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第3章

 スタンボーンのジェームズ・スポルジョン

「最後のピューリタン」――家伝のリウマチ性――チェルムズフォード監獄のジョブ・スポルジョン――スタンボーンの老牧師――彼の特徴――彼が牧師になるため受けた訓練――スタンボーンとその周辺部――ハーヴィー家――独立派会衆の設立者ヘンリー・ハヴァーズ――ジェームズ・スポルジョン、スタンボーンに定住する――戦争と高すぎるパンの時代――村の《大勇者》――特別の摂理――チャールズとその祖父――スタンボーン屋敷の地主訪問――悪魔に抵抗する――旧世界の遺物――老牧師、ロンドン訪問を拒否する――旧時代と新時代の最後の環

 スタンボーンの独立派牧師、老ジェームズ・スポルジョン氏のような説教や、語り口や、服装をしている人がいる場合、人々がその人のことを、ピューリタン最後のひとりであると考え、噂するのも無理からぬものがあった。現存する彼の孫たちのうち主立ったひとりから私が聞いたところ、この古強者の説教者は、八十歳から九十歳になる頃、火にあたりながら、意味ありげに両膝をさすっては、結局、自分はリウマチによって早世するかもしれんという懸念を云い表わすのが常だったという。リウマチは家伝の病であった。これは、すでに言及されたように、良心のためチャールズ二世治下の冬期に何週間もチェルムズフォード監獄に禁固されたジョブ・スポルジョンの時代までさかのぼって考える者もいようが、ほぼ確実なところ、それよりも一世紀早く、ネーデルランドからの亡命者たちがその病を持ち込んだものと思われる。

 『キリスト教世界』の記者は、スポルジョン氏とその祖父について、このような言及をしている。

 「昨秋のある日、エセックスに下ってケルヴェドン近くを訪れたときに私が聞き込んだところ、少年時代のスポルジョン氏は、陰気とまでは云わぬものの、幾分人見知りする、内気な性質であったという! 事実、疑いもなく彼は、自分の見聞きしたあらゆることを吸収しつつあったに違いない。しかしながら、それは、時が来れば、おまけをつけて再び口から発されるためであった。彼は、主に祖父によって育てられた。この人は、五十年もスタンボーンの独立派教役者を務めた人物であり、明らかに明敏で才気ある老人であったと思われる。土地の云い伝えによると彼は、かの有名な[スポルジョン創作の]人物ジョン・プラウマンの――少なくとも機知と知恵に関する限りは――原型であった」。

 老ジェームズ・スポルジョン氏は、ただ単に、妥協を知らない福音主義的教説の擁護者という以上の人物であった。彼には、その青年時代および少壮時代を過ごした旧世界に伴う、古風な習慣があった。おそらく彼は、自分の属していた派のあらゆる古強者と同じように、いくつかの根深い偏見を有していたかもしれない。だが彼は、祖先のピューリタンの血統に特徴的であった、あらゆる強烈な感情を受け継いでいた。スタンボーンのジェームズ・スポルジョンは、その雄々しい先祖、ジョブ・スポルジョンのそれに毫も劣らぬ気性の持ち主であった。そのような資質こそ、殉教者を殉教者たらしめたものである。いかなる時に、いかなるしかたで敵が姿を現わそうと、ジェームズ・スポルジョンは「臆病風を」吹かすすべを知らなかった。彼は迷信深くはなかったが、自分の存在を疑わないのと同じくらい確かに、人格的な悪魔の存在を疑わなかった。かの《悪い者》は、単に現実の敵であるばかりでなく、いかなる代償を払っても常に抵抗すべき者であった。悪魔は、平日の間、牧師が行なう最上の努力を邪魔するかもしれなかった。安息日、講壇への踏み段を上る牧師の後について来て、心を乱すような想念をかき立てるかもしれなかった。だが、このような怨敵が用いうる、いかなる武器も役には立たなかった。会衆は、その牧師と全く心を1つにしていた。彼が説き教え、実行したことを、彼らは、世とその日常生活の中に携えて行った。講壇で語られたいかなることも、会衆席で信じられたいかなることも、徹底的に実証済みのことでしかなかった。それは、二世紀にもわたってピューリタン的熱情が燃え続けた希有の例であった。また、たとえ国教会の教会と独立派の会堂との間に、かつては何かしらぎくしゃくしていた時代があったにせよ、ジェームズ・スポルジョンの時代には、すべては平和と友情に場所を譲っていた。2つの会衆は共通するものを大いに有しており、国教徒の教職者と非国教徒の説教者は大の親友であった。半世紀前のその村を思い描くとき、そこでは英国の最良の田園生活が営まれていた。

 今世紀[十九世紀]の初頭、ジェームズ・スポルジョン氏は、ホックストン学院の学生であった。それは、非国教徒の間で奉仕しようとする牧師志願者たちが訓練を受けた学校である。1804年の真夏に彼は、クレアにある独立派の会堂の講壇奉仕のために派遣された。クレアは、サクソン時代にさかのぼるサフォーク州の町であり、古い教会と、かつては強固な城塞があった。1806年の夏、ジェームズ・スポルジョン氏はクレアの牧師職を引き受けたが、四年後スタンボーンに転居し、1864年に死ぬまで同地にとどまった。

 スタンボーン? もちろん読者は、その場所を知らないであろう。それは汽車で通り過ぎてしまう場所ですらない。そこには何の鉄道駅もないからである。大東部鉄道でイェルダム行きの切符を買えば、三マイル弱歩くことになるであろう。だが、もしその付近の郵便集配局のある町ハルステッドで下車したければ、八マイルほどの結構な田野横断遠足を楽しむことになる。一度もその地方に行ったことがない人は、道路に気をつけるがいい。そして、もしスポルジョン氏と言葉を交わす機会があったとして、自分はその土地の者ですと告白するか、その地方についてかなり詳しく知っているような告白をして、氏の関心をかき立てた場合、氏があなたに発するであろうような問いに答えられるかどうか、自問してみるがいい。スポルジョン氏の少年時代の大イェルダムには、物見高い見物人がみな見に来るような樫の巨木が立っており、それは、朽ちて枯れる前の最盛期には、地上四フィートの部分の幹周りが三十フィートを数えたという。二マイルほど北西[東南?]に行ったトップスフィールドは、地中から発掘されたローマ時代の遺跡のために、現地ではそこそこに評判が高かった。ウェザーズフィールドも興味深い町で、そこには古い教会があった。パント川支流の河岸に立つフィンチングフィールドは、東エセックスの猟犬たちがよく群れをなして集まる教区で、その獲物に幼いチャールズ少年が大いに興奮した場所であった。その荘園は、かつては、ジョン・デコンプの所領であった。エドワード三世の即位式で焼き串を回すという卓越した奉仕により、彼に与えられたのである。さほど遠からぬスティープルは、主として聖バーソロミュー病院に属する土地である。そしてヘンプステッドには、その《大きな樫の木》があった。また、この地区にはウィンチロー屋敷もあり、それは、血液循環の発見者ウィリアム・ハーヴィーの一族の持ち家であった。

 スタンボーンの周辺には、こうした村々があった。実際にその村に到着した人にとっては、その古い教区教会が、そのノルマン様式の塔とともに、興味深い対象となるであろう。また、スタンボーン屋敷と呼ばれる居心地の良さそうな古い大邸宅もまた、そうであろう。1つまた1つと住み手がいなくなりつつある労働者たちの堀っ立て小屋の方は、おそらくずっと居心地の悪い感想をいだかせるであろう。だが私たちの関心は、現在よりも過去にあるので、地方産業の衰微を示す芳しからぬ徴候について感想を述べる必要はない。もう1つ遺憾なことは、ジェームズ・スポルジョンが住んでいた古い牧師館や、同じ地所にあって彼がほぼ六十年にわたって福音を説教していた集会所がなくなっていることである。

 スタンボーンをエセックスの典型的な村として考えるのは快いことである。だが、それを抜きにしても、この、いわば現代生活や進歩という渋滞した目抜き通りからはずれたところに横たわっている閑静な地の歴史は、英国の田園生活における最良の時期の何がしかを例示している。十七世紀のこの地方で、いかなる者にもまして熱烈に国教会を愛していたのは、ヘンリー・ハヴァーズであった。彼は、この教区のかつての教区牧師として、[王政復古後に国教会から放逐された後で]独自の非国教徒の会堂を設立し、そこではジョージ二世[位1727-60]の治世の半ばまで[国教会の]《一般祈祷書》が読み上げられていた。資産家であった彼が設立したこの教会は、今日までで九人に及ぶ歴代牧師のもとで発展し、その土地建物は用心深い彼の手で管財人の手に委ねられた。

スタンボーンの古い牧師館と集会所

 故ジェームズ・スポルジョンが1810年にこの辺鄙な場所に居を構えたとき彼は、自分ではほぼ思いもよらぬことながら、すでに歴史探訪者にとってはある程度の魅力を有していた居住地に、新たな興味を付加することになる人物となった。時世は厳しく、先行きも暗かった。というのも、この牧師の長男――現在のジョン・スポルジョン師――が生まれた頃には、英国における小麦の値段は1ブッシェル当たり1ギニーにまで高騰し、地方によっては、それよりもさらに数シリングも高くなっていたからである。しかしながら、こうした欠点にもかかわらず、当時を知る人々の中には、その頃を古き良き時代と云ってはばからない人々があるのである。

 ジェームズ・スポルジョンのもとで、旧時代の古い様式は、現女王[ヴィクトリア女王。位1837-1901]の即位後、相当長く経ってからも保持されていた。また、五十年前に書かれた、現存する日記は、共和国時代[1649-1660]に生きていた、どこかのピューリタンの《大勇者》によって著されたものと思われても不思議はないようなものである。その著者は、移り行く黒雲による肌寒さを感ずることはあっても、彼の太陽が本当に包み隠されるようなことは決してなかった。彼の信仰は、はるか先を見越こすことのできる、揺るぎないものであった。彼の敬虔さは、枯れることない泉で清新にされているしゅろの木のように健全であった。ジェームズ・スポルジョンは常に飾るところがなく、それは彼が、今世紀前半に英国に生きていた他の人々とは似つかぬ人物であったことを意味していた。彼は、田舎で奉仕するために生まれたように見えたし、都会の喧噪や興奮に満ちた生活の中にいたとしたら、あれほどの成功をおさめることはありそうもなかった。

 こうした人物の生涯には多くの特別な摂理が働くものであり、そうした中でも最も著しかったのは、祖父と孫が1つ屋根の下に住むようになったことであった。ふたりは、それぞれ互いのためにあつらえられたようであった。一方が相手よりも六十歳近く年上であったとはいえ、彼らには共通するものが多くあった。いずれにせよ、幼いチャールズは、この尊敬すべき牧師を喜ばせるようなものを簡単に好きになるように見えた。その子は、この古強者のキリスト者にとって日ごとの慰めとなり、それと同時に、自分の心と精神の教育にとっては、総じて、おそらく最も適した学び舎で学習しつつあった。

 スポルジョン氏のような立場にあった人が、祖父の家で過ごした少年時代を、明るい日差しに満ちあふれた時代として回想していたのも無理はない。真実を言えば、その村での生活状況は全般的に良好なものであった。スポルジョン氏は、氏らしい云い回しで、その教区の教区牧師と自分の祖父とが、教理的な信仰内容の点でいかに一致していたかを告げている。地主は国教徒だったが、非国教徒の会堂に出席することもあった。月曜になると、地主と、教区牧師と、非国教徒の牧師と、この小さな少年とは、みなで地主屋敷に寄り集まるのが常だった。――それは陽気な集まりで、砂糖をふんだんにまぶした乳酪パンとお茶が楽しめた。こうしたことを始めとする多くの事がらについて、読者はぜひともスポルジョン氏の最後の著書『スタンボーンの思い出』を読むべきである。

 先に述べたように、当時の人々の中でも、スタンボーンの老牧師にまさって、驚くほどにピューリタン的な特徴を示していた人物はほとんどいなかった。彼にとって聖書は文字通り神のことばであり、すべてが逐語的に霊感されていた。人格的悪魔を信ずる彼の強固な信念については、すでに言及した。また、この点における彼の経験のいくつかは、ほとんど『天路歴程』の中から借りてこられたものであるかのように思える。彼は、自分が、最も思いがけないときに、また自分の最も弱い点を《悪い者》によって攻撃されがちであると思っていた。

 さらに尋常ならざるものは、彼が青年時代に一度見た夢であり、その中で彼は悪魔を見たと考えていた。日頃彼は、コゲシャルとハルステッドの間にある、かつてはハニーウッド広場と呼ばれていた、人気のない場所で独り祈るのを常としていた。だが、この夜の幻の中でサタンは、もしこの若い牧師が、あの樫の木までの踏み固められた通り道を二度と歩こうなどとしたが最後、ずたずたに引き裂かれるであろう、と怒り狂って宣言していたように見えたのである。これは本物の脅威とみなされたように思われる。この青年は、たびたび神との交わりを持っていた木の下へと続く、その通り道を避けようとはしなかったが、緊張しきって、顔にびっしり汗をかきながらその場所に着いたのである。そこには何の魔神も見当たらなかった。だが、その地面には大きな黄金の輪が落ちており、その持ち主はいかにしても見つけることができなかった。スタンボーンの牧師は、そのときにはまだ結婚していなかったらしい。こうしてスポルジョン氏の祖母の結婚指輪は、このように謎めいたしかたで発見された黄金から作られたのである。この事件の驚くべき詳細は、『余った半時間』という書物の中に記されている。

 スタンボーンの牧師は旧世界に属しており、自分でもその事実を悟っていたらしく思われる。ロンドンには、彼も今世紀初頭の数年は、学生としてある程度なじんでいた。だが彼は、いったんそのひなびたエセックスの牧会地に身を落ちつけるや、決して遠くへ行こうとはしなかった。彼が一度でも汽車に乗ったことがあるかどうか、私にも確かなことは云えない。というのも、私の知る限り、彼がそのような旅行を行なった記録は全く存在していないからである。メトロポリタン・タバナクルが開所したのは、彼の死の二、三年前であった。だが、確かに彼ほど孫の成功に関心を持っていた者がいないことは、何度となくその件に言及することからも明らかであったにもかかわらず、スタンボーンの老いた牧師は、メトロポリタン・タバナクルでの礼拝に参加するためロンドンを訪問するようにとの説得に、がんとして首を縦に振らなかった。「わしは年寄りすぎておる」、と彼は云うのだった。八十代も半ばを過ぎた人の口から出れば、その訴えにはある程度の重みがあったに違いない。

 ジェームズ・スポルジョンは、古の非国教徒の最後の代表者のひとりとして生きていたように見受けられる。そのすべての嗜好と、流儀と、熱望とにおいて、この古強者は、すでに過ぎ去って久しい世代に属していた。彼の信仰は、その子どものような単純さにおいて古風なものであった。彼は近代批評学によって生じたいかなる疑念にも決して悩まされることがなかった。彼は聖詩詠唱を愛していたが、聖書の中にそのまま出てこないものを歌うときには、それはウォッツ博士の賛美歌の1つであった。彼の習慣のすべてが、彼の古風な服装と釣り合って見えた。

 スタンボーンの尊敬すべき牧師は、旧時代と新時代を繋ぐ最後の環の1つであった。ほぼ九十年に及ぶその長い一生の間に、時はいかなる変化を世界にもたらしたことか! ジェームズ・スポルジョンの幼少期に、ジョンソン博士はいまだロンドン文壇で威を振るっていた。合衆国共和国の設立およびフランス革命は、彼の青年時代の事件であった。そして、彼が若手牧師であった頃に、ナポレオンはウェリントンによってワーテルローで失脚した。人としても牧師としても、スタンボーンの古強者は、自分の生まれ出たジョージ王朝時代の旧世界に属していた。そしておそらく彼は、人々が採用するのをその目で眺めることになった新機軸や、現代の種々の物事のやり方にほとんど、あるいは何の共感も寄せていなかったであろう。もしも今の時代のだれかれが、今世紀の半ばに、かの古い集会所に足を踏み入れることがあったとしたら、それは年輩の人々がかつて好んで考え、好んで語っていたような十七世紀の時代の影の下に座すようなものであったであろう。会衆席を埋める人々も、講壇に立つ説教者も、また、礼拝が終わった後に牧師館そのもので持たれる暇乞いも、二度と再び来ることのありえない日々を告げ聞かせるように思われたであろう。

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