、いやが上にも高められたことであろう。

 スタンボーンの牧師が、厚座布団の上に座った孫を足下にまといつかせ、インドについて何か話してくれるよう兄弟ニルに頼んでいる声が聞こえるようである。三十年以上も前の今世紀初頭のインドを、ニルはじかに知っていたからである。ニル氏は、マドラスでの暮らしについて多くのことを知っていた。1816年に彼が見いだしたマドラスでは、名ばかりのキリスト者でしかない欧州人が、非常に恥ずべき生活をすることが流行っていた。彼が同市に到着してまもない、ある日曜日のこと、礼拝後に、その宣教師[ニル]は、一団の陸軍将校たちと正餐をとったが、彼らの習慣は社会一般の状態をみごとに映し出すものであった。「葡萄酒が陽気に酌み交わされ、彼らは私にも飲むようにせっついた*1。私は丁重に断った。その大尉は云った。『郷に入りては郷に従え、と云いますぞ』。そこで私は、こう云った。『大尉殿、もしあなたが私に無理にも飲めというなら、私はそのことをあなたの妹御に手紙で書きますよ。そうしたら、妹御は何と云われるでしょうか?』 それで罠は破られた。『よろしい、ではお好きになさい』、と彼は云った。彼らは軍人たちの物語をし、私は宣教師の物語をし、その適用としてこう云った。『紳士のみなさん。私は、ブラックタウンの私たちの会堂の近くに、男子学校と対になる女子学校を建てようとしております。そして、今回は私の当地への最初の訪問なので、私はこれを記念すべきものにしたいと考えています。すなわち、みなさんには、その最初の寄付者になってほしいのです。どうかその礎石として、私に何がしかのものを与えてください』。彼らは、それにやんやと応じ、その女子学校のための15ポンドとともに、私を大尉のかごで送り返してくれた。その時から、その大尉は、会堂に定期的に出席するようになり、時には十人から十二人ほどの将校たちを連れて来るようになった」。

 ニル氏は、インドのことだけでなく、ロシアのことも物語れたはずである。というのも彼は、1824年11月の、あの記憶すべきネヴァ川の大氾濫や、1830年の、あのすさまじい虎列剌の大発生の時に、サンクトペテルブルグにいたからである。この古びたエセックスの村で起こりつつあるすべてのことに強い関心をいだいていた、この小さな少年は、ほぼ二千年前、ヘルクラネウムやポンペイの二都市に突如襲いかかった火の嵐について一度でも聞いたことがあっただろうか? もし聞いたことがあったとしたら、彼の新しい友人ニル氏は、突如洪水に襲われた現代都市たるロシアの首都で実際に暮らしていたのである。何十万もの住民のうち、その洪水による死を免れえた者は、かの古代の二都市にいた人々のうち、その圧倒的な炎から脱出できた者らと同じくらいしかいなかった。

 このロシアの都における洪水について、この宣教師がかつて物語った内容は、彼が故国英国で、自分を招いてくれた友人たちに向かって、その炉辺に座りながら、面白おかしく話して聞かせることのできた事がらの実例である。――

 「風は猛り、水位は非常に高く上がった。そのため、何門もの大砲が打ち鳴らされ、川面にほぼ等しい高さに建っていた共同住宅の住民らに警告が発された。翌朝、その大砲はもう一度発射された。川は甚だしく増水していたからだ。午前十時になる頃、ネヴァ川近くの街路には水で覆われ出すものが現われた。だが人々は、水位がそれ以上に上るとは信じようとしなかった。かつてその都市が水浸しになってから四十七年もの歳月が流れていたのだから。だが十時半になる頃には、もはや家財を運び出すには遅くなりすぎていた。そして、あらゆる人々が混乱に陥った。走ることのできる者らは走った。それができない者らは、迫り来る死からの助けを求めて泣き叫んだ。ある場合には、罹災者たちに救出の手が届いたが、多くの場合、彼らは洪水のため窒息死した。午後二時になる頃には、その町は思うも最も恐るべき惨状を呈していた。あらゆる場所から人気がなくなっていた。いのちある物は何1つ見えず、街路を埋め尽くしていたのは、舟や、端艇や、物見台や、ぷかぷか浮かぶ木や、墓地から流れてきた棺すら含む、種々雑多な品物であった。いくつかの村は、村ごと押し流されてしまい、後にぽつりぽつりと残った、数軒のあばら屋のほかは、何もかつてそこに村があったことを示すものはなくなった」。

 これこそ、四、五十年前にスタンボーンの牧師館にやって来て、宣教説教を行なった人物であり、こうしたことこそ、機会が与えられさえすれば、彼がその波瀾万丈の経験から物語ることのできた物事であった。私たちが彼に関心をいだく理由は、実際、彼こそ、この村に入って来た人々の中で最初に、若きチャールズ・ハッドン・スポルジョンの非凡な天才を見抜く眼力を持っていた人物と思われるからである。ニル氏は、その小さな友人と同年代の子どものうち、家庭礼拝の際、これほど心動かすようなしかたで聖書を読める子どものことなど一度も聞いたことがなかった。また彼は、自分でも説明できないある種の予感によって、自分の前にいる小さな子が、やがて教会で卓越した奉仕を行なう運命にあると感じた。彼が、この若い友人について驚くべき予言を行なったことは、今やだれしも知るところである。彼は、この子が大きくなったときには、途方もない数の人々に向かって福音を宣告するようになるだろうと云い、また、彼がサリー会堂で最初に説教するときには、ぜひクーパーのよく知られた賛美歌、「みかみのみむねは いともくすし」[讃美歌89番]を会衆に歌わせてほしい、と頼んだ。このようにこの献身的な元宣教師が語ったこと、また、それ以外の多くのことは、最終的にはすべて実現した。そして、スポルジョン氏の初期の成功をだれにもまして喜んだのは、かつてその祖父の牧師館で、この未来の大説教者と出会い、祈り合い、尋常ならざる見込みのある子どもとして高く評価した、この友人であった。スポルジョン氏の礼拝に大群衆が集っているとの知らせがチェスターに届いたとき、リチャード・ニルは、「わしは、その人を知っておる!」、と叫んだ。スポルジョン氏も、まだリチャード・ニルのことを覚えており、慕っていた。スタンボーンで始まった友情は、1857年に老宣教師が七十歳で死ぬまで続いた。この宣教師と彼の年若い友人は双方とも、スタンボーンにおけるふたりの最初の出会いを全く摂理的なものであるとみなしていた。そして、この小さな子はいつの日かロウランド・ヒルの会堂で説教するだろう、との驚くべき予言は、確かにそれ自体その実現を助けたものかもしれないにせよ、この挿話の全体は、格別な注意を払うに十分値するほど尋常ならざるものである。

スポルジョンの父ジョン・スポルジョン。独立派の牧師としてコルチェスター近郊のトールズベリーで16年間奉仕し、長く有益な一生を送った後、91歳で没した。


*1 この引用文は、もちろんニル氏自身の著作からのものである。[本文に戻る]

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