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第4章

幼年時代

幼子と村の族長――互いの益――心は少年の老人――古めかしい牧師館――ピューリタン的な心情の発達――スポルジョンは他の少年たちに似ていたか?――彼に独特の特徴――彼の読書――『ロビンソン漂流記』への賞賛――フォックスの『殉教者伝』――懸賞論文『反キリストとその子ら』――幼児とローズ老人――老スポルジョン氏とジョージ王朝時代――宗教生活の発達――会堂および牧師館における古めかしさ――コルチェスターの彼の家――彼の休日――幼年時代の思い出――彼の父の牧会活動――彼の母

 スタンボーンの牧師は、彼の孫が周囲の世界にあれこれ関心を持ち出す年になる前に、すでに年老いつつあった。――すなわち、メトロポリタン・タバナクルの亡牧師が、その村や近辺を走り回れるくらいの幼子になったとき、その牧師館の主は、ほぼ七十歳にならんとしていたのである。この族長と幼子は、多くの時間をともに過ごしたらしく、双方とも、相手に対して非常な愛と親しみを感ずるようになった*1。一方には、面倒を見るのも心楽しい預かりものがいた。もう一方には、尊敬と賞賛に値する教師がいた。それぞれが、相手との関わりによって益を得ていた。老年に至るまで労苦と焼けるような暑さを辛抱してきたとはいえ、祖父は心においてはまだ少年であった。彼の敬虔さには爽やかな溌剌さがあり、そのため彼の語り口は、育ちゆく若き天才にとって興味深いものであった。老牧師のピューリタンめいた古風な趣も、その子のうちに、打てば響くものを見いだした。古めかしい居間でも、書斎でも、説教の最終草稿が書き記される大きな古い客間でも、野外でも、ふたりは多くの時間をともに過ごすのだった。もちろん幼子は、老牧師のより狭い視点からすると、到底考えつかないような事がらについても着目した。こういうわけでその子は、単に猟犬や狩猟家たちに興味津々であっただけでなく、聖書によく通じ、時にはだれにも答えられないような問いを発することがあった。そうしたときその子は、こうしたあらゆる問いかけと同じく、その問題に何らかの解決を見いだすまでは満足しようとしなかった。いずれにせよ、こうしたことはみな、キリスト教信仰や宗教的な問題に対する関心を示しており、それをスタンボーンの老牧師は丹念に刺激し、可能な限り最良のしかたで涵養しようとしていた。

スタンボーンの故ジェームズ・スポルジョン師

 確かな筋によると、スポルジョン氏は、遺伝的にピューリタンであっただけでなく、もしだれか信仰ゆえに迫害を受けて故国を捨ててきた先祖を持つ人がいた場合、たちまち相手と血縁であるかのような気分を感ずるのが常であったという。スタンボーンでは、後の彼に見られた、あらゆるピューリタン的なものが、自然に発達していった。

 この亡説教者の父、ジョン・スポルジョン氏は、自分の長男の幼年時代について、このように回想している。――

 「チャールズは祖父母によって育てられたと云われてきました。実を云えば、チャールズが生後十四箇月の赤ん坊のとき、私の父と母がわが家を訪問し、ふたりがチャールズを連れていったのです。息子は、四歳半になるまで私の両親とともに過ごし、それから家に帰ってきて、コルチェスターで私たちと一緒に暮らすようになりました。当時私はコルチェスターに住んでおり、それと同時に、数マイル先のトールズベリーで牧師の仕事もしていたのです。その後もあの子は、しばしば休日を祖父母のもとで過ごし、非常にかわいがってもらいました。……チャールズは健康な男児で、病弱なところがなく、人懐っこくて、とても勤勉でした。いつも本を読んでいて、――他の男の子たちのように庭を掘り返したり、鳩を飼ったりというようなことは一度もしたことがありません。手に取るものといえば、本、本、本でした。母親があの子を馬に乗せようとして探してみると、決まって私の書斎で本に読みふけっているのでした。もちろんあの子は頭がよくて、ほとんどどんな方面でも優秀でした。あの子は絵を描くのが非常に上手になりました。……私は、別の部屋に、あの子が描いた古い建物の絵――模写を見て描いたもの――を持っています。それには、あの子の署名がしてあり、日付は1848年になっています。それはあの子が、かなり大きくなってからのことです。病気にかかる前にわが家を何度か訪問したとき、一度チャールズは自分の絵についてこう云っていました。「父さん、ぼくにはあの絵を形見に残してほしいよ」。「お前さえよければ、今すぐ持っていってもいいんだよ」、と私が云うと、「そういうわけじゃないんだ」、とあの子は答えました。「あれは長年ここに掛かっていたからね。ぼくは、形見にもらえさえすればいいんだよ」。「あれはお前のものだ」、と私は念を押しました。「ほしくなったら、いつでも持っていくがいい」。

 こうした言葉を始めとする証言があるといっても、チャールズ・スポルジョンが、他の男の子たちと似ても似つかない子どもだったと考える必要はない。後年の彼の快活さや、子どもたち一般に対する素朴な共感の念からしても、そのような考えを一蹴するに足ると思われる。確かに彼は、クリケットのような遊戯や運動競技を愛好したことは決してなかった。だが、孤児院の少年たちが戸外活動の日に思いきり活躍しているのを見たとき、こうした筋肉を鍛える方法をないがしろにしてきたことを彼が悔やんだという話には信憑性がある。また彼は、メトロポリタン・タバナクルの牧師だったとき、自宅の芝生の上で木球を使った柱戯に興じるものだった。

 それと同時に、この少年には独特の際立った特徴を有していた。確かに彼は、同年代の並みの少年よりも思慮深く、自分の読む本によってずっと深い印象を受けていた。半世紀前に、早熟した子どもがひとりで本を読み出すとき与えられる文学には数に限りがあり、その結果、『ロビンソン漂流記』や、『天路歴程』、それに老ジョン・フォックスの『殉教者伝』といった古典的な愛読書のいくつかは過分の注意が払われていた。若きスポルジョンは、こうした作品を読むことによって大きな感銘と影響を受けた。バニヤンの登場人物たちは、彼にとって現実に生きた人物同様になった。善良な性格をした多くの人物たちが、ほとんど個人的な友人のようになる一方、この読み手は、すべての良きものの敵、アポルオンや悪魔に、自分も容赦なく立ち向かおうと激しく決意を固めるのであった。それから彼は、世才氏や、憎善氏や、《空の市》で、基督者に辛く当たったすべての人々をひどく嫌うようになった。そしてついに、もしかすると祖父や叔母からの説明という多少の助けを借りて、彼の心には真理の光が射し込んできた。すなわち、自分の一家全員は巡礼であること、《空の市》はまだ立てられていること、そして自分の祖父は、叔母やこの小さな少年にとって、基督女と彼女の子どもたちにとっての《大勇者》と同じくらい全く必要な人物だということである。それとは別の種類に属するデフォーの傑作は、別の影響を与えたが、これはスポルジョン氏が決して賞賛するのをやめなかった本であった。そして、その死の数年前に『ロビンソン漂流記』をもう一度読み通した彼は、自分がいかにこの本を高く評価するか語ったという。老フォックスの大著[『殉教者伝』]について云えば、最初、彼の感受性の強い精神には、おそらくその図版の方が、本文にまさって深い印象を与えたであろう。スミスフィールドや、その他の受刑地で焼き殺される殉教者たちを描いた二折判大の挿絵は、幼い心を揺さぶり、終生消えることのないローマの教義体系に対する憎しみを生みだしたのである。こういうわけで、十六歳になった彼がその最初の文学論文を書き上げたとき、きわめて自然に選ばれた主題は、「反キリストとその子ら」であった。その作文は、今もなおジョン・スポルジョン氏が所有しており、今日出版されるとしたら、興味をそそる読み物となるであろう。

 それに先立つ何年も前の、少年がまだ六歳にしかなっていない頃、彼は自分の祖父がその会衆のひとりの悪習慣を嘆いているのを小耳にはさんだ。件の人物は、居酒屋に通い、麦酒を一杯飲んでは、静かに煙管をふかすのを常としていたのである。幼いチャールズは、「そんなやつ、ぼくが殺してやる」、と云い、まもなくしてから、それを実行したと祖父に告げた。「ローズじいさんを殺したから、もうおじいちゃんは悲しまなくていいんだよ」。「坊や、それは一体どういうことだね?」、と教役者は尋ねた。「何も悪いことはしなかったよ、おじいちゃん」、というのが答えだった。「主の仕事をしただけだもの。それだけだよ」。この謎は、すぐに当のローズ老人によって解き明かされた。彼がスポルジョン氏に告げたところ、その子は居酒屋にやって来ると、彼にこう云ったというのである。「エリヤよ。ここで何をしているのか。不信仰な者どもにまじって。おじいさんは教会員でしょう。牧師先生を悲しませるなんて! ぼくは恥ずかしいよ! ぼくだったら絶対そんなことしないよ」。ローズ老人は、そのときはかんかんになって怒ったが、やがてその子の方が正しいという結論に至り、許しを乞いに来たのである。

 私たちは、この時期のこの小さな少年が、あらゆることにおいて祖父に素直に従っていたと考えなくてはならない。しかしながら、この古強者が私たちの小さなサムエルにとって万事の最終的権威となるエリであったと同時に、老牧師の娘である未婚の叔母は、第二の母のように彼に良くしてくれた。このような婦人のこのような性質の影響は、いつまでも残る大きなものであった*2

 スタンボーンでの彼の生活を取り巻くものは、みな彼の宗教生活の健全な発達に資するものだったように思われる。やがて、その昔ながらのエセックスの村の牧師館こそ、メトロポリタン・タバナクルの牧師の最も好もしい記憶が結びつけられることになったのである。多くの点で、その場所は非常に恵まれていたように思われる。農夫たちはほどほどに裕福であったし、村々の甚だしい過疎化はまだ感じられていなかった。そして、何にもまして良いことに、非国教徒と国教会の教会員たちとは和合して暮らし、より貧しい隣人たちの益をはかるため、手に手を携えて働いていたのである。

 教会でも、会堂でも、日常生活でも、古い時代のやり方の多くが、今なお続けられていた。そして、老ジェームズ・スポルジョン氏の家にしばしば集まった堅実なキリスト者たちの口ぶりは、ピューリタンの人々自身に吹き込まれたと云ってもいいような種類の、古めかしいものであった。こうした暖かな心をした教会員たちは、この小さな男の子を心から可愛がるようになり、その子はその子で、彼らに対する愛情を自然といだくようになった。時としてその子は、年長者たちを驚かせるようなしかたで会話に加わることがあったらしい。だが、だからといって彼らは、その子に並々ならぬ天才があるなどとは思いもしなかった。この丸顔の子どもは、年相応に利発ではあったが、こうしたエセックス農民やその家族たちとは桁外れの炯眼の持ち主でもなければ、その子の並々ならぬ資質を見抜くことはできなかった。その古い集会所に集っていた会衆にとって彼は、単に祖父の奇矯さの一部が身についただけの、後にはその奇抜さと正直な物云いによって、その老人と張り合うことになるであろう、ませた子どもにすぎなかった。だが、すぐに示されるように、やがてひとりの訪問者がスタンボーンにやって来て、この小さな少年のうちに、他のだれも見てとらなかったような大きな将来性を見てとることになる。

 しかしながら私たちは、この老牧師の孫がその幼年時代のすべてをスタンボーンで過ごしたと考えてはならない。彼はそこに五歳過ぎまでとどまっていたかもしれない。それから彼は、コルチェスターの両親の家に戻り、そこで初めて学校に通うことになった。小学生の頃、スタンボーンは彼がその休日を過ごすのを最も好んだ場所であった。――それは、彼が両親の家よりも祖父の家にいる方が幸せだったということではない。というのも、この未来の大説教家は、自分でも測り知れないほど多くのものを、その父と母に負っていたからである。彼自身、この事実を認めていたはずである。幼少期について彼が思い出せる記憶のうち、キリスト者生活と調和していないものは何1つなかった。ジョン・スポルジョン氏が絶えず福音を説教することに携わっていた間、その妻は、模範的なキリスト者婦人の完全な特徴となるようなしかたで子どもたちの世話をする務めに献身していた。彼女こそ、自分の子どもたちに聖書を手ほどきした女性であった。彼女は、彼らが正しい道を歩むように励まし、子どもたちひとりひとりのために熱心に祈っていた。その熱烈さそのものが祝福であった。一言で云うと、将来のメトロポリタン・タバナクルの牧師の母は、ひとりの偉人が誇りに思ってよい母親であり、幼いうちからの彼女の教育と配慮は、彼によって、常に情愛のこもった感謝の念とともに思い出されることになった。


*1 「スタンボーンがスポルジョン氏にとって、格別な魅力を有していたのも不思議ではない。同地でこそ、彼の人格の土台は堅く据えられたのである。彼の両親には十七人の子どもがあり、その糊口をしのぐ手立てはごく乏しいものであった。疑いもなく、少年がその祖父の牧師館に長期滞在することは何がしかの助けとなったはずである。そこで彼は、自分が古のピューリタンの世界の中にいることに気づいた。ジェームズ・スポルジョンは、きらめくような機知の持ち主であり、後に土地で云い伝えられるようになったところ、この人物こそジョン・プラウマンの原型になったのだという。彼は、希有の霊的な力を有する説教者で、ひとりの聴衆の奇抜な感想によると、彼の唇から出た説教を聞くと、『翼の羽根に足が生えるようでしたぞ。ああした天上の食物で養われた後では、鷲のように高くのぼることができましたわい』。ひとりの敬虔な労働者は、彼に非常な敬意を払っていた。「あの方は、いつも、たいそう経験的でしたな。聞く側は、まるで、あの方の心の内側に入り込んだように感じましたわい」。チャールズが説教者になったときにも、次のように云う人々がいた。『私は、あなたのお祖父さんの説教を聞いていましたよ。そして、スポルジョンの一族が説教するとあらば私は、いつだって、裸足で駆けつけて来ますよ』」。――文学士ジョン・テルフォード、『メソジスト・レコーダー』誌。[本文に戻る]

*2 「スポルジョン氏は一家の初孫であった。彼がごく幼少時に自分の父の家からスタンボーンの祖父の家に移された際の祖父宅には、父の妹であるアン・スポルジョン嬢が暮らしていた。彼女は、特別に自分に世話をゆだねられた赤ん坊の甥に対し、未婚の叔母からしばしば与えられるのが見られる愛と情愛を惜しみなく注いだ。彼はこの上もなく気立てのいい子どもだったと云われる。片言も喋れない、ほんの幼児でしかなかったときでさえ、辛抱強く何時間も、絵本を手にしながら楽しそうに座っているのだった。彼の読書好きな所は、すぐ明らかになった。六歳になった時の彼は、同年輩の子どもには一音節の単語を綴れるか綴れないか程度の進歩しかしていない子もいたというのに、その幼さを考えると驚嘆に値するほど見事に抑揚をつけて本を読むことができたのである」。――とある同時代人による『人格の特徴』、1860年。第2巻、p.80-81。[本文に戻る]

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